武家政権時代の公家、朝廷について語るスレ
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鎌倉〜江戸時代と主に歴史は武家によって作られました。
歴史に疎い人間の中では朝廷は無い物として認識されていますが
厳然として存在した公家、朝廷について何でも語り合いましょう^^
室町末期はさておき、安土桃山あたりから、公家はどうやって銭儲けてたんだろうか?
天皇とか、その辺はさておき、下級公家なんて、収入ないでしょ? >>2
書や和歌、管弦の家本としての教授や免状発行だね。対象は大名。 >>3
暮らしていけるほどの銭をくれたんですかね?
受取証みたいのあったら、見てみたいんですが。
でもって、下っ端の公家って、そんなのを発行する権利あったのかもようわかりません。 そりゃあ大内とかは一流しか相手にしないでしょうけど、
受け手側もピンキリだから、三流どころにも需要はあったのでは?
都ではまがい物として通用しないかもしれないけど、
田舎では都の公家ってだけで、それなりの権威では。 >>5
あー、それはそうですね。なるほど、納得。
そういや、田舎豪族に嫁ぐ公家娘も多かったんですもんね。
戦国の混乱期に、なくなっちゃった公家なんかもあったんでしょうし。
にしても、徳川時代に入ってからの、下っ端公家の生活とか、大変だったのだろうなー。
岩倉具視の話を聞くだけで、「おおう、ヤクザの末端じゃん」という感じが……。 中には偽公家とかに騙された田舎小名も居たんじゃないの。
事務とるくらいの公家の家臣なら主人のまねくらいできるでしょ。
下男の類ならともかく。
退職金代わりに主人の衣装とか一式盗み出して田舎に逃げれば、
立派な偽公家のできあがり。
たぶんそんなのが居たと思うんだよね。
で、地方の旧家の蔵の中にその連中が書いたような書き付けとか
まだ眠ってたりして。 家業があった公家は上でも出てるような稼ぎはあったからまあ良かったね。
有名どころだと蹴鞠の飛鳥井家はいろんな大名のところに出張蹴鞠大会に赴いてがっつり稼いでる。
珍しいところでは久我家の按摩の免許とか五条家の横綱免許とか、
家業とは関係のない特権を持ってる家もあった。
応仁の乱以降は荘園を奪われて土地で生活はできなくなったから
それこそ公家だからこそ価値がある芸能や儀礼などで生きてたわけだ。
江戸時代に入ると下向して云々ということはなくなるから大名と姻戚関係を築いて上納金なんてのが一般的か。
禄高はたかが知れてるし、五摂家や一部の高級公卿以外はなかなか大変になってくる。
なもんで風俗店の呼び込みのバイトしたり、部屋貸ししたり、中には盗人になるような公卿もいた。一部だけど。 蔵米取りの新家公家なんぞボロい長屋屋敷で下級武士並みの生活だったろうな。
五摂家の諸大夫・侍の方が地下だけどいい生活できていただろう・・・。 切米取りの下層公家なんて100石にも満たないのいるからね。
しかもそういう新家は副収入得られるような家業がない場合も多いしそりゃ大変だったろう。
堂上になると体面があるから、下手な副業もできないし。
その上に体面維持にかかる費用も大変。
と言うわけで、それなりに金になる本業の余録や副業がある地下は、
堂上になりたがらなかった家もあるとかどうとか。 近衛家最強だね。縁戚の国持ち大大名や津軽家からの貢物、伊丹領からは
清酒でウハウハだろうし。そこらへんの貧乏旗本・大名よりよっぽど裕福。 そりゃまあ貧乏旗本より貧乏な摂関家があってたまるかだろ 公家町絵図見ると九条や近衛などの御殿の広さに比べて30石平堂上のボロ屋敷の
狭さに笑ってしまう。
それにしても明治維新は日本を大きく前進させたけど、一方で旧来の城や寺や公家屋敷
など現代からみれば垂涎ものの建築物を破壊した。当時、後世に残る文化遺産として
保存しようという考えは皆無だったのかね? 後世に残る文化遺産なんて考えが起きるのは時間が経たないと無理だろ
我々だってリアルタイムで生きている時はそのものの価値評価は難しい
明治時代ってのは旧時代の遺物=悪みたいな極端な考えもあったからね。
仰るとおり城郭や寺社でさえボコボコに破壊されたりただ当然で払い下げされたりしたわけだから
神社でさえ統廃合でかなり壊したからな ちなみに京都御苑に実際行くと分かるけど、地図上ではゴミクズみたいに見える公家屋敷も
実際はそこそこの敷地だったことが分かるよ。
もちろんかつての栄華やに比較したり、摂関家、市中の大店と比べたらそりゃ寂しいもんだけどさ。
摂関家は御所以外にも複数別邸持ってるしな。まあ別格だ。 戦後復興期とか高度成長期とかバブルの頃に適当に作った手抜きビルでも、
何かの偶然で100年も残れば立派な文化遺産。
その時代に当たり前にあるものの価値は同時代人にはわからないよね。
って言うか時間が経過して当たり前でなくなって初めて価値が出る場合も多いか。 姉歯マンションだって発覚せずに200年残ってたら、
その頃のドキュメントみたいなもので、
「見てください、実はこのように巧み設計されてるんですね」
「へー、さすが先人の知恵はすごいですねえ」
とか言われたりして。 京都の三条通りは明治期のレンガ造りの建物が多いけど
あれこそ当時は文明開化の象徴として作ったものだから
当時は相当な違和感を感じた人も多かったと思うよ。
それが今やレトロな建築物群ってことで歴史的遺産になってるもんな。
ただ総じて言えるのは何でもかんでも時間が経てば価値が出るというより
その時代を反映していたり、その時代の技術の粋を活かしたものだったり
いずれにしても「良い物」じゃなきゃいくら古くてもさすがに価値は出んな。
千年くらい経てばうんこでも価値は出るが。 しかしせめて宮家・摂家あたりの御殿をひとつでも残してくれてたらと思うと・・・。
冷泉家が残ったのが唯一の救いだが。
御苑内に九条家の茶室と庭園の一部は残っているね。 江戸時代の公家って何やってたんだろう。禁裏御料や公家領の統治は幕府がやってたし、具体的な政務があったわけじゃなさそうだし。
組織だから総務とか会計とかの仕事はあったのかな。 関白、武家伝奏、議奏など幕府と絡む役職はそれなりに忙しい
それ以外は交代で御所の勤番(夜勤あり)
あとは儀礼的な出勤
出勤がなければ家業に勤しむ。もしくは写本。
もちろん内職をする者もあり。 >>22
毎日出仕してただろ
武家の世になったからと言って官位授与や年号取り決めは相変わらず
朝廷の仕事だった
あと、公家は和歌や琵琶などの「家元」になって副業で稼いでいた あと全国各地の寺社伝奏というお役目もありますな。勅祭はもとより祭事には
勅使その他の差配の役目があった。
また参内はしなくても主従関係(門流)を結んでいる摂家への出仕や
宗家・縁家の葬祭法神事への参座もある。
>>21
閑院宮邸(京都御苑内)
有栖川宮邸(有栖館・平安女学院内)
桂宮邸(二条城本丸御殿)
有栖川宮邸と桂宮邸は移築されているけど
江戸時代の建物が残っている 年号は武家が実質的に決めるようになっても、
年号決める儀式だけは朝廷でやっていた。
それでその儀式に伴い関係者にはなにがしかの対価があった。
ことに地下官人の場合は儀式の対価が収入のかなりの部分を占めたらしい。
役目によるから一概には言えないけど。 >>28
年号をいつ武家が決めた?
江戸時代を通じて年号を決めたのは朝廷。
織田信長が改元を求めたことはあったが、
それでもどのような年号にするか、いつから改元するかは
朝廷の権限だった。
>>29
そっちが恥ずかしい。 >>30
毎日出仕とか知ったかしてるから恥ずかしいと言ったんだが。
しかし恥の上塗りをしてるようだね。
いつから改元するかは幕府の意向に相当左右されてるんだよ。
そもそも室町時代であっても義満なんかは改元に口挟んでるからな。
年号案は朝廷だけどね。
ちなみに江戸時代は誰が年号案を決めてたか知ってる? 江戸時代にこのままじゃ朝廷・公家はダメだって
武士の真似事した天皇いたよな
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