漢委奴国王印 いわゆる金印
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天明年間、筑前国那珂郡志賀島志賀島に於いて甚兵衛なる百姓が田圃仕事中に偶然発見したとされる。
・「漢委奴國王」を何と読むのか?
→かんのわのなのこくおう
→かんのいとのこくおう
文化庁編「新増補改訂版 国宝事典」(便利堂、1976年)
「その訓みについてはなお定説をみない」
・後漢書の印綬と同一か?
後漢書「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」より
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
・そもそも真物か?
出土地も確定できない問題がある >>100
かなり高いんだな
慶長小判が84%くらいのはず なんだ、全部金ってのはウソなのか。純金じゃないのね。 >純金じゃないのね。
クルーガーランド金貨じゃないのだから 金の抽出技術の問題なんじゃないの
灰吹法かアマルガム法でしょ 昔はざっと22金といわれてたよね、確か。
最近の測定では95%もあったんか。
混ぜものしないと道具として使えないだろ。
95%は混ぜものが少なすぎないか?
本当なら偽物説の傍証の一つになる。 紙に押す印象じゃなくて、
封泥に押す封印なので、
かなり自由度は高そうだが。 そもそも、飛鳥時代以前
豪族、皇族、貴族などみても渡来人の系譜。天皇家にも朝鮮族の血が混じってる。
半島から嫁もらってるし。逆に朝鮮族も、自分たちの血が混じってる民族に攻撃されて
いたのだから、グタグタ言わない。
持統天皇は女帝として君臨し、自らを天照皇大神として日本の大神の神話に組み、
古事記、日本書紀もこういった渡来系の大王家にとって都合よく編纂されている。
根の部分は一緒でアジアとして一家族。
今の朝鮮族は道理としておかしいと感じるところがあるから、例えば、裁判にでて互いに言いたいことと証拠を出して
潔く決定すれば、大和もそれで納得するところにいらだつわけで。
現大和政権も、ちゃんとけじめをつけさせるべき。できないならそうさせるべくように仕向ける。
なーなーで、曖昧にして、事なかれ主義だと、結局いつまでも反目することになる。
アジアを一国として、族で呼べばいいよ。
正しい歴史認識とは、誰かにとって都合良い認識にならないこと。 >>108
対象が泥でも純金じゃ印刻がすぐにボロボロになっちゃうだろ。 95%って技術的にそこまで純度が上がらなかったからではなく、意図して混ぜものをしたの? 小学校の教科書に載っている写真でドキドキ度ナンバーワンなのがこの逸品 江戸時代の篆刻家が、親魏倭王印も作っていたとかいう話があるが
漢委奴国王印もその類ということになるのか?
倭王国・琉球王国・朝鮮王国・滇王国・晉帰義叟王国・廣陵王璽
以外で金印等の印章を中華王朝から貰った国ってあるの? >>124
墳墓でないところから出土したってところが珍しい
というか怪しい 大きな石の下で、支石墓みたいなところから出てきたという話も
聞いたことはあるが、信頼出来るソースが見つからなかった。 小学生の頃は写真だけ見て 10cm × 10cm くらいの大きな物だと思ってた
実物は結構小さいのね 金印紫綬って、
鳥居強右衛門的働きをして死んだ一兵卒2名が同時にもらってる例が見える。
これは特例らしいけど、通例でも中隊長クラスらしい下級武官は、
戦死しただけでもらえるものだったらしい。
蛮族ごときにはその程度で十分ってことか。 >>124
本物?偽物?もそうだが、本物だとしても、そこから出てきたの?と経緯も問題に。
>>127
梶原景熙の『金印考文』かな
ttp://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr3_04.html
ただし、昭和に入ってからの調査では
金印の発見場所は後漢時代波打ち際であっただろうこと、
発見された溝(おかしなことにその場所も特定されていない)付近に
それらしき人の手の加わったものはなかったと。
七世紀のものですが中津宮古墳というのが。
発見されたのは本当に最近なのだけど、もともとお社があったところなので、
他の多くの古墳と同じで、伝承は途切れたものの、祀られていたのでしょうね。
金印の出たのは南端、古墳の場所はほぼ北端、といっても南北4km弱の小さな土地
贈られたのは西暦57年。かなりの年代差があるけれど関係はどうなんでしょ。 土に埋もれていたわけではなくもともと誰かが保管していて
お宝鑑定した学者が
「なんでオマエごときがこんなもの持ってるんだ!?」
「じつは・・・・・・・・・・」
