【五色の賤・近世部落】賤民【穢多非人・雑種賎民】
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>>10
中世の歴史では外せないネタだろw
なんで糾弾やねん。
それに足軽たちはこういう階層の連中で骨川道賢とか名前残ってるで >>14
歴史的なことで糾弾食らわんだろ?
中世の武士の家人とか山賊とか海賊が普通にいるし。 糾弾に呼び出されてもいかなくてもいいんだよ
解放同盟が勝手にやってる私刑だしな 漢方薬の調合で財産作った〇〇家がある
当然毒薬なんかも得意分野だから戦国時代は〇殺なんかで大活躍だろうな
江戸期は長吏でかなりの富豪 773 :名無しさん@12周年:2012/04/07(土) 02:46:03.62 ID:spQWLXxxO
>>726
違うぞ。
律令制では農地を貸し与える代わりに移動の自由がなかった。
平安時代後期に急速な貨幣経済化が進むと天皇や貴族が小飼いにしていた職能集団(革職人や鍛冶屋等)が商業目的での移動を申請した。
天皇は自分達が必要としない時も常に雇用するよりも勝手に自営して貰った方が得だと考え、移動の特許を与えた。
こうして天皇のお墨付きを得た不定住民が登場した。
これが部落民のはじまりだ。
当然だが、天皇の権威が通用しない地域では存在しないから東日本に部落民はいない。
不定住=悪と言う認識が一般的になる江戸時代までは天皇陛下のお墨付き集団として部落民であることを威張っていた。
こゆアホな事いう人っているんですねww
レッテル貼りで見解を都合の悪い見解を無効にするやり方か 天皇家と怪しい人たちとの関係は
南北朝時代の皇族武将兼良親王の出陣絵の
供回りの三人が異形の姿で描かれてる。
皇族から見た場合すべての人が下層民だからな・・・ ∩∩
∩| || |∩
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| __|
| (__.|. ∧_∧
ヽ.___.丿\(・∀・ ) ハイ!差別はここまで!!
. \ )
| | | STOP!!
.(_(__)
「士」「農」「工」「商」「穢多」「非人」「報匪」←NEW!
「士」「農」「工」「商」「穢多」「非人」「朝鮮台湾猿」←NEW! 被差別部落というものに興味を持っています
部落の成り立ちや、どうして差別されるようになってしまったのか
(差別があったから部落が形成されたとも言えるのでしょうが)、といったことが中心です。
偏ると嫌なので良い悪いはひとまず抜きにして、
純粋にそこに至った実際の経緯等がわかる書物など、
ご存知の方がいらっしゃればお勧めを教えていただけないでしょうか
たとえば伝染病などで差別されるようになった、等は
良いとは思いませんが人間の心理的に理解はできるのです
ただ、各地に被差別部落があることを考えると、
必ずしも病気や人種的な問題だけではなかったのではないかと考えます
ですので、手に入りやすいもので、いろいろなタイプが掲載されていれば尚助かります 被差別部落そのものではないけど、関連する傀儡子と乞食について、折口信夫が文章を書いているよ。
偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18396_22465.html >>26
別所や土蜘蛛、蝦夷で検索。元々は人種差別だよ。 三種の神器について、いろんな学者が推測で書かれてますが。
皇室は、どのように考えているのでしょうか?
また、すべてを見た学者はいるのでしょうか?(見ても、何がなんだかさっぱりわからなく、信ずるしか・・・)
もし、現存するものがあるとして、
科学的に何時の年代に作られたか立証されているのでしょうか?
