秦氏など渡来人のルーツは?
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
>>829
秦氏が製鉄やっていたというのは、初耳。
5世紀段階で、製鉄日本にないし。
とにかく、ハタ氏のハタの語義解明が重要。 製鉄なんてやってたんかね?
それからハタの字の語源てや? 中国から来た職人連中の総称って文献に書いてなかったか? 製鉄は完全に中国系渡来人の証拠
山東半島の東來(蓬莱)にいた連中など製鉄をしていた国々があった
半島の伽耶のあたりで鉄の原材料が出るので来て採掘しビジネスにしていた
なのでいまでも東來の名前がその地に残っている
彼らはやがて日本にも技術者として渡来するようになる >>832
その連中の総称のハタて、どんな意味なんよ。
中国語でハタの意味は? >>658
>秦氏がユダヤ教徒であった可能性は高い。
4世紀末〜5世紀頃に景教はまだ中国に来ていい
景教=キリスト教は後漢成立間もなくの1世紀半ばには都の洛陽に到来していて、
後漢帝国全土に教会を建て盛んに布教活動を行っていた。
、、、とは「後漢書」が伝えているところ。
因みに同時期、仏教も後漢に到来しました。 それから京都の初期の警備役人だのやってたんが漢氏だで
時代が降り没落して源氏や平家が台頭してきた
平家はもとか国衙の役人上がりから武士団を形成したのが多い
源氏も勢力伸ばしたが平家より遅い 漢氏の末裔らみたいなんで摂津源氏に仕えた子孫らもいたな >>839
道教はその思想や教儀がユダヤ教と大変類似していると言われます。
日本列島に道教をもたらしたのが徐福(徐市(フツ)/彦福)。
前後併せて五千人余の海童(秦国人(ほとんどが旧斉国の少年少女))を引率して渡来しました。
前、一度目は二千人の海童らと共に出雲王国に至り、
密かに王に為らんとして色々引っ掻き回した(出雲王国の主副二方の王を殺害するテロをヤラカシタ)末に夢叶わず母国に逃げ帰ったとです。
その際、引き連れてきた二千人の海童らや出雲王女の嫁と御子の五十猛らをやむを得ず置き去りにしましたです。
五十猛が長じて海童(秦国人)らを呼び集めて丹波に集団移住して丹波国を建て、五十猛改め海カゴヤマを号しましたです。
徐福さま、二度目は先ず伊万里に入港しましたが、南に広い土地(筑紫平野)があると聞いて回航して有明海にはいり、吉野ヶ里を本拠地と定めて、
リベンジを謀ります。
出雲王国の分家、宗像王家の末女、市杵島媛と政略結婚して
ホホデミとホヤ媛をうみます。
ホホデミは後の物部(初期天皇家。物部イクメ大王=垂仁。から三代。)の祖となり、
ホヤ媛は先の異母兄の海カゴヤマに嫁ぎ海(天)村雲をうみます。
カゴヤマや村雲らは丹波人(元秦国人や子孫ら)を武装させて大和に南下侵攻して出雲王国のテロ大事件の影響で出雲から葛城に大量移住していた出雲族らを圧倒した事で
出雲族は村雲を大王に推戴する等して連合国家/大倭国(大和の最初の王権)を建てました
天皇系譜上の神武は海村雲命で以降9代、実際には11代約300年の命脈を保ちましたが、
ホホデミの子孫、物部イクメ王=垂仁の侵攻、平定されて滅亡しました。
遡って徐福が山陰地域に引き連れてきた海童ら二千人が後々秦族の大集団になりますです? 838
そんでおまえの知ってることは書かないんか? >>843
徐福さまが二度目に渡来した際には前回より多い三千人の海童やあらゆる職種の職人、身内や一族朗党と共に渡来。
吉野ヶ里遺跡は徐福の故郷の臨鯔城と良く似た造りになっているそうです? おいちょいとまともなことくらい書いたらどおなんだよ(°▽°) >>846
これらは元出雲王国の王家の伝承による正しい歴史かと思われます。 徐福?
それほとんど誰かが言い出した妄想話が定番化しただけ
説みたいなんで語ったのがいたんだろ
それの真贋問うのはこちらの役割りではない 事実として発表したら一笑されるだけ(°▽°)
向こうの文献にそ〜書いてあった部分があったってだけよな 中国あたりの部分から見つけてからそーいう話が広まったものばかり
徐福が日本にきたなんて伝説すらない >>848
徐福は元々、徐市(フツ)と言います。
「福」がお好きだった事から自分の名前としたらしい。
始皇帝を二度も騙し詐欺して蓬莱山=日本列島に渡来。
一度目は渡来する一年前に事前工作員のホヒと子のヒナドリらを
当時、最大版図を誇り栄える出雲王国に送りこみ財宝や珍貴な物等の贈り物をする等して(銅鐸の原型となる楽器、祭器も献上した)
媚びて上陸許可を取り付けた後に
徐福ら本隊は石見の五十猛海岸に上陸。
、、、海を埋め尽くした船舶から上陸するさまは蟻の行列の様だったと伝わります。
徐福は直ぐに心臓部に食い込み、出雲王国の第8代オオナモチ、八千戈さま(いわゆる、大国主は概ねこのお方)の妹媛の天道媛/高光媛を娶り出雲神族に列しました。 紀元前後ころから半島あたりにも商業都市みたいなんができた遺跡でてんじゃなかったか
それと似たよ〜なんが北九州にもできただろ
これ唐人街の話、中国みたいな民家が長崎あたりにもあるで >>845
全然違う アホな書き込みいい加減にしとけ 中国はその当時すでに始皇帝陵 あのレベルがの建築技術があった
巨大な石垣で囲った城壁都市があちこちにあった 万里の長城も作ってた
何が吉野ヶ里遺跡と似てるだよw アホな妄想で笑わせんなwww >>852
長崎のは清や民の時代で全く関係ないわ知恵遅れが >>851
おいゴミ アホな主張するなら証拠の一つも出してみろ そだっけ?
唐人街は福岡あたりにもあったろ
中世くらいの話やで 知恵遅れって?
都合よい話するなら論証やるから情報だせや >>857
笑 お前が出せよ 中世からあるという根拠を示してくれ はいださないから却下〜
言ったことくらい分かるくらいの知能くらいあるだろ >>859
はあ? 最初に変なこと言い出したやつ>>852に要求しろよ低能 >>835
旗(ハタ)を織っていたからハタ氏とな。
旗を織っていたて、何か根拠あんの? 七夕、機織り?
本当は他の家の話だと言っている人がいたよ、 これらの写真にみえる顎の骨太な頑丈さは、北部中国人の特徴。 >>862
機械のことをハタと読む例が、このほかにあんの? >>862
ハタ氏が織機を多数導入してハタ印の布地を一手に生産していたから、そのハタ印の布地を織る織機をハタと呼ぶようになり、そこから機織り(はたおり)の言葉ができたのだろう。
だから、機をハタと読むのは、ハタ氏のハタからの借訓だな。 だから旗🚩でしょ
それから漢をアヤってのは文字の読み書きみたいな話からだったと思うよ 旗となる機織りをしている人らが多く目に付いたからハタ氏 ハタ氏が生産するハタ印の布地を織るための機械だから、その織機をハタと呼びならわした。
つまり、機織りの機(はた)の由来は、ハタ氏のハタにあることになる。
となると、では渡来人であるハタ氏のハタとはなんぞや、ということになるわけ。
そのハタはトルコ語だとすると(旅する者)という意味が考えられ、モンゴル語だとすると(商人)という意味が考えられるというわけじゃよ。
このほかに、ハタ氏のハタの語源はこれじゃ、という考えがあれば言うてみんしゃい。 >>869
旗(ハタ)のイントネーションと秦(ハタ)のイントネーションは異なるがな。 >>868
漢を(あや)と読むのは漢氏が織物工芸に長けていたためで、その(あや)とはさまざまな形や模様を表す言葉だとされるな。
布地に柄を織り込む技術に優れていたということのようだ。 トルコ系もモンゴル系も遊牧民系の名前はずっと長いよな
一文字姓は中国系のみ
日本は昔から二文字
秦氏は漢人系を自称してるし間違いなくそうだろう チベット系遊牧民じゃね?
ケサル王でも氏族名はリンと一文字姓だ >>873
秦(シン)の字は一文字だけど、読みはハタで二音。
中国語でハタと発音する字は何?
また、日本書紀では、秦氏(はたうじ)の先祖は弓月君と呼ばれていて、秦(シン)とは呼ばれていないね。
秦(シン)の字はあとから付けたのだろう。 哈達(ハタ) チベット語からの借用語
仏教で使われるマフラーのような長い布 犬食なんて聞いた事もないんだけど、
熊も豚も牛もない、ちなみに日本w
老婆の話によると、そうなんだよ、
最近(近代)になってから???????なのかな 馬肉というのも食べないし、老婆は食べたりしなかった、
買い物に行き、買ってきたということもないし、あとクジラの肉もw 『葱の華』
肉は食べなかったと言っていたり、
謎の写真に写っている母親という人がいるんだけど、何かの家の人だったかな?
近所にある、寺院などに通っていたり >>878
原始時代は世界各地で犬食文化があったが
文明が進むにつれて段々と廃れていったわけだから
犬食文化同士に関連性があるわけではない さいきば(さかきばら)事件^^?
肉体改造〜体つきも変化〜もともと(肉体)労働者の家ではない?
何か理由があり、そういうことになった? さいきば事件というのがあるでしょ
おじーちゃん(おずぼーん?)の話をしているような気がするんだけど、
漫画に登場するキャラクターの話 >>882
農耕に使う牛を食べないのに猟犬になる犬は食べるの? >>876
哈達はハタ、カタと呼ばれ、モンゴル族やチベット族が敬意を表すために用いる帯状の布だとされる。 >>887
モンゴルではハタクと呼ぶそうだ。
願う、祈る、敬う、慕う、感謝するなどのときにこの長い布を用いるそうだ。
青、白、赤、黄、緑の色がある。 他のスレにも書いたはず
家は『王母 寒いなー』と同じ名前の家なんだけど、
あの写真の家w寺院、仏教の話をしていたり 日本でいうと『かっぱっぱー』『浦島太郎』・・・その他? 本当に何なんだろう
上の名前の読み方も・・・、
読み方だけ変えたのかな?
まだ最近(数十年前?)の話みたいなんだけど >>888
モンゴル語にkhatakh(ハタフ)があり、消える、萎える、弱くなる、しなびるなどの意味だそうだ。
新車を買ったときなど、すぐにシャーマンのもとに行き、車に青い布を巻いてもらい儀式をして安心するという。
この青い布がハタクと呼ばれるもの。
一方、モンゴル語にkhatakh(ハタフ)の語彙があり、これは消える、萎える、弱くなる、しなびるなどの意味があるそうだ。
とすると、シャーマンが新車に巻き付ける青い布のハタクとは、災いを追い払い消すという意味のハタフが語源かも知れないな。 当時の日本に天皇(天王も)はいないでしょ?
どういう事なんだろう
『倭人 朝鮮人』
というのはいた?と書いている人がいたり 見るとチベット語からの拝借が多いみたいね
漢字にチベット語の意味を当てる、それが発音になる チベット語とエミシは同系統らしいから祖語が同じニダ(°▽°) 祖語分かる。
同系列の祖先から分裂した同士は祖語がにかよる >>896
ラサのチベット語は漢字音写しきれない
西康 >>900 四川省西康の羌系チベット民族の言語ならばer/n/ngしか音節の末にこないので
北方漢語に音写ができる >>895
農耕は牛の部分の例えで、狩猟が重要な役割を果たした時代に猟犬食べる?
農業を機械化してない地域では現代でもハレの日に村で牛一頭食べる程度だよ 秦氏は土木技術や機織りや「うず高く積み上げていた」という織物で知られたんだから騎馬民族系はないと思うの
そもそも秦氏や漢氏は特定渡来系グループの総称であって血脈のつながりではないようですが モンゴル、チベットの災いを消す長い布ハタクが秦(ハタ)の語源だとすると、秦氏のハタとはモンゴル語の(災いを消す布)という意味になるな。 モンゴル、チベットの災いを消す意の長い布ハタクと、日本語の旗(ハタ)は、同じか。
日本語の旗(ハタ)のハタは、旗布が風に煽られてパタパタと音を立てることに由来するとされる。
モンゴル、チベットの災いを消す意のハタクと旗(ハタ)のハタは、成り立ちが異なるようにみえるな。 チベット→モンゴル ハタがボン教の時代に伝わったとしても五胡十六国時代と割りと新しい
秦氏自体もその6世紀ごろの五胡十六国まっだだなかの渡来ということだ 7世紀のモンゴル民族は蒙兀室韋と呼ばれていた
日本に渡来してたらムロ氏だろうか >>909
五胡十六国の時代は4世紀初頭〜5世紀中頃まで。
6世紀には華北は北魏、華南は宋が支配している。
弓月氏は4世紀後半の渡来。
その後、秦河勝が活躍するのは6世紀後半から。 弓月氏(秦氏)がモンゴル・鮮卑人とは限らんな。
ユダヤ教徒らしいから、モンゴル・鮮卑語を話すユダヤ教徒の線もある。
とすると、トルコ語を話すユダヤ教徒、モンゴル・鮮卑語を話すユダヤ教徒の二つの線が浮上したということになるな。 モンゴルはプレスタージョン 景教を信仰していた部族がいた。 >>913
遊牧牧畜系のモンゴル人景教徒が日本に渡来する理由てなに? 914
景教徒が日本来た証拠ないニダ
中国には本家本元の碑がある、来てるから 日本に引っ張って作ったならそれは勧請って呼ばれるん 特に権威作りに使ったみたいな連中らが無茶苦茶やったからな あれこれ考えると、やはりトルコ語を話し中央アジアで交易を生業としていたギリシャ系改宗ユダヤ教徒が弓月氏(ハタ氏)の正体で、そのハタとはトルコ語のseyahat(セヤハット=旅)の短縮形のhat(ハット)に由来すると考えられる。
この(ハット=旅)の言葉は、旅籠(はたご)の(はた=旅)としても用いられた。
つまり、ハタ氏とは、(馬に乗って旅する者=交易者)というトルコ語による自称だということになるな。 秦氏の来歴について、ここまで具体的な姿を描いた例はない。
これまで秦氏についてあれこれ言われた例は根拠薄弱なものが多く、そのためにオカルト的な珍説の域を出るものではなかった。
しかし、秦氏が渡来した当時に話していた言葉がトルコ語であったとみなすことができたことにより、秦氏とは何者であったのか初めて学問的なアプローチが可能となったと言える。
例えば、秦氏が本拠地とした太秦(うずまさ)はユダヤ教徒の聖地エルサレムに擬制され、ユダヤ教の神に祈りを捧げるための幕屋であると設定されたことが分かる。
また、関東地方を指す武蔵(むさし)とは、秦氏にとってどのような土地であったのかも解明されるのだ。
こうしたことは、秦氏が話したと考えられるトルコ語からすべてリアルに割り出すことが可能なのである。
つまり、4世紀後半に渡来した弓月氏は、トルコ語を話すユダヤ教徒だったのだ。 なるほど ユダヤ教徒の秦氏が狐を祀ったり寺を建てて仏像を拝んだりしてたんですか? ww 秦氏は倭人との摩擦を排除するために、倭人の信仰をユダヤ教の信仰に被せて隠す擬制を行っており、広隆寺などを建てたのもそうした擬制だな。
広隆寺は聖徳太子を祀るために建てられたとされるが、どうも広隆寺の聖徳太子はユダヤ人の王であるダビデの擬制であるようにみえる。
つまり、広隆寺はダビデがエルサレムに建てた神殿を意味しているということだ。
このような擬制を秦氏は念入りに行っていて、普通には日本人の信仰の現れであるようにみえる、ということになる。 >>924
馬鹿すぎてワロタw 倭人は偶像崇拝なんか元々ないから摩擦は起こりようがない
低能すぎてロジックの組み立てが出来ないんだな おつかれ >広隆寺は聖徳太子を祀るために建てられたとされるが
いや違うよ 妄想はそれぐらいにしとけ
わざわざ秦河勝が自分に仏像を祀らせてくれと手を上げて祀ったのが始まりだよ
7世紀の話な 秦氏の渡来が4世紀
仏教渡来前にどうやって倭人と摩擦が起きたのか説明してくれや
それに7世紀の仏教渡来後に他の信仰を禁止にしたなんてどこに記録があるんだ 蛮行を重ねたカトリック位か。それでもプロテスタントの方は付き合い続いたからキリスト教自体は禁止してないもんな >>925
5世紀の山城や大和で「神はヤハウェだけ。倭人の神はみな邪神だから、排除すべき」と唱えることを想像してみるべし。
そして、そこらにある精霊をこらしめる姿を想像してみるべし。
秦氏が生き残れたかどうか、明らかじゃろな。 >>926
あれ、「広隆寺資財交替実録帳」には、広隆寺は聖徳太子の供養のために建立されたと書かれているし。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。