「それはまずい、誰かが偶然見つけたことにしよう」
・・・の部分は想像すらできない 後漢の光武帝が冊封の証として、奴国に金印を授けた時期は西暦57年であり、このことが
奴国が博多近辺であることの証明とされている。そして金印が発見された地、志賀島には
綿津見神を祀った志賀海神社がある。綿津見神の勢力が、当時の奴国である
ことを示しているとされている。そしてその奴国は金印を賜る程度の
高い文化、文明を持っていたと推察される。
仮に、金印が発見されてなくても奴国の博多近辺比定に矛盾は出てこない。
博多(福岡市)って今は人口多いけど日本の歴史の中では以外に大勢力あったためしないよね
そんな悪い土地には見えないけど 江戸時代福岡藩士「青柳種信]は、「宣化紀」「斉明紀」にある【那の津】を
現在の河口から二・三里遡った三宅村から仲村地区と思い、その海岸線が、
時代とともに、現在の住吉神社付近になったと考えた。
ここには、【現人神社】 福岡県筑紫郡那珂川町仲3-7-8 がある。
この社が住吉神社の元宮であり、奴国発祥の地である。
博多湾の河口は年々堆積物で浅くなる。 反対に船は大型化していく。
漢委奴国王時代、最も適していた外国交易の港は「今津」と思われる。
その権利を求めて戦いが起こった。 早良・志摩・唐津は制圧された。
107年倭国王帥升による「伊都国」の建設である。
金印消しゴムは売れる
全国の小学生に人気を博すこと請け合い。 「第六回金印シンポジウムin志賀島」
http://shikanoshima.blog.fc2.com/
10月20日(土)に開催されます。
会場 福岡市役所本庁舎15階講堂
入場料無料、但し、資料代1000円
講師 西谷正氏、九州歴史資料館館長
安曇野 (長野県)穂高神社宮司 小平弘起氏
米子(鳥取県)米子の古代を考え会 黒田一正氏他
興味のある方、是非御参加下さい。
、 金印とか印綬って磨耗したり紛失したら申請すれば再交付してもらえるのかな 消耗するほと使うもんじゃないし、紛失なんかしたら罪に問われるから
申請なんか出来んわな 元々は粘土に押しつけるもの(封印・封泥用)だから、
あまり摩耗しないと思う。
本来は死んだり、昇進で不要になったら返還すべきもので、
戦死者のが戦場跡から発掘されたりするのはともかく、
墓から出るのはおかしいとかって読んだことがある。
遺族ないし生前の本人が副葬品用に複製したものでないかとか。
倭国みたいに、塞外異民族君主にくれてやるやつは、
返還前提とも思えない節もあるけど。 >>143
>戦死者のが戦場跡から発掘されたりするのはともかく、
墓から出るのはおかしいとかって読んだことがある。
死後、印綬が追贈される場合があるので、墓から出てもおかしくない。
諸侯王、列侯、始封貴人、公主薨,皆令贈印璽、玉〈木+甲〉銀縷;大貴人、長公主銅縷。
(後漢書 志 第六 禮儀下)
「金印研究論文集成」にも追贈した例が、いくつか載っている。
>遺族ないし生前の本人が副葬品用に複製したものでないかとか。
殉葬印の材質が「石、木、瓦など」、印文が「官職名+姓名」等、
漢代の印章制度と異なる特徴がある場合は、私印とみなすことができる。
(例外 淮陽王璽 玉質)
羅福頤氏は、官印を私刻したという嫌疑を避けるために「官職名+姓名」という
形式にしたと考えている。
「図説 中国古印研究史-近代の古璽印研究の発展-」がわかり易く、お薦め。
自分の見た本だと、材質が規定と違うとか、
篆刻がやや雑だとかで副葬品用の複製品じゃないって、
そんなことが書いてあったな。 邪馬台国関係で、瀬戸内海は空白域になってて寂しいですね
1975年にNONブックから出版された「古代出雲帝国の謎」って知ってます
この本の著者 武智鉄二さんの考え方っていいと今でも思っています
特に金印は 漢−委奴国王の2段読みにすごく感銘受けました
演劇研究者らしい「ナンバ」行動への注目も当時としては斬新です
武智さんの意見はいろいろと面白かったのですが その後取り上げられてないようです
邪馬台(壱)の読みもヤマト 華北系統の魏国が呉音の「マ」はおかしい漢音の「バ」
ならば「ジャバイ」だよ たとえば三国志の登場人物 五虎将軍 馬超は バ・チョウですよね 謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住民史
ISBN 978-4-19-551964-6
日本で言う「呉音」てのは、江南地方の発音でも何でもないんだよ。
漢和辞典の解説くらい読めよ。
つーか、こういう勘違いバカだらけになっちまう用語を変えるべきかもしらんが。 あの〜 素人なのでお手柔らかに
呉音って 日本の方言 だった の線でよろしいですか?
武智さんの論点は、魏志に書かれているから 漢音で発音ですが この点は? >>150
「 新稿 邪馬台国の言語 」 弥生語復元 長田夏樹著
言語学者・中国文学者で神戸市外国語大学名誉教授」をお勧めします。
>>151 ありがとうございます とりあえず学研の漢和辞典は購入しました
武智さんの本業は知らなかったけど、あの有名な映画に関係していたんですね
武智説 専門家からみたら問題多く受け売りだらけなのかもしれませんが
本の前半、土笛からの推理 出雲への商王朝の影響や出雲圏の広さなど75年当時としては冴えてる 金印は実はサンカが持ってきた物で・・・・という裏話とかないのかな。 >>150
隋唐期にそれまであった大量の鼻音が濁音に変化している。
馬のm→bはその典型。
だから馬がマというのは、隋以前の正当な中国での読みだ。
武智というやつはただのトンデモとしか考えられない。 >>143
>墓から出るのはおかしいとかって読んだことがある。
漢王朝は「後漢」と復活している。
黄巾の乱で衰退したが、三度の復活を期して隠されたが正解かもね?
墓ではない。 金印だけが埋められていた。 好古都が古代の中国の発音でハカタと聞こえるみたいなことを随分昔にテレビでやっていたのを見たことがあるのです
ですが日本語で昔はハ行はパピプペポと発音してたとも聞きます。
となると、ハカタはパカタと発音していたということになるし、
好古都=博多は成り立たないのかなあ。ファカタならなんとかそう聞こえるんだけど。
トンデモ説なのかなあ 金印が本物か贋物か まだわからないってもの不思議だね
宇宙線の被爆量とかで わかりそうなもんだ 作られてからの年数が10倍も違うんだから ○総重量
漢委奴国王印 109グラム
滇王之印 約90グラム
○金の純度
漢委奴国王印 95.1%
滇王之印 95%前後
○印台と鈕の部分が全重量に占める割合
漢委奴国王印 印台86.5% 鈕13.5%
滇王之印 印台86.5% 鈕13.5% あららw
滇王之印=テン王之印 何が言いたいのか今1つ不明だけど
もう1つ同じ偽造の可能性はないの? >>125
畑>>138でなく田の畔から発見され、墳墓からでなかったのは当然だよ。
後漢から東夷の王に公認された証で、王個人の持ち物でなくその王家
代々の王が継承するものだから、一個人の墓に死蔵するわけがない。 そんな物が田んぼの畦にあった時点で、一緒に骨でも出てればともかく 「漢委奴國王」印は亀井南冥による贋作、
と三浦佑之によって結論が出ている。 伊都国王と読ませたかったのか
倭奴国王と読ませたかったのか
後者の贋作だとすれば人偏を意図的に省くと
かえって贋作っぽい印象を与えてしまうんだよね >>157
漢、魏、晋時代の発音だと、好古都=フカタ
発音は如何にも博多っぽいと思いますけど 上古音と中古音ノイズエ化と言うと、後漢初の金印は、上古音系だろうが、
「好古都」國の倭人語からの音写が、何時行なわれたかが問題だろう。
森博達説のように、前漢時代で上古音で、上代日本語(これは6〜7世紀だが)の
オ列ではなく、「ア」に近い音で、倭人語自体の特徴は、上代日本語と河っていないと
仮定すれば、「博多」に繋がると考えても良いのでは?
まあ、旁国が北部九州内に収まったとしてだが。
金印自体は、少し削って材質を調査すれば、真偽の判定は決着がつくような気がする。
個人的には真印だろうとは思うが、何しろ出土状況が?だからなあ。 邪馬台国って未だにどこにあるかわからないんでしょ。
金印が見つかった場所とは関係ないのかな?どちらにせよ
当時ありがたがっていたという事は倭の国は政府と
呼ばれるほどの勢力はなかったのかな。 出所不明で怪しい物だから
九州から出てくる遺物ってそんなんばっかだけど 捏造盗賊団・支那共産党に関係する「文化財」で贋造でないものなどないはず 金印についてそれに記された文字。倭王 などとは製作に
どれぐらいかかるのか。卑弥呼が使いを送る前から 倭 は
認証され用意された印なのかそれとも倭の使いが来てから
打刻されたものなのか、のみ。 何に押すってそもそも文字を使ってたのかね?
押す文書とかあんのかね 傍にひかえた家来が口上と共にハンコをかざすと、暴れてた連中がへへーと平伏したんだよ 献上する品物に判子を押したんだろ。
つまり、生口の額に印があったんだよ。 中国のページだが
ttp://page.renren.com/600038844/note/886655729
を見ると、倭奴=委奴は秦の時代は「ol-na」漢の時代は「oi-na」と読んだそうだ。
アイヌのカムイにオイナ族というのがいるそうだがこれは関係ないだろうな。
俺は委奴国の位置は志賀島に近い大きな神社宗像大社付近だとにらんでいるのだが。
この辺の人たちが北東方面から攻撃されて志賀島に逃げ込んでそこで滅びたんじゃないかと。
神武天皇東征のとき岡水門で一時都を置いてるでしょ。このときやられたのかなと。
この辺だと近い音だと稲元と言う地名があるがどう言う謂われがあるんだろう?
とか、いろいろ推理妄想するのは面白いね。 つまり漢の属国待遇な訳でしょ。それでありがたがると
いう事は邪馬台国は日本列島を統一していなかったという
事ですね。つまり、 平安時代でいうなら一部の豪族。
戦国時代ならキリシタン大名ぐらいって事かな 実際、狗奴国と戦争中だったしね。まあ海を渡った東には弱小蛮族のクニしか無かったし
倭国を代表する二大勢力って程度だろう。 その頃の畿内なんて小国の乱立で邪馬台国と狗奴国程度のまとまりもなかったじゃん。 そのころの奈良って、唐古鍵遺跡くらいだろ。
ほとんどが、奈良湖が干上がりきれていない湿地帯なので。 亀井静香が、天皇陛下に「京都か広島にお住まいに」と進言!
亀井静香金融担当相(当時)は天皇陛下との昼食会の際に
「江戸城(跡地)にお住まいになるのは立場上ふさわしくないのではないか。
京都か広島にお住まいになってはどうかと、陛下に一方的に申し上げた」と述べた。
陛下は「京都は好きです」と応じた。 真の日本とは東北・関東縄文文明のこと
西日本のチョンの酋長なんてどうでもいいw >>185
はいはい、在チョンの願望は解ったから
妄想してないでさっさと死ねよ >>173
その考えはなかった
倭人の国に公文書ってあったのかな というか当時の日本人は中国の地図を持ってたのか?ならば
敬う必要ないのじゃないのか。兵士数や領土など把握して
いないならありがたがる必要ないじゃん。 これを貰えたクニは、実際のところ百戸くらいの集落でしかなかった
とかいうことはない? 細石神社は、いまでこそ寂れた消えそうな神社だが、
戦火で何度も焼き討ちに合う前は、かなりの大社だったそうで、
当時は海のほとりにある、鴻臚館や貿易港の一部だったのではなかろうか。
近くに周船寺、高来寺という地名もある。
近くの高祖山怡土城にある高祖神社と深い関係もある。 土の中にあれば傷だらけになるだろうからそっちだろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています