【半年歴】春秋暦を語ろう【二倍年暦】
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西暦554年(皇紀1214年)、欽明天皇の時代に歴学者の交代という形で中国歴が
既に導入されていることがわかりました。雄略天皇、継体天皇あたりで導入されたと
噂される中国歴(1年が約365日)の前に使用されていた古代日本の歴、中国や半島と
の年代のズレや長命な古代天皇を説明するために有効な春秋暦(1年が約183日)を
話し合いましょう。 雄略4年の春2月と秋8月のそれぞれ日本書紀と先代旧事本紀大成経の同記事
が、春秋暦での2倍年暦を支持しているもようである。
丁度半年のズレで同記事である。
おまけにこの天皇の
寿命は古事記が124歳、日本書紀が62歳で記が紀の丁度2倍にな
っており、2倍暦の文証なのである。 古代マヤの太陰暦は半年暦(2倍暦)
マヤ神聖文字では学術的にC文字と定めている。
半年だから、1年での前半の半年か後半の半年かを示す文字がX文字
なのであろう。C文字は6ヶ月のうちの月を指定し、その月での日数はD文字
で表現されるが、20日以後が関わってくるとD文字に20日を意味するE文字が
付加されて下旬に至りこれを示し、太陰暦を行使する。 つまり倍暦のことね。
2倍年暦とか1年2歳暦とか言われていますね。 書紀が3倍年暦を行使していた記述の表
【紀の欠史八代間の天皇崩御の日数統計表】
1日 0 11日 0 21日 0
2日 1 12日 0 22日 0
3日 0 13日 0 23日 0
4日 0 14日 0 24日 0
5日 1 15日 0 25日 0
6日 1 16日 0 26日 0
7日 0 17日 0 27日 0
8日 2 18日 0 28日 0
9日 2 19日 0 29日 0
10日 1 20日 0 30日 0
上表を見ると有効数字はみな左半三分に収まっている。11日以後の崩御
なされた天皇は誰一人としていない。天皇八人とも全部月上旬に死亡
しているということだ。およそ人間の死亡というものは志望でき
ず、例外として暗殺、自殺等特殊なことのない限り選択はできない。
いつ死ぬかはだれもが分からんのであるから、かように、中旬、下旬
に死亡してなかったなどと八人も続くわけがない。ということは
当時の或る時期は前表の2週間より狭小の、1ヶ月が10日しかなかっ
たということになるのだ。これは八代の一時期、朝廷は3倍暦を行使
していたという事である。隅田八幡鏡銘文「日十大王」はこれを裏づける。
上表は1日〜10日までと整然としている。
ということは、舎人親王らは原書群の選択にて、最も信頼おける記述を
選んだに違いないから、このように整然化されてるということは、紀の
八代間の原書群には2倍暦法での記載のものと3倍暦での記載のもの
があって、両者が交錯していたものもあったであろう。その中からこれ
が真であると舎人らが確信、選択をして紀の記述としたものであろう。
八代間の当時、互いに2倍暦、3倍暦を朝廷は使い分けしていたと
受け取れる。だから倍暦の変更は相当行われていたと観ていい。 南朝の宋(倭の五王の遣使先)で制定された元嘉暦が、雄略天皇の頃から持統天皇の初期ごろまで使われたはずだが。
欽明天皇の時代にも、当然、元嘉暦
暦博士は適正に交代していて、それ以前にも活動してたってことだろ
まあ、雄略天皇以後は年齢・年代はおおむね適正なんだから、普通じゃない暦が使われた時期はそれ以前ってことだわな
雄略天皇の初年から適正なのか、それとも途中からなのかは分からんけど。
それはそうと、先代旧事本紀大成経は江戸時代に造作された偽書で、内容はほぼ全て創作だから、信用してはいかんよ 大成経が偽書性を保有してることはある程度ありうることだ。
しかし全部が偽書性ある本文ではないようで、記紀にない貴重な記載個所
があり、真の年代に直結する重要なところが遺棄できない。 雄略天皇が中国歴を導入するまでは半年歴(倍歴)だったんだろ。 >>10
雄略天皇の代はすで通常暦法になっていたが、並行して2倍年暦が影で行使
されてこれが廃れなかった。
だから後代にまだ2倍年暦行使の時代が残っている。 これは、古代の年代論についての非常に重要なことなのであるが、古事記分注天皇崩年干支は、
驚くことに2倍年暦なのです。
このことが解明された結果、日本書紀の年代(ただし景行天皇から安康天皇まで)を、実年代に換算することができたのです。
発見者に文化勲章を!! >>1
そんなものあるわけねーだろ。完全なる電波説なんだよ。 2倍暦のメリットって何?
何がきっかけでこんな珍妙な暦を使う羽目になった?
年に2回真東から日は昇るけど・・・そんな程度じゃ理由にならないよねぇ 一年を2分割するなら春分秋分が年初だったんじゃないの。
夏至冬至で分けることはないだろ
あと、いまの暦は季節に関して参考にはできん。旧暦とは季節が全然ちがうしな。 なぜ古代において倍暦が使用されたのかは不明です。
しかし、記紀を解読すれば、倍暦であることがわかります。だとすれば、現実的に考えるならば、倍暦で研究をすすめるのは合理的なのです。 安康天皇八月までは二倍歴、それ以降は公式には通常歴になったが、暫くは併用されたのでは? そうですね、雄略紀の初めのあたりと、安康紀はかさなっているようですね。 允恭の在位年数が、書紀は古事記の丁度倍になっている
これは倭国が統一されて居なかったため
暦もバラバラだった証拠だろう 日本書紀第13巻の最後は、安康天皇3年8月です。
この13巻より前の暦は儀宝暦で計算され、14巻より後は、元嘉暦で計算されています。
そして、13巻より前は、いわゆる春秋暦、14巻より後は、通常歴です。
さらに日本書紀の元号(天皇記)は越年称元法が基本ですが、古事記は当年称元法が基本です。
奈良時代以降現在にいたるまで、当年称元法が基本ですから、日本書紀も当年称元法として繋ぎ直し、第13巻以前を春秋暦として繋ぎ直します。
古事記は允恭天皇以降が通常歴で、反正天皇以前が春秋暦です。
これにより、記紀ともに繋ぎなおすと、誰がやっても、少なくとも、仁徳天皇以降古事記日本書紀双方の治世年数は、ぴったり、一致します。
これに、定点である継体天皇17年から、実年を割り振ってみましょう。
つづく A前からのつづき
まず、古事記によれば、
継体天皇崩御・・・・丁未年(西暦527年)
雄略天皇崩御・・・・己巳年(西暦489年)
この間 489年〜527年=足かけ39年・・・・(A)
その間に
武烈天皇の治世年数8年
顕宗天皇の治世年数8年
とあります。
顕宗天皇の治世年数8年は、顕宗天皇3年と清寧天皇5年が何かの手違いで一緒に数えられたのでしょうか?
日本書紀によれば、治世年数は、
継体天皇・・・・25年
武烈天皇・・・・8年
仁賢天皇・・・・11年
顕宗天皇・・・・3年
清寧天皇・・・・5年
となり、これを参考に当年称元法で繋いでみます。ただし、武烈→継体は記事内容から越年称元法となります。
( )内は、清寧元年をスタートの1年として繋いだ年数
清寧 5(1〜5)
顕宗 3(5〜7)
武烈 8(7〜14)
継体 25(15〜39)
取敢えず、4人で、足かけ39年となり(A)と一致しました。
仁賢11年が有りませんが、後述します。
つづく B、Aからのつづき
次に古事記によれば
雄略天皇崩御・・・・己巳年(西暦489年)
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)
この間 454年〜489年=足かけ36年・・・・(B)
日本書紀によれば、治世年数は、
雄略天皇・・・・23年
安康天皇・・・・3年
となります。
ところが、日本書紀は安康天皇3年8月以前は春秋暦ですから、安康1年は1カウント年、安康2年は2カウント年です。
安康1カウント年+安康2カウント年合せて通常年の1年となります。
さて、安康3年は通常年なので、単純に3年としてますが、8月までは、春秋暦ですから、カウント年としては、
安康3カウント年と安康4カウント年となり、日本書紀の治世年数3年間というのは、4カウント年間ということになります。
カウント年にも通常年を割り振り、通常年を装っていますから、ややこしいです。
これを参考に当年称元法で繋いでみます。
( )内は、安康元年(允恭崩御年)をスタートの1年として繋いだ年数
安康 3年(1〜4カウント年)
雄略 23年(4〜26年)
仁賢 11年(26〜36年)
(B)の足かけ36年になるためには、足かけ11年不足しています。これが、Aにあるべき仁賢の11年です。
つづく C、Bからのつづき
AとBを合せると
【古事記より】
継体天皇崩御・・・・丁未年(西暦527年)
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)
この間 454年〜527年=足かけ74年・・・・(C)
【日本書紀】にある治世年数を繋ぐと次のようになります。
( )内は、安康元年(允恭崩御年)をスタートの1年として繋いだ年数
安康 3(1〜4カウント年)
雄略 23(4〜26)
清寧 5(26〜30)
顕宗 3(30〜32)
仁賢 11(32〜42)
武烈 8(42〜49)
継体 25(50〜74)→(越年称元法)
7人で、足かけ74年となりました。
途中ですが、実年を割り振ってみましょう。
細かい数字をいじくっても、どうかと思うのですが、ある天皇の凡その時間的現在地を掴むためには、数字に端数をつけたまま積算するのも一つの方法だと思います。そこから出た数字を参考に凡その現在地を想像しましょう。
つづく D、Cからのつづき
定点となるのは、百済の武寧王の崩御年です。
(1)武寧王墓誌銘・・・・寧東大将軍百済「斯麻王」、年62歳にして癸卯年(523年)5月丙戌朔7日壬辰崩ず。
(2)三国史記・百済本紀・・・・武寧23年 癸卯(523年) 夏五月、王薨ず、諡(贈り名)を武寧という。
(3)日本書記・・・・継体17年 癸卯(523年) 夏五月、百済の王武寧薨ず。
ちなみに、日本書記では、筑紫の各羅嶋で生まれたので、「嶋王」というとあります。
墓誌銘以外にシマ王とあるのは、日本書紀だけだそうです。
これから継体17年=西暦523年となり、これをCに割り振ると、
安康 3(1〜4カウント年)西暦460〜461年
雄略 23(4〜26)461〜483
清寧 5(26〜30)483〜487
顕宗 3(30〜32)487〜489
仁賢 11(32〜42)489〜499
武烈 8(42〜49)499〜506
継体 25(50〜74)507〜531→(越年称元法)
西暦460年は、前半が安康1カウント年、後半が安康2カウント年ということになりますが、この年は、子細に見れば、
允恭崩御は1月で安康1カウント年、安康即位は12月で安康2カウント年です。通常年なら460年での当年称元法ですが、
春秋年では、前半と後半の2カウントとなりますから、允恭崩御の翌カウント年が安康即位年となり、越(カウント)年称元法となります。
西暦461年は、安康崩御が8月、雄略即位が11月ですから、ともに後半の年となり、当(カウント)年称元法となります。
整理すれば、
460年前半・・・允恭崩御年
460年後半・・・安康元年(即位年)
461年前半・・・安康2年
461年後半・・・安康3年(崩御年)=雄略元年(即位年)
安康天皇の治世は、通常年では12月に即位し、翌年8月に崩御、実質9か月です。
つぎは、仁徳〜允恭を検討します。
つづく >>20
>併用されたのでは?
いい見解だ。
履中から允恭まで2倍暦を行使してた。
だが、允恭天皇が病気になって半島の医者だったか治療してよく
なったので、半島のおかげだとなり、允恭当時の2倍暦を廃止したと
いうよりやってたことはやってたがこれを遠ざけ半島と同様の通常の暦法
つまり1年が365日余での暦を主体としたということだ。過ぎた允恭元年
から通常暦で数えることに直した。
だから陰で2倍暦はあったわけで、雄略での記紀の各々の年齢が記が紀の
2倍になってるのは陰で2倍暦が並行して行使されてたことを物語る。
いずれにせよ允恭以降武烈の世までは主体的には通常暦を行使してたと
いうことなのだ。
繼體の代になって2倍暦に再び戻された。 在日朝鮮人がやりたい放題の解釈で
日本の歴史を捏造するスレッドはここですか? E、Dからのつづき
次に【古事記】では、
允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)[18]
反正天皇崩御・・・・丁丑年(西暦437年)[6]
履中天皇崩御・・・・壬申年(西暦432年)[6]
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[34]+60→[94]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)
[ ]内数字は、先代天皇崩御年からの足かけ年数です。なお、仁徳の場合の34年は、崩御年齢や、日本書紀にある治世年数からみても、いかにも、
短過ぎますので、応神天皇崩御年を干支一回り繰り上げ、甲午(西暦334年)と計算、[34+60=94]としました。
また、古事記では、允恭以降は通常年で、反正以前が春秋年です。しかし、日本書紀では允恭以前が春秋年ですから、
計算を統一するため、古事記の允恭の[18]のカウントを倍に置き換え、[36]カウントとします。
さらに、允恭の[36]は日本書紀の42年と比べ、6年少ないので、仁徳から6年を→履中→反正→允恭へと繰り下げてきます。
その結果允恭は36+6=42となり、仁徳は94-6=87となります。
これを整理すると
允恭 42
反正 6
履中 6
仁徳 87
となります。
一方【日本書紀】にある治世年数は、
允恭天皇・・・・42年
反正天皇・・・・5年+空位1年
履中天皇・・・・6年
仁徳天皇・・・・87年
とあります。(省略してますが、全てカウント年です。)
これに実年を割り振ってみましょう。
つづく F、Eからのつづき
【訂正】
Eの【古事記】で
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[34]+60→[94]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)
とありますが、応神→仁徳への皇位継承は、当年称元法ではありませんので、
つぎのようになります。
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)[33]+60→[93]
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦394年)→(西暦334年)
従って、仁徳の計算は、94-6=87ではなく、93-6=87です。
訂正します。
つづく G、Fからのつづき
前回の治世年数を繋いでみましょう。( )内は仁徳元年をスタートの1年とした年数。
[ ]内は、西暦の実年です。
仁徳 87(1〜87)[391後半〜434後半]
履中 6(87〜92)[434後半〜437前半]
反正 5(92〜96)[437前半〜439前半]
空年 1(97)[439後半]
允恭 42(97〜139)[439後半〜460前半]
反正の後の空年1年は反正6年のようなもので、(古事記は6年としている)
反正崩御の年に次代との皇位継承はなかった、ということです。
この空位1年と允恭元年が当年称元法で、繋がります。
従って、反正5年の次の年が允恭元年になりますので、反正→允恭は越年称元法のように見えます。
整理すると
438前半・・・反正3年
438後半・・・反正4年
439前半・・・反正5年、崩御年
439後半・・・空位1年=允恭元年
440前半・・・允恭2年
440後半・・・允恭3年
なお、仁徳の初期については、修正しなければなりませんが、後述します。
つづく H、Gからのつづき
仁徳の初期を修正する前に、応神の治世年数を確かめなければなりません。
【古事記】から
応神天皇崩御・・・・甲午年(西暦334年)
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
この間 334〜242=足かけ93年・・・・(D)
【日本書紀】では
応神天皇・・・41年
神宮摂政・・・69年
これを当年称元法で繋ぐと109年となります。
まず、仲哀→神功の関係を見てみましょう。
a、仲哀9年・・2月、仲哀崩御
b、仲哀9年・・12月、応神誕生
c、摂政1年・・2月、神功が穴門豊浦宮へ移る、神功皇后摂政元年
春秋年では、bはaの翌年、cはbの翌年、つまり神功元年は、仲哀崩御年の翌々年(2年後)であり、
神宮、応神併せた治世年数は、(D)の93年でなく91年ということになります。・・・・(E)
日本書紀によれば、神功摂政年数は69年とありますが、摂政51年紀に、「・・朕が存けらむ時の如くに・・」
とあり、あたかも遺言のような記事です。千熊長彦が百済へ趣き、神功崩御を伝える、翌年百済の久氐が来日、
応神天皇即位祝を献上、のように思えてしかたありません。52年〜69年の18年間皇后の記事はありません。
この18年間は水増しされた虚構年のようです。つまり、本当の神功摂政期間は69−18=51の51年間では
ないでしょうか。
以上より、応神41年と神功51年を当年称元法で繋ぐと109年ではなく91年となります。上の(E)はこの91年です。
これを踏まえて、仁徳の初期を検討します。
つづく I、Hからのつづき
応神天皇→仁徳天皇については、仁徳は弟と皇位を譲り合い、日本書紀には「皇位空しくして、既に三戴を経ぬ。」とあります。
古事記にも、「既に許多の日を経つ」とあり、海の大贄を「相譲りたまふこと、一度二度にあらざりければ」とあります。
一度二度でなく三度であるとすれば、一度が1年として、3年ということになります。大贄は穀物の収穫を伴うので、1年というのは、
春秋暦のカウントでなく通常年のカウントになります。これから、日本書紀にある「三戴」も通常年の3年のようです。
これを春秋暦でカウントすると、6カウント年ということになります。
つまり、応神→仁徳の間に、6カウント年の空位があったことになります。
一方応神天皇の崩御年齢は、前記Hの古事記による神宮、応神併せた治世年数91年(E)に、前年の応神誕生年を加えると91+1=92
となり、数え年92歳となります。これに日本書紀で出てきた、神功皇后治世の虚構年18年を加えた、92+18=110、つまり
110歳が日本書紀でいう応神天皇の崩御年齢です。日本書紀は、古事記と同じ原データを元に計算し、それに虚構年を加えて、組み立てた
ようです。
古事記は、応神天皇の崩御年齢を記事では「御年一百三十歳」としながら、92歳と算出できるデータを載せています。38年足りません。
この38年は仁徳天皇の方に紛れ込んでいるようです。これにより、仁徳の治世年数は、87-38=49、応神の治世年数は、41+38=79となります。
古事記に仁徳天皇の崩御年齢83歳とあるのに、治世年数87年は、おかしいですね。
これを整理します。( )内は仲哀崩御年をスタートの1年とした年数。
[ ]内は、西暦の実年です。
仲哀崩御年1(1)[342前半]
応神誕生年1(2)[342後半]
神宮摂政51(3〜53)[343前半〜368前半]
応神天皇79(53〜131)[368前半〜407前半]
空位6(132〜137)[407後半〜410前半]
仁徳天皇(49)(138〜186)[410後半〜434後半]
【古事記】にある次の期間は、
仁徳天皇崩御・・・・丁卯年(西暦427年)
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
427−242=足かけ186年となり、上の数字と一致します。
つづく J、Iからのつづき
【古事記】より
仲哀天皇崩御・・・・壬戌年(西暦242年)
成務天皇崩御・・・・乙卯年(西暦235年)
242−235=足かけ8年となります。
しかし、成務→仲哀の間には空位1年ありますから、春秋年では、仲哀元年は、成務崩御年の翌年となり、仲哀の治世は実質7年です。
【日本書紀】は、仲哀崩御年と同一春秋年に応神が誕生するのは、ありえないと思ったのでしょう。神功摂政年の前に応神誕生年を
置き、神功摂政年までを、足かけ9年としたのでしょう。例によって、通常年を装い、また、越年称元法で、繋いだのでしょう。
整理すると次のようになります。
成務天皇崩御・・[338後半]
空位1年=仲哀天皇元旦・・[339前半]
仲哀天皇崩御・・[342前半]
応神天皇誕生・・[342後半]
神宮摂政元旦・・[343前半]
つぎは、崇神天皇までを検討してみます。
つづく K、Jからのつづき (前回元旦と記したのは元年の誤りでした。)
【古事記】より
成務天皇崩御・・・・乙卯年(西暦235年)
崇神天皇崩御・・・・戊寅年(西暦18年)
235−18=足かけ218年
【日本書紀】による治世年数は、
垂仁天皇 99年(1〜99年)崩御年干支=庚午
景行天皇 60年(99〜158年)崩御年干支=庚午
成務天皇 60年(158〜217年)崩御年干支=庚午
空位 1年(218年)
( )内は垂仁元年をスタートの1年とした年数。
つまり、古事記の記事では成務→仲哀の間に空位の有無は不明ですが、日本書紀では、成務の治世年数は、
60年であり、その後に空位1年をとっています。
故に、3代を繋ぎ、空位1年を足すと、その間足かけ218年となる。
不思議なことに、景行、成務の治世年数は、どちらも干支一巡である60年。そのため、3代とも崩御年干支は
同じ庚午です。
日本書紀によると、仲哀の父である日本武尊は、景行43年崩御です。景行27年16歳で熊襲を成敗してますから、崩御時は32歳です。
翌年景行44年に仲哀が誕生したとして、景行60年景行崩御時仲哀は17歳です。その仲哀が仲哀9年の崩御時は、52歳と
あります。しかし、成務48年31歳で立太子とありますから、仲哀9年では53歳です。書紀は、空位1年を意識して
なかったのでしょうか。仲哀9年で53歳なら元年では、45歳、空位1年があり、成務崩御の年は43歳となります。
先の、景行崩御時17歳ですから、翌年18歳が成務元年とすると、43歳成務崩御時は成務26年です。つまり、成務は、
成務26年に崩御したことになり、治世は26年となります。と、日本書紀は一方で言ってます。
また、仲哀が31歳の年は、成務48年ですから、仲哀1歳の年は、成務18年。前年であるべき日本武尊崩御の年は、景行43年、つまり
景行44〜60年の17年間と、成務1〜17年の17年間は、虚構年で、景行治世年数は、60−(44〜60)=43年、
成務治世年数は60−(1〜17)=43年ともいえます。
この辺りを、検討してみます。
つづく L、Kからのつづき
A説として、日本書紀の記事を見てみます。
成務5年、国境を決め、「東西を縦軸、南北を横軸」として村を定める。百姓安居し、天下無事、という記事があり、
それ以降記事らしい記事はありません。つまり、成務の治世年数は、5年で、それ以外は、虚構年かもしれません。
余談ですが、古代では、「東西を縦軸」、前が東、頭上を越えて後ろが西、地図に例えれば上が東、下が西です。
日に向かって行くというのは、太陽の運行に向かって、所謂アゲインストです。東に向かってということになります。
神武東征で、熊野へ回り込んだとき、景行天皇が日向という国名を定めた時なども同様ですね。
しかし、大陸では、天子南面の思想から、日に向かうということは、南に向かうということになります。
倭人が「日に向かって水行陸行…」と言えば、魏人は「そうか、日に向かって水行陸行…」か、と記録したのでは
ないでしょうか。
垂仁35年にも、百姓富み寛ひて、天下太平なり、という記事があります。これも同様に垂仁の治世は35年とすれば、
垂仁天皇 35年(1〜35年)
景行天皇 60年(35〜94年)
成務天皇 5年(94〜98年)
空位 1年(99年)
となります。
これとは別の説がありますので、次回検討します。
つづく M、Lからのつづき
B説として検討します。
住吉大社神代記に
志貴御豆垣宮御宇天皇(崇神),【六十八年,以戊寅年崩。葬山邊上陵。】
活目入彥命者(垂仁),彌麻歸天皇子。【巻向玉木宮大八嶋國御宇五十三年辛未崩,】
とあるように、崇神天皇は崇神68年に崩御、垂仁天皇は垂仁53年に崩御とあります。