根拠は古文書に頼るしか無く、立証は歴史学者では無理では? 天狗党の乱後、降伏をした823人の内、335人は農民、241人は身分不明と記録されてる
この身分不明って賤民なのかな? 文献や私が調べた限りでは、江戸時代の元禄期までは制度としても差別はありません
差別が出てくるのは、明治の解放令一揆が最初です。
皮多部落には、戦国末期に各階層から人が流れ込んでいます。
差別されていなかったといいうことです。
差別は近代、それも百姓が始めたというのが私の仮説です。 差別の起源は朝鮮人。
朝鮮出兵のときに「アイゴー!差別ニダ!」
と連呼したからです。 秀吉が連れてきた朝鮮人は、差別から逃げてきた面が大きいでしょ。
陶工などは、被差別民だったし。 近代における部落の経済的二極分解
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBj0100005.pdf
写真4は、第二次大戦下の、この西浜の女性達の姿である。
正装して本願寺の門主を迎える時のものだが、着物もさることながら、背後にある家並みには、蔵やコンクリート製の建物が見える。
その頃ここで育った人からの聞き取りによると、学校から帰ると、ビリヤード台の置かれた友達の家でいつも遊んだ、という。
ところが、この西浜部落の姿を表すもう一枚、写真5がある。
写真1から年月としては僅か17年後、距離では100メートルも離れていない。
その間に空襲があり、西浜部落は焼け野原となった。
写真4の場所は焼け、富裕な革革業者の多くは部落を出て、ほとんどが二度と帰ってこなかった。
その意味で、西浜部落の本格的な貧困化とは戦後のことであった。 労働力を吸収できる部落産業が都市に育つと、農村部落でも二極化が進んだことで、没落した貧困層は都市部落へと流入した。
たとえば表4では10人が、表6では7人が、宅地まで失っている。
しかし、当時まだ差別は厳しく、たとえ都市部であっても、一般社会への流入は困難であった。
彼らが移り住むのは都市部落であった。
貧しい人びとが都市部落に増大し、競争によって労賃を引き下げると、上層部の経営を一層活性化させることになる。
こうして、都市の二極化はいっそう拡大することになった。
こうして、大阪西浜部落の場合、移住してきた貧しい人びとの多くは周辺に新しく居住地を得ることになる。
福原宏幸は表7と下図を引きつつ西浜町の戸数・人口の停滞と、その周辺部の木津北島町では人口増加したと指摘したが、
その背景にはこうした都市─農村部を貫く二極分解のダイナミックスがあった。
福原は、1910年代(大正期)に「西浜地区住民の7%にあたる『中等以上生活者』は、同地区の頂点に位置し莫大な資産を有していた。
他方、無産者は約85%で、とくに20%の人々が同地区の貧困層を形成した。
まさに、『貧富ノ縣隔甚シ』いものがあった」と総括した。西浜部落における二極分解の姿である。
また、先に引用した『明治之光』で見たように、富を集めた人びとは、部落の中心部にあった古く狭い家屋を壊し、
そこへ大邸宅を建て、いっぽう貧しい人びとは部落の周辺部へと追いやられていった。
先に見た写真4は部落の中心付近、写真5はその周辺地域を写していたことになる。
こうして部落を外から見ると、部落は貧しくなったと印象づけられることになる。
このような誤解も含め、近代に部落は急速に貧困化したという見方が広がったといえよう。
「近代において部落は貧しくなったのか、豊かになったのか」という問いに対して、
確かに貧しくなった部落の方が多く、豊かになった部落は少ないと言うべきだろう。
また二極分解の結果、部落は共同体としての統一性を次第に失っていき、
豊かな人々の部落からの脱出が始まることが報告されている。
すると残された人たちはさらに貧しい人々が多数になる。
こうして部落は、近代において、全体としてゆっくりと貧困化が進んだのである。 明治41年に作られた全国の被差別部落の分布図を見ると、被差別部落の人口比率
が高いのは、京都、兵庫、奈良、和歌山、愛媛の順です。もし、権力が被差別部落
をつくったと仮定するなら、京都に権力があったときにつくられたと考えなければ
説明ができません。
室町時代には、「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。
穢多の子はいつまでも穢多である」という差別意識まで記した史料が明確に現れ
http://www.kyoken.jp/36/houkoku36/1houkoku36.htm しかしながら、最初に差別が現れるのは明治の「解放令一揆」が最初です。
身分制度の見直しが行われましたが、実際の社会では百姓は最下層人たちでした。
妬みから差別に走ったと推測します。 室町時代の穢多と江戸時代の穢多は同じ言葉でもその意味合いは全く違うと思う。 >京都、兵庫、奈良、和歌山、愛媛
あと北九州とか、「短頭」地域に圧倒的に多いな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています