秦氏など渡来人のルーツは?
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>>772
その研究者のノートには、太秦(うづまさ)の(うづ)はトルコ語のus(ウス)で、数詞3を表しているそうだ。
(まさ)は同じくトルコ語で机を表している、としている。
つまり、太秦(うづまさ)はトルコ語で(3つの机)の意味であり、この(3つの机)とはユダヤ教の幕屋での祭礼の際の重要な3つの設備である祭壇のことだといっている。
幕屋の入り口付近の犠牲を焼くための祭壇、次に神に奉げるパンを置く机、そして奥の香炉を置く祭壇がこれだそうだ。
ユダヤ教では数詞3は聖数なのだそうだ。
一方、出雲大社本殿付近から鎌倉時代に建てられた本殿の柱の根本部分が出土している。
大木を3本一括りにした巨大柱なのだが、この柱の呼び名が宇豆柱(うづばしら)なのだ。
この巨大柱がなぜ宇豆柱(うづばしら)と呼ばれているのか、はっきりしていないという。
そこで、この巨大柱が3本一括りであることと、トルコ語の数詞3が(ウス)であることとを合わせて考えると、宇豆柱(うづばしら)とはトルコ語の数詞3(ウス)と和語の柱(はしら)を合わせた複合語だと解釈ができるというわけだ。
ということになると、この宇豆柱(うづばしら)と京都の太秦=禹豆麻佐(うづまさ)の(うづ)は同じ発音であり、京都の太秦の禹豆(うづ)もトルコ語の数詞3ではないのか、ということなってくるのだ。
こうしたことから、トルコ語で太秦(うづまさ)を解釈すると(3つの机)の意味になり、それをユダヤ教と重ね合わせてみると、この(3つの机)とは幕屋の祭礼の3つの祭壇のことを表しているのではないか、という結論になったようだ。
そして、その他のことも合わせると、秦氏は本拠地の京都太秦をどうやら聖地エルサレムに擬しているようだ、とこの天才研究家はみなしているのだね。 >>774
この秦(しん)の字を用いたのは、祖先に箔をつけるためであったことも考えられるね。
日本書記雄略紀では、すでに秦造(はたのみやつこ)と秦の字が用いられている。
日本書紀ができたころには、すでに遠祖を秦の始皇帝とする祖先神話ができていたのではないか。 >>778
出雲大社の神殿ほかに関わる「三」や「八」はユダヤとは全く違い、
出雲族のルーツのインド時代から信仰の聖なる数に拠ります。
神話ほかに「八」がある場合はそれは出雲の何かを伝えているかと思う。
因みに千木が×(交差)しているのも、勝男木が三本なのも出雲族の太古よりの信仰の表われです。 >>780
秦族、秦氏は、秦の始皇帝を二度も舌先三寸で騙し詐欺して巨万の財貨をせしめ
あらゆる職業の職人並びに前後併せて五千人余の秦国人を引率して渡来した
徐福/徐市(フツ=フツ主/フツミタマ)の大集団の内、
前期?の山陰地方(当時は出雲王国の心臓部)に渡来、帰化した2千人が後に海部/秦族になりました
後期の残り三千人は有明海に入港して吉野ヶ里に本拠地を定め、筑秦国を建てます。それが筑紫に変化。
彼らはまた、物部といわれ、物部王国等とも。
神武東征の遠因が、徐福が日本列島の王になる野望を抱いて渡来するも夢は脆くも阻まれ破れた事から子孫に何時か(出雲王国とその係累らを滅ぼして)大和国(日本列島)の大王になれ!と伝承されていたのかも? >>780
八岐大蛇のオロチは8つの頭部をもつ大蛇という意味。
7頭の頭部を持つ蛇の図像がシュメールの壁画にすでにある。
日本書記の編纂者は、このシュメールの7つつの頭部を持つ蛇の伝承を治癒動く文献かなにかで収集して、スサノオのエピソードに脚色した可能性が大きい。
その7を8に翻案したのは、日本の聖数が8だったからだろう。
そんなところだな。
出雲大社の宇豆柱(うづばしら)の(うづ)は、トルコ語の数詞3を表すuc(ウス)由来だろうな。
日本書記雄略紀では、太秦(禹豆麻佐)の名の由来を「絹かとり(糸偏に兼)を奉献りて、朝庭に充積む」と書いており、この(充積)を(つむ)と読んでいるが、
(積む)の(つ)と(禹豆=うづ・うつ)の(つ)が同じ語彙であるようにはみえない。
禹豆(うつ)の語意は、出雲大社の宇豆(うつ)と同じ語彙だろう。
とすると、出雲大社の宇豆柱が3本一括りの巨大柱であり、その宇豆(うつ)がトルコ語の数詞3を表すuc(ウス)の由来である可能性が高いことからして、発音が同じである禹豆(うつ)もトルコ語の数詞3だとするのがよいと思われる。
数詞3は日本でも尊ばれる数詞であり、(いっぱい、みちる)の意味がある。
日本書記は禹豆麻佐(うづまさ)を(めいっぱい積む)と解釈しているわけだから、この禹豆(うつ)がトルコ語の数詞3であることと矛盾しない。
天才研究家は、そのように考えているようだ。
たぶん、間違いないね。 >>781
この説からするとニギハヤヒは出雲の一派ということになるが、そのニギハヤヒは河内に飛び降りた伝承になっているので、ここのところどうつながるのか教えてチョ。 >>421
日本酒関連の本をいくつか読んだんだけど、
醸造学の世界的権威だった坂口謹一郎氏は日本の酒造りにおいて、口噛み酒や麹を使った原始的な酒を「民族の酒」と呼び、朝廷が成立して以降の大陸の技術が入ってきた酒を「朝廷の酒」とし、
柚木学は『酒造りの歴史』の中で、律令時代の朝廷において、技術を持っていた品部は渡来系が多く、造酒司のもとで朝廷の酒造りを担った酒部のほとんどは朝廷半島からの渡来系だったと書いてるけど、この酒部も秦氏の関係者なのかな?
造酒司は平安時代まであって統括者は秦氏だったと書いてる酒造関係者のサイトもあるけど、この頃になっても渡来系の一族が酒造りしてたの? >>781
吉野ケ里は大きな遺跡だけど正直、当時の世界最強と言える始皇帝から金と技術者をせしめて出港した大集団にしてはレベル低すぎです
中国では初期の吉野ケ里ができる時代を遡ること数百年、春秋時代には瓦葺きの屋根が当たり前になっていましたし
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1326799248
吉野ケ里では土器しか出てきていませんが、当時の中国では陶器が当たり前になっていました
徐福一行が来て作った国ならもっとマシな技術レベルを誇っていたことでしょう
大陸から来たにしても戦乱を逃れて着の身着のままに近い状態で逃れてきた人たちレベルじゃないでしょうか 秦氏は朝鮮半島を介した交易を牛耳っていた節があるが、その交易路である対馬海峡に秦氏が相当な影響力を持っていたことが考えられる。
壱岐は朝鮮半島からみて2番目の島であるが、その壱岐(イキ)の島名の意味は不明だ。
どんな意味の言葉であるのか、誰も明確な答えが出せていない。
そこで、秦氏はトルコ語を話していたと考えられるので、トルコ語からこの壱岐(イキ)の島名を探ってみると、トルコ語でiki(イキ)は数詞2である。
つまり、トルコ語でiki(イキ)島とは2番目の島という意味になる。
これはまさに、壱岐が対馬の次の2番目の島であることと、みごとに合致するのだ。
壱岐(いき)とは、秦氏が呼んだ島名であることが推定できるのである。
なお、この見解は、天才研究家のノートに書いてあることだよ。 そもそも「トルコ語を話す秦氏」なる寄論に誰も納得してないよね >>790
見たことも聞いたこともない事には、だれでも最初は拒否反応を示すもの。 出張するのは勝手だけど 当然、 論拠は示さんとお話になりまへんで
誰かのノートに書いてあるとか勘弁してほしい
壱岐が対馬の2番目!とかお宅は興奮してるけど意味不明ですから 大体トルコ語って何 ?
トルコがいつ建国されたか知ってんの?
それがユダヤ人と何の関係があるの?
トルコ人の先祖がどこ発祥か知ってて秦氏がどうのこう書き込んでんの? >>793
トルコ人の先祖がどこにいたか、書いてみなさい。 >>793
…それがユダヤ人と何の関係があるの? ということだけど、どうして秦氏がユダヤ人て分かるの? >>795
お前のいうトルコ語って何だってきいてるんだよ まず答えろ >>794
隠岐や沖と同じく「海の向こう」という意味でしょうね >>797
チュルク系の言語には、現在トルコ語、カザフ語、キルギス語などがある。
わしが言うとるトルコ語とは、現在のトルコ語じゃ。 >>798
イキが「海の向こう」という意味であることをちゃんと解説してね。 >>799
鮮卑はモンゴル系、あるいはチュルク系とされているが、秦氏を鮮卑系とする根拠は? 802
秦氏は中国にいた、いいとこなんかの職業持っていたどちらかっちゃ下層民て認識やが? なんか勘違いしてんじゃねこいつら
秦氏がエリートみたいなんを妄想していたとか?
部民てのわかる?職業民だよ 言ってみりゃ寺院作るなら秦氏が自分らで大工して寺院を作ったりあとは京の町を作ったくらい自分らで建築から石工までやる集団
それが秦氏← 天皇を平安京に向かえるとき秦氏が平安京を作って迎えた!言われてるな(°▽°)
文字通り、秦氏が平安京を作ったんだよ
縄張りして山から木を切り出し建物作って屋敷作って 法隆寺から寺院なんかも下手すりゃ古代の建造物作ったんは秦氏かもしれんなあ(°▽°)
つまり文字通り自分らで作ったんだよ
ほとんど渡来人らによって作られたんだろな(°▽°)
そりゃ認めるよ(°▽°)
使えない権力者のカスなんざいらんでよ 職種で氏姓をつける制度は北朝つくる前の鮮卑由来だしな 田(でん、田氏?)という人がいたりするけど、
そういう人は何なんだろう
日本の話 wikiによると
>田氏は媯姓(中国語版)で、舜の末裔とされる。
媯姓・・・・・・・・・・専門用語が出てきたりw
読み方も「デン」 鮮卑語は完全に不明
モンゴル系と思われるのでモンゴル語で考えるしかない >>806
普通に大陸から技術者来てるから
国家的巨大プロジェクトがそんな単純だと思ってるなら脳みそのレベルやばいよ 『渡来人とは何者だったのか』という本のなかで、当時の航海技術や秦氏の地位を考えると、大陸なら日本へ渡ってきた秦氏の集団は50〜100人程度で、その後、在来の和人を秦氏が一族に組み込んで勢力を大きくしていったと書いてあった
この50〜100人って数字は妥当だと思う? 農民てか?
秦氏一族が渡ってきたときは職部ってのがいただよ
そいから秦の河勝←が平安京を造営して藤原京から天皇が平安京に移ったの
飛鳥京→藤原京→平安京 まったく現代がこ〜だからこの理由でこーなったあんたらやってんのだよ(°▽°) 秦の河勝が平安京を造営したの
そんで藤原京から平安京に遷都した
これが平安時代の始まり あの平安京って一種の城塞都市やな
設計から間取り、建築を行った張本人(°▽°) だから前に書いたじゃん(°▽°)
秦氏が拠点にしたのは越前だってな
中国風の寺院みたいなんか神社なんかよく分からん建物を作りまくったま〜一種の大工屋集団や 渡来人としての秦氏らみたいなんが県何県の住民らを率いて日本に渡ってきたって渡来人名簿にあるだろ 秦氏みたいなんが来てから日本に寺院を連中が作り始めたり神社の⛩元みたいなん作り始めた
まず最初に近江あたりにいっぱいできただ(°▽°)
そっから神社系列は全国に広がったわけ
まあ神社の元祖は正解 >>816
モンゴル語でkhudaldaachin(フダルダーチン)は、商人。
khudal(うそをつく)+daachin(あなたは)=商人。
このkhudal(フダル)は、ハタに音が近い。
ハタ氏のハタがモンゴル語由来だとすると、ハタ氏のハタとはモンゴル語で商人という意味になる可能性がある。
モンゴル人は基本的に遊牧牧畜が生業だから、ハタ氏はモンゴル人ではなく外来系の商人だったということになってくるな。
一方、トルコ語には旅を意味するseyahat(セヤハット)がある。
この旅を意味するseyahat(セヤハット)を短縮したhat(ハット)がハタ氏のハタの由来だ、というのがハタ氏トルコ語由来説。
旅籠(はたご)のハタ(旅)と同じだ。 秦氏と言えば製鉄と織物
商人でも旅人でもないからなあ >>829
秦氏が製鉄やっていたというのは、初耳。
5世紀段階で、製鉄日本にないし。
とにかく、ハタ氏のハタの語義解明が重要。 製鉄なんてやってたんかね?
それからハタの字の語源てや? 中国から来た職人連中の総称って文献に書いてなかったか? 製鉄は完全に中国系渡来人の証拠
山東半島の東來(蓬莱)にいた連中など製鉄をしていた国々があった
半島の伽耶のあたりで鉄の原材料が出るので来て採掘しビジネスにしていた
なのでいまでも東來の名前がその地に残っている
彼らはやがて日本にも技術者として渡来するようになる >>832
その連中の総称のハタて、どんな意味なんよ。
中国語でハタの意味は? >>658
>秦氏がユダヤ教徒であった可能性は高い。
4世紀末〜5世紀頃に景教はまだ中国に来ていい
景教=キリスト教は後漢成立間もなくの1世紀半ばには都の洛陽に到来していて、
後漢帝国全土に教会を建て盛んに布教活動を行っていた。
、、、とは「後漢書」が伝えているところ。
因みに同時期、仏教も後漢に到来しました。 それから京都の初期の警備役人だのやってたんが漢氏だで
時代が降り没落して源氏や平家が台頭してきた
平家はもとか国衙の役人上がりから武士団を形成したのが多い
源氏も勢力伸ばしたが平家より遅い 漢氏の末裔らみたいなんで摂津源氏に仕えた子孫らもいたな >>839
道教はその思想や教儀がユダヤ教と大変類似していると言われます。
日本列島に道教をもたらしたのが徐福(徐市(フツ)/彦福)。
前後併せて五千人余の海童(秦国人(ほとんどが旧斉国の少年少女))を引率して渡来しました。
前、一度目は二千人の海童らと共に出雲王国に至り、
密かに王に為らんとして色々引っ掻き回した(出雲王国の主副二方の王を殺害するテロをヤラカシタ)末に夢叶わず母国に逃げ帰ったとです。
その際、引き連れてきた二千人の海童らや出雲王女の嫁と御子の五十猛らをやむを得ず置き去りにしましたです。
五十猛が長じて海童(秦国人)らを呼び集めて丹波に集団移住して丹波国を建て、五十猛改め海カゴヤマを号しましたです。
徐福さま、二度目は先ず伊万里に入港しましたが、南に広い土地(筑紫平野)があると聞いて回航して有明海にはいり、吉野ヶ里を本拠地と定めて、
リベンジを謀ります。
出雲王国の分家、宗像王家の末女、市杵島媛と政略結婚して
ホホデミとホヤ媛をうみます。
ホホデミは後の物部(初期天皇家。物部イクメ大王=垂仁。から三代。)の祖となり、
ホヤ媛は先の異母兄の海カゴヤマに嫁ぎ海(天)村雲をうみます。
カゴヤマや村雲らは丹波人(元秦国人や子孫ら)を武装させて大和に南下侵攻して出雲王国のテロ大事件の影響で出雲から葛城に大量移住していた出雲族らを圧倒した事で
出雲族は村雲を大王に推戴する等して連合国家/大倭国(大和の最初の王権)を建てました
天皇系譜上の神武は海村雲命で以降9代、実際には11代約300年の命脈を保ちましたが、
ホホデミの子孫、物部イクメ王=垂仁の侵攻、平定されて滅亡しました。
遡って徐福が山陰地域に引き連れてきた海童ら二千人が後々秦族の大集団になりますです? 838
そんでおまえの知ってることは書かないんか? >>843
徐福さまが二度目に渡来した際には前回より多い三千人の海童やあらゆる職種の職人、身内や一族朗党と共に渡来。
吉野ヶ里遺跡は徐福の故郷の臨鯔城と良く似た造りになっているそうです? おいちょいとまともなことくらい書いたらどおなんだよ(°▽°) >>846
これらは元出雲王国の王家の伝承による正しい歴史かと思われます。 徐福?
それほとんど誰かが言い出した妄想話が定番化しただけ
説みたいなんで語ったのがいたんだろ
それの真贋問うのはこちらの役割りではない 事実として発表したら一笑されるだけ(°▽°)
向こうの文献にそ〜書いてあった部分があったってだけよな 中国あたりの部分から見つけてからそーいう話が広まったものばかり
徐福が日本にきたなんて伝説すらない >>848
徐福は元々、徐市(フツ)と言います。
「福」がお好きだった事から自分の名前としたらしい。
始皇帝を二度も騙し詐欺して蓬莱山=日本列島に渡来。
一度目は渡来する一年前に事前工作員のホヒと子のヒナドリらを
当時、最大版図を誇り栄える出雲王国に送りこみ財宝や珍貴な物等の贈り物をする等して(銅鐸の原型となる楽器、祭器も献上した)
媚びて上陸許可を取り付けた後に
徐福ら本隊は石見の五十猛海岸に上陸。
、、、海を埋め尽くした船舶から上陸するさまは蟻の行列の様だったと伝わります。
徐福は直ぐに心臓部に食い込み、出雲王国の第8代オオナモチ、八千戈さま(いわゆる、大国主は概ねこのお方)の妹媛の天道媛/高光媛を娶り出雲神族に列しました。 紀元前後ころから半島あたりにも商業都市みたいなんができた遺跡でてんじゃなかったか
それと似たよ〜なんが北九州にもできただろ
これ唐人街の話、中国みたいな民家が長崎あたりにもあるで >>845
全然違う アホな書き込みいい加減にしとけ 中国はその当時すでに始皇帝陵 あのレベルがの建築技術があった
巨大な石垣で囲った城壁都市があちこちにあった 万里の長城も作ってた
何が吉野ヶ里遺跡と似てるだよw アホな妄想で笑わせんなwww >>852
長崎のは清や民の時代で全く関係ないわ知恵遅れが >>851
おいゴミ アホな主張するなら証拠の一つも出してみろ そだっけ?
唐人街は福岡あたりにもあったろ
中世くらいの話やで 知恵遅れって?
都合よい話するなら論証やるから情報だせや >>857
笑 お前が出せよ 中世からあるという根拠を示してくれ はいださないから却下〜
言ったことくらい分かるくらいの知能くらいあるだろ >>859
はあ? 最初に変なこと言い出したやつ>>852に要求しろよ低能 >>835
旗(ハタ)を織っていたからハタ氏とな。
旗を織っていたて、何か根拠あんの? 七夕、機織り?
本当は他の家の話だと言っている人がいたよ、 これらの写真にみえる顎の骨太な頑丈さは、北部中国人の特徴。 >>862
機械のことをハタと読む例が、このほかにあんの? >>862
ハタ氏が織機を多数導入してハタ印の布地を一手に生産していたから、そのハタ印の布地を織る織機をハタと呼ぶようになり、そこから機織り(はたおり)の言葉ができたのだろう。
だから、機をハタと読むのは、ハタ氏のハタからの借訓だな。 だから旗🚩でしょ
それから漢をアヤってのは文字の読み書きみたいな話からだったと思うよ 旗となる機織りをしている人らが多く目に付いたからハタ氏 ハタ氏が生産するハタ印の布地を織るための機械だから、その織機をハタと呼びならわした。
つまり、機織りの機(はた)の由来は、ハタ氏のハタにあることになる。
となると、では渡来人であるハタ氏のハタとはなんぞや、ということになるわけ。
そのハタはトルコ語だとすると(旅する者)という意味が考えられ、モンゴル語だとすると(商人)という意味が考えられるというわけじゃよ。
このほかに、ハタ氏のハタの語源はこれじゃ、という考えがあれば言うてみんしゃい。 >>869
旗(ハタ)のイントネーションと秦(ハタ)のイントネーションは異なるがな。 >>868
漢を(あや)と読むのは漢氏が織物工芸に長けていたためで、その(あや)とはさまざまな形や模様を表す言葉だとされるな。
布地に柄を織り込む技術に優れていたということのようだ。 トルコ系もモンゴル系も遊牧民系の名前はずっと長いよな
一文字姓は中国系のみ
日本は昔から二文字
秦氏は漢人系を自称してるし間違いなくそうだろう チベット系遊牧民じゃね?
ケサル王でも氏族名はリンと一文字姓だ >>873
秦(シン)の字は一文字だけど、読みはハタで二音。
中国語でハタと発音する字は何?
また、日本書紀では、秦氏(はたうじ)の先祖は弓月君と呼ばれていて、秦(シン)とは呼ばれていないね。
秦(シン)の字はあとから付けたのだろう。 哈達(ハタ) チベット語からの借用語
仏教で使われるマフラーのような長い布 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています