日本書記の記述を信じますか
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大和朝廷未満の歴史を抹殺している日本書紀を
日本古代史の教科書として信じますか。 >>216
あづないの罪か? あれはホモの話かどうかわからんよ
>>217-218
おまえの珍説なんかどうでもいいんだがw 日本書紀編者は重要な節目の天皇の即位年干支を知っていて、そこでの繰り上げ幅が120年ずつになるように調整したように思われる。
応神即位:390年→270年(120年繰り上げ)
景行即位:311年→71年(240年繰り上げ)
崇神即位:264年→BC97年(360年繰り上げ)
孝霊即位:191年→BC290年(480年繰り上げ)
懿徳在位34年の中央17年:107年→BC494年(600年繰り上げ) 不比等が編纂させた当時には旧来豪族も沢山残って居たから丸きり嘘は書けなかった
だから藤原大焚書の燃え差しとしての歴史的資料価値は充分に有ると考えて良い
藤原写本しか残って無いのは気に為るがな(´・∀・`) 欠史八代の始めのほうの磯城県主とか磯城津彦は大和のシキでなく、河内のシキっぽいですね。
イメージがだいぶ違うんだが。 欠史八代を復元すると・・
綏靖は河内に進出し、次の安寧は河内を乗っ取り瀬戸内海に進出。
懿徳はオホヤマト(倭面土)王として後漢に朝貢するが、孝昭・孝安で倭国大乱。
孝霊・孝元・開化の邪馬台国に続く。
・・ありそうな気はするが、どこまで物証が出てくるか分からない。 崇神天皇「ミマキイリヒコ」孝昭天皇「ミマツヒコ」の「ミマ」は、阿波国の美馬郡かも。
阿波には崇神天皇の母や、孝昭天皇を祭る神社がある。
少なくとも「任那」と結びつけるより信憑性がありそう。 いまどき江上の騎馬民族説を信じてる人間は少ないだろう。
昔は手塚治虫が漫画に描くぐらい有名だったが。 騎馬民族は応神天皇のときにやってきた、騎馬民族を否定する連中は100%
工作員である。 >>226
前方後円墳がが半島にない・・・騎馬民族説の根拠ない >>158
殆どの人は文字知らない時代だから捏造し放題
文字の教育が進んだ時代は世代交代で捏造も嘘も解らない
記録もないのに過去のことなんて解るわけない
日本書紀は単なる実体のない妄想作文 マトモな人間なら継体より前の記紀の記述を信用することに躊躇する。
継体より前の記述は説話や創作であって、その取り扱いは慎重かつ禁欲的でなければならない。 >>226
前方後円墳が大陸に無いからと言って、騎馬民族が日本にやってこなかったという証拠にはなっていない。
騎馬民族が日本やってきたあとに、
日本で独自に創作された古墳の形式だと考えると何の不思議も無い。 騎馬民族といっても、遊牧民系ではなく、
満州族などのような狩猟民族系だと考えると、納得できる事がたくさんある。
いわゆる高句麗・百済を作った”扶余族”は狩猟系騎馬民族。
百済と同じように、支配層が扶余族系の可能性は高い。 >>233
あなた方は日本に”馬”が入って来た経緯についてはどう考えてるの? 騎馬民族がきてたらなにか困る事でもあるのか、ばかちん 別に困りはしないが、何か必死なような貴君は着てないと困るのか?
レッテル貼って賢しがってるのは貴君の自由ではあるけど
「騎馬民族が日本にやってこなかったという証拠にはなっていない」
なんて詭弁以外の何物でもないんだけど? >>237
>レッテル貼って賢しがってるのは貴君の自由ではあるけど
「騎馬民族が日本にやってこなかったという証拠にはなっていない」
なんて詭弁以外の何物でもないんだけど?
ごめん、ID無いからわからないんだろうが、”低脳”呼ばわりしてレッテル貼ってるのるのおれじゃないから。
大陸に前方後円墳が無いからといって、騎馬民族がやって来なかったという証拠にはならないだろ。
詭弁でもなんでもない。
前方後円墳は比較的新しい形式の古墳。
それ以前は円墳・方墳がそれぞれあったわけで。
日本で古墳という墳墓を作るようになった時代には、明らかな文化的な変質があったわけで、
それは、多分、大陸の影響は間違いないだろう。
その時代に同時に馬も列島に入ってきた。
前方後円墳はその後に出来た墳墓の形式なわけで、ほぼ日本独自に出来上がった形式。
だから、大陸に無くてもなんら不思議はない話。
言っている意味わかりましたか? 古事記と不一致な点があるのはなんなんだろう?
古事記の製作が日本書紀より古い
という記録(古事記自身以外の)が無いものの、
あきらかに日本書紀より古い表現があるし
後世のデッチアゲとも思えない
かと言って、日本書紀が古事記を参照してたなら
もっと一致してそうにも思う
(あるいは意図的に無視してる?)
神道派が古事記好きで、
仏教派が日本書紀好きな傾向もありそうだ
ようは古事記には仏教が出てこず
(守屋とか神道派が悪役にされるシーンもない)
日本書紀には仏教伝来が出て来る頃から
むしろ神道派が悪しざまに描かれるようになる
ちょうどそのあたりの分岐点あたりで
古事記の記述が駆け足になって
推古天皇を最後に終わるんだよね
……もしかして、そこらの宗教観が
両書のちがいと関係あるのかな?
たとえば古事記は神道派がかかわってるとか? >>239
古事記は神代からの言い伝えの集成集なのに対し、
日本書紀は公式な政府の記録であり歴史書であると言う違いでしょ。
古事記は物語的読み物なのに対し、日本書紀は記録書的で大陸から入ってきた型式で編まれた読み物ということだろ。 古事記と日本書紀でわりと重要そうな事までズレてる。
日本書紀、アメノミナカヌシ自身がなかなか出てこない上に
「ある書では〜」でやっと出てくる割りにちょっと順序も違いそうな感じが…。
古事記を直接、引用したのでもないのかな?
なんか引用した書の引用ぽいっと言うか。
(意図的に古事記からの直接引用を避けてる?)
http://nihonsinwa.com/page/666.html
>それはともかくとして、古事記に登場した最初の神である
>アメノミナカヌシ・タカミムスビ・カミムスビが本文ではなく
>一書の4でやっと登場というのは、どういう意味を持つのか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%B8%96%E4%B8%83%E4%BB%A3#.E3.81.B2.E3.81.A8.E3.82.8A.E7.A5.9E
古事記で生まれ初期の神々の順番
天之御中主神
↓
高御?巣日神
↓
神?巣日神
↓
宇摩志阿斯訶備比古遲神
↓
天之常立神
↓
國之常立神
↓
豐雲野神 日本書紀
1書 第4-1 (地上で生まれた神々)
國常立尊
↓
國狹槌尊
1書 第4-2 (高天原で生まれた神々)
天御中主尊
↓
高皇?靈尊
↓
神皇?靈尊 まともな人間だと天智辺り位からしか読めん。後は考古学の助けが有って初めて
読める。よく読めるなオマエラw。 天の羽羽矢とカチユキを持っている天神の子は二人いる。
それが日本書紀が記された頃の共通認識。
天神の子とは天皇家と物部氏。 >>1
漢民族の魏志倭人伝に書かれてる未開の民族じゃねーよって悔しくて書いたのが記紀の天皇自作神話。北魏を見習い、漢民族の長い歴史に匹敵する捏造史をつくりあげた。
後漢の名門や老子の子孫を詐称した鮮卑隋唐も北魏の後継国だから漢民族コンプ野郎だった >>1
日本書紀を否定したら、日本の古代史は書くことがなくなるだろう? 扶桑の島には外国からの王が一杯来ているはずです。
それらのことを書かず、神話からはじめて、国の成り立ちを解き、
当時の国家統一を図ったいわば、文学的歴史物語です。
一読の価値はあるが、歴史書として信ずべきものではありません。
外国の歴史書と照らし合わせて、解析すべきものです。
作者は史書として書く意図を持っていないと思います。 歴史小説だよね
纏向を見ても早くから出来上がってた首長連合とか
鉄の供給に必要だった加羅が連合に欠かせなかったことも
神話にしちゃってる 日本書紀を利用して、明治維新では、万世一系を叫び、天皇の神格化を図りました。
歴史書でなく、科学的に解析されず、このような使われ方をしました。
小学校では、物語の天皇の名前を間違えずに順序どおり言わなければなりませんでした。
明治天皇とは縁もゆかりもない陵墓を神聖なものとして、整備し、ありもしない
神武天皇陵まで出来てしまう始末。陵墓を封鎖して、発掘させず、発掘するととんでもないものが
出てくるのを阻止しています。日本の歴史学を停滞させているのは日本書紀です。
ヒトラーの我が闘争に匹敵する悪書です。 どうも勘違いしてる人間が多いが
日本書紀はもともと雄略記から始まっているんだよ。
それより前の巻は先後関係も適当な日本列島内外の
ばらばらな伝承を適当につなぎ合わせたずいぶん後になって足されたおまけ。
つまり当時の人間が歴史とみなしていたのは雄略記以降。
もちろん伝えられていたことが史実と違ったり
当時の政治権力の都合上書き換えをやったりはしてるんだろうけど
それより前のとは意味合いがまったく違う。
ならそんなおまけをなんで足したのか?
と言うと「万世一系」「天皇の神格化」とかよく言われるけど
当時の人間自体んなことつゆとも信じちゃいない。
あんな経緯の伝承など当時の人間はだれも聞いたことないんだから。
あのおまけは各氏族の今で言うところの戸籍・登記簿なんだよ。
日本書紀当時に大和政権を構成していた各氏族の権原の正当性の根拠を示すのに
当時はあのようなやり方しかなかった。
当時の大和政権下の氏族が全部入りになるよう、有力氏族の固有の伝承を
フィクションの天皇の一代記にとりこんだりしながらお話=戸籍・登記簿を
書いてたらずいぶん長くなっちゃいましたというだけのこと。
当時の人間にしてもまさか1500年近く未来の自分の子孫たちが
500年も人が生きたり、サメの腹から人の子が生まれたりするお話を
真に受けるほど知能が低いまんまだったとは思わなかったろう。 本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg 西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう? 百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
劉仁軌自ら「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾のことだ
公州の西の海を遼海と呼ぶのならインド洋も遼海だ
扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口
熊津江(熊岳河)と白江(浮渡河)とは開口部が違う川である
熊津江を出て白江に向かったところ白江の口で倭兵と遭遇したのだ
通説の錦江説は合っていますか?白江の上流に熊津江があるのではありません
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
(蘇)定方自城山濟海、至熊津江口=蘇定方が平定した百済もまた遼東半島である
通説が正しいならばこの箇所は「至白江口」となる。白江=錦江説、アウト
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
白村江への旅程については何も書かず、いきなりワープしているではないか!
宇宙船艦ヤマトのようにワープしている時点で作文確定!
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/6Q0x678.jpg 倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい 日本という国家の源流の話?
そりゃあ、縄文時代から弥生時代に至る過程まで遡る必要があるけど
なぜ狩猟採集定住生活を捨てて、農耕定住生活に移っていったのかが
わからないよね
少なく見積もっても縄文時代は一万年以上
多く見積もっても日本という国家の期間は2千年ほど
縄文文化の時代の五分の一にも満たない話だよね
卑弥呼の時代はいっこうに解明されないのに
それよりもずっと地中深い縄文文化が次々と明らかになってきている
そちらのほうに関心が移っているのが面白い
そこは国家形成の源流ではないかもしれいが
日本文化の本当の源流はそっちだろうと皆が思っているってことさ >>262
16000年も前からわんわん土器を作り、5000年も前から栽培植物がわんさかと
出て来る。
昨日や今日水稲稲作を持った「渡来人」がやってきて作った国(文化)だってのは
無理があるね。
たったの2000年ちょっと前のはずなのに似た言語も見当たらない。
どこにいたかも分からない「文化を持った渡来人」がやってきたw 縄文末期の奈良の遺跡からは東北に源流がある土偶が見つかっている。
橿原神宮を作ったときのものだ。
以前は奈良から縄文遺跡は余り出ていなかったが、京奈和道の工事でいろいろ
出ている。弥生前期の広い水田も。
かなり深く掘らないといけないからこれまでは見つかりにくかったんじゃないかな。
奈良署の地下から出てるから、平城宮の地下にもあるかも知れんw
奈良は先入観があって、奈良時代、飛鳥時代、古墳時代、弥生まで掘るとそれ以上
掘るのは止めちゃうんじゃないかな。 大ブリテン島で先住民族であるケルト人を北海を渡り侵攻したアングロサクソン族が
支配下に置いたのも5世紀だね。 日本書紀を信じるかどうかですか、信じれば、歴史学ではなく宗教学になります。 多神教は信仰じゃなく、生活に息づく物の考え方の根源のようなものとして捉えるべきだな 特定の人物や家の話ではなくて、
世間一般の普通の人々の暮らし、生活を記録した本じゃないの? とあるスレに書いてあった
「ハル中」「またハル厨か」ハルキ角川氏のことなのかな?
編み物の本。
何々の友。
主婦の生活。
その他・・・同じようなものだと思う
確か、このような本があったはず やはり「聖徳太子」は架空のキャラだったんだな。勉強になりました。 不比等は氏族から皇統単位の話を集め個別の天皇の話として書き直した? >>267
多神教は生活に息づく物の考え方の根源のようなもの。そうかなぁ?
現代では多神教でも一神教でも、不幸にならないために、拝め、金を払え、
そうすれば安心できるだろうという脅しによって成り立っている。
日本の場合、古代の呪術の世界が生きている。
その後の歴史的遺物を取り込むことによって、宗教を否定させない道を選んでいる。
豊国神社、日光東照宮、明治神宮、平安神宮、靖国神社、乃木神社、など
深い意味でなく、単に歴史を顕彰しているだけ。これが多神教になる始まり。
一神教の対立概念として多神教というが、恐れ、たたりの世界に過ぎない。 >>257
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯 と仮定すると、三国志魏書弁辰の条
「國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡」
の2郡は何処のこと?
遼東郡で産する鉄をほかの郡に供給することをなんで東夷伝で記述する? 1 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です 三国演義と同程度には史実性を有する
取って付けた正統論により改編されている
会話文はほぼ全て創作 >>263
日本に水稲が揚子江あたりから入ってきた説と
BC1000に水稲は遡れる説を組み合わせると、
青銅器が水稲とともに入ってきてもよいと思うが、
青銅器文明は日本になかった。鉄と一種に青銅器が入ってきた。これがBC3-2世紀。
それ以前は、中国文明とは無縁の島だった可能性大。 日本にほかに歴史書がないからといって書紀を歴史書にするのは、学問的でない。
血縁ばかりで綴ったものは、タレントネタの週刊誌なみの値打ちしかない。
書紀も、後世の事実を、誰かの手柄にするために前に持ってくるなど、虚偽を述べている。
疑ってかかるべきだ。昔の人間はどんな精神構造だったか知る手がかりにはなる。 史記だってなんだって昔の歴史書なんてそんなもんでしょ
グダグダ言ってないで死んでください >>278
馬鹿の方?
稲作が長江なんて、もう0.1%の可能性も無いよ。
佐藤洋一郎とかいうペテン師農学者が一人グダグダ言ってるだけで、
考古学者も他の農学者も朝鮮で全員一致しています。
まず当時の長江の稲作の農具は石スキがメインなんだが、最古水田には石スキどころか
スキという器種自体が伝わっていない。
スキが伝わったのは数百年くらい後で、オール木製で、もちろん朝鮮から。
最古水田に伝わっている農具はエブリとクワなんだが、ともに中国には無い器種で、
オール木製で石刃が無い。
しかも当時の長江のイネは中粒種が約半分を占めるが、最古水田から出たのは短粒種だけ。
日本稲作は100%朝鮮から導入されている。 昔の史書はみんなそんなもんだなんて、やけをおこしちゃいけません。 ちなみに当時の長江ではコメを三足土器の鼎で煮て炊くか、鬲で蒸して炊いていた。
両方とも最古水田からの出土はありません。 朝鮮半島の水田は何処から?
箕子朝鮮は養蚕など畑だから、やっぱり南から?
南からなら同時に、日本にも来たということはない? 最近は遼東半島の方が可能性が高いと俺は見てるよ。
遼東半島南部では5000年前頃から稲作をしていて、4000年前頃に半島人自身で
漢江下流域に持ち込んだ可能性が高いと見てるよ。
なぜなら半島の土器文化は櫛目文土器にしろ、朝鮮無文土器にしろ、
遼東あたりの影響で成立した土器文化だし、朝鮮青銅器や支石墓文化も
遼東あたりの影響で成立した技術や文化だしな。
大海を渡海するリスクが無いのもあるしね。 >>288
遼東半島は海に囲まれて意外に暖かいところ。
しかし、中国本土経由で遼東に来るには、
水稲が不可能な地域を通らねばならないことはない?
土器文化の流れと水稲の流れが同一経路であらねばならない理由は?
支石墓文化は北から。水稲は南から。どう説明する? 陸稲だけでイイんだよ。
半島南部に入ってから、自然発生的に水稲に移行していっただけ。
自然環境によって栽培法が変わるのは栽培植物なら当然の事。
半島は朝鮮無文土器時代まで、ほとんど全ての文化が遼東の影響で成立している。
稲作も遼東からの影響文化だと見るのが自然だろう。 >>278
揚子江下流の河姆渡遺跡(BC5000-Bc4500)が世界最古の人工的大規模水稲栽培。
BC3000までは黄河流域にまで広がり、BC3000以降に遼東半島、山東半島に広がる。
その延長に日本があり、BC1000くらいに日本に到着。
水稲による人類の蔓延りのスピードと考えられる。
単独で難民や長江から伝来した説は不自然。
青銅器の伝わり方が遅いのは威力がなく、人口が少ないから。
鉄は威力があり、人口も増えていたので伝わり方が早かった。 『パロディ』ググってみたでしょ
「偉大なる人間芸術」(力夫氏の写真)
「せめて 人間らしく」
「人間だもの」
それと wiki『アイヌ』参照 いつ頃の話なのか、わからないけど
妖怪人間のような扱いを
されている人々がいたとか、いないとか 魏書東夷伝
弁辰の条「國出鐵,韓、濊、倭皆從取之」の倭は「弁辰與辰韓雜居,・・・其瀆盧國與倭接界」の倭であり、
倭人の条「倭人在帶方東南大海之中,・・・歷韓國,乍南乍東,到其北岸狗邪韓國,七千餘里。始度一海,千餘里至對馬國」
の狗邪韓國は半島内にある倭。半島内にある倭が鉄を取っていたと思われる。
半島の倭は製鉄技術を持っていたことになるが、半島の倭が列島の中央集権の出先であるなら、
6世紀とされている日本の製鉄技術はもっと早いと思われ。
5世紀の巨大古墳古墳の副葬品の鉄テイは瀬戸内と河内大和に集中するのは鉄は輸入していた証。
半島にヤマト朝廷が進出していたことが本当か日本書紀に尋ねたい。 青銅器はBC2C、鉄器は1Cには日本で生産が始まっている。
弥生人自身が半島で習得して始めただけだろう。 Wikipedia
「青銅は紀元前1世紀頃から日本で作られるようになり、製鉄は弥生時代後期後半(1 - 3世紀)
頃から北部九州のカラカミ遺跡(壱岐市)や備後の小丸遺跡(三原市)で開始され、それから
時代が下り出雲地方や吉備でも製鉄が行われるようになった。総社市の千引かなくろ谷遺跡は
6世紀後半の製鉄炉跡4基、製鉄窯跡3基が見つかっている。鞴(ふいご)を使い、原料は鉄鉱石
である。製鉄炉の作り方は、これまで朝鮮半島からの導入と推定されていたが、近年の研究
により、中国北東部から伝わったとされている。」
は、日本列島でも西から東に伝わってきたことを示し、中央集権を否定している。 淡路島の垣内(かいと)・五斗長(ごっさ)鉄器コンビナートや、その北に位置する舟木遺跡が稼働していたのは1世紀から3世紀頃。
舟木遺跡に関しては先の垣内五斗長遺跡が稼働停止後も暫く稼働していた事が確認された。 神話の国生み。は、鉄器の武器を専らとする勢力により先ずは淡路島を最前線のベースとして従来型の青銅器武器を用いた在地勢力が制圧されて統治下に置かれて行った事を暗喩しているのではないか?
また、それらの立地からは明らかに淡路島の西から機内(近畿地方)を攻略する意図が読みとれます。 >>298
ないな
頭の病院に行ってきたほうが良いぞ 鉄器生産技術と製鉄技術は違う。
日本の製鉄炉がWikipediaに在る通り、中国北東部から伝わったものなら、
半島の倭の製鉄技術が日本にもたらされたのではなかった。
壱岐市のカラカミ遺跡(1-3世紀)の精錬炉は半島南部のものに似ているらしいから、
半島の技術の延長にあり、古墳時代、日本は半島から鍛冶原料を輸入していた説を裏付ける。
日本での本格的製鉄が中国北東部から出雲や吉備に来てから、畿内との力関係がどうなったか。 鉄テイを輸入し、鉄の独占提供で権力を維持していた河内大和の前方後円大古墳の盟主たちは、
吉備、出雲の製鉄で独占が崩れて、オヨヨとなった? 漢は鉄官をおいて鉄の独占をして国を強力にし維持した。鉄の国力への寄与は大きかった。
同じことは日本列島でもいえる。鉄生産を出雲や吉備が始めたら、独占勢力は基盤が揺らぐ。
大きな権力抗争が生じてもいい。書紀はなにか書いてます?
書いてなければ、歴史書として頼りない、若しくは、権力闘争がないという平和な世界。 まだ偽書なんて信じているのか
という書き込みを見たことがあるでしょ 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home >>303
製鉄文化の流入は出雲や吉備その他を栄えさせたことは確実でしょう。
国譲りなんていってますが、ヤマトが出雲や吉備その他を権力を集約したのは5世紀から6世紀なのでしょう。
そんな事実とは無縁で畿内に邪馬台国があり、ずうっとそれが日本を牛耳ってきたとしている
歴史の何がいけないのですか。どんな歴史の見方をしたところで、現代社会は変わりないのですから。
歴史はあいまいにしておくのが、最善なのです。それが書紀のときからの方針です。
倭人は曖昧にしておけば、あれやこれや考えて、結論がでないうちに死んで
次の世代が同じことを繰り返すのです。こういう世界が続くのです。 中国で鉄を専売にしていたのは帝国の収入源となるから。
副葬品の鉄テイは交易品で経済的豊かさを表していたに過ぎない。 本当に国を造った神々一族(人間)というのは、
どこへ行ったのか?
それと消された王朝など
妬み、嫉妬で何やらという話だよ、
『もののけ姫』の神殺しというのもそう 気づいているはず
誰々の末裔などがいると危険、
色々と問題がありそう、
訴えられそうとか
それなら、いなかった、いない事にしよう
そういう話だと思う、近代的な話? よくあるでしょ
某家や某氏は何々の戦いで破れ、
滅亡しました
本当は末裔がいたり 崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。
それに符合するかのように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。
もちろん彼らには正后(奥さん)はいる。
しかし彼らが大王ならその血を残すために複数の妃がいて当たり前。ところがいない。
つまり彼らは大王ではなかったのだ。
やはりこの時代は女王国であった。
では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。
それがいるのだ。
@神武→ヒメタタライスズヒメ
A綏靖 →イスズヨリヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
B安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト 生きてた「ヒメ」タタラが女王
C懿徳→アマトヨツヒメノミコト
D孝昭→ヨソタラシヒメノミコト 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
E孝安→オシヒメ 生きてたアマ「トヨ」ツが女王
見事にヒメとトヨの時代。
そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。
それは箸墓古墳の時代だ。
邪馬台国の都とは「ヒメ」タタラが住まわれた葛城、奈良県御所市。
纏向に卑弥呼はいない。
九州は論外。
これが私=天才のHPだ。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite/home 唐の勢力版図拡大による朝鮮半島と日本列島の混乱の経緯
このへんに最も詳しいはずの天武天皇の時代に編纂が始まったわりには
あまりにも事実に触れていないというか触れたくないというか
モヤモヤとした内容で信じる気にはなれない それ以上に根拠のある資料がないんじゃ日本書記は胡散臭い!と叫んでもさらに胡散臭い妄想じみた説しか出しようがないからね https://blogs.yahoo.co.jp/longhistoryjapan/55796499.html
弥生時代には、各地の墳墓には地域特性があって、出雲・北陸、中部・関東、近畿・瀬戸内に区分される。
それぞれ、大王がいて、近畿・瀬戸内は、大和がその大王と考えられる。
4世紀後半から、5世紀にかけて、河内・和泉に政権が出来ているが、その文化・産業・土木は外来のもの。
大和は存続したまま、外来の河内・和泉政権(=倭の五王)が列島を統一した。
この政権の全国制覇を大和は後世自分のものにしたのではないか。
三韓征伐・熊襲制覇・倭武尊等の記紀の記述は倭の五王の業績に相当する。
河内・和泉政権は6世紀に入って衰えると、各地に、地方豪族が再び、芽をもたげ始める。
北陸の継体が南下し、大和に入るという現象が起きる(継体の陵墓は大和ではないが…)。
継体は、復活した筑紫の磐井を制したのは再統一に向けての争いではないか。
その後、百済崩壊までの権力の流れの推測はいずれまた考えよう。 日本書紀が嘘っぱちだとすれば、雄略や武烈といった極悪非道な天皇をわざわざ捏造ででっちあげるという
不敬極まりないことを、当時の編集陣が、国ぐるみでやったことになる
これはやはり、少なくとも編集時点で史実だと信じられてたことを、そのまま書いたものだと思う
そうでなければ、異説のある部分について「一書曰」とことわって、いちいちその異説を列挙したりしない
初期天皇の異常な長命も、磐長姫の逸話と矛盾するわけだが、それを取り繕うこともなくそのまま書いている
それは、日本書紀の編集時点で、そのような矛盾した状態で伝わっていたからこそだろう
聖徳太子は遣隋使を派遣したはずなのに、日本書紀には「大唐」に派遣したと記載されているが
それも、日本書紀の編集時点で、そう伝わっていたから、そのまま書いたのだと思う
ちなみに、この2点、初期天皇の長命と、聖徳太子の遣唐の問題は、2倍年暦を想定すれば、みごとに解決する
https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/11628573.html
この「第18表」のように、西暦692年の改暦以前は、いまの半年で1年とカウントしていたと考えて、
年干支をあてはめれば、日本書紀の編集陣が解決できずにそのまま書くしかなかった矛盾点は、ほぼ解消する >>169
記紀は根も葉もあるウソ。
とりあえず、神武東征は捏造なのは証明済み。
それから「倭皇」へ送られた国書も捏造なのは明らか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています