武蔵七党
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5SN 関東vs東北
神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」
埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」 苗字が六弥太という人がいる。そもそも弥の字を当てるのは誤りで平家物語を
初めて本にした人が間違えたと思われるのだが、六野太と書くのが正しい。
仮冒だな。 児玉党の末裔ならここにもいますよ。
児玉党といえば源平合戦、いざ鎌倉!で、源頼朝を主君と仰ぎましたが
我が家のご先祖さんは源義仲を主君と仰ぎ、児玉党一族でも兄弟が敵味方と
なったこともありました。
昨日は小手指ヶ原の古戦場跡に行ってきました。
1333年新田義貞とともに鎌倉幕府軍と30回以上も此処で打ち合ったそうです。
軍配紋の旗印を翻し平安末期から室町時代まで騎馬軍団として駆け抜けた
勇敢なご先祖さんに想いを馳せましょう。 児玉党
三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の攻め者にて、是れ又、馬入るべき行にて、
推し太鼓を打ちて、懸かり来たり 信長公記より。 栗本慎一郎が東京の大地主は武蔵七党の末裔がたくさんいるって言ってた 幕末の高山彦九郎に武蔵七党の血縁も意識も皆無だろ
むしろ上西入道新田義重に連なる一党としての意識しかなかっただろうよ 駒形稲荷 神泉村下阿久原
児玉党の祖となる有道維行の創建と伝えられ、境内には徳川光圀による
「阿久原に遠峰惟行のあとを訪ねて 源 光圀」
との歌碑が建てられている稲荷社です。
「阿久原の牧の稲荷に鈴かけて いななく駒にいさむ武士」元禄8年3月18日
光圀主従7人で児玉党の旧跡、阿久原牧を訪ねて来た時に詠んだ歌だそうです。 武蔵七党の子孫って、武蔵よりも中四国や北部九州に多い感じがする
児玉さんとか阿保さんとか熊谷さんとか
特に大分県なんて七党に限らず関東・東国の武士団の苗字が多い
大友や宇都宮もそうだが、例えば梶原とか三浦とか和田とか佐竹とか佐藤とか首藤、新田、川越等々
おそらくは元寇の影響なんだろうけど 武蔵村山市と東村山市の鉄道交通にえらく差があるけど
この辺知らない人には区別つかないだろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています