秦氏など渡来人のルーツは?
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>>672
まあ、時期は遅れるが、ペルシャ系景教徒が中国の開封に来て、そこで長らく定着していたのは事実なんだし、秦氏が4世紀後半頃に日本に渡来し、やや遅れて漢氏なども渡来したのも事実。
この渡来者たちと、時の政権の政策や経済動向などがリンクしていた可能性は非常に高いね。
もちろん、彼らは日本では協調的に暮らしたのだろう。
そこらが面白いところよ。
ただ、ユダヤ人と日本人が元のところで同族だというのは、これは飛躍しすぎだ。 >>669
それは一理ある
囲碁板をみていると面白いよ
囲碁はチョンゲーだの日本で人気がないのは当然なんだのと必死に書き込んでいる
バカネトウヨが常駐している
囲碁は清少納言から徳川家康、大久保利通まで趣味にしていたものなのにね
どうしても「日本は中韓とは根本から違うんだ 日本民族は優秀なんだ 世界囲碁ランクで韓国が日本よりも強いのは囲碁が日本のゲームじゃないからだ」と感情的に思い込みたいようだ それ。面白い説なのに狂信者のせいで台無しになってる 人類兄弟といえば、んじゃオレ兄貴なとかなんとか言い出すやつもいるからな。 >>669
ユダヤ人の子孫では?と言われるのが秦国から徐福に引率されて渡来した秦族と物部。
秦族は徐福が初回、出雲、山陰地域に渡来した際に引率されてきた二千人の人たちの子孫。
物部は同じく徐福が二回目の渡来を果たして九州の佐賀に上陸、吉野ヶ里を本拠地とした際に引率されてきた三千人の人たちの子孫。
どちらも秦帝国が平定した国旧斎国/山東半島の人たち
スサノオ。は、キキ神話編纂に際して徐福=ニギハヤヒ/ホアカリとは書けない事情から、オツムを悩ました結果、
徐福の出身地の蘇州(そしゅう)を反転した州蘇をスソ(スサ)の男とし、スサノオを考案したらしい。
蘇州の蘇、イスラエル/ユダヤを暗示する文字だとか? 日ユ同祖論、英ユ同祖論、中ソ同祖論
どれもこれもトンデモ説。
世界中で詐欺やっているなw
そのくせして、唯一、信憑性がある
アラブユダヤ同祖論は、あまり主張したがらないw >>678
もう、いい加減にしろと言いたいw
日ユ同祖論みたいなトンデモ説、
これだけDNAの研究が進歩して
とっくに否定されているのにw
なぜ、こんな胡散臭い説にしがみ付くのか、
知りたいねw 日本人のY染色体を調べて
徐福伝説、日ユ同祖論も
どれもこれも無理のある説ってのが
DNA的に証明されている。
分子時計からみて、日本人のY染色体で、
徐福のいた時代に日本へ渡来してきたであろうY染色体は
現在の日本人の中に殆ど皆無といってよい。
つまり、彼らの渡来伝承は嘘か、あるいは渡来しても、
日本の主流派になれずに消えていったと、みられているわけ。 >>682
秦始皇帝を祖先とする氏族があるから、さすがに徐福を祖先にする渡来人はおらんな。
徐福を祖先とする氏族が一人二人くらいいてもいいのに、と思ったらなんと一人いた。
徐福の孫の古座侍郎という者がこれだが、崇神のときに紀州から三河へ移ったとされる。
しかし、それ以降、徐福を祖先にしたその古座氏は歴史から消えてしまったという怪談。 始皇帝の直系の子孫はいないけど。
日ユ同祖論は、血縁じゃないけど古代中東の
文化を共有はしてる感じ。
神道関連の諸々の概念は弥生時代ぐらいに
入って来たものなんじゃね。 秦氏トルコ語話者ユダヤ教徒説からすると、旧約聖書出エジプト記最後のエピソードの(モーゼがめざしたユダヤ人入植の約束の土地)は武蔵(むさし)だったことが分かる。
というのも、トルコ語でモーゼはmusa(ムサ)であり、そして、このムサに方向を示す倭語の(し)を加えたムサシは(モーゼの方向=モーゼがめざした所)の意味になり、
このムサシに漢字を当てたのが武蔵(むさし)だからだ。
この武蔵の国は今の関東地方に当たるのだが、しかし、秦氏が考えた本来のムサシの国(モーゼが目指した国)は、
どうも千葉県中部の九十九里浜にある横芝光町あたりであった形跡があるのだ。
この横芝光町あたりには木戸川が東西に流れ、その河口は九十九里浜に注いでいる。
そして、木戸川の上流には6世紀後半の有名な芝山古墳群など多数の古墳群がある。
この古墳群のうちの最大の前方後円墳である殿塚古墳の場合、ユダヤ教の超正統派的な姿をした人物埴輪が出土しているうえに、
その前方後円墳の周溝が二重の荘重さに加えてなんと形が長方形なのだ。
前方後円墳の周濠は、盾形であるのが普通なのだが、それが長方形という珍しさなのである。
しかも、長方形はユダヤ教では幕屋を表す表象でもあり、超正統派的な姿の人物埴輪と合わせて、
この古墳群の築造集団がユダヤ教徒であった気配が濃厚なのである。
そこで、秦氏が名付けたとみられるムサシの国(モーゼが目指した国=武蔵国)に関連して、この芝山古墳群のある横芝光町あたりの古代の国名に注目すると、
驚くべき国名が現れるのだ。
続く >>684
最近は、神社の神はユダヤ教の影響があるとする説が目立つ。
それで、その影響の始まりが弥生だということらしい。
弥生時代に、すでにユダヤ教徒が渡来していたのかな〜。 横芝光町などの木戸川周辺は、6世紀頃には武社国とされ、その地方を治めた者は武社国造と書かれている。
武社はブシャではなくムサと読むようだ。
この武社国造(ムサノミヤツコ)には、和邇氏系の人物が就任して牟邪臣(ムサノオミ)の臣姓が授けられている。
臣は最高の位だ。
どうも、大和朝廷の東北地方編入政策の関東の根拠地がこの武社国(ムサのクニ)で、
海上航路による人、物の搬入拠点となったとされている。
その6世紀後半の横芝光町の古墳群の最大前方後円墳の周溝が非常に珍しい二重の長方形であり、
その古墳からユダヤ教の超正統派的な人物埴輪が出土しているのだから、
この武社の国の運営のために現地に送り込まれた集団が秦氏系のトルコ語を話すユダヤ教徒だった可能性が高まるのだ。
そもそも、この地域が武社国(ムサノクニ)と呼ばれるようになるのは6世紀頃からで、それまでは海上国(ウナカミのクニ)だったとされている。
千葉県全域が海上国だった。
その地方全域の中間付近に武社国が設けられて海上国は分断され、その海上国をまとめていた勢力は衰退したとされている。
さて、武社国の(ムサ)の意味は何か。
秦氏が武蔵国(ムサシ=モーゼの目指した国)と呼んだとみられるムサノクニのムサと、
この千葉県横芝光町付近の武社国(ムサノクニ)の発音がまったく同じであり、そこに送り込まれたとみられる集団が造った最大の前方後円墳の周溝がユダヤ教の幕屋を示す長方形であり、
またその古墳からはユダヤ教徒の超正統派の姿と瓜二つの人物埴輪が出土したことを考え合わせると、
秦氏はこの横芝光町あたりを旧約聖書の聖なる入植地イスラエルの中の中心地と見立てた可能性が高まる。
それが、武社国(ムサノクニ)の名の由来なのではないか。
この場合の武社(ムサ)は、ユダヤ教徒を導いた(モーゼの栄光)とでも言えるネーミングだったのではないだろうか。
なんとなれば、そこがまさに旧約聖書に書かれている日の昇る東の海辺の土地であり、神に祈りを奉げる所と指定された場所だったからである。 日本神道とユダヤ教が同じわけないだろう。
よくもまあ、そんなデマが言えるな。
日ユ同祖論というトンデモ理論について その1
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=606
日ユ同祖論というトンデモ理論について その2
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=608
日ユ同祖論というトンデモ理論について その3
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=609 秦氏のルーツは
朝鮮半島にいた辰韓諸国の一か国かだろう。 >>687
武社国(ムサノクニ)についての上記の解釈に別の角度から光を当ててみると、ムサは文字通りモーゼ自身を指しており、
モーゼの埋葬地を想定していることが分かった。
秦氏が描いたその筋書きを見てみることにしよう。
モーゼは約束の地を目前にして亡くなり、神によって死海を望むネボ山に葬られたとされている。
そのネボ山はユダヤ教、キリスト教の聖地であるがイスラム教でもやはり聖地であって、
ネボ山の近くにはイスラム教の寺院が造られている。マカーム・ナビ・ムサという名で、(モーゼが留まる所)という意味だという。
つまり、モーゼが葬られた所ということだ。
ここで、これまでに述べてきたことを振り返ると、千葉県横芝光町を流れる木戸川流域付近の地域の国名であった武社国(ムサノクニ)は、
大和朝廷の東北地方編入政策のための大根拠地であったわけだが、これは大和から海路を経て関東に入るための上陸地点であったことによる。
これを地理的にみれば、約束の地であるモーゼの目指した所、即ちムサシ(武蔵=関東地方)を南側から見る位置にあるのが武社国(ムサノクニ)ということになり、
武社国(ムサノクニ)が武蔵国(ムサシノクニ)に入る一歩手前の場所に当たっていることになる。
そこで、モーゼが葬られたネボ山が約束の地の一歩手前の場所にあることと、武社国(ムサノクニ)が約束の地と想定された武蔵国(ムサシノクニ)の一歩手前にあることとが地理的に非常に合致していることからすると、
この武社国(ムサノクニ)がモーゼの葬られた場所として想定されているとのではないかと考えることは、ごく自然である。では、モーゼはその武社国(ムサノクニ)のどこに葬られたと想定されたのであろうか。
続く >>691
それこそが、木戸川中流域の丘陵の上に築造された前方後円墳の殿塚古墳ということになる。
この古墳には極めて珍しい長方形の二重周溝が巡らされていて、しかもその長方形はユダヤ教の幕屋を思い起こさせ、さらにまた古墳の墳丘からはユダヤ教の超正統派の姿とよく似た人物埴輪が出土しているのだ。
このことが、この長方形の周溝の巡らされたこの古墳こそがモーゼを葬った場所にふさわしいものとして築造されたものだと考えることを可能にし、モーゼのトルコ語発音と同じムサ(武社)の国名がこの地域に付けられた理由も、理解しやすいものとなる。
そして、このように考えると、この地にムサ(武社)という国名がつけられ、そのムサがトルコ語でモーゼを意味していることは、旧約聖書出エジプト記のストーリーのエピローグを描いているものだとみなすことも可能にしている。
京都太秦の松尾山(マッツオ=種無しパン)を振り出しとして、約束の地であるムサシ(モーゼの目指した所=武蔵)を上り点とする双六の一歩手前の神がモーゼを葬ったネボ山に当たるのが、この武社国(ムサノクニ)の丘陵上の殿塚古墳ということになる。
つまり、神がモーゼをネボ山に葬ったとされることと、丘陵上の芝山古墳群の殿塚古墳を巡る周溝が二重しつらえの長方形に造られていることことは、まさに筋書きの上のストーリーがぴったりと合致しているということなのである。
このように、秦氏が旧約聖書の出エジプト記の壮大なストーリーを日本の国土の上に描いたことは、秦氏がユダヤ教徒の渡来人であったことをみごとにに示しているといえるのだ。 >>689
このブログの書き手は、昼間のテレビワイドショーの解説者たちよりもさらに落ちる無能解説者だね。
何とか先生が書いたとする引用文は学者らしい分析が書かれているが、この書き手はそれを教条的にかざして日ユ同祖論者を揶揄しているが、自身はためになるような分析をなんら示していず、ミーちゃんはーちゃん的なごたくを連ねているだけのしょうもなさ。
こんなブログは、何の役にも立たんな。
あほじゃね。 >>690
波旦という町があったらしいが、その町と秦氏が関係ありそうだとする論をみたことがあるが、秦氏は朝鮮半島人民の出自ではないだろうな。
朝鮮半島出自なら、5世紀頃には日本からかの地へ渡る者たちが少なからずいたから、それとすぐ分かっただろうから、秦始皇帝の血族だと胸張ってもすぐバレたはず。
また、百済系の渡来者から、ありゃ新羅の誰それだと指さされたはず。
そんな形跡はみられないから、朝鮮半島出自説はないだろうと思うな。 渡来系なら王仁とか遡れば秦の将軍に繋がる一族と言われているから秦氏も可能性はあるよね
彼ら自身も「大陸系であって土着の半島人ではない」と全力で否定してたし
彼らの土木技術は先進的であって京都で河の整備を任されたが大陸の技術を持ち込んだと言われている 秦氏は大陸の技術をもって荒れ狂う桂川の整備を成功させたと言われているわね >>696
当時の日本にまだ存在しなかった「産業」を持ち込んだのが秦氏。
朝鮮半島へ兵員などを送り込んだ倭国のその国力を担った勢力が秦氏だったということになる。 日本が朝鮮半島を支配したなんて中国に書かれちゃったから鮮人が必死w 任那、伽耶には鉄資源などを求めて倭人も中国人も進出していたし 倭人が定住しまくってたので前方後円墳とかも見つかってるわけです 壊して埋めてるそうじゃないか。
日帝残滓は清算しなくては、と。 朝鮮人は中国東北部から来たフヨやモンゴルら騎馬系の血が濃厚ですぐ破壊行動にでてしまうんでしょう
倭人は抜歯の習慣など長江周辺の古代人と同じですが まあ、沖ノ島の国家祭祀の始まりである4世紀後半と、秦氏の祖先が渡来した4世紀後半がまったく重なっていることが面白い。
また、宗像と山城秦氏は山陽道の山間ルートで結ばれており、秦氏の交易上の利益と海運宗像の利益が一致していたということだ。
そのルートが国家によって安定的に機能したことで、秦氏は安心して東国へ移民と交易品を送り込むことができた。
朝廷の東国経営の利益と秦氏の利益は、やはり一致していたということになる。 4〜6世紀のグローバル化は騎馬民族のおかげ。天皇の兄弟相続、末子相続とかも騎馬民族の風習。 >>705
鮮卑はモンゴル系とされる。
C2主体。 >>703
遼河文明の最後の段階の夏家店上層文化人の骨からは、O2、C2が多数を占めているそうだから、O2の北方への拡散は早い時期に起こっているとみるのがよいな。 >>706
さらっと嘘を書くなよ
日本に「末子相続」なんて風習はない >>712
あれ、海人系は末っ子が家督を受け継ぐみたいだけど。 「漁師 末子相続」でググってみなよ、いっぱいあるから。 >>714
日本 長子相続
でググってみなよ いっぱいあるから >>717
あっ、そうだったね。
神ちゃん、末っ子だよね。 >>717
初期の天皇って誰だよw 具体的に書いてみなよ >>721
このおっさんだろ、5世紀の弓月を現代語でユンクエと読んだのは。 >>723
訂正
弓月(ユンクエ)→弓月(クンユエ)が正しい。 弓月君がトルコ語を話すユダヤ教徒だったのは、間違いない。
当時、トルコ語を話すチュルク族がいたのは、カザフ平原からアルタイ周辺。
弓月君は、この北方古シルクロードを交易をしながら東進した、ギリシャ系、あるいはペルシャ系の改宗ユダヤ教徒だよ。
その元々の改宗ユダヤ教徒の源郷はアナトリアの黒海沿岸東部。
弓月君が話す言葉としては、ヘブライ語の比重はごく低かっただろう。
ヘブライ語は、すでに書き言葉と化していたからね。
なので、日本における秦氏(弓月君系)の周辺では、トルコ語の名称などが明確にみられる。
秦氏は、トルコ語話者だったのだ。 太秦(うづまさ)の意味は、(3つの机)。
この(うづまさ)は、(うづ=3)+(まさ=机)というトルコ語ね。
ユダヤ教の(幕屋の祭礼)を意味している。 ユダヤとか言っといてなんでそこだけトルコ語になるんだよ! >>727
当時、ユダヤ人は各地でいろんな言葉を話していた。
ヘブライ語は文章語としては生きていたが、話語としては死語だった。
今のヘブライ語は20世紀になって人工的に復活させたもの。
なので、秦氏がトルコ語を話していても、なんの不都合もないのだ。
ユダヤ教徒なんだから、それでOKだった。 俺は大津の穴太出身なんだけど、ここは7世紀には百済人が開拓した渡来系用の移住区で、城の石垣の大部分を担った穴太衆もその末裔らしい
こういう渡来系の多い地域は戦国時代までの人の移動が小規模の時代には、在来の和人とどれ程混血したのか気になる
他の日本人より百済人のDNA濃そう
https://www.homes.co...reform/reform_00542/ 障害者は在来の日本人の方多いでしょ
沖縄あたりなんか血が濃いから大変らしいで 障害者が多くないならちゃんと他所の地域と通婚して来たという事でしょ >>732
百済人と言っても王仁のような中国系、中国東北部から南下してきた騎馬系(非漢族)の支配者層、土着の連中の混合体。
血がどうたら言うほど純潔でもなんでもない
そもそも名前に「百」がついてる時点で多くの民族が混合した国ということ 百済人意識があったのは王族や貴族だけであろうが彼らもすぐに溶け込んでしまった
桓武天皇が百済を含む渡来系の女を囲いまくったので当時の渡来系も上から下までスムーズに溶けたのではないか
渡来系の職人や技術者はナンボでもいた 支配者は甘くはない 日本の豪族の管理下に置かれ必要に応じ移住もどんどんさせられた 渡来系の知識人や技術者から学んだりサポートすべく倭人の弟子が多くつけられた「〜部」である
すぐに渡来系も大和言葉を学び溶け込んでいった >>740
韓国系って何だよクソアホ 歴史の勉強してから出直してこい 虚言癖民族 >>732
もう少し北の野洲川あたりは、弥生後期にはレンガが出ているからなあ。 >>732
琵琶湖南部周辺は、朝鮮半島から来た渡来人が関東などへ散っていくハブ空港みたいな場所だったんさ。 >>740
だったら土師器や須恵器じゃなくて所謂韓式土器使ってる筈だろうが 今は人の移動なんて気軽に出きるけど、戦国時代時代ぐらいまでだと、そういう百済系と大和民族との混血がどれだけ進んだんだろうか
近江とかあの辺りは百済人とかの血が確かに濃そうだけど、あんがい大和民族と混じってるもんかな? というか大和朝廷自体が地方豪族に渡来系技術者を分配したり
東国の未開拓地に戦闘捕虜やら亡命者やらを送り込んでるので >>746
その辺はDNA解析で大体わかってるんじゃないの? 日本人の遺伝子は驚くほど均一化されていて
全国で通婚が盛んだった事がわかっている >>737
其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(隋書)
だからね >>703
カザフ族にj2、i2がみられるな。
中東系が北上したということになるね。 カザフは最も古いシルクロード地帯だからね。
あちこちから来た商人が行きかった。
j2、i2はその子孫だろうな。
モンゴルの図では、それがほとんどなくなるし、
満州では、まったくゼロ。 >>746
渡来人はあちこちで、活発に家畜飼育をやっていた形跡なし。
動物性タンパク質は、山でイノシシ狩ったり、川で魚獲ったりして補給しなければならなかった。
山や川は縄文人の縄張りだったから、渡来人は生きるために縄文人化しなければならなかった。
つまり、縄文人との嫁とり婿入りで同化していった。
混血はどんどん進んでいったということ。 お前を中心に動いているわけではないんだよ、
何度言えばわかるんだ?
それとも漫画やアニメの話をしているの? かなーり前の話になるんだけど、
話を合わせてあげあるから、好きなことを書くと良いと言ってる人がいたでしょ >>732
司馬遼太郎なんかも、穴太衆やら近江商人のルーツが渡来人だなんだとか言ってたな
>「歴史を紀行する」の滋賀の章で、近江人の商才という特質は、朝鮮からの帰化人に帰すると考えるのが一番素直であるとし、菅野和太郎氏の著書「近江商人の研究」を紹介している。
その大意は、商人的素質をもった高麗の帰化人が湖東に移住し、本国に習って市を開き、
叡山と結んで専売権を確立、商権を拡張して飛躍し、農民、武士からの転向者を加え、全国の行商行脚に力を伸ばした、というようなことである。
https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA-%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C/
さすがに江戸時代の近江商人と古来の帰化人を結びつけるは司馬先生どうかしてるだろと思ったが、
近畿の人間は顔が大陸の人間っぽいし、渡来人のDNAが濃く残ったとかありえるか?
地域によっては亡命百済人とか数千人規模で移住したようだし、そんな地域なら日本人と少々混血しても、
渡来系の形質を強く引き継いでるとか? >>758
家は、その家のではない、近江の出身でもないし、
同じにするなと言っているんだよ 太平洋戦争のあとやってきた朝鮮半島系の人と近江の人と、仲良く付き合いやってるのかね。 いや、また、高野新笠の実家の人と、太平洋戦争後にやってきた朝鮮半島系の人は、仲良く付き合いしてるのかね。 また、さらに、奈良時代に関東に移住した高麗若光の子孫の人と、太平洋戦争後にやってきた朝鮮半島系の人らとは、仲良く付き合いしてるのかね。 燕の東のほう見切れてるが何かあるなそういえば・・・ 倭に渡来してきてから千数百年もたち、その間、元の地では国が滅亡したりしてもう縁もつながりもなくなっているのに、今になって戦後朝鮮半島からやってきた人と関係あるかといわれてもなあ。
わしら知らんで、というほかないわ…と困惑する近江人だったりして。 同じ難民といえど片道切符でやってきて日本社会に溶け込んだ王侯貴族や知識人、技術者の末裔がなんで最下層の白丁朝鮮人とつるまなアカンねん
頭おかしいやろ 朝鮮人は南北が戦争やめたらじきに朝鮮に帰るんやで >>753
カザフ平原では、ギリシャ系、ユダヤ系、イスラム系の商人が競合していたらしいな。
秦氏は、そのギリシャ系の改宗ユダヤ教徒だろう。
しかも、チュルク系部族相手の商売してきたから、トルコ語を話していた。
秦氏が渡来した移住者を送り込んだ武蔵国の武蔵(ムサシ)とは、「モーゼが目指した所」の意味で、(ムサ)はモーゼを意味するトルコ語だからな。
秦氏がユダヤ教徒だったのは、トルコ語によって解明できるんよ。
ヘブライ語が喧伝されているが、秦氏はトルコ語話者だったから、ヘブライ語の線は薄いな。 商人って複数の言語話すんじゃね。複数の宗教やら習俗にも通じてたり。
えろんな奴と取引すんのにトルコ語しか話せませんねんじゃ
しょうもないべや。 >>768
カザフあたりで取引相手がチュルク系だったら、わざわざペルシャ語習う必要ないわな。
トルコ語オンリーで通してきた秦氏の祖先が、日本に来てトルコ語だけ話したとしても、それは普通のこと。 弓月国はアルタイ山脈の南にあるタリム盆地にあったとされる。
5世紀頃までには、このタリム盆地は高車と呼ばれるチュルク系の勢力が根を張っていた。
そこへモンゴル系の柔然が勢力を張ってきて、チュルク系の高車は柔然に服属することになる。
秦氏の先祖の弓月君は、4世紀にはこの弓月国で交易を生業にしていたと思われるが、モンゴル系の柔然が勢力を張ってきたことに嫌気をさし、
東へ移住した一族だったと考えられる。
なので、弓月君(秦氏の先祖)がタリム盆地にいて、日常語としてトルコ語を話していたのは異とすることではなく、ごく普通のことだな。
弓月君は、タリム盆地を離れてから、案外短期間で倭に着いたのではないか。
日本書紀の記すところでは、それは4世紀の後半だそうだ。 秦氏がトルコ語使ってたという記録や金石文がどこかに残ってるんですか >>771
当時の石彫り文字記録や金属器鋳造文字が必要かい。
今は病院送りになってしまったが、長年研究をしてきたさる天才が残したノートがあり、
それには秦氏研究がビッシリ書き込まれている。
それには、なんと秦氏とトルコ語の関連が書き込まれていた。
秘蔵書だから、うかつなことは言えんがね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています