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【半年歴】春秋暦を語ろう【二倍年暦】

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0001日本@名無史さん
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2012/07/02(月) 00:39:39.01
 西暦554年(皇紀1214年)、欽明天皇の時代に歴学者の交代という形で中国歴が
既に導入されていることがわかりました。雄略天皇、継体天皇あたりで導入されたと
噂される中国歴(1年が約365日)の前に使用されていた古代日本の歴、中国や半島と
の年代のズレや長命な古代天皇を説明するために有効な春秋暦(1年が約183日)を
話し合いましょう。
0040日本@名無史さん
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2015/05/29(金) 09:34:13.78
O、Nからのつづき

前回整理した古事記における天皇の崩御年齢です。
神武:68.5歳、綏靖:22.5歳、安寧:24.5歳、懿徳:22.5歳、孝昭:46.5歳
孝安:62歳、孝霊:53歳、孝元:28.5歳、開化:31.5歳、崇神:84歳
古事記は、編集において日本書紀ほどの制限は受けてないと思われるので、この数字を参考にします。

神武天皇
長男の手研耳命が東征に参加しているので、その時、手研耳命の年齢は、少なくとも10代後半以上であるでしょう。
従って、その時点で、神武の年齢は、30代後半以上でしょう。さらに、東征の期間は、古事記では、16年(8通常年)費やして
いるので、即位したのは、40代半ば以上でしょう。69歳で崩御しているので、治世年数は、25年前後でしょう。
東征後誕生した神八井耳、神淳名川耳兄弟と手研耳の間に後継争いがありましたが、兄弟が20歳前後であれば、神武は60代半ば以上
となります。69歳というのは、そう無茶な数字ではありません。
神武天皇は45歳即位、68.5歳崩御、とすると治世は25年です。

綏靖天皇
治世年数を確保し、神武が綏靖の父となる年をできるだけ若くするには、神武52歳で綏靖誕生、神武68.5歳崩御時綏靖18歳、
空位1年あり、綏靖20歳で即位、22.5歳崩御。とすると治世は4年です。

安寧天皇
安寧の父は神武ではなく、綏靖でしょう。綏靖が父となった時は18歳とします。綏靖が22.5歳で崩御した時、安寧は、僅か6歳です。
6歳で即位し、24.5歳で崩御、とすると治世は20年となります。幼帝だったのですね。

つづく
0041日本@名無史さん
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2015/05/29(金) 09:34:55.20
P、Oからのつづき

懿徳天皇
父が安寧であるならば、安寧18歳の子供として、皇位継承するのは、安寧24.5歳崩御ですから、懿徳は、8歳即位となり、
幼帝が2代続きます。幼帝が続くことはなくもないですが、出来れば避けたいと思いました。すると、懿徳の父は、
綏靖であり、綏靖21歳頃懿徳誕生となります。懿徳22歳のとき、兄安寧が崩御、皇位を継承します。
懿徳は、安寧の弟、22歳即位、22.5歳で崩御ですから、治世年数は2年、としておきます。

孝昭天皇
やはり、若年即位は避けたい。とすると、父は同じく綏靖となります。孝昭誕生時綏靖は22.5歳、懿徳崩御後1年空位があり、
孝昭即位は22歳、治世年数26年46.5歳で崩御としておきます。安寧、懿徳、孝昭は3兄弟です。

孝安天皇
父は孝昭で、誕生時孝昭は、20歳、孝昭崩御時、孝安は、28歳です。
孝安は、28歳即位、62歳崩御、治世年数35年としておきます。

孝霊天皇
父は孝安で、誕生時孝安は、20歳、孝安崩御時、孝霊は、43歳です。
孝霊は、43歳で即位、53歳で崩御、治世年数11年としておきます。

孝元天皇
父は孝霊で、孝言20歳で即位と仮定、その時点で孝霊は34歳。孝霊崩御時、孝元は20歳。
孝元は、20歳で即位、28.5歳で崩御、治世年数10年としておきます。

開化天皇
父が孝元なら、若年即位となるので、やはり幼帝は避けたい。とすれば父は孝霊であります。
開化誕生時孝霊は、43歳、孝元崩御時、開化は20歳、32歳で崩御、治世年数13年。
孝元、開化は兄弟です。

つづく
0042日本@名無史さん
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2015/05/29(金) 09:35:56.51
Q、Pからのつづき

崇神天皇
崇神は、皇位継承から崩御までの治世年数は、日本書紀を参考に34年と考えられますので、皇位継承時、崇神は50歳となります。
であるならば、開化や孝元は父親にはなりえません。父が孝霊なら、孝霊24歳時の誕生であり、皇位継承順序も不自然です。
であれば、孝安以前、安寧か懿徳あたりからの傍系と思われます。
また、日本書紀には、崇神12年に、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す、とあります。故にこの12年間、通常年
では6年間が、御肇国天皇として、統一国家としての天皇の治世だったようです。それ以前の34−6=28年間は、大和一国の大王
だったのかも知れません。ただし、大和から瀬戸内海沿岸を含め、北九州までの地域を連合王国として、協力しあっていたようです。

以上より、崇神は、50歳で皇位継承者として即位し、治世28年間大和の天皇として、6年間を統一国家の天皇とし、84歳で崩御
します。

これを整理すると、次のようになります。

神武天皇 25年(1〜25年)[116〜140年]
空位 1年(26年)[141年]
綏靖天皇 4年(27〜30年)[142〜145年]
安寧天皇 20年(30〜49年)[145〜164年]
懿徳天皇 2年(49〜50年)[164〜165年]
孝昭天皇 26年(51〜76年)[166〜191年]
孝安天皇 35年(76〜110年)[191〜225年]
孝霊天皇 11年(110〜120年)[225〜235年]
孝元天皇 10年(120〜129年)[235〜244年]
開化天皇 13年(129〜141年)[244〜256年]
崇神天皇 34年(141〜174年)[256後〜290前年]
(内御肇国天皇 6年(169〜174年)[284後〜290前年])

つぎは、神代です。

つづく
0043日本@名無史さん
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2015/05/29(金) 09:37:35.03
Q、Pからのつづき

崇神天皇
崇神は、皇位継承から崩御までの治世年数は、日本書紀を参考に34年と考えられますので、皇位継承時、崇神は50歳となります。
であるならば、開化や孝元は父親にはなりえません。父が孝霊なら、孝霊24歳時の誕生であり、皇位継承順序も不自然です。
であれば、孝安以前、安寧か懿徳あたりからの傍系と思われます。
また、日本書紀には、崇神12年に、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す、とあります。故にこの12年間、通常年
では6年間が、御肇国天皇として、統一国家としての天皇の治世だったようです。それ以前の34−6=28年間は、大和一国の大王
だったのかも知れません。ただし、大和から瀬戸内海沿岸を含め、北九州までの地域を連合王国として、協力しあっていたようです。

以上より、崇神は、50歳で皇位継承者として即位し、治世28年間大和の天皇として、6年間を統一国家の天皇とし、84歳で崩御
します。

これを整理すると、次のようになります。

神武天皇 25年(1〜25年)[116〜140年]
空位 1年(26年)[141年]
綏靖天皇 4年(27〜30年)[142〜145年]
安寧天皇 20年(30〜49年)[145〜164年]
懿徳天皇 2年(49〜50年)[164〜165年]
孝昭天皇 26年(51〜76年)[166〜191年]
孝安天皇 35年(76〜110年)[191〜225年]
孝霊天皇 11年(110〜120年)[225〜235年]
孝元天皇 10年(120〜129年)[235〜244年]
開化天皇 13年(129〜141年)[244〜256年]
崇神天皇 34年(141〜174年)[256後〜290前年]
(内御肇国天皇 6年(169〜174年)[284後〜290前年])

つぎは、神代です。

つづく
0045日本@名無史さん
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2015/05/29(金) 19:40:56.99
R、Qからのつづき

伊邪那岐命(イザナギノミコト)から神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレビコノミコト=神武天皇)までの系図の順序は次のとおりです。

伊邪那岐命(イザナキ)
天照大御神(アマテラス)
天忍穂耳命(オシホミミ)
邇邇芸命(ニニギ)
火遠理命(ホオリ)
鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)
神倭伊波礼琵古命(イワレビコ)(神武)

古事記、日本書紀では、上記順序で皇位が継承されてきましたが、あえて、少し修正しました。

山幸彦であるホオリと神武天皇であるイワレビコは同一人物である、という説があります。
その理由は、次のように同一人物であるという節があるからです。
1.実名が共に彦火火出見(ヒコホホデミ)と同じ
2.神武より先に大和へ下ったニギハヤヒは、ニニギの兄であり、その子ウマシマジは神武と同世代という説の存在
3.ホオリが釣り針を探すときや、神武に東に美しき地ありとアドバイスしたのも共にシオツチノオジ
4.ホオリ、ウガヤ父子の妃はトヨタマ、タマヨリの姉妹であり、神武、綏靖父子の妃もイスズヒメ、イスズヨリヒメの姉妹、両姉妹とも神(海神、事大主神)の娘

海幸山幸伝承とウガヤをいれるため、神武が後ろへ回されたのでしょう。ということで、ここでは
イザナキ→アマテラス→オシホミミ→ニニギ→神武の順序で検討します。
これに年代を付けてみたいと思います。

つづく
0046日本@名無史さん
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2015/05/29(金) 19:41:44.21
S、Rからのつづき

神武天皇は、西暦140年に68.5歳で崩御しましたので、生年は、西暦72年です。

神武は第四子である故、神武生年時、父であるニニギの年齢は23歳としておきましょう。
であれば、ニニギの生年は、西暦50年になります。

次にニニギ生年時、父オシホミミの年齢が20歳とすれば、オシホミミの生年は西暦31年です。
オシホミミ生年時母アマテラスの年齢は20歳とすれば、アマテラス生年は西暦12年。
アマテラス生年時父イザナキの年齢は20歳とすれば、イザナキの生年は西暦紀元前8年ということになります。

整理すれば、

紀元前8年 イザナキ誕生
西暦12年 アマテラス誕生、イザナキ20歳
西暦31年 オシホミミ誕生、アマテラス20歳
西暦50年 ニニギ誕生、オシホミミ20歳
西暦72年 神武誕生、ニニギ23歳
西暦109年 神武東征開始、神武38歳
西暦116年 神武即位 45歳

ということで、大雑把に言って、イザナキ、イザナミの時代は、1世紀初頭、神武天皇即位は2世紀前半の中頃になります。

次に、全体を整理してみましょう。
つづく
0047日本@名無史さん
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2015/05/29(金) 19:42:44.90
㉑、Sからのつづき

一度全体を整理してみましょう。(1回で書き込めませんので、2回に分けます。)

紀元前 8年 イザナキ誕生
西暦 12年 アマテラス誕生、父イザナキ当時20歳
西暦 31年 オシホミミ誕生、母アマテラス当時20歳
西暦 50年 ニニギ誕生、父オシホミミ当時20歳
西暦 72年 神武誕生、父ニニギ当時23歳
西暦109年 神武東征開始、神武当時38歳
西暦116年 神武即位 当時45歳
神武天皇 [116〜140年]治世25年、69歳崩御 72年生 父ニニギ当時23歳
空位   [141年]1年
綏靖天皇 [142〜145年] 4年、23歳崩御 123年生 父神武当時52歳
安寧天皇 [145〜164年]20年、25歳崩御 140年生 父綏靖当時18歳
懿徳天皇 [164〜165年] 2年、23歳崩御 143年生 父綏靖当時21歳
孝昭天皇 [166〜191年]26年、47歳崩御 145年生 父綏靖当時23歳
孝安天皇 [191〜225年]35年、62歳崩御 164年生 父孝昭当時20歳
孝霊天皇 [225〜235年]11年、53歳崩御 183年生 父孝安当時20歳
孝元天皇 [235〜244年]10年、29歳崩御 216年生 父孝霊当時34歳
開化天皇 [244〜256年]13年、32歳崩御 225年生 父孝霊当時43歳
崇神天皇 [256後半〜290前半年]34年、84歳崩御 207年生 父?(孝霊当時26歳?)
(内御肇国天皇 [284後半〜290前半年]6年(12カウント年)
垂仁天皇 [290前半〜316前半年]27年(53カウント年)、77歳崩御 240年生 父崇神当時34歳
景行天皇 [316前半〜334前半年]19年(37カウント年)、69歳崩御 266年生 父垂仁当時27歳
成務天皇 [334前半〜338後半年] 5年(10カウント年)、20歳崩御 319年生 父景行当時54歳
空位   [339前半年]1年(1カウント年)

つづく
0048日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/29(金) 19:45:48.81
㉒、㉑からのつづき

仲哀天皇 [339前半〜342前半年] 4年( 7カウント年)、23歳崩御 320年生 父倭建命当時18歳
応神天皇誕生 [342後半年]1年(1カウント年)
神宮摂政 [343前半〜368前半年]26年(51カウント年)、51歳崩御 318年生 父気長宿禰王当時19歳
応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
空位   [407後半〜410前半年] 4年( 6カウント年)
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳
履中天皇 [434後半〜437前半年] 4年( 6カウント年)、33歳崩御 405年生 父仁徳当時32歳
反正天皇 [437前半〜439前半年] 3年( 5カウント年)、31歳崩御 409年生 父仁徳当時36歳
空位   [439後半]1年(1カウント年)
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
安康天皇 [460前半〜461年] 2年(4カウント年)、28歳崩御 434年生 父允恭当時24歳
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳
清寧天皇 [483〜487年] 5年、28歳崩御 460年生 父雄略当時19歳
顕宗天皇 [487〜489年] 3年、31歳崩御 459年生 父市辺押盤皇子当時35歳
仁賢天皇 [489〜499年]11年、42歳崩御 458年生 父市辺押盤皇子当時34歳
武烈天皇 [499〜506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳
継体天皇 [507〜531年]25年、54歳崩御 478年生 父彦主人王当時29歳

古代は不明な事が多いため、100人100説です。真実は、一つですから、99説または100説全部間違ってます。
しかし、皆自説が正しいと思ってます。筆者も仲間に加えていただきます。ご賛同くださればありがたいです。
当然、都合のよいことは頂き、悪いことは、スルーしてます。よろしくお願いします。
つづく
0049日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/31(日) 12:40:18.34
㉓、㉒からのつづき

(一段目は前回とかぶります。)
古代は不明な事が多いため、100人100説です。真実は、一つですから、99説または100説全部間違ってます。
しかし、皆自説が正しいと思ってます。筆者も仲間に加えていただきます。ご賛同くださればありがたいです。
当然、都合のよいことは頂き、悪いことは、スルーしてます。よろしくお願いします。

神武と崇神は同一人物、欠史八代は架空、聖徳太子はいなかったなど諸説ありますね。学会の先生方は、
古事記、日本書紀そのものを否定してますね。でも、ここでは、古事記、日本書紀の記述は尊重したいと
思います。しかし、年齢や、年代はそのまま採用することができませんので、都合のいいように変更しました。