また、古事記にある崩御年齢は、崇神が168歳で、垂仁は153歳です。
治世年数との差はどちらもジャスト100年です。ならば、景行も同じとみて、古事記にある崩御年齢137歳
から、100年を減じ、治世年数を37年とします。残余が成務の治世年数です。
整理すれば、
垂仁天皇 53年(1〜53年)
景行天皇 37年(53〜89年)
成務天皇 10年(89〜98年)
空位 1年(99年)
となります。
次回に実年を割り振ってみましょう。
つづく N、Mからのつづき
それでは実年を割り振ってみましょう。
A説
崇神天皇 崩御(1年)[290前半]
垂仁天皇 35年(1〜35年)[290前半〜307前半]
景行天皇 60年(35〜94年)[307前半〜336後半]
成務天皇 5年(94〜98年)[336後半〜338後半]
空位 1年(99年)[339前半]
B説
崇神天皇 崩御(1年)[290前半]
垂仁天皇 53年(1〜53年)[290前半〜316前半]
景行天皇 37年(53〜89年)[316前半〜334前半]
成務天皇 10年(89〜98年)[334前半〜338後半]
空位 1年(99年)[339前半]
次は、神武天皇まで、遡ってみましょう。
まず、【古事記】にある神武〜崇神の崩御年齢を拾ってみましょう。
神武137歳、綏靖45歳、安寧49歳、懿徳45歳、孝昭93歳
孝安124歳、孝霊106歳、孝元57歳、開化63歳、崇神168歳
これは、春秋年カウントのようです。この10代を検討するには、通常年カウントの方が、分かりやすいので、
各天皇の崩御年齢を通常年カウントに換算します。
神武:68.5歳、綏靖:22.5歳、安寧:24.5歳、懿徳:22.5歳、孝昭:46.5歳
孝安:62歳、孝霊:53歳、孝元:28.5歳、開化:31.5歳、崇神:84歳
これを元に検討してみましょう。
つづく O、Nからのつづき
前回整理した古事記における天皇の崩御年齢です。
神武:68.5歳、綏靖:22.5歳、安寧:24.5歳、懿徳:22.5歳、孝昭:46.5歳
孝安:62歳、孝霊:53歳、孝元:28.5歳、開化:31.5歳、崇神:84歳
古事記は、編集において日本書紀ほどの制限は受けてないと思われるので、この数字を参考にします。
神武天皇
長男の手研耳命が東征に参加しているので、その時、手研耳命の年齢は、少なくとも10代後半以上であるでしょう。
従って、その時点で、神武の年齢は、30代後半以上でしょう。さらに、東征の期間は、古事記では、16年(8通常年)費やして
いるので、即位したのは、40代半ば以上でしょう。69歳で崩御しているので、治世年数は、25年前後でしょう。
東征後誕生した神八井耳、神淳名川耳兄弟と手研耳の間に後継争いがありましたが、兄弟が20歳前後であれば、神武は60代半ば以上
となります。69歳というのは、そう無茶な数字ではありません。
神武天皇は45歳即位、68.5歳崩御、とすると治世は25年です。
綏靖天皇
治世年数を確保し、神武が綏靖の父となる年をできるだけ若くするには、神武52歳で綏靖誕生、神武68.5歳崩御時綏靖18歳、
空位1年あり、綏靖20歳で即位、22.5歳崩御。とすると治世は4年です。
安寧天皇
安寧の父は神武ではなく、綏靖でしょう。綏靖が父となった時は18歳とします。綏靖が22.5歳で崩御した時、安寧は、僅か6歳です。
6歳で即位し、24.5歳で崩御、とすると治世は20年となります。幼帝だったのですね。
つづく P、Oからのつづき
懿徳天皇
父が安寧であるならば、安寧18歳の子供として、皇位継承するのは、安寧24.5歳崩御ですから、懿徳は、8歳即位となり、
幼帝が2代続きます。幼帝が続くことはなくもないですが、出来れば避けたいと思いました。すると、懿徳の父は、
綏靖であり、綏靖21歳頃懿徳誕生となります。懿徳22歳のとき、兄安寧が崩御、皇位を継承します。
懿徳は、安寧の弟、22歳即位、22.5歳で崩御ですから、治世年数は2年、としておきます。
孝昭天皇
やはり、若年即位は避けたい。とすると、父は同じく綏靖となります。孝昭誕生時綏靖は22.5歳、懿徳崩御後1年空位があり、
孝昭即位は22歳、治世年数26年46.5歳で崩御としておきます。安寧、懿徳、孝昭は3兄弟です。
孝安天皇
父は孝昭で、誕生時孝昭は、20歳、孝昭崩御時、孝安は、28歳です。
孝安は、28歳即位、62歳崩御、治世年数35年としておきます。
孝霊天皇
父は孝安で、誕生時孝安は、20歳、孝安崩御時、孝霊は、43歳です。
孝霊は、43歳で即位、53歳で崩御、治世年数11年としておきます。
孝元天皇
父は孝霊で、孝言20歳で即位と仮定、その時点で孝霊は34歳。孝霊崩御時、孝元は20歳。
孝元は、20歳で即位、28.5歳で崩御、治世年数10年としておきます。
開化天皇
父が孝元なら、若年即位となるので、やはり幼帝は避けたい。とすれば父は孝霊であります。
開化誕生時孝霊は、43歳、孝元崩御時、開化は20歳、32歳で崩御、治世年数13年。
孝元、開化は兄弟です。
つづく Q、Pからのつづき
崇神天皇
崇神は、皇位継承から崩御までの治世年数は、日本書紀を参考に34年と考えられますので、皇位継承時、崇神は50歳となります。
であるならば、開化や孝元は父親にはなりえません。父が孝霊なら、孝霊24歳時の誕生であり、皇位継承順序も不自然です。
であれば、孝安以前、安寧か懿徳あたりからの傍系と思われます。
また、日本書紀には、崇神12年に、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す、とあります。故にこの12年間、通常年
では6年間が、御肇国天皇として、統一国家としての天皇の治世だったようです。それ以前の34−6=28年間は、大和一国の大王
だったのかも知れません。ただし、大和から瀬戸内海沿岸を含め、北九州までの地域を連合王国として、協力しあっていたようです。
以上より、崇神は、50歳で皇位継承者として即位し、治世28年間大和の天皇として、6年間を統一国家の天皇とし、84歳で崩御
します。
これを整理すると、次のようになります。
神武天皇 25年(1〜25年)[116〜140年]
空位 1年(26年)[141年]
綏靖天皇 4年(27〜30年)[142〜145年]
安寧天皇 20年(30〜49年)[145〜164年]
懿徳天皇 2年(49〜50年)[164〜165年]
孝昭天皇 26年(51〜76年)[166〜191年]
孝安天皇 35年(76〜110年)[191〜225年]
孝霊天皇 11年(110〜120年)[225〜235年]
孝元天皇 10年(120〜129年)[235〜244年]
開化天皇 13年(129〜141年)[244〜256年]
崇神天皇 34年(141〜174年)[256後〜290前年]
(内御肇国天皇 6年(169〜174年)[284後〜290前年])
つぎは、神代です。
つづく Q、Pからのつづき
崇神天皇
崇神は、皇位継承から崩御までの治世年数は、日本書紀を参考に34年と考えられますので、皇位継承時、崇神は50歳となります。
であるならば、開化や孝元は父親にはなりえません。父が孝霊なら、孝霊24歳時の誕生であり、皇位継承順序も不自然です。
であれば、孝安以前、安寧か懿徳あたりからの傍系と思われます。
また、日本書紀には、崇神12年に、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す、とあります。故にこの12年間、通常年
では6年間が、御肇国天皇として、統一国家としての天皇の治世だったようです。それ以前の34−6=28年間は、大和一国の大王
だったのかも知れません。ただし、大和から瀬戸内海沿岸を含め、北九州までの地域を連合王国として、協力しあっていたようです。
以上より、崇神は、50歳で皇位継承者として即位し、治世28年間大和の天皇として、6年間を統一国家の天皇とし、84歳で崩御
します。
これを整理すると、次のようになります。
神武天皇 25年(1〜25年)[116〜140年]
空位 1年(26年)[141年]
綏靖天皇 4年(27〜30年)[142〜145年]
安寧天皇 20年(30〜49年)[145〜164年]
懿徳天皇 2年(49〜50年)[164〜165年]
孝昭天皇 26年(51〜76年)[166〜191年]
孝安天皇 35年(76〜110年)[191〜225年]
孝霊天皇 11年(110〜120年)[225〜235年]
孝元天皇 10年(120〜129年)[235〜244年]
開化天皇 13年(129〜141年)[244〜256年]
崇神天皇 34年(141〜174年)[256後〜290前年]
(内御肇国天皇 6年(169〜174年)[284後〜290前年])
つぎは、神代です。
つづく R、Qからのつづき
伊邪那岐命(イザナギノミコト)から神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレビコノミコト=神武天皇)までの系図の順序は次のとおりです。
伊邪那岐命(イザナキ)
天照大御神(アマテラス)
天忍穂耳命(オシホミミ)
邇邇芸命(ニニギ)
火遠理命(ホオリ)
鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)
神倭伊波礼琵古命(イワレビコ)(神武)
古事記、日本書紀では、上記順序で皇位が継承されてきましたが、あえて、少し修正しました。
山幸彦であるホオリと神武天皇であるイワレビコは同一人物である、という説があります。
その理由は、次のように同一人物であるという節があるからです。
1.実名が共に彦火火出見(ヒコホホデミ)と同じ
2.神武より先に大和へ下ったニギハヤヒは、ニニギの兄であり、その子ウマシマジは神武と同世代という説の存在
3.ホオリが釣り針を探すときや、神武に東に美しき地ありとアドバイスしたのも共にシオツチノオジ
4.ホオリ、ウガヤ父子の妃はトヨタマ、タマヨリの姉妹であり、神武、綏靖父子の妃もイスズヒメ、イスズヨリヒメの姉妹、両姉妹とも神(海神、事大主神)の娘
海幸山幸伝承とウガヤをいれるため、神武が後ろへ回されたのでしょう。ということで、ここでは
イザナキ→アマテラス→オシホミミ→ニニギ→神武の順序で検討します。
これに年代を付けてみたいと思います。
つづく S、Rからのつづき
神武天皇は、西暦140年に68.5歳で崩御しましたので、生年は、西暦72年です。
神武は第四子である故、神武生年時、父であるニニギの年齢は23歳としておきましょう。
であれば、ニニギの生年は、西暦50年になります。
次にニニギ生年時、父オシホミミの年齢が20歳とすれば、オシホミミの生年は西暦31年です。
オシホミミ生年時母アマテラスの年齢は20歳とすれば、アマテラス生年は西暦12年。
アマテラス生年時父イザナキの年齢は20歳とすれば、イザナキの生年は西暦紀元前8年ということになります。
整理すれば、
紀元前8年 イザナキ誕生
西暦12年 アマテラス誕生、イザナキ20歳
西暦31年 オシホミミ誕生、アマテラス20歳
西暦50年 ニニギ誕生、オシホミミ20歳
西暦72年 神武誕生、ニニギ23歳
西暦109年 神武東征開始、神武38歳
西暦116年 神武即位 45歳
ということで、大雑把に言って、イザナキ、イザナミの時代は、1世紀初頭、神武天皇即位は2世紀前半の中頃になります。
次に、全体を整理してみましょう。
つづく ㉑、Sからのつづき
一度全体を整理してみましょう。(1回で書き込めませんので、2回に分けます。)
紀元前 8年 イザナキ誕生
西暦 12年 アマテラス誕生、父イザナキ当時20歳
西暦 31年 オシホミミ誕生、母アマテラス当時20歳
西暦 50年 ニニギ誕生、父オシホミミ当時20歳
西暦 72年 神武誕生、父ニニギ当時23歳
西暦109年 神武東征開始、神武当時38歳
西暦116年 神武即位 当時45歳
神武天皇 [116〜140年]治世25年、69歳崩御 72年生 父ニニギ当時23歳
空位 [141年]1年
綏靖天皇 [142〜145年] 4年、23歳崩御 123年生 父神武当時52歳
安寧天皇 [145〜164年]20年、25歳崩御 140年生 父綏靖当時18歳
懿徳天皇 [164〜165年] 2年、23歳崩御 143年生 父綏靖当時21歳
孝昭天皇 [166〜191年]26年、47歳崩御 145年生 父綏靖当時23歳
孝安天皇 [191〜225年]35年、62歳崩御 164年生 父孝昭当時20歳
孝霊天皇 [225〜235年]11年、53歳崩御 183年生 父孝安当時20歳
孝元天皇 [235〜244年]10年、29歳崩御 216年生 父孝霊当時34歳
開化天皇 [244〜256年]13年、32歳崩御 225年生 父孝霊当時43歳
崇神天皇 [256後半〜290前半年]34年、84歳崩御 207年生 父?(孝霊当時26歳?)
(内御肇国天皇 [284後半〜290前半年]6年(12カウント年)
垂仁天皇 [290前半〜316前半年]27年(53カウント年)、77歳崩御 240年生 父崇神当時34歳
景行天皇 [316前半〜334前半年]19年(37カウント年)、69歳崩御 266年生 父垂仁当時27歳
成務天皇 [334前半〜338後半年] 5年(10カウント年)、20歳崩御 319年生 父景行当時54歳
空位 [339前半年]1年(1カウント年)
つづく ㉒、㉑からのつづき
仲哀天皇 [339前半〜342前半年] 4年( 7カウント年)、23歳崩御 320年生 父倭建命当時18歳
応神天皇誕生 [342後半年]1年(1カウント年)
神宮摂政 [343前半〜368前半年]26年(51カウント年)、51歳崩御 318年生 父気長宿禰王当時19歳
応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
空位 [407後半〜410前半年] 4年( 6カウント年)
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳
履中天皇 [434後半〜437前半年] 4年( 6カウント年)、33歳崩御 405年生 父仁徳当時32歳
反正天皇 [437前半〜439前半年] 3年( 5カウント年)、31歳崩御 409年生 父仁徳当時36歳
空位 [439後半]1年(1カウント年)
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
安康天皇 [460前半〜461年] 2年(4カウント年)、28歳崩御 434年生 父允恭当時24歳
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳
清寧天皇 [483〜487年] 5年、28歳崩御 460年生 父雄略当時19歳
顕宗天皇 [487〜489年] 3年、31歳崩御 459年生 父市辺押盤皇子当時35歳
仁賢天皇 [489〜499年]11年、42歳崩御 458年生 父市辺押盤皇子当時34歳
武烈天皇 [499〜506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳
継体天皇 [507〜531年]25年、54歳崩御 478年生 父彦主人王当時29歳
古代は不明な事が多いため、100人100説です。真実は、一つですから、99説または100説全部間違ってます。
しかし、皆自説が正しいと思ってます。筆者も仲間に加えていただきます。ご賛同くださればありがたいです。
当然、都合のよいことは頂き、悪いことは、スルーしてます。よろしくお願いします。
つづく ㉓、㉒からのつづき
(一段目は前回とかぶります。)
古代は不明な事が多いため、100人100説です。真実は、一つですから、99説または100説全部間違ってます。
しかし、皆自説が正しいと思ってます。筆者も仲間に加えていただきます。ご賛同くださればありがたいです。
当然、都合のよいことは頂き、悪いことは、スルーしてます。よろしくお願いします。
神武と崇神は同一人物、欠史八代は架空、聖徳太子はいなかったなど諸説ありますね。学会の先生方は、
古事記、日本書紀そのものを否定してますね。でも、ここでは、古事記、日本書紀の記述は尊重したいと
思います。しかし、年齢や、年代はそのまま採用することができませんので、都合のいいように変更しました。
●いろいろ考えました−1
【天孫降臨】
面白い話ですが、福岡市の早良区とその西隣の糸島市の間に高祖山というのがあります。その山は二つの頂に分かれており、
南側の頂を「クジフル岳」と言われているそうです。その南に日向峠という峠があり、早良区と糸島市を結んでいます。
この糸島市には、有名な平原遺跡がありますが、三雲南小路遺跡(ニニギ夫妻埋葬?)、細石神社(祭神:イワナガヒメ&
コノハナサクヤヒメ)、志登神社(祭神:トヨタマヒメ)、塩土神社(祭神:シオツチノオジ)、高祖神社(祭神:ホオリ、タマヨリヒメ)
など多彩で、ニニギが降臨した地であり、東征した神武の故郷のようにも思えます。また、この辺りは、世々王あり、一大卒を置く
1,000余戸の伊都国でもありますね。
ニニギの降臨したクジフル岳の北の方向には、韓国があり、真南には、有明海を経由して薩摩半島の笠沙町にある野間岬へ通じます。
本当に真南です。東からは、朝日が直接差し込み、西は見晴がよく、夕日が照ります。
まさに天孫降臨の地です。
つづく ㉔、㉓からのつづき
●いろいろ考えました−2
【高天原】
福岡市には、住吉三神を祭る住吉神社があり、近くにイザナキが禊をしたと言われる天竜池があります。また、小戸神社(通称小戸大神宮)
には、アマテラス、タヂカラオ、タクハタチヂヒメが祭られています。この辺りは、ニニギが降臨する前の高天原のように思えますね。
また、この辺りは、20,000余戸の奴国ですね。伊都国から10キロ位の所です。志賀島からは奴の国王の金印が出ましたね。アマテラスに
贈られたのでしょうか。10キロ先には1,000余戸の不弥国があります。ここには那の津と言われる津があります。
里の長さは、時代により、場所により、異なりますが、当時、倭での1里は、100メートル弱です。
1世紀の前半の中頃、アマテラスとスサノオが今の福岡市辺りで行われた、「うけい」の後、スサノオの行動が横暴に
なってきました。それを憂い、アマテラスは岩屋に隠れました。天の岩屋伝説ですね。日食という説もありますね。
もし、日食であるとすれば、都合よく福岡で、西暦31年5月10日に金環食がありました。午前8時9分に欠け始め、
10時14分から10時18分まで金環食、11時55分に日食は終わります。「うけい」はこれより前ということになります。
つづく まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり (25)、(24) からのつづき
●いろいろ考えました−3
【神武東征】
神武東征を考えてみました。福岡市辺りで行われた、「うけい」での1つとして、宗像三女神が生まれました。
この宗像三女神は宇佐島に降臨しましたが、それは、現在の宗像市辺りです。その辺りの部族が欽明の頃現在の宇佐神宮のところへ
遷りました。宇佐神宮の祭神の中央には三女神が祭られています。(この考え方が、都合がいいのです。)
神武天皇が東征に出発した日向は、生まれ育った伊都国です。陸路不弥国まで行き、那の津から海路東へ向かいました。
記紀ともに日向(宮崎県)を出発します。日本書紀では最初に狭い海峡を通りますが、古事記ではずっと後で通ります。
次は記紀ともに豊国の宇佐へ立ち寄り、その次に何故か東へ向かわず関門海峡を通り筑紫の岡田宮(岡水門)へ行きます。
その後後戻りして阿岐(安芸)の国へ行きます。どうも順路が不思議ですね。
ところが、伊都国(筑紫の日向)を出発し、陸路奴国を経由不弥国から海路、最初に宇佐を訪れます。宗像辺りですね。次に岡田宮を通り、
関門海峡を経由、阿岐(安芸)の国へ行きます。如何ですか。自然ですね。欽明の時にできた宇佐や、景行の時に名づけられた日向を
何故神武が通れるのでしょうか。また、大和は福岡日向なら東になりますが、宮崎日向からも本当に東でいいのでしょうか。太平洋に
なってしまいますが。
つづく (26)、(25)からのつづき
●いろいろ考えました−4
【欠史八代】先代旧事本記からピックアップしました。
(文頭は、尾張・物部の世代と登場する天皇)
先代−神武 長髄彦(ニギハヤヒの嫁兄)は、神武の兵を防いだ。
当代−神武 ウマシマジは、神武の御世の初め足尼(すくね)になり次いで大夫となって大神を祀った。
次代−綏靖 彦湯支命は、綏靖の御世の初め足尼になり次いで大夫となって大神を祀った。
三世孫−安寧 大祢命は、安寧の御世に侍臣となって大神を祀った。
三世孫−懿徳 出雲醜大臣命は、懿徳の御世の初め大夫になり次いで大臣となって大神を祀った。
三世孫−孝昭 出石心大臣命は、孝昭の御世に大臣となって大神を祀った。
四世孫−孝昭 瀛津世襲命は、孝昭の御世に大連となってお仕えした。
四世孫−孝昭 世襲足姫命は、孝昭の皇后となり二人の皇子を生んだ。
四世孫−孝安 三見宿祢命は、孝安の御世の初め足尼になり次いで宿祢となって大神を祀った。
四世孫−孝霊 大矢口宿祢命は、孝霊の御世に並んで宿祢となって大神を祀った。
五世孫−孝元 欝色雄命は、孝元の御世に大臣となって大神を祀った。
五世孫−孝元 欝色謎命は、孝元の皇后となり三人の皇子を生んだ。
五世孫−孝元・開化 大綜杵命は、孝元の御世に大祢となり、開化の御世に大臣となった。
五世孫−開化 大峯大尼命は、開化の御世に大尼となって奉仕した。
六世孫−開化 武建大尼命は、大峯大尼命と同じく開化の御世に大尼となってお仕えした。
六世孫−開化 伊香色謎命は、孝元の皇妃となり、また開化の皇后となり皇子を生んだ。
六世孫−開化・崇神 伊香色雄命は、開化の御世に大臣となり、崇神の御世は八十万の神々を祀った。
七世孫−崇神 大海姫命は、崇神の皇妃となり一男二女を生んだ。
七世孫−崇神 建胆心大祢命は、崇神の御世に大祢となってお仕えした。
以上のリストは、神武天皇〜崇神天皇の記述のある部分です。
これをプロットしてみたいと思います。
つづく (27)、(26)からのつづき
前回のリストを世代別にプロットしてみると次のとおりになりました。
先代−当代−次代−三世−四世−五世−六世−七世
神武−神武−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−綏靖−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−安寧−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−懿徳−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−孝昭−孝昭−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−孝安−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−孝霊−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−孝元−孝元−−−
−−−−−−−−−−−−−−−開化−開化−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−崇神−崇神
これを見ると安寧、懿徳、孝昭は兄弟かも知れませんね。孝元と開化も兄弟のようです。
孝安と孝霊も兄弟のように映りますが、Pにも書きましたように父子のような気がします。
神武〜崇神は6〜7代でしょうか。10代にわたる父子継承でなく、兄弟も交えた継承であり、これが本当だと思います。
【その他】
○倭迹迹日百襲媛命(モモソヒメ)=西暦200年生〜247年頃没、48歳(春秋年で96歳)。239年の卑弥呼朝貢時は、
40歳(春秋年で80歳)、父は孝霊天皇で、モモソヒメ誕生時20歳。
○大彦=西暦235年生〜没年不明、崇神の皇位継承時は23歳(春秋年で46歳)。父は孝元天皇で、大彦誕生時20歳。
○御間城姫(崇神天皇の皇后)=西暦254年〜没年不明。父は大彦、御間城姫誕生時、大彦20歳、崇神47歳、歳の差結婚?
つづく (28)、(27)からのつづき
●いろいろ考えました−5
【距離単位】
古代において距離を表す単位には「里」が使われていますが、その長さは、場所(国)、時代により異なります。
2〜3世紀の日本、朝鮮半島では1里=100メートル弱で、中国の魏では1里=500メートル弱です。
魏志倭人伝では、帯方郡から南下し、珍島附近から東進し、釜山附近まで、7千余里となってますが、これは、
約700qです。また、末盧国〜伊都国間五百里=約50q、伊都国〜奴国間百里=約10q、奴国〜不弥国間
百里=10qです。狗耶韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国間の海上各千余里は、実距離でなく、魏の役人が採用した
設定距離だと思います。魏では1日当たりの行程は仮に50魏里(約25q)とすれば、韓倭方面の里に換算し、
250里としました。また、風や波など、気象条件により、出航が待たされるため、平均4日かかるものとしました。
よって、250里×4日=千里としました。(めちゃめちゃ都合よく解釈しました。案外こんなものか知れませんが。)
ちなみに、伊都国→奴国→不弥国は、多分陸行1日で可能でしょう。伊都国→不弥国→奴国→投馬国を水行20日、
投馬国→邪馬台国が水行10日です。水行には多少の陸行は含みますがメインが水行です。これを伊都国→邪馬台国を
多少の水行を含め、メインを陸行で日に向かって進めば陸行1月なのでしょう。
また、日本書紀、崇神紀に「任那は筑紫国を去ること二千余里」とありますが、当時の1里=100メートル弱で
あれば約200qとなります。これは、設定距離ではなく実距離でしょうか。
肥前国風土記逸文に、「松浦の県。県の東三十里に揺の岑あり」というのがあるそうです。実際の距離は約3qなので、
当時の1里=100メートル弱だったのですね。岩波書店の風土記では、この部分を六里とし、注記で、三十里とあるが、
概数記載とはし難く、実距離によれば、六里または七里である。暫く六里としておく、としています。1里=500メートル
と思っているのですね。
つづく (29)、(28)からのつづき
新撰姓氏録の左京皇別、吉田連の条に、「任那国の東北に三己汶(上己汶・中己汶・下己汶)の地あり、地方三百里」とあります。
地図でみると、30キロメートル四方とみても差支えなさそうです。
6〜7世紀では、1里=約500メートルになり、16〜17世紀には1里=約3,600メートルになります。
現在では約3.9q、で、中国では約500m、韓国では約400mだそうですね。
●いろいろ考えました−6
【広開土王碑】
有名な広開土王碑の碑文によると、西暦391年(392年説あり)に高句麗の好太王が即位した。倭人が海を渡ってきた。
399年、百済は、倭と和通したので、高句麗は、百済を攻めるため、平壌へ出向いた。その頃、新羅が、倭が攻めてきた
のでと高句麗へ救援を求めてきたので、高句麗は、新羅の求めに応じることにした。400年高句麗は、5万の大軍を派遣
して新羅を救援した。新羅王都にいた倭の大軍は退却した。404年帯方地方に侵入してきた倭軍を討って大敗させた。
というようなことが記されているようですが、次のように応神天皇治世の時のようですね。
応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
つづく (30)、(29)からのつづき
●いろいろ考えました−7
【稲荷山鉄剣】
有名なこの鉄剣には、文字が刻まれており、「辛亥の年、ワカタキロ?大王がシキの宮に在る時、ヲワケの臣は、
この百練の利刀を作らせた。ヲワケの臣は、上祖オホヒコから数えて8代目である。」というような内容が含まれてますね。
辛亥の年は、471年が定説で531年説もあるようです。
ご存じオホヒコは、崇神天皇が全国制覇する前に四道将軍の一人として、北陸方面へ派遣され、東海方面へ派遣された、
息子のタケヌナカワワケと会津で合流しましたね。崇神天皇の全国制覇が西暦284年頃とすれば、280年頃だったでしょうか。
ワカタキロ大王が雄略天皇であれば、次のとおり、辛亥の年は471年ということになります。
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳
471−280=191、約190年です。8代で190年、1代平均24年となります。
つづく (31)、(30) からのつづき
●いろいろ考えました−8
【七支刀(奈良県天理市の石上神宮に伝来)】
この刀には、文字が刻まれており、「太和四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練ったこの七支刀を造った。
百済の王と(王の)世子は、倭王にこの刀を造った。」というような内容が含まれてます。
太和がなぜ泰和なのか知りませんが、泰和4年として369年とする説があります。
369年といえば、次の通り、応神の治世に入ったばかりですね。
応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
日本書紀によると、「神功摂政52年に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に七枝刀一口その他重宝を献じ友好を願った。」
ということが書かれています。これから考えると、近肖古王(346〜374)とその世子(近仇首王(375〜383))が倭王(女王ではない)
のために造った、ということになります。応神即位の祝いも兼ね、倭との同盟強化を願ったのでしょうか。
つづく (32)、(31) からのつづき
●いろいろ考えました−9
【新撰姓氏録、国栖の伝承】
新撰姓氏録、大和国神別の国栖の条に、允恭天皇の御代乙未の年に七節の御贄を奉った、という記事があります。
この乙未年は西暦455年で、通説の允恭崩御453年より後になります。ということで、この乙未年は、
己未年(419年=通説允恭8年)の誤りである。己の文字が乙に似ているので、誤ったものである、という説があります。
しかし、ここでは、乙未年西暦455年は、次のとおり、允恭天皇の治世に含まれています。
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
●いろいろ考えました−10
【隅田八幡宮人物画像鏡】
最大の難関は、「日十大王年」の解釈だと思います。年代は、「癸」の文字に問題があるようですが、取敢えずは癸未年
ということです。西暦443年説と503年説があります。「意柴沙加」を取るか「斯麻」を取るかのようです。
斯麻は斯麻王(462〜523)のことでしょうか。その他395〜683年までいろいろありますが、いずれも決め手に欠けます。
何ともいえませんが、443年説を取るならば、次の允恭天皇の時代ということになります。
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
「日十」は「十日」の間違いではなく、ならば「早」の間違いかも知れません。鏡職人が原稿の早を日十と見誤ったのでしょう。
早は朝に通じます。であるならば、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭)が浮かんできます。(都合よく考えました。)
つづく (33)、(32)からのつづき からのつづき
●いろいろ考えました−7
【倭の五王】
Wikipediaから登場する倭王と西暦をリストしました。これにこれまでの年代を重ねてみます。
○印は王名の記載のあるもの。
413年 讃
421年○讃
425年○讃
430年 讃?
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳
438年○珍 倭王讃没し、弟珍立つ
反正天皇 [437前半〜439前半年] 3年( 5カウント年)、31歳崩御 409年生 父仁徳当時36歳
443年○済
451年○済
460年 済?
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
安康天皇 [460前半〜461年] 2年(4カウント年)、28歳崩御 434年生 父允恭当時24歳
462年○興 済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
477年 興(○武) これより先、興没し、弟の武立つ。
478年○武
479年○武
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳
つづく (34)、(33)からのつづき からのつづき
これから察するに、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略でしょう。
438年の「讃没し、弟珍立つ」は、宋は讃に対しての積りで「珍の続き柄」を尋ねたところ、倭の使者は、
反正は履中の弟だから、「弟である」と答えた。それを宋は、珍は讃の弟と記録したのでしょう。
460年の遣使は済か興か紛らわしいところです。
462年の遣使は、本国から使者への天皇交代の知らせが間に合わなかったのでしょう。
477年は武です。
倭王武には、次のように、502年にも出てきます。年代を当てはめると次のように武烈の時代になりますが、
宋では、これまでの武の積りでしょう。
502年○武
武烈天皇 [499〜506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳
502年は、遣使したのではなく、梁の武帝が王朝を樹立した際に次の通り各将軍を一斉に新号したのです。
高句麗王 高雲 車騎将軍 →車騎大将軍
百済王 餘大 鎮東大将軍→征東大将軍
宕昌王 梁弥頭 安西将軍 →鎮西将軍
倭 王 武 鎮東大将軍→征東将軍
河南王 吐谷渾休留代 鎮西将軍 →征西将軍
これをみると、479年以降、遣使しなかったのか、天皇の交代は、知らされていなかったようです。
つづく (35)、(34)からのつづき
●いろいろ考えました−12
【日本書紀中の百済王の即位と崩御記事】
次のとおり、日本書紀の神功皇后摂政期後半から応神天皇治世前半にかけて百済王の即位と崩御の記事があります。
それぞれの記事は、西暦では250年〜300年頃ですが、これに干支2運(120年)加えると、
370年〜420年頃になり、三国史記の百済本記にある百済王の即位、崩御とほぼ一致します。
日本書紀では、神功後半〜応神前半ですが、120年加えた年代を、春秋暦で修正した紀年にあてはめても、
ほぼ応神の時代になります。ということは、この時代の他の外交記事も同様に考えてもいいのでしょうか。
神宮55年(255+120=375) 百済の肖古王(近肖古王)薨ず。
神宮56年(256+120=376) 百済の王子貴須(近仇首)、立ちて王と為る(史記では375)。
神宮64年(264+120=384) 百済国の貴須王(近仇首王)薨りぬ。王子枕流王立ちて王と為る。
神宮65年(265+120=385) 百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(阿華)年若し。叔父辰斯、奪いて立ちて王と為る。
応神 3年(272+120=392) 是歳、百済の辰斯王立ちて(385)、貴国の天皇のみために失礼し。…百済の国、辰斯王を殺して謝ひにき。
応神 8年(277+120=397) 百済記に云へらく、阿花王(阿華王)、立ちて(392)、貴国に礼无し。
応神16年(285+120=405) 是歳、百済の阿花王(阿華王)薨りぬ。天皇、直支王(腆支王)を召して、謂りて曰わく、「汝、国に返りて位に嗣げ」とのたまふ。
応神25年(294+120=414) 百済の直支王(腆支王)薨りぬ。即ち子久爾辛、立ちて王と為る(史記では420)。
応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
空位 [407後半〜410前半年] 4年( 6カウント年)
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳
つづく まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった (36)、(35)からのつづき
春秋暦について
二倍歴の中に春秋暦というのがあります。魏志倭人伝にも引用されている魏略の
「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」というのが原点ですね。
「…との記述から、春の耕作と秋の収穫を1サイクルとして今の半年を一年として数えていたという意見がある。
一方でこの記述は「春に耕し秋に収穫するのを一年と大ざっぱに考えている」と述べているだけで、この記述をもって
史書に記された年数を勝手に二倍に解釈するのは牽強付会との意見もある。(Wikipediaより)」
歩数計は、左足、右足、左足、右足を一歩、二歩、三歩、四歩と数えますが、魏志倭人伝に出てくる径百余歩は、
半歩、一歩、一歩半、二歩と数える説が多いですね。
時刻も6時、18時と言ったり、午前6時、午後6時と言うときもありますね。明け六つ、暮れ六つでしょうか。
それらを思うと、一年も春年、秋年もありかなと思います。
古代の天皇の崩御年齢は一年を2カウントした方が、現実味があります。
また、日本書紀は、30巻で構成されていますが、13巻までと14巻以降では儀宝暦、元嘉暦のように暦が異なっているとか、
和習の有無があり、書き手が異なるといわれています。
ということで、13巻まで(安康天皇の途中まで)を春秋年、それ以降を通常年として紀年を展開してきました。
細かい年が算出されましたが、計算上の成り行きですから、実際はアバウトで追って行けばいいと思います。
これからいくと神武東征は2世紀中頃、というようにです。
何か思いつけば、また、投稿しますが、一旦ここで終りとします。
ありがとうございました。
おわり 「古事記」「日本書紀」について政治的時代背景を含めてその成立過程を解説しよう
すべては白村江の敗戦に始まる
敗戦のA級戦犯中大兄皇子は称制天智天皇に即位してしまった
大海人皇子天武は親唐・新羅の恭順派であり、国際舞台復帰を目指して天智薨去後に近江朝に対しクーデターを起こし打倒した
唐・新羅との国交回復の為には革命政権天武朝の正統性を当時の東アジア国際基準に合わせてアピールする必要があったのだ
そこで天武・持統朝は日本の国号と万世一系天皇の系譜を作成した
架空の「帝紀」「旧辞」の存在を仄めかす事は「古事記」の正史としての地位を認めさせるカモフラージュ工作であった
※各豪族氏族にあったそれに類する伝承を利用したと思われる
「日本書紀」は本来であれば「日本紀」とするのが同時代的には正しいのであるが「日本書紀」としているのは「続日本紀」よりも後の時代の
捏造であることの傍証である
「古事記」「日本書紀」の編集者は天武・持統朝の正統性と中国歴代王朝の正史「魏書」の内容を踏まえての整合性に腐心した結果
彼等は持統を投影した推古天皇さらに神功皇后を創作したのである
卑弥呼を神功にすり替える工作は成功したのだが、彼等は「隋書」の内容(推古朝は女帝ではなく男帝)を把握していなかったことにより
「古事記」「日本書紀」の捏造が浮き彫りにされてしまったのだ 歴史のねつ造・創造なんて、半島人にしか思いつかないだろう 二倍暦なんてあるわけないだろ。いまだに学界ではぜんぜん相手にされないよ >>69
最初に古事記や日本書紀を研究した欧州人が19世紀にすでに提示してる由緒正しい説だぞ。 >>72
そうなんだ、その割に「倍年暦」「半年暦」の用語すら統一されてないな。
そもそも、これらの説がどういう歴史を辿ったのか、
誰が言い始めて、どんな主張が現れたのか、概観することもできないのが残念。
あと、そういう暦算をしたのは古代日本人だけ? 古今東西に似たような事例はあった?
トンデモ扱いされたくなかったら、ちゃんと説として纏めてよ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>73
古代中国の周も古皇担保が150歳とかやってるから二倍歴の可能性あり >>75
そういうとってつけたような思い付きを連呼してるだけだから、
まともな学者から相手にされんのだ。 古代天皇春秋二倍歴説と支那大陸の春秋時代が繋がるわけね
だから歴史学会は全否定してるわけね
じゃあそっちが正解じゃん
春秋時代の支那=日本統治時代の支那
だから中国神話と日本神話が繋がってるわけね
秦が統一する前の支那は日本が統治してたんだね
これで全て繋がるね
殷周の天子は日本から支那大陸に渡ったんだね
その時代は春秋暦だったわけね
秦が支那大陸統一して焚書して新たに1年歴を採用したわけね
だから応神天皇の治世に秦氏がやってきて
応神天皇以前が春秋二倍歴ということになるわけね
やっぱり全て繋がってるね >>77
古代中国人=白人説とは相容れないな
古代日本人も白人だったのか 白人説って言っても、ごくわずか白人が居たかもってレベルだしな 新羅、百済、倭
この3国が共通に1年2期制の干支をつかってる >>77
中国の古書には、日本は春秋の呉の太白の子孫ということにになってる。
呉が滅ぼされた時に海を渡って亡命したわけだ。
ちなみに呉の祖先は周の古皇担保の息子の太白で、一族数千と共に中国北方から呉の地に移住したとか >>77
あほくさ。
何かを説明してるようで、何も説明していない、できそこないのポエム。
倍年でも半年でもいいが、支那の方にそういうものが存在してたのか?
妄想与太話を展開する前に、論拠をきちんと呈示しろ。
ま、バカには無理だろうけどさ。
>>83
考古学的に立証されてないでそ。
バカにレスつける奴は、やはりバカだな。 >>85
古墳の調査はこれまでに夥しい数がなされてきたわけだが?
宮内庁管理の陵墓については調査されていないが、
陵墓や参考地に比定されていない古墳なら、大王陵と見られる古墳の調査もされている。
倍年半年というとってつけた屁理屈の立証に、なぜ古墳の調査が必要なんだ?
バカに言っても詮無きことだが、もう少し頭を使ってレスしたらどうだ? 反対派はバカというだけで有益な議論をしようとしないんだね。 単なる罵倒に終始するのはいただけないな。
長文のわりに中身がない。 >>87
思い付きを述べる能しか無い癖に文句だけは一丁前だな。
有益な議論の土台すら呈示できない愚者は黙っていろ。
>>88
その短文にもさっぱり中身が無いようだが?
言われっぱなしでは悔しいから、何かしら返信した気持ちは判るが、
何も言う事が無いなら黙っていた方が自信の愚かさを晒さないで済むぞ。 >>66が言うように、歩数の数え方(左右それぞれを1歩とカウント)時刻(昼夜それぞれ12等分する)を考えると
月も満月、新月をそれぞれ1月とカウントし、年も夏、冬それぞれ1年とカウントするのが自然だな
だとすると、べつに日本限定ではなく、世界中で、昔は2倍年暦だった可能性がある
ただ、農業の上では2倍年暦は不便だから、農業の普及とともに現年暦が普及したのかもしれない
文明は農業と共に普及するものだから、それ以前の年暦が歴史上残らなくても不思議はない 全然、自然じゃない。
一昼夜のことを二日、三日三晩のことを六日、なんて換言した例は無い。
世界中でそうだった可能性なんて、殆ど無い。
具体的な証拠を何一つ挙げない希望的観測じゃなくて、傍証でいいから挙げてから言え。
残っていないから、あったかもしれない、なんて言い出したら、なんでもあり。
牧畜、漁労、採集を選んで、農業に進まなかった民族はたくさんあるのに、なぜ世界のどこにも残っていない?
残っていない、んじゃなくて、初めから無かったと想定するしかない。 傍証か。
日本に関していえば、>>1に書かれているように、
中国や半島との年代のズレや長命な古代天皇を説明するために有効だ、というのが、傍証といえないのかな
世界に関しては、まとめてる人がいる
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai7/koga72ba.html なるほど、古賀の持ってきた記事だけを読めば、半分に解釈した方が理解しやすく見える。
しかし、とどのつまり、古賀の言及しない他の全ての史料の年齢の記事は、半分にしなくとも自然に理解しえるわけだ。
自分にとって長大に思える年齢の記事を、適当に拾い集めて来て、半分の方が自然だと言い張ってるだけ。
詭弁も多い。
一つ目の長者窮子についてだけ述べておくと、
一般的には、息子が長者の父にあった時の年齢を五十余歳と解釈する。
それを、二十歳に家を出たことに曲解して、自説に都合の良いように誘導している。
元々唱えた古田にしろ、二倍にあきたらず、多倍年暦なんてことを言い出した辺り、
自分が先に拵えた結論に当てはめているだけ。
尤も、古田はいつもそうなのだが。 2倍年暦の傍証として、じつは一番有力なのは、これじゃないかと思う
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11615416.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11625968.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11626310.html
聖徳太子崩
日本書紀:辛巳年二月五日癸巳日
光背銘 :壬午年二月廿二日甲戌日
推古天皇崩
日本書紀:戊子年三月丁未朔癸丑日
古事記 :戊子年三月十五日癸丑日
この食い違いが、2倍年暦で解明されるというのが、一番強力な傍証じゃないかな
ただ、残念なことに、このサイトを最初から見てみると、当初の論証と最終的な結論とが矛盾してるんだよな
このサイトでは、最初の方で、稲荷山鉄剣銘の「辛亥年」が2倍年暦だと30年周期になるから、西暦501年になると言ってるけど、
最終的な2倍年暦の干支表によると、西暦501年は春が己巳年で秋が庚午年だから、どちらとも辛亥年ではないはずだ
この著者は、邪馬台国畿内説の傍証として2倍年暦を利用しようとしてるから、その結論に都合の悪いことは無視する傾向がある
とはいえ、最終的な2倍年暦の干支表はかなり説得力あるから、これをもとに再構成する価値はあると思う
たとえば、天皇即位の「辛酉年春正月庚辰朔」も、2倍年暦の辛酉年のなかから、「春正月」の「庚辰」の日が「朔」になる日を探せば、有力な候補日になる
個人的には、「春正月」とは春分を含む月のことであり、(雨水ではなく春分とする根拠は、神道の皇霊祭が春分と秋分だから)
ここでいう「月」は通常暦の半月であって、「朔」は新月のみならず満月の日も候補になるから
そのなかから、日干支が「庚辰」の日、ということで、グレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の有力候補日になると思う
まぁ、この点は、もっと説得力ある日付がある可能性もあるから、あえてこだわるつもりはないが すまん、1箇所、神武天皇即位と書くべきところを単に天皇即位と書いてしまった
文章の意味を通りやすくしようと前後を入れ替えたせいで、「神武即位」のあとの部分が冒頭に来たことによる校訂ミスだ。申し訳ない。 だからさ、
半分にするとぴったり解決できる、って豪語するのは、論者がピックアップしたごく一部の記事だけ。
それ以外の記事は、全く解決できていない。
なんでそんな子供騙しに引っ掛かってるんだ?
正月の春を春分のある月という説?wも、個人的な思い込みだけで、
暦法として採用された例が全く挙がっていない。 >>96
読んでから書き込めば?
どれだけ多くの事例が列挙されてるか見てから判断したほうがいいよ
一番強力なのが、そこに挙げた日付の問題だ、と言ってるだけであって、リンク先には、それ以外にも
あきれるぐらい多くの事実が解決される事例が列挙されてる >>96
読んでるよ?
あきれるぐらい多くの事実って、推古・聖徳の年紀だけだが?
それ以前の全ての年紀は、そっくり解決できてるのか?
どうもわかっていないことが一つあるようだけど、
後代に年紀を倍に伸ばしたと想定しえても、
それは倍年暦/半年暦があったという実証にはならない。 >>98
読んでないな
後代に年紀を倍に伸ばしてるわけじゃないよ
西暦692年の「元嘉暦の採用」が、通常の年暦の採用であって、それ以前は2倍年暦だってこと
だから、そこを基準点に、そこから前代を倍に伸ばしてる
そのあたりの記事を見れば、そこにも、直前の暦が2倍年歴でないと説明のつかないことがおきている だから、
倍に伸ばすと全部が解決できてるわけじゃないし、
倍に伸ばしてぴったりしても、それは当時そういう暦を使っていた実証じゃないの。 >>101
持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である儀鳳暦を試用するため元嘉暦との並用を
始め、5年後の文武天皇元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。
どこが寝言なんだ? つーか、俺、こいつの主張に全部納得してるわけじゃないことは>>94に書いたとおりなんだけどな
ただ、少なくとも百済の暦博士渡来以降、元嘉暦公式採用までの期間は、こいつの干支表が説得力あるから
それは認めざるを得ないとして、それ以前の、神武紀元あたりを考えたかったんだが、
まさか、スレ住民がこんなバカばかりだとは思わなかった
自分の気に食わないやつの説は、どんだけ説得力があっても無視するのかよw そうか。俺が悪かったかもな
相手がバカであることを前提にするなら、端的に書かないといけなかったな
俺が支持するのは、干支表だけだから、干支表以外の反論は一切受け付けない、と書くべきだったか そういえば、二倍年暦肯定派も、否定派も、その肯定・否定の対象となる暦を具体的に示した例はほとんどなかったな
こういう具体的な干支表があったほうが、否定するにしても具体的にこの部分がおかしいって指摘できるな
まあ、>>94で紹介した本人自ら、即刻、おかしい部分を指摘してるのは笑うしかないがw
>>94は刀剣の比定年がおかしいと考えて干支表自体は問題ないとの認識のようだが、果たして実際はどうだかw 春分の日 昼と夜の長さがほぼ等しい 3月下旬
夏至の日 昼間が一番長い日 6月下旬
秋分の日 昼と夜の長さがほぼ等しい 9月下旬
冬至の日 昼間が一番短い日 12月下旬
昼と夜の長さがほぼ等しいから祝日?
馬鹿らしい
そう、これ敗戦でGHQから歴史の記憶を消されたんですよね
戦前以前は春季皇霊祭、秋季皇霊祭という皇室での先祖の祭儀
を祝う国民の祝日だったわけですよね
春は五穀豊穣を祈り、秋は実りある収穫に感謝する
ということだったようです(現在も宮中で行われている)
スタート(春)→(夏)→ゴール(秋)→(冬)→(春)
つまり、3月がスタートで9月がゴールならこれは
現在の暦では一年の半分ですね
なんてことを思ったりします >>106
皇霊祭なんて、明治国家神道の新設祭祀でドヤ顔してどうすんの?恥ずかしいなあ。
日本神道の最古の二大祭祀とされる祈年祭と新嘗祭、
それぞれ、祈年祭が(旧暦)何月で、新嘗祭が(旧暦)何月か知ってるか?
祈年祭は旧暦2月。新嘗祭は旧暦11月だ。
暦に詳しい人ならすぐに気づくことだが、祈年祭は春分の近く、新嘗祭は冬至の近くに来る。
小学校の理科の教科書を読み返してみろ。
春分から冬至まで、1年のどれだけの期間になるか。1/2ではない。3/4だ。
つまりたったこれだけの話で、二倍年暦なんて話は
少なくとも日本の古い文化の文脈では、完全に雲散霧消することがわかる。ただの妄想だ。 >>104って、もしかして、いわゆる捨て台詞ってやつかな
それとも、本当に干支表の反論についてだけは、ちゃんと返すのだろうか 日本書紀を読んでいるとね
五穀が実ったとか五穀が実らなかった
とか出てくるよ
11月は遅すぎる、稲は枯れちゃうよ
2月は寒すぎる
稲はそもそも亜熱帯の植物だという大前提があるよ
最近では品種改良によって北海道のお米も売れているが
そこは弥生時代がない
なぜなら、米が寒すぎて作れないから >>108
まだ反論来ないな
二倍歴反対派って罵倒ばかりで中身ないからな 日本の歴史を長く見せる為に記紀の製作者が天皇の年齢を二倍にした
という方が2倍歴よりは可能性が高いと思う >>114
もし別人なら、すぐ上のレスまでの流れぐらい確認してから書き込めよ 干支表は、>>94のリンク先に部分的に出てるけど、そこは聖徳太子の没年の謎をとく上で必要な部分だけだな。
干支表の全体が出てるのは、
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11627645.html
の、第18表だ。
ちなみに>>112は、天皇の年齢が長い時代を問題にしているようだが、二倍歴が解決する問題はそこだけではない。
二倍歴によって解決される問題は、以下の通り。
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11633436.html
ア:稲荷山鉄剣銘に現れる「シキノミヤ」は近畿王朝に現れない謎。
イ:倭の五王は、強引な解釈を施さないと近畿王朝に結びつかない謎。
ウ:継体紀に全くそれらしき事件がないのに「日本の天皇、皇太子、皇子皆死去」と記さ れた奇怪な記事の謎。
エ:推古天皇は女帝なのに『隋書』俀國傳では「男王」となっている謎。
オ:推古朝は隋王朝と重なっている部分があるにも関わらず、現実の推古紀には、大唐、唐國、唐客、唐帝というふうに一貫して唐王朝との交流記事になっている謎。
カ:記紀はほぼ同時代成立の史書であるにもかかわらず、推古天皇の崩御年月日が記紀で異なっている謎
キ:法隆寺は全部焼失し、建物も仏像も再度造られた、すなわち記紀編纂時と同時期に再建
されたと考えられるのに、推古紀と金石文たる「釈迦三尊像光背銘」とでなぜ聖徳太子の薨去年月日が異なるのか、という謎。
ク:「壬申の乱」は現在では七月という暑熱期の筈なのに、なぜ家まで燃やして暖を取らないといけないほど厳寒だったのかという謎。 蛇足かもしれんけど、その二倍歴の干支表が正しいとすれば、他にもいろんな謎がとけるね。
たとえば応神天皇の時代に百済から王仁博士が来て、論語と千字文を伝えた、と日本書紀には書かれていて
千字文は南朝・梁 (502–549) の武帝が、文官の周興嗣 (470–521) に作らせたものなので、応神天皇の時代にはまだ存在しないはずだ、と言われてるけど
二倍歴の干支表によれば、応神天皇の時代は西暦528年から543年までなので、まったく矛盾はなくなる。 >>94
この二倍歴はほぼ決定版なんじゃないかな。
二倍歴論にとって。今まで読んだ中で一番
矛盾した内容を説明できる暦になってると思う。
ただ、まさか持統紀まで、
日本書紀ほとんどに及ぶとすると
従来の紀年論と年代がかなりずれるのではなかろうか
古代史族系譜をさかのぼると
おおむね、神武即位は二世紀末
神武と崇神の間は四世代だから
崇神の時代は三世紀末から四世紀に比定されてるはずだし、従来の紀年論もおおむねそこは一致してるでしょう。
書紀紀年の300-700は実年500-700ってことでしょ?
