先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/ 寺だったから代々、善超とか善教とかいかにも坊さんていう感じの名前だった >>854
ありがとうございます
どういう意味でしょうか? >>855
…土地に相成りべく候
前がわからないから意味は決められない 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. うちもだ
庄屋一族で代々の当主が市右衛門とか市兵衛なのにある代の当主だけ半九郎だわ
これ何なんだろうな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 小字っていつ頃作られたの?
31年式戸籍には○○村△△字□□10番地と書いてあって(△が大字で□が小字ね)
19年式戸籍では○○村△△10番地となっていて小字が書いてないんだよ 江戸時代の村の名前が「おおあざ」で、村内の集落名とかのローカル名が「こあざ」
江戸時代の村を複数集めて合併した広域名が明治時代の「むら」なんで、旧村名は格落ちしたわけ
たぶんだが、番地が「おおあざのなかで1からふられている」状態で、こあざ名は有ってもなくてもいいという扱いだったんじゃないのかな
公式の地名では存在しない地域名だけど併記してもいい、程度。
それが戸籍ないに書かれる程度まで規定が変わった(つまり復活した)のでは? >>585
だからお前嘘ばかりほざくなや
なら旗本の北条家臣何人おんねん?
後北条家は大半が鎌倉期や室町よりの板東武士団の在方土豪や地侍衆であり、
それらをただ束ねていただけの連合国みたいなレベル。
それとは別に後北条家の直属の専業武士がおり、確かに僅かながら旗本や家老に雇用されたこの直属の相模周辺の後北条家業武士の旧臣はいたが、それでも極少数。
後北条家の大多数となる主力の在方の土豪や地侍は城主レベルまでことごとく帰農させられてる。 後北条家
↓
↓中枢の直属の首脳
↓
評定衆、馬廻り衆
↓
↓直属の専業家臣団
【小田原衆や下田衆江戸など、相模周辺の南関東地域の専業武士団】
↓
↓
__________
↓
↓ただ単に束ねていたに過ぎない在方
↓
在方武士団
【武蔵、下野、上総を中心とした北関東の鎌倉、室町よりの在方の豪族、土豪地侍衆の名門層】
この後北条家の構成の大多数と成す在方の武士団は、皆鎌倉や室町からの在方支配層の土豪や地侍で、
単に束ねているだけの存在。
これらはことごとく帰農させられてる。
直属家臣団の一部に旗本に召し抱えられているのは確かに僅かながらいるが、
それでも最上位の評定衆や馬廻り衆すら過半数が帰農させられてる。
大名として残ったのは
豊臣勢に買った忍城主の成田家だが、すぐに改易になり、成田家も断絶になるし。 因みに、
後北条家で徳川の旗本になっている極一部は、
最上位の評定衆ではなく、ほとんどがその下の直属家臣団である評定衆の家臣だったもの
ただ後北条家は直属家臣団がすげーのではなく、
在方の支配層はみな鎌倉や平安からの名門関東武士団だらけ。
この在方がことごとく帰農させられてるのが、関東の豪農層が異常にプライドが高い由縁 北関東の庄屋、名主層
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/一色義直_(幸手一色氏)
【超名門 武蔵一色家 一色義直】
幸手5,160石を賜る
交代寄合・大身旗本(高家旗本)
↓
弟
★一色政義(武蔵国上川崎村(現在の鷲宮町)名主)となる
【北関東の典型的地侍】
深井家
http://hp.vector.co.jp/authors/VA035985/archives/roots/roots01.
その後深井一族の子孫は、
本家
1)土着して中山道鴻巣宿の草分名主となった一派
分家
2)藤堂家に仕えて藤堂姓を許された一派
(分家は本姓の深井を名乗る)
3)松平伊豆守家に仕えて家老職をつとめた一派
4)高崎藩(松平信綱の五男・信興を祖とする)に仕えて家老職をつとめた一派
と分かれた。
北関東の庄屋は超名門の足利将軍家の五職家に連なる超名門武家の舎弟から、
分家は皆、成り上がり大名家の家老になるレベルの家柄が皆庄屋名主層 >>866
ありがとう
やはりその可能性が高いか〜 因みに、庄屋は庄屋でも、
北関東の庄屋を関西程度の庄屋と一緒にされたくない。
全く別物
関西程度の庄屋なんてたんなる野良百姓だろ
北関東の庄屋は真の名門武家だった関東武士団の直系だから。
本当に一緒にされんの迷惑だわ 在方土豪や地侍衆は戦国後期は大分地位がおちてるんじゃないの?
>>関東の豪農層が異常にプライドが高い
こりゃ当たり前と言っちゃ当たり前で鎌倉、足利(栃木)と本場だからね >>873
関東では在方の土豪や地侍が平安から秀吉の関東征伐まで手付かずでずっと在郷の支配層として蹂躙されず君臨してきた。
それは後北条が室町時代型の支配体系であったため、鎌倉時代のままの在地開発領主層がそのまま根こそぎ残っていた地域
全て秀吉軍団のような出自不詳の成り上がり軍団により壊滅させられた 秀吉の関東征伐を例えるなら、
先祖代々何百年も在郷の村長を勤めてきた 関東の在方の支配層が、
秀吉率いる関西の亀田一家みたいなんや、半グレを大量に引き連れて関東全域に殴り込んできて、僅か2ヶ月で関東の名門支配層をことごとく根絶やしか地位を奪った。
みたいなもんだかんな。
ふざけすぎてるわ >>874
北条は在来の大名とは大幅に違う統治体系じゃなかったか
室町時代型とか、おかしいな
戦国時代に広まる改良型を、半世紀ほど先んじて早雲か氏綱辺りの頃から導入してるだろ >>875
後北条家の中でも、鉢形衆がかなりの由緒ある集団だよね。
関東きっての名門とも称する秩父地方の将門由来の板東平氏だった在方開発領主層が多い。
後北条家に従属していただけの集団だったから、鉢形城が落ちる早々に離散して地元に逃げ延びて、ほとんど名主になってるね。
八王子城は女子供、総大将の北条まで皆殺しにされてるからね。八王子衆は後北条家の直参の武士団だから、逃げ延びられる在地がないから立て籠ったんだろうか。 【長野】「江戸時代に会津に移住した先祖いる」 本家の伝承、家系図づくり過程で発見 150年の時超え子孫対面「言い伝え本当だった」
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539972910/ こういうのロマンたっぷりでいいな
うちも7代前の兄は美濃から江戸に移住したらしいが苗字がありきたり過ぎて特定不可能だわ >>747 武家と宮司は昔だと同じなんだよ。
大きな神社は必ず自分達の軍勢を持ってた。
自分の家系も鎌倉時代に源頼朝から地頭を命じられて奈良から出て地方の統治を任された。
昔は地方を統治するには先ず現地の信仰を大事にすることから始めるから、先ずやったのは新しい神社を京都から持ってきて、地元の小さな神社を併合した。
そして、宮司として神社を守るとともに、一緒に赴任してきた大名の侍大将として働いてた。
そんなものだよ。 時代が下って来ると江戸時代などは武家の姿は殆どなくなり宮司家だけが目立つようになってた。 >>750 うちも源頼朝から地頭を命じられた時(1193年)は、まだ氏姓だった。
苗字をもらったのは南北朝になって後醍醐天皇から(1333年)。
>>751 もっと上の支配者だよ。 神社や宮司の家系が古いのはそういう事情があるから。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>881
751は「村の神社で」宮司をやるような人は村方三役クラス、もしくは
(江戸時代後半で)神社の宮司をやるような人は最低でも村方三役クラス
ぐらいの意味で読んでください、上は色々だし。
神祇官の二等官という上級職を勤める人が兼業で神主やってる神社だってあるわけですし 確かに宮司は村や藩の鎮守に指定されてたレベルは、旧豪族や土豪地侍レベルを分家で排出していたレベルやろ
血統的には江戸の武家とは比べものにならない位の由緒なのは間違いないからな ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 地域によるんでね
地元近所の村方三役の家々は源氏直系だよ
庄屋は足利家分家
顔ほんと皇族に似てるから誰も疑っていない アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 皇族の顔なんて、明治以前と以降で全く顔立ちが違うんだが? >>887
関東、東北だろ。
関西以西はなまじ歴史があるだけに由緒がわからなくなった馬の骨先祖が多いのは止む無し。 >>887 >>889 >>890
場所は言えないけど本当だよ
近所に住んでるけれどヒゲ生やしたらもうこれ神武東征だろって感じに似合う 神武のリアル顔知ってるとはすごいなw
ちなみにうちも元宮司家で歴史だけは長い家だけど由緒怪しいぞw
渡来系と武家系と諸説ある
しかし平安以降地元史料中心に度々名前が出てくる >>892 宮司家や由緒は結構盛ってるのが多い。
創建年代位までは比較的正しいだろうけど、その前の由緒書きは結構眉唾が多いと思う。 江戸時代ぐらいになると家の成立についての伝説にせよ神社の来歴や由緒にせよ偽作が横行してたもんな
伊勢の大手神社の一つである伊雑宮が来歴を偽作して自分こそ筆頭みたいな神話をばらまいて、神社間でちょっとした戦争状態に陥ったことさえある。 >>894
そうだね
埼玉県に氷川神社ってあるけど、あそこの旧神主家も三家(岩井・東角井・西角井)あって、物部朝臣、菅原朝臣とか名乗ってるが定かではない
江戸の初めごろには小田原北条方系の在地没落武家が新たに神主に加わり四家になったが、権勢を妬まれ御鷹場で鶴を捕ったとかのかどで追放された。 神武天皇って実在したかも定かじゃないのに後世に想像で描かれた髭面のイラスト見て似てるからそうに違いない!って騒ぐのは馬鹿げてないかw とある武士が自分の腹を切り命懸けで守り抜いた血みどろの家系図「チケンマロカシ」とは?
http://news.livedoor.com/article/detail/15544955/
時に、日本では血筋以上に「家」というつながり(家系)が重んじられ、
それを代々受け継ぐことで一族のルーツを確かめ、助け合って生きる絆を強めたのです。
その記録を「家系図」と言い、かつて武士たちにとって、家系図はとても大切なものでした。
現代ではちょっと考えにくいことですが、家系図は「自分が何者であるか」を示す重要ツールとして、
仕官の際に持参して、自分が「身元の確かな、信頼できる人間である」ことのアピールにも使われました。
言うなれば家系図は、血統書であり、身分証明書であり、時に履歴書でもあった訳です。
例えば「かの武勇名高き何某(なにがし)の子孫であるから、武勇にすぐれているだろう」云々……もちろん、
それを証明する本人の裏づけ(能力・実績など)は必要ですが、武士たちは自分が自分一人ではなく、
一族郎党はもちろん、代々の祖先までひっくるめた「御家(おいえ)」の一員・いち細胞のような感覚で生きていたことがわかります。
自分が恥ずべき振舞いに及べば、それは自分個人でなく、一族郎党や祖先の名誉を損ない、
ひいては子孫たちにまで迷惑をかけてしまう……そんな想いが、武士たちの振舞いに独自の美徳と道理を備わせました。 近世までの「家」は、現代における会社組織みたいに思うほうが妥当
家族とい側面より雇用組織の側面を重く見るべき
家がなくなるというのは多くの従業員たちが路頭に迷うことでもあるから、
自分一人の問題じゃないんだよ 近衞 忠大(このえ ただひろ、1970年7月18日 - )は、日本のクリエイティブ・ディレクター、映像作家、陽明文庫評議員。武蔵野美術大学造形学部映像学科(一期生)卒業。宮中歌会始にて講師 (こうじ)をつとめる。
公益財団法人 十四世六平太記念財団理事(能・喜多流の財団・2017年より)
五摂家である公家の近衞家(陽明家とも)当主で、社団法人日本赤十字社社長近衞忠Wの長男。
家族・親族
高祖父:細川護久(熊本藩第12代藩主・藩知事)
高祖父:池田詮政(侯爵、元貴族院議員)
高祖父:近衛篤麿(第3代貴族院議長、第7代学習院院長)
高祖父:毛利高範(子爵、元貴族院議員)
高祖父:明治天皇
高祖母:柳原愛子
高祖父:九条道孝(公爵、元貴族院議員)
高祖父:高木正善(丹南藩第13代藩主)
高祖父:入江為守(元貴族院議員)
曾祖父:細川護立(元貴族院議員)
曾祖父:近衞文麿(元首相)
曾祖母:近衛千代子
曾祖父:大正天皇
曾祖母:貞明皇后
曾祖父:高木正得(昆虫学者、元貴族院議員)
祖父:細川護貞(細川家第17代当主。元内閣総理大臣秘書官)
祖父:三笠宮崇仁親王
祖母:三笠宮妃百合子
伯父:細川護熙(元首相)
父:近衞忠W(近衞家当主。社団法人日本赤十字社社長)
母:近衞ィ子(三笠宮崇仁親王の第1女子)
妻:近衛桂子(旧宮家の久邇朝建(久邇宮朝融王の第2男子、朝建王)長女)
桂子夫人との間に4人の子供がいる。 軍事貴族出身の武家の子孫は渡来系の血を引いてる場合がほぼ100%だけど、田舎の普通の地侍の子孫ってどうなんだろうな
やっぱり土民の血しか引いてないんだろうか 日本は貴族が生き残ってる国。チャンコロでいうと太原王氏や清河崔氏のような漢〜唐の宰相の家系貴族が現代でも首相を輩出してる貴族野郎の国。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>901
>軍事貴族出身の武家の子孫は渡来系の血を引いてる場合がほぼ100%だけど
って、「新羅三郎っていうからには新羅系の血を引いてるに違いない」みたいなデムパを信じちゃってる痛い子? >>904
そうじゃない
新羅三郎だって元を辿れば清和天皇に行き着くしその清和天皇は代々遡れば渡来人の血も混ざっているだろ
母系も辿るともっと混ざっていそうだが
だから軍事貴族は新羅三郎みたいに天皇家に繋がる血筋がほとんどということを考えても軍事貴族に渡来人の血が流れているのは間違いでもないだろう 源氏の元祖は北魏!唐の宰相を輩出した名族から嵯峨天皇が肖った。
源氏物語は天皇の側近として宰相職独占してた頃の源氏で、武士の物語と思って読むと自爆する。 平将門の乱の主要登場人物
平貞盛
源護
興世王
六孫王経基
武蔵武芝
藤原玄明
平真樹
藤原維幾
藤原秀郷
この中で根っからの在地勢力は武蔵武芝だが、中央軍事貴族らしいのは誰だろう? 将門追討の恩賞で中央軍事貴族の武士になったのは貞盛と為憲と秀郷。その他は道長四天王世代から武士 武蔵守の百済王貞連の系統って武士にならなかったのかな? 今日は高祖父の足取りを調べに新幹線で先祖の地の図書館へ行ってくる
そこそこの都会だからヒトの入れ替わり激しくて目ぼしい情報は載ってないかもしれんがやるだけやってみたい 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 先祖は百姓だけど名主だった、とか自慢ぽく語る奴いるけど
名主は別に偉くなかった。
PTAの役員みたいに、しょーがなくてやることもあった。
村によっては、みんなで押しつけ合い、いつも押しつけ合いに
なるのが面倒で、順番でやるというところもあった。
百姓だけど姓を名乗ってた、なんて威張る奴もいるが、
普通、どんな百姓でも苗字はあった。
公(おおやけ)の関係で名乗れないだけ。
世田谷の某村の資料などを読むと、全員が苗字を名乗っている。
実際に苗字が無い人もいた。そういうのは猟師とか木樵みたいな人たち。 地域によって名主の役割やランクが違うってことを知らんのかな。 >>916 その世田谷の資料って西暦何年くらいの資料だよ。 うちの先祖を調べてみたんだけど、すんごい小さな離島の生まれなんだわ。
で、直系傍系兄弟姉妹全部戸籍見てみたら、うちの家に嫁いだ人・婿養子に来た人みんな同じ小字の出身なの。
島全体でも数百もいないようなド田舎だから、その中にある小字なんて、数えるほどしか人がいないはずなの。
しかも、嫁入りした人は半分以上同じ名字。ただ親の名前は別だから近い血縁ではなさそう。
昔は、○○家は必ず××村から嫁をもらう、とか○○家は必ず□□家から嫁をもらう、とか言う掟があったりしたのかな? 世田谷の旧家だと宇田川さんとか大場さんが多いイメージ
だいたい彦根藩領だよね うちの母親の先祖は分かるんだけど、父親の先祖が分からない…。
母親のとこは戦国大名の家臣だったから、割合簡単に分かったけど…。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 江戸時代って転居とかって誰でもできたの?教えてください。
俺の家は7代前の人が江戸時代後期〜幕末あたりに、どこかから現在俺が住んでる場所にやってきて、家建てて農業始めたらしい。
親が全然興味ないらしく、詳しくはわからんのだ。 東日本の代々の庄屋名主筋の方が下剋上戦国江戸の大名、旗本より由緒が正しかったりするからな。 純粋に先祖探しについての話題が出来る人がいないね。 >>926
庄屋名主村役人は在来領主の家がなってる場合が多いから東西関係無く家柄良い場合が多い。
うちの田舎では村役人が武士で言う馬乗り以上だった。 >>931
高祖父さんが生きてるってだけで驚きだわ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 名主(庄屋)・組頭・百姓代
この三つを村方三役という。地方(じかた)三役とも言った。
組頭は五人組の責任者。
(ただし長い間には五人組のうち何人もが貧農になることもあるので、必ずしも
五人組の中の一人とは限らなくなった。本百姓の中でも富裕な者がなった。)。
百姓代は名主と組頭の監視係。今でいう監事みたいなもの。
年貢は領主から村に対して課せられたもので、百姓の個人的な負担分と
いうものはなかった(村受制度)。
領主から名主に「お前の村は今年は○○石」と年貢の指示があると、これを
名主が本百姓に割りふる。そして組頭が責任をもって自分の属する五人組の分を
集めた。組頭は名主の補佐役・協力者という地位にあった。 ところが名主と組頭が組んで不正を行うことが多かった。
本当は500石と言ってきたのに550石と指示されたと言って余計に集めネコババ
したり、組頭が自分の分を軽くしてその分を他の四人に負担させたりした。
明らさまな不正でなくても、村受け制度の結果、その年収穫が悪くて年貢を払えない
百姓がいれば他の百姓たちが立て替えなければならないわけで、最終的な割り付け
やその償還・利子の支払いにあたって不正が行われることが多かった。
さらに、村の入り用(村の自治のための費用)は年貢とともに集めるので、年貢より
多くの米を集める。そこで、入り用の額を誤魔化すという形で不正が行われる
余地もあった。
(字が読めず計算もできないと誤魔化されることが多かったので、百姓たちは子供に
読み書き算盤を習わせた。これが日本で識字率が高かった理由の一つだという。)。
こうした誤魔化しを監視するために、江戸時代中期から本百姓たちの代表としての
百姓代という役職が設けられたのである。
百姓代の活動を通じて、本百姓たちは年貢の仕組みや村入り用の内容を知り、改革
の意思を持つようになった。特に本百姓たちが問題にしたのが村役人に対する種々の
免租の特典であった。不合理なものというより、村役人たちが勝手に作り出したものが
多かったのである。年貢の割り付けや立て替えも不公平なものが多く、村入り用に
関する不正も多かった。せっかくの百姓代も名主たちと同じ穴のムジナであることが多く
なり機能しなくなる。すると本百姓たちは改革を求めて騒動を起こした。
これを村方騒動という。
百姓一揆が領主に対する反抗であるのに対して、村方騒動は不正を暴いて領主に
訴えるところに違いがある。 >>751さんのレスを見て(自分は>>747です)うちも庄屋だった事があるのかな、と気になって図書館で郷土史、国会図書館で分限帳?(藩内の村方三役の名前が書いてある名簿)を見ましたが、うちが昔住んでいた村は、村方三役とも別の人の名前が載っていました。
郷土史や藩の記録に断片的に先祖の事が書いてありましたが、江戸時代はすでに別当寺だったようで、家族にも家に伝わる話を色々聞きましたが、昔から寺と神社だったみたいです。
(図書館のレファレンスも利用しましたが、結構助かりました)
元々武家と聞いていると書きましたが、武将だった先祖が残した日記が戦前まであったと家族から聞いたけど他の古文書と一緒に殆ど焼けてしまったらしいのでどうにもならない、、、。 >>925
普通は新田開発だろう。領主が開発したり、村受け開発というのもあり、また商人が
投資として開発事業をすることもあった。
そうやって新たに拓かれた農地に入ったんじゃないの。
>>938
昔は神仏混淆で神と仏が一緒に祀られていたが、全体を管理していたのは
常に寺だった。神社を管理していた寺を神宮寺とか宮寺という。
伊勢神宮や出雲大社にだって神宮司はあったのである。
神宮寺にいて神社と寺を統括していたのが別当。
別当というのは官職の名称で、今でいう「長官」というような意味。
別当が何人もいるとき、その最高位の者を執権という。
神宮寺という寺であるところから分かるが、別当は僧だった。
だからあなたの先祖が別当だったのなら間違いなく仏僧だった。
別当で有名なのが別当公曉(べっとうくぎょう)。源実朝を暗殺した鶴ヶ岡八幡の
別当である。二代将軍源頼家の息子である。
本来将軍になってもおかしくない地位にあったが、父親の失脚によって
僧にされていた。当時鶴ヶ岡八幡は寺でもあり、寺の規模の方が大きかった。
明治になって神仏分離により寺の部分は壊されたが、それにより建物は
三分の一になってしまったという。
別当公曉の例にあるように、領主が自分の建てた寺に別当として一族の者を
送り込むことはよくあった。長男と次男は武士にするが、三男は僧にするという
ような具合。別当という地位に就くのはたいへんなことなので、やはりバックには
武将というような大名レベルの実家があったのだと思う。 >>938
明治維新後、寺だけじゃなく神社もたくさん潰されてるから、そこに残ってた記録類もどうなってることか。 >>938
>国会図書館で分限帳?(藩内の村方三役の名前が書いてある名簿)を見ましたが、
>うちが昔住んでいた村は、村方三役とも別の人の名前が載っていました。
村方三役の名は正確なものか分からない。
実体と分離していたことがあるようだ。
村役人の罷免や交替を要求して起こるのが村方騒動だが、領主に要求しても通らない
ので、自分たちで勝手に別の村役人を決めてしまうことすらあった。
(これに近い事例 http://sito.ehoh.net/noumin11.03.05.23.html)
村方騒動は村方出入(でいり)とも言って、喧嘩のようなものだった。
「打ち壊し」というのを聞いたことがあると思うが、気に入らない名主の家などは
柱を切られて綱で引き倒されてしまうこともあった。
領主に直訴した村役人6人が首を切られた事件があったが、後の研究でこの6人は
当時の村役人とは別の人達であったという報告がなされているものがある。
研究者はたぶん、あなたと同じように分限町を見たのだろう。
そしたらそこに書いてある名前とは別の人たちだったのである。
だが、斬首された6人が領主に対して自分は名主だとか組頭だとか名乗ったのは
事実なのである。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 名主・庄屋・肝煎といった村方の指導層が一揆、打ち壊しの中心的役割を果たす場合もあらば標的にされる場合もある
名主・庄屋さんも大変だね >>922宇田川って世田谷の方なのか杉並の荻窪、南荻窪あたりもでかい農家に
宇田川が多くて豪邸があると大抵宇田川だな。 >>939
勉強になりました
寺と神社を兼業していたから別当寺っていう位の認識しかなくて
郷土史その他には「○○神社別当○○院」と書いてありました
>>940
神社は今でも町にあって最近見に行ったんですが(地方です)、神社のすぐ近くにある酒店が昔名主だったようで、むしろそういう家から話を聞く事が出来れば色々な事が判ったのかも知れないけど、気が引けたので止めました
横レスすみません
あまり書くとウザくなってしまうのでこれでやめておきます >>944
世田谷吉良氏の給人宇田川木工頭の子孫を自称してる
品川区、江戸川区辺りも宇田川の本場で、こちらは上杉の庶流にして関東郡代伊奈備前守忠次の仕えた後に浪人し新田開発 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>938 郷土風土記が結構出ている。
古本サイトで探してみると意外なヒントが見つかるかもよ。
結構高いけどね。
古書専門サイト
https://www.kosho.or.jp/ >>939 うちの地方では、1600年代に神社の境内に寺が建立され、明治になって神仏分離令で寺は別のところに移って独立した。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。