●いろいろ考えました−1
【天孫降臨】
面白い話ですが、福岡市の早良区とその西隣の糸島市の間に高祖山というのがあります。その山は二つの頂に分かれており、
南側の頂を「クジフル岳」と言われているそうです。その南に日向峠という峠があり、早良区と糸島市を結んでいます。
この糸島市には、有名な平原遺跡がありますが、三雲南小路遺跡(ニニギ夫妻埋葬?)、細石神社(祭神:イワナガヒメ&
コノハナサクヤヒメ)、志登神社(祭神:トヨタマヒメ)、塩土神社(祭神:シオツチノオジ)、高祖神社(祭神:ホオリ、タマヨリヒメ)
など多彩で、ニニギが降臨した地であり、東征した神武の故郷のようにも思えます。また、この辺りは、世々王あり、一大卒を置く
1,000余戸の伊都国でもありますね。
ニニギの降臨したクジフル岳の北の方向には、韓国があり、真南には、有明海を経由して薩摩半島の笠沙町にある野間岬へ通じます。
本当に真南です。東からは、朝日が直接差し込み、西は見晴がよく、夕日が照ります。
まさに天孫降臨の地です。

つづく
0050日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/31(日) 12:42:42.46
㉔、㉓からのつづき

●いろいろ考えました−2
【高天原】
福岡市には、住吉三神を祭る住吉神社があり、近くにイザナキが禊をしたと言われる天竜池があります。また、小戸神社(通称小戸大神宮)
には、アマテラス、タヂカラオ、タクハタチヂヒメが祭られています。この辺りは、ニニギが降臨する前の高天原のように思えますね。
また、この辺りは、20,000余戸の奴国ですね。伊都国から10キロ位の所です。志賀島からは奴の国王の金印が出ましたね。アマテラスに
贈られたのでしょうか。10キロ先には1,000余戸の不弥国があります。ここには那の津と言われる津があります。
里の長さは、時代により、場所により、異なりますが、当時、倭での1里は、100メートル弱です。

1世紀の前半の中頃、アマテラスとスサノオが今の福岡市辺りで行われた、「うけい」の後、スサノオの行動が横暴に
なってきました。それを憂い、アマテラスは岩屋に隠れました。天の岩屋伝説ですね。日食という説もありますね。
もし、日食であるとすれば、都合よく福岡で、西暦31年5月10日に金環食がありました。午前8時9分に欠け始め、
10時14分から10時18分まで金環食、11時55分に日食は終わります。「うけい」はこれより前ということになります。

つづく
0051日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/31(日) 14:47:47.31
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0052日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/31(日) 14:48:25.47
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0053日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/02(火) 23:17:34.19
(25)、(24) からのつづき

●いろいろ考えました−3
【神武東征】
神武東征を考えてみました。福岡市辺りで行われた、「うけい」での1つとして、宗像三女神が生まれました。
この宗像三女神は宇佐島に降臨しましたが、それは、現在の宗像市辺りです。その辺りの部族が欽明の頃現在の宇佐神宮のところへ
遷りました。宇佐神宮の祭神の中央には三女神が祭られています。(この考え方が、都合がいいのです。)
神武天皇が東征に出発した日向は、生まれ育った伊都国です。陸路不弥国まで行き、那の津から海路東へ向かいました。
記紀ともに日向(宮崎県)を出発します。日本書紀では最初に狭い海峡を通りますが、古事記ではずっと後で通ります。
次は記紀ともに豊国の宇佐へ立ち寄り、その次に何故か東へ向かわず関門海峡を通り筑紫の岡田宮(岡水門)へ行きます。
その後後戻りして阿岐(安芸)の国へ行きます。どうも順路が不思議ですね。
ところが、伊都国(筑紫の日向)を出発し、陸路奴国を経由不弥国から海路、最初に宇佐を訪れます。宗像辺りですね。次に岡田宮を通り、
関門海峡を経由、阿岐(安芸)の国へ行きます。如何ですか。自然ですね。欽明の時にできた宇佐や、景行の時に名づけられた日向を
何故神武が通れるのでしょうか。また、大和は福岡日向なら東になりますが、宮崎日向からも本当に東でいいのでしょうか。太平洋に
なってしまいますが。
つづく
0054日本@名無史さん
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2015/06/02(火) 23:19:14.55
(26)、(25)からのつづき
●いろいろ考えました−4

【欠史八代】先代旧事本記からピックアップしました。
(文頭は、尾張・物部の世代と登場する天皇)
先代−神武 長髄彦(ニギハヤヒの嫁兄)は、神武の兵を防いだ。
当代−神武 ウマシマジは、神武の御世の初め足尼(すくね)になり次いで大夫となって大神を祀った。
次代−綏靖 彦湯支命は、綏靖の御世の初め足尼になり次いで大夫となって大神を祀った。
三世孫−安寧 大祢命は、安寧の御世に侍臣となって大神を祀った。
三世孫−懿徳 出雲醜大臣命は、懿徳の御世の初め大夫になり次いで大臣となって大神を祀った。
三世孫−孝昭 出石心大臣命は、孝昭の御世に大臣となって大神を祀った。
四世孫−孝昭 瀛津世襲命は、孝昭の御世に大連となってお仕えした。
四世孫−孝昭 世襲足姫命は、孝昭の皇后となり二人の皇子を生んだ。
四世孫−孝安 三見宿祢命は、孝安の御世の初め足尼になり次いで宿祢となって大神を祀った。
四世孫−孝霊 大矢口宿祢命は、孝霊の御世に並んで宿祢となって大神を祀った。
五世孫−孝元 欝色雄命は、孝元の御世に大臣となって大神を祀った。
五世孫−孝元 欝色謎命は、孝元の皇后となり三人の皇子を生んだ。
五世孫−孝元・開化 大綜杵命は、孝元の御世に大祢となり、開化の御世に大臣となった。
五世孫−開化 大峯大尼命は、開化の御世に大尼となって奉仕した。
六世孫−開化 武建大尼命は、大峯大尼命と同じく開化の御世に大尼となってお仕えした。
六世孫−開化 伊香色謎命は、孝元の皇妃となり、また開化の皇后となり皇子を生んだ。
六世孫−開化・崇神 伊香色雄命は、開化の御世に大臣となり、崇神の御世は八十万の神々を祀った。
七世孫−崇神 大海姫命は、崇神の皇妃となり一男二女を生んだ。
七世孫−崇神 建胆心大祢命は、崇神の御世に大祢となってお仕えした。

以上のリストは、神武天皇〜崇神天皇の記述のある部分です。
これをプロットしてみたいと思います。

つづく
0055日本@名無史さん
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2015/06/02(火) 23:21:12.34
(27)、(26)からのつづき
前回のリストを世代別にプロットしてみると次のとおりになりました。

先代−当代−次代−三世−四世−五世−六世−七世
神武−神武−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−綏靖−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−安寧−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−懿徳−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−孝昭−孝昭−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−孝安−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−孝霊−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−孝元−孝元−−−
−−−−−−−−−−−−−−−開化−開化−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−崇神−崇神

これを見ると安寧、懿徳、孝昭は兄弟かも知れませんね。孝元と開化も兄弟のようです。
孝安と孝霊も兄弟のように映りますが、Pにも書きましたように父子のような気がします。
神武〜崇神は6〜7代でしょうか。10代にわたる父子継承でなく、兄弟も交えた継承であり、これが本当だと思います。

【その他】
○倭迹迹日百襲媛命(モモソヒメ)=西暦200年生〜247年頃没、48歳(春秋年で96歳)。239年の卑弥呼朝貢時は、
40歳(春秋年で80歳)、父は孝霊天皇で、モモソヒメ誕生時20歳。
○大彦=西暦235年生〜没年不明、崇神の皇位継承時は23歳(春秋年で46歳)。父は孝元天皇で、大彦誕生時20歳。
○御間城姫(崇神天皇の皇后)=西暦254年〜没年不明。父は大彦、御間城姫誕生時、大彦20歳、崇神47歳、歳の差結婚?

つづく
0056日本@名無史さん
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2015/06/04(木) 23:18:37.05
(28)、(27)からのつづき
●いろいろ考えました−5
【距離単位】
古代において距離を表す単位には「里」が使われていますが、その長さは、場所(国)、時代により異なります。
2〜3世紀の日本、朝鮮半島では1里=100メートル弱で、中国の魏では1里=500メートル弱です。
魏志倭人伝では、帯方郡から南下し、珍島附近から東進し、釜山附近まで、7千余里となってますが、これは、
約700qです。また、末盧国〜伊都国間五百里=約50q、伊都国〜奴国間百里=約10q、奴国〜不弥国間
百里=10qです。狗耶韓国〜対馬国〜一支国〜末盧国間の海上各千余里は、実距離でなく、魏の役人が採用した
設定距離だと思います。魏では1日当たりの行程は仮に50魏里(約25q)とすれば、韓倭方面の里に換算し、
250里としました。また、風や波など、気象条件により、出航が待たされるため、平均4日かかるものとしました。
よって、250里×4日=千里としました。(めちゃめちゃ都合よく解釈しました。案外こんなものか知れませんが。)
ちなみに、伊都国→奴国→不弥国は、多分陸行1日で可能でしょう。伊都国→不弥国→奴国→投馬国を水行20日、
投馬国→邪馬台国が水行10日です。水行には多少の陸行は含みますがメインが水行です。これを伊都国→邪馬台国を
多少の水行を含め、メインを陸行で日に向かって進めば陸行1月なのでしょう。
また、日本書紀、崇神紀に「任那は筑紫国を去ること二千余里」とありますが、当時の1里=100メートル弱で
あれば約200qとなります。これは、設定距離ではなく実距離でしょうか。
肥前国風土記逸文に、「松浦の県。県の東三十里に揺の岑あり」というのがあるそうです。実際の距離は約3qなので、
当時の1里=100メートル弱だったのですね。岩波書店の風土記では、この部分を六里とし、注記で、三十里とあるが、
概数記載とはし難く、実距離によれば、六里または七里である。暫く六里としておく、としています。1里=500メートル
と思っているのですね。
つづく
0057日本@名無史さん
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2015/06/04(木) 23:20:12.95
(29)、(28)からのつづき

新撰姓氏録の左京皇別、吉田連の条に、「任那国の東北に三己汶(上己汶・中己汶・下己汶)の地あり、地方三百里」とあります。
地図でみると、30キロメートル四方とみても差支えなさそうです。
6〜7世紀では、1里=約500メートルになり、16〜17世紀には1里=約3,600メートルになります。
現在では約3.9q、で、中国では約500m、韓国では約400mだそうですね。



●いろいろ考えました−6
【広開土王碑】
有名な広開土王碑の碑文によると、西暦391年(392年説あり)に高句麗の好太王が即位した。倭人が海を渡ってきた。
399年、百済は、倭と和通したので、高句麗は、百済を攻めるため、平壌へ出向いた。その頃、新羅が、倭が攻めてきた
のでと高句麗へ救援を求めてきたので、高句麗は、新羅の求めに応じることにした。400年高句麗は、5万の大軍を派遣
して新羅を救援した。新羅王都にいた倭の大軍は退却した。404年帯方地方に侵入してきた倭軍を討って大敗させた。
というようなことが記されているようですが、次のように応神天皇治世の時のようですね。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳

つづく
0058日本@名無史さん
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2015/06/07(日) 06:35:56.03
(30)、(29)からのつづき

●いろいろ考えました−7
【稲荷山鉄剣】
有名なこの鉄剣には、文字が刻まれており、「辛亥の年、ワカタキロ?大王がシキの宮に在る時、ヲワケの臣は、
この百練の利刀を作らせた。ヲワケの臣は、上祖オホヒコから数えて8代目である。」というような内容が含まれてますね。
辛亥の年は、471年が定説で531年説もあるようです。
ご存じオホヒコは、崇神天皇が全国制覇する前に四道将軍の一人として、北陸方面へ派遣され、東海方面へ派遣された、
息子のタケヌナカワワケと会津で合流しましたね。崇神天皇の全国制覇が西暦284年頃とすれば、280年頃だったでしょうか。
ワカタキロ大王が雄略天皇であれば、次のとおり、辛亥の年は471年ということになります。

雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳

471−280=191、約190年です。8代で190年、1代平均24年となります。

つづく
0059日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/07(日) 06:37:36.54
(31)、(30) からのつづき

●いろいろ考えました−8
【七支刀(奈良県天理市の石上神宮に伝来)】
この刀には、文字が刻まれており、「太和四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練ったこの七支刀を造った。
百済の王と(王の)世子は、倭王にこの刀を造った。」というような内容が含まれてます。
太和がなぜ泰和なのか知りませんが、泰和4年として369年とする説があります。
369年といえば、次の通り、応神の治世に入ったばかりですね。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳

日本書紀によると、「神功摂政52年に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に七枝刀一口その他重宝を献じ友好を願った。」
ということが書かれています。これから考えると、近肖古王(346〜374)とその世子(近仇首王(375〜383))が倭王(女王ではない)
のために造った、ということになります。応神即位の祝いも兼ね、倭との同盟強化を願ったのでしょうか。

つづく
0060日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/07(日) 06:39:03.40
(32)、(31) からのつづき
●いろいろ考えました−9
【新撰姓氏録、国栖の伝承】
新撰姓氏録、大和国神別の国栖の条に、允恭天皇の御代乙未の年に七節の御贄を奉った、という記事があります。
この乙未年は西暦455年で、通説の允恭崩御453年より後になります。ということで、この乙未年は、
己未年(419年=通説允恭8年)の誤りである。己の文字が乙に似ているので、誤ったものである、という説があります。
しかし、ここでは、乙未年西暦455年は、次のとおり、允恭天皇の治世に含まれています。

允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳


●いろいろ考えました−10
【隅田八幡宮人物画像鏡】
最大の難関は、「日十大王年」の解釈だと思います。年代は、「癸」の文字に問題があるようですが、取敢えずは癸未年
ということです。西暦443年説と503年説があります。「意柴沙加」を取るか「斯麻」を取るかのようです。
斯麻は斯麻王(462〜523)のことでしょうか。その他395〜683年までいろいろありますが、いずれも決め手に欠けます。
何ともいえませんが、443年説を取るならば、次の允恭天皇の時代ということになります。

允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳

「日十」は「十日」の間違いではなく、ならば「早」の間違いかも知れません。鏡職人が原稿の早を日十と見誤ったのでしょう。
早は朝に通じます。であるならば、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭)が浮かんできます。(都合よく考えました。)

つづく
0061日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/10(水) 05:43:25.11
(33)、(32)からのつづき からのつづき

●いろいろ考えました−7
【倭の五王】
Wikipediaから登場する倭王と西暦をリストしました。これにこれまでの年代を重ねてみます。
○印は王名の記載のあるもの。

413年 讃 
421年○讃
425年○讃
430年 讃?
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳

438年○珍 倭王讃没し、弟珍立つ
反正天皇 [437前半〜439前半年] 3年( 5カウント年)、31歳崩御 409年生 父仁徳当時36歳

443年○済
451年○済
460年 済?
允恭天皇 [439後半〜460前半年]22年(42カウント年)、50歳崩御 411年生 父仁徳当時38歳
安康天皇 [460前半〜461年] 2年(4カウント年)、28歳崩御 434年生 父允恭当時24歳

462年○興 済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
477年 興(○武) これより先、興没し、弟の武立つ。
478年○武
479年○武
雄略天皇 [461〜483年]23年、42歳崩御 442年生 父允恭当時32歳

つづく
0062日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/10(水) 05:45:36.94
(34)、(33)からのつづき からのつづき

これから察するに、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略でしょう。

438年の「讃没し、弟珍立つ」は、宋は讃に対しての積りで「珍の続き柄」を尋ねたところ、倭の使者は、
反正は履中の弟だから、「弟である」と答えた。それを宋は、珍は讃の弟と記録したのでしょう。

460年の遣使は済か興か紛らわしいところです。
462年の遣使は、本国から使者への天皇交代の知らせが間に合わなかったのでしょう。
477年は武です。

倭王武には、次のように、502年にも出てきます。年代を当てはめると次のように武烈の時代になりますが、
宋では、これまでの武の積りでしょう。

502年○武
武烈天皇 [499〜506年] 8年、16歳崩御 491年生 父仁賢当時28歳


502年は、遣使したのではなく、梁の武帝が王朝を樹立した際に次の通り各将軍を一斉に新号したのです。
高句麗王 高雲     車騎将軍 →車騎大将軍
百済王  餘大     鎮東大将軍→征東大将軍
宕昌王  梁弥頭    安西将軍 →鎮西将軍
倭 王  武      鎮東大将軍→征東将軍
河南王  吐谷渾休留代 鎮西将軍 →征西将軍
これをみると、479年以降、遣使しなかったのか、天皇の交代は、知らされていなかったようです。

つづく
0063日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/14(日) 16:30:32.91
(35)、(34)からのつづき
●いろいろ考えました−12
【日本書紀中の百済王の即位と崩御記事】
次のとおり、日本書紀の神功皇后摂政期後半から応神天皇治世前半にかけて百済王の即位と崩御の記事があります。
それぞれの記事は、西暦では250年〜300年頃ですが、これに干支2運(120年)加えると、
370年〜420年頃になり、三国史記の百済本記にある百済王の即位、崩御とほぼ一致します。
日本書紀では、神功後半〜応神前半ですが、120年加えた年代を、春秋暦で修正した紀年にあてはめても、
ほぼ応神の時代になります。ということは、この時代の他の外交記事も同様に考えてもいいのでしょうか。

神宮55年(255+120=375) 百済の肖古王(近肖古王)薨ず。
神宮56年(256+120=376) 百済の王子貴須(近仇首)、立ちて王と為る(史記では375)。
神宮64年(264+120=384) 百済国の貴須王(近仇首王)薨りぬ。王子枕流王立ちて王と為る。
神宮65年(265+120=385) 百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(阿華)年若し。叔父辰斯、奪いて立ちて王と為る。
応神 3年(272+120=392) 是歳、百済の辰斯王立ちて(385)、貴国の天皇のみために失礼し。…百済の国、辰斯王を殺して謝ひにき。
応神 8年(277+120=397) 百済記に云へらく、阿花王(阿華王)、立ちて(392)、貴国に礼无し。
応神16年(285+120=405) 是歳、百済の阿花王(阿華王)薨りぬ。天皇、直支王(腆支王)を召して、謂りて曰わく、「汝、国に返りて位に嗣げ」とのたまふ。
応神25年(294+120=414) 百済の直支王(腆支王)薨りぬ。即ち子久爾辛、立ちて王と為る(史記では420)。

応神天皇 [368前半〜407前半年]40年(79カウント年)、66歳崩御 342年生 父故仲哀当時23歳
空位   [407後半〜410前半年] 4年( 6カウント年)
仁徳天皇 [410後半〜434後半年]25年(49カウント年)、61歳崩御 374年生 父応神当時33歳

つづく
0064日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/14(日) 22:00:07.60
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0065日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/14(日) 22:00:42.11
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0066日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/14(日) 23:28:26.62
(36)、(35)からのつづき

春秋暦について
二倍歴の中に春秋暦というのがあります。魏志倭人伝にも引用されている魏略の
「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」というのが原点ですね。

「…との記述から、春の耕作と秋の収穫を1サイクルとして今の半年を一年として数えていたという意見がある。
一方でこの記述は「春に耕し秋に収穫するのを一年と大ざっぱに考えている」と述べているだけで、この記述をもって
史書に記された年数を勝手に二倍に解釈するのは牽強付会との意見もある。(Wikipediaより)」

歩数計は、左足、右足、左足、右足を一歩、二歩、三歩、四歩と数えますが、魏志倭人伝に出てくる径百余歩は、
半歩、一歩、一歩半、二歩と数える説が多いですね。
時刻も6時、18時と言ったり、午前6時、午後6時と言うときもありますね。明け六つ、暮れ六つでしょうか。
それらを思うと、一年も春年、秋年もありかなと思います。
古代の天皇の崩御年齢は一年を2カウントした方が、現実味があります。
また、日本書紀は、30巻で構成されていますが、13巻までと14巻以降では儀宝暦、元嘉暦のように暦が異なっているとか、
和習の有無があり、書き手が異なるといわれています。

ということで、13巻まで(安康天皇の途中まで)を春秋年、それ以降を通常年として紀年を展開してきました。

細かい年が算出されましたが、計算上の成り行きですから、実際はアバウトで追って行けばいいと思います。
これからいくと神武東征は2世紀中頃、というようにです。

何か思いつけば、また、投稿しますが、一旦ここで終りとします。
ありがとうございました。

おわり
0067日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/15(月) 12:34:05.60
「古事記」「日本書紀」について政治的時代背景を含めてその成立過程を解説しよう

すべては白村江の敗戦に始まる
敗戦のA級戦犯中大兄皇子は称制天智天皇に即位してしまった
大海人皇子天武は親唐・新羅の恭順派であり、国際舞台復帰を目指して天智薨去後に近江朝に対しクーデターを起こし打倒した
唐・新羅との国交回復の為には革命政権天武朝の正統性を当時の東アジア国際基準に合わせてアピールする必要があったのだ

そこで天武・持統朝は日本の国号と万世一系天皇の系譜を作成した
架空の「帝紀」「旧辞」の存在を仄めかす事は「古事記」の正史としての地位を認めさせるカモフラージュ工作であった
※各豪族氏族にあったそれに類する伝承を利用したと思われる
「日本書紀」は本来であれば「日本紀」とするのが同時代的には正しいのであるが「日本書紀」としているのは「続日本紀」よりも後の時代の
捏造であることの傍証である

「古事記」「日本書紀」の編集者は天武・持統朝の正統性と中国歴代王朝の正史「魏書」の内容を踏まえての整合性に腐心した結果
彼等は持統を投影した推古天皇さらに神功皇后を創作したのである
卑弥呼を神功にすり替える工作は成功したのだが、彼等は「隋書」の内容(推古朝は女帝ではなく男帝)を把握していなかったことにより
「古事記」「日本書紀」の捏造が浮き彫りにされてしまったのだ
0068日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/01(水) 20:08:43.09
歴史のねつ造・創造なんて、半島人にしか思いつかないだろう
0069日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/16(月) 21:10:48.95
二倍暦なんてあるわけないだろ。いまだに学界ではぜんぜん相手にされないよ
0070日本@名無史さん
垢版 |
2016/07/03(日) 08:49:39.35
>>43
崇神天皇が邪馬台国時代だよな。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2016/07/03(日) 08:50:15.28
いつから二倍年歴になったんだろうな
0072日本@名無史さん
垢版 |
2016/08/10(水) 07:26:35.62
>>69
最初に古事記や日本書紀を研究した欧州人が19世紀にすでに提示してる由緒正しい説だぞ。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2016/08/30(火) 18:14:05.12
>>72
そうなんだ、その割に「倍年暦」「半年暦」の用語すら統一されてないな。
そもそも、これらの説がどういう歴史を辿ったのか、
誰が言い始めて、どんな主張が現れたのか、概観することもできないのが残念。
あと、そういう暦算をしたのは古代日本人だけ? 古今東西に似たような事例はあった?

トンデモ扱いされたくなかったら、ちゃんと説として纏めてよ。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2016/08/30(火) 19:28:20.20
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/03(土) 21:15:28.66
>>73
古代中国の周も古皇担保が150歳とかやってるから二倍歴の可能性あり
0076日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/04(日) 05:51:00.55
>>75
そういうとってつけたような思い付きを連呼してるだけだから、
まともな学者から相手にされんのだ。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/05(水) 01:10:26.96
古代天皇春秋二倍歴説と支那大陸の春秋時代が繋がるわけね
だから歴史学会は全否定してるわけね
じゃあそっちが正解じゃん

春秋時代の支那=日本統治時代の支那
だから中国神話と日本神話が繋がってるわけね
秦が統一する前の支那は日本が統治してたんだね
これで全て繋がるね

殷周の天子は日本から支那大陸に渡ったんだね
その時代は春秋暦だったわけね
秦が支那大陸統一して焚書して新たに1年歴を採用したわけね
だから応神天皇の治世に秦氏がやってきて
応神天皇以前が春秋二倍歴ということになるわけね
やっぱり全て繋がってるね
0078日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/05(水) 04:17:16.39
崇神東征は280年以降
0080日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/05(水) 17:43:30.02
白人説って言っても、ごくわずか白人が居たかもってレベルだしな
0081日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/05(水) 21:28:39.25
新羅、百済、倭
この3国が共通に1年2期制の干支をつかってる
0082日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/05(水) 22:03:41.82
新羅と百済は倭の属国だったから当然でしょう
0083日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/08(土) 00:43:52.63
>>77
中国の古書には、日本は春秋の呉の太白の子孫ということにになってる。
呉が滅ぼされた時に海を渡って亡命したわけだ。
ちなみに呉の祖先は周の古皇担保の息子の太白で、一族数千と共に中国北方から呉の地に移住したとか
0084日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/10(月) 14:28:16.07
>>77
あほくさ。
何かを説明してるようで、何も説明していない、できそこないのポエム。
倍年でも半年でもいいが、支那の方にそういうものが存在してたのか?
妄想与太話を展開する前に、論拠をきちんと呈示しろ。
ま、バカには無理だろうけどさ。

>>83
考古学的に立証されてないでそ。
バカにレスつける奴は、やはりバカだな。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/10(月) 22:50:02.13
>>85
古墳の調査はこれまでに夥しい数がなされてきたわけだが?
宮内庁管理の陵墓については調査されていないが、
陵墓や参考地に比定されていない古墳なら、大王陵と見られる古墳の調査もされている。
倍年半年というとってつけた屁理屈の立証に、なぜ古墳の調査が必要なんだ?
バカに言っても詮無きことだが、もう少し頭を使ってレスしたらどうだ?
0087日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/11(火) 10:48:01.79
反対派はバカというだけで有益な議論をしようとしないんだね。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/11(火) 10:50:20.34
単なる罵倒に終始するのはいただけないな。
長文のわりに中身がない。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/13(木) 22:31:35.92
>>87
思い付きを述べる能しか無い癖に文句だけは一丁前だな。
有益な議論の土台すら呈示できない愚者は黙っていろ。

>>88
その短文にもさっぱり中身が無いようだが?
言われっぱなしでは悔しいから、何かしら返信した気持ちは判るが、
何も言う事が無いなら黙っていた方が自信の愚かさを晒さないで済むぞ。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/22(水) 17:08:20.70
>>66が言うように、歩数の数え方(左右それぞれを1歩とカウント)時刻(昼夜それぞれ12等分する)を考えると
月も満月、新月をそれぞれ1月とカウントし、年も夏、冬それぞれ1年とカウントするのが自然だな
だとすると、べつに日本限定ではなく、世界中で、昔は2倍年暦だった可能性がある

ただ、農業の上では2倍年暦は不便だから、農業の普及とともに現年暦が普及したのかもしれない
文明は農業と共に普及するものだから、それ以前の年暦が歴史上残らなくても不思議はない
0091日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 05:50:05.27
全然、自然じゃない。
一昼夜のことを二日、三日三晩のことを六日、なんて換言した例は無い。

世界中でそうだった可能性なんて、殆ど無い。
具体的な証拠を何一つ挙げない希望的観測じゃなくて、傍証でいいから挙げてから言え。

残っていないから、あったかもしれない、なんて言い出したら、なんでもあり。
牧畜、漁労、採集を選んで、農業に進まなかった民族はたくさんあるのに、なぜ世界のどこにも残っていない?
残っていない、んじゃなくて、初めから無かったと想定するしかない。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 08:44:41.59
なるほど、古賀の持ってきた記事だけを読めば、半分に解釈した方が理解しやすく見える。
しかし、とどのつまり、古賀の言及しない他の全ての史料の年齢の記事は、半分にしなくとも自然に理解しえるわけだ。
自分にとって長大に思える年齢の記事を、適当に拾い集めて来て、半分の方が自然だと言い張ってるだけ。

詭弁も多い。
一つ目の長者窮子についてだけ述べておくと、
一般的には、息子が長者の父にあった時の年齢を五十余歳と解釈する。
それを、二十歳に家を出たことに曲解して、自説に都合の良いように誘導している。

元々唱えた古田にしろ、二倍にあきたらず、多倍年暦なんてことを言い出した辺り、
自分が先に拵えた結論に当てはめているだけ。
尤も、古田はいつもそうなのだが。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 11:00:12.45
2倍年暦の傍証として、じつは一番有力なのは、これじゃないかと思う
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11615416.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11625968.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11626310.html

聖徳太子崩
 日本書紀:辛巳年二月五日癸巳日
 光背銘 :壬午年二月廿二日甲戌日 
推古天皇崩
 日本書紀:戊子年三月丁未朔癸丑日
 古事記 :戊子年三月十五日癸丑日

この食い違いが、2倍年暦で解明されるというのが、一番強力な傍証じゃないかな

ただ、残念なことに、このサイトを最初から見てみると、当初の論証と最終的な結論とが矛盾してるんだよな
このサイトでは、最初の方で、稲荷山鉄剣銘の「辛亥年」が2倍年暦だと30年周期になるから、西暦501年になると言ってるけど、
最終的な2倍年暦の干支表によると、西暦501年は春が己巳年で秋が庚午年だから、どちらとも辛亥年ではないはずだ
この著者は、邪馬台国畿内説の傍証として2倍年暦を利用しようとしてるから、その結論に都合の悪いことは無視する傾向がある

とはいえ、最終的な2倍年暦の干支表はかなり説得力あるから、これをもとに再構成する価値はあると思う

たとえば、天皇即位の「辛酉年春正月庚辰朔」も、2倍年暦の辛酉年のなかから、「春正月」の「庚辰」の日が「朔」になる日を探せば、有力な候補日になる
個人的には、「春正月」とは春分を含む月のことであり、(雨水ではなく春分とする根拠は、神道の皇霊祭が春分と秋分だから)
ここでいう「月」は通常暦の半月であって、「朔」は新月のみならず満月の日も候補になるから
そのなかから、日干支が「庚辰」の日、ということで、グレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の有力候補日になると思う
まぁ、この点は、もっと説得力ある日付がある可能性もあるから、あえてこだわるつもりはないが
0095日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 11:06:26.15
すまん、1箇所、神武天皇即位と書くべきところを単に天皇即位と書いてしまった
文章の意味を通りやすくしようと前後を入れ替えたせいで、「神武即位」のあとの部分が冒頭に来たことによる校訂ミスだ。申し訳ない。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 12:07:24.22
だからさ、
半分にするとぴったり解決できる、って豪語するのは、論者がピックアップしたごく一部の記事だけ。
それ以外の記事は、全く解決できていない。
なんでそんな子供騙しに引っ掛かってるんだ?

正月の春を春分のある月という説?wも、個人的な思い込みだけで、
暦法として採用された例が全く挙がっていない。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 12:11:48.76
>>96
読んでから書き込めば?
どれだけ多くの事例が列挙されてるか見てから判断したほうがいいよ
一番強力なのが、そこに挙げた日付の問題だ、と言ってるだけであって、リンク先には、それ以外にも
あきれるぐらい多くの事実が解決される事例が列挙されてる
0098日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 12:29:35.40
>>96
読んでるよ?

あきれるぐらい多くの事実って、推古・聖徳の年紀だけだが?
それ以前の全ての年紀は、そっくり解決できてるのか?

どうもわかっていないことが一つあるようだけど、
後代に年紀を倍に伸ばしたと想定しえても、
それは倍年暦/半年暦があったという実証にはならない。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 12:46:17.20
>>98
読んでないな
後代に年紀を倍に伸ばしてるわけじゃないよ
西暦692年の「元嘉暦の採用」が、通常の年暦の採用であって、それ以前は2倍年暦だってこと
だから、そこを基準点に、そこから前代を倍に伸ばしてる
そのあたりの記事を見れば、そこにも、直前の暦が2倍年歴でないと説明のつかないことがおきている
0100日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 13:27:35.27
だから、
倍に伸ばすと全部が解決できてるわけじゃないし、
倍に伸ばしてぴったりしても、それは当時そういう暦を使っていた実証じゃないの。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 14:00:44.69
>>101
持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である儀鳳暦を試用するため元嘉暦との並用を
始め、5年後の文武天皇元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。

どこが寝言なんだ?
0103日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 14:07:53.45
つーか、俺、こいつの主張に全部納得してるわけじゃないことは>>94に書いたとおりなんだけどな
ただ、少なくとも百済の暦博士渡来以降、元嘉暦公式採用までの期間は、こいつの干支表が説得力あるから
それは認めざるを得ないとして、それ以前の、神武紀元あたりを考えたかったんだが、
まさか、スレ住民がこんなバカばかりだとは思わなかった
自分の気に食わないやつの説は、どんだけ説得力があっても無視するのかよw
0104日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 14:14:04.38
そうか。俺が悪かったかもな
相手がバカであることを前提にするなら、端的に書かないといけなかったな
俺が支持するのは、干支表だけだから、干支表以外の反論は一切受け付けない、と書くべきだったか
0105日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 20:42:04.11
そういえば、二倍年暦肯定派も、否定派も、その肯定・否定の対象となる暦を具体的に示した例はほとんどなかったな
こういう具体的な干支表があったほうが、否定するにしても具体的にこの部分がおかしいって指摘できるな

まあ、>>94で紹介した本人自ら、即刻、おかしい部分を指摘してるのは笑うしかないがw
>>94は刀剣の比定年がおかしいと考えて干支表自体は問題ないとの認識のようだが、果たして実際はどうだかw
0106日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 21:04:43.40
春分の日 昼と夜の長さがほぼ等しい 3月下旬
夏至の日 昼間が一番長い日     6月下旬
秋分の日 昼と夜の長さがほぼ等しい 9月下旬
冬至の日 昼間が一番短い日    12月下旬

昼と夜の長さがほぼ等しいから祝日?
馬鹿らしい
そう、これ敗戦でGHQから歴史の記憶を消されたんですよね
戦前以前は春季皇霊祭、秋季皇霊祭という皇室での先祖の祭儀
を祝う国民の祝日だったわけですよね
春は五穀豊穣を祈り、秋は実りある収穫に感謝する
ということだったようです(現在も宮中で行われている)

スタート(春)→(夏)→ゴール(秋)→(冬)→(春)
つまり、3月がスタートで9月がゴールならこれは
現在の暦では一年の半分ですね
なんてことを思ったりします
0107日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 21:31:56.88
>>106
皇霊祭なんて、明治国家神道の新設祭祀でドヤ顔してどうすんの?恥ずかしいなあ。

日本神道の最古の二大祭祀とされる祈年祭と新嘗祭、
それぞれ、祈年祭が(旧暦)何月で、新嘗祭が(旧暦)何月か知ってるか?

祈年祭は旧暦2月。新嘗祭は旧暦11月だ。
暦に詳しい人ならすぐに気づくことだが、祈年祭は春分の近く、新嘗祭は冬至の近くに来る。
小学校の理科の教科書を読み返してみろ。
春分から冬至まで、1年のどれだけの期間になるか。1/2ではない。3/4だ。
つまりたったこれだけの話で、二倍年暦なんて話は
少なくとも日本の古い文化の文脈では、完全に雲散霧消することがわかる。ただの妄想だ。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/24(金) 10:45:54.99
>>104って、もしかして、いわゆる捨て台詞ってやつかな
それとも、本当に干支表の反論についてだけは、ちゃんと返すのだろうか
0109日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/24(金) 18:52:30.42
日本書紀を読んでいるとね
五穀が実ったとか五穀が実らなかった
とか出てくるよ
11月は遅すぎる、稲は枯れちゃうよ
2月は寒すぎる
稲はそもそも亜熱帯の植物だという大前提があるよ
最近では品種改良によって北海道のお米も売れているが
そこは弥生時代がない
なぜなら、米が寒すぎて作れないから
0112日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/21(日) 16:05:01.28
日本の歴史を長く見せる為に記紀の製作者が天皇の年齢を二倍にした
という方が2倍歴よりは可能性が高いと思う
0114日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/22(月) 00:21:54.32
干支表って?
0116日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/22(月) 02:30:04.23
干支表は、>>94のリンク先に部分的に出てるけど、そこは聖徳太子の没年の謎をとく上で必要な部分だけだな。
干支表の全体が出てるのは、
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11627645.html
の、第18表だ。

ちなみに>>112は、天皇の年齢が長い時代を問題にしているようだが、二倍歴が解決する問題はそこだけではない。
二倍歴によって解決される問題は、以下の通り。
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11633436.html
ア:稲荷山鉄剣銘に現れる「シキノミヤ」は近畿王朝に現れない謎。
イ:倭の五王は、強引な解釈を施さないと近畿王朝に結びつかない謎。
ウ:継体紀に全くそれらしき事件がないのに「日本の天皇、皇太子、皇子皆死去」と記さ れた奇怪な記事の謎。
エ:推古天皇は女帝なのに『隋書』俀國傳では「男王」となっている謎。
オ:推古朝は隋王朝と重なっている部分があるにも関わらず、現実の推古紀には、大唐、唐國、唐客、唐帝というふうに一貫して唐王朝との交流記事になっている謎。
カ:記紀はほぼ同時代成立の史書であるにもかかわらず、推古天皇の崩御年月日が記紀で異なっている謎
キ:法隆寺は全部焼失し、建物も仏像も再度造られた、すなわち記紀編纂時と同時期に再建
 されたと考えられるのに、推古紀と金石文たる「釈迦三尊像光背銘」とでなぜ聖徳太子の薨去年月日が異なるのか、という謎。
ク:「壬申の乱」は現在では七月という暑熱期の筈なのに、なぜ家まで燃やして暖を取らないといけないほど厳寒だったのかという謎。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/22(月) 22:16:01.26
蛇足かもしれんけど、その二倍歴の干支表が正しいとすれば、他にもいろんな謎がとけるね。
たとえば応神天皇の時代に百済から王仁博士が来て、論語と千字文を伝えた、と日本書紀には書かれていて
千字文は南朝・梁 (502–549) の武帝が、文官の周興嗣 (470–521) に作らせたものなので、応神天皇の時代にはまだ存在しないはずだ、と言われてるけど
二倍歴の干支表によれば、応神天皇の時代は西暦528年から543年までなので、まったく矛盾はなくなる。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 14:51:34.49
>>94
この二倍歴はほぼ決定版なんじゃないかな。
二倍歴論にとって。今まで読んだ中で一番
矛盾した内容を説明できる暦になってると思う。

ただ、まさか持統紀まで、
日本書紀ほとんどに及ぶとすると
従来の紀年論と年代がかなりずれるのではなかろうか

古代史族系譜をさかのぼると
おおむね、神武即位は二世紀末
神武と崇神の間は四世代だから
崇神の時代は三世紀末から四世紀に比定されてるはずだし、従来の紀年論もおおむねそこは一致してるでしょう。

書紀紀年の300-700は実年500-700ってことでしょ?
逆に日本書紀はかなり頑張って実年を復元した、
する努力をしないといけないよ。
(それであちこち辻褄が合ってないのは説得的ではある)
0119日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 15:08:19.87
>>103

あ、
暦博士以来692年までは少なくとも
説得的な二倍歴干支表という事ね。なるほど理解した。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 14:31:14.11
神武から雄略まで意図的に引き伸ばしたと
いうつぶやきをキャッチ。

最近、氏族研究として宝賀氏の著作を通読した。
著作の神武東征の原像では、
個別の記述を逐一考察するより
土器編年のように
系譜の婚姻関係親子関係や
名前のルールから異名同人を判定し
実在の人間の家系を復元し、
天皇位の代数ではなく、同時代人グループを示す在世世代で日本書紀紀年を分析していく。

すると神武即位から天智天武まで18世代として
古代氏族の系譜きれいに対応するという。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 14:44:26.31
また、それを踏まえて
神武から仁徳までが4倍となって儀鳳暦
履中から允恭までが2倍となって儀鳳暦
安康以降が等倍の暦で元嘉暦に対応付けられたと判断している。

元嘉暦よりも儀鳳暦の方が新しい改良された暦なのに、古い時代の暦日が儀鳳暦になっているのは

日本書紀の編纂過程で、まず安康紀か雄略紀から
原記録も元嘉暦で残っていたものはそのままにして
原記録が 元嘉暦導入以前の暦であったものを
編纂当時使用していた儀鳳暦に当てはめて構成されたとみられるとする。

これによって推定された神武即位年は西暦175年
0122日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/15(水) 19:31:50.21
デタラメに作ったんだよ
天皇は七世紀から始まった
0123日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/16(木) 15:36:46.93
>>116-117が1番説得力あるけど、崇神以前が確定できないのが難点だな
あと、半年暦の年始についても、帰納的にそう考えることで数十もの古代史の謎が一挙に解決するのはわかるんだけど
なぜそこが年始なのかについては、謎としか思えん
旧暦二月八月って、今の暦で三月九月ってことだから、春分秋分が古来の年始だということなのか
だから、伝来した中国の暦をむりやり日本古来の年始の区切りに合わせた結果、二月八月を年始にしたというのか・・・
そうだとすれば、神武即位の「正月の朔」も、春分か秋分に近い、新月か満月の日だったということになる

>>94が説得力ありそうだ
0124日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/16(木) 15:38:58.80
ちなみに、グレゴリオ暦377年3月12日は、いま調べてみたら、満月だね
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 18:12:58.97
なるほどグレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の日付か。

日本書紀によると、太歳甲寅年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て云々とあるから、これは西暦373年の、旧暦12月20日あたりってことになるな。
>>116をもとにすれば旧暦12月20日ジャストのはずだが、>>116は中国の暦を機械的に半年暦にしたものだから、中国と交流するようになって以降採用されたものだろう。
グレゴリオ暦に直すと、374年1月20日あたり。

で、この日が「天祖ニニギが天降って179万2470余年になる」日だというのは、おそらくは「辛酉革命」を念頭に冗談で言われてた年数が、その後由来が散逸して、
数字だけ後世に伝わって日本書紀に残されたのだと思う。
要するに「天孫降臨以降の御代は毎日が革命だから、1日あたり60年の価値がある」ってことだ。
179万2470を60で割ると29874.5だから、天孫降臨の日はグレゴリオ暦374年1月20日から数えて29874.5日前。
グレゴリオ暦292年4月5日頃だ。端数の0.5は、たぶん天孫降臨がその日の未明で、東征が昼間出発だったんだろう。

ということは、この日に天照大神の孫である瓊瓊杵尊が天孫降臨してるわけだから、天照大神が生きていたのはその2世代前。
邪馬台国の女王卑弥呼とぴったり一致する。これは偶然ではないだろう。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 19:03:45.05
騙るなよ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 19:10:35.40
要するに、春秋1サイクルが1年だという中国古典の基礎的教養、というか常識のないアホが思いついたトンデモ説だろう?
いわば嘲笑されるために生まれた説だ
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 14:24:15.71
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

3WAYG
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 16:21:52.81
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

6FM
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 11:46:42.77
新年号の「令和」の「令」の字の意味について賛否両論の立場からいろいろ議論されてるけど
「令月」という中国では2月を表す言葉を、日本で「初春令月」と1月を表す言葉として、万葉集で使われてるんだな
それをニュースで見た瞬間、このスレを思い出した
万葉集ができたのは西暦780年頃だけど、収録された歌は舒明天皇即位の629年から759年までの130年間のものに及ぶわけで
半年暦の時代の歌がかなり含まれていることになる

中国歴の2月と8月を日本歴の1月とする半年暦の存在があるからこそ、中国の2月である令月が日本の1月に当てはめられたのではないのか?
それ以外に、中国の2月をあらわす令月が日本の1月をあらわすことに、なにか理由づけは存在しないようにみえる

>>116>>117に加えて、半年暦によって解決される問題が、またひとつ見つかったな
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 14:53:49.04
>>117
>応神天皇の時代は西暦528年から543年までなので、まったく矛盾はなくなる。

応神天皇の治世を528年〜543年まで引き下げるのは無理スジ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 16:05:39.51
仏教伝来が538年(法王帝説)552年(日本書紀)だから
応神朝をそんな時代まで下げるのはありえない
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 19:55:35.95
>>136 >>137
仏教伝来は宣化3年(法王帝説)または欽明13年(日本書紀)ですよ
>>116の一覧表で確認してみてください
半年暦では宣化3年は西暦615年の2月から7月まで、欽明13年は西暦622年の2月から7月までです
応神朝はそれよりも、西暦で70年以上、半年暦で140年以上前の話です
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 20:39:29.98
>宣化3年は西暦615年の2月から7月まで、欽明13年は西暦622年の2月から7月までです

仏教伝来は538年か552年で615年か622年まで下げられないよ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 20:45:35.97
厩戸皇子(聖徳太子)の生年が574年なのに仏教伝来が615年か622年ならば
仏教伝来が聖徳太子の生誕後になってしまう
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