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【半年歴】春秋暦を語ろう【二倍年暦】
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0001日本@名無史さん
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2012/07/02(月) 00:39:39.01
 西暦554年(皇紀1214年)、欽明天皇の時代に歴学者の交代という形で中国歴が
既に導入されていることがわかりました。雄略天皇、継体天皇あたりで導入されたと
噂される中国歴(1年が約365日)の前に使用されていた古代日本の歴、中国や半島と
の年代のズレや長命な古代天皇を説明するために有効な春秋暦(1年が約183日)を
話し合いましょう。
0089日本@名無史さん
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2016/10/13(木) 22:31:35.92
>>87
思い付きを述べる能しか無い癖に文句だけは一丁前だな。
有益な議論の土台すら呈示できない愚者は黙っていろ。

>>88
その短文にもさっぱり中身が無いようだが?
言われっぱなしでは悔しいから、何かしら返信した気持ちは判るが、
何も言う事が無いなら黙っていた方が自信の愚かさを晒さないで済むぞ。
0090日本@名無史さん
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2017/03/22(水) 17:08:20.70
>>66が言うように、歩数の数え方(左右それぞれを1歩とカウント)時刻(昼夜それぞれ12等分する)を考えると
月も満月、新月をそれぞれ1月とカウントし、年も夏、冬それぞれ1年とカウントするのが自然だな
だとすると、べつに日本限定ではなく、世界中で、昔は2倍年暦だった可能性がある

ただ、農業の上では2倍年暦は不便だから、農業の普及とともに現年暦が普及したのかもしれない
文明は農業と共に普及するものだから、それ以前の年暦が歴史上残らなくても不思議はない
0091日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 05:50:05.27
全然、自然じゃない。
一昼夜のことを二日、三日三晩のことを六日、なんて換言した例は無い。

世界中でそうだった可能性なんて、殆ど無い。
具体的な証拠を何一つ挙げない希望的観測じゃなくて、傍証でいいから挙げてから言え。

残っていないから、あったかもしれない、なんて言い出したら、なんでもあり。
牧畜、漁労、採集を選んで、農業に進まなかった民族はたくさんあるのに、なぜ世界のどこにも残っていない?
残っていない、んじゃなくて、初めから無かったと想定するしかない。
0093日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 08:44:41.59
なるほど、古賀の持ってきた記事だけを読めば、半分に解釈した方が理解しやすく見える。
しかし、とどのつまり、古賀の言及しない他の全ての史料の年齢の記事は、半分にしなくとも自然に理解しえるわけだ。
自分にとって長大に思える年齢の記事を、適当に拾い集めて来て、半分の方が自然だと言い張ってるだけ。

詭弁も多い。
一つ目の長者窮子についてだけ述べておくと、
一般的には、息子が長者の父にあった時の年齢を五十余歳と解釈する。
それを、二十歳に家を出たことに曲解して、自説に都合の良いように誘導している。

元々唱えた古田にしろ、二倍にあきたらず、多倍年暦なんてことを言い出した辺り、
自分が先に拵えた結論に当てはめているだけ。
尤も、古田はいつもそうなのだが。
0094日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 11:00:12.45
2倍年暦の傍証として、じつは一番有力なのは、これじゃないかと思う
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11615416.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11625968.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11626310.html

聖徳太子崩
 日本書紀:辛巳年二月五日癸巳日
 光背銘 :壬午年二月廿二日甲戌日 
推古天皇崩
 日本書紀:戊子年三月丁未朔癸丑日
 古事記 :戊子年三月十五日癸丑日

この食い違いが、2倍年暦で解明されるというのが、一番強力な傍証じゃないかな

ただ、残念なことに、このサイトを最初から見てみると、当初の論証と最終的な結論とが矛盾してるんだよな
このサイトでは、最初の方で、稲荷山鉄剣銘の「辛亥年」が2倍年暦だと30年周期になるから、西暦501年になると言ってるけど、
最終的な2倍年暦の干支表によると、西暦501年は春が己巳年で秋が庚午年だから、どちらとも辛亥年ではないはずだ
この著者は、邪馬台国畿内説の傍証として2倍年暦を利用しようとしてるから、その結論に都合の悪いことは無視する傾向がある

とはいえ、最終的な2倍年暦の干支表はかなり説得力あるから、これをもとに再構成する価値はあると思う

たとえば、天皇即位の「辛酉年春正月庚辰朔」も、2倍年暦の辛酉年のなかから、「春正月」の「庚辰」の日が「朔」になる日を探せば、有力な候補日になる
個人的には、「春正月」とは春分を含む月のことであり、(雨水ではなく春分とする根拠は、神道の皇霊祭が春分と秋分だから)
ここでいう「月」は通常暦の半月であって、「朔」は新月のみならず満月の日も候補になるから
そのなかから、日干支が「庚辰」の日、ということで、グレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の有力候補日になると思う
まぁ、この点は、もっと説得力ある日付がある可能性もあるから、あえてこだわるつもりはないが
0095日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 11:06:26.15
すまん、1箇所、神武天皇即位と書くべきところを単に天皇即位と書いてしまった
文章の意味を通りやすくしようと前後を入れ替えたせいで、「神武即位」のあとの部分が冒頭に来たことによる校訂ミスだ。申し訳ない。
0096日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 12:07:24.22
だからさ、
半分にするとぴったり解決できる、って豪語するのは、論者がピックアップしたごく一部の記事だけ。
それ以外の記事は、全く解決できていない。
なんでそんな子供騙しに引っ掛かってるんだ?

正月の春を春分のある月という説?wも、個人的な思い込みだけで、
暦法として採用された例が全く挙がっていない。
0097日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 12:11:48.76
>>96
読んでから書き込めば?
どれだけ多くの事例が列挙されてるか見てから判断したほうがいいよ
一番強力なのが、そこに挙げた日付の問題だ、と言ってるだけであって、リンク先には、それ以外にも
あきれるぐらい多くの事実が解決される事例が列挙されてる
0098日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 12:29:35.40
>>96
読んでるよ?

あきれるぐらい多くの事実って、推古・聖徳の年紀だけだが?
それ以前の全ての年紀は、そっくり解決できてるのか?

どうもわかっていないことが一つあるようだけど、
後代に年紀を倍に伸ばしたと想定しえても、
それは倍年暦/半年暦があったという実証にはならない。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 12:46:17.20
>>98
読んでないな
後代に年紀を倍に伸ばしてるわけじゃないよ
西暦692年の「元嘉暦の採用」が、通常の年暦の採用であって、それ以前は2倍年暦だってこと
だから、そこを基準点に、そこから前代を倍に伸ばしてる
そのあたりの記事を見れば、そこにも、直前の暦が2倍年歴でないと説明のつかないことがおきている
0100日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 13:27:35.27
だから、
倍に伸ばすと全部が解決できてるわけじゃないし、
倍に伸ばしてぴったりしても、それは当時そういう暦を使っていた実証じゃないの。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 14:00:44.69
>>101
持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である儀鳳暦を試用するため元嘉暦との並用を
始め、5年後の文武天皇元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。

どこが寝言なんだ?
0103日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 14:07:53.45
つーか、俺、こいつの主張に全部納得してるわけじゃないことは>>94に書いたとおりなんだけどな
ただ、少なくとも百済の暦博士渡来以降、元嘉暦公式採用までの期間は、こいつの干支表が説得力あるから
それは認めざるを得ないとして、それ以前の、神武紀元あたりを考えたかったんだが、
まさか、スレ住民がこんなバカばかりだとは思わなかった
自分の気に食わないやつの説は、どんだけ説得力があっても無視するのかよw
0104日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 14:14:04.38
そうか。俺が悪かったかもな
相手がバカであることを前提にするなら、端的に書かないといけなかったな
俺が支持するのは、干支表だけだから、干支表以外の反論は一切受け付けない、と書くべきだったか
0105日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 20:42:04.11
そういえば、二倍年暦肯定派も、否定派も、その肯定・否定の対象となる暦を具体的に示した例はほとんどなかったな
こういう具体的な干支表があったほうが、否定するにしても具体的にこの部分がおかしいって指摘できるな

まあ、>>94で紹介した本人自ら、即刻、おかしい部分を指摘してるのは笑うしかないがw
>>94は刀剣の比定年がおかしいと考えて干支表自体は問題ないとの認識のようだが、果たして実際はどうだかw
0106日本@名無史さん
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2017/03/23(木) 21:04:43.40
春分の日 昼と夜の長さがほぼ等しい 3月下旬
夏至の日 昼間が一番長い日     6月下旬
秋分の日 昼と夜の長さがほぼ等しい 9月下旬
冬至の日 昼間が一番短い日    12月下旬

昼と夜の長さがほぼ等しいから祝日?
馬鹿らしい
そう、これ敗戦でGHQから歴史の記憶を消されたんですよね
戦前以前は春季皇霊祭、秋季皇霊祭という皇室での先祖の祭儀
を祝う国民の祝日だったわけですよね
春は五穀豊穣を祈り、秋は実りある収穫に感謝する
ということだったようです(現在も宮中で行われている)

スタート(春)→(夏)→ゴール(秋)→(冬)→(春)
つまり、3月がスタートで9月がゴールならこれは
現在の暦では一年の半分ですね
なんてことを思ったりします
0107日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/23(木) 21:31:56.88
>>106
皇霊祭なんて、明治国家神道の新設祭祀でドヤ顔してどうすんの?恥ずかしいなあ。

日本神道の最古の二大祭祀とされる祈年祭と新嘗祭、
それぞれ、祈年祭が(旧暦)何月で、新嘗祭が(旧暦)何月か知ってるか?

祈年祭は旧暦2月。新嘗祭は旧暦11月だ。
暦に詳しい人ならすぐに気づくことだが、祈年祭は春分の近く、新嘗祭は冬至の近くに来る。
小学校の理科の教科書を読み返してみろ。
春分から冬至まで、1年のどれだけの期間になるか。1/2ではない。3/4だ。
つまりたったこれだけの話で、二倍年暦なんて話は
少なくとも日本の古い文化の文脈では、完全に雲散霧消することがわかる。ただの妄想だ。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/24(金) 10:45:54.99
>>104って、もしかして、いわゆる捨て台詞ってやつかな
それとも、本当に干支表の反論についてだけは、ちゃんと返すのだろうか
0109日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/24(金) 18:52:30.42
日本書紀を読んでいるとね
五穀が実ったとか五穀が実らなかった
とか出てくるよ
11月は遅すぎる、稲は枯れちゃうよ
2月は寒すぎる
稲はそもそも亜熱帯の植物だという大前提があるよ
最近では品種改良によって北海道のお米も売れているが
そこは弥生時代がない
なぜなら、米が寒すぎて作れないから
0112日本@名無史さん
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2017/05/21(日) 16:05:01.28
日本の歴史を長く見せる為に記紀の製作者が天皇の年齢を二倍にした
という方が2倍歴よりは可能性が高いと思う
0114日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/22(月) 00:21:54.32
干支表って?
0116日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/22(月) 02:30:04.23
干支表は、>>94のリンク先に部分的に出てるけど、そこは聖徳太子の没年の謎をとく上で必要な部分だけだな。
干支表の全体が出てるのは、
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11627645.html
の、第18表だ。

ちなみに>>112は、天皇の年齢が長い時代を問題にしているようだが、二倍歴が解決する問題はそこだけではない。
二倍歴によって解決される問題は、以下の通り。
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11633436.html
ア:稲荷山鉄剣銘に現れる「シキノミヤ」は近畿王朝に現れない謎。
イ:倭の五王は、強引な解釈を施さないと近畿王朝に結びつかない謎。
ウ:継体紀に全くそれらしき事件がないのに「日本の天皇、皇太子、皇子皆死去」と記さ れた奇怪な記事の謎。
エ:推古天皇は女帝なのに『隋書』俀國傳では「男王」となっている謎。
オ:推古朝は隋王朝と重なっている部分があるにも関わらず、現実の推古紀には、大唐、唐國、唐客、唐帝というふうに一貫して唐王朝との交流記事になっている謎。
カ:記紀はほぼ同時代成立の史書であるにもかかわらず、推古天皇の崩御年月日が記紀で異なっている謎
キ:法隆寺は全部焼失し、建物も仏像も再度造られた、すなわち記紀編纂時と同時期に再建
 されたと考えられるのに、推古紀と金石文たる「釈迦三尊像光背銘」とでなぜ聖徳太子の薨去年月日が異なるのか、という謎。
ク:「壬申の乱」は現在では七月という暑熱期の筈なのに、なぜ家まで燃やして暖を取らないといけないほど厳寒だったのかという謎。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/22(月) 22:16:01.26
蛇足かもしれんけど、その二倍歴の干支表が正しいとすれば、他にもいろんな謎がとけるね。
たとえば応神天皇の時代に百済から王仁博士が来て、論語と千字文を伝えた、と日本書紀には書かれていて
千字文は南朝・梁 (502–549) の武帝が、文官の周興嗣 (470–521) に作らせたものなので、応神天皇の時代にはまだ存在しないはずだ、と言われてるけど
二倍歴の干支表によれば、応神天皇の時代は西暦528年から543年までなので、まったく矛盾はなくなる。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 14:51:34.49
>>94
この二倍歴はほぼ決定版なんじゃないかな。
二倍歴論にとって。今まで読んだ中で一番
矛盾した内容を説明できる暦になってると思う。

ただ、まさか持統紀まで、
日本書紀ほとんどに及ぶとすると
従来の紀年論と年代がかなりずれるのではなかろうか

古代史族系譜をさかのぼると
おおむね、神武即位は二世紀末
神武と崇神の間は四世代だから
崇神の時代は三世紀末から四世紀に比定されてるはずだし、従来の紀年論もおおむねそこは一致してるでしょう。

書紀紀年の300-700は実年500-700ってことでしょ?
逆に日本書紀はかなり頑張って実年を復元した、
する努力をしないといけないよ。
(それであちこち辻褄が合ってないのは説得的ではある)
0119日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 15:08:19.87
>>103

あ、
暦博士以来692年までは少なくとも
説得的な二倍歴干支表という事ね。なるほど理解した。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 14:31:14.11
神武から雄略まで意図的に引き伸ばしたと
いうつぶやきをキャッチ。

最近、氏族研究として宝賀氏の著作を通読した。
著作の神武東征の原像では、
個別の記述を逐一考察するより
土器編年のように
系譜の婚姻関係親子関係や
名前のルールから異名同人を判定し
実在の人間の家系を復元し、
天皇位の代数ではなく、同時代人グループを示す在世世代で日本書紀紀年を分析していく。

すると神武即位から天智天武まで18世代として
古代氏族の系譜きれいに対応するという。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 14:44:26.31
また、それを踏まえて
神武から仁徳までが4倍となって儀鳳暦
履中から允恭までが2倍となって儀鳳暦
安康以降が等倍の暦で元嘉暦に対応付けられたと判断している。

元嘉暦よりも儀鳳暦の方が新しい改良された暦なのに、古い時代の暦日が儀鳳暦になっているのは

日本書紀の編纂過程で、まず安康紀か雄略紀から
原記録も元嘉暦で残っていたものはそのままにして
原記録が 元嘉暦導入以前の暦であったものを
編纂当時使用していた儀鳳暦に当てはめて構成されたとみられるとする。

これによって推定された神武即位年は西暦175年
0122日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/15(水) 19:31:50.21
デタラメに作ったんだよ
天皇は七世紀から始まった
0123日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/16(木) 15:36:46.93
>>116-117が1番説得力あるけど、崇神以前が確定できないのが難点だな
あと、半年暦の年始についても、帰納的にそう考えることで数十もの古代史の謎が一挙に解決するのはわかるんだけど
なぜそこが年始なのかについては、謎としか思えん
旧暦二月八月って、今の暦で三月九月ってことだから、春分秋分が古来の年始だということなのか
だから、伝来した中国の暦をむりやり日本古来の年始の区切りに合わせた結果、二月八月を年始にしたというのか・・・
そうだとすれば、神武即位の「正月の朔」も、春分か秋分に近い、新月か満月の日だったということになる

>>94が説得力ありそうだ
0124日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/16(木) 15:38:58.80
ちなみに、グレゴリオ暦377年3月12日は、いま調べてみたら、満月だね
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 18:12:58.97
なるほどグレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の日付か。

日本書紀によると、太歳甲寅年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て云々とあるから、これは西暦373年の、旧暦12月20日あたりってことになるな。
>>116をもとにすれば旧暦12月20日ジャストのはずだが、>>116は中国の暦を機械的に半年暦にしたものだから、中国と交流するようになって以降採用されたものだろう。
グレゴリオ暦に直すと、374年1月20日あたり。

で、この日が「天祖ニニギが天降って179万2470余年になる」日だというのは、おそらくは「辛酉革命」を念頭に冗談で言われてた年数が、その後由来が散逸して、
数字だけ後世に伝わって日本書紀に残されたのだと思う。
要するに「天孫降臨以降の御代は毎日が革命だから、1日あたり60年の価値がある」ってことだ。
179万2470を60で割ると29874.5だから、天孫降臨の日はグレゴリオ暦374年1月20日から数えて29874.5日前。
グレゴリオ暦292年4月5日頃だ。端数の0.5は、たぶん天孫降臨がその日の未明で、東征が昼間出発だったんだろう。

ということは、この日に天照大神の孫である瓊瓊杵尊が天孫降臨してるわけだから、天照大神が生きていたのはその2世代前。
邪馬台国の女王卑弥呼とぴったり一致する。これは偶然ではないだろう。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 19:03:45.05
騙るなよ
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 19:10:35.40
要するに、春秋1サイクルが1年だという中国古典の基礎的教養、というか常識のないアホが思いついたトンデモ説だろう?
いわば嘲笑されるために生まれた説だ
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 14:24:15.71
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

3WAYG
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 16:21:52.81
とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

6FM
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 11:46:42.77
新年号の「令和」の「令」の字の意味について賛否両論の立場からいろいろ議論されてるけど
「令月」という中国では2月を表す言葉を、日本で「初春令月」と1月を表す言葉として、万葉集で使われてるんだな
それをニュースで見た瞬間、このスレを思い出した
万葉集ができたのは西暦780年頃だけど、収録された歌は舒明天皇即位の629年から759年までの130年間のものに及ぶわけで
半年暦の時代の歌がかなり含まれていることになる

中国歴の2月と8月を日本歴の1月とする半年暦の存在があるからこそ、中国の2月である令月が日本の1月に当てはめられたのではないのか?
それ以外に、中国の2月をあらわす令月が日本の1月をあらわすことに、なにか理由づけは存在しないようにみえる

>>116>>117に加えて、半年暦によって解決される問題が、またひとつ見つかったな
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 14:53:49.04
>>117
>応神天皇の時代は西暦528年から543年までなので、まったく矛盾はなくなる。

応神天皇の治世を528年〜543年まで引き下げるのは無理スジ
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 16:05:39.51
仏教伝来が538年(法王帝説)552年(日本書紀)だから
応神朝をそんな時代まで下げるのはありえない
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 19:55:35.95
>>136 >>137
仏教伝来は宣化3年(法王帝説)または欽明13年(日本書紀)ですよ
>>116の一覧表で確認してみてください
半年暦では宣化3年は西暦615年の2月から7月まで、欽明13年は西暦622年の2月から7月までです
応神朝はそれよりも、西暦で70年以上、半年暦で140年以上前の話です
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 20:39:29.98
>宣化3年は西暦615年の2月から7月まで、欽明13年は西暦622年の2月から7月までです

仏教伝来は538年か552年で615年か622年まで下げられないよ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 20:45:35.97
厩戸皇子(聖徳太子)の生年が574年なのに仏教伝来が615年か622年ならば
仏教伝来が聖徳太子の生誕後になってしまう
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 21:15:05.52
聖徳太子の生年月日は敏達天皇3年1月1日
これを>>116の半年暦にあてはめると、西暦633年2月1日
仏教伝来はそれよりも10年以上前の話だ
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 21:20:14.95
>>140は、>>116のオの謎が半年暦でなぜ解決するのかちゃんと理解してるのか?
聖徳太子の時代がじつは隋がとっくに滅んだあとの唐の時代だからこそ、日本書紀の推古記では一貫して唐王朝との交流記事になっている、という話なんだが
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 21:28:45.05
厩戸皇子の没年は622年ではなく
上宮王家の滅亡が643年ではなく
大化の改心が645年ではないって事ですか
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 21:32:20.38
>>143
そのとおり。計算が面倒なので自分で一覧表で確認すればすべてわかる
そして、そのように解したとき、これまで日本史上の謎とされてきた>>116などの謎が、まとめて一気に解決する
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/17(水) 22:04:17.64
日本書紀によると、持統4年に「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とあるのが中国暦法の公的採用の勅令であり、その実施は勅令の2年後の持統6年とされる。
この持統6年が西暦692年であり、それ以前の日本独自暦が半年暦だとするならば、持統4年は西暦では前年の西暦691年となる。
よって、改暦に足掛け3年もかかったのは謎でもなんでもなく、じつは1年で切り替わっているわけで、半年暦から通年暦への複雑な切替にしてはスムーズだったといえる。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/19(金) 07:40:16.97
年号に関連すれば、もうひとつ、半年暦で解決する問題があるな
日本の年号は、最初に孝徳天皇が「大化」を制定し、次に「白雉」を制定するも、孝徳天皇の崩御後新たに制定されなくなる
その後天武天皇が「朱鳥」を制定するも1年で廃れる
文武天皇の時代に「大宝」を制定して以来やっと定着する
年号は中国の制度だったから、日本の暦が半年暦だった時代には違和感があったんだな
692年の改暦以後、ようやくその違和感がなくなって、年号が定着したわけだ
0147日本@名無史さん
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2019/04/22(月) 01:01:37.21
古代、特に出雲王国時代は春分の日と秋分の日を正月元日としていた。
併せて祖霊祭祀を行っていた。

この名残が春と秋のお彼岸の先祖祭祀。
0148日本@名無史さん
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2019/04/22(月) 01:21:26.31
>>147
系図上の初代の天皇、神武の即位年代をより古く改竄が行われました。
日本列島で最初の王国で有った古代出雲王国の初代出雲王(オオナモチ)の「菅之八耳」さま(その正后は「稲田媛」命)が即位なさった年代を神武の即位年代に横領して引き伸ばしを行った。

出雲王国初代と系図上の神武迄は8〜9世代の隔たりと時代の齟齬が当然生じますが
そこに出雲王国時代から魏史倭人伝に描かれた時代迄一年二歳(春分の日と秋分の日をそれぞれ正月元日の半年を 一歳とする)が目に止まり、
採用。
すると懸案の世代の隔たりによる年代の齟齬が丁度都合よく解消。

神武〜応神前後あたり迄の百歳超えの天皇ほかは概ね半分の年齢に暗分すればおよそ現実的な数値の年齢に収まる話?
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/22(月) 07:50:21.66
もともとこのスレは、特定の説に特化したスレではなくて、半年暦を支持するいろんな説について語り合うスレとして始まったはずだったんだよな
それなのに、バカが現れて片っ端から難癖つけ始めたから、それに反論していくうちに、結局1つの説しか生き残らなかった
バカが半年暦を思いつき説だと罵倒して、年齢の問題だけ適当に拾い集めた詭弁だと言うから、年齢の問題以外をもたくさん解決していた説が生き残ったわけだ
で、バカが尻尾巻いて逃げたあと、バカへの反論として出した説にはもともと支持者がいなくて、誰もいなくなってしまった

>>148みたいな説をいろいろ出し合って語り合うのは、スレ本来の趣旨には合うんだけど、また同じようなバカが現れて終わりそうなんだよな
だったらいっそ、生き残った干支表をベースにしたほうがいい気がする
>>148の理論構造そのままを言うにしても、それは「改竄」や「引き伸ばし」ではなく、当時はそれがふつうだった、ということじゃないのかな
西暦692年の改暦以前は、その直前の改暦勅令からの期間の長さの問題も含めて、半年暦だと考えれば解決する問題があまりにも多い
だったら、>>148のようなことをいうために、べつに改竄や引き伸ばしだと主張する必要はまったくないことになる
0150日本@名無史さん
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2019/04/28(日) 08:05:59.72
中国と日本で正月がずれるのは
太陽暦か太陰暦の違いじゃろ?
0151日本@名無史さん
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2019/04/28(日) 08:12:17.52
もともと二倍歴で
書記編纂上、二倍に引き伸ばした部分があるから、
書記の紀年はx倍歴になっている

これが実態と思うね。

貝田説宝賀説が
二倍歴と四倍歴が混在するとすれば実年代と合うという説だ。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/28(日) 15:03:08.28
>>149
仲哀紀のように16日以降の日付が出てくる箇所は後付けの改竄だと思うなあ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/30(火) 13:39:19.66
>>150
>>116の半年暦は太陰暦だからそれは関係ない
もともと推古天皇や聖徳太子の没年が日本書紀とそれ以外の資料とで食い違うのを、日本書紀以外の同時代資料は半年暦の干支で記されているものとみて逆算した暦だから
なぜ中国の2月と8月を正月にしているのか、という理由の部分については憶測するしかない

>>152
仲哀よりはるかに以降の聖徳太子の時代が>>116説の主な対象で、そこでは半年暦の干支を、半年暦の存在自体が忘れられた日本書紀の編纂時点で、通年暦の干支だと勘違いして日付を逆算したことが判明している
だとすると、仲哀紀でも同じように通年歴だと勘違いして日付を逆算したと考えればべつに改竄である必要はない
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/30(火) 13:39:39.86
>>151
その説は改竄ありきで、>>76のいう「とってつけたような思い付き」の類いとなんら変わらないように見えるが
>>93もいうように、「(天皇の年齢に関しては)半分に解釈した方が理解しやすく見える」が「他の全ての史料の年齢の記事は、半分にしなくとも自然に理解しえる」
「自分にとって長大に思える年齢の記事を、適当に拾い集めて来て、半分の方が自然だと言い張ってるだけ。」という批判がそのままあてはまることになる
>>116の説が、これだけの反論を生き残ったのは、天皇の年齢以外に10を越える古代史の謎が一気に解決するからなのだが、
>>151は年齢以外の問題をなんら解決してないようにみえるし、そもそも2倍暦や4倍暦が実際にあったなら、それがどういう経緯で改暦されて今日に至るのかという疑問もある
改暦のタイミングは中国歴の正式導入である西暦692年以外にないようにみえるんだが、2倍暦と4倍暦を想定するなら少なくとも2回の改暦が必要のはず
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/30(火) 13:40:28.68
もともと当初
仲哀紀はなかったらしいよ。
書きつぐ中で増えたらしい。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/04/30(火) 14:09:16.22
>>154
いやいやちょっと誤解がある

もともと春秋で一年づつ倭人は1太陽年で2歳歳をとる暦を使っていたし記録もしていた。

そこに元嘉暦を導入した
元嘉暦以前の記録と導入後の記録ができた

儀鳳暦を導入した際に遡って暦の体裁を整えた結果過去が二倍に引き伸ばされた格好になった。

さらに古くしたいから過去の記録を儀鳳暦に当てはめる時に意図的に倍にした

のではないか?
ということ

四倍歴とか天文気象的に不合理で世界のどこにもない周期の暦は存在し得ないが
世間の時間の流れと記録は春秋のままが長く続いた形跡があるならなおさら四倍歴の出る幕はないのに
辻褄があうとするなら、そこには引き延ばす意図があったのだろう、ということ。

なににせよ
116の分析はすごいと思ってるよ
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/06/26(水) 21:34:30.56
>>150
古代日本(出雲王国時代〜雄略頃まて?)
一年は春分の日(元日)〜秋分の日の前日まで。と、
秋分の日(元日)〜次の春分の日の前日迄
の一年二歳。
この事象、風習は魏史倭人伝にも(表現は異なるものの)記載されているところ。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/06/26(水) 21:38:10.55
>>157
この名残が春と秋のお彼岸の中日の先祖祭祀(墓参り等)
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/07/03(水) 07:56:33.08
>>157
大雑把にいえばそうだろうけど、月の満ち欠けを日付の基準にしていたとすれば、若干のズレはあるんじゃないかと思う
春分または秋分を含む月を正月として、その区切りは新月と満月だった、と考えれば、自然な暦法になると思う

復元された半年暦はこれとは違っていて、中国の暦を機械的に半分にしたもので、閏月が2回連続するような不自然なものだけど、
おそらくは中国暦との換算を容易にするため、大陸と交流を始めた初期にそういう暦を採用したのであって、
それ以前はもっと自然な暦だったと思う

てことで、>>94の後半部分のように考えれば、グレゴリオ暦377年3月12日が、神武即位の有力候補日になるようで、
半年暦を前提とすればその後崇神までの間に120年ぐらい間があって、ここに欠史八代があったと考えて不自然ではないし
これを偶然とは考えづらいことから、この日が神武即位と考えていいと思う
日本書紀の編纂時は半年暦だったことが忘れ去られてしまったため、通年歴の正月1日の日干支を逆算して一致するものを
探した結果、紀元前660年まで遡らざるを得なかったのだろう
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/15(火) 03:12:37.95
>>116
この説はなるほどと思ったけど
692年まで二倍歴だったとしたら、白村江の戦いはどうなるの?
天智天皇じゃなくて舒明天皇になるよね
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/15(火) 10:19:32.80
>>160
白村江の戦いも肝心の中国に同時代の記録がなく、日本書紀からの孫引きと思われる記事が数百年後に現れるものなので、結局は日本書紀の記事がすべてのソース
なので、国内事件と同じように処理すべきかと
0164日本@名無史さん
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2019/10/16(水) 22:15:17.11
>>161
じゃあ白村江の戦は天智天皇3年、西暦678年になるのか。
百済が滅亡して18年後だけど、復興運動がそこまであとになって出てくるものかなあ。

神功皇后の新羅征伐は西暦527年ころになるけど、対応する記録は大陸にはあるのかな
広開土王碑だと100年以上前になるし

広開土王碑にある西暦400年ごろの倭の侵略は神武とかそのあたりの時代になるのかな。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/17(木) 12:18:29.80
>>164
朝鮮半島のこの時代の歴史書は、高麗時代の三国史記(1143年執筆開始)および三国遺事(1270年以降)に依存していて、じつは同時代の記録が存在しない
三国史記では、新羅、百済、高句麗の建国をそれぞれ紀元前としていて(新羅紀元前57年、百済紀元前18年、高句麗紀元前37年)、楽浪郡や帯方郡、辰国などを記す中国の歴史書と矛盾しており、それをどう解釈するか韓国でも論争になってる
案外、これも半年歴だったのかもしれない
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/18(金) 23:04:29.92
なるほど。そちらもずれている可能性があるのか。
広開土王碑も繰り上がる可能性があるか。

でも中国の記録からは、百済が660年、高句麗の滅亡年668年は変わらないはずだよね
舒明天皇時代に、友好国の百済が滅亡して何の記述もないのはどうだろうか。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/19(土) 16:23:04.43
中国の記録の話をすれば、白村江の会戦に関しては、そもそも旧唐書と新唐書で年代が1年違ってる。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho102/kai10204.html
朝鮮半島の記録によれば662年で、旧唐書はこれを採用している。当時は日本書紀は信用されてなかったわけだが、新唐書では評価が180度変わってしまい、日本書紀の663年が採用されている。
ようするに、この時期、朝鮮半島の記録と日本の記録のどちらを採用すべきかで中国内で争っていたわけだ。

唐が自ら出兵したはずなのに、その記録が中国に全く残ってなかったことは不思議なことだが、もしかすると今後、正しい年代に修正された上でその時期の唐の記録をみると、該当するものが発見されるかもしれない。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/19(土) 16:29:25.17
朝鮮半島の記録と日本の記録、という言い方をすると語弊を招くか
旧唐書ができたのは三国史記よりも前だから、その原資料と言ったほうが正確だろう
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/20(日) 09:22:21.37
アマテラス=卑弥呼としたら
スサノオ=卑弥呼の弟王、後に出雲に飛ばされる。
ニニギの天孫降臨は畿内から九州に飛ばされたってのが実情か
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/22(火) 18:19:51.88
https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12478322681.html
持統6年の改暦以前を二倍歴としたら、倭王「武」は崇神天皇
欠史八代が「倭の5王」としたらすごいな

讃 六代考安天皇 418〜425年
珍 七代孝霊天皇 425〜438年 讃の弟
済 八代孝元天皇 443〜461年
興 九大開化天皇 462〜477年 済の弟
武 十代崇神天皇 477〜502年 興の弟

https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12478323039.html
この表がすごい
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/22(火) 21:55:27.27
あー確かにありうるな
倭王武は東国55カ国、西国66カ国を平定して全国を統一したと中国の皇帝に書いてるけど、崇神天皇は四道将軍を派遣して初めて国を治めた天皇と呼ばれていて、辻褄が合う
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/23(水) 15:04:53.55
倭の五王は中国に使者だして、朝鮮半島にも進出するくらい勢力あったのに
崇神天皇以前が欠史八代になるほど伝承がないのが残念
欠史八代の父子相続が、中国の歴史書によれば結構兄弟相続だったりするし

崇神天皇が壬申の乱とか靖康の変とかみたいに兄の正統の王朝を殺して、記録を抹殺したとかあり得る
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/23(水) 21:46:57.11
>>172
欠史八代の父子相続に関しては、その長寿命とともに、>>159のような経緯で逆算された紀元前660年という結論に整合させるために、こうせざるをえなかったんだろう
いわば、カンニングしてあらかじめ答えを知った制度が、それに合わせて途中の計算式をでっちあげるようなもので、あらかじめ知ったはずの答えがじつは見間違えだったためにおかしな途中経過になってるだけだろう
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/23(水) 21:47:58.07
×カンニングしてあらかじめ答えを知った制度
○カンニングしてあらかじめ答えを知った生徒
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/25(金) 00:05:31.27
百年歴史がずれていたら、歴史の辻褄が合わなくなるのだが・・・
それも捏造という事で言い訳るのだろうか。
流石に無理あるっしょ。
記紀の半分は物語ってことになる。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/25(金) 18:36:52.84
紀元前660年即位の神武が実は広開土王と同世代だったとしたら
1000年もずれてることになるね
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/26(土) 00:35:42.82
>>175
ここまでの流れをみたら分かるだろうに
むしろ、今まで辻褄の合ってなかったいろんなことが、半年暦にしたら一斉に辻褄が合いだすんだよ
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/26(土) 00:49:41.70
個人的には、>>116のうち、壬申の乱の「7月の極寒」の謎が解決するのが衝撃的だったな
あと、歴史では聖徳太子の時代に派遣したのは遣隋使だと習うのに、日本書紀には一貫して相手国を唐と書いてある謎も、言われてみてハッとした
>>117の千字文なんか、従来、応神天皇の時代にはまだこの世にないはずだと言われていたのに、半年暦を認めれば簡単に矛盾がなくなるのも見事としか言えない
なんか、歴代天皇の異常な長寿が解決することなんか、オマケにしか思えない
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/26(土) 07:35:54.43
天皇とそこに書いてある事績は
はめ込みの可能性があるってことでしょ。

系譜記録と事績は別と考えた方がいいのでは。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/26(土) 22:55:13.01
それを言ったら、それこそ文字記録の無い時代なんだし何でも言えるぞ。
捏造と言い出したらキリが無いんだよ。
真相など、文字がない以上分かりようがないのだしね。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/26(土) 22:56:58.23
むしろ半年暦を導入しないままの現在の日本書紀のほうが、そうとしか考えられない矛盾だらけだったんだよな
壬申の乱だって、ほかの事件の事績をはめ込んだからこそ、真夏に極寒で家を燃やして暖を取ったとかいうちぐはぐな記事になったんだ、という説明に説得力がでてくる
しかし半年暦を導入してみると、実際その時期は真冬だから、逆に辻褄が合ってしまう
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/27(日) 23:58:25.61
>>176
BC-660頃に即位した日本で初の王国の王は出雲王国の初代オオナモチの菅の八耳王。

系譜上のいわゆるジンム=初期大和王朝の海(天)ムラクモ大王の10代前の(母系の)先祖。

その大和王朝は
、、、3代目のタマテミ王(母親実家の磯城で即位したことから磯城津彦タマテミと称されました)以降は大王権力と大王家求心力が低下して実質上は大和の3割程度を領有する豪族に成り下がる。
磯城の大王家とムラクモを担いだ出雲神族(カモ族=王族)やムラクモの子孫(尾張氏)たちが狭い大和盆地に覇権を争って半ば内乱/争乱状態。(倭国乱))

「孝」の付く歴代(便宜上)天皇は、争乱状態の時代を表して居るようです

孝安天皇。こと、国押人命(オシヒト)は大和を平定する権威と大王と認めて貰う後ろ楯に後漢に自ら出向いて「倭国は後漢帝国の属国になるから大王に承認を」と皇帝に謁見、
その際の手土産品に安芸の国の生口島で奴隷狩りをして生口=奴隷を献上したらしい。
その為、生口島の名称となったとか。
例の金印、後漢の官位の叙任
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/10/28(月) 00:19:27.99
妄想レスするにしても、せめて半年暦と関連のある話にしてくれよ
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/04(月) 23:21:14.91
二倍暦を一番最初に言い出したのは、英国人ウィリアム・ブラムゼンであってる?

明治13年(1880年)著書『JAPANESE CHRONNOLOGI. CAL TABLES(日本年代表)』 により二倍年暦説が始まる
http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t145.pdf
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/05(火) 07:32:12.06
>>184
>>72が言ってるのはその人のことだろうね
ただ、その人の着目点が天皇の年齢だけだったせいで、それ以後の研究者が年齢のつじつま合わせばかりに気を使って、3倍歴4倍歴というへんな方向に議論が進んでいくことになったんだろう
日本書紀の原文を読める日本人研究者であれば、天皇即位の日付が年干支と日干支の併記で書かれていて、その両方の条件をみたす時点をさかのぼって確定させる形式だとわかるはずで、単純に倍数で伸ばすものじゃないことは分かったはずだった
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/12/31(火) 11:14:12.74
>>183
古代出雲王国時代(BC-660〜約700年間)〜少なくとも三国史、魏史に倭人伝に描かれた時代迄は
春分の日と秋分の日がそれぞれ正月元日。

それは、魏史倭人伝にも記述されまし
年齢もシナ人の倭人が2倍年齢を言うのでヒミコの年齢は長大などと書かれました。

因みに、出雲王国時代には春分の日と秋分の日に出雲王(オオナモチ) の王宮に各地の王族、豪族、有力氏族や役人らが新年の参賀して

併せて国会の出雲会議が開催されて、会議で採可された事案が

今度はオオナモチ后で国巫女/媛巫女が神々に御伺いを奉り、「吉」とでて晴れて執行/施行されました。
同時に王家が主宰する国大祭をオオナモチの正后が 祭主/媛巫女(今なら皇后陛下)として取り仕切って催行。

最後に出雲王国や参集した全員の弥栄を祈念して出雲の最高神が隠る神山に向かい万歳🙌三唱を行っていました。
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