【五色の賤・近世部落】賤民【穢多非人・雑種賎民】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>14
歴史的なことで糾弾食らわんだろ?
中世の武士の家人とか山賊とか海賊が普通にいるし。 糾弾に呼び出されてもいかなくてもいいんだよ
解放同盟が勝手にやってる私刑だしな 漢方薬の調合で財産作った〇〇家がある
当然毒薬なんかも得意分野だから戦国時代は〇殺なんかで大活躍だろうな
江戸期は長吏でかなりの富豪 773 :名無しさん@12周年:2012/04/07(土) 02:46:03.62 ID:spQWLXxxO
>>726
違うぞ。
律令制では農地を貸し与える代わりに移動の自由がなかった。
平安時代後期に急速な貨幣経済化が進むと天皇や貴族が小飼いにしていた職能集団(革職人や鍛冶屋等)が商業目的での移動を申請した。
天皇は自分達が必要としない時も常に雇用するよりも勝手に自営して貰った方が得だと考え、移動の特許を与えた。
こうして天皇のお墨付きを得た不定住民が登場した。
これが部落民のはじまりだ。
当然だが、天皇の権威が通用しない地域では存在しないから東日本に部落民はいない。
不定住=悪と言う認識が一般的になる江戸時代までは天皇陛下のお墨付き集団として部落民であることを威張っていた。
こゆアホな事いう人っているんですねww
レッテル貼りで見解を都合の悪い見解を無効にするやり方か 天皇家と怪しい人たちとの関係は
南北朝時代の皇族武将兼良親王の出陣絵の
供回りの三人が異形の姿で描かれてる。
皇族から見た場合すべての人が下層民だからな・・・ ∩∩
∩| || |∩
| .|| || || |
| __|
| (__.|. ∧_∧
ヽ.___.丿\(・∀・ ) ハイ!差別はここまで!!
. \ )
| | | STOP!!
.(_(__)
「士」「農」「工」「商」「穢多」「非人」「報匪」←NEW!
「士」「農」「工」「商」「穢多」「非人」「朝鮮台湾猿」←NEW! 被差別部落というものに興味を持っています
部落の成り立ちや、どうして差別されるようになってしまったのか
(差別があったから部落が形成されたとも言えるのでしょうが)、といったことが中心です。
偏ると嫌なので良い悪いはひとまず抜きにして、
純粋にそこに至った実際の経緯等がわかる書物など、
ご存知の方がいらっしゃればお勧めを教えていただけないでしょうか
たとえば伝染病などで差別されるようになった、等は
良いとは思いませんが人間の心理的に理解はできるのです
ただ、各地に被差別部落があることを考えると、
必ずしも病気や人種的な問題だけではなかったのではないかと考えます
ですので、手に入りやすいもので、いろいろなタイプが掲載されていれば尚助かります 被差別部落そのものではないけど、関連する傀儡子と乞食について、折口信夫が文章を書いているよ。
偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18396_22465.html >>26
別所や土蜘蛛、蝦夷で検索。元々は人種差別だよ。 三種の神器について、いろんな学者が推測で書かれてますが。
皇室は、どのように考えているのでしょうか?
また、すべてを見た学者はいるのでしょうか?(見ても、何がなんだかさっぱりわからなく、信ずるしか・・・)
もし、現存するものがあるとして、
科学的に何時の年代に作られたか立証されているのでしょうか?
根拠は古文書に頼るしか無く、立証は歴史学者では無理では? 天狗党の乱後、降伏をした823人の内、335人は農民、241人は身分不明と記録されてる
この身分不明って賤民なのかな? 文献や私が調べた限りでは、江戸時代の元禄期までは制度としても差別はありません
差別が出てくるのは、明治の解放令一揆が最初です。
皮多部落には、戦国末期に各階層から人が流れ込んでいます。
差別されていなかったといいうことです。
差別は近代、それも百姓が始めたというのが私の仮説です。 差別の起源は朝鮮人。
朝鮮出兵のときに「アイゴー!差別ニダ!」
と連呼したからです。 秀吉が連れてきた朝鮮人は、差別から逃げてきた面が大きいでしょ。
陶工などは、被差別民だったし。 近代における部落の経済的二極分解
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBj0100005.pdf
写真4は、第二次大戦下の、この西浜の女性達の姿である。
正装して本願寺の門主を迎える時のものだが、着物もさることながら、背後にある家並みには、蔵やコンクリート製の建物が見える。
その頃ここで育った人からの聞き取りによると、学校から帰ると、ビリヤード台の置かれた友達の家でいつも遊んだ、という。
ところが、この西浜部落の姿を表すもう一枚、写真5がある。
写真1から年月としては僅か17年後、距離では100メートルも離れていない。
その間に空襲があり、西浜部落は焼け野原となった。
写真4の場所は焼け、富裕な革革業者の多くは部落を出て、ほとんどが二度と帰ってこなかった。
その意味で、西浜部落の本格的な貧困化とは戦後のことであった。 労働力を吸収できる部落産業が都市に育つと、農村部落でも二極化が進んだことで、没落した貧困層は都市部落へと流入した。
たとえば表4では10人が、表6では7人が、宅地まで失っている。
しかし、当時まだ差別は厳しく、たとえ都市部であっても、一般社会への流入は困難であった。
彼らが移り住むのは都市部落であった。
貧しい人びとが都市部落に増大し、競争によって労賃を引き下げると、上層部の経営を一層活性化させることになる。
こうして、都市の二極化はいっそう拡大することになった。
こうして、大阪西浜部落の場合、移住してきた貧しい人びとの多くは周辺に新しく居住地を得ることになる。
福原宏幸は表7と下図を引きつつ西浜町の戸数・人口の停滞と、その周辺部の木津北島町では人口増加したと指摘したが、
その背景にはこうした都市─農村部を貫く二極分解のダイナミックスがあった。
福原は、1910年代(大正期)に「西浜地区住民の7%にあたる『中等以上生活者』は、同地区の頂点に位置し莫大な資産を有していた。
他方、無産者は約85%で、とくに20%の人々が同地区の貧困層を形成した。
まさに、『貧富ノ縣隔甚シ』いものがあった」と総括した。西浜部落における二極分解の姿である。
また、先に引用した『明治之光』で見たように、富を集めた人びとは、部落の中心部にあった古く狭い家屋を壊し、
そこへ大邸宅を建て、いっぽう貧しい人びとは部落の周辺部へと追いやられていった。
先に見た写真4は部落の中心付近、写真5はその周辺地域を写していたことになる。
こうして部落を外から見ると、部落は貧しくなったと印象づけられることになる。
このような誤解も含め、近代に部落は急速に貧困化したという見方が広がったといえよう。
「近代において部落は貧しくなったのか、豊かになったのか」という問いに対して、
確かに貧しくなった部落の方が多く、豊かになった部落は少ないと言うべきだろう。
また二極分解の結果、部落は共同体としての統一性を次第に失っていき、
豊かな人々の部落からの脱出が始まることが報告されている。
すると残された人たちはさらに貧しい人々が多数になる。
こうして部落は、近代において、全体としてゆっくりと貧困化が進んだのである。 明治41年に作られた全国の被差別部落の分布図を見ると、被差別部落の人口比率
が高いのは、京都、兵庫、奈良、和歌山、愛媛の順です。もし、権力が被差別部落
をつくったと仮定するなら、京都に権力があったときにつくられたと考えなければ
説明ができません。
室町時代には、「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。
穢多の子はいつまでも穢多である」という差別意識まで記した史料が明確に現れ
http://www.kyoken.jp/36/houkoku36/1houkoku36.htm しかしながら、最初に差別が現れるのは明治の「解放令一揆」が最初です。
身分制度の見直しが行われましたが、実際の社会では百姓は最下層人たちでした。
妬みから差別に走ったと推測します。 室町時代の穢多と江戸時代の穢多は同じ言葉でもその意味合いは全く違うと思う。 >京都、兵庫、奈良、和歌山、愛媛
あと北九州とか、「短頭」地域に圧倒的に多いな。 同和部落は、神武東征の大阪、兵庫、そして大和朝廷ができた奈良、都を移した京都に多い。
福岡に多いということは、天孫降臨の地が福岡なんだろう。 >>46
それらは古代、交易外交の中心で外国人が多い地なんじゃないかな?
賤民っていうと、戸籍のない外国人のイメージ >>50
俘囚こそきちんと管理しなくちゃいけないから、戸籍は作られてたよ 征服されたエミシや土蜘蛛の戸籍なんてないんですけど。 俘囚位配地の別所が被差別部落の起源という説があるんだよな。
被差別部落の一部は、それで説明できると思う。
蝦夷の男を九州四国を含めた日本全土に配置して、境界警備や製鉄労働略として
使ってたという説だ。
配置された場所は「別所」と呼ばれる耕作に適さない土地で、多くは国境。
くまなく調べた人によると、日本中に500ケ所以上あるが、
元々蝦夷がいた東北には、ほとんどなくて、あってもそれは大和民族が
大量に移民した場所だったそうだ。
俺が昔の別所というところに行ってみたら、旧処刑場という看板が出ていた。 別所は、普通の戸籍管理はされてなかったな。
別所頭のような者を通じて管理するだけで、ある意味無法地帯。
そして、彼らは耕作をしないので、獲物を取って食べてもいたが、
俘囚米といって、近隣の農家には、俘囚たちに分け与える米の徴収があった。
境界警備という仕事をしてたからね。 国境の管理をしてた境部氏とかめっちゃエリートやん
すごいな 俺、有名な刀鍛冶の家系なんだが。
刀鍛冶師を穢多認定するのやめてくれないか?
武士の身分で刀鍛冶してるのに、同和による風評被害のせいで、
穢多のレッテルを貼られるのは、非常に不愉快だ。
名誉毀損で同和を訴えるぞ。 鎧兜の革具足、刀鍛冶、鉄砲鍛冶、全て武士の稼業だ。穢多のレッテルを貼るな。非常に不愉快だ。 藤圭子の父は浪曲師、母は三味線を弾く旅芸人。おそらく、賤民の出なのだろう。
20歳で結婚して27歳で芸能界引退。
5年間世界中を回って5億の金をすべて使い切って自殺。
娘の宇多田ひかるも同じ人生を送るだろう。
おそらく、宇多田の娘も・・・ >>33
江戸時代の加賀・越中の前田藩では、穢多を藤内と呼んだらしいね。
146 :名無しさん@13周年:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:/+z7qsvTi
>>2
藤内(とうない)は北陸地方における穢多の事・・・・・・・・・・・・・・・・
【福井】女児を車のトランクに押し込み連れ去った会社員の男をわいせつ目的略取と監禁の容疑で逮捕
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1375309867/2-146 藤内身分には医療従事者も含まれていたって聞くな。
それと牛黄や熊胆なんかは生き物を殺してしか入手できないんだから、
「富山の薬」は被差別身分の人々に支えられてきたってことだな。 ※7
部落=集落
実は差別でも何でもない。
彼ら(と呼ばせていただく)は明治維新の際
新しく平民となったので「新平民」と呼ばれていた
平民になると同時に特権職種と莫大な収入と
錦の御旗(彼らは天皇陛下直属の組織)を失い没落した
その怒りは自由民権運動という過激テロ行為と
彼らを新平民と呼ぶ平民たちの虐殺へとかたちを変えた
それで呼び方に困った平民は新平民と呼べなくなって
ジェスチャーで親指を隠し「
新平民」の「し」の符牒で表すことにした のちに新平民という言葉があまりに強くタブーにされた
(新平民と呼ぶと漏れなく殺され警察に捕まることもなかったため)
ので後世誤解が生まれ「四つ足を食べるから四つ」だとか
「人外だから四つ」だとかこれまた新平民が言い出した
差別だというおらびごえがまかり通っているが、
新平民と呼ぶと殺されるので、
仕方なしに呼ばざるを得ないときは
親指を折りたたんで「四」
つまり「し」つまり「新平民」
(だから機嫌を損ねないように丁重に接するように)と
符牒を交わすようになっただけなのである
○○部落と呼んでいたら
差別だと拉致監禁拷問殺人するので
本体の○○が抜け落ちて
部落(集落・村)と呼ぶようになった。
現在、部落(集落)と呼ぶだけで
拉致監禁拷問して殺すのが彼らの文化であり
特権(警察に一切何も言われない)である
まとめると
○○→新平民→四本指の符牒→四つ(よつ)
→○○部落
→部落
=部落もなぜか差別語で合法的にぶっ殺される
↑
今ここ . . :⌒ヽ. :´: : : : `. .
,.. :´ : : : : : /: : : : : : : : : : `: .
, :' : : : : : : : : / : : : : : : : : : : : : : :: .
' Y Yヽ /: : : : :/ : : : :/} : : : : : : : : : : : : : : : : :ヽ
' ! l ', ': : : : :/、: : : / {: : :: :: :\ : : : : : : : : :.
_」 | { i ,′: .:∨: : ヽ/ |: : : : : :|: : : : ヽ : : : : : : ハ
' { | j { ,′ : : iト、: : /\ !:.!: : : : :.|ヽ、: : : : : : : : i: : : . ヨツ!!
| l l V: /: : {`ヽY `i::ト、: : : :.|イ \ : : : : : : |: : : !
l { '^ ` V. : :八: : :| ァ=ミヽl \: : | ァ=ミヽ: : /: : l: : 八
{ '′ {`ヽ、:_{ : :ヽ:.〃ん。ハ \| ん。ハヾV: : .|:| : : ト、
〉 ゝr }: : : : i{ い::::j い::::リ ハ. :八: : : ! \
! ´ ̄ / ノヽ. |: : : : | ゞ゚-' , ゞ-'′ jノ: ハ: : ',
| / j : : : :ヽ ''' ''' {: : : : :}: : ハ
', 厶ィ=、: :\ ,.ニ、 八 : : :ノ: : : :!
', .イ:::::}ヘ::::\: :) {⌒} .イ: j ): : : : : : j
\ -- j::::::|::::\::::\ト . ゝノ .イ::从: : : : :.ハ:.:/
{::{ヽ /:::::::|::::::::::::::::::|ヽ ` ー {´:::ノイ |ハ: : : :| l/
ヽヽハ /.:::::::::::::::::}::::::::::!::::',\ /ハ:::ノ j: : : :ノiノ
Vハ乂 /.::::::::::::::::::ノ:::::::::::l::::::', >ーく/ }:`ヽ}.:/ ′
Vハ フ´.:::::::::::::::/::::::::::::::l::::::::',{ 〃ハ/:::i::::::\ 蝦夷系の縄文人と朝鮮人が多いのか。
顔が濃くて、天パの理由が分かったわ。 中世の博多商人
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/047/01.html
そこが問題だと思います。当然、中国の人は日本語ができません。
中国商人にとっては言葉と信用取引が重要問題でした。
荷物を渡して、決済は次に来た時ということを平気でやっています。
そうなると、信用できる人を確保しておく必要があるわけですね。
で、どうするかというと、やはり1番信用できるのは「奥さん」です。
それで、中国の商人はまず例外なく日本人の現地妻をめとっています。
言葉も覚えて通訳の役目も果たしますし、生まれた子供は日中混血で、両国語を話せて頼みになる、という考えだったでしょうね。
それから、中国商人は日本名まで持っていました。
たとえば、有名な人で、筥崎八幡宮に所属して「寄人(よりうど)」と呼ばれる一群の人がいました。
その1人が張英(ちょうえい)で、この人の日本名は「鳥飼二郎」でした。
多分、福岡市の鳥飼のあたりに住んでいたのでしょうね。 博多「唐坊」と蒙古襲来
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2155/1/Crossroads_2_19.pdf
第二条は「異国降人」についての定めで、この文書で特に注目すべきところである。
蒙古軍の中には降参した将兵がおり、それを各武士団に「預け置いている」とあることが興味深い。
『元史』には日本で捕まった東路軍の蒙古人・高麗人・漢人は切られたが、江南軍の商人は捕虜となったとあるが、ここでは「沙汰未断」とある。 倭寇と王直
http://www.andrew.ac.jp/soken/pdf_3-1/sokenk193-2.pdf
前期倭寇は食糧の他に人々を捉え、これを奴隷として使役したり売却したりしたと述べた。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行っている。
中国東南部の江南・淅江。福建などを襲撃し人民を拉致した倭寇は対馬・松浦・博多・薩摩・大隅などの九州地方で奴隷として売却した。
これらの奴隷は、牛馬の飼育や薪取り、水汲みなどの仕事をさせられた。
さらに彼らの一部はポルトガル商人によってマカオに転売され、そこから東南アジア・インドに送られていった。 その奴隷商や奴隷の子孫が部落民になり、派遣会社の社員だったりするのか。 エタと言っても仕事は色々で武士とは密接な関係がある。 奈良だけど、近隣の同和地域の古老の話では、差別がどうの貧しいってことも
なかったって書いてたな。仕事がたくさんあったから、まじめに働き腕を磨けば
いい暮らしが出来たって。
それと、南部の毛皮産地では、元の部落住民は家業で財をなしよそへ引っ越し、
もとの地域には雇った流れ者の職人を住まわせているんだとか・・
近畿に多いのは、近畿が江戸時代を通じて皮を原料とした製品=武具等の産地
だったからで、原料調達権を持ち、加工、製品化まで一貫した体制が出来て
いたんだろうね。明治になって解放令とともに既得権が失われ、時代の変化に
付いて行けずに没落した(貧しくなった)部落が発生した。
都市部では食いつぶした農村その他の地域からの流入も多かった。
本来なら、もう消えてなくなっているはずなのに、ある団体が利権のために
部落差別を温存させている。 >>79
>近畿に多いのは、近畿が江戸時代を通じて皮を原料とした製品=武具等の産地
>だったからで、
産地だったとしたら、エタが多かったからで、産地だからエタが多いわけじゃない。 まだエタ差別やってるやついるのな。要は白人のこと。
食べる物無くなるぞ。藤原勢や源氏が権威を持つようになって、落ち延びた平家がエタ扱いされてたっていうね。 部落って白人おおい。美人が多かったりする。大陸はロシア方面経由で渡ってきたのでは、と妄想する。 かつては、皮皮取得という既得権を与えられた職人集団が住む地域があった。
殺生を嫌う思想によって蔑視されるようになったが、職能であり保護もされていた。
江戸時代の地域の物産から見ると、被革製品は近畿が圧倒的に多いことが分かる。
製品化、流通経路等で他の地域の追随を許さなかったのだろう。
米を主体とする税制では、これらの記録はあまり残らず、米を作らない=貧しい
という後世から見た偏見が強調されることになった。
明治の解放令で、身分を開放されたが、同時に既得権も失った。
移動の自由を得て、豊かな層は村を出て行き、跡には貧しい層と差別だけが
残った。
水平社が出来たのは、大正時代になってからである。
明治維新後、明治後半から天皇制が強調され神格化が強化され、聖と賤が
強く意識されることとなり、差別が強まった。
神武天皇陵が作られ、明治23年に橿原神宮が作られた。
聖なるものを高めること=賤を貶めることである。
京都ではなくこの地で水平社が起きたことは、この地の差別が強かったことが
考えられる。 被差別部落民の特徴を,「頭の形の幅広ならざる事,眼の蒙古的ならざる事,頬 骨の突起
せる事,顔の長き者の希なる事,鼻のトビナルド 10)表中の第一(側面より見た る時湾曲
無きもの)多き事,髪の生え際の好く揃ひたる事,髭髯と脚毛と少しく有るのみ にて他
には体毛と称すべきもの存せざる事」と報告している 11)。また鳥居が強調したのは
「蒙古眼 12)」の特徴が見られないことで,これは多数の地元小学校の生徒についても
同様 であったことを指摘している。さらに頭示数の平均が 75 と「頭の幅狭隘なるこ
と」に言 及し,これが「所謂マレイ諸島ポリネリヤン島の土人即ちマレヨポリネリア
ン種族に類 似せるを発見せり」と述べている[鳥居 1897]。
この結果を受け,鳥居は部落民について「朝鮮人の帰化せし者なりとの説は少しも信
ずるに足らざるなり。蓋し一も其帰化らしき体質を認めざればなり。若しも彼等が朝
鮮 的体質なるならば彼等の目は必ず蒙古的ならざるべからず。亦頭形がブラキセ
フワリッ ク即ち幅の広きものならざるべからず。然るに彼に在りては此要素を少しも認
むる能は ざるに於ては寧ろマレー的体質を備ふるものに類似せるなり」と述べ,朝鮮半
島からの 帰化人とみなす認識を批判する。
また鳥居は,先述したベルツの説を引き,日本人種が蒙古人種,マレー人種の二系統か
らなるとする見解を紹介した上で 13),このうち被差別部落民が後者の体質を備えてい
る, と述べる。 >>86
>縄文系、和冦が拐ってきた朝鮮人奴隷
奴隷を、エタ村に放すもの好きはいないわな。
家屋敷で使うために生け捕りにしてきたわけで。 >家屋敷で使うために生け捕りにしてきたわけで
誰が朝鮮人奴隷を家屋敷で使ったの? 【中央日報】倭乱当時に秀吉に連行された陶工・李参平を祭る日本〜なぜ朝鮮陶器は有田焼のように成功しなかったのかと先祖を恨む[12/20]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1387551491/ 室町時代には、「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。
穢多の子はいつまでも穢多である」という差別意識まで記した史料が明確に現れ
http://www.kyoken.jp/36/houkoku36/1houkoku36.htm 【政治】秘密保護法は国民の差別意識を助長 障害者を排除したナチス・ドイツのようになる-部落解放同盟・組坂氏
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1387877816/ 本当に差別されてたら、子孫なんて残せるものか。
絶滅してるわ。
代々、子孫を残せたのは、差別が不徹底だった証拠。 >>101
言えてる。
幕末に奈良のある地域は、100戸を超えていた。 不徹底でも差別だろ。
アイヌも子孫を残せてるし、朝鮮の白丁も、インドの不可触民も子孫を残してる。 被差別民にはやってもらわにゃならん穢れた仕事があるのに絶滅させたら後どうするんだね 庶民の中で落ちこぼれた奴が不可触選民になり
1代限りで終わるんだよ。
お前らみたいにお。 穢多といい、インドの下位カーストといい、ある種の職業ギルド機能があるからか。 形質人類学のデータ
http://ryuchan56.269g.net/article/17864123.html
第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、
東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、
全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、
部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。
とし、
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大塩きく、頭幅は小さい。
したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。
しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。
と書き、さらに、
大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。
おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。
と述べている(図2参照)。
http://ryuchan56.up.269g.net/image/ryuchan56-2013-07-12T11:25:23-1.jpg
重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、
中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。
つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。 性格が異常すぎる。
見分けるスキルを獲得して、関わらないこと。 蝦夷差別は東北人差別と同じだぞ。
蝦夷差別はやめろよな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています