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日本書記の記述を信じますか

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0001名無しさん@お腹いっぱい
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2012/08/26(日) 16:51:52.99
大和朝廷未満の歴史を抹殺している日本書紀を
日本古代史の教科書として信じますか。
0072日本@名無史さん
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2013/03/18(月) 20:38:52.80
蘇我といっても蝦夷−入鹿系ね。ほかと一緒くたにしないほうがいい。
乙巳の変後も、石川麻呂・連子・赤兄と蘇我倉系は大臣を出している。
それに不比等の嫡妻・媼子は馬子の曾孫。南家武智麻呂や北家房前の母である。
御承知のとおり、持統・元明の母が石川麻呂の娘であることからすれば、
「不比等時代」の天皇たちは軒並み馬子の血を引いているわけだ。
またこの時代、蘇我一族の豪族からも多くの廷臣が出ている。
あと有名な石川年足墓誌が、藤原(中臣)氏との縁が深い摂津三島の地から出ているのも興味深い。
年足は蘇我の後裔・石川氏の宗家当主であり、武智麻呂・房前の従兄の子に当たる人物である。
0073日本@名無史さん
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2013/03/18(月) 21:02:33.01
>>72
言葉足らずですまない

確かに蝦夷−入鹿を嫌ってる節があるのが、やはり何かしら藤原の思惑を感じてしまうんだよね。

結局、乙巳の変後に石川麻呂の首も塩付けにされちゃうしね。
これ、誰が塩付けにしたんだっけ?


不比等のやった事は、大伴、物部、蘇我のポジションを謀事でやすやすと手に入れ、それを手離さないための地盤固めをしたわけだね。
そして、鎌足の業績を正当化し、出自をぼやかすための工作をしてるように思えてしまう。

天武が完成を目指した日本書記の内容と、とれだけかけ離れているのだろうな。
0074日本@名無史さん
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2013/03/18(月) 22:36:03.66
>>73
日本書紀に、中臣蓮遠祖大鹿島って書いてあるが
しかも春日大社を造営してるし
ぼやかすので無くて、逆に語りたかった気がするが
0075唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/20(水) 05:51:36.34
ホ08385 カトリがイモト アサカヒメ ココトムスビの ツマとして うむカスガマロ ワカヒコぞこれ
ホ13002 ワカヒコイセススカのアヤ
ホ39146 ヤマトタケ カヅサにいれば サカキヱに カガミをかけて むかひます カトリトキヒコ
ヒデヒコと イキスヲトヒコ かねてまつ ヲヲカシマより ミアヱなす
ホ00097 マキムキの ヒシロのミヨに ミカサトミ イセのカンオミ オオカシマ フモヨソナトシ
ささぐハナオシ
0076日本@名無史さん
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2013/03/20(水) 21:55:18.28
馬子−蝦夷−入鹿の挙げた功績を、聖徳太子の功績に当て嵌め聖人君子とし、その子孫山背皇子を抹殺したという事に仕立てあげ、蘇我は悪の存在へとする事で、勧善懲悪のストーリーを仕立てたのは不比等ですか?
0077日本@名無史さん
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2013/03/21(木) 07:29:03.60
(・∀・)日本武尊がサリンを吸わされたって話は本当ですか?
0078日本@名無史さん
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2013/03/21(木) 22:39:55.99
どこでだよ。
亀山では明らかに怪我による死亡だろ。
0079日本@名無史さん
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2013/03/22(金) 01:51:56.30
出雲って結局、何なの?

製鉄技術と独自文化を持つ部族だったけど、大和政権にまあ無理矢理組み入れる(国譲り)代わりに
祭祀権あげてでっかい神社を作り、神無月に出雲に神が集まるってコトにしたってコト?

逃げた人も見逃してあげた…と。

でも朝鮮の影響もあるって気がするんだけどなあ。製鉄技術だし。スサノオだし。
0080唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/22(金) 10:51:52.80
「国譲り」とは何なのか?これだね。
「国譲り」とはたとえば 半島の辰国は自ら王を立てられず馬韓人を王とした。
そして 自らが王となったのは、奈勿聖帝2年にその決定をしている。
我が国においては 馬韓王の代わりに大物主が居り辰国の代わりに天照大神がいた。
天照大神の弟のスサノオが出雲に入った時点を「国譲り」としているのであるが
崇神6年に大物主の初子タタネコが崇神に使える。
その崇神60年に出雲の振根が殺される。つまり、この時点で大物主がこの地上から消えるのである。
つまり 崇神に譲位した大物主の正体は、出雲の振根となって九州にまで影響力のある人物であったが
その振根が殺されたことにより九州王朝は瓦解するのである。
新羅 192年 4月大雪。(後漢 193年 6月寒風冬の如し。)=崇神5年。
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。=崇神6年
新羅 209年 伽耶に援軍。三国遺事 加羅 541年 建国330年で新羅に身を寄せる。=崇神58年

振根が殺されたのはAD210年ころになる。それは九州が「無主歴年」と書かれた時代と重なる。
共立卑弥呼は238年のできごと。
「歴年」とは、19年7閏を1章とする時空がその基準である。
0081太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/22(金) 11:19:56.19
新羅 192年 4月大雪。(後漢 193年 6月寒風冬の如し。)≠崇神5年。
0082唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/24(日) 08:51:18.39
『令集解』陰陽寮条の「古記」は 「暦数は、十九年を一章と為し、三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、
十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月とす」という。
この暦に書紀をあてがうと、安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月己卯朔から仁徳まではさかのぼれる。
しかし、神功・応神紀は、仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月乙卯朔の暦であり、仁徳以降とはつながらない。
しかも『神功・応神紀には百済王家が、仁徳紀には「廿餘年無事矣」と短くできない』という制約がある。
であるならば、暦を重ねて古事記のいう年数に合わせる。
仲哀天皇九年(庚辰二〇〇) =19年目=274年 古事記壬戌年、応神誕生。
神功皇后摂政元年(辛巳二〇一) =1年目=275年
神功皇后摂政三九年(己未二三九)大歳 =それまでの暦の1年目=仁徳元年=313年=新しい暦の7年目 
仁徳天皇十三年(乙酉三二五) =19年目=325年 狭義の朔旦冬至。
仁徳天皇八七年(己亥三九九)春正月戊子朔 古事記=399年丁卯年
安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月 =19年目=534年 ←ここから逆算。

仁徳天皇十三年(乙酉三二五) =19年目=325年 狭義の朔旦冬至。その検証。
西暦→和暦変換&日本史雑学カレンダー 
和暦 平成26 皇紀年 2674   (旧暦) 年月日2014 11 1 甲午年 丙子 丁卯朔 ←朔旦冬至
http://www.kuu-kikaku.jp/rekishi/rekishi-zatsugaku-calender.html
新暦2014年12月22日冬至=旧暦平成26年11月1日丁卯朔(朔旦冬至)から数える。

19年=1章=235ヶ月、1900年=100章=23500ヶ月
旧暦2014年 11月 1日丁卯朔から逆算する325年は 2014−325=1689年=88章(1672)+17年
20680月+210月=20890月、20890月×29.5306=616894.23日
1689年×365.2422=616894.07日
2014年丁卯朔から616894日前の干支は甲午である。
0083日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 10:00:52.63
>>78 帰京中の日本武尊は征路の近くで山賊が蠢動中との報を受けこれを討つ事にしたが、
詳細を聴取すると件の山賊の頭領については実は以前にかつて顔を合わせた事があり、
丸で話の通じない相手でも無いと考えた日本武尊はいきなり兵を動かさず、
山賊の頭領に大和朝廷に帰順するよう話をつける為に、
指揮剣草薙剣を本営に置き近供だけ連れて白旗交渉に赴く。

再会に際して日本武尊に対して山賊の頭領がマリファナで饗応している最中に、
山賊の幹部が勝ちを焦って勝手に日本武尊にトリカブトを吸わせてしまう。

毒殺を企てた幹部は山賊の頭領が手打ちにし、
日本武尊は頭領から謝罪を受け下山し帰隊まではするが、
既に身体を有機燐中毒に冒されており、
最初から武力討伐を選択しなかった悔いを和歌にしたためながら隊営にて無念にも客死する。

これが日本武尊伊吹山大氷雨遭難伝説の真相ですよね?
0084太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/24(日) 10:42:04.10
高尾山よ

古記が合ってそうな時代は、古記成立以前でも、その近隣の時代にしか効力はない。
だからそのような数値計算をしても、さらに古い神武、崇神、仁徳等の時代まで合ってるわけない。

暦法は再三再四再五の改正変更があり断裂があるから、そんな単純計算ではデタラメになる。
だから顕微鏡計算じゃぁ駄目なんだよ。1/1なんか調べてたんじゃぁ、いつになっても
かようなより古い年代の編年には効果がない。そういうには別に暦学で論じればいいことだ。
暦の字を使うとはいえ、編年では道具にはなるも、逆に焦点ズレの代物となる。

それにかの田舎暦在る臭魔伝を書いた奴の記載が正確かどうかの保証も薄弱である。
これは個人的色彩が強い詩形式の記載であるから、参考にはなるが毒もあり、
デタラメに至る失墜を招くデタラメとなる。
0085太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/24(日) 10:46:27.47
新羅 192年 4月大雪。(後漢 193年 6月寒風冬の如し。)≠崇神5年。
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。≠崇神6年

飢餓疫病では渡海は不可能で出来ない。
おまけに農民離散とは農民千人集合とは整合しない。離散は集合の逆である。
さらに崇神5年6年には船舶がない。これでは渡海は出来ない。
船舶の始めて製造されたのは紀の主張は崇神17年であるから、紀の記述を無視したインチキそのものである。

出来ないものばかりが高尾山野郎のイカサマ論。
0086日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 11:13:55.22
怖くなんか無いんだよ〜♪
近供〜近供は友達さっ
0088日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 14:51:31.04
各家の史紀が違っているから、
まとものものを作る、って言う記紀の序文の意図は、
まんま陰謀論やね
0089日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 14:56:07.26
結局、藤原不比等が書き換えたんだけどな

>>85
おい、縄文時代には八丈島まで倭人が航海してたぞ
0090日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 18:24:47.41
日本書記ってこれ聖書ってより封印書だもん
人間の心の持ちようを綴ったりしてな
0091日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 18:26:54.11
自分たちで好きなように想像して遊ぶのが正解なんだよ
0092日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 18:33:23.09
まあもともと聖書の正体ってのはほとんどが封印書だろ
真実を知ればほとんど絶望しか残らないからそれを書き残すとき
あえて真実を分からないようにして過去から未来への警告みたいな
感じでな、それを解いた人はそっと胸に秘める

 これが本当の意味
0093日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 18:35:01.85
”意味”ってのは”胸に秘める”←これ
0094日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 18:38:48.11
”意味”から”忌み”への転換みれば分かるだろ
どの部分が重要か
0095日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 19:03:13.36
自由だーとかいっても意味(忌み)に触れれば裁かれる、これが詰み(罪)

なんかやんなってきた^^;;;
0097日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 19:11:09.41
ニニギが空から舞い降りた事を認めろ
ニギハヤヒが空から舞い降りた事を認めろ
0098日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 19:11:45.14
認めてますけど
0099日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 19:13:18.37
だって月は空に浮かんでますもん
日本人の宇宙への帰還願望ってのはこれ
0100日本@名無史さん
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2013/03/24(日) 19:16:06.59
ムーが流行るわけやねw
0102唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/25(月) 11:10:07.52
>飢餓疫病では渡海は不可能で出来ない。

まあ太国がどう反論しようと新羅本紀の記事は消せない。そして、考古学も
2世紀末の弥生後期後半に各地の遺跡が大きく変動したことを認めている。
その直後が「崇神10年の異族多帰」であり、纏向に各地の土器が持ち込まれた事を考古学は確認している。
だからこれ位後に崇神を持って行っても出来事と合致することはない。
しかも新羅に水田が持ち込まれたのもこの時である。そして、倭人伝の倭人集団として238年には存在するのである。
238年とは「邪馬台国官伊支馬」の時代になる。つまり、伊支馬=イクメ=垂仁であり任那建国から30年近く経過している。
3国遺事のいう541年(欽明天皇二年(五四一)四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。)から330年前が任那建国なのだよ。
その任那建国は、崇神58年(ツノガアラシトに兵を授ける)直後になる。
崇神58年≒210年であるから崇神68年は220年を超えることはできない。
崇神元年は187年以前になることもできない。
0103唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/25(月) 11:30:49.78
>太国倍年:崇神垂仁3倍歴、景行2倍歴、成務3倍歴、仲哀1倍歴、神功應神仁徳3倍歴
>太国倍年:970庚午  389己丑  應神崩御

389年から書紀の主張する時空をあてはめたとき、七支刀がどこを指すか?

書紀の主張する年代を西暦で表すと
崇神天皇 189年〜216年 2章+2年(増40年) ・・・+46年で235〜262が得られる。
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山。誉田御廟山までは110年。
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)
応神天皇 344年〜384年  百済本紀とは、46年の誤差がある。

>太国倍年:神功應神仁徳3倍歴は 書紀の記事を書き変える必要がある。
>太国:〜太国倍年と百済王家は整合しなくていい。
つまり 書紀の記事を書き換えた結果 応神末(誉田御廟山)は考古学の主張する年代になるが
太国倍年:崇神末=258年 と考古学のいう箸墓築造(円筒埴輪)の時代になってしまう。
これでは、纏向の主役である垂仁・景行に王宮が存在しない年代を割り振ることになってしまう。
この齟齬を解消するためには 「神功・應神1倍歴」が必要となる。
そうすれば、太国倍年も5年差で「七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午」を支持しているのである。
0104唐松山 ◆V0F34EbmQA
垢版 |
2013/03/25(月) 11:37:07.70
まあ 太国倍年「仲哀1倍歴、神功應神仁徳3倍歴」を証明できて、そこに七支刀を組み込めるのか?
「468戊申  石上神宮七支刀銘文泰□四年(泰始四年)【安康元年】」と書紀の記事を書き換えても
「468戊申年」には16日丙午は存在しないのである。
そして「389己丑  應神崩御」を主張しつつ「百済王家は120年差」を主張することはできないのである。

書紀の記事が意に沿わなければ書き換えるという太国の態度で真の年代が割り出せるのか?
当然無理だ なぜならば太国倍年には1月1日の設定さえできないのであるからである。
0105太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/25(月) 16:27:55.83
伊支馬=イキマ=垂仁でない。
官は天皇には絶対なれない。なれないものをなれたと強行するのは将棋の角を横に動かす業であり、完全なデタラメである。bb

唐松山実は高尾山空年:崇神末=215年 と記の干支とも合わない糞古学のいう箸墓築造(円筒埴輪)のインチキ確定の時代になってしまう。
これでは、纏向の主役である垂仁・景行に王宮が存在しない年代を割り振ることになってしまう。
この齟齬を解消するためには 「高尾退院歴」が必要となる。

応神仁徳の順の書紀の主張において〜
書紀の記事が意に沿わなければ逆に書き換えるという高尾山野郎の態度で真の年代が割り出せるのか?
当然無理だ なぜならばスリー・エース七雄空年には1月1日の設定さえできないのであるからである。
それはそうだ。ww なぜなら空年は1月1日〜12月31日まで無いんだから設定出来ない。ハハ・・・
0107太国 ◆yVAs7uaYlY
垢版 |
2013/03/25(月) 18:11:10.12
高尾空年では書紀の記事を書き換えている→【応神⇔仁徳】の逆転換の→松沢行きの紀違い書き換え。
0108唐松山 ◆V0F34EbmQA
垢版 |
2013/03/26(火) 11:05:16.08
>官は天皇には絶対なれない。
>書紀の記事を書き換えている→ 太国:神功應神仁徳3倍歴 →百済王家を書き換えている。

逆だね、 天皇を魏は官と認識した。
239年時点では、後漢に朝貢した実績のある九州と実績のない邪馬台国などの連合体としての朝貢。
つまり、この時点では、実績のある九州に及ばないのだよ。
ただし実力は邪馬台国が上だ、だから正始元年に初めて王位を認められたんだよ。
王位は九州女王国を五百野媛が天皇位は成務が継いだのであるが、神功渡海直後の内乱で混乱する。
つまり、河内王朝とはこの混乱期の王朝であり、この2王体制が天皇一人に集約されていくという歴史をたどるのだよ。
その王位=天皇位として、後世に動かなくなったんだ。
それを如実にあらわしているのが書紀の神功〜仁徳紀なのだよ。
太国がこの年代を勝手に書き換えて「その事実はない」と主張するが それが間違いであることが考古学の編年との誤差となっている。
つまり 太国がどんな発言をしようとも歴史は考古学と合致する時代でなければただの妄想にしかならないのだ。
太国:970庚午  389己丑 應神崩御 ←考古学のいう誉田御廟山に合わせてあるが
太国:631辛卯  259己卯 崇神崩御 ←昔の設定は、應神崩御=430年から得られる。
つまり「389己丑  應神崩御」とは別の時代設定の数字であり 
「259己卯 崇神崩御」=箸墓築造(埴輪、260±10年)という説明はできないのだよ。
0109太国 ◆yVAs7uaYlY
垢版 |
2013/03/26(火) 16:01:04.14
いや〜それも逆だね。

逆だねぇ〜、 天皇を魏は官と認識した証拠資料もない。

そうならば、倭人伝は女王卑弥呼を「女官」と書くはずだが、そんな記載は存在しない。
きちんと女王と書いている。だから天皇なだ官とは呼ばす、大王とか大君とかの記載に
なるのが当然だ。
天皇を官と書くならば、呉とか蜀の皇帝をも「官」と書くはずだ。
しかしそんな状況はない。魏の隣の鼎の三分の相手国の敵対皇帝ならば、切実なる敵なんだからこういう
皇帝こそ「官」と書いて魏の皇帝は「朕こそ真の皇帝である。朕に敵対する皇帝と名乗る者らは朕の官である。」と
相手国の皇帝を下っ端の官呼ばわりするはずだ。しかしそんな状況はまるで無い。〜ということは天皇を「官」などと
呼ぶはずが無い。つまり官伊支馬は垂仁天皇ではな〜い。イキマロだ。
0110太国 ◆yVAs7uaYlY
垢版 |
2013/03/26(火) 16:06:04.14
>>109 訂正
× だから天皇なだ官とは呼ばす、大王とか大君とかの記載に
なるのが当然だ。

○ だから天皇なら官とは呼ばず、大王とか大君とかの記載に
なるのが当然だ。
0111唐松山 ◆V0F34EbmQA
垢版 |
2013/03/26(火) 16:45:02.53
>○ だから天皇なら官とは呼ばず、大王とか大君とかの記載に
なるのが当然だ。

そのためには、魏が天皇家が何であるか?という認識を持っていなければならないのであるが
そんな認識はどのように伝えたのだ?
伝えられていなければ、魏が天皇を官と記載することに矛盾はない。
崇神天皇十二年(乙未前八六)◆秋九月甲辰朔己丑。・・・故稱謂御肇國天皇也。
崇神12年以前には誰も知らない”天皇”なのである。
つまりこれ位後に魏に”天皇家”のなんたるかを伝えねばならないが
その朝貢の始まりが田島守の派遣になる。
だから、それ以前は、官という魏の認識は正しいのだよ。
九州女王卑弥呼を共立した邪馬台国天皇は卑弥呼の官にしかできない。
その邪馬台国をカテイ等が訪れたのが正始元年であり、王位を授与されたのがこの時が初めてになる。
つまり、魏が王位を認めていないのに”王という記載”を認めることはない。
魏がどこの誰を「大王」と表記した?そんな例は見つからない。
「大君」の代わりに「邑君」でよろしいか?
0112太国 ◆yVAs7uaYlY
垢版 |
2013/03/26(火) 17:12:14.90
魏が天皇を官と記載することに矛盾はあるさ。

卑弥呼を女王と記載してるんだ。当然敵対の大陸皇帝でもない天皇を官などと
敵以下の記載などするわけがない。

所詮オマエのデタラメであり、伊支馬は官がなれない垂仁天皇ではない。
0113太国 ◆yVAs7uaYlY
垢版 |
2013/03/26(火) 18:13:11.94
天皇は卑弥呼の官ではな〜い。
そうだというなら、垂仁の同時代に弥馬獲支という天皇が記紀のどこにいるのか、
オマエはそれを説明しなければならない。

しかしオマエは ?マークをつけて、これに説明出来ない。
記紀の垂仁の文に弥馬獲支がいたなどという垂仁の友人らしき者は存在しない。
おそらく臭魔伝にもらしき者はいないだろう。

伊支馬が垂仁なら、弥馬獲支も天皇でなければならないが、そんな者は記紀
にいな〜い。崇神の名にもあまり似てない。だから倭人伝の官伊支馬と官
弥馬獲支とは九州人と観てよく、九州行幸してない垂仁、崇神でもあるわけがない。
0114唐松山 ◆V0F34EbmQA
垢版 |
2013/03/26(火) 19:22:27.82
>魏が天皇を官と記載することに矛盾はあるさ。

その矛盾を指摘してご覧。
0115太国 ◆yVAs7uaYlY
垢版 |
2013/03/26(火) 22:06:12.63
じゃぁ、官と天皇を呼んだ文献を出してみろ。

倭人伝はもっぱら九州のことを記述したものであり、畿内の方面のことは、朝廷
の存在することは当然知ってたが殆ど遠方でどんな処かは大陸側は情報量が殆ど無いと同然である。

記紀には卑弥呼とか壱与とかの記載もまるで無い。それは外国文献の倭人伝の
借り物たる神功39年等の記事はあるが、これは純粋日本独自の書からの記事では
ない。つまり紀の原書には卑弥呼、壱与の情報がなく、このことは女王国が畿内に
存在せず、(北九州でない)九州に存在してたことを物語るのだ。

しかもその場所は畿内と交流の無い奥九州あたりだ。だからたまたま九州へ行った大陸人
からの偶然等のことから外界から隔絶した卑弥呼の国を奥九州で見つけたわけであり、
こういう地域と畿内朝廷との交流とか情報の行き来は殆ど0に等しい。

ということは、卑弥呼からみれば畿内朝廷の国のことなど殆ど知ってないわけでかつ
朝廷と卑弥呼の国との交流などあるわけがない。だから記紀に彼女に関しての原書からの
記事が無いわけなのだ。朝廷からも遥か遠い卑弥呼の国の存在だって知ってた可能性は
薄く、たとえ知っててもどんな女王なのかどんな政体なのか生活習慣はどうなのかと
いう内容だって知ってるわけがない。だから垂仁がその奥九州の女王国との交流などあるわけ
がなく、倭人伝は九州の卑弥呼の国に絞ってその政体、習慣等を書いたものであって、
畿内への関心の記事など書いてはいない。ということは垂仁は官の伊支馬であるわけ
がないんだよ。つまりオマエの論は交流のない奥九州の女王国とそこから遥か遠い遠い朝廷
との行き来をまるで新幹線の交通のように利便があるかのように行ったり来たりの
エイトマンのスピードのように連絡性をつけた論を平気で展開している。これは
ありえない無交流に反するデタラメなのだ。ww

つまり無交流同士の国だから、女王国の官たる伊支馬が無交流の九州行幸もして
ない垂仁天皇には絶対なりえない。つまりオマエの新幹線的論はデタラメだ。
0116太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/26(火) 22:17:50.85
高尾山野郎よ

オマエの畿内と九州という〜遠方同士のありないつきあいが、まるで新幹線、航空機等
のごとく行ったり来たりが平気で出来る論での展開話を毎回している。

まるで当時の古代が、オマエは現代の利便ある交通のある如き気分で論を形成している。ww

つまりオマエの論はインチキだということなのだ。

当時の畿内と九州とりわけ奥九州とは不便きわまりない地理の状況にある。
それを五百野姫が軽々と九州で軍隊付きで旅に出たとかのデタラメを平気で
論じている。なんでも畿内と九州女王国とを接着剤のように交流したかのようにして
論じている。ハハ・・・、これではエイトマン同然で、当時ではありえない不可能事ばかりだ。

崇神6年の農民渡海も同様のスピード着陸論だ。オマエの論はもはや一見して
エンタメ創作のデタラメだと分かる。ww


http://www.youtube.com/watch?v=yMcYMyYWQwk
0117日本@名無史さん
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2013/03/27(水) 07:35:10.89
天皇を邪馬台国につなげるよりも、邪馬台国と対立するほどの勢力を持つ国、狗奴国の男の王、卑弥弓呼とするのが適当ではないか。
あるいは記録にない他の国の可能性もある。
天皇の記録が大陸にあるはずだという先入観は持たないほうがいい。
0118唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/27(水) 19:35:38.30
>天皇を邪馬台国につなげるよりも、邪馬台国と対立するほどの勢力を持つ国、狗奴国の男の王、卑弥弓呼とするのが適当ではないか。

239年 邪馬台国官伊支馬。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
纏向遺跡:3世紀前半の大型建物
ホケノ山(225〜250年)埴輪=穴あきツボ
前半の建物跡に土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(代)をして中期の大型建物
九州に庄内式土器が持ち込まれる。
箸墓(円筒埴輪、260±10年)築造を以て緩やかな衰退期に入る(土器編年が布留に移る)



「邪馬台国官伊支馬」が纏向の3世紀前半の大型建物の主人であった場合、誰になるか?
「伊支馬」をイクメと読めば垂仁であり、景行が庄内式土器を九州に持ち込んだことになる。
つまり、書紀の記事通りに事は進んでいく。
0119太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/27(水) 21:55:06.73
「伊支馬」をイキマロと読んで垂仁でない。
0120日本@名無史さん
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2013/03/28(木) 01:41:49.08
>>118
魏志ではたくさんの人名が出てくるのに記紀と関係あるかもしれない人名は一つだけですか?
野見宿禰も田道間守もいないのならただの同名で無関係な人物とも考えられるし「イクメ」と読むかどうかさえあやしい。
そもそも「卑奴毋離」などが頻繁に現れることから人物名ではなく役職名の可能性も否定できない。

邪馬台国と狗奴国から二重支配を受けていた国や国同士の交流があったとすれば技術が伝わったとしてもおかしくない。
それなら纏向遺跡が狗奴国の都かもしれない訳だ。

邪馬台国か狗奴国かは今の情報では断定できない。
0121唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/28(木) 11:14:11.29
>「伊支馬」をイキマロと読んで垂仁でない。

馬をマロと呼ぶ例はない。

>魏志ではたくさんの人名が出てくるのに記紀と関係あるかもしれない人名は一つだけですか?

景行軍が九州で最初に挨拶をしたのは、神橿日媛である。
そして 神橿日媛は「我が属類」と言っている。
つまり 倭王から見た女王卑弥呼は「我が属類」なのである。
そして この連合軍が狗奴国に対処する戦争を遂行する。これは魏の要望であり、意思になる。
なぜならば 魏は倭国の全てを傘下として治めたいという意思を持っているからだ。その戦争中に 卑弥呼、男王と
相次いで死亡する。
そこで景行は、五百野姫(壱与)を軍隊付きで九州へ派遣する。
ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、伊都国に置いた如刺史
が(一大率を)監督する。諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、
0122唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/28(木) 11:28:56.83
気候と社会の共振現象 年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

新羅本紀の192年や後漢書の183年厳冬,193年の冷夏凶作。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。

西暦20年ころ 弥生中期後半〜末。唐子・鍵遺跡の環濠が洪水で埋まる。
西暦170年ころ 孝元9年 長雨、大水。
西暦193年 崇神5年 飢饉 (新羅192、3年)
西暦198年 崇神10年 異族多帰 考古学:198年(年輪年代)各地の土器が纏向に持ち込まれる。

考古学のいう年輪年代は間違っていない、その木目ごとに炭素C14を測り、比較校正グラフが作られる。したがって 炭素C14も狂いは小さい。
0123日本@名無史さん
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2013/03/28(木) 14:42:03.17
こういうの面白い
長い周期での大きな変動には対応しきれないわけですね
長い周期だとそれに合わせて農地を展開してしまうから
気候変動の影響は低地や北方や春夏の降水量が少ない「際」でより深刻なんだろうね
0124太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/28(木) 14:53:21.95
八男のインチキ・エイトマンよ

馬(マ)を・・メイリヒコと呼ぶ例はない。

官は天皇には絶対なれないのが神国日本の掟である。

つまりオマエの論はデタラメである。
0125太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/28(木) 18:32:20.82
そこで景行は、五百野姫(壱与でない)を軍隊付きで九州へ派遣してない。

西暦193年 崇神5年でない 飢饉 (新羅192、3年)
西暦198年 崇神10年でない 異族多帰 八男糞古学:198年(年輪年代)各地の土器が纏向に持ち込まれる。
0126唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/03/28(木) 19:33:27.73
広報「わかざくら」 平成22年3月掲載 今回は3世紀の建物ではなく、それと重なり合う200〜300年ほど新しい時代の遺構
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/index.html

4世紀に垂仁や景行を配しても、その王宮がない時代が4世紀であり、早くても雄略時代まで何もない
0127太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/28(木) 22:27:01.41
宿主はスリー・エースの如く、時と場合によって畿内説、九州説、
畿内兼九州説という三説をクルクル手をかえ品をかえ使い分ける野郎
なんだよ。

だから論説が違うからといって、奴は利害に応じて奴の知られたくない暦と
やらの内容を隠すために説をいくつか持ってて変えてることくらいは平気で
やる野郎なのだ。だから違うといっても、別人だとは限らない。

臭魔の爪痕

http://www.youtube.com/watch?v=AXCe26oL1BM

奴の秘密田舎暦っていうのは、奴からすれば黄金級なんだろうが、コチラ
からすれば猫に鰹節級のもので、それがしは猫自身がうまいと思っても
猫食などはコチラは食わないのさ。w
0128日本@名無史さん
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2013/03/29(金) 12:10:57.58
洋の東西を問わず、鉄を押えた者が王となる。

建国の神々(=倭王)スサノオ、大国主、アマテラスも例外ではありえない。

みんな土器や祭祀具(銅鐸・銅鏡)に目がくらんで古代史が見通せないのだ
金属器に注目しろ、金属器に!

縄文時代は新石器時代、弥生時代は青銅器時代、古墳時代は鉄器時代と考えれば、
金属器時代となった弥生時代・古墳時代の倭王も当然、青銅器・鉄器を押さえていたからこそ、
並み居る他豪族を出し抜いて(大)王になれたのだ。

【大王(天皇)=鉄】これを忘れるな!
0129日本@名無史さん
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2013/03/29(金) 12:26:18.11
>>128
倭国大乱ならぬ、20世紀の世界大乱(世界大戦)では、
前半(第一次)は鉄と石炭、後半(第二次)は鉄と石油を争ったわけだが、

いずれも良質な原材料(鉄鉱石)を求めて争ったこと以外に、それを溶かして鉄に鍛える良質な燃料としての石炭(火力弱)と石油(火力強)の争奪戦でもあった。
それは、ワットの蒸気機関の発明以来、全世界の石炭を押さえていたイギリスから、石油を押さえたアメリカに世界の覇権が移ったことでも判る。

出雲の国譲りとは、まさに青銅器を押さえていたスサノオ、大国主から、良質な鉄器を押さえたアマテラスへの国(覇権)譲りともいえそうだぬ。
0130愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
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2013/03/30(土) 11:27:02.71
日本書紀の編者たちは、倭の五王は天皇ではないと確信していたようだ。
神功皇后紀では確信が持てないまま魏志の引用だけを載せ、
「こっちの記録は無いが、神功=卑弥呼が魏に朝貢したのかも?」という記述をしている。
推古天皇紀では確信をもって、隋との対等外交を記述している。
高祖に笑われた600年の遣使や、煬帝を怒らせた「日出る処」の国書は載せていないが、
ともかく年代は合わせている。
ところが應神〜雄略紀では「呉」との交易記事はあるが、宋書の年代と全く合わない。
應神〜反正、安康紀では在位年代さえ合っていない。
「倭の五王」が天皇であると確信するなら、または天皇である可能性があると思うなら、
少なくとも年代は合わせたはずである。
残る可能性は、隋書や魏志を見ていた日本書紀編者が、宋書だけは見ていないことだが・・・
これは不自然と思われる。
0131太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/03/30(土) 14:21:50.99
五王は九州王朝王権の王である。
0132愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
垢版 |
2013/03/30(土) 15:49:48.31
舎人親王たちが今の学界の定説を知ったらひっくり返るのではないでしょうか。
彼らが見た原史料を我々が見られないのは残念ですが・・・
7世紀はともかく、5世紀段階では九州王朝を認めるべきでしょうね。
また考えてみたいと思います。
0133日本@名無史さん
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2013/03/31(日) 06:15:24.99
宋書と合う記事が一つあるよ。
雄略6年、462年呉国貢献
これは九州王朝の証明だね
0134サガミハラハラ
垢版 |
2013/03/31(日) 06:49:28.53
ここにいう呉国とは北朝の北魏のことです。
当時の雄略は、晋への朝貢をことわられたので、北の王朝にふりかえたのです。
ところで、雄略の呉国貢献(雄略六年夏四月、呉国が使いを遣わして貢物を奉った)がなぜ九州王朝の証明になるの?
0135日本@名無史さん
垢版 |
2013/03/31(日) 07:53:14.41
462年に倭に来たのは興を倭国王とする冊封使
ヤマトは雄略6年だから倭国から足をのばして貿易したのだろう。
0136日本@名無史さん
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2013/04/03(水) 12:46:16.38
ここにいう呉国とは北朝の北魏のことです。

妄想がひどすぎんよ〜(指摘)
0137愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
垢版 |
2013/04/06(土) 11:17:22.04
日本書紀の雄略天皇6年(462)に「呉国遣使貢献」とある。
462年は宋の世祖が「倭王世子興を安東将軍倭国王とせよ」と命じた年と一致する。
当然倭国に冊封使が送られたはずだが、世子興は安康でも雄略でもない。
倭国はヤマトとは別の国と考えられ、宋使は交易目的で足を伸ばしただけだろう。

464〜466年の遣使は倭国の使節団にヤマトが参加したものと見られるが、
ヤマトにお裾分けされた鵞鳥が筑紫で犬に食われたため、倭国との関係は悪化した。

468〜470年の遣使はヤマト初の独自外交と考えられる。その国書は恐らく
「天下を治める大王、書を日呉れる国の王に致す。つつがなきや」
宋の明帝は「蛮夷の書、無礼なる者有り」と言ったが、調査のため使者を派遣した。
この使者を接待した根使主は、昔の悪事発覚で激怒した雄略に殺されてしまった。

稲荷山鉄剣銘文、辛亥=471年の「治天下」ワカタケル大王は日本書紀とはよく合うが、
宋書の武王とは矛盾する。武王の即位は477年、早くても475年頃だろうし、
天下を治めると称したワカタケルが数年後に宋に臣従したとは考えにくい。
0138愛知県民 ◆/aQLbFNNDU
垢版 |
2013/04/06(土) 12:02:56.13
雄略紀には天皇と異なる「天王」という表記が2箇所に出てくる。
一つは雄略天皇5(461)年、百済の昆支王子(軍君)が大倭の「天王」に仕えた記事。
この「天王」は倭の興王と思われる。
もう一つは最後の23年に「天王」が昆支の次男・末多を百済に送って王とした記事で、
この「天王」は武王であろう。
21年、天皇が百済の[シ文]洲王に久麻那利(熊津)を与えて百済を再興した記事も、
この年に「使持節都督百済諸軍事」を自称した武王の業績として書かれたものと思われる。

23(479)年、筑紫の安致臣・馬飼臣が高麗(高句麗)を撃ったという記事も興味深い。
前年の上表文で武王が高句麗攻撃を準備していると言ったのは本当だと分かる。
安致臣は應神が「呉国」に派遣したという阿知使主と名前が同じ。
馬飼臣からは倭讃が宋に派遣した「司馬曹達」が連想される。
應神末年の「呉国」通交は倭讃の遣使に参加したものだろう。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/06(土) 17:47:16.86
>>137
日本書紀の編年は欽明天皇の時代まで性格ではないよ
だから一行目からいきなり不正確だね
不正確のまま自論を展開しても明後日の方向へいくばかりといういい例だね
まあこれは私見だけど雄略天皇のころなら数年程度の誤差ですむだろうけどさ
残念だったね!
0140日本@名無史さん
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2013/04/07(日) 06:39:43.33
治天下の後に朝貢という矛盾をどう考えるかだろうな
武と雄略別人はありうる
0141日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/07(日) 14:39:38.73
雄略の呉国は、倭王興の時代だよね。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2013/04/10(水) 15:20:53.14
治天下大王が朝貢するわけないw
0143日本@名無史さん
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2013/04/17(水) 19:07:57.64
つうか評価としては8世紀の文献で
天皇記や国記の内容もどこまで反映されてるかはわからない
8世紀の文献にある3世紀、4世紀の出来事を丸呑みしろというのは
世界の歴史学に照らしても無理
0144日本@名無史さん
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2013/04/19(金) 11:20:43.01
7世紀でも奇怪な記事はある。
小野妹子を唐に派遣した、とか。
0146唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/05/22(水) 17:46:48.44
仁徳天皇十三年(乙酉三二五) =19年目=325年 狭義の朔旦冬至。その検証。
西暦→和暦変換&日本史雑学カレンダー 
和暦 平成26 皇紀年 2674   (旧暦) 年月日2014 11 1 甲午年 丙子 丁卯朔 ←朔旦冬至
http://www.kuu-kikaku.jp/rekishi/rekishi-zatsugaku-calender.html
新暦2014年12月22日冬至=旧暦平成26年11月1日丁卯朔(朔旦冬至)から数える。

19年=1章=235ヶ月、1900年=100章=23500ヶ月
旧暦2014年 11月 1日丁卯朔から逆算する325年は 2014−325=1689年=88章(1672)+17年
20680月+210月=20890月、20890月×29.5306=616894.23日
1689年×365.2422=616894.07日
2014年丁卯朔から616894日前の干支は甲午である。この甲午朔(西晉は1日早い癸巳朔)は
314年 仁徳二年春三月辛未朔(西晉は1日早い庚午朔になる)でも1日遅い。
東晉明帝太寧3年:乙酉 西元325年1月31日(星期日)起 ・・11月癸巳朔より1日遅い(甲午)朔になる。
だから、仁徳天皇二年(甲戌三一四)春三月辛未朔(晉庚午朔)と同期するのである。(辛未朔は庚午朔より1日遅い)
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)←1日遅い朔である。

仁徳13年(325年)に狭義の朔旦冬至が設定されているからこの暦は動かない。
0147唐松山 ◆V0F34EbmQA
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2013/05/22(水) 19:15:29.49
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/8-2kannkyou.html
第八章 考古学から見る大和朝廷出現の時期 (2) 漢鏡の出土から見た大和朝廷出現時期

製作年代が紀元前後とされる4期の鏡は、現在までのところ奈良県には出土していない。
一世紀後半(後漢前期)の製作とされる5期以降、出土地は西日本一帯に拡大する。

http://www2.city.moriyama.shiga.jp/iseiseki/ise2.htm
 近畿地方の集落遺跡は、中期の巨大環濠集落が解体して、小さな集落に分散居住することが
特徴で、後期になって伊勢遺跡のように巨大化する集落は稀です。

弥生後期は一世紀半ばからであり、弥生後期の始まりとともに畿内は大きく変わる。
それは、ここに神武即位が存在するからである。

ホ30030 ヲシクモは カハチにゆきて ヲシホより カスガをまねき ヒラヲカの ヤシロまつりて カミとなる ツクシのタネコ
モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて おさめしむ ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを
つくりかえ コシネのクニも サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる

そして伊勢遺跡の衰退は、2世紀末(弥生後期後半)になる。後漢193年冷夏=崇神5年えやみ。
崇神6年民の離散と大物主の初子タタネコが崇神に使える。
崇神11年異俗多帰=2世紀末各地の土器が纏向に持ち込まれる。
0148太国 ◆yVAs7uaYlY
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2013/05/24(金) 09:22:32.73
七雄(唐松沢)は日食が数日間も続く計算ができると自慢している。ppp
0149日本@名無史さん
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2013/05/24(金) 19:58:02.23
日本書紀の信用度がダメなのは、書記成立の近々や直前の関係者が生存して既知の重要な事象事件すら曖昧模糊にごまかしや口をつぐんだりにしている事。
0150日本@名無史さん
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2013/05/26(日) 11:34:36.83
441 名前: 名無しさん@13周年 投稿日: 2013/05/26(日) 09:53:44.46 ID:OUZq8sB9O
  これが韓国人の窃盗の一番古い記録か?

『日本書紀』天智天皇紀には、668年(天智天皇7年)のこととして、
 「是歳。沙門道行盗草薙剣、逃向新羅。而中路風雨。荒迷而帰」
(この年、僧道行が草薙剣を盗んだ。新羅に向かって逃げたが、
その路の途中で風雨が荒れ、迷って帰ってきた)と記載されている。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2013/12/03(火) 16:44:36.48
色々異論が有るが古事記 日本書紀 続日本紀 は読んで面白い。
日本後記 続日本後記 も同様に面白いかな?

信用度と言っても他国の書物と照らし合わせ無ければ分から無い。
他国の書物の信用度が遙かに高いとは思え無い。
原始から文字を持たなかった日本文明の悲しさですね。
口伝で無く日本独特の文字が原始の頃から有ったらね・・・・。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/02(木) 08:21:48.25
とりあえず神武東征ってのがこれが西日本の記述でいってみりゃ受信波
崇神天皇の祟りから始まる三重奏でそんで応神天皇にバトンタッチで送波ってのはわかった

女禍→伏羲→神農からの加工っぽいなこれ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/02(木) 08:24:16.21
どうみても古代中国が関わってるわこれ

むしろ日本国内はニニギだのアマテラスだのあっちの方が実際にあったことだろ
0154日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/02(木) 08:30:57.83
ただ〜し、神世の方が古いとは限らない
0155日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/02(木) 09:16:10.35
んである意味、西日本だのなんだのは魔法の鏡の役割りみたいのも果たしてんねこれ(u_u)
0156日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/02(木) 12:01:21.35
崇神天皇〜垂仁天皇の頃に疫病が大流行し、更には流離、離反するものがあまたあり人口は激減した云々、各地に天神地祇を斎祀った

29代欽明天皇〜30代敏達天皇(新羅使節来朝の段で何故か第20代とシラッ(ついウッカリ?)と記述)、用明天皇の頃は
シャレにならない頻度(数年〜毎年。外国使節(中国、半島諸国)が来朝の度毎に大流行していますな)で全国に疫病(天然痘)が大流行 。
欽明〜敏達天皇期は沢山の神社が創建されています。

天候不順で疲弊した際は全国に賀茂別雷神を分祠(神社伝承等)。
敏達天皇(治世は14年)と用明天皇(治世は僅かに
2年弱)は 共に天然痘により崩御。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/05(日) 09:19:41.10
なんで外国使節がくるたび天然痘が発生するんだよ
0158日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/05(日) 10:51:03.48
嘘を書いていた当時には
それが嘘である事を知っている者が大勢いたから
嘘を書くにも工夫をしなければならなかったので
その工夫の解析に成功すれば書かれていた者の史実と書いていた者の史実との両方を知る事が可能になる場合もある
0159日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/05(日) 10:57:49.42
聖徳太子前後の話は過去の逸話を再加工して使ってるから
似かよってるんだろう。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/09(木) 10:37:09.72
>>1
例え大本営発表でも、成功した会社の社史でも
日本書紀と古事記抜きで、あの時代の研究なんて出来るのか?
0161日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/09(木) 19:56:17.29
聖徳太子と推古天皇は弟王と卑弥呼像をなぞらえてるのだろう。
0162日本@名無史さん
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2014/01/11(土) 07:57:46.06
>>157
大陸の病原菌に対して当時の日本人に抵抗力が無かったからだろう

アメリカンインディアンが西洋人の持ちこんだ病気によって人口を激減させたのと同じ構図かと思われる
0163日本@名無史さん
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2014/01/11(土) 10:06:27.41
>>162
流行したのは、外国から持ち込まれたってのはそうだと思うけどさ。
アメリカ・インディアンとは違うだろ。あっちは万年の単位で隔絶していて
まったく免疫がなかった。
日本は常に大陸と交流があったと思われる。米の伝来、水稲稲作の伝来、
弥生時代の鉄の取得等々。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/11(土) 11:31:32.56
あのさあ病原菌で人口減とかいってるけど
そんなのは一時的な現象
数十年で人口は復活する
これは世界中どこでも同じ
新大陸は病原菌で減った事にしなければならないのだよ
0165日本@名無史さん
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2014/01/12(日) 07:17:52.98
病気「だけ」で人口が減ったとしても、その地域で利用できる資源や土地は変わらないのだから
すぐにそれに応じた人口まで回復するだろう

大量の移民と同時に病気で人口が減ってしまえばそうはいかない
資源や土地を奪われたら、その目減りした分までしか人口が回復しないだろうね
0166日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/12(日) 10:32:42.64
大量の移民が来るのは病原菌は入ってから百年以上も後だけど・・・
0167日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 09:07:30.34
北米と中南米は事情が違うようだね。
南米はスペインの侵入後の様子がそれなりに知られている。

北米は、スペイン人が南米に侵入してからかなりの時間が経ってから、
平原地帯を探検した白人が、大量の無人の集落跡を見たと言われている。
白人の移民の前の話だ。
病原菌が北米に広まり、多くの民族を絶滅させたんじゃないかと言われている。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/13(月) 09:38:39.25
北米が南米からずっと遅れたアワワワワ状態だったのは、そういうことなのか。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/13(月) 10:07:16.97
バリバリの捏造文書だが
当時にも歴史を知っている者は居たから非難を恐れてあれこれ言われない様な捻り方をしているのでその辺りから
一定度真史を窺い知る事は可能な史料であるとの説明を受けた事はある
0170日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/13(月) 10:51:30.51
遅れたというか、最初から遅れてるんだよなあ。
今の合衆国版図から北の、今のアングロアメリカ領域は、とうもろこしが伝播した後も、
日本史で言う古墳時代前期くらいのレベルで、社会の変化が止まってしまう。
権力の集中がそれ以上進まず、豪族が墳墓を作ってるレベルで足踏みする。

>>169
日付以外は、かなりの信憑性があると思うけどねえ。
あの「唐帝国の暦法に対して完璧で、全く書き間違いも破綻も無いww」干支日付は、
完璧であるがゆえに、何もかもが、後付け日記であることは明らかなのだが、
日付の捏造と、それ以外の信頼性は、分けて考えるべきだと思う。

逆に、あの日付に、何か真実があると執着するアマチュア好事家も、みんなアホに見える。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/13(月) 11:34:56.33
>>170
インディアンの文明
http://ja.wikipedia.org/wiki/チャコ文化国立歴史公園
>この時期前後に広義のプエブロ人の先祖であるアナサジの社会では人口の増加と建設活動が
>盛んになった。10世紀を通じてチャコ・キャニオンの建築技術は、周辺地域に徐々に伝播し
>ていった。1115年までにチャコ・キャニオンの建築的特徴をもった集落がサン・ファン盆地に
>65,000km²にわたって少なくとも70ヶ所つくられた。研究者の中にはそういった集落に
>みられる建物の機能について本来のグレート・ハウスといっていいくらい大きなものがあることを議論している。

こっちはアフリカ、決して暗黒大陸ではない
http://ja.wikipedia.org/wiki/トンブクトゥ
>16世紀の旅行家・地理学者であるレオ・アフリカヌスが、1512年に繁栄の絶頂にあった
>ソンガイ帝国を訪れて次のような記述を残している。
>「トンブト(ママ)の富める王は、金で出来た杯や笏を数多く持ち、その重量は1,300ポンドにも
>なる(中略)また常時3,000人の騎手を揃え、(中略)さらに多くの医者や裁判官、司祭、学者がおり、
>彼らは王の財によって手厚く養われている。」
0172日本@名無史さん
垢版 |
2014/01/13(月) 12:14:58.31
書記の年代はべつとして、古事記の記事から見れば、そんなにでっち上げとも
思えないな。
雄略以降はだいたい合ってるという感じだし。
それ以前も、8世代前の崇神は3世紀末〜4世紀初期。
神功皇后の記事は、好太王碑の碑文と矛盾はない。
4世紀後半の人だろう。

記紀は卑弥呼が誰かわからない事を隠していない。
崇神以前のことは、欠史八代というが、系譜は書いている。
系譜は、遺跡と矛盾がない。弥生末期〜古墳時代初期に遺跡が豊富な
地域を地盤にする氏族との婚姻関係が見られる。
記紀を作る際、発掘してからでっち上げたなんて、それこそありえんから
伝承を素直に伝えているといえる。
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