【大覚寺統】南朝vs北朝【持明院統】
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南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)、どちらが正統な皇統なのか? 後鳥羽順徳仲恭後二条も「仁」がつかない
鎌倉時代はちらほらいる 時系列、例えば神代〜人皇〜という話など
そういうのがデタラメだからなんだよ
と言ってる人がいたでしょ、
超時空マクロス・・・そういうのと同じだとか 北朝の光明天皇が在位してなかった扱いなのに
どうして江戸時代の後水尾天皇の皇子が後光明天皇となるのか?
江戸時代の感覚では南朝こそ偽朝だったのか? そうだよ
少なくとも朝廷側では、過去の南朝は朝廷ではないと認定されていた ttps:// ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
そもそも後醍醐は本来天皇以前に親王にすらなれる人間じゃなかった
後宇多は尊治(後醍醐)の親王宣下を拒否するが絶対に親王になる野心の尊治は自分の生母すら使って祖父の亀山に取り入って
好色の亀山が生母を自分の後宮に取り込む形で親王宣下を下す
後醍醐が大覚寺滅亡の原因だって言う意見にはもちろん別に異論はないが
そもそもその後醍醐を皇位継承者にさせる行為をした亀山にもぶっちゃけ大きな原因が有る
正直言えば大覚寺は始祖の亀山自身が滅亡の原因と言い切ってもおかしくない >>877
南朝が正統は明治からだよ
江戸時代に新待賢門院がいた。阿野廉子も新待賢門院だが南朝はなかったことになってたから被ってても問題なかった >>881
三種の神器を持っていたのが南朝だったから 明治維新に際して南朝正統を採る水戸学の影響が大きかったから
明治天皇も自分を支えてくれた元勲達の思想信条を無下にできなかった >>883
その水戸学の創始者、光国が兄の頼重の子を後継ぎにしているのに
後醍醐天皇が、兄の後二条天皇の子や孫に継がせなかったのを
不忠に扱わないのも矛盾してるよね。 後醍醐と本来同じ役割を与えられていた北朝の花園が
きちんと裏方に徹してるからどうしても後醍醐の自己中さが目立つ
大覚寺統は持明院統と違って天皇経験者の連携が取れてないよね 上にあるように後醍醐の親王宣下に後宇多が反対していたことが事実なら、大覚寺統は亀ちゃんの時点で終わっていたということか >>883
黄門さんは南朝正統という意図はなく楠公を顕彰したんじゃないと聞いたことがあるけど。 >>872
>>874
後醍醐の父の後宇多の頃から子供に「仁」ではない字を当ててるな
後宇多皇子・治
後醍醐皇子・良
後村上皇子・成
長慶や後亀山はよく分からん
長慶皇子を泰と主張する人もいるがその辺りも分からん
亀山も途中までは仁だったけど後の方は関係無い字だったりするし
大覚寺はその時の天皇で息子の通字を変えてたみたいだし >>888
大日本史の骨格は光圀存命中に完成している
南朝の天皇を本編に書き、北朝の天皇を外伝のように設定して書いた それでも合体以後は旧北朝が正統で後南朝は無視
>>886
そもそも始祖の亀山が弟系だから弟系の統制が取り難い
そこを問題にしたらそれこそ亀山の正統性にも関わってくるし >>889
後二条天皇(邦治)の 息子は 邦○だけど
孫の世代は ○仁なり 曾孫は 邦○
大覚寺統は よくわからん命名してるよね。 本家とは異なる命名規則を使ったってことは、自分たちは分家だ、別家だと認識してたってことじゃないの >>897
醍醐〜村上〜円融〜 が皇統の本流になったけど
後醍醐〜後村上の次が 後円融じゃなく長慶なんだよね。
後円融は北朝第5代目にとられたのかな >>894
南朝正当という割には新田には男爵。楠木正季系の甲斐庄には爵位すら与えてないな。 政党王朝は南朝で、その南朝に尽くした新田一族である徳川は朝廷の中心ってのが
最初期の水戸学のスタンスだしね >>901
水戸学の源流は家康の系図詐称に端を発しており、
それが幕末動乱に繋がると考えると興味深い みなもと太郎『風雲児たち』
「若かりしころの水戸黄門が、『宋書』を読んで感動したことが、江戸幕府滅亡の原因となる」 光厳から後円融までの北朝の5人の天皇は歴代天皇に含まれていないが、南朝の後村上は97代、
長慶は98代、後亀山は99代に数えられてる
淡路廃帝(淳仁)や九条廃帝(仲恭)でさえ歴代にカウントしたのに、北朝の5帝が無視されてるのは
明治時代の7不思議の一つだな(残りの6つは知らん) そりゃ倒幕運動の思想的背景に南朝正統論が入ってるからな
その信仰ゆえに、北朝は偽帝ということにしなくてはならなかったんだよ あんまり後醍醐を崇める気にならない。
今に続く皇統は北朝の末裔なのだから。 北チョン南チョン
うるせーんだよオマエラ
ここは日本史板だぜ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 馬鹿は死んでも治らない、か。
せめて中国史を語るな位言って欲しかった。 >>905
それでも合体以後は正統だからな
系図的にも偽帝というより仮帝の扱い 合一までは南朝が正統だという主張自体が南朝による一方的な主張にすぎず、それを信じてるのは当時ですら一部にすぎなかった
むしろ北朝の主張である、南朝は一貫して賊であり偽帝であるという主張の方が、多少なりとも賛同が多かったし、そこまで極端な主張でなくとも南朝よりは北朝を支持する人が多数派だった 日本も中国も南朝が正当なのは現職のお上が南に逃亡したのがでかい。 中国の南北朝の時は、北から逃げて南で即位したんじゃないぞ
左遷でもともと南にいた皇族が勝手に離反して即位しただけで、正統性の度合いは蜀漢より少しましな程度
当初から正統性に疑念があったらしい 南朝の最大の正当化の根拠は現職優先という点
そしてそれまでの途中退位は強要だったから無効
それに最初の即位の時点では全体の合意が存在していた
ただしなった以上降りるかどうかは現職の勝手であり自由 >>912
有名な資治通鑑でも中国の南北朝は現役北宋の正当性を揺るがすデリケートな問題だぞ。日本の南北朝と度合いは同じ。 強要で退位した天皇が後醍醐より過去にはいなかったかのごとき詭弁だな、それ >>913
南朝の正統性主張の最大の根拠は三種の神器を持っているということだろ >>910
いやいや足利が武力で擁立したのが北朝だから
内心では比叡山も住吉大社も南都も南朝支持だよ >>916
南朝成立当初の状況を見れば神器保持の主張はウソで本物を持ってるのは北朝だった可能性が高い
南朝が神器を入手したのは正平一統のときで後醍醐ではなく後村上のときだろ だが歴史の定説は南朝による保持。
それを覆すのであれば証拠を添えて唱うるべし。 南朝を正統としてるのは歴史学じゃなくて政治問題によるものだぞ
学者は正統性に口出ししたがらないが、南朝正統と考える人はゼロに近い まあ異常なまでに自負心の強い後醍醐にしてみれば俺が持っていれば本物だくらいのつもりだったんだろうが つまるところ南北朝時代なんて結局は後醍醐という存在を肯定するか否定するかって事だけなんだよな 戦国時代、元禄時代みたいなサブタイトル的な区分だろ。 後醍醐は立ち位置的にヘンリー七世に近いか。
お後がよろしかったが。 まさに後醍醐の怨霊に振り回されたという感じの後世
その意味からすれば南朝正統はせめてもの鎮魂術といったところか
もちろん合体後の後南朝は無視で h ttps://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11967020427.html?frm=theme
この説から言わせりゃ始祖の亀山自身がそのまま滅亡の種を撒いたと言うのは別におかしくない
持明院が基本一本化でまとめようとしてるのに大覚寺はどんどん家を分裂させている
これは結果論的にも悪い方向にしかなっていない 後宇多「一本化したかったけど親父と息子が邪魔するんだもん(´・c_・`)」 後醍醐天皇の子孫で確実なのはいない、怪しげなものだけ。 持明院統も崇光流と後光厳流に危うく分裂しそうになったな。後小松はよくやったよ 後継者がいなかったのだから、どうしようもなかっただけ >>934
そして、あおりをくったのが一休さん
後光厳流で続投できる余地があるなら還俗して皇太弟になれるはずだったのにな >>930
それはおかしいだろ
亀山は別に後嵯峨みたいに曖昧な態度をとったわけじゃない
ちゃんと後継者を指名してから死んだんだから責任は無いよ >>937
後嵯峨には権限がなかった
出家予定で23歳まで元服もしていなかったが
四条天皇の夭折で急遽、鎌倉幕府に擁立された
だからどちらにするかは鎌倉幕府に委ねると言って死んだ
委ねられた執権・北条時宗が両統迭立にすると言った 権限がなかったってのは誤解や勘違いの類いだがな
承久の乱は幕府から見れば辛勝で朝廷から見れば圧倒的大敗
幕府側は承久の関係者の復員は絶対的に避けたい、トラウマものだったが、朝廷側はこれもトラウマもので関係者の復員は想定外
配流者の孫を即位させても配流の取り消し(帰京)は考えがたいし、かりに帰京させたとしても院政をすることなどあり得ないと思って、残留皇族のうちでもっとも世代数の近いものを登極させようと思ったが、
それが幕府側のトラウマ直撃して、幕府としては自らの存亡をかけてまで阻止しようとしたわけだ
この辺のすれ違い、認識のずれゆえに朝廷の権限が過小評価されてるだけ 時宗も一応は後嵯峨の後家にお伺いをたてたようだが。朝廷と幕府のコミュニケーションが上手くいってなかったのかな? 北条義時なんて天皇になれたはずなのに、相模守のままというのが理解できん 源氏から天皇になった人はいるが平氏から天皇になった人はいないからな 後南朝の宮たちの大多数は出家してるのに担ぎ出されてるけどな
つまり、無理なわけではなくて、ほかに候補がいなければ天皇になれるはずだと認識する人がそれなりに多く居たってことだろ 出家は無理とか言うけどそもそも天武も一旦出家したし 源氏平氏に格の差はない
平安時代になると臣籍降下のときには基本的に源氏になる
桓武天皇の代で別れた(平城以後の天皇の子孫ではない)皇族が例外的に平安京からとって平氏となってるだけ 天皇を辞めさせたり、別のやつを呼んできて皇位に就けたり、上皇を流刑にする奴 及び
その子孫が四位・五位のままということは普通ありえない
普通、大臣くらいにはなるし、天皇になってもよかった それが右馬頭だのなんとか大夫だの
兼 相模守のままというのが解せぬ >>958
一世(天皇の子)賜姓は源、二世三世(孫、ひ孫)賜姓は平と
基本的に皇統に近い方が源氏、遠い方が平氏という決まりはあった
ただ清和源氏のように源氏二世賜姓が例外的にあったことも
ただ奥富 敬之の言うように平安遷都の熱狂がうすれた100年後には賜姓は源氏のみに >>942
親に取り入るのは上手いという亀山は隋の煬帝にも通じる点がありそう >>937
亀山の遺言は「恒明を立坊させろ」だけ
もちろん状況によっては大覚寺統の嫡流になる事への含みもあったんだろうが >>964
関東申次・西園寺公衡(恒明親王の伯父)が
亀山法皇崩後、亀山の遺勅であるといって恒明親王立坊の話を
鎌倉幕府に持ち込んだことは事実だが
孫の皇太子に息子を立てるなど皇統を混乱させかねず
西園寺家の強引さが全面に出た話だったはず >>940
それは違うな
朝廷や九条家は後鳥羽上皇を許して帰京させてもいいと思ってたが幕府に突っぱねられたし
承久の乱後、朝廷は次期皇位継承者についていちいち鎌倉幕府にお伺いを立てていたよ
しかし関東にいる鎌倉幕府は京にある朝廷の内情にそこまで詳しくないので
関東申次を世襲している西園寺家に情報伝達を一任していた
鎌倉時代に西園寺家が天皇の外戚として摂関家を凌ぐ巨大権力を手にしたのはそのため
実際、西園寺家があれこれ鎌倉幕府に吹き込んだことで皇位継承が覆っているし
それが皇位継承を余計にややこしくした 幕府にとっては、乱が辛勝(幕府主観)だったからこそ、承久の乱の責任者たる三上皇の復帰は絶対に避けたいことだよ
中でも後鳥羽は絶対に論外。
幕府の危惧としては、上皇が雪辱を期して復権する危険が少しでも出るようなことは許容し得なかった。
朝廷側の主観ではトラウマ級の大敗だったから関係者は帰京を許しても復権は有り得なかったんだろうけど、幕府はそうは思わなかった。
帰京を許せばきっと復権を果たし、再度の挙兵の果てに、こんどこそ倒幕を成し遂げるのではないかと強く恐れていた。
三上皇の内でも最高責任者である後鳥羽こそ、絶対に帰京させてはならない危険人物だったから、突っぱねるのが当然だよ。
三上皇問題なければ、幕府としては皇位継承に干渉したくなかった。
ただ、朝廷内での主導権争いで劣勢になった者が捲土重来を期して幕府の干渉を求めたので、関わらざるを得なくなっただけだ >>967
承久の乱の勝利者となった鎌倉幕府が三上皇の配流と仲恭天皇の廃位という皇位継承に首を突っ込んだことで
結果的に鎌倉時代を通じてすべての皇位継承は鎌倉幕府の承認が必要だという慣例になったんだよ
皇位継承に関わりたくないならまだ幼かった仲恭天皇の廃位などしなければよかった
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したのは倒さなければ両統迭立で持明院統に皇統を持っていかれるからで
鎌倉幕府が皇位継承に興味がないなら後醍醐も勝手にやらせてもらおうで終わった話 >>969
後醍醐天皇が鎌倉幕府を潰したら持明院統は黙っただろ
それが「建武の新政」
天皇は後醍醐、皇太子は後醍醐の皇子
持明院統は排除して後醍醐の子孫だけが皇統を継ぐことと決められた
持明院統は鎌倉幕府に変わる新たな武家政権・室町幕府を認めることで
武家政権に皇位継承に立ち入ってもらわなければ皇統の奪回などできなかった >>970
>後醍醐天皇が鎌倉幕府を潰したら
幕府を潰しただけじゃなくて持明院統の天皇を廃位したんだけど
武力で捕虜にした上での廃位だ。しかも、ただの廃位じゃなくて、皇位に即いたこと自体を無かったことにした。
かなり強硬な弾圧だよ、どう見ても強制的に黙らせてるとしか言えんだろ さすがにやりすぎたと思ったのか公家にツッコまれたかはわからないが光厳を太上天皇扱いにしたし。一応光厳は後醍醐の婿だからかな レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。