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【半年歴】春秋暦を語ろう【二倍年暦】
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0001日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/02(月) 00:39:39.01
 西暦554年(皇紀1214年)、欽明天皇の時代に歴学者の交代という形で中国歴が
既に導入されていることがわかりました。雄略天皇、継体天皇あたりで導入されたと
噂される中国歴(1年が約365日)の前に使用されていた古代日本の歴、中国や半島と
の年代のズレや長命な古代天皇を説明するために有効な春秋暦(1年が約183日)を
話し合いましょう。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/22(月) 02:30:04.23
干支表は、>>94のリンク先に部分的に出てるけど、そこは聖徳太子の没年の謎をとく上で必要な部分だけだな。
干支表の全体が出てるのは、
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11627645.html
の、第18表だ。

ちなみに>>112は、天皇の年齢が長い時代を問題にしているようだが、二倍歴が解決する問題はそこだけではない。
二倍歴によって解決される問題は、以下の通り。
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11633436.html
ア:稲荷山鉄剣銘に現れる「シキノミヤ」は近畿王朝に現れない謎。
イ:倭の五王は、強引な解釈を施さないと近畿王朝に結びつかない謎。
ウ:継体紀に全くそれらしき事件がないのに「日本の天皇、皇太子、皇子皆死去」と記さ れた奇怪な記事の謎。
エ:推古天皇は女帝なのに『隋書』俀國傳では「男王」となっている謎。
オ:推古朝は隋王朝と重なっている部分があるにも関わらず、現実の推古紀には、大唐、唐國、唐客、唐帝というふうに一貫して唐王朝との交流記事になっている謎。
カ:記紀はほぼ同時代成立の史書であるにもかかわらず、推古天皇の崩御年月日が記紀で異なっている謎
キ:法隆寺は全部焼失し、建物も仏像も再度造られた、すなわち記紀編纂時と同時期に再建
 されたと考えられるのに、推古紀と金石文たる「釈迦三尊像光背銘」とでなぜ聖徳太子の薨去年月日が異なるのか、という謎。
ク:「壬申の乱」は現在では七月という暑熱期の筈なのに、なぜ家まで燃やして暖を取らないといけないほど厳寒だったのかという謎。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/22(月) 22:16:01.26
蛇足かもしれんけど、その二倍歴の干支表が正しいとすれば、他にもいろんな謎がとけるね。
たとえば応神天皇の時代に百済から王仁博士が来て、論語と千字文を伝えた、と日本書紀には書かれていて
千字文は南朝・梁 (502–549) の武帝が、文官の周興嗣 (470–521) に作らせたものなので、応神天皇の時代にはまだ存在しないはずだ、と言われてるけど
二倍歴の干支表によれば、応神天皇の時代は西暦528年から543年までなので、まったく矛盾はなくなる。
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