逆に日本書紀はかなり頑張って実年を復元した、
する努力をしないといけないよ。
(それであちこち辻褄が合ってないのは説得的ではある) >>103
あ、
暦博士以来692年までは少なくとも
説得的な二倍歴干支表という事ね。なるほど理解した。 神武から雄略まで意図的に引き伸ばしたと
いうつぶやきをキャッチ。
最近、氏族研究として宝賀氏の著作を通読した。
著作の神武東征の原像では、
個別の記述を逐一考察するより
土器編年のように
系譜の婚姻関係親子関係や
名前のルールから異名同人を判定し
実在の人間の家系を復元し、
天皇位の代数ではなく、同時代人グループを示す在世世代で日本書紀紀年を分析していく。
すると神武即位から天智天武まで18世代として
古代氏族の系譜きれいに対応するという。 また、それを踏まえて
神武から仁徳までが4倍となって儀鳳暦
履中から允恭までが2倍となって儀鳳暦
安康以降が等倍の暦で元嘉暦に対応付けられたと判断している。
元嘉暦よりも儀鳳暦の方が新しい改良された暦なのに、古い時代の暦日が儀鳳暦になっているのは
日本書紀の編纂過程で、まず安康紀か雄略紀から
原記録も元嘉暦で残っていたものはそのままにして
原記録が 元嘉暦導入以前の暦であったものを
編纂当時使用していた儀鳳暦に当てはめて構成されたとみられるとする。
これによって推定された神武即位年は西暦175年 >>116-117が1番説得力あるけど、崇神以前が確定できないのが難点だな
あと、半年暦の年始についても、帰納的にそう考えることで数十もの古代史の謎が一挙に解決するのはわかるんだけど
なぜそこが年始なのかについては、謎としか思えん
旧暦二月八月って、今の暦で三月九月ってことだから、春分秋分が古来の年始だということなのか
だから、伝来した中国の暦をむりやり日本古来の年始の区切りに合わせた結果、二月八月を年始にしたというのか・・・
そうだとすれば、神武即位の「正月の朔」も、春分か秋分に近い、新月か満月の日だったということになる
>>94が説得力ありそうだ ちなみに、グレゴリオ暦377年3月12日は、いま調べてみたら、満月だね なるほどグレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の日付か。
日本書紀によると、太歳甲寅年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て云々とあるから、これは西暦373年の、旧暦12月20日あたりってことになるな。
>>116をもとにすれば旧暦12月20日ジャストのはずだが、>>116は中国の暦を機械的に半年暦にしたものだから、中国と交流するようになって以降採用されたものだろう。
グレゴリオ暦に直すと、374年1月20日あたり。
で、この日が「天祖ニニギが天降って179万2470余年になる」日だというのは、おそらくは「辛酉革命」を念頭に冗談で言われてた年数が、その後由来が散逸して、
数字だけ後世に伝わって日本書紀に残されたのだと思う。
要するに「天孫降臨以降の御代は毎日が革命だから、1日あたり60年の価値がある」ってことだ。
179万2470を60で割ると29874.5だから、天孫降臨の日はグレゴリオ暦374年1月20日から数えて29874.5日前。
グレゴリオ暦292年4月5日頃だ。端数の0.5は、たぶん天孫降臨がその日の未明で、東征が昼間出発だったんだろう。
ということは、この日に天照大神の孫である瓊瓊杵尊が天孫降臨してるわけだから、天照大神が生きていたのはその2世代前。
邪馬台国の女王卑弥呼とぴったり一致する。これは偶然ではないだろう。 要するに、春秋1サイクルが1年だという中国古典の基礎的教養、というか常識のないアホが思いついたトンデモ説だろう?
いわば嘲笑されるために生まれた説だ >>127
ただのトンデモ説で、これほど多くの日本史上の謎が解決するわけない >>129
幻想だというなら、>>116に列挙された解決を、全部反論してくださいな
あと>>117も 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
3WAYG >>127
19世紀の英国から唱えられてる由緒ある説だぞ とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
6FM 新年号の「令和」の「令」の字の意味について賛否両論の立場からいろいろ議論されてるけど
「令月」という中国では2月を表す言葉を、日本で「初春令月」と1月を表す言葉として、万葉集で使われてるんだな
それをニュースで見た瞬間、このスレを思い出した
万葉集ができたのは西暦780年頃だけど、収録された歌は舒明天皇即位の629年から759年までの130年間のものに及ぶわけで
半年暦の時代の歌がかなり含まれていることになる
中国歴の2月と8月を日本歴の1月とする半年暦の存在があるからこそ、中国の2月である令月が日本の1月に当てはめられたのではないのか?
それ以外に、中国の2月をあらわす令月が日本の1月をあらわすことに、なにか理由づけは存在しないようにみえる
>>116や>>117に加えて、半年暦によって解決される問題が、またひとつ見つかったな >>117
>応神天皇の時代は西暦528年から543年までなので、まったく矛盾はなくなる。
応神天皇の治世を528年〜543年まで引き下げるのは無理スジ 仏教伝来が538年(法王帝説)552年(日本書紀)だから
応神朝をそんな時代まで下げるのはありえない >>136 >>137
仏教伝来は宣化3年(法王帝説)または欽明13年(日本書紀)ですよ
>>116の一覧表で確認してみてください
半年暦では宣化3年は西暦615年の2月から7月まで、欽明13年は西暦622年の2月から7月までです
応神朝はそれよりも、西暦で70年以上、半年暦で140年以上前の話です >宣化3年は西暦615年の2月から7月まで、欽明13年は西暦622年の2月から7月までです
仏教伝来は538年か552年で615年か622年まで下げられないよ 厩戸皇子(聖徳太子)の生年が574年なのに仏教伝来が615年か622年ならば
仏教伝来が聖徳太子の生誕後になってしまう 聖徳太子の生年月日は敏達天皇3年1月1日
これを>>116の半年暦にあてはめると、西暦633年2月1日
仏教伝来はそれよりも10年以上前の話だ >>140は、>>116のオの謎が半年暦でなぜ解決するのかちゃんと理解してるのか?
聖徳太子の時代がじつは隋がとっくに滅んだあとの唐の時代だからこそ、日本書紀の推古記では一貫して唐王朝との交流記事になっている、という話なんだが 厩戸皇子の没年は622年ではなく
上宮王家の滅亡が643年ではなく
大化の改心が645年ではないって事ですか >>143
そのとおり。計算が面倒なので自分で一覧表で確認すればすべてわかる
そして、そのように解したとき、これまで日本史上の謎とされてきた>>116などの謎が、まとめて一気に解決する 日本書紀によると、持統4年に「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とあるのが中国暦法の公的採用の勅令であり、その実施は勅令の2年後の持統6年とされる。
この持統6年が西暦692年であり、それ以前の日本独自暦が半年暦だとするならば、持統4年は西暦では前年の西暦691年となる。
よって、改暦に足掛け3年もかかったのは謎でもなんでもなく、じつは1年で切り替わっているわけで、半年暦から通年暦への複雑な切替にしてはスムーズだったといえる。 年号に関連すれば、もうひとつ、半年暦で解決する問題があるな
日本の年号は、最初に孝徳天皇が「大化」を制定し、次に「白雉」を制定するも、孝徳天皇の崩御後新たに制定されなくなる
その後天武天皇が「朱鳥」を制定するも1年で廃れる
文武天皇の時代に「大宝」を制定して以来やっと定着する
年号は中国の制度だったから、日本の暦が半年暦だった時代には違和感があったんだな
692年の改暦以後、ようやくその違和感がなくなって、年号が定着したわけだ 古代、特に出雲王国時代は春分の日と秋分の日を正月元日としていた。
併せて祖霊祭祀を行っていた。
この名残が春と秋のお彼岸の先祖祭祀。 >>147
系図上の初代の天皇、神武の即位年代をより古く改竄が行われました。
日本列島で最初の王国で有った古代出雲王国の初代出雲王(オオナモチ)の「菅之八耳」さま(その正后は「稲田媛」命)が即位なさった年代を神武の即位年代に横領して引き伸ばしを行った。
出雲王国初代と系図上の神武迄は8〜9世代の隔たりと時代の齟齬が当然生じますが
そこに出雲王国時代から魏史倭人伝に描かれた時代迄一年二歳(春分の日と秋分の日をそれぞれ正月元日の半年を 一歳とする)が目に止まり、
採用。
すると懸案の世代の隔たりによる年代の齟齬が丁度都合よく解消。
神武〜応神前後あたり迄の百歳超えの天皇ほかは概ね半分の年齢に暗分すればおよそ現実的な数値の年齢に収まる話? もともとこのスレは、特定の説に特化したスレではなくて、半年暦を支持するいろんな説について語り合うスレとして始まったはずだったんだよな
それなのに、バカが現れて片っ端から難癖つけ始めたから、それに反論していくうちに、結局1つの説しか生き残らなかった
バカが半年暦を思いつき説だと罵倒して、年齢の問題だけ適当に拾い集めた詭弁だと言うから、年齢の問題以外をもたくさん解決していた説が生き残ったわけだ
で、バカが尻尾巻いて逃げたあと、バカへの反論として出した説にはもともと支持者がいなくて、誰もいなくなってしまった
>>148みたいな説をいろいろ出し合って語り合うのは、スレ本来の趣旨には合うんだけど、また同じようなバカが現れて終わりそうなんだよな
だったらいっそ、生き残った干支表をベースにしたほうがいい気がする
>>148の理論構造そのままを言うにしても、それは「改竄」や「引き伸ばし」ではなく、当時はそれがふつうだった、ということじゃないのかな
西暦692年の改暦以前は、その直前の改暦勅令からの期間の長さの問題も含めて、半年暦だと考えれば解決する問題があまりにも多い
だったら、>>148のようなことをいうために、べつに改竄や引き伸ばしだと主張する必要はまったくないことになる 中国と日本で正月がずれるのは
太陽暦か太陰暦の違いじゃろ? もともと二倍歴で
書記編纂上、二倍に引き伸ばした部分があるから、
書記の紀年はx倍歴になっている
これが実態と思うね。
貝田説宝賀説が
二倍歴と四倍歴が混在するとすれば実年代と合うという説だ。 >>149
仲哀紀のように16日以降の日付が出てくる箇所は後付けの改竄だと思うなあ >>150
>>116の半年暦は太陰暦だからそれは関係ない
もともと推古天皇や聖徳太子の没年が日本書紀とそれ以外の資料とで食い違うのを、日本書紀以外の同時代資料は半年暦の干支で記されているものとみて逆算した暦だから
なぜ中国の2月と8月を正月にしているのか、という理由の部分については憶測するしかない
>>152
仲哀よりはるかに以降の聖徳太子の時代が>>116説の主な対象で、そこでは半年暦の干支を、半年暦の存在自体が忘れられた日本書紀の編纂時点で、通年暦の干支だと勘違いして日付を逆算したことが判明している
だとすると、仲哀紀でも同じように通年歴だと勘違いして日付を逆算したと考えればべつに改竄である必要はない >>151
その説は改竄ありきで、>>76のいう「とってつけたような思い付き」の類いとなんら変わらないように見えるが
>>93もいうように、「(天皇の年齢に関しては)半分に解釈した方が理解しやすく見える」が「他の全ての史料の年齢の記事は、半分にしなくとも自然に理解しえる」
「自分にとって長大に思える年齢の記事を、適当に拾い集めて来て、半分の方が自然だと言い張ってるだけ。」という批判がそのままあてはまることになる
>>116の説が、これだけの反論を生き残ったのは、天皇の年齢以外に10を越える古代史の謎が一気に解決するからなのだが、
>>151は年齢以外の問題をなんら解決してないようにみえるし、そもそも2倍暦や4倍暦が実際にあったなら、それがどういう経緯で改暦されて今日に至るのかという疑問もある
改暦のタイミングは中国歴の正式導入である西暦692年以外にないようにみえるんだが、2倍暦と4倍暦を想定するなら少なくとも2回の改暦が必要のはず もともと当初
仲哀紀はなかったらしいよ。
書きつぐ中で増えたらしい。 >>154
いやいやちょっと誤解がある
もともと春秋で一年づつ倭人は1太陽年で2歳歳をとる暦を使っていたし記録もしていた。
そこに元嘉暦を導入した
元嘉暦以前の記録と導入後の記録ができた
儀鳳暦を導入した際に遡って暦の体裁を整えた結果過去が二倍に引き伸ばされた格好になった。
さらに古くしたいから過去の記録を儀鳳暦に当てはめる時に意図的に倍にした
のではないか?
ということ
四倍歴とか天文気象的に不合理で世界のどこにもない周期の暦は存在し得ないが
世間の時間の流れと記録は春秋のままが長く続いた形跡があるならなおさら四倍歴の出る幕はないのに
辻褄があうとするなら、そこには引き延ばす意図があったのだろう、ということ。
なににせよ
116の分析はすごいと思ってるよ >>150
古代日本(出雲王国時代〜雄略頃まて?)
一年は春分の日(元日)〜秋分の日の前日まで。と、
秋分の日(元日)〜次の春分の日の前日迄
の一年二歳。
この事象、風習は魏史倭人伝にも(表現は異なるものの)記載されているところ。 >>157
この名残が春と秋のお彼岸の中日の先祖祭祀(墓参り等) >>157
大雑把にいえばそうだろうけど、月の満ち欠けを日付の基準にしていたとすれば、若干のズレはあるんじゃないかと思う
春分または秋分を含む月を正月として、その区切りは新月と満月だった、と考えれば、自然な暦法になると思う
復元された半年暦はこれとは違っていて、中国の暦を機械的に半分にしたもので、閏月が2回連続するような不自然なものだけど、
おそらくは中国暦との換算を容易にするため、大陸と交流を始めた初期にそういう暦を採用したのであって、
それ以前はもっと自然な暦だったと思う
てことで、>>94の後半部分のように考えれば、グレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の有力候補日になるようで、
半年暦を前提とすればその後崇神までの間に120年ぐらい間があって、ここに欠史八代があったと考えて不自然ではないし
これを偶然とは考えづらいことから、この日が神武即位と考えていいと思う
日本書紀の編纂時は半年暦だったことが忘れ去られてしまったため、通年歴の正月1日の日干支を逆算して一致するものを
探した結果、紀元前660年まで遡らざるを得なかったのだろう >>116
この説はなるほどと思ったけど
692年まで二倍歴だったとしたら、白村江の戦いはどうなるの?
天智天皇じゃなくて舒明天皇になるよね >>160
白村江の戦いも肝心の中国に同時代の記録がなく、日本書紀からの孫引きと思われる記事が数百年後に現れるものなので、結局は日本書紀の記事がすべてのソース
なので、国内事件と同じように処理すべきかと 参考までに、こういう人もいる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%83%A8%E5%8D%9A%E9%BA%BB
白村江に出生して捕虜として捕らえられ、その後「30年間」奴隷生活をして690年に日本に帰国した人
当時の平均寿命から考えて、兵士として出生したぐらいの年齢の人がその後30年間も、そもそも生きていられるだろうか >>161
じゃあ白村江の戦は天智天皇3年、西暦678年になるのか。
百済が滅亡して18年後だけど、復興運動がそこまであとになって出てくるものかなあ。
神功皇后の新羅征伐は西暦527年ころになるけど、対応する記録は大陸にはあるのかな
広開土王碑だと100年以上前になるし
広開土王碑にある西暦400年ごろの倭の侵略は神武とかそのあたりの時代になるのかな。 >>164
朝鮮半島のこの時代の歴史書は、高麗時代の三国史記(1143年執筆開始)および三国遺事(1270年以降)に依存していて、じつは同時代の記録が存在しない
三国史記では、新羅、百済、高句麗の建国をそれぞれ紀元前としていて(新羅紀元前57年、百済紀元前18年、高句麗紀元前37年)、楽浪郡や帯方郡、辰国などを記す中国の歴史書と矛盾しており、それをどう解釈するか韓国でも論争になってる
案外、これも半年歴だったのかもしれない なるほど。そちらもずれている可能性があるのか。
広開土王碑も繰り上がる可能性があるか。
でも中国の記録からは、百済が660年、高句麗の滅亡年668年は変わらないはずだよね
舒明天皇時代に、友好国の百済が滅亡して何の記述もないのはどうだろうか。 中国の記録の話をすれば、白村江の会戦に関しては、そもそも旧唐書と新唐書で年代が1年違ってる。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho102/kai10204.html
朝鮮半島の記録によれば662年で、旧唐書はこれを採用している。当時は日本書紀は信用されてなかったわけだが、新唐書では評価が180度変わってしまい、日本書紀の663年が採用されている。
ようするに、この時期、朝鮮半島の記録と日本の記録のどちらを採用すべきかで中国内で争っていたわけだ。
唐が自ら出兵したはずなのに、その記録が中国に全く残ってなかったことは不思議なことだが、もしかすると今後、正しい年代に修正された上でその時期の唐の記録をみると、該当するものが発見されるかもしれない。 朝鮮半島の記録と日本の記録、という言い方をすると語弊を招くか
旧唐書ができたのは三国史記よりも前だから、その原資料と言ったほうが正確だろう アマテラス=卑弥呼としたら
スサノオ=卑弥呼の弟王、後に出雲に飛ばされる。
ニニギの天孫降臨は畿内から九州に飛ばされたってのが実情か https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12478322681.html
持統6年の改暦以前を二倍歴としたら、倭王「武」は崇神天皇
欠史八代が「倭の5王」としたらすごいな
讃 六代考安天皇 418〜425年
珍 七代孝霊天皇 425〜438年 讃の弟
済 八代孝元天皇 443〜461年
興 九大開化天皇 462〜477年 済の弟
武 十代崇神天皇 477〜502年 興の弟
https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12478323039.html
この表がすごい あー確かにありうるな
倭王武は東国55カ国、西国66カ国を平定して全国を統一したと中国の皇帝に書いてるけど、崇神天皇は四道将軍を派遣して初めて国を治めた天皇と呼ばれていて、辻褄が合う 倭の五王は中国に使者だして、朝鮮半島にも進出するくらい勢力あったのに
崇神天皇以前が欠史八代になるほど伝承がないのが残念
欠史八代の父子相続が、中国の歴史書によれば結構兄弟相続だったりするし
崇神天皇が壬申の乱とか靖康の変とかみたいに兄の正統の王朝を殺して、記録を抹殺したとかあり得る >>172
欠史八代の父子相続に関しては、その長寿命とともに、>>159のような経緯で逆算された紀元前660年という結論に整合させるために、こうせざるをえなかったんだろう
いわば、カンニングしてあらかじめ答えを知った制度が、それに合わせて途中の計算式をでっちあげるようなもので、あらかじめ知ったはずの答えがじつは見間違えだったためにおかしな途中経過になってるだけだろう ×カンニングしてあらかじめ答えを知った制度
○カンニングしてあらかじめ答えを知った生徒 百年歴史がずれていたら、歴史の辻褄が合わなくなるのだが・・・
それも捏造という事で言い訳るのだろうか。
流石に無理あるっしょ。
記紀の半分は物語ってことになる。 紀元前660年即位の神武が実は広開土王と同世代だったとしたら
1000年もずれてることになるね >>175
ここまでの流れをみたら分かるだろうに
むしろ、今まで辻褄の合ってなかったいろんなことが、半年暦にしたら一斉に辻褄が合いだすんだよ 個人的には、>>116のうち、壬申の乱の「7月の極寒」の謎が解決するのが衝撃的だったな
あと、歴史では聖徳太子の時代に派遣したのは遣隋使だと習うのに、日本書紀には一貫して相手国を唐と書いてある謎も、言われてみてハッとした
>>117の千字文なんか、従来、応神天皇の時代にはまだこの世にないはずだと言われていたのに、半年暦を認めれば簡単に矛盾がなくなるのも見事としか言えない
なんか、歴代天皇の異常な長寿が解決することなんか、オマケにしか思えない 天皇とそこに書いてある事績は
はめ込みの可能性があるってことでしょ。
系譜記録と事績は別と考えた方がいいのでは。 それを言ったら、それこそ文字記録の無い時代なんだし何でも言えるぞ。
捏造と言い出したらキリが無いんだよ。
真相など、文字がない以上分かりようがないのだしね。 むしろ半年暦を導入しないままの現在の日本書紀のほうが、そうとしか考えられない矛盾だらけだったんだよな
壬申の乱だって、ほかの事件の事績をはめ込んだからこそ、真夏に極寒で家を燃やして暖を取ったとかいうちぐはぐな記事になったんだ、という説明に説得力がでてくる
しかし半年暦を導入してみると、実際その時期は真冬だから、逆に辻褄が合ってしまう >>176
BC-660頃に即位した日本で初の王国の王は出雲王国の初代オオナモチの菅の八耳王。
系譜上のいわゆるジンム=初期大和王朝の海(天)ムラクモ大王の10代前の(母系の)先祖。
その大和王朝は
、、、3代目のタマテミ王(母親実家の磯城で即位したことから磯城津彦タマテミと称されました)以降は大王権力と大王家求心力が低下して実質上は大和の3割程度を領有する豪族に成り下がる。
磯城の大王家とムラクモを担いだ出雲神族(カモ族=王族)やムラクモの子孫(尾張氏)たちが狭い大和盆地に覇権を争って半ば内乱/争乱状態。(倭国乱))
「孝」の付く歴代(便宜上)天皇は、争乱状態の時代を表して居るようです
孝安天皇。こと、国押人命(オシヒト)は大和を平定する権威と大王と認めて貰う後ろ楯に後漢に自ら出向いて「倭国は後漢帝国の属国になるから大王に承認を」と皇帝に謁見、
その際の手土産品に安芸の国の生口島で奴隷狩りをして生口=奴隷を献上したらしい。
その為、生口島の名称となったとか。
例の金印、後漢の官位の叙任 妄想レスするにしても、せめて半年暦と関連のある話にしてくれよ 二倍暦を一番最初に言い出したのは、英国人ウィリアム・ブラムゼンであってる?
明治13年(1880年)著書『JAPANESE CHRONNOLOGI. CAL TABLES(日本年代表)』 により二倍年暦説が始まる
http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t145.pdf >>184
>>72が言ってるのはその人のことだろうね
ただ、その人の着目点が天皇の年齢だけだったせいで、それ以後の研究者が年齢のつじつま合わせばかりに気を使って、3倍歴4倍歴というへんな方向に議論が進んでいくことになったんだろう
日本書紀の原文を読める日本人研究者であれば、天皇即位の日付が年干支と日干支の併記で書かれていて、その両方の条件をみたす時点をさかのぼって確定させる形式だとわかるはずで、単純に倍数で伸ばすものじゃないことは分かったはずだった >>183
古代出雲王国時代(BC-660〜約700年間)〜少なくとも三国史、魏史に倭人伝に描かれた時代迄は
春分の日と秋分の日がそれぞれ正月元日。
それは、魏史倭人伝にも記述されまし
年齢もシナ人の倭人が2倍年齢を言うのでヒミコの年齢は長大などと書かれました。
因みに、出雲王国時代には春分の日と秋分の日に出雲王(オオナモチ) の王宮に各地の王族、豪族、有力氏族や役人らが新年の参賀して
併せて国会の出雲会議が開催されて、会議で採可された事案が
今度はオオナモチ后で国巫女/媛巫女が神々に御伺いを奉り、「吉」とでて晴れて執行/施行されました。
同時に王家が主宰する国大祭をオオナモチの正后が 祭主/媛巫女(今なら皇后陛下)として取り仕切って催行。
最後に出雲王国や参集した全員の弥栄を祈念して出雲の最高神が隠る神山に向かい万歳🙌三唱を行っていました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています