先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/ 身近で知ってる最も古い先祖がわかる家は1500年余り前だな。 いま自分の家調べてるけど、もしかしたら庄屋の家系かもしれない。
だったらいやだなあ >>85
どうせなら庄屋より下級武士の方がいいよな おまえね、それは現代のイメージだろ
現実は、現代でいいかえりゃ、
町長村長宅の大豪邸【長屋もんあり】、レクサス乗り【馬持ってるし】、地域で裕福で美人を選び放題、在地の殿様扱い、下層自衛隊なんぞがでかい口きいてた事実なし【下層武士が庄屋を呼びつけして庄屋から藩に生意気だと訴えられてるケースまであり】
名字対等後免、墓は上士と同格、実質地域武装警察署常態【庄屋は武器をたらふく所持してる】
地域の裁判権も独占、地域の商業権も独占、
下層武士【自衛隊】長屋暮らし【官舎暮らし】マーチ愛用【馬なんてもってのほか】3k【パワハラ上等】村長に呼びつけすらできない【庄屋にぶったぎられたケースあり】
墓は町人とかわらない、 永遠の隷属【人間扱いは上士からうけない】す〜ぱー貧困 世代ごとに全国各地から街道沿いに大きな都市に移って来て、
最終的に東京で自分が生まれるという。 庄屋っていっても地域によって農民だったり名字帯刀できる下級武士だったりするから差が大きいよ 苗字帯刀御免の農民であって、下級武士ではないだろう。 あのよ、下級武士ごときと一緒にすんなよけがらわしい
俺たちは名字対当がゆるされし名門の庄屋であって、下級武士ごときと格が違うだろ
在地の有望家は下級武士ごときに成り下がらず、武士の地位を捨てても在地の領主としての庄屋の身分を江戸初期大量の名門が選んだ
なんでぼろ長屋にぶちこまれて奴隷扱い受ける底辺なんかにならなきゃなんないのよ、俺たちゃ腐っても鯛だ馬鹿 下級武士がみんな「ぼろ長屋にぶちこまれて奴隷扱い受ける底辺」だと思ってるのなら、
時代劇の見過ぎだろ。 だから現代と一緒なのよ。
経団連会長と総理、知事と地元大企業オーナーでしょ、対等交際は。 >名字対当がゆるされし庄屋
周辺百姓からの年貢を横流し、土下座して得たんだよな ウィキペディアによると、庄屋の身分は百姓であったが、地元の有力な豪農が多く、戦国大名の家臣だった者も少なくないそうだ
もともと武士だったのなら苗字帯刀はもとからあったわけで、単に百姓になっても取り上げられなかっただけであって、土下座なんかする必要はない 召し出されなかったから土下座が必要になるんだよ
大坂町奉行組与力だった大塩平八郎の門人への接し方を見る限り、与力と同心は
主従に準じる格式で接し、与力が庄屋の名を呼ぶ場合には殿をつけ、庄屋は与力に
土下座していたようだ。
同じ与力の振る舞いでも、役目を背負って人に会う場合には、相手が大藩の家臣で
あろうとお上の威光を背負って平伏させ、私的な用事で会う場合には、相手が庄屋
程度でも殿をつけて呼んだようだけどね。 庄屋時国家は、藩主前田家ですら立ち寄った際、殿とよび、上座にも座ってないが? 通常「庄屋」っていうと戦後時代に主家なくしたりした土豪出身の元武士の世襲の庄屋のことをいうけど数としては少数なんだよ
ただの農民が選挙で数年やってたなんてのもあるし 庄屋身分が確立するのは江戸時代と、以前はいわれていた。
いまでも、畿内とかの例外的な土地以外では江戸時代成立と考えられてるんじゃないの? 村割りをして支配するという体制が確立するのは江戸時代だしね。
美作あたりでは戦国時代に一貫して地元勢力が振るわず、それこそ庄屋に毛が生えたような
支配層が中世そのままの郷村を束ねて他所の大勢力に従っていたようだ。 関東 200軒に一軒の豪農は古い墓と豪邸があるが、一般庶民は小作が多く子分
関西 すごい豪邸はないが、10軒に一軒位の割合で庄屋クラスがいて、分家も平等 >>108
10軒に1軒ぐらいの割合って組頭だろ
関西だと地方によっては年寄と呼ばれてるかもしれんが同じもの
集落ごとに組頭が年貢を集めるなど末端行政事務をやる
そして、その組頭を束ねて村単位の行政事務をやるのが庄屋だ そもそも、「村」という組織の規模自体からして、関東と関西で違いすぎるだろ
関西の村なんて人口百人二百人ほど、百に満たない村も少なくないが、関東ではこんな人数だと村じゃなく部落(差別関連のじゃなくて、村の一部分って意味)じゃん。 >>111
東北でも百人程度の人口に一軒の庄屋って普通にある。 「世界がもし100人の村だったら」という本が世界的にヒットしたことから分かるように
そもそも全世界の人にとって、村とはそのぐらいの人口のものであって、関東が異常 >>111-112
すまん、100とか200って人口じゃなく石高だったは
人口はその半分か1/3ぐらいだ@大阪府東部 >>114
関西平野部の村は小さければ100石を切ることも珍しくないけど、平均つーかたいていの村は
300石とか500石程度だ。もちろん河内国でもその状況は変わらない。
村の人口も、なんだかんだで石高とそう大きな乖離はない。 114
向きになって日本語をそういう使い方するのお前か〜
大阪人 旧高旧領取調帳のデータを使って、河内国茨田郡の村高の平均を計算したら、
約433石と出た。相給の村は別村として大雑把に扱ったから、実際の村高平均は
もうちょっと大きくなる。 4公6民だとすると、おおよそ、その6割が村の人口だね 埼玉県のうちの村(大字単位)だと庄屋は4家ある。
村の石高はちょうど千石位。
それぞれ三役があるから、今の大字単位に12家の役付きがあった。 明治初期、旧来の村を大規模に合併させて行政村を作った際に、旧来の村を大字と改めた
この場合、そこが実質的に4村に相当するって意味だろうな 四給の村だったんじゃね。
あるいは、枝村のような形で4つに分かれてたとか。 旗本複数の領地が混在しています。
山岡鉄舟の家の領地もあり、子供時代に庄屋の家に宿泊に来たりしています。 >>119
うちの田舎も幕末で1200石ぐらいで
庄屋になった家が4家あるな(あと1家もそうかもって言われてるから5家かもしれんが)
戦後、3つの村が合併して町になったけど
他の2村は 一つが室町から世襲の代々庄屋、もう一つが2家、この2家のとこは途中で不手際があって代わったらしい 庄屋は大変だと思う
代官や藩と百姓に挟まれて
最近、郡上一揆って映画見たが百姓から突き上げくらいまくって気の毒だった
ああいうことになると後々人間関係めんどくさそう ファミリーヒストリーで石田純一の先祖が江戸時代武士で庄屋だったとかイミフなことを言ってた。 江戸時代の庄屋はたしかに百姓身分だが、戦国大名の家臣がなることが多かったわけで、べつにイミフではないと思うよ
石田純一の先祖の場合は、六代前の祖先まで武士で、その家系を遡ると関が原あたりの戦いで紀州徳川の末端につながる武士だったらしい
その六代前の祖先が、ある村の庄屋として派遣されたとのことだ >>127
戦国時代に武士だった家が江戸時代に庄屋になるならイミフではないが、
石田純一の場合は六代前なら江戸時代中期以降だろう。
その時期に武士から庄屋になったというのなら左遷のようなもんだな。 左遷というよりも、名を捨てて実を取るようなものかと
貧乏武士が一夜にして億万長者になるわけだから、左遷とは違うと思う 貧乏武士だったって番組内で出てたか?
庄屋は必ずしも億万長者ではない。 鸚鵡籠中記には、非人になった武士の話が出てるし、当時でもよくあった話だろ。 れっきとした家臣が庄屋職を務めるってのは 聞かないね
郷士が庄屋やったり、庄屋が代官を務めたりってのは聞いたことあるけど 直江兼続とかの歴とした家臣だって、(直轄の/本貫地の)自領においては庄屋と同様の業務---勧農を行ってるじゃん >>133
同じ業務を行っているからといって同じ立場と言えるわけではない。
ピントがずれてるぞ。 大名家の家臣だったけど、改易後、帰農して庄屋とかならいるな
江戸時代初期は改易とか結構多かったから 明治の頭頃、祖母の名前を孫に付けるのって一般的だった?
父方の先祖には祖母と全く同じ名前を付けられた孫と言うのが存在した。
ややこしい命名するんだなぁと思ったけど、母方にも全く同じパターンの命名が存在した。
親子代々同じ名前なのではなく、祖母と孫が同じ名前。しかも長女ではない。
何なんだろう。 石田の庄屋は自称だろ。
江戸時代に武士が左遷で庄屋なんて事例は皆無に等しい。
庄屋と藩士は別個。
一介の藩士が身分失って庄屋なんてのは、よほどの天下りできる力が藩内にないかぎり、あり得んわ
例えれば一介の町役場の窓口対応公務員程度が左遷されて村長とか頭悪すぎだろ 自分の苗字を考察しましょう
バカな教職員から、田んぼの中にあったから田中など聞いた事が有るだろう
苗字は子々孫々に受け継ぐものである
己の子には字画など気遣うのに、苗字がバカな教職員の言うように単純な事で決まったと思うか
苗字とは考えに考え抜き己のルーツを辿った結果、至った苗字なのだ
自分たちは何処から来たのか、それを知らしめる唯一のツールです
田中・鈴木は確かに難しい。私にも分からない
菊を苗字に持つなら分かる。バカな教職員なら周りに菊の花が有ったとか何とかだろう
菊は天皇家の紋章である。しかしもっと深く突き詰めれば菊とは喜来に由来する事だと知る
何れにしろ喜来・菊は天皇家由来の地を示しているのです。羨ましい
この様に苗字が示す言葉は深いのである
バカな教職員の安い言葉には、くれぐれも惑わされないように気を付けましょう
奴等は教育者では有りません。公務員の役職である教職員でしかないです >>138
10年前の話だけど高校の日本史の先生が近代の授業(選択科目)で
「江戸時代一般人は名字がなかった」
「多分君らの古い先祖の墓には書かれてないかもしれない」
と言ってたのを思い出した
男系の直系の先祖でも所謂小作や平百姓の子孫って
言うほど多くないのかもと思ったりラジバンダリー >>139
一般人とは、百姓のことですよ。
職人とか商人は姓を名乗っています。 百姓という語句はもともと、「さまざまの姓」という意味の言葉で、庶民という現代語と似た意味の言葉だった
それは、庶民も姓を持っているという前提の元で成立した単語だったんだぞ >>139
江戸時代は公に名乗ることが出来なかっただけで、ほとんどは苗字を持っていた。 んじゃおれは、1000kmぐらい離れた遠い最果ての藩の藩主の分家で家老だとかいう人と同じ苗字な >>143私。
珍しい部類の名字だよ
江戸時代に藩主になる領主の女性とうちの先祖が結婚。
結婚をきっかけに名字が変わる。
600年位前。 144だが、こっちはそれほど珍しい苗字じゃないらしい
が、近所の親戚以外では始めて見かけたってレベルの珍しさではある
(にもかかわらず、苗字順位検索での順位は決して低くはない。ほかのひとたちはどこにいるんだろ?)
その家老の家との間に親戚関係があるような雰囲気がないので、それぞれの苗字の来歴が知りたいとこではある
なお。家老より、そこの藩の藩主の方が圧倒的に知名度も高く、苗字の人数も多いんだがな。
>>146
どこにでも居るようなありふれた苗字じゃない藩主って、どっかにいるかなあ、よくわからん。
鍋島とかは少なめかな? 江戸時代の藩主にはいない
室町時代までの守護大名は苗字はやはり際立っている 際立つほど珍しい苗字の守護大名も思いつかん
山名も赤松も京極も土岐も武藤も宇都宮とか上杉とかもぜんぜんレア苗字じゃないだろ
斯波、六角、畠山あたりのことをいってるのかな? は?
前田、酒井、木下、中川、土井、本多、浅野、池田、亀井、水野、山口、鳥居、山内、、
きりないが、庶民苗字だらけだろ。
まあ庶民からの成り上がりだから仕方がないが >>152
守護大名でも土岐や赤松みたいなのは前田とか酒井とか池田水野と大差ないだろ
成り上がった時期が古い以外は。
細川だって、足利氏の分家の一員とはいっても、末端も末端の出で、それら成り上がり勢と大差がない。 いやいやいやいや、なにいってんの?大差ないとかあり得ないわ >>156
鎌倉末期に倒幕の混乱に乗じて成り上がる前は一介の小豪族、零細武士だったじゃんか。赤松も土岐も。
室町時代の間に格式が上がったから比較にならないように思えるだけさ
戦国時代の水野とかの方が、鎌倉末期の赤松とかより大手なほどに、大差ないだろ? >>126-137確か紀州藩士で大阪の陣の後に武士を辞めて富田林の庄屋とか言ってたな。
なお家訓が女色は慎むべしで、リポーターが石田さん(純一)はこの家訓ご存知なんですかね?
と聞いたら本家の方が「知らないでしょうねwwww」とかだった。
ttp://roots.blog.jp/archives/20879782.html
ググったらあった。 >>127-135
そういう意味でなら、関西の庄屋と関東の名主はかなり違うんじゃないの? 畿内は公家や寺社領が入り乱れてるし、国人衆も生き残ってる
規模は小さくても由緒ある家も多い どう考えても関東地方のほうが畿内なんかより由緒や格が上だとおもいますが、、 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>136
戦後でもあるよ。
俺んちがそうだ。実家の甥子にまでつけてるから、又従兄弟で同じ名前だ。
誰でも孫につけてもらえるかというと、そうではない模様。
多分、手本にしたいようないいばあちゃんとかなんだろうな。
爺さんも同様。
めちゃくちゃ賢くて有能で、後に請われて村長した爺さんは孫三人がもらってる。
酒飲みで身上潰した爺さんは、誰にも名をもらってもらえなかったw >>165
韓国があらゆるものの起源を主張するような価値観で? 関東なんてほとんど僭称してるだけだろ
本当の出自なんてわかったもんじゃない なるほど、田舎ほど旧家が残りやすいという価値観での話なわけか。 >>173
関西でもクソ田舎ならいくらでも残ってる。
関東って、東京一極集中で徹底的に都市化が進んだ結果、他所との相対的評価でなく
自分たちの価値観だけを根拠に「自分たちの土地には歴史的遺物は多い」とか
勘違いしてないか?
君たちは鎌倉の世界遺産化の動きで大恥をかいたわけだけど、それをちゃんと
今後のための資にしてるか?
銭金で買えるものは限られるってことを、田舎者なりに理解したのか?? >>137新田開発の指揮を執って藩主移封で付いていかずってのならあるな 有力農民が郷士身分を失って庄屋ってパターンもありそうだ。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>177よくわからんが郷士[身分]がある藩で郷士身分を失うと
地下浪人(土佐藩)で・・・って感じ?それでも郷士ってなのりそうだが。 >>181
地下浪人は土佐藩独特の制度のようだから、その概念で混ぜ返すと
議論がおかしくなるよ。土佐藩限定の話として語らないとね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています