秦氏など渡来人のルーツは?
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(要拡散)
民主党の実態
有楽町のマリオン前で民主党関係者が女性の首を絞める
民主党関係者が女性に暴力!マリオン前
http://www.youtube.com/watch?v=PayoHHi1Jvw
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17240051
13日23時時点で被害女性はまだ警察の事情聴取を受けているようです >>24
近いっちゃ近いね。
でもより近いのは物部(藤原)氏と鴨氏。
この3氏族が連合組んで「物部連合(物部連)」。 古代イスラエルから来て 中国秦国をもって、日本へ渡ってきた。 D系統の遺伝子がセム人種のE系統に似てると言っても中央アジア出自のセム人種に遺伝的に近いってだけでユダヤとは限らないよ
アラブ人に近いかもしれないじゃん。
日本人なんか自爆攻撃と首チョンパが大好きな首狩族だしアラブ人みたいじゃん
ナチスの収容所で反乱起したユダヤ人は似たような自爆をやったらしいけどね 親日なイラン人によると日本の風習の大部分はイスラム教のコーランと風習と共通してるらしい 民族衣装の本にアイヌは中央アジア系とかアホなこと書いてあったけど、
著者は生物学に疎くてD系統ってのを早合点したんだな ローマ帝国のことを「大秦」などという
実際はシリアあたりのことだろうけど ローマのガラス製品が日本に見つかったから想像がふくらむな 秦氏は基本、新羅渡来。
百済系の藤原氏に入ってる秦氏も要るが、百済和氏と同じく、混じっているだけ。
倭人本体と渡来秦氏本体は、新羅系渡来。
だから
八幡神社、賀茂神社、素戔嗚尊神社、新羅神社は、皆、新羅絡み。
出石神社・白井神社も新羅渡来の天日槍命崇拝。
松尾大社や伏見稲荷大社も秦氏の秦神社由来で新羅系。
百済神社や高麗神社は、高句麗絡み。 新羅 始祖王
赫居世
密陽朴氏は新羅初代王朴赫居世の後裔、景明王の息子、朴彦沈に出づ。新羅王族にして、新羅三王族の一として著名なり。
新羅 始祖王
稲飯命
稲飯命の裔の天日槍命の出石民族の但馬氏・三宅氏・葛城氏の神功皇后
倭人の昔氏・朴氏・神武の兄弟の稲飯命の末裔。
八幡神社、賀茂神社、素戔嗚尊神社、新羅神社は、皆、新羅絡み。
百済神社や高麗神社は、高句麗絡み。 秦氏と高皇霊産神と須佐之男と天若日子と少彦名命と新羅の関係が、
分からないんだけど。 >>42
それと、これらの人達と大日鷲命だとか金烏だとかの関係も分からない。
大日鷲命は大国主とも云われてるし。 >>44
困る困る。分からないと困る。
困った困った。 秦氏はお酒とか造ってた豪族で分かるとか分からないとかでやってないw
中国から渡来したんじゃないか。 >>42 秦氏は正確には中国渡来。秦氏の進路を遡ると、シルクロード経由でイスラエルまで行きつく。
弓月国や郭耳国は秦氏と関係あると思う。高句麗とは関係ない。 >>47
>秦氏の進路を遡ると、シルクロード経由でイスラエルまで行きつく・・・・・・
秦氏が、現在のイスラエル地方出身だと?壮大な説だが、太古の出アフリカ
途上に一時イスラエル地方に逗留したことを指しているのかね? 前秦の苻氏の子孫であり、胡族であろう。
胡族の成分としては、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌のうち、氐・羌。
シナチベット語族チベットビルマ語派ロロ・ナシ語支あたり。 >>49
それって、古代に滅びた楼蘭の民と同族なの? >>42-45
それ全部関係ないから心配すんなw
関係あるある言ってるのは電波系のアホばっかり >>48 いや、イスラエル→バビロン→ペルシャ→中国→日本。
秦氏の信仰する宗教は景教(原始キリスト教)だったという。 きっと秦氏の古墳を掘り返したら、兵馬俑やら地下宮殿、水銀の池、契約の箱に聖杯、ロンギヌスの槍や頼朝公おん十四歳のみぎりのしゃれこうべなどが出てきて大変なことになるなw 大避。大酒、、、ダビデ。
イサ、イシ、イス?、イセ、イソ(サ行音韻転訛)、 、、救済。救世主。
秦(ハタ)氏の原始キリスト教/東方(東洋)教会=景教徒の説は十分にあり得る話。
ユダヤ教の分派で異端とされたキリスト教は宗祖のイエスキリストが受難殉教して
、教団の一部が東方へ逃避行。
見事、シルクロード20000kmの荒野を渡りきり、建国間もない一世紀半ば。光武帝〜明帝期の後漢帝国の帝都洛陽に到着。
後漢帝国では西洋〜中近東他のローマ帝国勢力圏のような苛烈な弾圧や禁圧は一切なく、
帝都洛陽はもとより中国全土で盛んに布教活動をしていた云々。 とは後漢書が伝えるところです。
キリスト教は景教(意味は同じ)。イエスはイーシェ、イーサ等と呼称された云々。 ユダヤ教系(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教) では基本的に偶像崇拝は厳禁。
その為か神の依代、代替として岩や石を神聖視したようです。
我が国の神道に於いても基本的に同じ。
ユダヤ由来説は日本より当のイスラエルに於て驚嘆を持って盛んに言われているところ。習俗や祭儀、神社の様式。言葉に至っては3000語以上の類似性や同一性が確認されています。
これは単なる偶然とは考えにくい生きた物証
意味不明な囃子詞/ハヤシコトバ(此れ自体もユダヤ由来)の数々はユダヤの古語ヘブル語だと訛りはキツイものの意味のあるフレーズばかり。 最強だな、おまえ。
もう誰もおまえに付いていけない。 ユダヤ教系(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教) では基本的に偶像崇拝は厳禁。
その為か神の依代、代替として岩や石を神聖視したようです。
我が国の神道に於いても基本的に同じ。
ユダヤ由来説は日本より当のイスラエルに於て驚嘆を持って盛んに言われているところ。習俗や祭儀、神社の様式。言葉に至っては3000語以上の類似性や同一性が確認されています。
これは単なる偶然とは考えにくい生きた物証
意味不明な囃子詞/ハヤシコトバ(此れ自体もユダヤ由来)の数々はユダヤの古語ヘブル語だと訛りはキツイものの意味のあるフレーズばかり。 土木工事を得意とする秦氏はエジプトのピラミッドや万里の長城を築いたフリーメイソン
現代に至るもユダヤ国際金融資本の出先機関として日本を裏から支配している一族 養蚕、織物ならモロ漢民族だろ。
秦氏の残した朝鮮陶質土器=須恵器だって中国灰陶の流れを汲む土器。 その大阪の太秦町の近くに川勝町があるから、もろに秦氏由来の地名でしょ。 太秦とかいて何故ウズマサとよむのかについては、長らく不思議がられていたが、平成14年に
雑誌歴史研究にその謎が解かれている。
太秦の太は、太郎次郎三郎の太と同じであり、本家とか中心とかの意味である。
つまり太秦とは、秦氏の本拠地という意味なのである。であるから、本来は、オオハタと発音するのが正しく、そう発音されていたはずである。
で、秦氏はその本拠地、太秦(オオハタ)を今の京都の一角に置いた。
その一帯はウズマサとよばれていたところであった。
日本では、人名や施設を、そのある場所の地名でいう場合がみられる。
例えば、木村という親戚が大阪に住んでいると、大阪の叔父さんという呼び方をする。
新東京国際空港が成田にあるので成田空港と呼ぶ、とかである。
警視庁は桜田門にあるので、サクラダモンといったら警視庁を指す、とかである。
この太秦も、本拠がウズマサにあったので、ウズマサというようになったのである。ただし正式には太秦であったので、
漢字で書く場合は太秦の字を使ったということである。
ではウズマサの意味であるが、
ウズとは髷のことである。マサとはマサキカズラのこと、今のテイカカズラのことである。
つまり、髷飾りにマサキカズラを使っている光景からできた地名なのである。
京都の(昔は葛野と言った)一角にテイカカズラのさきみだれる野があり、そこのテイカカズラを人々は髪飾りにつかっていたのである。
もう一つの説は、やはりテイカカズラの咲き乱れる野については変わらないのであるが、
その咲き乱れる花をみたある人が、天石屋の事件の時に、天のウズメの尊が、
石屋の前で踊るときにウズにマサキをさして踊ったことを思い出し、ウズマサといい、それが広まったものである。
との説がある。
以上から、太秦という表記とその読みがウズマサとなったわけの説明を終わります。 解説乙。
なるほど、髷飾りのマサキカズラを指すウズマサの地に秦氏が大挙して
移り住んだから太秦=オオハタと名付けても旧名のウズマサで呼ばれて
オオハタが消えてしまったんだな。
確かにみんな新東京国際空港となんて言わないね。
単にナリタと言うだけでw 秦氏をハダと読むのも、機織りからと良く言われるけど、ハナハダシイのハダ(「甚」:極端、想像を超えるの意)から来てるんじゃないかな。
むしろ秦氏が得意だったから機織りをハタオリと呼ぶようになったのでは? >>62
>>63>>64にも在る通り、一顧だの余地無く漢民族 >>69それは違うのではないか?
太秦の「うず」は、宇治と同じ蛇のことだ。渦=とぐろと考えればわかりやすい。
太秦とは、秦氏が崇拝する蛇神のことだろう。三輪山の大物主も蛇神だ。
「まさ」の方は、長を意味する勝(まさる)のことだろう。
宇都宮という地名も、実は宇津の宮、つまり秦氏の宮なのだ。
秦氏は、薬師寺との関連が深く、蛇は脱皮して再生する薬師如来の使いとされていた。
宇津救命丸の創業家宇津家は、宇都宮が秀吉に改易されるまで藩の御典医だったと伝えられている。
富山の薬売りにも、宇津と名乗るものが多いという事実もある。
下野薬師寺が、奈良東大寺と同じく、奈良時代に正式に僧尼を認める戒壇が設けられていたことでもわかるように、
秦氏の分派が下野に来ていたことは確かだ。宇都宮藩の祖、慈覚大師円仁は秦氏か? 「うづ」は秦韓十二国の中の一つ、「優中国」の優中(ウツ)だろ
今の慶尚北道の北部の日本海沿岸
その前は「有秩」これは秦の制度で五千戸の長。
5000世帯でそこに移民定住したから「優中国」という地名が起こった
「まさ」は…メシアかなw 優中国なんて存在しないしな、在ったのは優由(ユリウ)国、それ程似てない 古くの渡来秦氏を皇統で観ると・・
孝元天皇、第一皇子の大彦命の四男に、波多武彦命と孫に、豊韓別命・・後の安倍氏
大彦命と開化天皇の弟の彦太忍信命の孫の三韓征伐の武内宿禰の子に古代波多氏・許勢氏・蘇我氏・平群氏・紀氏・渡来9天皇家の葛城氏・江沼氏と古代中央氏族の臣姓が名を連ねている。 豊韓別命の韓の意味は、おそらく
新羅地域渡来の意味で、新羅以前の周代の都市の韓地域からの倭人渡来の意味だろう。
周代・・つまり、神武東征時期で、神武以前が、この周代の韓地域からの倭人渡来である事を意味している。
後の秦氏も、この波多武彦命の時代が最古の渡来であろう。 神武天皇の兄の稲飯命が新羅建国と言うのも、正しくは、周代の韓の時代の話だろう。 辰韓に住み着いた秦の民とは、キングダムの秦の始皇帝・政の正統血統の弟・・ こういう良スレをsage進行する。
いけませんねえ。
どんどんオープンに上げて盛り上げましょう。 秦氏は大体分かった。物部の力を検証してくれ。楚系だと思うんだが。 >>64 漢民族が養蚕、織物に従事してたなんて初耳だが。
漢というと征服系で着る側というイメージだが。
まあ養蚕はどこの国でもやってただろう。呉服は呉系であるし。秦氏は漢の国にもいたし。 「うづまさ」の「うつ」も「はた」も同語源で訛り方が違うだけ
元は「于填(うてん)」のちのホータン
于填の先秦上古音は[yu-tu]でこれが「うつ」の語源
于填はまたそれ以前の「月氏」「禺氏」の語源でもある
月氏の先秦上古音は[hat-ti]でこれが「はた」の語源 >>76
写本によって優中国・優田国・優由国いろいろある
日ユ同祖論では辰韓十二国がイスラエル12部族でその中の優田国がユダ族
「優由国」説もあるがその場合は「うや」と読むはず
ユリウとかいってるやつは朝鮮人だけ、問題外。 >>89
残念ながら南チョンの願望妄想も虚しく
在ったのは優由国、そして古漢語の発音はユリュ(YuLiu、YuLiw) >>90
優の字の音に[Y]があらわれるのは近世音(宋代)以降
由の字に[L]音があらわれるのは現代中国語じゃないのか
優中でも優田でもなく「優由」なのだとする場合にはその比定地に
烏也山(うやさん)を想定しているはず
古漢音とか何を典拠にしてんのかしらんが
三国志の時代の「優由」の漢字音と6−7世紀の「烏也」の漢字音に
つながりを認めない立場なのか? それで「優由」説に執着する意味あるの? 同時代の三国志に残されている記録は優由国
三国史記は数百年後に創られた読み物
現代中国語の由はyou2、上古音の優はyuもしくはquに近い音
>>88
えw上古音だと月氏は(GwaTsing)、于填は(GwaDin)だぞ?
あ、本当だ、よく似てる。同じ民族の別音写なのか >>92
>同時代の三国志に残されている記録は優由国
>三国史記は数百年後に創られた読み物
それは否定してないが、ぽまえの考えでは優由国ってのは今のどこなの? 辰韓地方は南と東南を倭と接し現慶州北道と概ね一致するから
慶州北道の何所か、慶州南道では無いね >>94
>慶州北道の何所か
あたり前だろ! そんなことは質問する前から大前提だっつの
まさか全羅道だの京畿道だの言い出すとはこっちも思ってないから心配すんなw 卜部氏は、元々が月読宮に仕えていた言霊聞き家系の宮司だろう。 大陸では、トは吉凶を占うシャーマンで通ってた筈。
トの元の書体は、動物の骨が元。
吉凶を占うシャーマンのアイテムが動物の骨だったから、ト姓
半島の新羅王族の一人朴氏姓がそのシャーマン家系と言う話。 うらべ氏の卜部には、占うの占部と書く占部氏も居る。 >>103
卜は亀の甲羅を使うのが古代中国の基本
卜は大体占いと同じ意味で、シャーマンは巫であって卜でない 言霊聞きの巫女の居る神社でおみくじ占いは・・なんだと・・ 占いというのは直接に神託を授かるシャーマニズムが停滞した後で
儀式的な操作によって神意を知るための技術。
「シャーマンと祭司の区別」という文化人類学の基本中の基本を
わかってない子供がしったかぶりすんなよw 本当にわかってるの?
シャーマンだって祭儀だぞ、神降ろしの祭儀やるだろ
ただ、シャーマンは体系立った技術に依存した占いの類はやらない
つかやる必要がない存在がシャーマン
占いは祭儀の一環として位置づけられる場合もあるがその場合はシャーマン不在。 秦氏は百済系と言われることもあるが、
新羅系で聖徳太子側。 >>112
オマエは何も解って無いな
シャマンは職能、儀式を意味しない
お勉強して出直しだな 新羅大明神は、素戔嗚尊の事で宇迦之御魂神が素戔嗚尊の子神
宇迦之御魂神は、秦氏の氏神
素戔嗚尊は周代の現在の四川省チベット人自治区からの渡来。 自動的に、天照皇大神が素戔嗚尊の姉神だから同地域出身の筈。 唐古拉山脈
タングーラってタカマガハラと響きが似ている。 >>114
山背大兄は、秦氏と関係あるということか?
奈良の豪族が大阪府内に領地を持って湊をゲットしていたころ、京都は秦氏が、コツコツと山背といわれた山の向こう側で、開拓していたという認識でいいか?
当然、桓武天皇も、京都が渡来人に開拓されてたから都を置いたんだろう? >>110
糞くだらない電波ふりまいてんじゃねーよw
珍説だすのはかまわないがそれならそれできちんと論証しろ >>120 天智天皇の即位までの経緯や即位後の親百済政策を種々鑑みると
中大兄皇子=中殿(蘇我氏の娘)の年長の兄または伯叔父が百済の支援を受けて力ずくで天皇の養子になった
中臣鎌足=中殿の家臣で嘗て脚に拷問を受けた事が有った為か払い歩きする者
と解釈できるから鎌足が百済系の渡来人であるか中途採用の亡命百済人一世である公算は大きいよ >>121
おまえのは結論ばかりで途中の論証がなにもない。それでは妄想と同じ >>123
あるわけないだろ
電波説やトンデモ説、素人の思いつき垂れ流しはこれからも容赦なく叩く >>119
山城は秦氏が最初に開拓したわけじゃないし、京都盆地全域を支配したわけでもない。
近江から山城一帯は、もっと古くに開拓されてるし、ホアカリ系の伝承もあるし、
神社もある。 >>127
よう、既知外w
今度はどんな電波を受信したんだい? 日経新聞にインドのタタ財閥元会長の自伝が載っている。
タタ一族は、サーサーン朝ペルシアからの渡来人と見られている。
ゾロアスター教徒とされているが、実はタタール人ではないかと思われる。
その生き方は、秦氏と酷似する。
更に東に逃れ、多々良製鉄を伝えたのも彼らであろう。
ペルシア、インドからの渡来人は日本に大きな影響を与えている。
アマテラスはインド人だった。そして、
高天原はデカン高原にあった。 渡来人は中東や中央アジアからの移民がベースで
それが中国や朝鮮に滞在しながら文化や遺伝子を吸収しながら
何世代もかけて移住してきたんだろ
最後の朝鮮では殆ど混血が無かったことが遺伝情報からわかってるぞ
日本人はアジアで一番韓国人と遺伝的つながりが無い民族 中東って鼻高で彫深のコーカソイドでしょ
そりゃ日本人にもそういう人がいなくもないけど、大多数は平たい顔族と呼ばれるモンゴロイドだからな ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
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_}==:;={ ,/ ,;-'' `ヽ ゙; i' /_,,;-‐''′ ゙:、 ゙i 新羅の国王の昔氏は、倭人だったという説があるそうですが、どれぐらい有力な説なのでしょうか?
百済の国王一族が日本に亡命してきたとか、その血を引いた高野新笠が桓武天皇の母ということは
結構有名ですが、新羅とのゆかりってそれに比べて知られてない気がします。
任那には日本府があり、日本系の豪族による支配がなされていたり、当時の日本の勢力は、かなり
朝鮮半島南部にも及んでいた印象はありますが…。 >>133
あるよ
例えば神功皇后は新羅人の血を引く 大ブリテン島でケルト人をブリテン人(ブルターニュ半島居住)が征服し、
ブリテン人王朝をノルマン人(ノルマンディ半島居住)が征服したのと同様、
日本列島も朝鮮半島から何波にも渡って侵攻を受けている。
今の天皇一族がその最後の成功者。朝鮮半島南部と越前に拠点を持つ百済人が
それ以前の日本在住新羅権力から政権を奪取し、継体となる。
泰氏は大ブリテン島に居残った古代ローマ人みたいなもんで王朝としては成立しなかった。
ちなみに、勘違いしているやつが多いが、大ブリテン島と対をなす小ブリテンというのは
アイルランドではなく、ブルターニュ半島。 >>133
有力というより定説
五世紀の新羅建国以前は新羅地方を倭人が統治していたのは常識 ソクタレがタバナ国からやってきたから倭人とかいう妄言は聞きあきた。
タバナ国は倭国の北にあるわけのわからん国であって、倭国そのものではない。
しかも、ソクタレのあとは金氏が継承して、ずっと金氏の家系が続いている。 てか倭人そのものが朝鮮半島が来た人間の子孫なわけで
アメリカがヨーロッパを支配するようなものでしかない 何万回も言われてんだが、朝鮮から来たという証拠だせよ 史実として確定していない時代から、日本列島で権力者が使用していた文字は漢字だ。
他の文字は使われていない。
この時点で、漢族の帝国そのものもしくは周辺地域で漢字を受け入れた部族以外
流入元はありえないんだよ。
ゲルマン諸族のブリテン島侵攻と同様、権力を掌握する規模の人数が移動するためには
地理的に近接した地域からになる。
その地域にもともと居住していたのかどうかという問題と区別がつかん池沼が多いが。 ワロタ、すげえ反応してる。
朝鮮半島に渡来した倭人がいるのがそんなに嫌なの? >>141
南韓族は中国人の辺縁に位置し
一つに纏まった日本人集団から遺伝的な繋がりが無いね。
そして、半島南部からは地域によって
o2b1やD2等の日本列島固有の遺伝型が数割〜約半数の高頻度で存在する
これらは半島から日本への移住が極小規模なのに対し
日本列島から半島への移住が大規模だった事を示唆してる >>144
>半島南部からは地域によって
>o2b1やD2等の日本列島固有の遺伝型が数割〜約半数の高頻度で存在する
>これらは半島から日本への移住が極小規模なのに対し
>日本列島から半島への移住が大規模だった事を示唆してる
何の示唆にもなっとらんね。
ブルターニュのフランス人中、現イギリス人系統の遺伝子を持つ人間もまったく
同様の状況。 日本列島で発生したO2b1や特異的なD2と違い
現代英国人特有の遺伝型なんて存在しないよ 【悲報】ジャップの4割は酒が全く飲めない体質な事が判明 その他6割 お前らはどれ? [636937366]
http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1410262814/ のっぺり顔で酒が飲めない日本人のルーツを中東に求めるのは無理があるな
根底にあるにはコーカソイド(白人種)コンプだろう ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
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ツカポコタカ♪セローイ! ''ー-、,,___ ,;. 、 ,ソ
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セローイ! ゙''ー-、,, ,;. 、,f F、;ニニニニ、゙;‐''ヾ'
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 ̄ ̄ 〈 ' 、_{モi!,!^、 f,;==;'゙=i / _,,ノノ ; ヽ、
`'i ´i`f' `' /´ ,!! ,!、 ,/ ,;-‐''′`ヽ、 ゙;、
_}==:;={ ,/ ,;-'' `ヽ ゙; i' /_,,;-‐''′ ゙:、 ゙i 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方土人になり、日本人種が穢れる。
gm DNA
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg >>151
要するに、のっぺり顔の農耕弥生系倭人・・百済人だろうね。 >>136
神武天皇の兄、稲飯命が周の時代の韓・辰韓を建国し、
その子孫が昔氏で、帰国の渡海時の王子が天日槍命。
※丹波か播磨風土記辺りに、出雲・大国主命と出石・天日槍命との国取りの矢射り合戦の伝承があるようだし・・
丹波だか播磨の地を奪い合ったとか・・
後の丹波の出石民族。
新羅渡来だけど、この人たちが百済渡来と勘違いされた温羅氏だったらしい・・。
※この一族は、三韓や応神天皇の時代辺りでも、何度か渡海して行き来し、新羅に渡っている見たいだね。
天皇の命で派遣されてた派兵部隊将軍の1人にも居たりするし・・
>五世紀の新羅建国以前は新羅地方を倭人が統治していたのは常識
三韓の神功皇后・応神天皇親子の時代だね。
この時代の有名な渡来は、秦の始皇帝七世の弓月君。
帰化し、太秦国が与えられ、惟宗氏と成る。
出雲神社周辺や大国主命の子孫と絡む、出雲族の由来は、徐福秦氏が出雲族と言う語り部話と伝承碑文の各地の石碑群。
国譲りは、渡来して来た徐福の調査隊に、仲間も連れて来たいと言う秦氏に言葉を信じて再渡来、承諾した、大国主命の誤った判断・・
徐福本体が渡来し、一気に、多数派化し、大国主命の一族が、少数化し、出雲族と名乗った徐福秦氏に呑み込まれたのが
出雲国譲りの真相。
その出雲族大勢に助力したのが、渡来秦氏と同族だった、天皇家だったそうだ。 大国主命の末代の神門氏は、神武渡来時戦った、櫛玉命=出雲建子命=伊勢津彦命や
日本武命=倭建命=出雲振根命=神門振根命が朝廷に騙され、神宝=神度剣を渡した弟を殺め
それを口実に、四道将軍によって討伐された話があります。
※神度剣=大量剣は、十束剣(とつかのつるぎ)は日本神話に登場する剣。
「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記される伊耶那岐命の天之尾羽張剣(伊都之尾羽張剣)=天羽々斬剣の事。 まぁ・・今と成っては、同じ大和民族=日本人ですから、皆、同じ血を受け継いでますがねっ 奥州安倍氏の様に、地方在地官人を新羅で遣ってたと・・
中国の台湾総督府見たんなもの・・かな 朝鮮半島を、秦の始皇帝の時代から、三国志の勝者、晋国の司馬氏と大和が分割統治関係だったの考えれば、分かり易い。 >>164もとい
朝鮮半島を、秦の始皇帝の時代から、三国志の勝者、晋国の司馬氏と大和が分割統治関係だったと考えれば、分かり易い。 ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ここは台湾の田舎町。どこからか南方太鼓を叩く音が聞こえてくる。
見てみると叩いているのはそう、東南アジア顔した台湾人。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
半裸で意味不明の南方語の掛け声を唱えては太鼓をしきりに叩いている。
叩く。叩く。しきりに叩く黒い手。
そして黒い顔に潰れた広い鼻。突き出した口元とゴツゴツとした輪郭。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
一瞬、ニューギニアの奥地に居るような感覚に私は襲われたのである。 日本人なのに色黒でフィリピーナっぽいのがクメール人。
もっと大きくてやはり色が黒いのが出雲、大国主、大黒天系のインド人。
磐井も同族で南方系だ。
磐井の乱で成敗された生き残りは、大和朝廷の手の届かない東北に逃げて来ている。 >>168
Qは西日本でゼロだ。
Qなわけないだろう。
姓はaraiであることが分かってる。 >>171
ならば物部がQでないとおかしいよね?
物部の末裔ならば日本人の何割かという大人数だと思うが。 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方土人になり、日本人種が穢れる。
gm DNA
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg >>2
実際、ペルシャからの渡来人っているんかね
大陸からの渡来人がいて、大陸にはペルシャとの交流や移民があったから、
物理的には可能だろうけど… 175
だからそれが○○羅って名前のでてくる人らなんだよ インドだかペルシャだかどっちかは判別は不可能だけどな 言いたかないがペルシャ人の仏教僧なんてのもあり得る 「崑崙人」(と唐人が言った)渡来人もいるけど、
これもインドなのか他のアジアの国なのか分からんしな―
昔の地名は曖昧なんだよな 唐人とはいっても要は鮮卑人だからな
鮮卑人から仏教僧もでている 179
崑崙といったら昔の蜀の国があった奥地の高山地帯にいた民族だろ ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ここは台湾の田舎町。どこからか南方太鼓を叩く音が聞こえてくる。
見てみると叩いているのはそう、東南アジア顔した台湾人。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
半裸で意味不明の南方語の掛け声を唱えては太鼓をしきりに叩いている。
叩く。叩く。しきりに叩く黒い手。
そして黒い顔に潰れた広い鼻。突き出した口元とゴツゴツとした輪郭。
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!
一瞬、ニューギニアの奥地に居るような感覚に私は襲われたのである。 唐人とは、弁髪の満州族、 契丹族、モンゴル族。
凶奴、フン族だね。 日本のチョンマゲも、弁髪の一種ではないの?
長い鎖国で変わってしまったけれど。 >>184
靺鞨は唐の都督府管轄下の異民族
契丹も唐の都督府管轄下の異民族
奚も唐の都督府管轄下の異民族
突厥も唐の都護府管轄下の異民族
そして、韓も唐の鶏林都督府管轄下の異民族 奈良出身の先生がいたが、アラブ人みたいな風貌だった。
国際学会では、アラビアンだといわれていたらしい。 日本にある神社には高麗系、新羅系、百済系などがあるが、
秦氏は南半島系とか扶余系と中国の影響があるかな。だから秦、ユダヤだろう。
朝鮮とか言ってるやつがいるが、関東の調布とか、あの辺に行けば、何が朝鮮か認識することになると思う。 秦氏が伊勢神宮作ったんですか?
九州福岡糸島市に三重の志摩市とか二見市とか斎宮とかと同じ
名前がありますが三重より福岡の方が古い様に思えます。
三重は7世紀頃ですので、名前を福岡から持って来たんではないかと
思うのですが。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 日ユ同祖論をトンデモとバカにしてはいけないな
福岡と大分には竹内宿禰を祭神にする黒人神社、黒男神社、黒人社と黒がつく神社が点在している
失われたアークがあるとされる剣山の近くには白人神社と栗枝戸神社がある
日本の古代というのは自分の今ままでの想像以上に広い範囲で動きがあったのではないかと思えてきた 王族を騙る一般人の末裔だろ
HaplotypeでOとか出たら笑うしかない お前らまだやってるんか
イスラエルの全家が渡来してるんだわ、イエスの子供、モーゼの子供
イエスの兄弟のシモン、ユダの子供達もな、俺はイエスの子孫であり、モーゼの子孫でもあるんだわ。 >>197
創世記のヤコブとレアの子孫・・シメオン族の預言者シマヤ
ソロモン王に直談判し戦いを諌めた、預言者シマヤ
時空研 青森 2010年06月
http://aomorijikuuken.blog114.fc2.com/blog-date-201006.html
ハヤシコトバの謎2 :: 2010/06/26(Sat)
「ソモソモ」と語りかける。これは実際のユダヤ語で「シマヤ、シマヤ」である。 秦氏を名乗ってただけの家臣でもない農民だろ?
ハプロNならともかくO3なら成りすましだろ >>175
人間が来たかどうかは分からんが、
古墳出土:小さなガラス玉…ササン朝ペルシャからはるばる
http://mainichi.jp/select/news/20150701k0000m040043000c.html
香川県まんのう町教委は30日、町内の古墳から出土したモザイク模様の
ガラス玉(直径1.45センチ)が奈良文化財研究所の調査で、西アジアの
ササン朝ペルシャ(226〜651年)産と判明したと発表した。
当時から盛んに交易が行われてきたことを示す史料とみている。 >>175
いや、そもそも古代漢民族がペルシャ人だよ
黄河文明は夏以前とか夏殷はよくわからないが
周の頃には周は完全にペルシャ人だかの白人の国
多分夏以前にも黄河文明という名ではないが、長江文明の弥生人が確実に黄河流域を通過することから
黄河文明の最初期も多分弥生人で、それがペルシャ人だかのメソポタミアの文明に征服されたのが黄河文明 >>203
ヘブライ語でシ「マヤシマヤ」とは・・「注目っ注目ぅ〜」の意味。 >>204もとい
ヘブライ語で「シマヤシマヤ」とは・・「注目っ注目ぅ〜」の意味。 >>132
預言者シマヤ検索・・。
ヘブライ語で「シマヤシマヤ」とは・・「注目っ注目ぅ〜」の意味。
登場人物で読む聖書の物語 シェマヤ 列王記・歴代誌
http://flamboyant.jp/bible/bib179/bib179.html
JBS-iばいぶる-聖書全文検索
http://www.bible.or.jp/i2/vers_search_i.cgi?cmd=search&trans=ni&book=2ch.old&chapter=12
Tテモテ6章11〜21節 「神の人として」 大田原キリスト教会
http://otawara-church.com/?p=2111
投稿ナビゲーション← 民数記21章イザヤ45:1-13 レジュメ →Tテモテ6章11〜21節 「神の人として」
いよいよテモテへの第一の手紙も結びの部分に入ります。
きょうは、この結びの部分から、「神の人として歩もう」というタイトルでお話したいと思います。
パウロはこの結びのところでテモテを、「しかし、神の人よ」と呼んでいます。
聖書の中でこのように「神の人」と呼ばれている人は稀です。
旧約聖書ではモーセ(申33:1)やエリヤ(T列王17:18)、
また その弟子であったエリシャ(U列王4:16)などが神の人と呼ばれました。
また あの有名なダビデもそのように呼ばれました(U歴代8:14)。
その他、預言者でシェマヤ(T列王12:22)という人や、
イグダルヤの子ハナン(エレミヤ35:4)もそのように呼ばれました。
他にそのように呼ばれた人はいません。
新約聖書でこのように呼ばれているのはテモテだけです。
パウロはこの「神の人」という言葉をテモテに用いました。
それは牧会で苦労していたテモテにとって、どんなに大きな励ましであったことでしょう。
※・・旧約聖書ではモーセやエリヤまた その弟子であったエリシャなどが神の人と呼ばれました。
また あの有名なダビデも そのように呼ばれました。
その他、預言者でシェマヤ・・。
神の人・・シマヤ >>206の>>132はアンカーミスで無関係です。
失敬。 秦氏に対する過大評価と葛城氏に対する過小評価
多民族技術者を日本に連れてくる元締めが葛城氏だった 知らない
そもそも秦氏なんてそんな有名な氏族じゃないぞ
変な資料引っ張ってこなきゃ誰も知らないだろ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 秦氏だけど俺って偉い一族の末裔なんだな平伏せ愚民ども >>208
クナト(国常立)大神(イザナギ神)−八島篠−布葉之文字巧為−
八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−八千矛(大穴持・大国主)−
兄:伊佐我(伊佐波)=出雲建子(伊勢津彦)・弟:阿遅須枳高日子−鹽冶毘古能−
速甕之建沢谷地乃身−甕主彦−身櫓浪−遠津山崎帯−
崇神朝時代の杵築大社(後の出雲大社)最後の司祭:出雲(神門)振禰=倭健(日本武)−出雲(神門)伊賀曽熊の子が・・
長女:支須美の建部(武部)氏、二女:美尼布の二方国造家と、末っ子(嫡男):出雲笠夜の武内(建内)宿禰(葛城宿禰)=斯摩(島・志摩)宿禰(千熊長彦)
葛城襲津彦の葛城家の祖・・葛城宿禰
紀氏の波多氏・巨勢氏・蘇我氏・角氏の祖・・武内宿禰(千熊長彦)
島津(志摩)国造家の島氏=斯摩宿禰 日本海側でよく食べられるハタハタ
漢字で書くと魚編に神と書く
また波多波多と書いたりするらしい
秦氏と関係があるんだろうか こんなところにも射精エベンキがいるのか
お前は捏造してないで現実見ろよ
お前が渡来系の新モンゴロイドで確定だから 秦氏は秦の始皇帝の末裔に決まってるだろ?
始皇帝の末裔だよ。これ常識な?
そして徐福に裏切られたんだよ。
頭に来た挙句、徐福を追って日本までやって来たんだよ。
これ、常識な? DNA鑑定したらルーツ分かるんとちゃうのん?
秦の末裔として西域と反対側の日本に渡って来るかねぇ? 秦氏と名付けたのは当時の天皇だよ。
自分で名乗っていた訳ではない。
秦氏の内訳は単に半島人と混血した楽浪帯方漢人の末裔。
武帝が朝鮮侵攻の際に秦の遺族の末裔たちを積極的に半島に送り込んだ
かもしれんが。 秦王国とか既に日本にあったでしょ
秦が滅びた時点で日本に亡命してるぞ 普通は故郷の西域に帰るやろ
何でわざわざ海渡って東に来た甲冑ことや
多分渡来した人らは仮冒だと思う >>222
で、秦が滅びた時に日本に亡命した事を証明する証拠遺跡とその証拠文物は?
. >>223
西域が既に別民族に支配されてたから東に逃げざるを得なかった
つーか中国は国が滅びるたびに日本に亡命してるぞ >>225
で、古代チンコロが国が滅ぶたびに日本に亡命していた事を証明する証拠遺跡とその証拠文物は?
. >>219
違うぞ
始皇帝の子孫だという伝承を否定する結果が出なかっただけだ
「始皇帝の子孫の遺伝子」と「始皇帝の子孫だとしてもおかしくない遺伝子」は区別つけようぜ >>227
中国にいる始皇帝の末裔とされる人たちと同じ結果が出てるからほぼ間違いないよ 他スレで拾ったが、オレ自身やここでの一部の意見にかなり近いものがある。
ただ、欽明朝は完全に百済寄りなのに、蘇我も物部も新羅というのは齟齬がある。
また、新羅と百済との交差は述べているものの、高句麗には言及していない上、
新羅=秦王朝、百済=呉…という背後関係のみで、越や楚、あるいはシュメール
が一切出て来ないので、その点は物足りない。
http://i.imgur.com/Qbnib1z.jpg >>217
年代的に五胡十六国の前秦か後秦でしょう 秦の始皇帝の末裔もいれば
光武帝の末裔もいる
李氏朝鮮の王族の末裔もいる。 居なくて結構。
さっさとチンコロランド、チンコロアイランド、ビビンバペニンシュラに
帰れ。 秦の末裔ならなんで力つけたら大陸に帰らんかったんやろか?(・ω・) 秦も前秦も後秦も胡族だから定住民じゃないだろう。そういうのは帰らないよ 渡来系大名って秋月氏、長宗我部氏の他に誰がいるのん? 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>234
朝鮮が嫌いで日本が好きだからって書いてある 「海」を韓国語で、パダと読むではないか。ハタやワタに五音が似ているではないか。日本の秦氏は中国とは、全く関係無いのではないか? そら関係ないやろ
ほんまに高貴な血筋なら本土に支援してくれる残党おるから留まれるし地元に残って家運再興してやろうと思うだろ
おられんほど貧しいから日本に渡ってきたんやろ
その時秦や呉や漢の皇族の出ですとはったりかました方が良い待遇してくれんだろ >>237
島津 斉彬で有名な島津家ですね
現在の皇室とも血縁がある
>>241
中国韓国とはもともと合わないから残りたくもなかったでしょう >>240
製鉄と機織りを伝えてるんだから中国の技術者である事は間違いないよ
始皇帝の血縁かどうかはともかく 羽田美智子、畠田理恵とか美人が多い
高畑充希は微妙だけどw 秦さんとその系統の人のDNAをデータ化すればいいのにね
秦さんも協力してくれるだろうし
うちは波多だけど彫が深く目が茶色く大きいとか、ブータンの子供によく似てたりと、 >>246
ぜひやってほしい
究極の個人情報とか言ってるけど
解明してほしい 検査機関の信頼性と情報保護の保証
いまここまでわかりますよという範囲
何人調べると論拠になるのかという人数
これが確保されれば資金提供する人はでてくるでしょう
たぶん タカミムスビの一族は渡来人、月支国からやってきた。卑弥呼またはその一族も月支国からやってきた。 燕の公孫淵の末裔は日本で苗字なにって名乗ってるの? 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) 秦氏は五胡十六国時代の後秦の羌族だろ
因みに斉の太公望とか秦の始皇帝も羌族系
羌族は男系遺伝子がD系統で縄文人やアイヌやチベット人に近いらしい
京都の石清水八幡宮とか鎌倉の鶴岡八幡宮とか沖縄の安里八幡宮に祭られてる八幡神の
幡(はた)は秦(はた)とも読んで秦氏と関係あるっぽい
羌族の言語ではハタは地方って意味らしい。日本語の傍(はた)から見るみたいな言葉も羌族の言語が入ってきてる影響らしい
羌語では床の事をタタミって言うとか
チベット語では数字をチー、ニ、スン、シって数える 東條英機の言葉
ttps://www.youtube.com/watch?v=ximkFc7pAhA 羌族は嵩山を山岳信仰してるあたり四国の剣山を山岳信仰してる日本人に似てるかもな
ユダヤ人もシナイ山を山岳信仰してるけどね。シナイ山の火山をアミニズム的に信仰した神がヤハウェで
キリスト教の神と同じ存在 羌岷(チャンミン)族
チャンミン族は人口約25万人で、中国四川省の中国-チベット国境のミンコウ付近に住んでいる。
彼らは一神教を信仰し、部分的に戒律に従い、ユダヤ起源の伝承も多い。第一神殿の時代の犠
牲を捧げる習慣がある。ただし、セム系の外見的な特徴はほとんど残っていない。
このチベット系民族の羌(タングート、蔵人)は、384年(−417)後秦を建国し、その末裔が朝鮮
半島から「秦氏」として日本にやって来た説がある。すると、秦氏はマナセ族のイスラエルという
可能性がある ttp://livedoor.blogimg.jp/buccyake_kojiki/imgs/8/a/8aed843c-s.jpg
新羅は西羌の小醜だ(西にある醜い国)。天に逆らって無道だ。
わが恩義に逆らい、わが官家を破った。わが民を害し、わが群
県を侵した。わが気長足姫尊(新羅征伐を敢行した女傑・神功
皇后)は霊妙、聡明にして、天下を巡り、人びとをいたわり、
養われた。新羅が窮地に立ち助けを請うてきたのを哀れみ、首
を切られかけていた新羅の王を救い、要害の地を授け、新羅に
繁栄をもたらされた。
神功皇后がどうして新羅を軽んじることがあったろうか。われ
らの百姓(ヤマトの民)がなぜ新羅を恨むことがあろう。それ
なのに、新羅は武器をひっさげ、任那を攻め、含霊(人びと)
に残虐をつくした。体をばらばらに切り裂いても満足しなかっ
た。骨をさらし、屍を焼いても、ひどいことをしたとは思わな
かった。任那の人びとを刀とまな板を使い殺し膾にした……
(中略)仇を報いねばなならない。 欽明天皇によれば新羅は西羌系の国らしいんだよな。
エベンキ族みたいなツングース系とは関係なく
ちなみに欽明天皇の息子の用明天皇が日本に仏教を伝来させた天皇で
用明天皇の息子の厩戸皇子の尊称が17条憲法を作った聖徳太子
厩戸皇子という名前の人物はいても聖徳太子なんて名前の人物はいないから聖徳太子は架空の人物
なんて妄言を振りまいてる馬鹿もいるけど
そんな事をいったら孔子や始皇帝や太公望や宣統帝や弘法大使や昭和天皇だって尊称だし
孔丘という名前の人物はいても孔子なんて名前の人物はいないから孔子は架空の人物
?政という名前の人物はいても始皇帝なんて名前の人物はいないから始皇帝は架空の人物
姜尚という名前の人物はいても太公望なんて名前の人物はいないから太公望は架空の人物
溥儀という名前の人物はいても宣統帝なんて名前の人物はいないから宣統帝は架空の人物
空海というという名前の人物はいても弘法大使なんて名前の人物はいないから弘法大使は架空の人物
博仁という名前の人物はいても昭和天皇なんて名前の人物はいないから昭和天皇は架空の人物
という事になってしまう。 その一部が五胡十六国時代に後秦を建国して
後秦滅亡後に半島に流れてきて最後は日本に来て秦氏って呼ばれた。 >>260
ユダヤ起源の伝承も多いと簡単に言うが中共とイスラエルは軍事技術協力やら
キッシンジャー等関係は深いが浅い歴史ユダヤ移民じゃ無くて中華の血に深く
溶け込んでるっつう事か? スレタイ通り、日本に渡来した秦氏はY-DNA O2系なのでD系の羌族では無いです >>1
日本人だよ。
朝鮮に渡ったもと日本渡来人が戻ってきただけ。 加羅国って日本人が作った国だっけ?
百済も日本人貴族いたって話だし当時の日本式のお墓で埋葬されてたりラジパンダリ
だいたい秦の末裔なら西域逃げるはず 始皇帝の遺体ってまだ発見されてないの?
始皇帝の墓に残ってるのかな?
遺体あったらDNAで秦氏が子孫かはっきりする >>269
そんなことあるわけないじゃんwww
あほすぎるwww 朝鮮半島に馬韓があってそこに秦人が移民として入り込んできた
秦韓→辰韓となって新羅と成った
秦人は新羅と伽耶を作った
秦人は秦氏となって日本へ渡来した
秦氏のルーツは秦の始皇帝の末裔
それ以前より居た秦氏は徐福(斉)が表向き不老長寿薬を求めて
渡来した始皇帝より預かった3000人の男女の末裔達
日本で物部氏となり神道を司る氏族として新羅・秦氏を待っていた
初めヤマトよりも倭国の方が栄えて優位だった
日本から鉄資源を求めて新羅に渡った鍛冶屋が新羅の入婿となって
4代目新羅王となり日本へ帰ったことでヤマトに鉄の獲得ルートが出来た
これによりヤマトが倭国を凌駕する勢いを持つことになる >>274
で、徐福と3000人が来た事を証明する証拠遺跡とその証拠生活文物は?
. >>276
で、徐福と3000人が来た事を証明する証拠遺跡とその証拠生活文物は?
. >ほんまに高貴な血筋なら本土に支援してくれる残党おるから留まれるし地元に残って家運再興してやろうと思うだろ
馬鹿でしょ 高貴な血筋は一族郎党まで殺して根こそぎ滅ぼすのが中国だっつうの
>おられんほど貧しいから日本に渡ってきたんやろ
愚か者乙
トップの弓好きの君が「百二十県の人を率いて帰化した」と言っているのに貧乏もクソもあるかいな
これだけ大集団を率いたリーダー一族は富豪に決まっておろうが BC3C末、徐福一団の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く原始的な穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルである鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器も
さっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 日本が大嫌いな日本の学者様は秦氏は新羅系の朝鮮人と断定してるが、
劉邦に追い出された秦の始皇帝一族と考えたほうが分かりやすい。 胡族と言えばソグディアナとかペルシャなどの西方だな。 漢字音写だと正確ではないが、前秦符氏や後秦姚氏はチベット系言語を使っていたよ。
匈奴・鮮卑・羯・テイ・羌のうち、テイか羌に相当。 素戔嗚は最初は新羅に舞い降りたが、こんなところは嫌だと言って、
日本に来たと古事記か何かに書いていた。
素戔嗚と秦氏の動きに似ている気がするし、天照と素戔嗚の関係が、
大和朝廷と秦氏の関係にも似ているような気がする。 ユダヤの系統じゃないかと
辰韓にいた時12のグループに別れて
生活していたらしい
失われた12氏族
妄想が広がります >>291
秦氏の中の極一部にユダヤ教の知識がある人がいたかもしれない
というレベルだぞ 中国上海だと、ユダヤ教もイスラムも漢訳されていて、内容がアブラハムだから区別つかないんだよな。
ユダヤ教を信仰していたら、回族登録にしているとかあったみたい。 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議のメンバーに
小幡純子上智大法科大学院教授
さすが秦氏 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 広隆寺はもともと京都御所のあたりにあったが、
平安京造営のために移転したと聞いている。
伏見稲荷も、松尾大社も秦氏が造営したものだろう? まさか教会がある都市はキリスト教が支配してるとか言わないよな 日本と朝鮮半島の歴史と文化の交流というものを考えてみますと、長きにわたりまして、日本は朝鮮半島よりも明らかに後進的な国です。
『古代豪族と朝鮮』京都文化博物館編 >>300
日本に対する劣等感を感じてかわいそうになる
ただありのままであればいいのに
もともと邦人は後進国なんて言葉まず使わない とあるものに対して後進とみるか
逆に先進とみるかで人がだいたいわかってしまうな >>298
京都御所のあたりにあった、なんて初耳
北野天満宮の近くっていうならわかるけどw 宇佐神宮は元々は秦氏の氏神だったという説もある。
まったくの妄想だが、秦氏の姓太秦のウズマサの真ん中のズマが
伏字になっているのではないか?ウ〇〇サみたいに。
宇佐神宮の品位が上がったのは、応神、神功、武内宿禰以降のことだが、
秦氏がこの三人に深く関係していたのではないか? 応神天皇の招きで朝鮮から秦氏が来たんだから
当然関係してるだろう ありふれた絵画だと、武内と神功の子が、応神帝だよな? 日本でそれなりの地位を手に入れた秦氏と
秦氏の製鉄技術で軍拡出来た応神はwinwinの関係
その後 応神=八幡神 という習合が起きるわけだ 高校の日本史Bでは百済の弓月君の氏だと習うけどね。
大陸への尊敬から大秦帝国の「秦」の漢字をあてたのかな。
それとももっと起源をたどれば大秦帝国にたどり着くのか。
はっきりいって6世紀までの日本の歴史って、神話、伝承の域を出ない気がする。 畑岡メジャーV
カヌー銅メダルといいスポーツにも秦氏が進出してるね >>311
徐福が大陸から持ち込んだ、八神のうちの1つじゃ無いの? 戦の神様だと思っていた。江戸時代中期に、武士が縁起担いで名前をつわものぬしにならえて変更した? 八幡神社って秦氏の一族の主だった8家の神社って意味ではないの? 秦氏は古羌族説が強いので
チベット人のY-DNAが非常に特徴的なのが解る書き込みを転載します。
2016年7月更新された下記のサイトより抜粋
http://geod.51.net/g98/201001yd.htm
中国の多くの学者がチベット人と古羌族が同祖だと唱えています。
チベットのY-DNA O2割合約33%
O2の内90%に相当する29.82%がM-117(M−133)である。下流枝のO−CTS1642(O−CTS4658)だけで15%以上とM-117(M−133)内の半分以上を占める。
不思議な事に遠く離れた日本のO−CTS1642(O−CTS4658)はチベットと同じ最も早く分岐した同祖である。
(因みにCTS1642(O−CTS4658)は中国と韓国には稀にしか見ることが出来ないSNPである。反対に中国韓国で高頻度で見られる002611はわずか0.65%しかチベットでは存在していない) >>316
秦氏もミステリーだけど羌族の末裔の
CTS4658もO2系なのにミステリアスなハプロだね。
O2系が大多数を占める中国と韓国にはCTS4658はほぼ皆無なのに
反対にO2系が20%しかいない日本には2〜3%近くもいるね。
羌族の末裔は山に囲まれた天然の要塞のチベットと四方が海に囲まれた日本だから
元(モンゴル)に征服されないで生き残ったのかも知れないね。
下記に調べたデーターを載せて置くよ。
中国 Y-DNAO2割合54.2%内 M-117(M−133)=13.7% 内 CTS4685=約0.3%
FTDNA内Y-DNAO2プロジェクト統計上345人中1人 下記サイトより算出
https://www.familytreedna.com/public/o3/default.aspx?section=yresults
韓国 Y-DNAO2割合39.4%内 M-117(M−133)=9.6% 内 CTS4685=約0.3%
韓国人2016統計上306人中1人 下記サイトより
http://m.blog.naver.com/rlarladudtnr/220822022855
チベット Y-DNAO2割合33%内 M-117(M−133)=29.82% 内 CTS4685=15%以上
>>316の統計より抜粋
日本 Y-DNAO2割合20%内 M-117(M−133)=5% 内 CTS4685=約2〜3%と予想
FTDNA内Y-DNAジャパンプロジェクト統計上75人(日本人の名前のみカウント)中3人
下記サイトより算出
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ysnp
3人の内一人は勝手に韓国人のサイトに転載されたのが嫌で既に脱退済み。 羌族の一派である山東の姜氏だろうな
「倭人の姓は姜」という記述もあったし そういうこというと、ヤマトは遊牧騎馬民族ってことになるわいね。 >>318
いやチベット高原のほうにいるチベット人はあまり日本人に似ていないんだな
チベット高原のほうにいるチベット人はのんびりしていて中国人に似ている
近世のチベット社会が朝鮮と同様、腐敗しきっていたのも中国人的堕落によるものだろう
チベット人は歴史的にモンゴル人と交流しているんで(互いに犬、猿と罵り合う犬猿の仲でもあるけど)、
日本人に比べると顔面が平たく頬骨が張っている
チベット人のなかで日本人に似ているのはカム人で、他のチベット人と同様、
顔はいくぶんモンゴル人的ではあるけど、その気性の荒さはかなり日本人に近い
このカムの男という歌
https://youtu.be/nlqrXCaq_bE
この糞気張りながら歌ったかのような力強い歌唱方法といい、カム人の顔つきといい、
日本人、どんぴしゃで西日本人によく似ている
例えるなら浪花的マッチョ臭がプンプンする
浪花恋しぐれ
https://youtu.be/8xXmLUMhtuY
この朝鮮人にも共通する荒々しさは中国人には見られない 秦の徐福であり、さらに遡るとイスラエルの10氏族に連なる
モーゼ以前ならエジプトだな
人類の祖はアフリカから来たのだよ 大秦と書かれた柱が中国で出たとニュースにあった。ペルシャのこと。ペルシャ人、景教徒が中国に来て承認されていた。
ネストリウス派キリスト教で、聖母マリアを神ではないとする。それで迫害され、中国に来た。
その後、禁教になった。京都太秦は、たぶんペルシャ人景教徒。広隆寺に聖徳太子が祀られている。
聖徳太子はうまやどのおおきみ。馬小屋で生まれたという、キリストと同じ説話がある。聖徳太子はキリスト。初歩的ですいません。
聖母マリアを神ではないとする教義が、日本が西洋から迫害される理由かもしれない。妄想ですいません。 奈良市の平城宮跡で出土した木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通(はしのきよみち)」
という名前が記されていたことが10月5日、奈良文化財研究所(奈文研)の調査でわかった。
「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清通 天平神護元年」の文字。「天平神護元年」は西暦765年 仏教に篤い天王符堅、天王姚興が建てた前秦、後秦の関係者が半島から日本へ渡来した仏教教徒の秦氏。秦氏は始皇帝の末裔やユダヤ人じゃない。 雄略天皇は日本書紀に天王と書かれてるんだろ?やっぱり雄略王朝に保護された秦氏の影響だな。 百濟新撰云「辛丑年、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好也。」
天王と書いたのは百済 >>323
秦の徐福であり、さらに遡るとイスラエルの10氏族・・・
八幡神社は10氏族のうち、生き延びた8氏族の教会なのかもしれない。 | l | | l ヽ ヽ ヽ `ー’ | |
{ヽ | L ゝ-`─ ニニニニニー-|
ヽ ソ_,. -‐ ‘ -‐ニ ̄r┐ に! {__j jト
l _,.ィ ´ r j ヒ! ー’ _,.二 ニ_ ヽ1
l´ トr‐i _,..-‐ ‘ ´ ̄ `ヽ}
| l|└’ 「ミ ,..__ _ _,|
レ⌒ヽ「| 「ミ /,?`ニ‐ァ’ ./ニ-}
!{ ヾ | ! |.ゞ ,.rヒァリ |,ィァ.|
‘, { ゝリ !  ̄ |  ̄ |
. ヽ ` ! | | ! |
ヾヽ_j ! ヽ j__ } /
ヽT|! i ヽ ,r彡ソミミゝi
人 ヽ」、 i 〃r’´ ̄`ヾ|!
/! \ \ミ、 lソ ’´ ̄`lll|
-< ! ヽ ヽミミ 、, '' ,i; }l!_
:::::\ \ ミミ彡ミヽ,.ッールーリト `ヽ
:::::::::::ヽ \ ヾミ彡川川川lリ ト、
:::::::::::::::ヽ \ ミミ彡川川ソ l ソ
羌族[ちゃんぞく] チベット系古代漢民族
秦の始皇帝や秦氏等の始祖民族とされ古代日本に多大な影響を及ぼした古代漢民族
チベット人は優しく謙虚で控え目な性格がどことなく日本人に似てると言われている。
現在まで他国に征服された歴史は無いが現在モンゴル系末裔民族の現中国人
に弾圧され苦しめられている。
羌族の末裔はチベット以外では唯一日本に2〜3%確認されるだけである。 羌人、秦人、徐福と吉野ヶ里
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-11/09/content_228967.htm
羌族の末裔ハプロ O−CTS4658
チベット Y-DNAO2 33% M-117(M−133)29.82% CTS4658=15%以上 (M−133比50%超)
日本 Y-DNAO2 20% M-117(M−133) 5% CTS4658=約2〜3% (M−133比50%超)
--------------------------赤壁(赤の他人)--------------------------------------
中国 Y-DNAO2割合54.2% M-117(M−133) 13.7% CTS4658=約0.3% *注1
韓国 Y-DNAO2割合39.4% M-117(M−133) 7.8% CTS4658=約0.3%
韓国人2016統計上306人中1人
http://m.blog.naver.com/rlarladudtnr/220822022855
*注1 中国のCTS4658は中国がチベットから強奪した地域(雲南省等)の人々が殆どである。 秦氏は半島出身だって奴がいるけど単に半島を通って日本に遣って来ただけじゃん。 https://www.youtube.com/watch?v=6p6d4wN7jJM
西康(四川) のチベット民族歌手が、モンゴル・ホロンバイルの民歌を歌う。
日本人に似てる・・・ チベット民には、菅野美穂とか小雪みたいな容姿の人多いわ >特に私の一族姓でもある秦・河西は、禿髪利鹿孤{南涼康王}(南涼)
をはじめ、歴代の遊牧系異民族が中華侵入の要地として名乗る地方政権名称
(倭国、同様に河西国表記が歴代中華王朝にはある)であり、初期のイエス伝承
や仏教流入、他民族の宗教や芸術が融合するシルクロードやユーラシアの草原に
つながる中華政権樹立の興亡の激戦区であった。
http://ameblo.jp/kawany69/theme-10085946304.html >>333
優しく控えめというか、無気力でのんびりしている
日本人のなかでは沖縄人に近い
沖縄の本島首里人がかつて自らが楽をしたいがために、
薩摩への献納をその近隣の離島人に押し付けて、搾取しまくったのと同様、
無気力でのんびりしているがゆえに、その生活を守るために、
お金を握らせて、弱者を弾圧する
無気力社会が生み出す政治の腐敗というやつで、
チベット人はその点、その中国人によく似ていて、朝鮮人にも似たところがある
モンゴル人の影響はチベット人にも見られ、チベット人は日本人に比べると、
顔面が平たく頬骨が張っていて、いくぶんモンゴル人風の顔をしている
その点、朝鮮人にも少し似ている
一方でチベット人は色んな民族と混血していたようで、
『秘境西域八年の潜行』の著者・西川一三氏は、その著書のなかで、
「在ラサの支那、ネパール、回教徒、蒙古人などの他民族の妻になっているものも多く、
混血児が多いのであるが、虫の居所が悪いと容貌の明らかに違う子供に、
お前は私の子じゃないんだから出て行けと怒鳴る。」
と書いている そのチベット人のなかで異彩を放っているのが、チベット高原の麓に住むカム人で、
カム人は『チベット旅行記』の著者・河口慧海氏が、その著書のなかで書いているように、
強盗民族だが義侠心に富んでいて、物事をやり抜く根気もあるとのこと
>>322のように見るからに気性が荒く、西日本人にかなり近い印象を受ける 弥生人半島経由していない。
彼らは渡来時、半島ではもう当たり前だった壺も高坏も知らなかった。
日本に来てから朝鮮土器からパクったのである。
しかも彼らが作っていた土器(刻目突帯文土器という土器)を追跡すると、
最初に上陸したのは九州北部ではなく、出雲に近い島根あたりだった事も分かる。
そして、この土器のルーツは沿海州南部だという事も分かっているから、
彼らは朝鮮を経由せず、直接、沿海州南岸から島根あたりに上陸した事実が浮かび上がる。 秦氏と徐福じゃ時代が全然違うだろがカス。
しかも徐福なんてただの詐欺。
証明する証拠遺跡も証拠文物も何一つない。 で、弥生期に半島人が定着して生活していた痕跡だと断言できる証拠遺跡は? 無いね。
全部弥生人が交流を通じて自らの手で半島から導入してただけ。
弥生人ついての経緯は344の通り。 『魏略』は、次のように伝えている。
〔弁辰の〕国々では、屋根を作るのに横に木を積み重ねて作っていて、あたかも牢獄のようである。
〔弁辰の〕国々から鉄を産出する。
韓〔族〕・?〔族〕・倭・〔族〕が、みな鉄を取っている。
どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、〔それは〕中国で銭を用いているのと同じである。
そしてまた〔鉄を楽浪・帯方〕二郡にも供給している。
〔弁辰の〕習俗は、歌舞し飲食することを喜ぶ。
瑟(大琴)があって、その形は筑に似ている。
この瑟を弾く、また音曲がある。
子供が生まれると、石でもって子供の頭を圧す。
〔それは〕頭を狭くしたいがためである。
そのため今の辰韓人はみな狭い頭をしている。
男女〔の習俗は〕ともに倭に近く、また〔男女ともに〕文身(入墨)している。
〔戦闘では〕、歩戦が巧みで、〔用いている〕武器は馬韓と同じである。
人々の礼儀では、往来を行く者が出会った場合、すすんで相手に路を譲る。 >>348
韓〔族〕・ワイ〔族〕・倭・〔族〕が、みな鉄を取っている。 もともと韓人は超短頭の人種だから、頭を圧するためというより、
超短頭を強調するために石で圧していたのではないか? 今の朝鮮人は、現代の遺伝子調査では、標榜しているような5000年の歴史文化は持たず、主に高麗時代に、
支那東北部からの襲来軍と一緒について来た、ツングース系支那人である(エベンキの穢(ワイ)族や女真族)。
そして百済、新羅、高句麗の三韓時代から住んでいた本来の”正統な朝鮮民族”は、ジェノサイド(村民皆殺し)により入れ替わった。
そのため、朝鮮半島古来の「仏教」は儒教に変わり、それまでの「話し言葉」も消えてしまった。
また木を曲げて細工する技術までも消えたため水車も作れず、同じ大きさの車輪を二つ以上同時に作れなかった。
衣料の染色技術も、古来からの製鉄技術もなくなり、朝鮮服(チョゴリ)は白色のみで、鉄製の縫い針一つさえ作れなくなった。
1392年、女真族の李成桂が反乱を起こし、「高麗」を滅ぼして〔李氏朝鮮国〕を建国し、土地は李氏一族が独占、私有化した。
一般民衆には、簡単には土地が与えられず、掘立小屋を密集させ、地べたで寝る乞食のような暮らしを強いられた。
また、李氏一族は、自分たちの支配にとって不都合なものを見つけると全てを破壊し、文書類は全て燃やした。 >>353
そんな狂説を信じてくれる馬鹿カモってまだ残ってるの?w
サギサギ台湾褐色ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ブタ人間。
ジェノサイドで入れ替わったら、誰がその新たな支配層を喰わせるんだよカス。
台湾裸族の低い知能丸出し。 >>353
台湾でよく見るブタみたいな顔したブタ人間。
あれはどこから来たの? >>351
服部不動産という名前の不動産屋多いだろ ,,.---v―---、_ 日本人はな、お互い様やねん。
,.イ" | / / / /~`'''ー-、 相手に一回譲ってもうたら、
//~`ヾ、;;;;ソ'''''''''ヾ、 ,.ヽ ヽ 今度は自分が譲るねん。
/:,:' ,.... ゞ 彡 彡、ノ ) そうやって、うまいこと回っていくねんけど、
!/ ~`ー'",..- ... 〉 ! ( 『 あの人ら 』は違う。
i  ̄~` ! 彡 |ノ 一回譲ったら、つけこんできて、
,i ,.- 、 ゝ " '" ~ ~` ヾ ,,--、 | こっちはずっと譲らなあかん羽目になる。
/ _ ヾ"r∂|;! それでも『あの人ら』は平気なんや。
ヾ` '⌒` ;:: "~ ~` 彡 r ノ/ カドたてんとことおもて譲り合うのは、
i ノ _,,.:' 日本人同士だけにしとき。
ヽ ノ"( 、_,..:ー'"ヽ、 : : : ,i / そうせんと、『 あの人ら 』につけこまれて、
ヽ、 ,. :: :: ヽ ノ:|ラ:)`ヽ、 『 ひさしを貸して母屋を盗られて 』
ヽ、`''''"""''''" ' ,,..-'" // \-、 日本がのうなってしまうからな。
嫌われることばかりをしてる人を嫌うのは、差別やない。
差別、差別と印籠のように突き出してくる人間こそ 卑怯者の差別者なんよ。 >>355 中国も北の方は民族が入れ替わってるからな。
所謂「北狄」の侵入で元々中原に居た漢民族は南に逃げて
逃げずに居残った漢民族は匈奴、鮮卑、蒙古、女真、満州族と混血してる。
だから古典中国語、いわゆる漢文と現代中国語は文法も音韻も異なっている。
南の方に逃げた福建人(閩=門の中に虫)や広東に逃げた広東語をしゃべる
連中や山の中など辺鄙なところに隠れた客家語をしゃべる連中の方が
古い中原の中国語を伝承してる。
朝鮮語の漢字の発音はいくら遡ってもモンゴル統治時代の発音より古いのはない。
明時代の文語(書き言葉)の発音を朝鮮訛りで発音してるだけ。 >>323
>人類の祖はアフリカから
それは時代遅れ
その説はミトコンドリアDNAの解析の結果唱えられたもの。
ミトコンドリアDNAは母系遺伝で父系遺伝ではない。
ミトコンドリアDNAで祖先をたどっていった結果アフリカに行きついたというだけの
古いテクニックの遺伝子分析の結果人類の女の遺伝子がアフリカ起源というだけ。
細胞核のDNAは父母両方の祖先を遡れるが技術が開発されたのが
ほんの数年前なので古い学説がいまだに跋扈しているのが現状。 なんか日本人に嫌われていない台湾人とチベット人が憎くて憎くて仕方がない
『 あの人ら 』の民族が一匹混じってるね。 ↑さり気に自らを持ち上げ、ウソウソ朝鮮人レッテルに勤しむ台湾褐色ブタ広鼻
知ってる日本人は台湾ブタなんか大嫌いですんで。
ネットステマばっかりやってるこのステマブタが。
さっさと日本から出てけよこのステマブタ広鼻が。 n,-,
, '´ 〈
(( o i i
`ヽ| i__ | ちんぽこぽん
ζ, '´i´ cノヽ
'、 _'、_ ノ
u  ̄ U 姜とは周の太公望呂尚の一族ではないか。
斉を支配していたが、田氏にダマされて滅ぼされ、
一部が日本に逃げてきていたということか? サイエンスZEROで
縄文人の細胞核DNAが分析に成功とか言ってた
日本人の細胞核DNAはアジア人でも特殊だったとか 赤畑氏VLPを使った技術で画期的ワクチン開発中
また秦氏か 秦氏の人が常染色体を鑑定するとkoreaの反応とか出るのかな? 秦氏に限らず、
あまり断言、断定しないほうが良い
エミシ、アイヌ・・・ロシアの人?ギリシャ? >>359
>所謂「北狄」の侵入で元々中原に居た漢民族は南に逃げて
逆逆
むしろ漢民族が北狄の地を侵略、同化していったのが今の中国人
>だから古典中国語、いわゆる漢文と現代中国語は文法も音韻も異なっている。
>南の方に逃げた福建人(閩=門の中に虫)や広東に逃げた広東語をしゃべる
福建や広東は征服された南越や南蛮の末裔だろ >>374
発音が日本の「音読み」に一番似ているのが客家語だと思うわ。
ただ、それって新しい時代だけどね。
稲作が各地に広まったのは、漢字が普及する前のことだ。
少なくとも周よりは前だ。
殷代以前の神話の時代ってのが、案外正しいのだろうな。
殷の前の騒乱で、民族がばらばらになって各地に散った。
先々で彼らは稲作を始めたが、「中国語使用者ではなかった」
インドや東南アジアや日本に伝わったのは古い言葉。
大野晋の説は、一部正しく一部間違い。
「インドから伝わった」のではなく、長江河口一帯からインドと日本に伝わったと
いうのが正しい。彼らはO1の持ち主だった。 O
o と
。 ,. -ー冖'⌒'ー-、 思
,ノ \ う
/ ,r‐へへく⌒'¬、 ヽ キ
{ノ へ.._、 ,,/~` 〉 } ,r=-、 モ
/プ ̄`y'¨Y´ ̄ヽ―}j=く /,ミ=/ オ
ノ /レ'>-〈_ュ`ー‐' リ,イ} 〃 / タ
/ _勺 イ;;∵r;==、、∴'∵; シ 〃 / で
,/ └' ノ \ こ¨` ノ{ー--、〃__/ あ
人__/ー┬ 个-、__,,.. ‐'´ 〃`ァーァー\ っ
. / |/ |::::::|、 〃 /:::::/ ヽ た 8つの秦氏族が居てて、それぞれ特技を持っていました、織物や
土木建築、商売など >>376
じゃあ何で最古水田に長江の中粒種も農具も鬲鼎などの三足炊飯器も一切伝わってないの?
江南ブタ広鼻突顎巨大タラコ唇ブタ顔原人の詐欺詐欺タイワピーノの方。 秦氏の故郷は新羅。
秦氏が遺した須恵器に全部書いてある。
秦氏の遺した須恵器は新羅あたりで生産されていた朝鮮陶質土器の器種器形文様デザインと一致している。 稲荷=INRI説はどうなるんじゃ
祇園祭がやたらペルシャ臭がするのが気になる 祇園祭のゴブリン織などは、安土桃山時代以降に出てきたものだぞ。
時代が違うだろうが。 いさらい井戸やら大避神社やらローマ・景教を思わせる太秦って字に説明は欲しいよな
新羅で景教が主流だったってことかな 秦氏が弓月君が長なのは日本書紀にかいてある
当時弓月国という国がキルギス辺りにあってここのことじゃないかというのが佐伯好郎説
位置的にシルクロードで西方に近いためユダヤ教なり原始キリスト教の影響があっただろう
鞍馬の天狗がユダヤのラビそっくりなのもあわせて考えるといろいろつじつまがあってしまう
日本の歴史界ではどういう扱いなんだろ 山伏の装束がユダヤの僧侶そっくりなんだよ
まー景教を学んだ空海が持ち込んだのかもなー シナの孔子とか孫子といっても、春秋時代に突如一斉に発生している。
周王朝が亡びかかったとき、西方のキルギスあたりの騎馬民族が侵略・
侵入した時に、ペルシャ、ヘレニズム、インド文明を持ち込んだことは
歴史上の事実だ。
シナ文明も独自のものではなく、他の文明に大きな影響を受けている。
日本も同じように、様々な文明の影響を受けて今日がある。 「嘘はいけないよ」
という書き込みを見たことがあるでしょ
すべて秦氏一人、一族が持ち込んだものなの? 本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
辰州、奉国軍、節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世勣攻破蓋牟城、即此。
渤海改為蓋州、又改辰州、以辰韓得名。
高句麗の蓋牟城は遼寧省撫順市に比定されており、その位置は鞍山市の北東である
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg 西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう? 百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
劉仁軌自ら「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾(遼東湾)のことだ
公州の西の海を遼海と呼ぶのならインド洋も遼海だ
なお言うまでもないが、劉仁軌の役職は檢校「帶方州」刺史だった
扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口
熊津江(熊岳河)と白江(浮渡河)とは開口部が違う川である
熊津江を出て白江に向かったところ白江の口で倭兵と遭遇したのだ
通説の錦江説は合っていますか?白江の上流に熊津江があるのではありません
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
(蘇)定方自城山濟海、至熊津江口=蘇定方が平定した百済もまた遼東半島である
通説が正しいならばこの箇所は「至白江口」となる。白江=錦江説、アウト
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
白村江への旅程については何も書かず、いきなりワープしているではないか!
宇宙船艦ヤマトのようにワープしている時点で作文確定!
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/6Q0x678.jpg 倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい 「アイヌ人と渡来人の混血は7世紀が始まり」…遺伝学研究所
2015年08月24日 16時52分
http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/1/0/10761.html
国立遺伝学研究所と東京大学の共同チームは、アイヌ人や日本列島本土人の遺伝情報を解析した結果、
遺伝子配列の違いから、縄文人の子孫と見られるアイヌ人と、弥生人の子孫とされる渡来人の混血は、7世紀に始まったと推定する研究結果を8月24日までに発表した。
日本列島には、おもに北海道に住むアイヌ人、琉球諸島のオキナワ人、日本各地に分布して生息する本土人の3種類の人類集団が居住している。
国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのチームは、性染色体以外の遺伝情報を調べて、60万カ所で見られる遺伝子配列の違いを解析した。
その結果、毛髪と歯、顔の造形に関係する2つの遺伝子の近くに存在する塩基配列が異なる部分の解析から、アイヌ人と日本列島本土人には大きな違いがあることが判明した。
研究チームは、アイヌ人を縄文人(採集狩猟民)の子孫、中国大陸から渡来した漢民族や朝鮮民族を、弥生人(農耕民)の子孫と仮定した場合、
日本列島本土人における縄文人の遺伝的割合は約20%に達し、これら二つの民族の混血は、少なくとも55世代前、すなわち7世紀ごろに始まったものと突き止めた。
斎藤教授は「遺伝子解析の結果、アイヌ人が東アジアのなかで独自の系統的位置を占めていることが明確に示された」と話している。
なおこの論文は日本人類遺伝学会が発行する「Journal of Human Genetics」電子版に掲載された。
国立遺伝学研究所と東大の共同チームが日本列島本土人の混血モデルを解析した図(国立遺伝学研究所の論文より作成)
http://www.hazardlab.jp/contents/post_info/1/0/7/10761/%E6%B7%B7%E8%A1%80.jpg DNAY染色体(男系)とミトコンドリア(女系)で変遷が追えますよ。
農学部の生物系と文学部の民族系で解釈が異なるんだが、
日本人の血統的ルーツは染色体はハプログループD。
拠点はイスラエルのあたりから南沙経由でモンゴルと日本が終着点。
文学部の民俗学だとモンゴルから中国韓国そして日本と教わる。
ただそうすると遺伝子学上矛盾が生じてしまう。
理由は染色体上朝鮮と日本の差は7万年の開きがあある。
日本位最も近い遺伝子のE型でさえ6万年前のイスラエルの方が近い。
中国朝鮮は大陸経由。日本南沙はアラビア海経由。
日本は昔中国と繋がっていたという説があるが、
日本はそもそも数万年前海溝に堆積物が溜まってできた島で、
日本列島の動きにも繋がっていたとう言う説は現在では聖徳太子像が聖徳太子ではない
という理由からお札の図柄から消えたのと等しいほど最近わかったこと。
マントルの対流が万年単位で変化することはまず無いという理論上でも、地質学でも
大陸とは縁が無い日本列島。学者達にはかなり異質な島なんだってさ。
今じゃ世界各地から日本人になりすましてる連中も多いけど、血液の遺伝情報解析すれば、
バレるご時世。 >>388
ああ、コレコレ。一昨年解明された。
遺伝上は生みの親でも育ての親でも無い他人だったって事。
数万年はあまり移動することもなく生きていたんだね。
キリスト教が生まれて以降の話しか出てこないけど、
それ以前の暮らしはもっと平和でゆっくりとしていて豊かだったかもしれないな。
だからこそ記録が残らず口伝えで歌が残るとか。 日本とユダヤは関係無いと決めつける人もいるけど、
http://rapt-neo.com/?p=17361
農学部や理学部で遺伝の解析勉強もしていないパーが、
言葉の綾で言いたいことをほざく連中は、科学で駆逐してやるのが一番だな。 秦氏とはもはや関係もなくコピペを貼ってドヤ顔をするスレ 人類が北アフリカから広がるときに獣道のようなのが自然に出来上がっていったはず
その後に、バビロンに攻められたユダヤ人がシルクロードを通って日本を目指したのではなく
祭祀族や商売人として生活しているうちに一部が自然と日本に到達したのだろう
それで道の所々にユダヤ人の集落が存在している
秦の始皇帝から派遣されたのが物部氏で、始皇帝から逃げてきたのが半島経由の凶暴な秦氏
企業名に「三」が入ってるのが秦氏が三位一体神を信じるユダヤ人だと主張するものらしい
安倍も次男なのに三が入ってる 武田の家紋にも三本線
大成建設のロゴには縦に三本線 サムスンに半導体技術を与えた東芝は三井
サムスンは三星 三井のトヨタのロゴは輪っかが3つ
これは何とも言えんな
三井の三柱鳥居は3本というより
3方向から参拝できるとか正美が言うから線でなくてもいいのか なぜ、日本人はこれほど桜を愛するのか?
ぱっと咲いてぱっと散る潔さとかいうけど
じつは桜にそっくりの花がアーモンドの花
ぱっと見、見分けがつかないぐらいにそっくり
そしてアーモンドの原産はアジア西南部、
アジア南西部から渡来したのが秦氏
秦氏に刻まれた民族の遺伝子が遠い過去の美意識を蘇らせて
桜を愛でる
そう考えてみるのはどうだろう じゃあ何で秦氏はアジア南西部の土器を作らず、新羅あたりの土器なんか作ってるのさw >>407
空を飛んできたわけではなくて、朝鮮を通過してきたから
通過した土地の技術を習得した
>>408
有能な支族は縁戚関係を結んで栄えた
増えるにつれて様々な苗字を名乗った
408も10代前には1024人の先祖がいることになるよ
その中に秦氏はいないかな 1024人中一人でも秦氏がいれば嗜好が秦氏寄りになるのか
どんだけ遺伝子強いんだよ >>410
可能性があるという話
どの遺伝子が現れるのか
まあ、日本人にはかなり多いんじゃないかと思ってる
秦氏は流浪の民だから土地がなかった
つまり、技術や技芸で生き抜くしかなかった
それは現代の日本人にも通じている そんな可能性でいいなら物部氏でも藤原氏でもなんでも構わないじゃないか 話を聞いてあり得ると思った人だけ納得すればいい
古代史のことなんて証拠はなかなか難しいんだから
将来の遺伝子の優性研究の解明に期待する 日本人の最も大切なもの 義 美 善
この最も大切な字に必ずついているのが羊の字だ
なぜなのか?
善という字の成り立ちをネットでみると神にささげられた羊〜という説明がでてくる
景教を伝えた秦氏が漢字の成り立ちにかかわった
そう考えるのはどうだろう 仮説は良いんだけど、仮説の上に仮説を重ねても可能性は低くなるだけだよ 秦氏は技術者集団
次々と技術を吸収できる人達だったからこそ
酒造、機織、土木等の技術を持っていた
須恵器なんかもその一部だろう
現代の技術立国日本を名乗るのもその影響
ただ技術立国と言っても全員が技術者でないのはあたりまえ ちょっと違うな。
次々と技術を吸収できる人たちは倭人自身でしょ。
吸収するだけじゃなく、オリジナルを超えていく力がある人たち。
単に半島人はその材料を提供してくれただけで。 倭人にそんな力があるなら何で朝鮮に隣接しておいて九州に強力な朝鮮コピー国家をつくらない?
何で畿内に朝鮮や中国の模倣国家が出現する?
これはつまり畿内の文化模倣の担い手が倭人ではないということだろう 異国の文化の模倣によって独自の文化をつくり上げる例は高句麗においても見られる
例えば古墳壁画がそれだ
高句麗には元々中国の郡県があり、5世紀頃くらいまでは中国風の古墳壁画が描かれるが、
こういうの↓
http://leekcp.new21.org/zb41/data/rheo/120.jpg
http://leekcp.new21.org/zb41/data/rheo/119.jpg
これが独自の発展を遂げて7世紀ぐらいになるとこうなる↓
http://leekcp.new21.org/zb41/data/rheo/121.jpg
こういう精度の古墳壁画は中国においては見られず、高句麗にしかない
装飾品のレベルでいうと新羅もかなりすごい 日本、チベットにみられて中国、朝鮮にはみられないY染色体のハプロD
このハプロDはアフリカ-イラン-中央アジアのどこかにおいてハプログループDEから別れて
内陸ルートを通って東アジアへ向かったとされている
おそらく日本人に特徴的にみられるのは秦氏によってもたらされたのだろう
中国、朝鮮人にみられないことから新羅、高句麗は無関係
これで桜や善の字の仮説も日本人とつながったのがわかると思う
やがて遺伝子の解明がすすめばよりはっきりしてくるでしょう 426が正解。
しかも最初に入ってきたのは半島からなんです。
その15000年くらい後に樺太からも入ってきました。
この樺太経由の集団が縄文土器をもたらしたんです。 氷河期には日本海は無かった
朝鮮半島も存在しなかった そんな事言われなくても百も承知。
ただ入ってきた西日本に一番近かったのは川一本挟んだ今の朝鮮半島の部分です。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ アナタ タイワン カエル カエル
タイワン カエル カエル カエル
アナタ ニホン デテク デテク
ニホン デテク デテク デテク 天皇家も秦氏も(秦の始皇帝の末裔)古代イスラエルより中国・朝鮮半島を渡って来た
渡来系民族であるととyoutubeで見ました。
ということは同じDNA、または親戚ということでしょうか? >>432
天皇は4万年前から日本に土着してる
秦氏は古墳時代あたりに日本に来た 出雲族は4000年前の南インドをルーツに、
アーリア人のインド亜大陸侵入によって故郷を逐われ、
シルクロード(南ルート)〜バイカル湖に至り、
北回りで北海道から本州に渡来。
日本海側を南下して出雲地方に定着化したのが約三千年前と言います。
数百年を経て勢力を拡げやがて王制/王国を始めたのが2600有余年前。
、、、日本列島最古の王国の誕生。
(神武の即位年代は出雲のそれを横領したもの(出雲は母系で天皇家に連綿と繋がる)。)
物部/天皇家は(秦帝国からきた)徐氏。
徐福(天御中主、イザナギ、天照皇大神、スサノオ、ホアカリ、ニギハヤヒ、ニニギ(ニギハヤヒ/ホアカリ(古代出雲王国の正副二人の王を殺害して転覆〜簒奪(失敗)を図った大罪人。全国指名手配)を隠蔽するために創作)、、、)
が2度目に渡来時(大船団は有明海に入港。佐賀に上陸)に引率した三千人の中には
当時のあらゆる職能の人がいた(弥生時代の始まり?)。
また、その人の森林?に自身の親兄弟親戚縁者を
紛れ込ませて2度もペテンにかけた始皇帝の虎口からまんまと逃避行
(始皇帝を2度もタブらかして秦帝国の国庫を傾けさせて巨万の財宝、資金を騙してせしめた上)。
2度目に渡来した際には出雲王国の分家、宗像初代のカタアタスの末娘、市杵島媛命(イザナミ(二人目)。豊玉姫、玉依姫/サヨリ姫。弁天さん、、、他(日本史上、大変重要なポジションのお方))と婚姻して生まれたのがホホデミ命(九州の物部/天皇家の祖)と
ホヤ媛命(父親、徐福が初回渡来時に出雲王家の姫と成した兄の五十猛/カゴヤマに嫁ぎ生まれたのが
天村雲命(丹波から?葛城(大和)に入植して初代の大和国大王と成った(神武のモデルの1人目)。
天皇家系譜の神武〜9代は実際には天村雲命に始まる大和国(中、長国)大王家の系譜)) 秦の始皇帝の下で万里の長城を作っていた種族。それが朝鮮半島へ南下し秦韓を建国、
その後日本へ渡ってきた。
だから土木工事が得意。 呂尚や漢の時代に羌は別個に存在したから
古羌と羌は分けて考えたほうがいい 大秦ローマとユダヤ、秦王朝、氐族前秦と羌族後秦、秦韓
どの西戎民族の秦が秦氏の始祖なの? シュメールを連呼しようと山東だろ
蜀→斉→日本なのか
殷→斉→日本なのか知らないが
殷なら羌の敵だから羌にはならないが 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
GT08L 秦河勝のハプロを公開してる系列からしたら趙のエイ姓らしい
趙のエイ姓の場合は秦との血縁は有り得ないから焚書坑儒から逃れた人なのだろうか >>443
全て外れ
むしろ始皇帝に祖国を追われた奴ら とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
CLP 中国と接点のない朝鮮人の秦氏が摂家にいるようだからややこしい 大分豊後の穢多頭であった秦惣兵衛が剣術道場を開き、
全国から部落の「牢守」などを集めて武道の訓練を行っていたことがわかっている。 始皇帝の子孫は嘘やろな 子孫は完全に項羽に皆殺しにされてた上、地理的にも離れすぎてないか
どうですか秦氏の方々 太秦や秦氏は同時代の後秦が由来。
日本と羌族は兄弟。 ご歓談中失礼します
高麗専門の専スレが立ちましたので宣伝に参りました
各地域お詳しい方々とも是非ワールドワイドにお話し出来たらと思っております
ご興味あられましたらお立ち寄りくださいませ
高麗時代史専用スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1556797827/ >>458
宮城谷昌光の小説では扶蘇の生き残りが描かれています
後宮に大勢女を囲っている皇帝のすべての子孫を殺すなど出来ないということでしょう
また、秦が最後に滅ぼしたのは山東省にあった斉国であり徐福が出向したのも山東半島からと言われています
ここらへんからも秦から逃れようと大勢が船に乗って出航したのかもしれません
対面は今で言う大連のある遼東もあり、東にいけば日本ではあります 〜プヨもチュモンも日本とは無関係! むしろ半島の伝説はすべて「日本書紀」からパクった妄想だった♪〜
高麗大学の金鉉球と鄭大均の両教授は、
「漢文の書き方から見ても三韓の建国神話は日本書紀を模倣して書かれたものであることは明白であり、
現代の歴史教育における三韓史も日本書紀を土台としつつ、感情的に受け入れられない部分を削除し、
ただ根拠もなく三韓が日本に文化を伝えたと改ざんした捏造史である」と断言しています。
また「日本書紀」に引用されていることを理由に百済三書を事更にもてはやそうとする朝鮮ヒトモドキも多いですが、
朝鮮半島最古の歴史書である三国史記には、「百済開国已来、未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記
(百済は開国以来、東普の高興博士が書記を記録するために訪れるまで文字で記録を残したことはなかった)」
と明記されており、こんにちでは百済三書の存在自体の信憑性は低いと断定されています。
加えて朱蒙伝説なるものが神武伝説の元になっていると強弁する朝鮮ヒトモドキも散見されますが、
「論衡」「後漢書」「魏略」に記録されている東明は扶余族の東明であって、
高句麗初代王の東明(朱蒙)と混同するのは彼らの民族的願望であり事実ではありません。
やはり金教授と鄭教授の指摘にあるように、
朱蒙伝説も三国史記編纂時になってから「日本書紀」を模倣して創作された伝説と見るべきでしょう。
なお、百済三書(百済記、百済新撰、百済本記)は日本書紀の引用文献として名前が上がっている以外に存在を証明するものがなく、
「天皇」や「日本」と表現している点、漢音ではなく呉音で表記されている点などを勘案すると、
日本書紀の権威付けのために日本書紀編纂者が創作した文献であり、実在はしていなかったとするのが現在の定説です。 >>463の補足資料
一方の日本(倭国)の文字文化はというと、魏志倭人伝には次のような記述があり、
この時代に既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことが理解できます。
「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」、
「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」、
「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」、
「銀印青綬を仮し」、
「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」、
「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」、
「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」、
「檄を以て壹与を告喩す。」
このように魏志倭人伝には繰り返し後漢や魏から詔・詔書が出され、印綬が下賜されたことが記され、
それに対して倭国からは「上表」文が出されています。
従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたと断言できるのです。
おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことに疑いの余地はありません。
よって日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の
最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説である学説に値します。
筑前中域には次のような文字文化受容の痕跡である遺物が出土しています。
志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)、
室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)、
井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数
これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な文字文化の痕跡を有すのは筑前中域であり、
この地域を邪馬壹国に比定すべきとの結論に至らざるを得ません。 :∧∽∧:
:< ∩∩ >. アイゴー
:(´__ノ ノ.:
:ム_)_):
∧∽∧ ウリナリが考えた
〃,< ∩Д´> 最高の捏造史が
/(_.ノ ィ \ また論破されたニダ・・・
⊂こ_)_)`ヽ.つ
アイゴーーーーー!!!!!
:∧∽∧:
:<、 ⌒ヽo:
:(_,,ィ、__つつ
ニダーリ
∧∽∧ 今ちょっと
⊂⌒<ヽ `∀´> かわいそうと思ったニカ?
`ヽ_つ ⊂ノ その気持ちを大事にするニダ! どこの池沼(勢力?)なんだ?
家の老婆は『神仙界』・・・?
この話をしているんだけど、むかーしから知っていたみたいだし そこらのブログみたら、秦氏はヘブライ語話してたと書いてあるけど、秦氏はヘブライ語を話してたんか。 草津節のチョイナ、チョイナの囃子がヘブライ語やというのもあるが、まさかな。 ちなみに池沼というのは・・・w
>>467
お前のような人間のことを言っているんだよ 秦氏のハタは、機織りのハタという人もいる。
これは、布を織る機械のことをハタと呼んでいるということのようだ。
しかし、機の漢音はキだし、この機をハタと読んだ例がどこかにあるのかな。
布を幟(のぼり)に用いたものはハタ(旗)と呼ぶが、その布を織る機をハタと読むのはどうも腑に落ちんわ。 >>468,472
川崎の重度統合失調症症患者「松傾」は午前中に首を吊れ
前から何度も何度も、繰り返し繰り返し「死ね!」と命令されているだろう?
むしろ松傾へのレスは「首を吊って死ね」以外にないではないか
なぜ素直に命令をを聞いて死ぬことができないんだ??
いくら無能な統合失調症症患者とは言え、
日本語くらい読めるのだろう???
これだけ多くの者達に死ね!と命令されているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろよ松傾 秦氏がユダヤ教徒だったらしいということから、ユダヤ人の意味のヘブライ語のユフディが日本でヤハダ(八幡)と発音され、そのハダが秦氏の一族名となったという説がある。
しかし、この説にはユフディとヤハダをつなぐ流れの変化の論証が欠落していて、強引な説のようにも見える。
そもそも、ヘブライ語は5世紀頃には文章語となっていて、口語としては使われなくなっていたという説がある。
今のヘブライ語は、その文章語から人為的に復元した口語で、現代になって現れた言葉のようだ。
いずれにしても、ユフディからヤハダ(八幡)への変化の論証が必要だろう。
つまるところ、ハタ(秦)の由来は、いまだ解明されていないということだ。 旗をハタと読むのは、なぜか。
ハタ(旗)は、布地を幟(のぼり)としたものの呼び名だ。
では、旗をハタと呼ぶのはなぜか。
布はヌノだし、またはキレ(布)の呼び名もある。
幟(旗)の布がハタハタと風で動くことから、旗をハタと呼ぶとの説がある。
ヤハタ(八幡)は広い旗、多数の旗という意味だろうから、このハタ(旗)を一族の名にしたのであれば、ヘブライ語のユダヤ人を意味するユフディがヤハダ(八幡)に変化したとする説とは語源的にまったくつながらないということになる。 元からユダラ説はオカルト分野であって歴史学や考古学、民俗学ではないし ここで、別の角度からハタ(旗)の発音をみると、服部(はっとり)の言葉が気になる。
ハットリ(服部)は、ハタオリ(機織り)が元だそうだ。
とすると、ハットリ(服部)の字には機部の字が当てられてもよさそうだが、その機部の字はみられず、ハタの音には服の字が当てられている。
機の字にはハタの呼び名はなかったとするのが妥当だ。
そこで、ハタの音に服の字が当てられていることからすると、衣服を作る布地にハタの呼び名があった可能性がある。
一方では、布を幟(のぼり)として用いた旗の呼び名がハタであるので、服をハタと読むこととよく似ており、服を作る布地のことをハタと呼んだ可能性が高くなる。
この可能性に着目すれば、やはりユダヤ人という意味のヘブライ語ユフディにはつながって行かないようにみえる。 初めから無関係なのに、やたらと否定材料積み上げられてるユダヤ人さんが可哀想(笑) どやら、ハタ(旗)、ハタ(服)の発音の由来は、布地の呼び名であった可能性が浮上してくる。
しかし、布地そのものをハタと呼んだ例はみられないのではないか。
では、布を織ることをハタと呼んだのか。
織機の動く音がパタンと鳴ることから、パタの音がハタになって、それが織物、すなわち布地の呼び名となったということになるが、そうなのか。
縦糸を上下させる足踏機なら、そのような音が出るかもれないが、縦糸を上下させるための竿を紐で吊る型のものではそのような音は出ないのではないか。
そのように考えると、布を織ることをハタと呼んだとすることは可能性が低いことになる。
このようなことを想定すると、衣服を作る布地自体をハタと呼んだと考えるのが妥当ではないか。
そうなると、布地自体をなぜハタと呼んだのかということになるが、最も短絡的な答えは、ハタ(秦)氏が作ったハタ印の布地だからハタと呼んだというものだ。
この答えに立てば、秦氏のハタの由来は何かというそもそもの疑問に戻ることになる。
秦氏のハタは、ユダヤ人という意味のヘブライ語に由来しているとする説は論証不足であることは先に示したので、ヘブライ語のユダヤ人由来説は除外するのがよいと思われる。 479さんが指摘されていることは、もっともなことだと思う。
ただ、秦氏がユダヤ教徒であった可能性は、低くないと思う。 >>481
秦教はベースにユダヤの痕跡があるって程度の道教でしょ >>479
別に告白もしてないのに勝手にフラレる的な乱暴さ(笑) 秋田じゃ「ハタハタ」っていう深海魚が良く食べられるけど漢字では「鰰」と書かれる
元々は雷の多い季節に来るから雷魚とも書かれていたとか、昔は雷が轟くことを「ハタタク」と言ったとか、雷様=霹靂神(ハタタガミ)だから「鰰」とか、そんな由来らしい
そして「波太多雷魚」とか「波多波多」とも書く
なんか賀茂別雷神社を連想してしまう、賀茂氏は秦氏と関係が深いし、祭神の神話は雷鳴とともに降ってきた矢が川伝いにタマヨリ姫の元へ→ご懐妊
秦氏と関係の深い日吉大社も、祭神の大山咋神は「鳴り鏑を持つ」とわざわざ注記してるのも、矢を射る=雷を射つ→雷様みたいなもんでしょ
そんなに秦氏は雷系の神様やら神社やらを作りたがったんだなって思う
秦氏関連の神社の隅に申し訳ついでみたいな感じでスサノオ祀ってるのも、スサノオがある意味雷神だからだよね
ギリシャ神話(ゼウス)含めて世界中で雷神の神話はあるけど、秦氏が祀ってる雷神は一体どこから来たんだろう
はたまた完全なる創作なのか 秦氏は、当時の雷の意味の日本語を充ててハタと読ませただけかもね 今日のハタ諸説は面白い
他のスレはチョンコが暴れ回ってて見るに堪えない 風神(はためく)、雷神(はたたく)、ともにハタハタなのね 秦氏が関係してる稲荷神社も
元が「射鳴り」だったら面白い イザナギが黄泉で腐って8つの雷神を生んだけど
それが八幡の由来だったら面白い 雷が落ちた場所は稲がよく実る
稲は雷ひと光で一寸伸びる
稲妻
イナリとカミナリは関係してそう 稲荷は、稲光だという説もあるしね。
稲光のあとに雷が鳴るから、稲荷山は雷神山かもね。
うん、この雷ハタ説は、いままでで一番リアルな説だね。 しかしながら、雷はヤハウェの力を示すものだとするのが旧約聖書だけどね。
モーゼがエジプトのファラオにヤハウェの力を示すために、杖を頭上に振り上げるととたんに大雷鳴が起こり、雹を降らせてエジプトの作物に大被害を与えたとされている。
なので、秦氏がユダヤ教徒だったとしたら、秦氏が雷(大山咋神)を松尾大社に祀っているのは実は大山咋の雷神ではなく、それは擬制であって、実はユダヤ教の神の力を示す雷だとすることも可能だけれどね。 雷
ttp://jiagumima.com/UploadFiles/2015-05/281/20155269170190798.gif >>494
GIFだからアニメーションだと思って1分ほど待機しちまったじゃねぇか 松尾大社で雷神として祀られている大山咋神はヤハウェの力を表す象徴としての雷だとみなすとすれば、
ユダヤ教徒の秦氏のハタは、雷の多発時期である11月によく獲れるハタハタに由来するものではないとしてもOKになる。
そこでまた、秦氏のハタの由来について、強力な説の登場が待たれるということになる。
ちなみに、ヘブライ語で雷はbarak、raamであるので、ハタの発音はない。 >>498
まあ、そういう説もあるということになるな。
雷=ハタハタ説は、秦氏=ユダヤ教徒説を否定できるだけ強力な説ではなくなったというわけ。 秦氏=ユダヤ教徒説は、相当根拠があるようにみえる。 >>502
説も何も、雷の古語だっつってんのに頭悪いの?
>>503
そういう本をムーが出版してて
そういうブログを電波系が書きまくってるから
バカな便乗君は多そう ユダヤ教と神道には共通点がある!系の記事どこ見ても、そんなん大抵の宗教に共通してね?みたいな冷める内容ばっかりだから信用してない >>507
え、ここがそのオカルトコーナーとちゃうの。 今や、マジで聖書考古学なんて分野の学問もあるご時世。
秦氏=ユダヤ教徒説などごく当たり前の時代。
ユダヤとオカルトをごっちゃにしてる60年代青年の頭は古いぞ。 >>509
それ昔ちょっと騒がれただけの説であって通説では無いからね そもそも昔の氏族は血の繋がり無いことも多いから、彼らの末裔だと自称している人たちも(ゆかりがあるにせよ血としては)どうなのかなって疑問
大和に来た1万某の秦氏ってのも、そもそも全員が親族って訳じゃないだろうし来日時点で色々ちゃんぽんになってたんじゃないのかね 秦氏は追い出されたユダヤ末裔だった説も古代アステカ人は日本人だった説もミステリーとしては面白いけど、ミステリー止まりでリアリティ無いんだよね 太秦木嶋の三本柱鳥居が有名だが、ユダヤ教の聖数が3であることは、つとに有名。
秦氏がなんで三本柱の鳥居をわざわざ造ったか。
答えは、おのずと明らかだな。 ムーの受け売りをリピートするしかできない住人まじでツマンネ こうかもね?ああかもね?そうかもね?おもしろいね!ってスレなのに
絶対こうだこうに違いないって固執して押し付けたがるオカルト信者は頭おかしいから出ていってほしい
ユダヤ人なら聖書やロザリオ持参してるだろ >>515
世界中で3は特別な数字なんだけど
色の三原色、三大美人、トライアングル、みんなユダヤ関わってんのか?
ひなまつりはユダヤ祭りとか
東京タワーはユダヤタワーとか
三十三観音はユダヤ観音とか
3丁目のタマはユダヤのタマとか言い出しそうだな 記紀で三本足とは書かれていない八咫烏(8咫サイズの烏)が、いつの間にか三本足になったのは秦氏関係してるんだろうなとは思う
高句麗ってか古代中国の三足鳥を秦氏が持ってきたんだと思う
ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6b/Emperor_Jimmu.jpg
ttps://blogimg.goo.ne.jp/image/upload/f_auto,q_auto,t_image_sp_entry/v1/user_image/65/b0/348a46d81004b2a1f78319c15c03b16a.jpg >>517
そらすまなんだな。
そのヘブライ語やその他の言語で書かれた5,6世紀の聖書は、これまでに日本で発見されてないしな。
ロザリオのようなものもないよな。
秦氏が、正体わかるようなものを放出するわけないよ。
秦氏はどこかへ隠したな〜んてな。 >>518
いや、陰謀論はいくらでもあるから、世界の3の信奉者は彼らかも知れんぞ。 >>520
そうだよな、あの三本足カラスは秦氏の仕込み、という考えは支持する。 日本でいうと『浦島太郎』
龍宮〜歳とって〜何やらでしょ 千葉県芝山の古墳から出た人物埴輪。
帽子かぶってもみあげ長く伸ばして、そして顎鬚はやした姿はユダヤ教の超正統派とうり二つ。
しかもや、その埴輪が出た前方後円墳に巡らしてある周溝が長方形ときた日には、もう疑えんわ。
前方後円墳の周溝が長方形やぞ。
長方形がユダヤ教の幕屋を表してるのは、ムーでも定説というくらいのもの。
過去にユダヤ教徒が来てないなんて思うのは、いまどき、頭の片栗粉くらいだわな。
それらしいデータそろえたら、そら、のけぞるぞ。 >>524
ウィキの「三足烏」をみたら、中国漢代にすでに三足烏が知られていたことがわかるな〜。
しかも、エジプト神話にも、三足烏はすでにあるらしい。 >>1
秦氏の起源まではわからない、
エジプト人だったのかもしれないし、
・・・・・・・・・・?ギリシャ? >>522
彼らかもしれない、くらいのことで彼らじゃないかもしれないことを主張されてもねえ 多種多様な職能技術を日本に持ってきてるから、技術者スカウトしながら仲間を増やして次の町へ系だったんじゃ?ポケモンマスター 秦氏はアフリカから来た
俺もお前もコイツもアイツもソイツもみーんなアフリカから来た
完 >>515
三本柱の鳥居?
もしかして密教系の両部鳥居(四脚鳥居)のこと言ってる? >>530
あ、3の信奉者は長嶋ファンにもいたな。
あれもフリーメーソンかも知れん。 >>535
四脚鳥居は、見た目には鳥居が倒れんように、支えの柱を取り付けてあるように見える。
一方、太秦木嶋神社の池に建てられている三柱鳥居は、その意味がよう分からんようやな。 >>538
ここ、渡来人の話することやから、秦氏の話はOKなんや。
秦氏がユダヤ教徒だったかどうかは、キワメテ重要やろうな。 >>529
ユーチューブに挙がっている大避神社の能面は秦河勝が持ってきたと伝わる逸品だが、髪の毛が巻き毛ぽいし、目も円い。
ギリシャ系の神のように見えるしな。 秦氏ユダヤ教徒説を妙に否定する人は、もしかしたら正体暴かれとうない秦氏系の回し者かもしれんし。
ちょっと、きいつけんと。 >>530
せっかく、謙遜して(かもしれんし)と言ってるのが分からん神経て、極太2ミリのボールペンか。 日本史とか神社とかの勉強してると
何かと出てくるね秦氏 >>289
なんか分かる
元はアマテラスとツクヨミで対になってたのに
秦氏がスサノオを捩じ込んだのではと思ってしまった >>458
家系図の最初に神様を書いちゃってる系の氏族は大抵が嘘だと思ってる
それと同じで始皇帝の子孫は無いと思う >>549
最初は弓月君だったからなあ。
それがいつの間にか秦になっている。
太秦の漢字を用いたときには、もう始皇帝の子孫を名乗っていたのかな。 Wikipedia
>渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。
>(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとする。) >>551
魚の由来からヒントを得てるだけで
古語に「はたたく」という言葉があるのは事実
読解力大丈夫か… >>69
>>74
>>324
おもしろい
Wikipediaには
>雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。
と書かれていたから元の漢字は違ったんだね
ちなみに禹都萬佐の禹は雌竜と雄竜を表した漢字だそう >>553
古語のハタタクの由来は、(羽叩く)だな。
羽ばたくと同じ。
この雷鳴を指す動詞のハタタクは、略しては使われていないな。
竹取物語では(はたたく空の)と書かれている。
だから、このハタタクが太秦の秦氏のハタになったというのは、無理。
秋田のハタハタは、このハタタクを略した秋田方言のハタの畳語だろう。
京都の秦氏がこの秋田方言を自分ら一族の名としたことは、まああり得んと思うわ。
つまり、秦氏のハタとハタタクは別ということだな。 >>555
再掲すれば、雷鳴がする=ハタタク。
動詞だな。
そして、この(雷鳴がする=ハタタク)の動詞が、名詞化して雷鳴=ハタとなったということはない。
なぜなら、雷鳴=ハタとしている名詞はないからだ。
ちゃんと検証してから言うんだな。
頭、大丈夫かね。 >>324
本当だ
>貞観12年(638年)に景教は唐により公認され、唐朝は資金を援助し、長安に寺院が建立された。
>この段階では波斯寺(あるいは波斯経寺、波斯はペルシアのこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われていなかった。
>景教は当初ペルシア人によって伝えられたものであることから多分にペルシア化したキリスト教であったが、
>漢訳景教経典も遺存していることから、その教義の全貌も解明されてきている。
>それによれば、景教は仏教や道家(老子や荘子の思想)のことばも採用し、さらに、皇帝には忠を、親には孝を説くなど儒家の要素もあって、多分に中国化している。 ハタタ(擬音語)からハタタク(動詞)になってるんだけど…
ユダヤ教の人ほんとに作り話と決めつけが好きだね… >>555
お前が無理だわ
オカ板にユダヤ教スレ作って勝手にやってろよ
都合の悪い気に入らない説に嘘で攻撃して荒らすな
いちいち文体もキモいし嘘っぽいし不信感を与えるレスしかしないから何も信用できんわ
お前の語りには誰ひとり納得する住人いないのにアスペなのか?
つーか自分の信じる説だけが絶対に正しい他は正しくないと思いたいならブログで語っとけや 禹都萬佐
都を治水し万(よろず)のことを助けるの意味らしい >>558
ハタタという擬音語はないよ。
いいかげんなこというなよ。
人の揚げ足取りに熱中する君は、なんか性格に欠陥がありそうだ。
病院に行ってきたまえ。 >>561
平安時代の新撰姓氏録では(禹都萬佐)だけど、奈良時代の日本書紀では(禹豆麻佐)になってるね。
ウズマサの意味は、この万葉仮名の字からは分からないね。 >>564
禹豆=ウツ、禹都=ウツ。
麻佐=マサ、萬佐=マサ。
このウツ+マサの意味が問題。
最近は、古代に日本語に多数流入した外国語から和語とされる語彙の意味を解く流れになっている。
秦氏は渡来人だから、渡来前から話していた口語によって秦氏関連の語彙の意味を探るのがいい。
秦氏は中央アジアを通って渡来したふしがある。
5世紀前後の中央アジアの言葉ではチュルク語がある。
そのチュルク語の中のトルコ語でみてみると、ウヅマサはウヅ=3、マサ=机、となる。
ウヅマサは、(3つの机)の意味とすることができる。
そして、秦氏はユダヤ教徒という説もみられるので、その線から考えると、(3つの机)は(3つの祭壇)を指しているとすることができる。
ユダヤ教では、神に礼拝をするとき幕屋を設け、その中に契約の箱をおき、その手前の幕屋の入り口付近から犠牲を焼く祭壇、パンを奉げるための机、香を焚くための祭壇が順に置かれる。
これをみると、(3つの机)は、この(3つの祭壇)を指していることが考えられる。
つまり、(幕屋での礼拝)を意味していることになる。
ということは、太秦(うづまさ)とは、(幕屋での礼拝)を示すトルコ語だとすることができる。
秦氏は太秦の地を、神を礼拝する(幕屋の地)としたということになってくる。
この解釈は、当時すでに文章語となっていたヘブライ語から解釈するよりも、ずっとリアルだ。
秦氏が話していた言葉は、トルコ語だったと考えられる。 ちょっと検索すればバレるのに無かったことにしたいんだね
精選版 日本国語大辞典
はたた‐がみ【霹靂神】
〘名〙 (「はたたく神」の意) 激しい雷。へきれき。はたがみ。はたはたがみ。はたたがみなり。《季・夏》 〔色葉字類抄(1177‐81)〕
※御伽草子・御曹子島渡(室町時代物語集所収)(室町末)「ささやくこゑはいかつちのごとく、いかれば百せんまんのはたたかみ、なりわたりたるごとくにて」
はたはた‐がみ【霹靂神】
〘名〙 =はたたがみ(霹靂神)
※史料編纂所本人天眼目抄(1471‐73)七「青天白日晴れきったに、はたはたがみ鳴(なって)いな光りがしわたったぞ」 >>538
>>540
妄想も入ってるみたいだし触らない方が良いのかも なんか発言するたびにヤハウェさんにキモい長文レス付けられてストレス
お前とは話してない >>572
お前が話しかけてくるな。
消えてちょうだい。 >>568
800年代後半から900年代の後半までに書かれた「竹取物語」では、「はたたたく空」と書いてある。
どっちが古いのか。 こだわりと思い込みが激しくて一方的に喋るキモヲタとは会話にならないことが多いけど、ここ見てるとその良い例だなあと思う そういうことじゃないんだよなーっていう方向に持っていくから周りを辟易とさせて距離を置かれるやつ そういう奴ほど構ってちゃんなんだよな
いちいちアンカー付けてくる >>574
普段よく神経質とかアスペとか言われない?
まるで電車と列車は違うってキレ出すオタクみたいだよ
本人議論してるつもりかもしれないけど困った人の癇癪みたいになってるよ 学研全訳古語辞典
はたた−がみ 【霹靂神】名詞
激しく鳴りとどろく雷。◆「はたた」は激しい音の擬音語。
学研を否定 >>485-486
Weblioによると、矢が当たる音の表現にも「はた」が使われたみたい
矢を射る、雷を射つ、感覚的に似ていたのかもね
はた−と 副詞
@ぱしっと。どんと。▽ものとものとがぶつかり合う音の形容。また、勢いよく打ったり切ったりなどする音の形容。
出典平家物語 四・鵼
「手ごたへしてはたとあたる」
[訳] (矢が)命中したという感じがしてぱしっと当たる。 神と雷と蛇と竜
「かみなり」は「神鳴り」、「いかづち」は「厳(いか)つ霊(ち)」から出た語で、古代人が雷を、神威の現れと考えていたことによる。
貴公子たちの求婚「六月(みなづき)の照りはたたくにも障(さは)らず来たり」-出典竹取物語
[訳] 六月の日光が照りつけ雷が激しく鳴り響くのにも妨げられないでやって来た。◆擬声語の「はたた」を活用させた語。
雄略「その雷(かみ)光りひろめきて」-日本書紀
[訳] その(大蛇は)雷のような音をたて光がぴかっと光って。
竜の頸の玉「竜(たつ)は鳴る雷(かみ)のるいにこそあれ」-出典竹取物語
[訳] 竜は雷の同類であったのだ
浄瑠璃のこと良く知らないけど、「近松門左衛門の世話浄瑠璃に見られるオノマトペの特徴」を読んだら、
はたと、はつた、はたはた、は力強い動作や勢いのある動作表現に使われていたらしい
機織りのハタも打ち付ける擬音から来ているのやも?
(キリギリスは機織り虫と呼ばれていたらしいし)
これらを踏まえて神社の由緒や祭神を調べると面白そう >>581
雷をハタと書いてる例を示せばいいだけ。
ごちゃごちゃ言う間あったら、例を出せよ。
脳tallinnだから、無理か。 >>582
「人天眼目」は中国宋代の1188年になったものらしいな。
その中の「霹靂」について、日本で解説したが「人天眼目抄」もののようだ。
その日本での解釈が、1471年頃ということになるな。
しかし、それより700年近く前に書かれた「竹取物語」に書かれている(はたたく)の語彙のほうが、ようがより古く信頼できると思わんのか。
太秦の秦氏が渡来したのは5世紀初頭前後やから、それから400年後くらいに書かれたのが「竹取物語」や。
「人天眼目抄」は秦氏の渡来より1000年も後の解説書であり、竹取物語と比べたら700年後になる。
どっちを採るのがよいか明らかだわな。 秦氏がトルコ語を話すユダヤ教徒だった確率は、相当高いな。
スヅマサは、幕屋の祭壇の意味だよ。
それに、秦氏の神体山である松尾山のマツオは、ユダヤ教徒にとって非常に重要な種無しパンのマッツオと発音が酷似している。
出エジプト記の巻頭を飾るのがマッツオだ。
松尾山は、そのマッツオに松尾と漢字をかぶせたものだな。 ブログ行けとか
オカ板行けとか言われてんのにまだいる… 決めつけた攻撃的な物言いするから反発されてるのに、分かってないんだな >>584
機織りは、先にハタって音があって、そこに漢字をあてられたらしいからね >>324
>>557
秦氏かどうかということは置いといて、とにかくペルシアから宗教弾圧で逃げた集団が唐に受け入れられて長安にペルシア寺=波斯(後のローマ寺=大秦寺)を建てたんだね
そこで現地の口語や漢文を使いこなし、仏教、道教、儒教の概念も吸収して、なんて凄い集団
この集団が日本に来た秦氏と同じ集団だったのかは分からないけど、日本書記には百済から来たって記されてたよね
せっかく受け入れられた長安でも何かと弾圧されて百済に逃げた者たちがいるってことなのかな
散りぢりになりそうだけど一纏まりで移動してたんだろうか 例えば、その大秦寺に隷属して使われていた身分の者たちだったりとか、大秦寺の恩恵を受けていた何者かだったりとか、ってことは無いのかな
ちょっと前の日本とはシステム違うだろうけど 9世紀半ばからみたいだわ
景教が弾圧されたのは
>9世紀半ばに即位した武宗は道教に傾斜し、仏教をはじめ他の宗教を弾圧(会昌の廃仏)。
>景教も例に漏れず弾圧を受け、多くの大秦寺が破壊される。その際に碑は土中に埋没したと考えられている。 大秦景教流行中国碑にはエストランゲロ体(他に2種類ある)のシリア文字が記されているらしい 弓月君とか言ってる人と、弓月国の人と、波斯(ペルシャ)から来た大秦寺の人と、大秦国のユダヤ人は、それぞれ違う人らなんじゃ?
ttps://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/img/1263098537.jpg 皇室の遠縁のナントカ宮です〜とか自称してた無関係の民間人が詐欺か何かでニュースになってたり
秀吉も姓を貰うまでは源氏ッス平家ッスとか言ってた逸話あったりするし、
秦氏と無関係でも秦氏って名乗っとけみたいな奴もいたんじゃないのかね?渡来人かなりの数だったらしいし 旅籠(はたご)は古い語彙。
この旅を(はた)と読んでいるのが意味深だよ。
秦氏のハタと関連がありそうだな。
旅の字をどいうわけでハタと読んだのかってことが、秦氏の謎を解くカギだと思うわ。 ちょっと調べたので纏めてみた
ハタゴ:旅籠(当て字?※1)/波太古(万葉仮名)/篼(元の漢字)
奈良時代…篼は馬の餌である秣を入れて旅に用いたため旅籠とも書く
平安時代…人の食料を入れたものも旅籠と呼ぶようになる
室町辞典…木賃宿(米持参+薪代で素泊まりできる宿)が流行る
鎌倉時代…木賃宿+馬と人の賄い飯=旅籠となる(表に秣の入った飼い葉桶が出ている)
「旅」=分解すると「方人 人人 ※2」となる
「篼」=日本の漢字辞典には無く由来の調べ付かず
「秣」=まぐさ(馬草・馬の餌になる草)のこと
※1:満州に「1グサ」という単位があり中国語訳で「1旗」、もしその読みが伝わっていたなら、馬草籠→秣籠→草籠→旗籠→旅籠と表記が揺れた経緯があるのでは?
※2:旗を持つ人に付いていく人々を表現しているので、旅に旗は付きもの→うっかりハタと訓じたのでは?
ちなみに面白かった隠語大辞典(皓星社)
>旅篭 はたご
>非人乞丐ノ徒ガ、平常山間又ハ野末ノ神社仏堂境内等ニ仮泊スル場所ヲ云フ。〔第五類 一般建物〕
>非人乞食の徒が、平常山間又は野末の神社仏堂境内等に仮泊する場所をいふ。〔犯罪語〕
>山門、神社、仏閣等に於て非人、乞食が集る所を云ふ。
>神社、仏閣等において乞食の集るところをいう。 調べもしないでバカの一つ覚えみたいに何でも秦と結びつけるのはどうかと思う
ちなみにハタが付く地名の殆んどは秦氏と無関係であるので注意と地名語源の本には書かれていた >>601
秦氏は、ギリシャ系かペルシャ系のトルコ語を話す改宗ユダヤ教徒だと想定している。
その想定に基づいて、トルコ語で解釈してみると、次のように解釈ができる。
旅籠(はたご)の(ご)は、(かご=籠)の(ご)だとみなすことができる。
そうすると、旅(はた)は、(はた)の音に旅の漢字を当てたものであることが分かる。
(はた)の言葉に旅の意味があったことが推測できる。
そこで、トルコ語で旅を意味する語彙を探すと、seyahat(セヤハット)がみられる。
seyahat(セヤハット)は、旅行、旅を意味する言葉。
このseyahatを分解すると、seyah(?)+at(馬)の構成であることが分かる。
seyahat(旅)は、at(馬)を使って行ったことから生じた言葉であるとみることができる。
大陸での旅は、馬に乗って移動することであったということだろう。
ここで意味が不明なのが、seyah(セヤフ)。
seyah(セヤフ)とは、何かが問題。
続く >>601
seyah(セヤフ)は意味不明であるが、このseyahにyを付け加えてseyyah(セイヤ)とすると、
このseyyah(セイヤ)は旅行者、旅人、巡礼者の意味であるので、
seyahat(セヤハット)のseyahの元字をこのseyyahだとみなした場合、seyahatの語彙はseyyah(旅人)+at(馬)であったことを推測することができ、
seyahat(セヤハット)の言葉になぜ旅行、旅の意味があるのかが分かることになる。
ここで最初に戻り、(はたご=旅籠)の(はた)の音に旅の字を当てていることから、(はたご=旅籠)の(はた)の発音には旅の意味があったことを想定した。
そして、その(はた)の音になぜ旅の意味があるのかが、問題であった。
そこで、上のseyahat(セヤハット=旅)の語頭のseyaを省略するとhat(ハト=旅)となり、このseyahhatのhat(ハト=旅)と旅籠(はたご)の(はた=旅)は発音、意味ともにほとんど同じである。
このことから、馬の飼料に(はた)の言葉を当て、この(はた)に旅の字を当てたのは、馬の飼料に当てた(はた)の言葉に元々旅の意味があったからであり、
その(はた)がトルコ語のseyahat(セヤハット=旅)のhat(ハト=旅)に由来すると考えれば、なぜ(はたご=旅籠)の(はた)に旅の意味があるのかとの疑問に答えを出すことが可能となる。
秦氏は、馬を用いた運送業も行っていたことが知られている。
その馬の飼料を手当てしたのが秦氏の配下であったことから、馬の飼料を(はた)と呼び、その飼料を入れた籠も(はたかご・はたご)と呼ぶようになり、この(はたご)に旅籠と漢字を当てるようになったのは
元々からこの(はた)の言葉に旅の意味があったからだと理解すれば分かりやすい。
つまり、漢字が日本にもたらされた当時、(はた)氏の(はた)は旅を意味していると知られていたということを示していると考えることが可能だ。
秦氏の(はた)の由来は、トルコ語のseyahat(セヤハット=旅)の短縮形の(ハト=旅)であり、その(ハト)が(はた)と変化したものだと考えることができる。 >>582
その(はたた)の語源は、羽搏く・羽叩くだとされている。
羽+叩く。
雷の呼び名がハタであったことを示す例文はみあたらない。 ずっと雷と同義だって話で進んでるのにアスペルガーなのか >>606
知らんがな。
雷=ハタの語彙は見当たらん。 >>604
都合の良いように言葉の一部を勝手に省略してみた☆って感じに聞こえるけど、「トルコ語のseyahat(セヤハット=旅)の短縮形の(ハト=旅)であり、」の短縮形は実際トルコ語には無いんだよね?
セヤフも意味不明って自分で言ってるし、こじつけすぎじゃない? 構ってやらなくていい
電波系は肯定を渇望してるだけだから何も話が通じない
壊れきったレディオと命名する >>608
省略したのは、日本に来てからの話。
セヤハットは、日本語の発音では長すぎる。
ハトの2音が一番発音しやすい。
問題ない。 >>610
次から名前欄に壊れきったレディオって入れて >>614
ウヅマサのウヅも、トルコ語の数詞3。
マサは机。
ウヅマサはトルコ語で(3つの机)。
幕屋の礼拝の意味。
みんな、トルコ語でリアルに謎が解ける。
ついでに、秦氏が交易航路として力を入れた対馬海峡の2番目の島は、壱岐(いき)。
そこでトルコ語をみると、数詞の2がiki(イキ)。
秦氏がトルコ語を話した改宗ユダヤ教徒だったことは、まず間違いない。 >>600
(はたご=旅籠)の意味について、辞書などによって微妙に内容が異なるものとなっている。
電子辞書などでは、「旅行のとき、馬の餌を入れて運んだ竹籠」というものが多い。
一方、平安時代の和名抄では、「(はたご)は飼馬籠也。波太古。俗に旅籠の二の字を用いる」とし、
ブリタニカ国際大百科事典では「(はた)は馬の餌、(ご)は籠である」としている。
和名抄やブリタニカでは「旅行のとき、馬の餌を入れて運んだ竹籠」の解説の中の「旅行のとき」という言葉は記述されていない。
和名抄では、明確に「(はたご)は飼馬籠也」とだけ書いている。
つまり、(旅のときに用いる飼馬籠)とは限定していない。
(はたご)という言葉は、馬の餌を入れた籠の意味だとしか言っていない。
そして、この(はたご)に、俗に旅籠という漢字を当てていると説明しているのである。
ということは、(はた)という言葉に旅という意味付けがなされているということになる。
電子辞書などの解説と、倭名抄やブリタニカの解説は微妙に内容が異なるということである。 >>610
このことからすると、ハタ(秦)氏のハタは(旅する者)という意味のトルコ語seyahat(セヤハット)に由来するもので、このseyahat(セヤハット=旅行・旅)とは、おそらく(交易で各地を旅する者=交易者)という意味だったのではないか。
交易を生業としながら、カザフ平原からアルタイを経て、東の海辺の地である日本を目指したユダヤ教徒だったのが、このハタ(秦)氏だということになるのだろう。 ■イスラエル国家機関が本気で注目するチャン族
チャン族は、前述の地域以外にも同州の各地に居住しており、シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属するチャン語を話している。もともと人口は30万人程度だが、四川大地震でその約30%を失ったうえ、多くの住居が倒壊するなど甚大な被害を受けた。
このチャン族が「失われた10支族」の末裔ではないかと主張しているのは、他ならぬイスラエルの国家機関「AMISHAV(アミシャーブ、アミシャブ)」だ。 チャン族は、農暦(中国暦)の10月1日を新年とするが、これはユダヤ暦で7番目の月(9月か10月)を新年と定めている点に類似する。
他にも、山の頂上に築いた自然石の祭壇で神に犠牲を捧げる点、さらに家屋の扉の側柱に血を振りかけて家内安全を祈る点に至っては、ユダヤ人の「過越祭」とまったく同じだ。
ちなみに、これと似た風習は沖縄にも残されており、血に浸した木の枝や家畜の骨を家の戸口や集落の出入り口に吊るす「カンカー(看過)」という行為も、イスラエルとのつながりを感じさせ興味深いところだ。 ■10支族→チャン族→日本人 驚きのつながりが見えた!
このように、チャン族の信仰や生活には、古代イスラエルの民と共通する要素が実に多い。そして特筆すべきは、その一部が日本の文化でも見られることだろう。チャン族と日本人にも共通点が実に多いのだ。
まず、その容姿だ。チャン族の女性には美人が多いことで知られるが、その中には日本の女優にいても不思議ではない顔立ちの人がいる。また、チャン族には天孫降臨神話も受け継がれており、自ら「天孫」を自認している。 イスラエルが注目するチャン族は羌族
羌族といえば太公望
太公望といえば周王に今は山東省と呼ばれる地域に領土を貰って移住
山東省ではラクダの彫り物が出土
太公望といえば斉国
斉国は始皇帝に最後に滅ぼされた国である
山東半島の対面は遼東半島であり船で東に向かえば日本の北九州
ラクダの彫り物が出土した山東省からはコーカソイド白人のDNAを持つ人骨が発掘されている
もう分かりましたよね? 秦氏は羌族であり海ではなく遼東半島経由で南下し日本に渡ってきたユダヤ系の末裔と言える集団でした。 秦氏は、ギリシャ系かペルシャ系のトルコ語を話す改宗ユダヤ教徒だろう。
おそらく、間違いない。
秦氏の成功は、産業生産物を交易物として全国にさばいた点にある。
馬を用いて生産物を伊勢に運んだ事例がみえる。
こうした交易活動は、カザフ平原からアルタイにかけての交易生業でつちかった在り方であり、在来の日本人には真似のできないシステムだった。
4世紀後半頃から朝鮮半島を経た交易に応神政権が力を注ぐのは、秦氏による海外交易の富に目覚めたからだ。
秦氏が政権に影響を与えたということだろう。
応神政権の成立そのものが秦氏の影響を受けたものであった可能性も考えるべきだな。 もう誰も相手にしてくれなくなったな
こんなキチがいたら過疎るわ >>627
ワイの高邁な研究成果に、皆がついて来れないだけ。 >>624
そこらに、いっぱい転がっとる。
あれこれ、拾って研究してみたまえ。 日ユ同祖論を展開した言語学者の佐伯好郎がこれこそはと打ち上げたのが太秦広隆寺境内にあった井戸の名で、その井戸の名は(いさら井)だった。
(いさら井)は、ヘブライ語のイスラエルの音写だと考えたのだ。
確かに、(いさら井)とイスラエルの発音はよく似ている。
しかし、日本語の古語には(いさら)という語彙があり、この(いさら)は(水量が少ない)という意味の言葉だとされている。
つまり、(いさら)は(いささか)という語彙と同系だとみられているのだ。
そこで、(いさら井)は、水の量が少ない井戸という意味になるという。
こういうことから、広隆寺境内の(いさら井)が(イスラエル)の音写だとする佐伯学者の説は、まったく無視されてしまったのだ。
学識豊な言語学者が、日本語と外国語の関連に触れるとなぜかトンデモ説に陥るというパターンはタミル語の大野晋でも起こった。
しかし、そうだろうか。この学者たちは、時代が早すぎたのではないか。
現在では、日本語と外国語の関連をコンピュータを使って解析する時代に入っている。
そういうことであるのだが、依然として頭にクモの巣が張った素人どもは、日ユ同祖論をオカルトと同レベルに置いてあざ笑う始末。
こうした素人どもは、遊ばせておいて、マジに佐伯学者の(いさら井)に再挑戦してみることにしよう。
続く 佐伯学者は、(いさら井)がイスラエルの音写だと考えたわけだが、(いさら井)に対応する語彙の選択を誤ったのだろう。
秦氏がユダヤ教徒だったとみなした場合、太秦の広隆寺の境内はイスラエルという王国に対応させるよりは、むしろユダヤ教徒の聖地であるエルサレムに対応させたほうがリアルだ。
広隆寺の境内をエルサレムとみなすと、エルサレムにとって生命線となる水を得る場所はシロアムの池だった。
エルサレムから少し離れたところにあるギボンの泉に湧く水が城内のシロアムの池に流れ込んで、その池を満たしていた。
ところが、前701年にアッシリアがエルサレム包囲戦を行い、干乾しになるのを恐れたイスラエルのヒゼキア王がギボンの泉から城内のシロアムの池まで地下水道を掘って、干乾しになるのを防いでアッシリアの包囲戦を戦った。
そういうわけで、シロアムの池はユダヤ人にとっては伝説の聖池だった。
そこで、広隆寺境内をエルサレムに対応させた場合、その(いさら井)はシロアムの池に対応することになるのだ。
そして、シロアムの池は完全に防衛されたエルサレムの象徴であったから、シロアムの池はエルサレムの命そのものを表す表象となる。
そこで、ヘブライ語のエルサレムの発音をみると、yerushalayim(イェルシャライム)だそうだ。
ル音は軽く、ライムのイ音はほとんど聞こえない。
イェシャラームと聞こえる。
この発音ならば、(いさら)に近い。
秦氏をユダヤ教徒と想定すると、広隆寺境内をエルサレムに見立て、(いさら井)はシロアムの池に見立てる構図を描くことができる。
そうなると、そのシロアムの池に見立てた井戸をもって(いさら井=水が少ない井戸)と呼び、実は(イシャラ=イスラエル)の発声としていた可能性を想定することもできる。
つまり、(いさら井)は、エルサレムの池(シロアムの池)ということになってくるのだ。
秦氏は、このような擬制を各所で行っているようにみえる。
以上が、佐伯学者に続く、太秦広隆寺の(いさら井)の謎の解明の達成だ。
エルサレムのほうが、イスラエルよりもはるかにリアルな解釈といえる。
わははははは。 >>632
訂正
23行目〜24行目の(イシャラ=イスラエル)は、(イシャラ=エルサレム)が正しい。 >>630
まあ、掲示板は会話交流が目的というより、一種のマウンディングの闘いだからね。
つまり、交流サイトとはまた違う面がある。 普段常駐してるスレは楽しく雑談が回ってるけど、ここは特殊だよ
まず会話になってないもん
会話する気が無くて押し付けたいだけのキチガイが居座ってるからマトモな人がいなくなっていく >>636
じや、黙っているから、きみら会話を楽しみたまえ。
わはははは。 >>625
>>626
単純すぎます
そもそもコーカソイドの定義を理解してるのですか?
コーカソイド=白人ではないです
セム系は色黒でコーカソイドではない! とか言うんでしょうね
そんな単純ではないのですよ
そもそもユダヤ人の始祖アブラハムの一族は現イランの出身でありアラブ人ではないですし
アラブ系でもコーカソイドに分類される人は多いです
コーカソイドのユダヤ人も古代より大勢いました
古代よりギリシャ語圏やローマ帝国領土にユダヤ人は多く住んでいました
紀元前三〜二世紀には離散ユダヤ人のために各地で旧約聖書はギリシャ語に翻訳されています > ユダヤ人はコーカソイドじゃないよ
こんなこと言い切れるわけ無いでしょう
そもそもユダヤ人とは十氏族いましたし 胆汁に言っても北と南では別の民族だった混合体ですよ?
何もご存じないようだ 呆れました ユダヤ人は母親がユダヤ系なら子供もユダヤ人なので どんどん混血したことでしょう > 白人系ユダヤ人がまだ登場していない紀元1世紀前後、古代ローマ帝国でユダヤ独立戦争があり、
大敗を喫したオリジナル・ユダヤ人(オリエンタル・ユダヤ人)たちは徹底的に追放されたわけだが、
この迫害により離散したユダヤ人のうち、イベリア半島(スペイン)に移住したオリエンタル・ユダヤ人(セム系民族)の子孫を「スファラディ系ユダヤ人」という。
この頃から白人とも混血しております
スファラディは東ローマ帝国があった現トルコ領のイスタンブール辺りでの活躍は有名です
ペルシャ帝国でも商人や宮廷で活躍した彼らは迫害を逃れるためどんどん東に向かっていきました
インドやアフガニスタンでも大量のユダヤ人が確認されております コーカソイドのユダヤ人はオリエントの世界で山ほどいました また西域で中国とつながるアフガニスタン人の多くは現在はイスラム教徒ですが自分がアブラハムの子孫であると主張しています
彼らの多くは今でもラクダに乗り長距離を移動します 彼らはイラン人やインド人(の一部)と同様にコーカソイドに分類されます 彼らコーカソイドのユダヤ商人や血を引くラクダや羊を連れた牧畜民が中国に古代より来ておりました
それは確実なのです NGワード:ユダヤ,コーカソイド,トルコ,イスラエル,ヤハウェ,間違いない
言っとくけど構ってる奴も荒らしだからな ↑ 何ということでしょう 中国は漢人だけの国だとでも思い込んどるんかな この人は 哀れすぎるね なんだよ、会話が途切れたな。
一人二役の会話か。
もう、誰もおらん。
わははははは。 広隆寺境内=エルサレム
いさら井=エルサレムの池(シロアム池)
この図式は、これまでにない新しい秦氏=ユダヤ教徒説の根拠になるな。
太秦(うづまさ)のウヅ=数詞3
太秦(うずまさ)=3っの机(幕屋の礼拝)
三柱鳥居の三=ユダヤ教の聖数3
松尾山=マッツオ(出エジプトの種無しパン)
もはや、太秦(うずまさ)は秦氏が作った日本におけるユダヤ教の聖地だということは明らかだ。 秦氏はトルコ語を話すユダヤ教徒であったと想定しているが、チュルク系遊牧部族がいたカザフステップを4世紀頃に東へ進んできたことが推測される。
弓月国があったとされるタリム盆地は、4世紀頃には高車と呼ばれるチュルク系部族がいたところだ。
秦氏のトルコ語は、これらのチュルク系遊牧部族の中を交易しながら通ってきたときに獲得した言葉だとみられる。
一方、改宗したユダヤ教徒がみられるのは、トルコの黒海沿岸東部だ。
2000年前頃にこの地方にギリシャ人やペルシャ人が移住して、彼らはペルシャから来たユダヤ人によってユダヤ教徒に改宗したとされている。
そして紀元300年頃にはユダヤ共同体がこの地方に形成されていたようだ。
この改宗ユダヤ教徒は、700年代になるとカスピ海北岸のカザフステップのハザール地方へ移住することになる。
この結果、ハザール王国がユダヤ教に改宗して、アシュケナジー系ユダヤ人が誕生したとされている。
紀元300年頃にそのユダヤ共同体から離れた一派が、交易を行いながらカザフステップのチュルク系遊牧部族地帯を東へ進み、やがて300年代中頃にはタリム盆地の弓月国に達したのが弓月君の集団だったと想定するのである。
したがって、秦氏のルーツは、ギリシャ系かイラン系の改宗ユダヤ教徒ではないかということになるのだ。
これは、従来の秦氏ユダヤ人説とは大きく異なるものであるが、おそらく間違いないだろう。 日ユ同祖論は、DNA的にあり得ない。
だから、却下。
秦氏のルーツを調べようと思ったら、
日本に数多くいる秦氏の男系子孫のY染色体を調べるのが
手っ取り早い。
薩摩の島津氏は惟宗氏の末裔と言われ
惟宗氏は秦氏の末裔と言われている。 >>651
秦氏の先祖がカザフ平原などを東進するうちに抱え込んだ者たちはDNA的には多様なものであったと思われるな。
DNAから識別できるのは、特定の司祭階層だけだろう。
DNAだけで日ユ同祖論を論じるのは危険。 >>653
あのサイトは信憑性ないけど
まあ、ユダヤとは無関係なのは確か。 普通に考えて韓国人でしょ。韓国人より中国人、て思いたいの? 辰韓は『後漢書』に残る音写からするとシナチベット語族じゃないのか? 秦氏がユダヤ教徒であった可能性は高い。
4世紀末〜5世紀頃に景教はまだ中国に来ていないから、ユダヤ教からキリスト教徒への改宗者だったとは考えにくい。
この頃には、日本への交易ルートはアルタイ〜カザフ平原系が明確。
カスピ海北岸あたりを通って来たユダヤ教徒だろうな。 >>656
朝鮮半島から色んな奴らが来てるのは間違いないけど、それが何人なのかは分からないと思うよ
朝鮮を通ればルート的に対馬経由して日本入りしやすいからね >>659
秦氏が渡来人であるのは間違いないし、その渡来人がトルコ語を話していたとすると、モンゴルより西から来た人だと確定して誤りはないな。
そして、そのトルコ語を話す渡来人である秦氏の周辺にはユダヤ教の影が濃いとなると、渡来時期の4世紀後半を考えた場合、かれらの出発地はカザフ平原より西の可能性が高くなるね。 一神教にこだわってた気配がまるで無いから
せいぜいユダヤの知識があるという程度だと思う シルクロードやら朝鮮やら通ってくる人らは大抵ユダヤ知識あったんじゃないかね 満州先生の新刊「馬韓も百済も満州にあった」が限定100部で発売中ですよ。
Amazonのみの発売なので、売り切れる前に君も買おう! ユダヤ教徒じゃないと、旧約聖書のエピソードや幕屋などの知識はないのじゃないの。
みな、自分とこの宗教で手一杯だし。
ゾロアスター教徒が、ユダヤ教のエルサレムなんて感知しないと思うけどね。 無宗教のフラフラしてた人らはいなかったのかな。改宗する人だって良くいたのではないの。そこの土地の人間とうまくやっていくには宗教を含む文化を取り込まないといけないしね。 >>666
日本に定着してから、日本の文化との折り合いをうまくつけたのかも。
ユダヤ教徒が自分たちの宗教をなかなか手放さなかったから、あちこちで摩擦が生じた。
しかしそれが、アニミズムの日本ではかれらの宗教はそれなりに認められて敵対的関係にならなかったので、かれらも融和的な在り方になったのだろう。 日ユ同祖論みたいなトンデモが蔓延する背景を知りたいね。
たぶん、時代によって、違ってきている。
もともとは、日本人にキリスト教を広めるために
生み出されたものだった。
しかし、最近は、日本人が中韓との類似性を否定するために
日ユ同祖論に飛びつくことによって
自分たちは中韓と違うんだと言いたいがために
飛びついているとしか思えない。 >>669
背景として、イスラエルが世界に散った同胞を探し出して、本国に迎えるという政策を取っていることがあるようだ。
失われた十支族の行方の研究についても、その政策の一環がみてとれる。
こうしたイスラエル側の動きが、新しいムーブメントの要因の一つを形作っているな。
かつてのトンデモ説とは異なるリアルさが加わったようだ。 「満州先生の新刊が出たらしいぜ」
「それを先に言えよ! 早く買わなきゃ売り切れちまうじゃないか!」
≪「馬韓も百済も満州にあった」が限定100部で発売≫ >>669
学者の皆さんにも根拠に欠けすぎてると言われてるアレか
イスラエル側も説の一つとして昔は有力視したみたいだけど結局根拠に乏しいってことで時間だけが経過してるよね
説としては面白いしロマンあるけど、絶対そうだそうに違いないと思い込んでる人たちは新興宗教じみてて気持ち悪い >>672
まあ、時期は遅れるが、ペルシャ系景教徒が中国の開封に来て、そこで長らく定着していたのは事実なんだし、秦氏が4世紀後半頃に日本に渡来し、やや遅れて漢氏なども渡来したのも事実。
この渡来者たちと、時の政権の政策や経済動向などがリンクしていた可能性は非常に高いね。
もちろん、彼らは日本では協調的に暮らしたのだろう。
そこらが面白いところよ。
ただ、ユダヤ人と日本人が元のところで同族だというのは、これは飛躍しすぎだ。 >>669
それは一理ある
囲碁板をみていると面白いよ
囲碁はチョンゲーだの日本で人気がないのは当然なんだのと必死に書き込んでいる
バカネトウヨが常駐している
囲碁は清少納言から徳川家康、大久保利通まで趣味にしていたものなのにね
どうしても「日本は中韓とは根本から違うんだ 日本民族は優秀なんだ 世界囲碁ランクで韓国が日本よりも強いのは囲碁が日本のゲームじゃないからだ」と感情的に思い込みたいようだ それ。面白い説なのに狂信者のせいで台無しになってる 人類兄弟といえば、んじゃオレ兄貴なとかなんとか言い出すやつもいるからな。 >>669
ユダヤ人の子孫では?と言われるのが秦国から徐福に引率されて渡来した秦族と物部。
秦族は徐福が初回、出雲、山陰地域に渡来した際に引率されてきた二千人の人たちの子孫。
物部は同じく徐福が二回目の渡来を果たして九州の佐賀に上陸、吉野ヶ里を本拠地とした際に引率されてきた三千人の人たちの子孫。
どちらも秦帝国が平定した国旧斎国/山東半島の人たち
スサノオ。は、キキ神話編纂に際して徐福=ニギハヤヒ/ホアカリとは書けない事情から、オツムを悩ました結果、
徐福の出身地の蘇州(そしゅう)を反転した州蘇をスソ(スサ)の男とし、スサノオを考案したらしい。
蘇州の蘇、イスラエル/ユダヤを暗示する文字だとか? 日ユ同祖論、英ユ同祖論、中ソ同祖論
どれもこれもトンデモ説。
世界中で詐欺やっているなw
そのくせして、唯一、信憑性がある
アラブユダヤ同祖論は、あまり主張したがらないw >>678
もう、いい加減にしろと言いたいw
日ユ同祖論みたいなトンデモ説、
これだけDNAの研究が進歩して
とっくに否定されているのにw
なぜ、こんな胡散臭い説にしがみ付くのか、
知りたいねw 日本人のY染色体を調べて
徐福伝説、日ユ同祖論も
どれもこれも無理のある説ってのが
DNA的に証明されている。
分子時計からみて、日本人のY染色体で、
徐福のいた時代に日本へ渡来してきたであろうY染色体は
現在の日本人の中に殆ど皆無といってよい。
つまり、彼らの渡来伝承は嘘か、あるいは渡来しても、
日本の主流派になれずに消えていったと、みられているわけ。 >>682
秦始皇帝を祖先とする氏族があるから、さすがに徐福を祖先にする渡来人はおらんな。
徐福を祖先とする氏族が一人二人くらいいてもいいのに、と思ったらなんと一人いた。
徐福の孫の古座侍郎という者がこれだが、崇神のときに紀州から三河へ移ったとされる。
しかし、それ以降、徐福を祖先にしたその古座氏は歴史から消えてしまったという怪談。 始皇帝の直系の子孫はいないけど。
日ユ同祖論は、血縁じゃないけど古代中東の
文化を共有はしてる感じ。
神道関連の諸々の概念は弥生時代ぐらいに
入って来たものなんじゃね。 秦氏トルコ語話者ユダヤ教徒説からすると、旧約聖書出エジプト記最後のエピソードの(モーゼがめざしたユダヤ人入植の約束の土地)は武蔵(むさし)だったことが分かる。
というのも、トルコ語でモーゼはmusa(ムサ)であり、そして、このムサに方向を示す倭語の(し)を加えたムサシは(モーゼの方向=モーゼがめざした所)の意味になり、
このムサシに漢字を当てたのが武蔵(むさし)だからだ。
この武蔵の国は今の関東地方に当たるのだが、しかし、秦氏が考えた本来のムサシの国(モーゼが目指した国)は、
どうも千葉県中部の九十九里浜にある横芝光町あたりであった形跡があるのだ。
この横芝光町あたりには木戸川が東西に流れ、その河口は九十九里浜に注いでいる。
そして、木戸川の上流には6世紀後半の有名な芝山古墳群など多数の古墳群がある。
この古墳群のうちの最大の前方後円墳である殿塚古墳の場合、ユダヤ教の超正統派的な姿をした人物埴輪が出土しているうえに、
その前方後円墳の周溝が二重の荘重さに加えてなんと形が長方形なのだ。
前方後円墳の周濠は、盾形であるのが普通なのだが、それが長方形という珍しさなのである。
しかも、長方形はユダヤ教では幕屋を表す表象でもあり、超正統派的な姿の人物埴輪と合わせて、
この古墳群の築造集団がユダヤ教徒であった気配が濃厚なのである。
そこで、秦氏が名付けたとみられるムサシの国(モーゼが目指した国=武蔵国)に関連して、この芝山古墳群のある横芝光町あたりの古代の国名に注目すると、
驚くべき国名が現れるのだ。
続く >>684
最近は、神社の神はユダヤ教の影響があるとする説が目立つ。
それで、その影響の始まりが弥生だということらしい。
弥生時代に、すでにユダヤ教徒が渡来していたのかな〜。 横芝光町などの木戸川周辺は、6世紀頃には武社国とされ、その地方を治めた者は武社国造と書かれている。
武社はブシャではなくムサと読むようだ。
この武社国造(ムサノミヤツコ)には、和邇氏系の人物が就任して牟邪臣(ムサノオミ)の臣姓が授けられている。
臣は最高の位だ。
どうも、大和朝廷の東北地方編入政策の関東の根拠地がこの武社国(ムサのクニ)で、
海上航路による人、物の搬入拠点となったとされている。
その6世紀後半の横芝光町の古墳群の最大前方後円墳の周溝が非常に珍しい二重の長方形であり、
その古墳からユダヤ教の超正統派的な人物埴輪が出土しているのだから、
この武社の国の運営のために現地に送り込まれた集団が秦氏系のトルコ語を話すユダヤ教徒だった可能性が高まるのだ。
そもそも、この地域が武社国(ムサノクニ)と呼ばれるようになるのは6世紀頃からで、それまでは海上国(ウナカミのクニ)だったとされている。
千葉県全域が海上国だった。
その地方全域の中間付近に武社国が設けられて海上国は分断され、その海上国をまとめていた勢力は衰退したとされている。
さて、武社国の(ムサ)の意味は何か。
秦氏が武蔵国(ムサシ=モーゼの目指した国)と呼んだとみられるムサノクニのムサと、
この千葉県横芝光町付近の武社国(ムサノクニ)の発音がまったく同じであり、そこに送り込まれたとみられる集団が造った最大の前方後円墳の周溝がユダヤ教の幕屋を示す長方形であり、
またその古墳からはユダヤ教徒の超正統派の姿と瓜二つの人物埴輪が出土したことを考え合わせると、
秦氏はこの横芝光町あたりを旧約聖書の聖なる入植地イスラエルの中の中心地と見立てた可能性が高まる。
それが、武社国(ムサノクニ)の名の由来なのではないか。
この場合の武社(ムサ)は、ユダヤ教徒を導いた(モーゼの栄光)とでも言えるネーミングだったのではないだろうか。
なんとなれば、そこがまさに旧約聖書に書かれている日の昇る東の海辺の土地であり、神に祈りを奉げる所と指定された場所だったからである。 日本神道とユダヤ教が同じわけないだろう。
よくもまあ、そんなデマが言えるな。
日ユ同祖論というトンデモ理論について その1
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=606
日ユ同祖論というトンデモ理論について その2
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=608
日ユ同祖論というトンデモ理論について その3
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=609 秦氏のルーツは
朝鮮半島にいた辰韓諸国の一か国かだろう。 >>687
武社国(ムサノクニ)についての上記の解釈に別の角度から光を当ててみると、ムサは文字通りモーゼ自身を指しており、
モーゼの埋葬地を想定していることが分かった。
秦氏が描いたその筋書きを見てみることにしよう。
モーゼは約束の地を目前にして亡くなり、神によって死海を望むネボ山に葬られたとされている。
そのネボ山はユダヤ教、キリスト教の聖地であるがイスラム教でもやはり聖地であって、
ネボ山の近くにはイスラム教の寺院が造られている。マカーム・ナビ・ムサという名で、(モーゼが留まる所)という意味だという。
つまり、モーゼが葬られた所ということだ。
ここで、これまでに述べてきたことを振り返ると、千葉県横芝光町を流れる木戸川流域付近の地域の国名であった武社国(ムサノクニ)は、
大和朝廷の東北地方編入政策のための大根拠地であったわけだが、これは大和から海路を経て関東に入るための上陸地点であったことによる。
これを地理的にみれば、約束の地であるモーゼの目指した所、即ちムサシ(武蔵=関東地方)を南側から見る位置にあるのが武社国(ムサノクニ)ということになり、
武社国(ムサノクニ)が武蔵国(ムサシノクニ)に入る一歩手前の場所に当たっていることになる。
そこで、モーゼが葬られたネボ山が約束の地の一歩手前の場所にあることと、武社国(ムサノクニ)が約束の地と想定された武蔵国(ムサシノクニ)の一歩手前にあることとが地理的に非常に合致していることからすると、
この武社国(ムサノクニ)がモーゼの葬られた場所として想定されているとのではないかと考えることは、ごく自然である。では、モーゼはその武社国(ムサノクニ)のどこに葬られたと想定されたのであろうか。
続く >>691
それこそが、木戸川中流域の丘陵の上に築造された前方後円墳の殿塚古墳ということになる。
この古墳には極めて珍しい長方形の二重周溝が巡らされていて、しかもその長方形はユダヤ教の幕屋を思い起こさせ、さらにまた古墳の墳丘からはユダヤ教の超正統派の姿とよく似た人物埴輪が出土しているのだ。
このことが、この長方形の周溝の巡らされたこの古墳こそがモーゼを葬った場所にふさわしいものとして築造されたものだと考えることを可能にし、モーゼのトルコ語発音と同じムサ(武社)の国名がこの地域に付けられた理由も、理解しやすいものとなる。
そして、このように考えると、この地にムサ(武社)という国名がつけられ、そのムサがトルコ語でモーゼを意味していることは、旧約聖書出エジプト記のストーリーのエピローグを描いているものだとみなすことも可能にしている。
京都太秦の松尾山(マッツオ=種無しパン)を振り出しとして、約束の地であるムサシ(モーゼの目指した所=武蔵)を上り点とする双六の一歩手前の神がモーゼを葬ったネボ山に当たるのが、この武社国(ムサノクニ)の丘陵上の殿塚古墳ということになる。
つまり、神がモーゼをネボ山に葬ったとされることと、丘陵上の芝山古墳群の殿塚古墳を巡る周溝が二重しつらえの長方形に造られていることことは、まさに筋書きの上のストーリーがぴったりと合致しているということなのである。
このように、秦氏が旧約聖書の出エジプト記の壮大なストーリーを日本の国土の上に描いたことは、秦氏がユダヤ教徒の渡来人であったことをみごとにに示しているといえるのだ。 >>689
このブログの書き手は、昼間のテレビワイドショーの解説者たちよりもさらに落ちる無能解説者だね。
何とか先生が書いたとする引用文は学者らしい分析が書かれているが、この書き手はそれを教条的にかざして日ユ同祖論者を揶揄しているが、自身はためになるような分析をなんら示していず、ミーちゃんはーちゃん的なごたくを連ねているだけのしょうもなさ。
こんなブログは、何の役にも立たんな。
あほじゃね。 >>690
波旦という町があったらしいが、その町と秦氏が関係ありそうだとする論をみたことがあるが、秦氏は朝鮮半島人民の出自ではないだろうな。
朝鮮半島出自なら、5世紀頃には日本からかの地へ渡る者たちが少なからずいたから、それとすぐ分かっただろうから、秦始皇帝の血族だと胸張ってもすぐバレたはず。
また、百済系の渡来者から、ありゃ新羅の誰それだと指さされたはず。
そんな形跡はみられないから、朝鮮半島出自説はないだろうと思うな。 渡来系なら王仁とか遡れば秦の将軍に繋がる一族と言われているから秦氏も可能性はあるよね
彼ら自身も「大陸系であって土着の半島人ではない」と全力で否定してたし
彼らの土木技術は先進的であって京都で河の整備を任されたが大陸の技術を持ち込んだと言われている 秦氏は大陸の技術をもって荒れ狂う桂川の整備を成功させたと言われているわね >>696
当時の日本にまだ存在しなかった「産業」を持ち込んだのが秦氏。
朝鮮半島へ兵員などを送り込んだ倭国のその国力を担った勢力が秦氏だったということになる。 日本が朝鮮半島を支配したなんて中国に書かれちゃったから鮮人が必死w 任那、伽耶には鉄資源などを求めて倭人も中国人も進出していたし 倭人が定住しまくってたので前方後円墳とかも見つかってるわけです 壊して埋めてるそうじゃないか。
日帝残滓は清算しなくては、と。 朝鮮人は中国東北部から来たフヨやモンゴルら騎馬系の血が濃厚ですぐ破壊行動にでてしまうんでしょう
倭人は抜歯の習慣など長江周辺の古代人と同じですが まあ、沖ノ島の国家祭祀の始まりである4世紀後半と、秦氏の祖先が渡来した4世紀後半がまったく重なっていることが面白い。
また、宗像と山城秦氏は山陽道の山間ルートで結ばれており、秦氏の交易上の利益と海運宗像の利益が一致していたということだ。
そのルートが国家によって安定的に機能したことで、秦氏は安心して東国へ移民と交易品を送り込むことができた。
朝廷の東国経営の利益と秦氏の利益は、やはり一致していたということになる。 4〜6世紀のグローバル化は騎馬民族のおかげ。天皇の兄弟相続、末子相続とかも騎馬民族の風習。 >>705
鮮卑はモンゴル系とされる。
C2主体。 >>703
遼河文明の最後の段階の夏家店上層文化人の骨からは、O2、C2が多数を占めているそうだから、O2の北方への拡散は早い時期に起こっているとみるのがよいな。 >>706
さらっと嘘を書くなよ
日本に「末子相続」なんて風習はない >>712
あれ、海人系は末っ子が家督を受け継ぐみたいだけど。 「漁師 末子相続」でググってみなよ、いっぱいあるから。 >>714
日本 長子相続
でググってみなよ いっぱいあるから >>717
あっ、そうだったね。
神ちゃん、末っ子だよね。 >>717
初期の天皇って誰だよw 具体的に書いてみなよ >>721
このおっさんだろ、5世紀の弓月を現代語でユンクエと読んだのは。 >>723
訂正
弓月(ユンクエ)→弓月(クンユエ)が正しい。 弓月君がトルコ語を話すユダヤ教徒だったのは、間違いない。
当時、トルコ語を話すチュルク族がいたのは、カザフ平原からアルタイ周辺。
弓月君は、この北方古シルクロードを交易をしながら東進した、ギリシャ系、あるいはペルシャ系の改宗ユダヤ教徒だよ。
その元々の改宗ユダヤ教徒の源郷はアナトリアの黒海沿岸東部。
弓月君が話す言葉としては、ヘブライ語の比重はごく低かっただろう。
ヘブライ語は、すでに書き言葉と化していたからね。
なので、日本における秦氏(弓月君系)の周辺では、トルコ語の名称などが明確にみられる。
秦氏は、トルコ語話者だったのだ。 太秦(うづまさ)の意味は、(3つの机)。
この(うづまさ)は、(うづ=3)+(まさ=机)というトルコ語ね。
ユダヤ教の(幕屋の祭礼)を意味している。 ユダヤとか言っといてなんでそこだけトルコ語になるんだよ! >>727
当時、ユダヤ人は各地でいろんな言葉を話していた。
ヘブライ語は文章語としては生きていたが、話語としては死語だった。
今のヘブライ語は20世紀になって人工的に復活させたもの。
なので、秦氏がトルコ語を話していても、なんの不都合もないのだ。
ユダヤ教徒なんだから、それでOKだった。 俺は大津の穴太出身なんだけど、ここは7世紀には百済人が開拓した渡来系用の移住区で、城の石垣の大部分を担った穴太衆もその末裔らしい
こういう渡来系の多い地域は戦国時代までの人の移動が小規模の時代には、在来の和人とどれ程混血したのか気になる
他の日本人より百済人のDNA濃そう
https://www.homes.co...reform/reform_00542/ 障害者は在来の日本人の方多いでしょ
沖縄あたりなんか血が濃いから大変らしいで 障害者が多くないならちゃんと他所の地域と通婚して来たという事でしょ >>732
百済人と言っても王仁のような中国系、中国東北部から南下してきた騎馬系(非漢族)の支配者層、土着の連中の混合体。
血がどうたら言うほど純潔でもなんでもない
そもそも名前に「百」がついてる時点で多くの民族が混合した国ということ 百済人意識があったのは王族や貴族だけであろうが彼らもすぐに溶け込んでしまった
桓武天皇が百済を含む渡来系の女を囲いまくったので当時の渡来系も上から下までスムーズに溶けたのではないか
渡来系の職人や技術者はナンボでもいた 支配者は甘くはない 日本の豪族の管理下に置かれ必要に応じ移住もどんどんさせられた 渡来系の知識人や技術者から学んだりサポートすべく倭人の弟子が多くつけられた「〜部」である
すぐに渡来系も大和言葉を学び溶け込んでいった >>740
韓国系って何だよクソアホ 歴史の勉強してから出直してこい 虚言癖民族 >>732
もう少し北の野洲川あたりは、弥生後期にはレンガが出ているからなあ。 >>732
琵琶湖南部周辺は、朝鮮半島から来た渡来人が関東などへ散っていくハブ空港みたいな場所だったんさ。 >>740
だったら土師器や須恵器じゃなくて所謂韓式土器使ってる筈だろうが 今は人の移動なんて気軽に出きるけど、戦国時代時代ぐらいまでだと、そういう百済系と大和民族との混血がどれだけ進んだんだろうか
近江とかあの辺りは百済人とかの血が確かに濃そうだけど、あんがい大和民族と混じってるもんかな? というか大和朝廷自体が地方豪族に渡来系技術者を分配したり
東国の未開拓地に戦闘捕虜やら亡命者やらを送り込んでるので >>746
その辺はDNA解析で大体わかってるんじゃないの? 日本人の遺伝子は驚くほど均一化されていて
全国で通婚が盛んだった事がわかっている >>737
其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(隋書)
だからね >>703
カザフ族にj2、i2がみられるな。
中東系が北上したということになるね。 カザフは最も古いシルクロード地帯だからね。
あちこちから来た商人が行きかった。
j2、i2はその子孫だろうな。
モンゴルの図では、それがほとんどなくなるし、
満州では、まったくゼロ。 >>746
渡来人はあちこちで、活発に家畜飼育をやっていた形跡なし。
動物性タンパク質は、山でイノシシ狩ったり、川で魚獲ったりして補給しなければならなかった。
山や川は縄文人の縄張りだったから、渡来人は生きるために縄文人化しなければならなかった。
つまり、縄文人との嫁とり婿入りで同化していった。
混血はどんどん進んでいったということ。 お前を中心に動いているわけではないんだよ、
何度言えばわかるんだ?
それとも漫画やアニメの話をしているの? かなーり前の話になるんだけど、
話を合わせてあげあるから、好きなことを書くと良いと言ってる人がいたでしょ >>732
司馬遼太郎なんかも、穴太衆やら近江商人のルーツが渡来人だなんだとか言ってたな
>「歴史を紀行する」の滋賀の章で、近江人の商才という特質は、朝鮮からの帰化人に帰すると考えるのが一番素直であるとし、菅野和太郎氏の著書「近江商人の研究」を紹介している。
その大意は、商人的素質をもった高麗の帰化人が湖東に移住し、本国に習って市を開き、
叡山と結んで専売権を確立、商権を拡張して飛躍し、農民、武士からの転向者を加え、全国の行商行脚に力を伸ばした、というようなことである。
https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA-%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C/
さすがに江戸時代の近江商人と古来の帰化人を結びつけるは司馬先生どうかしてるだろと思ったが、
近畿の人間は顔が大陸の人間っぽいし、渡来人のDNAが濃く残ったとかありえるか?
地域によっては亡命百済人とか数千人規模で移住したようだし、そんな地域なら日本人と少々混血しても、
渡来系の形質を強く引き継いでるとか? >>758
家は、その家のではない、近江の出身でもないし、
同じにするなと言っているんだよ 太平洋戦争のあとやってきた朝鮮半島系の人と近江の人と、仲良く付き合いやってるのかね。 いや、また、高野新笠の実家の人と、太平洋戦争後にやってきた朝鮮半島系の人は、仲良く付き合いしてるのかね。 また、さらに、奈良時代に関東に移住した高麗若光の子孫の人と、太平洋戦争後にやってきた朝鮮半島系の人らとは、仲良く付き合いしてるのかね。 燕の東のほう見切れてるが何かあるなそういえば・・・ 倭に渡来してきてから千数百年もたち、その間、元の地では国が滅亡したりしてもう縁もつながりもなくなっているのに、今になって戦後朝鮮半島からやってきた人と関係あるかといわれてもなあ。
わしら知らんで、というほかないわ…と困惑する近江人だったりして。 同じ難民といえど片道切符でやってきて日本社会に溶け込んだ王侯貴族や知識人、技術者の末裔がなんで最下層の白丁朝鮮人とつるまなアカンねん
頭おかしいやろ 朝鮮人は南北が戦争やめたらじきに朝鮮に帰るんやで >>753
カザフ平原では、ギリシャ系、ユダヤ系、イスラム系の商人が競合していたらしいな。
秦氏は、そのギリシャ系の改宗ユダヤ教徒だろう。
しかも、チュルク系部族相手の商売してきたから、トルコ語を話していた。
秦氏が渡来した移住者を送り込んだ武蔵国の武蔵(ムサシ)とは、「モーゼが目指した所」の意味で、(ムサ)はモーゼを意味するトルコ語だからな。
秦氏がユダヤ教徒だったのは、トルコ語によって解明できるんよ。
ヘブライ語が喧伝されているが、秦氏はトルコ語話者だったから、ヘブライ語の線は薄いな。 商人って複数の言語話すんじゃね。複数の宗教やら習俗にも通じてたり。
えろんな奴と取引すんのにトルコ語しか話せませんねんじゃ
しょうもないべや。 >>768
カザフあたりで取引相手がチュルク系だったら、わざわざペルシャ語習う必要ないわな。
トルコ語オンリーで通してきた秦氏の祖先が、日本に来てトルコ語だけ話したとしても、それは普通のこと。 弓月国はアルタイ山脈の南にあるタリム盆地にあったとされる。
5世紀頃までには、このタリム盆地は高車と呼ばれるチュルク系の勢力が根を張っていた。
そこへモンゴル系の柔然が勢力を張ってきて、チュルク系の高車は柔然に服属することになる。
秦氏の先祖の弓月君は、4世紀にはこの弓月国で交易を生業にしていたと思われるが、モンゴル系の柔然が勢力を張ってきたことに嫌気をさし、
東へ移住した一族だったと考えられる。
なので、弓月君(秦氏の先祖)がタリム盆地にいて、日常語としてトルコ語を話していたのは異とすることではなく、ごく普通のことだな。
弓月君は、タリム盆地を離れてから、案外短期間で倭に着いたのではないか。
日本書紀の記すところでは、それは4世紀の後半だそうだ。 秦氏がトルコ語使ってたという記録や金石文がどこかに残ってるんですか >>771
当時の石彫り文字記録や金属器鋳造文字が必要かい。
今は病院送りになってしまったが、長年研究をしてきたさる天才が残したノートがあり、
それには秦氏研究がビッシリ書き込まれている。
それには、なんと秦氏とトルコ語の関連が書き込まれていた。
秘蔵書だから、うかつなことは言えんがね。 歴史を知るのに文字は必要。必要ないのは無様な歴史を消しさりたい朝鮮人だけw 秦という国がいつ滅びたかご存知ですか? トルコ系で時代もずっと遅れてもちろん万里の長城の外にいた連中が秦氏を名乗る理由が無いと思いますが
秦を名乗る以上は秦帝国と何らかの関係がないと ストーリー的に 全く信用できませんわ 後秦は渡来したという時代と合わないしどうなってるんですかね
ユダヤ人でトルコ語を話していたという設定でしたっけ? それは当時から秦氏が全力で否定してるよ 我々はキムチではないと
ソウルは帯方郡で後漢、魏、西晋と中国領土だけど >>772
その研究者のノートには、太秦(うづまさ)の(うづ)はトルコ語のus(ウス)で、数詞3を表しているそうだ。
(まさ)は同じくトルコ語で机を表している、としている。
つまり、太秦(うづまさ)はトルコ語で(3つの机)の意味であり、この(3つの机)とはユダヤ教の幕屋での祭礼の際の重要な3つの設備である祭壇のことだといっている。
幕屋の入り口付近の犠牲を焼くための祭壇、次に神に奉げるパンを置く机、そして奥の香炉を置く祭壇がこれだそうだ。
ユダヤ教では数詞3は聖数なのだそうだ。
一方、出雲大社本殿付近から鎌倉時代に建てられた本殿の柱の根本部分が出土している。
大木を3本一括りにした巨大柱なのだが、この柱の呼び名が宇豆柱(うづばしら)なのだ。
この巨大柱がなぜ宇豆柱(うづばしら)と呼ばれているのか、はっきりしていないという。
そこで、この巨大柱が3本一括りであることと、トルコ語の数詞3が(ウス)であることとを合わせて考えると、宇豆柱(うづばしら)とはトルコ語の数詞3(ウス)と和語の柱(はしら)を合わせた複合語だと解釈ができるというわけだ。
ということになると、この宇豆柱(うづばしら)と京都の太秦=禹豆麻佐(うづまさ)の(うづ)は同じ発音であり、京都の太秦の禹豆(うづ)もトルコ語の数詞3ではないのか、ということなってくるのだ。
こうしたことから、トルコ語で太秦(うづまさ)を解釈すると(3つの机)の意味になり、それをユダヤ教と重ね合わせてみると、この(3つの机)とは幕屋の祭礼の3つの祭壇のことを表しているのではないか、という結論になったようだ。
そして、その他のことも合わせると、秦氏は本拠地の京都太秦をどうやら聖地エルサレムに擬しているようだ、とこの天才研究家はみなしているのだね。 >>774
この秦(しん)の字を用いたのは、祖先に箔をつけるためであったことも考えられるね。
日本書記雄略紀では、すでに秦造(はたのみやつこ)と秦の字が用いられている。
日本書紀ができたころには、すでに遠祖を秦の始皇帝とする祖先神話ができていたのではないか。 >>778
出雲大社の神殿ほかに関わる「三」や「八」はユダヤとは全く違い、
出雲族のルーツのインド時代から信仰の聖なる数に拠ります。
神話ほかに「八」がある場合はそれは出雲の何かを伝えているかと思う。
因みに千木が×(交差)しているのも、勝男木が三本なのも出雲族の太古よりの信仰の表われです。 >>780
秦族、秦氏は、秦の始皇帝を二度も舌先三寸で騙し詐欺して巨万の財貨をせしめ
あらゆる職業の職人並びに前後併せて五千人余の秦国人を引率して渡来した
徐福/徐市(フツ=フツ主/フツミタマ)の大集団の内、
前期?の山陰地方(当時は出雲王国の心臓部)に渡来、帰化した2千人が後に海部/秦族になりました
後期の残り三千人は有明海に入港して吉野ヶ里に本拠地を定め、筑秦国を建てます。それが筑紫に変化。
彼らはまた、物部といわれ、物部王国等とも。
神武東征の遠因が、徐福が日本列島の王になる野望を抱いて渡来するも夢は脆くも阻まれ破れた事から子孫に何時か(出雲王国とその係累らを滅ぼして)大和国(日本列島)の大王になれ!と伝承されていたのかも? >>780
八岐大蛇のオロチは8つの頭部をもつ大蛇という意味。
7頭の頭部を持つ蛇の図像がシュメールの壁画にすでにある。
日本書記の編纂者は、このシュメールの7つつの頭部を持つ蛇の伝承を治癒動く文献かなにかで収集して、スサノオのエピソードに脚色した可能性が大きい。
その7を8に翻案したのは、日本の聖数が8だったからだろう。
そんなところだな。
出雲大社の宇豆柱(うづばしら)の(うづ)は、トルコ語の数詞3を表すuc(ウス)由来だろうな。
日本書記雄略紀では、太秦(禹豆麻佐)の名の由来を「絹かとり(糸偏に兼)を奉献りて、朝庭に充積む」と書いており、この(充積)を(つむ)と読んでいるが、
(積む)の(つ)と(禹豆=うづ・うつ)の(つ)が同じ語彙であるようにはみえない。
禹豆(うつ)の語意は、出雲大社の宇豆(うつ)と同じ語彙だろう。
とすると、出雲大社の宇豆柱が3本一括りの巨大柱であり、その宇豆(うつ)がトルコ語の数詞3を表すuc(ウス)の由来である可能性が高いことからして、発音が同じである禹豆(うつ)もトルコ語の数詞3だとするのがよいと思われる。
数詞3は日本でも尊ばれる数詞であり、(いっぱい、みちる)の意味がある。
日本書記は禹豆麻佐(うづまさ)を(めいっぱい積む)と解釈しているわけだから、この禹豆(うつ)がトルコ語の数詞3であることと矛盾しない。
天才研究家は、そのように考えているようだ。
たぶん、間違いないね。 >>781
この説からするとニギハヤヒは出雲の一派ということになるが、そのニギハヤヒは河内に飛び降りた伝承になっているので、ここのところどうつながるのか教えてチョ。 >>421
日本酒関連の本をいくつか読んだんだけど、
醸造学の世界的権威だった坂口謹一郎氏は日本の酒造りにおいて、口噛み酒や麹を使った原始的な酒を「民族の酒」と呼び、朝廷が成立して以降の大陸の技術が入ってきた酒を「朝廷の酒」とし、
柚木学は『酒造りの歴史』の中で、律令時代の朝廷において、技術を持っていた品部は渡来系が多く、造酒司のもとで朝廷の酒造りを担った酒部のほとんどは朝廷半島からの渡来系だったと書いてるけど、この酒部も秦氏の関係者なのかな?
造酒司は平安時代まであって統括者は秦氏だったと書いてる酒造関係者のサイトもあるけど、この頃になっても渡来系の一族が酒造りしてたの? >>781
吉野ケ里は大きな遺跡だけど正直、当時の世界最強と言える始皇帝から金と技術者をせしめて出港した大集団にしてはレベル低すぎです
中国では初期の吉野ケ里ができる時代を遡ること数百年、春秋時代には瓦葺きの屋根が当たり前になっていましたし
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1326799248
吉野ケ里では土器しか出てきていませんが、当時の中国では陶器が当たり前になっていました
徐福一行が来て作った国ならもっとマシな技術レベルを誇っていたことでしょう
大陸から来たにしても戦乱を逃れて着の身着のままに近い状態で逃れてきた人たちレベルじゃないでしょうか 秦氏は朝鮮半島を介した交易を牛耳っていた節があるが、その交易路である対馬海峡に秦氏が相当な影響力を持っていたことが考えられる。
壱岐は朝鮮半島からみて2番目の島であるが、その壱岐(イキ)の島名の意味は不明だ。
どんな意味の言葉であるのか、誰も明確な答えが出せていない。
そこで、秦氏はトルコ語を話していたと考えられるので、トルコ語からこの壱岐(イキ)の島名を探ってみると、トルコ語でiki(イキ)は数詞2である。
つまり、トルコ語でiki(イキ)島とは2番目の島という意味になる。
これはまさに、壱岐が対馬の次の2番目の島であることと、みごとに合致するのだ。
壱岐(いき)とは、秦氏が呼んだ島名であることが推定できるのである。
なお、この見解は、天才研究家のノートに書いてあることだよ。 そもそも「トルコ語を話す秦氏」なる寄論に誰も納得してないよね >>790
見たことも聞いたこともない事には、だれでも最初は拒否反応を示すもの。 出張するのは勝手だけど 当然、 論拠は示さんとお話になりまへんで
誰かのノートに書いてあるとか勘弁してほしい
壱岐が対馬の2番目!とかお宅は興奮してるけど意味不明ですから 大体トルコ語って何 ?
トルコがいつ建国されたか知ってんの?
それがユダヤ人と何の関係があるの?
トルコ人の先祖がどこ発祥か知ってて秦氏がどうのこう書き込んでんの? >>793
トルコ人の先祖がどこにいたか、書いてみなさい。 >>793
…それがユダヤ人と何の関係があるの? ということだけど、どうして秦氏がユダヤ人て分かるの? >>795
お前のいうトルコ語って何だってきいてるんだよ まず答えろ >>794
隠岐や沖と同じく「海の向こう」という意味でしょうね >>797
チュルク系の言語には、現在トルコ語、カザフ語、キルギス語などがある。
わしが言うとるトルコ語とは、現在のトルコ語じゃ。 >>798
イキが「海の向こう」という意味であることをちゃんと解説してね。 >>799
鮮卑はモンゴル系、あるいはチュルク系とされているが、秦氏を鮮卑系とする根拠は? 802
秦氏は中国にいた、いいとこなんかの職業持っていたどちらかっちゃ下層民て認識やが? なんか勘違いしてんじゃねこいつら
秦氏がエリートみたいなんを妄想していたとか?
部民てのわかる?職業民だよ 言ってみりゃ寺院作るなら秦氏が自分らで大工して寺院を作ったりあとは京の町を作ったくらい自分らで建築から石工までやる集団
それが秦氏← 天皇を平安京に向かえるとき秦氏が平安京を作って迎えた!言われてるな(°▽°)
文字通り、秦氏が平安京を作ったんだよ
縄張りして山から木を切り出し建物作って屋敷作って 法隆寺から寺院なんかも下手すりゃ古代の建造物作ったんは秦氏かもしれんなあ(°▽°)
つまり文字通り自分らで作ったんだよ
ほとんど渡来人らによって作られたんだろな(°▽°)
そりゃ認めるよ(°▽°)
使えない権力者のカスなんざいらんでよ 職種で氏姓をつける制度は北朝つくる前の鮮卑由来だしな 田(でん、田氏?)という人がいたりするけど、
そういう人は何なんだろう
日本の話 wikiによると
>田氏は媯姓(中国語版)で、舜の末裔とされる。
媯姓・・・・・・・・・・専門用語が出てきたりw
読み方も「デン」 鮮卑語は完全に不明
モンゴル系と思われるのでモンゴル語で考えるしかない >>806
普通に大陸から技術者来てるから
国家的巨大プロジェクトがそんな単純だと思ってるなら脳みそのレベルやばいよ 『渡来人とは何者だったのか』という本のなかで、当時の航海技術や秦氏の地位を考えると、大陸なら日本へ渡ってきた秦氏の集団は50〜100人程度で、その後、在来の和人を秦氏が一族に組み込んで勢力を大きくしていったと書いてあった
この50〜100人って数字は妥当だと思う? 農民てか?
秦氏一族が渡ってきたときは職部ってのがいただよ
そいから秦の河勝←が平安京を造営して藤原京から天皇が平安京に移ったの
飛鳥京→藤原京→平安京 まったく現代がこ〜だからこの理由でこーなったあんたらやってんのだよ(°▽°) 秦の河勝が平安京を造営したの
そんで藤原京から平安京に遷都した
これが平安時代の始まり あの平安京って一種の城塞都市やな
設計から間取り、建築を行った張本人(°▽°) だから前に書いたじゃん(°▽°)
秦氏が拠点にしたのは越前だってな
中国風の寺院みたいなんか神社なんかよく分からん建物を作りまくったま〜一種の大工屋集団や 渡来人としての秦氏らみたいなんが県何県の住民らを率いて日本に渡ってきたって渡来人名簿にあるだろ 秦氏みたいなんが来てから日本に寺院を連中が作り始めたり神社の⛩元みたいなん作り始めた
まず最初に近江あたりにいっぱいできただ(°▽°)
そっから神社系列は全国に広がったわけ
まあ神社の元祖は正解 >>816
モンゴル語でkhudaldaachin(フダルダーチン)は、商人。
khudal(うそをつく)+daachin(あなたは)=商人。
このkhudal(フダル)は、ハタに音が近い。
ハタ氏のハタがモンゴル語由来だとすると、ハタ氏のハタとはモンゴル語で商人という意味になる可能性がある。
モンゴル人は基本的に遊牧牧畜が生業だから、ハタ氏はモンゴル人ではなく外来系の商人だったということになってくるな。
一方、トルコ語には旅を意味するseyahat(セヤハット)がある。
この旅を意味するseyahat(セヤハット)を短縮したhat(ハット)がハタ氏のハタの由来だ、というのがハタ氏トルコ語由来説。
旅籠(はたご)のハタ(旅)と同じだ。 秦氏と言えば製鉄と織物
商人でも旅人でもないからなあ >>829
秦氏が製鉄やっていたというのは、初耳。
5世紀段階で、製鉄日本にないし。
とにかく、ハタ氏のハタの語義解明が重要。 製鉄なんてやってたんかね?
それからハタの字の語源てや? 中国から来た職人連中の総称って文献に書いてなかったか? 製鉄は完全に中国系渡来人の証拠
山東半島の東來(蓬莱)にいた連中など製鉄をしていた国々があった
半島の伽耶のあたりで鉄の原材料が出るので来て採掘しビジネスにしていた
なのでいまでも東來の名前がその地に残っている
彼らはやがて日本にも技術者として渡来するようになる >>832
その連中の総称のハタて、どんな意味なんよ。
中国語でハタの意味は? >>658
>秦氏がユダヤ教徒であった可能性は高い。
4世紀末〜5世紀頃に景教はまだ中国に来ていい
景教=キリスト教は後漢成立間もなくの1世紀半ばには都の洛陽に到来していて、
後漢帝国全土に教会を建て盛んに布教活動を行っていた。
、、、とは「後漢書」が伝えているところ。
因みに同時期、仏教も後漢に到来しました。 それから京都の初期の警備役人だのやってたんが漢氏だで
時代が降り没落して源氏や平家が台頭してきた
平家はもとか国衙の役人上がりから武士団を形成したのが多い
源氏も勢力伸ばしたが平家より遅い 漢氏の末裔らみたいなんで摂津源氏に仕えた子孫らもいたな >>839
道教はその思想や教儀がユダヤ教と大変類似していると言われます。
日本列島に道教をもたらしたのが徐福(徐市(フツ)/彦福)。
前後併せて五千人余の海童(秦国人(ほとんどが旧斉国の少年少女))を引率して渡来しました。
前、一度目は二千人の海童らと共に出雲王国に至り、
密かに王に為らんとして色々引っ掻き回した(出雲王国の主副二方の王を殺害するテロをヤラカシタ)末に夢叶わず母国に逃げ帰ったとです。
その際、引き連れてきた二千人の海童らや出雲王女の嫁と御子の五十猛らをやむを得ず置き去りにしましたです。
五十猛が長じて海童(秦国人)らを呼び集めて丹波に集団移住して丹波国を建て、五十猛改め海カゴヤマを号しましたです。
徐福さま、二度目は先ず伊万里に入港しましたが、南に広い土地(筑紫平野)があると聞いて回航して有明海にはいり、吉野ヶ里を本拠地と定めて、
リベンジを謀ります。
出雲王国の分家、宗像王家の末女、市杵島媛と政略結婚して
ホホデミとホヤ媛をうみます。
ホホデミは後の物部(初期天皇家。物部イクメ大王=垂仁。から三代。)の祖となり、
ホヤ媛は先の異母兄の海カゴヤマに嫁ぎ海(天)村雲をうみます。
カゴヤマや村雲らは丹波人(元秦国人や子孫ら)を武装させて大和に南下侵攻して出雲王国のテロ大事件の影響で出雲から葛城に大量移住していた出雲族らを圧倒した事で
出雲族は村雲を大王に推戴する等して連合国家/大倭国(大和の最初の王権)を建てました
天皇系譜上の神武は海村雲命で以降9代、実際には11代約300年の命脈を保ちましたが、
ホホデミの子孫、物部イクメ王=垂仁の侵攻、平定されて滅亡しました。
遡って徐福が山陰地域に引き連れてきた海童ら二千人が後々秦族の大集団になりますです? 838
そんでおまえの知ってることは書かないんか? >>843
徐福さまが二度目に渡来した際には前回より多い三千人の海童やあらゆる職種の職人、身内や一族朗党と共に渡来。
吉野ヶ里遺跡は徐福の故郷の臨鯔城と良く似た造りになっているそうです? おいちょいとまともなことくらい書いたらどおなんだよ(°▽°) >>846
これらは元出雲王国の王家の伝承による正しい歴史かと思われます。 徐福?
それほとんど誰かが言い出した妄想話が定番化しただけ
説みたいなんで語ったのがいたんだろ
それの真贋問うのはこちらの役割りではない 事実として発表したら一笑されるだけ(°▽°)
向こうの文献にそ〜書いてあった部分があったってだけよな 中国あたりの部分から見つけてからそーいう話が広まったものばかり
徐福が日本にきたなんて伝説すらない >>848
徐福は元々、徐市(フツ)と言います。
「福」がお好きだった事から自分の名前としたらしい。
始皇帝を二度も騙し詐欺して蓬莱山=日本列島に渡来。
一度目は渡来する一年前に事前工作員のホヒと子のヒナドリらを
当時、最大版図を誇り栄える出雲王国に送りこみ財宝や珍貴な物等の贈り物をする等して(銅鐸の原型となる楽器、祭器も献上した)
媚びて上陸許可を取り付けた後に
徐福ら本隊は石見の五十猛海岸に上陸。
、、、海を埋め尽くした船舶から上陸するさまは蟻の行列の様だったと伝わります。
徐福は直ぐに心臓部に食い込み、出雲王国の第8代オオナモチ、八千戈さま(いわゆる、大国主は概ねこのお方)の妹媛の天道媛/高光媛を娶り出雲神族に列しました。 紀元前後ころから半島あたりにも商業都市みたいなんができた遺跡でてんじゃなかったか
それと似たよ〜なんが北九州にもできただろ
これ唐人街の話、中国みたいな民家が長崎あたりにもあるで >>845
全然違う アホな書き込みいい加減にしとけ 中国はその当時すでに始皇帝陵 あのレベルがの建築技術があった
巨大な石垣で囲った城壁都市があちこちにあった 万里の長城も作ってた
何が吉野ヶ里遺跡と似てるだよw アホな妄想で笑わせんなwww >>852
長崎のは清や民の時代で全く関係ないわ知恵遅れが >>851
おいゴミ アホな主張するなら証拠の一つも出してみろ そだっけ?
唐人街は福岡あたりにもあったろ
中世くらいの話やで 知恵遅れって?
都合よい話するなら論証やるから情報だせや >>857
笑 お前が出せよ 中世からあるという根拠を示してくれ はいださないから却下〜
言ったことくらい分かるくらいの知能くらいあるだろ >>859
はあ? 最初に変なこと言い出したやつ>>852に要求しろよ低能 >>835
旗(ハタ)を織っていたからハタ氏とな。
旗を織っていたて、何か根拠あんの? 七夕、機織り?
本当は他の家の話だと言っている人がいたよ、 これらの写真にみえる顎の骨太な頑丈さは、北部中国人の特徴。 >>862
機械のことをハタと読む例が、このほかにあんの? >>862
ハタ氏が織機を多数導入してハタ印の布地を一手に生産していたから、そのハタ印の布地を織る織機をハタと呼ぶようになり、そこから機織り(はたおり)の言葉ができたのだろう。
だから、機をハタと読むのは、ハタ氏のハタからの借訓だな。 だから旗🚩でしょ
それから漢をアヤってのは文字の読み書きみたいな話からだったと思うよ 旗となる機織りをしている人らが多く目に付いたからハタ氏 ハタ氏が生産するハタ印の布地を織るための機械だから、その織機をハタと呼びならわした。
つまり、機織りの機(はた)の由来は、ハタ氏のハタにあることになる。
となると、では渡来人であるハタ氏のハタとはなんぞや、ということになるわけ。
そのハタはトルコ語だとすると(旅する者)という意味が考えられ、モンゴル語だとすると(商人)という意味が考えられるというわけじゃよ。
このほかに、ハタ氏のハタの語源はこれじゃ、という考えがあれば言うてみんしゃい。 >>869
旗(ハタ)のイントネーションと秦(ハタ)のイントネーションは異なるがな。 >>868
漢を(あや)と読むのは漢氏が織物工芸に長けていたためで、その(あや)とはさまざまな形や模様を表す言葉だとされるな。
布地に柄を織り込む技術に優れていたということのようだ。 トルコ系もモンゴル系も遊牧民系の名前はずっと長いよな
一文字姓は中国系のみ
日本は昔から二文字
秦氏は漢人系を自称してるし間違いなくそうだろう チベット系遊牧民じゃね?
ケサル王でも氏族名はリンと一文字姓だ >>873
秦(シン)の字は一文字だけど、読みはハタで二音。
中国語でハタと発音する字は何?
また、日本書紀では、秦氏(はたうじ)の先祖は弓月君と呼ばれていて、秦(シン)とは呼ばれていないね。
秦(シン)の字はあとから付けたのだろう。 哈達(ハタ) チベット語からの借用語
仏教で使われるマフラーのような長い布 犬食なんて聞いた事もないんだけど、
熊も豚も牛もない、ちなみに日本w
老婆の話によると、そうなんだよ、
最近(近代)になってから???????なのかな 馬肉というのも食べないし、老婆は食べたりしなかった、
買い物に行き、買ってきたということもないし、あとクジラの肉もw 『葱の華』
肉は食べなかったと言っていたり、
謎の写真に写っている母親という人がいるんだけど、何かの家の人だったかな?
近所にある、寺院などに通っていたり >>878
原始時代は世界各地で犬食文化があったが
文明が進むにつれて段々と廃れていったわけだから
犬食文化同士に関連性があるわけではない さいきば(さかきばら)事件^^?
肉体改造〜体つきも変化〜もともと(肉体)労働者の家ではない?
何か理由があり、そういうことになった? さいきば事件というのがあるでしょ
おじーちゃん(おずぼーん?)の話をしているような気がするんだけど、
漫画に登場するキャラクターの話 >>882
農耕に使う牛を食べないのに猟犬になる犬は食べるの? >>876
哈達はハタ、カタと呼ばれ、モンゴル族やチベット族が敬意を表すために用いる帯状の布だとされる。 >>887
モンゴルではハタクと呼ぶそうだ。
願う、祈る、敬う、慕う、感謝するなどのときにこの長い布を用いるそうだ。
青、白、赤、黄、緑の色がある。 他のスレにも書いたはず
家は『王母 寒いなー』と同じ名前の家なんだけど、
あの写真の家w寺院、仏教の話をしていたり 日本でいうと『かっぱっぱー』『浦島太郎』・・・その他? 本当に何なんだろう
上の名前の読み方も・・・、
読み方だけ変えたのかな?
まだ最近(数十年前?)の話みたいなんだけど >>888
モンゴル語にkhatakh(ハタフ)があり、消える、萎える、弱くなる、しなびるなどの意味だそうだ。
新車を買ったときなど、すぐにシャーマンのもとに行き、車に青い布を巻いてもらい儀式をして安心するという。
この青い布がハタクと呼ばれるもの。
一方、モンゴル語にkhatakh(ハタフ)の語彙があり、これは消える、萎える、弱くなる、しなびるなどの意味があるそうだ。
とすると、シャーマンが新車に巻き付ける青い布のハタクとは、災いを追い払い消すという意味のハタフが語源かも知れないな。 当時の日本に天皇(天王も)はいないでしょ?
どういう事なんだろう
『倭人 朝鮮人』
というのはいた?と書いている人がいたり 見るとチベット語からの拝借が多いみたいね
漢字にチベット語の意味を当てる、それが発音になる チベット語とエミシは同系統らしいから祖語が同じニダ(°▽°) 祖語分かる。
同系列の祖先から分裂した同士は祖語がにかよる >>896
ラサのチベット語は漢字音写しきれない
西康 >>900 四川省西康の羌系チベット民族の言語ならばer/n/ngしか音節の末にこないので
北方漢語に音写ができる >>895
農耕は牛の部分の例えで、狩猟が重要な役割を果たした時代に猟犬食べる?
農業を機械化してない地域では現代でもハレの日に村で牛一頭食べる程度だよ 秦氏は土木技術や機織りや「うず高く積み上げていた」という織物で知られたんだから騎馬民族系はないと思うの
そもそも秦氏や漢氏は特定渡来系グループの総称であって血脈のつながりではないようですが モンゴル、チベットの災いを消す長い布ハタクが秦(ハタ)の語源だとすると、秦氏のハタとはモンゴル語の(災いを消す布)という意味になるな。 モンゴル、チベットの災いを消す意の長い布ハタクと、日本語の旗(ハタ)は、同じか。
日本語の旗(ハタ)のハタは、旗布が風に煽られてパタパタと音を立てることに由来するとされる。
モンゴル、チベットの災いを消す意のハタクと旗(ハタ)のハタは、成り立ちが異なるようにみえるな。 チベット→モンゴル ハタがボン教の時代に伝わったとしても五胡十六国時代と割りと新しい
秦氏自体もその6世紀ごろの五胡十六国まっだだなかの渡来ということだ 7世紀のモンゴル民族は蒙兀室韋と呼ばれていた
日本に渡来してたらムロ氏だろうか >>909
五胡十六国の時代は4世紀初頭〜5世紀中頃まで。
6世紀には華北は北魏、華南は宋が支配している。
弓月氏は4世紀後半の渡来。
その後、秦河勝が活躍するのは6世紀後半から。 弓月氏(秦氏)がモンゴル・鮮卑人とは限らんな。
ユダヤ教徒らしいから、モンゴル・鮮卑語を話すユダヤ教徒の線もある。
とすると、トルコ語を話すユダヤ教徒、モンゴル・鮮卑語を話すユダヤ教徒の二つの線が浮上したということになるな。 モンゴルはプレスタージョン 景教を信仰していた部族がいた。 >>913
遊牧牧畜系のモンゴル人景教徒が日本に渡来する理由てなに? 914
景教徒が日本来た証拠ないニダ
中国には本家本元の碑がある、来てるから 日本に引っ張って作ったならそれは勧請って呼ばれるん 特に権威作りに使ったみたいな連中らが無茶苦茶やったからな あれこれ考えると、やはりトルコ語を話し中央アジアで交易を生業としていたギリシャ系改宗ユダヤ教徒が弓月氏(ハタ氏)の正体で、そのハタとはトルコ語のseyahat(セヤハット=旅)の短縮形のhat(ハット)に由来すると考えられる。
この(ハット=旅)の言葉は、旅籠(はたご)の(はた=旅)としても用いられた。
つまり、ハタ氏とは、(馬に乗って旅する者=交易者)というトルコ語による自称だということになるな。 秦氏の来歴について、ここまで具体的な姿を描いた例はない。
これまで秦氏についてあれこれ言われた例は根拠薄弱なものが多く、そのためにオカルト的な珍説の域を出るものではなかった。
しかし、秦氏が渡来した当時に話していた言葉がトルコ語であったとみなすことができたことにより、秦氏とは何者であったのか初めて学問的なアプローチが可能となったと言える。
例えば、秦氏が本拠地とした太秦(うずまさ)はユダヤ教徒の聖地エルサレムに擬制され、ユダヤ教の神に祈りを捧げるための幕屋であると設定されたことが分かる。
また、関東地方を指す武蔵(むさし)とは、秦氏にとってどのような土地であったのかも解明されるのだ。
こうしたことは、秦氏が話したと考えられるトルコ語からすべてリアルに割り出すことが可能なのである。
つまり、4世紀後半に渡来した弓月氏は、トルコ語を話すユダヤ教徒だったのだ。 なるほど ユダヤ教徒の秦氏が狐を祀ったり寺を建てて仏像を拝んだりしてたんですか? ww 秦氏は倭人との摩擦を排除するために、倭人の信仰をユダヤ教の信仰に被せて隠す擬制を行っており、広隆寺などを建てたのもそうした擬制だな。
広隆寺は聖徳太子を祀るために建てられたとされるが、どうも広隆寺の聖徳太子はユダヤ人の王であるダビデの擬制であるようにみえる。
つまり、広隆寺はダビデがエルサレムに建てた神殿を意味しているということだ。
このような擬制を秦氏は念入りに行っていて、普通には日本人の信仰の現れであるようにみえる、ということになる。 >>924
馬鹿すぎてワロタw 倭人は偶像崇拝なんか元々ないから摩擦は起こりようがない
低能すぎてロジックの組み立てが出来ないんだな おつかれ >広隆寺は聖徳太子を祀るために建てられたとされるが
いや違うよ 妄想はそれぐらいにしとけ
わざわざ秦河勝が自分に仏像を祀らせてくれと手を上げて祀ったのが始まりだよ
7世紀の話な 秦氏の渡来が4世紀
仏教渡来前にどうやって倭人と摩擦が起きたのか説明してくれや
それに7世紀の仏教渡来後に他の信仰を禁止にしたなんてどこに記録があるんだ 蛮行を重ねたカトリック位か。それでもプロテスタントの方は付き合い続いたからキリスト教自体は禁止してないもんな >>925
5世紀の山城や大和で「神はヤハウェだけ。倭人の神はみな邪神だから、排除すべき」と唱えることを想像してみるべし。
そして、そこらにある精霊をこらしめる姿を想像してみるべし。
秦氏が生き残れたかどうか、明らかじゃろな。 >>926
あれ、「広隆寺資財交替実録帳」には、広隆寺は聖徳太子の供養のために建立されたと書かれているし。 ところで、京都の太秦から武蔵へと移住する際の途中の拠点となるのが信濃の諏訪(すわ)だが、
この諏訪(すわ)も意味のよく分からない地名だ。
しかしながら、トルコ語のsu var(スバ)が「水がある」という意味であることを知れば、このsu var(スバ=水がある)が諏訪湖(すわこ)を指したものであることが明らかになる。
しかしどうして、わざわざトルコ語で信濃の湖をスバ(水がある)と呼んだのかということになるが、
ユダヤ教の旧約聖書では、モーゼに率いられたユダヤの民が約束の地への旅の途中で水に渇いてモーゼに水を要求し、モーゼが杖で岩を叩いて水を湧き出させるエピソードがある。
つまり、諏訪湖の水を旧約聖書の出エジプト記の重要なエピソードに擬していることが考えられるのだ。
そのような出エジプト記のエピソードにちなんで、秦氏はこの湖をトルコ語でスバ(水がある)と名付けたということになる。
そして、このトルコ語のスバに漢字を当てたのが諏訪(すわ)なのだ。
ちなみに、出エジプト記ではモーゼがユダヤの民を率いて目指したところが(約束の地)なのであるが、トルコ語でモーゼはmusa(ムサ)であり、
そして、このムサ(モーゼ)+シ(方向)=ムサシ(モーゼが目指したところ)=ムサシ(武蔵)ということになるのである。
諏訪(すわ)と同様に意味のよく分からない武蔵(むさし)も、トルコ語と和語の複合語であり、ムサシ=モーゼが目指したところ(武蔵)という意味であることを推定することができる。
これらのことに加えて、太秦の秦氏の神体山である松尾山(マツオ)は出エジプト記の種無しパンのマッツオを漢字表記したものである可能性が高く、
また深草の秦氏の神体山である稲荷山(稲生山=イナイヤマ)のイナイは、やはり出エジプト記のシナイ山のシナイと発音が極めて近いことを考えれば、
太秦の松尾山→深草の稲荷山→諏訪→武蔵への行程は、旧約聖書の出エジプト記のトルコ語によるダイジェスト版であることが分かるのである。
つまり、秦氏は、関東の武蔵をユダヤ教の旧約聖書の(約束の地)に擬したということである。
このように、秦氏がトルコ語を話すユダヤ教徒であったことをぴったりと推定することができる、ということなのだ。
わははははは。 精神科、精神病院というところがあるから、そこに行け かなーり前に書いたはず、
池沼の妄想に付き合っているヒマなんてないんだよ
はやく精神病院?そこに行け 飛鳥昭雄並みにひどいよ なんでもユダヤユダヤだ そもそも ユダヤ人が古代トルコ人の集団にいたとか考古学的に証明されてんの? 一切ないよな ユダヤ人はイランやアフガニスタンには来ていました それは 証拠になる 物証があります
4世紀までに古代トルコ人の集団に ユダヤ人がいたという証拠をまずは出してもらわなければならない できないなら黙ってろってこと >>928
何で大王家や貴族に受け入れてもらった 秦氏が お前らの宗教はダメだとか言うんだよ
勝手に自分の宗教守っていればいいだけだろ 日本は一神教の国ではないこを考えられないおバカ
それにモーゼ以来、偶像崇拝が絶対禁止のユダヤ教、並み居る豪族の中で秦河勝「俺が仏像を祀ります」なんてユダヤ人なら言うわけないだろ? モーゼの十戒知らんの なんでも都合のいいように解釈するよな >>934
秦氏の先祖弓月氏は、ユダヤ人ではないな。
おそらくギリシャ系の改宗ユダヤ教徒。
交易でカザフ平原に進出し、4世紀頃にはタリム盆地あたりまで進んでいた。
カザフからタリム盆地あたりはチュルク系の部族の土地であり、そこを交易で東進してきたのでトルコ語を話すようになっていたということ。
弓月氏の先祖は、アナトリアの黒海沿岸の外来者コミュニティーの出自だろう。
このコミュニティーの住民は主にギリシャ系とペルシャ系だったらしい。
そこへ、紀元頃にペルシャから来たユダヤ人によって住民たちはユダヤ教に改宗したそうだ。
この改宗ユダヤ教徒の一派がカスピ海の北のカザフステップへ交易で進出した。
そして、4世紀頃にはタリム盆地の弓月国まで東進していたということだ。
まあ、そういうことだ。
ユダヤ教徒でトルコ語を話すのだから、そのような構図となるな。
わははははは。 >>935
秦氏が生き延びたのは、一神教を外の世界へ押し出さなかったからだな。
そのために、倭人が受け入れられるようにさまざまな擬制を用いた。
そうしなかったら、おそらく秦氏は繁栄できなかっただろう。 例えばだが、
天狗は元々は漢語であり、流れ星のことだ。
流れ星を、天を走り抜ける狗(いぬ)と観念化したわけ。
一方、倭人社会では、天狗は赤ら顔で鼻が高く神通力を持つ神的妖怪とイメージされている。
そのイメージは、漢語由来の流れ星とはまったく異なるのだ。
そこで、テングとはそもそもなんぞや、ということになるわけ。
そこで、トルコ語。
トルコ語で、tangi(タンギ)は「神」を意味する。
漢語の天狗(テング=流れ星)が、トルコ語のtangi(タンギ=神)と入れ替わったのだろう。
その結果、天狗が天を走る狗から神通力を持つ赤ら顔で鼻の高い神的妖怪に転化した。
この神的妖怪は、明らかにコーカソイド的な容貌なのだ。
この入れ替わりの元にあるのが、トルコ語のtangi(タンギ=神)だ。
そして、そのトルコ語を話していた可能性が最も高いのが秦氏、というわけだよ。
あははははは。 八幡神がヤハウェだとして
応神天皇や大日如来との習合をユダヤ人がするかねえ 在日韓国人にとっては残酷な真実だが日本民族の起源は東アジアとは全く異なり
地中海沿岸から縄文時代に渡来したコーカソイド系の人種だと判明している
古代から高度な文明を持ちアジア唯一の先進国となれたのはそのためだろう >>936
>ギリシャ系の改宗ユダヤ教徒
そんな連中がいたなら確実に記録に残ってるが
どこに書いてあるんだ? 虚言癖のオカルト野郎 >>937
本物のバカかお前は? 痴呆症か?
だったらお前が>>924で主張するようなヤマトの和人と摩擦を避けるために仏像を拝み狐の神を祭りましたなんて必要なんかどこにあるんだよ知恵遅れ >>939
するわけない
ギリシャ系がユダヤ教に改宗したとかいうキチガイだから相手にしなくていいよ
そんなことは歴史的にユダヤ人がギリシャ人を支配したという歴史的な事実がないのでありえない
逆はなんぼでもあった なんせギリシャ系はアレクサンダー大王からクレオパトラがローマに下るまでずっとユダヤより強勢だった
ギリシャの後継であるローマがユダヤ人を支配したのは御存知の通り
これだけでもアホが妄想を押し売りしてるだけとバレちゃうのw >>943
ノンノン。
このアナトリアの黒海沿岸のコミュニティーがユダヤ教に改宗したのは、歴史事実。
この改宗者たちが後にカスピ海北岸のハザールへ移住し、ハザール王国がユダヤ教に改宗するきっかけとなったのも歴史事実。
東ローマの勢力とイスラム勢力の北進に対して中立を保持する方法の一つがユダヤ教への改宗だったの。
この地域の当時のトレンド。
世界史の普通の事実だな。 >>942
バ〜カ。
裏でユダヤ教を信心してたのよ。
仏像を拝んだりする表の顔は、営業。 >>941
おめ、中東の歴史に詳しくないようだから、教えてやらん。
自分でググれ。 >>939
八幡神に応神天皇を習合させたことは、歴史的にはっきりしており、
元々は、八幡神と応神天皇は無関係。
そして、宇佐の八幡神(ヤハタ・ヤハダ)の語彙の由来はヘブライ語のyhwdy(ユフディ=ユダヤ人)だとするのが、秦氏=ユダヤ人説。
宇佐の八幡神の宿る三角池を造ったのが渡来人だとされ、その渡来人とは秦氏だという説明だな。
このヤハタ・ヤハダがヘブライ語のユダヤ人(ユフディ)からの転化かどうか、はっきりせんな。
もし、八幡(ヤハタ・ヤハダ)の語彙が外来語由来だという線からみた場合、当時すでに文章語となっていたヘブライ語よりは、秦氏が話していた口語からみてみるのがよい。
秦氏はトルコ語を話していたとする立場からすると、ユダヤ人はトルコ語ではyahudi(ヤフディ)なので、ヤハタ・ヤハダはヘブライ語のユフディよりもトルコ語のヤフディのほうが発音的に近い。
しかしまあ、八幡神(ヤハタ)については、データが少なすぎるので、保留するのがよいと思う。 そもそもな話
サンスクリット語とヨーロッパ言語が同じ祖語なんじゃないかって言われてたり
なら、、、 940
んなわけないだろ
それどんな願望抱いてんだか妄想抱いてるんだか知らないがそんな考えを出してるてめえが気持ち悪いんだよ >>945
アホ? ヤマトは一神教の国でもないのにユダヤ人が偶像崇拝を偽装する理由がどこにあるんだよこのチンカス お前は全く分かっていないは知恵遅れが >>944
ハザールとかギリシャ人じゃないからな いい加減なこと書くなよゴミ それにそこら辺の連中が東アジアに移動したなんて歴史は一切ないw 妄想を書き散らかすなよ ハザール国 7世紀から10世紀の遊牧民国家 ww 渡来秦氏と全く、完全に関係なし
>>944 は頭おかしい >>947
ヤハウェ以外を崇拝してたらユダヤ人じゃないのでは? ソグド人ならテュルク系言語を話してもユダヤ教の影響を受けたマニ教を信じてても
おかしくはないからまだ話はわかるんだがなあ >>950
な〜んもわかってないな。
現在、信心フリーの日本で一神教がどんだけシェアもってるのよ。
それみても分かるだろう。
一神教のユダヤ教が当時の日本で生き延びようと思えば、地下に潜るよりなかったのよ。
そして、表の顔は普通の多神教を看板にしたわけ。
別に秦氏がそのような選択したんだから、それでいいじゃないかよ。 >>951
アナトリアの改宗ユダヤ人が、8世紀頃にカスピ海北部のハザールへ移住したのは事実だからな。
ギリシャ人は、元々交易業者が多い。
そのギリシャ人がアナトリアの黒海沿岸へ移住して、街をつくったのも事実。
ペルシャ人の交易業者もこの街へ移住した。
そうした交易人がカザフ平原へ交易で進出したのよ。
カザフ平原の人民らが西方の貴重材をどっさり持っていたのも事実。
だれがその貴重材を運んだのか、考えたら分かるだろう。 隠れユダヤ教徒は、いくらでもいた。
近現代でも、ヨーロッパでキリスト教徒として暮らしていたが、じっさいにはユダヤ教徒だったという人はたくさんいたよ。 >>955
ソグド商人が東西交易の主役に登場するのは4世紀以降。
弓月氏が渡来するのは4世紀後半。
なので、ソグド商人が勢力を張り始める前が問題の時期になる。
その時期はバクトリア商人が東西交易で幅を利かしていた。
このバクトリア商人はギリシャ系なので、弓月氏と比べるならこのバクトリア商人が適当。
しかし、弓月国があったのはこのバクトリア商人がいたバクトリア地方よりももう少し北のタリム盆地なので、弓月氏とバクトリア商人を結びつけるのは気が進まない。
第一、このバクトリア地方ではギリシャ語、その後はイラン系の言葉が用いられた。
トルコ語は影が薄い。
やはり、弓月氏は、バクトリアやソグドよりももう一つ北のカザフ平原からアルタイ山脈の古シルクロードの交易者の系譜だったと思う。 現在のトルコ語を話すチュルク族は、元々はアラル海の北の広大な平原地帯にいた。
この部族が10世紀ころから南下してイスラム化し、現在のトルコ国などに住むようになった。
したがって、4世紀頃にはカスピ海の北部からアルタイ山脈付近までの古シルクロードの広大な地域の西側半分あたりが現在のトルコ語を話す部族が住んでいた地域になる。
4世紀後半の弓月氏が現代のトルコ語と類似する言葉を話す渡来人であったとすれば、この古シルクロードにおいてその言語を習得したことが考えられる。
つまり、アラル海の北の東西交易路に近いのは、カスピ海北の平原地帯であり、ここから東行してトルコ語地帯へ入ったと想定するのが妥当だ。
そうすると、そのカスピ海の北地帯はトルコアナトリアの黒海沿岸からは目と鼻の先に位置しており、そこにはハザール地帯がひろがっているわけで、
8世紀にはギリシャ系・ペルシャ系の改宗ユダヤ教徒が移住してハザール王国をユダヤ教に改宗させるきっかけをつくったことでも分かるように、
普通に交易路がアナトリアからカスピ海の北地帯につながっていたことが理解できる。
こうしたことから、弓月氏の先祖の改宗ユダヤ教徒がアナトリアから北へ交易に出て、ハザール地域からアラル海北のチュルク族の地帯を東へ進み、
同じチュルク族が住むアルタイの南のタリム盆地へと進んだと考えることは可能になる。
秦氏がトルコ語を話す改宗ユダヤ教徒であったと考えることは、荒唐無稽な話ではないのである。
そして、現に、秦氏の周辺はユダヤ教の色彩が濃厚にあり、その色彩をトルコ語によってリアルに炙り出すことができるということなのだな。 >>957 >>962
一神教のイスラム教やキリスト教なら改宗しなければ虐殺されたから改宗してたんだよ
縄文時代から和の精神があった日本でそんな状況はない
お前はユダヤ教やイスラムなど一神教の厳格さを知らないからそんなアホなこと言ってるけどな
秦氏がやったように自分から手を上げて仏像を受け取り拝んだり仏教寺をあちこちに建てまくる理由なんかあるわけない
仏像や狐霊を拝むギリシャ系でトルコ語を話すユダヤ教徒?w
ないない
お前は全く論拠となる論文なども示さない 自説の主張の仕方も知らない学のない低能が妄想を喚いてるだけ
そもそも秦氏系の豪族は長く生き残ったが、どこにトルコだのユダヤ教徒だのを証明する物証があるんだ 一切ないわw >>955
ソグドとかイラン系ならそうなんだけど こいつらはなんでもユダヤ・ユダヤだからw >>957
だったらユダヤ人だとお前が言うところの秦氏が始めたお稲荷さん信仰はどう説明するんだ?w
狐信仰なんか大王家を始め、どこの有力氏族もやってなかったことだぞ
どう説明するんだよ 飛鳥昭雄みたいな妄想家さんwww ユダヤ人がアレクサンドリアなどでユダヤを遥かに上回る水準のギリシャ文化に傾倒し転向したりローマ市民になったりキリスト教徒になってしまった記録はなんぼでも残ってる
このアホはギリシャ人がユダヤ教に改宗したとかほざいてるが、そんな離散したユダヤ人の宗教に改宗した国が(秦氏が日本に渡った)4世紀まで待っても世界史上のどこであったというのか?w
ユダヤ人が狐を拝んでましたwとかどう説明すんの?w
妄想を巻き散らかすのもいい加減にしてもらいたいわけよ >>963
仏像や狐霊は、営業。
広隆寺の「いさら井」→エルサレムの井戸=シロアムの池。
エルサレムのトルコ語読み→yerusalim(イェルサリム)→いさら
シロアムの池はユダヤ人の聖池で、エルサレム防衛の象徴。
広隆寺のある太秦一帯をエルサレムに擬しているわけ。
それが「いさら井」の意味。
わかるかなあ〜、わからね〜だろうな〜。 >>966
ウィキですら次のように書いとるがな。
「前7世紀頃からギリシャ人が黒海沿岸各地に入植を始め、タナイス、パンティカパイオン、オルビアなどの植民都市が建設されていった。これらの植民都市は北の草原地帯に住むスキタイ人やサルマティア人から穀物や奴隷を購入し、ギリシャ産の葡萄酒や武器などを取引した」
この植民都市が東西交易の一大拠点となっていたのよ。
そして、紀元元年前後頃になって、ペルシャから来たユダヤ人によってこのギリシャ人らはユダヤ教に改宗したわけ。
この改宗は、地中海勢力とイスラム勢力のはざまでどちらにも呑み込まれずに中立を保つ方法の一つだったのよ。
そういうわけだ。
ちゃんと歴史調べろ、バ〜カ。 >>968
訂正
タイナス、パンティカパイオン、オルビアは黒海北岸のギリシャ人植民都市なので、黒海南岸の植民都市とは別だ。
黒海南岸のアナトリアの植民都市はアミスス、トラぺズスなどだ。
ユダヤ教に改宗したのは、このアミススなどの植民都市だな。 ウィキによると、
「ソグド語は中央アジアにおける交易語であり、中国人商人とイラン商人との間の共通語でもあった」
と書かれているな。
ソグド語は中期イラン諸語のうちの一つで、「5世紀〜7世紀にソグド人は貿易商人として活発に活動した」とされているな。 >>970
まあそこはテュルク系を話すソグド人もいたかもしれない、くらいの話だな
そもそもソグド人に違いないという話では無く
ユダヤ人と決めつけるならソグド商人等のシルクロード商人の方がまだ話はわかる
というレベルだし >>972
4世紀後半頃に渡来してきた弓月氏(秦氏)がソグド人商人だったとしたら、それ自体はなんの問題でもないのよ。
弓月氏がゾロアスター教徒で、それが日本の神世界にも影響をもたらしたとしても、それ以上の問題にはならない。
渡来人の漢氏が、それ自体としては何の問題も提起されないのと同じ。
ところが、弓月氏が特に取りざたされる理由は、どうも弓月氏にはユダヤ教関係の背景があるのではないかとの疑問が出てくるため。
ユダヤ教の場合は、世界的な広域ネットワークがあって、弓月氏(秦氏)についてもそうしたネットワークの背景があったのではないかと注目されることになるのだね。
この点が、弓月氏(秦氏)が謎めいて取りざたされるゆえんなのよ。 ユダヤ教の世界的な広域ネットワークなんてその時代無いよ >>967
そういうとこだけ自分の妄想に都合よく解釈するお前みたいなアホなんか相手にしてられないわ
お前の主張の根拠としている文献と該当するページを明示してみろ
飛鳥昭雄やオカルト連中の本は出すなよ >>967
お前はバカだから何も知らないのだろうが狐信仰を持ち込んだのは秦氏で他の誰にも強制されていない
なので営業とか意味不明な言い訳で逃げようとしても無理だから わかったかオカルト低能ヤロー >>973
>ユダヤ教の場合は、世界的な広域ネットワークがあって
はい、さっさとお前の妄想の根拠となる文献と該当するページを示してみろや チンカス >>974
ユダヤ教に関する理解度が、極めて低いな。
ユダヤ教が局外中立の方途の一つとなっていたことは、アナトリアのギリシャ系コミュニティーがユダヤ教に改宗して地中海勢力とイスラム勢力に呑み込まれない立場を保持したことは、先に述べた。
ユダヤ教の性格がそうした局外中立を保障したということだ。
そこで、いずれの勢力に対しても局外中立を明らかにするユダヤ教が、部族間を行き来する交易者にとって身の安全と物資の運輸を保障するものであったことは疑う理由がない。
とすれば、ユダヤ教徒による交易路の保持が、最も安全な物流をもたらしたと考えて不都合はない。
日本〜カザフスタンなどの古シルクロードには、こうしたユダヤ教徒による交易ネットワークがあったことは、まず間違いないな。 >>976
田の神の使いが狐であるとして各地に狐塚があるが、
この狐塚と稲荷信仰が結びつくのは近世になってからだ、とウィキに書いてあるし。
弓月氏(秦氏)が渡来したのは、4世紀後半だ。
よ〜く考えてみようぜ。
アホ〜。 キツネに例えた神話なんか逆転に日本の方が
ほとんどないわ >>979
無理やりの言い訳乙
お前の言い訳には笑ったわ アホだから辻褄が全く合わない
上位の存在である王族が推進した仏教、だから仏像を預かり祀った ユダヤ人だから偶像崇拝はありえないが お前は「営業」だからとか苦し紛れに言い訳した
狐は何? 田の神? 民間信仰かよww
それをダヤ人である秦氏がなんのために壮麗な狐の神社まで建てて祀る理由があるの?w
狐とユダヤがなんの関係があるんだよヘボ低能知恵遅れ!!
もうむちゃくちゃだよねお前は
まあお前の妄想珍説は破綻したということでいいよな >>978
だからお前の主張の論拠となる文献と該当するページを書けよ
お前の脳内で生み出された与太話にいつまで突き合わせるんだゴミカス >>983
アホじゃね。
まだだれも研究したことのない分野に、まともな文献あるわけがあんめ。
秦氏関連の地名などとトルコ語との対照がこの分野の最初の学問レベルの資料なんよ。
つまり、ワイが草分けということだな。
そのワイのあとに道ができる。
どっかで聞いたようなセリフだろ。
わははははは。 ここではまともな文献を下地にした話がしたいので
別のところでやってもらえるか? >>984
古代トルコ人たる突厥は秦帝国と対決してたほうだからさ
そもそもお前の妄想の”トルコ語を話す秦氏”の部分だけでも辻褄合わないわけよ
そもそもユダヤ人が4世紀までに東アジアに来てたことすらすら出来ないのではお話になりませんわ
妄想を振り回し論拠を示さないのならオカルト版で同類どもと戯れておれ エテ公が >>985
すでに固まった資料のある話をしてどこがおもろいのよ。
みな学者の研究成果の受け売りをするだけじゃんか。
資料のない秘境の話をこそせんかい。
アホ〜。 >>986
突厥は6世紀だわ。
匈奴のまちがいだろ。
この匈奴の中核がいかなる言語を話す種族であつたかは、謎だな。
カザフ平原の西側がトルコ語の原郷なのは、すでに判明しているわ。
4世紀後半に渡来した弓月氏(秦氏)が、トルコ語を話すユダヤ教徒だったのは、まず間違いないな。
なので、トルコ語を話すチュルク系部族が多くいたそのカザフ平原をこの弓月氏の先祖が通ってきたことは確かだろう。 匈奴はただのモンゴル人 日本の渡来人にも匈奴人がいる >>988
日本に渡来云々以前に、ユダヤ人が4世紀までに東アジアまで来ていたことをまず証明しろということ
それすら出来ないなら話にならない >>991
4世紀以前の倭地にユダヤ教がもたらされていたことを示すデータはまったくない。
4世紀後半に渡来した弓月氏が本拠地を構えた山城の太秦には、ユダヤ教関連とみられる地名などが想定される。
弓月氏がそのユダヤ教徒だったことが推定される。
ユダヤ教自体は中東に発生したものだ。
中東からやってきたのは明らか。
トルコ語で太秦関連の地名などを調べれば、ユダヤ教が4世紀後半〜5世紀にかけて太秦にあったことが判明する。
そこから結論されるのが、弓月氏(秦氏)トルコ語話者ユダヤ教徒説だ。
こうした最初の説は、いずこでも拒否反応が出るものだ。
とくに迷妄頑固者にその拒絶反応が著しいな。 ほら、あと7つでめでたくパート2へクリアできるぞ。
がんばりたまへ。 >>992
何一つ証明できないいカスなんか相手にされなくて当然 クリミア・タタール人から「もみあげのあるユダヤ人」と呼ばれたのが、クリムチャク人だ。
1世紀頃に黒海沿岸へ定着したユダヤ人と考えられている。
このクリムチャク人はチュルク諸語の一つであるクリムチャク語を話していたそうだ。
このあたりも弓月氏(秦氏)と関連がありそうだな。 フェニキア人なら東南アジアまでは来た痕跡がある
フェニキア文字とヘブライ文字はほぼ同じで
フェニキア語とヘブライ語は方言レベルの差しかない
文化もほぼ同じでヤハウェ信仰かバアル信仰かくらいしか違いがない
アジアで見つかるユダヤっぽいものはフェニキアと考えた方がいいよ >>996
仮に東南アジアにフェニキア語を話すユダヤ人が来ていたとしても、そのフェニキア語を話すユダヤ人が4世紀後半〜5世紀頃に日本にも来た痕跡をみつけることはできるかが問題。
フェニキア語とヘブライ語がよく似た言語だとすれば、ヘブライ語でその痕跡を探れるかが焦点になる。
ヘブライ語で解けると喧伝される日本語は、どうもこじつけの感じがする。
太秦の秦氏の周辺で、ヘブライ語で解けるものがあるか。 >>995
「もみあげ」のある人物埴輪は、6世紀後半の千葉の芝山古墳群から出土しているし。
その埴輪が出た前方後円墳の二重周溝は、なんと長方形だそうだ。
前方後円墳の周溝が長方形なんて、聞いたこともない。
長方形は、ユダヤ教の幕屋の形だそうだしな。
弓月氏(秦氏)は、クリムチャク人と関係あるかもよ。 ないない そもそもユダヤ人が万里の長城の内側にある秦漢ではなく貧乏暮らしで食料を求め中華の国を襲っていたという遊牧民系と行動をともにしていたという発想からして頭おかしい >>998
頭おかしなこじつけいい加減にしてくれ
ユダヤ人に墓の周囲に周溝をつくる習慣が合ったならともかく、祈りを捧げる幕屋の形が同じく長方形だから千葉の古墳はユダヤ人の墓?
キチガイ理論炸裂やな
同じようあん墓がイスラエルで見つかってからいえ 低能こじつけ野郎
もちろんそんなもんないわなww このスレッドは1000を超えました。
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