奴国は何処に存在したと推測しますか?
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唐津を出立した古代天文学、暦に長けた中国からの訪問団は
次の旅程記録を残していますね。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。
ここに記述された伊都国及び奴国は何処に在ったとするのか
皆さんのご意見を頂きたい。 http://www.geocities.jp/fsrfb814/isekibunpuzu.JPG
いづれ
唐津なども含む広範囲な弥生時代遺跡分布図をアップするつもりだが
とりあえず佐賀市とその周辺だけ。
唐津(末盧国四千戸)の遺跡は点在しているが
見て判るように佐賀市北部の遺跡はびっしりと密集している。
そこには、単なる貝塚にすぎないが東名遺跡がある。
しかし問題なのはそれが西日本最大級の貝塚遺跡なのである。
つまり、何を言いたいのかと言えば
そこには
西日本最大級の貝塚遺跡を形成するほどの大人口密集地帯があったことになるのである。
弥生時代遺跡分布図もそれを裏付けている。
東南陸行五百里到伊都國
東南至奴國百里
から
其餘旁國遠絶不可得詳の奴国ではなく
伊都国と不弥国の間で投馬国と邪馬台国の北にあり
人口二万戸と詳しく判っている奴国の
魏の勅使が到着した場所は
方角距離人口から
東名遺跡から2〜3q以内にあったと推定している。 対馬国+一支国(4千戸)=末盧国(唐津4千戸)の
弥生時代遺跡は点在しており、
その5倍(2万戸)の奴国はは遺跡の数から推定すれば
佐賀大和〜吉野ヶ里程度になる。
奴国で魏の勅使が到着したのは東名遺跡付近だったと推定しているが
だとすれば
奴国の東百里(5〜10q)にある不弥国は吉野ヶ里遺跡になり
奴国の北西百里にある伊都国は佐賀大和の都渡城になる。
違っていても
それぞれの場所から数q以内の場所にあっただろう。
伊都国を都渡城だと推定した理由は
@風土記によれば佐賀大和は有明海の干満の影響を受けたそうだから港が存在できる。
A嘉瀬川の川上付近は川幅が異常に広く人工的に造った港があったような形をしている。
http://flood.firetree.net/?ll=33.3223,130.2694&zoom=15
B東名遺跡付近から北西5〜10qという条件に合う。
C都渡城と言う名前が邪馬台国と諸外国を結ぶ窓口であった可能性がある。 伊都国には港があった。
不弥国にも港があった。
恐らく
奴国にも港があっただろう。
ところが
投馬国、邪馬台国はこれらの船で行く南にあったのである。
ならば
魏の勅使はわざわざ奴国、不弥国へ行かずに
伊都国から南水行できたのである。
なのに奴国、不弥国へ行き不弥国から南水行している。
一体何故なのだろう?
実はこの記述や水行二十日水行十日陸行一月が
倭人伝の謎を解く大きな手がかりになるのだが
それについてはいずれ述べることになる。
しかし間違いないことは
魏の勅使は
佐賀大和付近⇒東名遺跡付近⇒吉野ヶ里付近へと進み
不弥国(吉野ヶ里付近)から投馬国へ向かって南水行したのである。 不弥国(吉野ヶ里)のすぐ南の筑紫平野中央部は遺跡がほとんどない。
津(港)とか島の付く名前の場所に点在しているだけである。
吉野ヶ里の東西に港があったことや、
吉野ヶ里の港のあった場所、吉野ヶ里の南の地域が
吉野ヶ里から見下ろす形になっていることからも
吉野ヶ里は海に突き出た半島だったと考えている。
ここから南へ水行すれば到着するのは筑後平野である。
陳寿はわざわざ【其餘旁國遠絶不可得詳】と記載している。
これは、略載以外の国へは一国たりとも行っていない事を意味している。
そして、不弥国の次に記載(略載)しているのは【南至投馬国】である。
これにより投馬国は吉野ヶ里から南へ進んで
最初にあった国であるから筑後平野にあったことになる。
陳寿は投馬国の人口を【可五萬餘戸(五万余戸ばかり)】と記している。
ここで問題になるのは五万余戸の意味する人数である。
ある者は1戸5人、1戸10人、或いは1戸20人以上だと言う。
いずれにしても大人口である。
そして、必然的に奴国、投馬国、邪馬台国は巨大な地域を
支配していたことになってしまうのである。
しかし、ちょっと待ってほしい。
(対馬国+一大国)=末盧国=四千戸なのである。
二万戸、五万戸、七万戸というのは
その5倍、12倍余り、18倍弱にすぎない。
遺跡が点在している(対馬国+一大国)=末盧国が四千戸なのであるから
遺跡が隙間なくぎっしりと密集している
筑紫平野(佐賀平野、筑後平野)ならば妥当な人口だろう。 不弥国=吉野ヶ里の南に当たる部分の筑後平野には
八女市、八女郡、三潴郡、筑後市、大川市、柳川市がある。
ところがこの地域のほとんどはその昔、妻(下妻郡、上妻郡)と呼ばれていたのだ。
四世紀に八女津姫にちなんで八女と名付けられたが、
その後下妻郡、上妻郡となり
現在では八女、筑後、三潴などになっている。
今は下妻小学校、上妻小学校、下妻地区、上妻地区などと
狭い地域の名前として妻の名前が残っているだけである。
しかし、不弥国=吉野ヶ里から南へ進んで最初の国のあった場所で、
(対馬国+一大国)=末盧国=四千戸の12倍以上の遺跡があったと思われるのが
八女市、八女郡、三潴郡、筑後市、大川市、柳川市である。
しかも、そこには投馬国を示唆する妻の名前が残っているのである。
宮崎とか鹿児島に邪馬台国を比定する人もいるが、
【周旋可五千餘里】とか【其南有狗奴国】と齟齬をきたすだけではない。
弥生時代に人口最大密集地の有明海沿岸(筑後平野〜熊本平野)の国々を
通過しておきながら
陳寿は【其餘旁國遠絶不可得詳】と嘘を記載したことになるのである。
残念だが
機内説同様、鹿児島説、宮崎説の可能性は皆無だろう。 水行二十日水行十日陸行一月は
行程記事だけから判断すれば
所用日数の場合もあれば所用日数ではない場合もある。
ほとんどの人が所用日数であると考えているが、
思い込み以外に根拠がある訳ではない。
行程記事だけからは所用日数であるか否かは判断が難しいが
倭人伝の記述からは判断できるのだ。
陳寿は
水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではないと
何度も断っているのである。
但し、「所要日数ではありません。」と補足説明してあるのではない。
30国の問題も
狗奴国との戦いの結末も
投馬国、邪馬台国までの距離の記載がないことも
卑弥呼を優遇した理由も
一切補足説明はしていない。
日本人なら当然補足説明すべき事柄についても、
倭人伝で陳寿は何一つ補足説明をしていないのである。
もしも、
陳寿が全てに補足説明をしていたならば
邪馬台国論争がここまで混乱することはなかっただろう。
それでは何も理解できず、何も解らないのだろうか?
もちろん、そんなことがあろうはずもない。
陳寿は
補足説明をするのではなく、補足説明をしなくても解るような
事実を記載しているのである。 日本では
「美しい」とか「愛している」と表現するのはあまり良くない、と言う人がいる。
事実を記載する事によって美しい、とか愛している事が解るような
文章が優れているのだそうだ。
私にそのような技法を使いこなし、優れた文を書く事などできようはずもないが、
例えば
「その人と初めて会ったとき、その人の周りは輝いているように見えた。
長い髪が風に揺れて、彼女が私を見て微笑んだとき、私の心臓は激しく
波打ち、動悸の音が他の人に聞こえないだろうかと心配するほどだった。
彼女とはずっと昔からの親しい知り合いだったような感覚に襲われ、離れたくないと思った。」
どのような文章を書くのが優れているのか、人によって
また、国や時代によって違うのである。
陳寿の時代は
不必要な文は極限まで削除して、簡潔、正確、明瞭に書くのが
優れていると考えられていたそうである。
だからその結果、
くどくどと補足説明をした文は駄文で、
事実だけを記載して補足説明をしなくても解る文章が優れていたのである。
しかし、
事実だけを記載して、その意味する事を読み取れ、と言うからには
極めて正確な文章を書く必要がある。
意味のない文、でたらめな文、間違いの文が含まれていたら
その意味する事を読み取る事は絶対に不可能だからである。
では、
水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではないと言うことは
どうして解るのだろうか。 実は
『水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではないと言うことは
どうして解るのだろうか。』
と言うよりも
倭人伝には
『水行二十日水行十日陸行一月が所要日数である』ことを裏付ける記述は皆無で
『水行二十日水行十日陸行一月が所要日数ではない』と言うことしか記載してないのである。
第一には
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
(倭地の様子を見聞きしたところによれば、海中の島に孤立して、離れ或いは連なりながら一周すれば五千余里になる。)
とあることである。
狗邪韓国〜末盧国230q程度が三千里なのに
周旋可五千餘里しかない国の中を進むのに
次の国へ進むのに
水行二十日や水行十日陸行一月もの所要日数は不自然と言うより
あり得ない話である。 次も距離の話になるが
帯方郡から女王国(邪馬台国)までは一万二千余里で
不弥国までが七千里+三千里+五百里+百里+百里=一万七百里だから
邪馬台国までは残り千三百里しかないのである。
狗邪韓国〜末盧国230q程度が三千里の四割強(100q足らず)しかない距離を進むのに
水行二十日水行十日陸行一月だろうが
水行十日陸行一月だろうが
所要日数と考えるのは不自然である。
何か他の目的があった日数と考えるしかないのである。
そして
次に示す記載が水行二十日水行十日陸行一月が所要日数
ではないと言う決定的な証拠となる。 陳寿の時代は
不必要な文は極限まで削除して、簡潔、正確、明瞭に書くのが
優れていると考えられていたそうである。
だからその結果、
くどくどと補足説明をした文は駄文で、
事実だけを記載して補足説明をしなくても解る文章が優れていたのである。
つまり、
魏志倭人伝は読み解くのに不必要な意味のない文はなく、
記載してあるのは事実ということになるのだ。
事実として、倭人伝には補足説明などは一つもない。
記載された事実だけから、
邪馬台国の場所、魏の皇帝が大量の賜物を与えたり、
勅使を派遣までして卑弥呼を優遇した理由など全てを読み取れと、
陳寿は言っているのである。
事実だけを記載して、その意味する事を読み取れ、と言うからには
極めて正確な文章を書く必要がある。
つまり倭人伝に記載してある事柄には無駄な文は無く、
全て正確な事実と考えなければ何一つ解らないのである。
現在
倭人伝の謎が何一つ解けてないのは、倭人伝が曖昧で、
間違いだらけの文章だと考えられているからなのである。 それでは倭人伝を正しく、正確に読むためにはどのように読むべきなのだろうか。
第一には、
【東南陸行五百里到伊都國】と記載があるのに、
末盧国(唐津付近)の東南ではなく北東にある糸島を伊都国に比定したのが間違いである。
これにより、
方角が違う、距離があわない、伊都国の人口が間違っている、
船で直行できるのに、道のない悪路を五百里も歩くような場所に上陸する、
【南至投馬國水行二十日】とあるのに水行の出発点の不弥国の南は山であるから
南水行ができない、などと言うように
倭人伝は完全に信用のおけない出鱈目な文になってしまうのである。
しかし、本当は
出鱈目なのは倭人伝ではなく私達読者だったのである。
これでは、邪馬台国の場所すら解る訳がなかろう。
そして、これにより、
倭人伝の謎を解く手がかりは完全に消滅してしまったのである。 ところで、
邪馬台国の場所はどうやって知ることができるのだろうか?
ある人は末盧国から二千里という距離で推定する。
またある人は水行二十日水行十日陸行一月という日数で推定する。
しかし、これらは邪馬台国へ到着するまでに進んだ距離と日数を記載したに過ぎない。
両方とも間違いのない事実に違いないのだろうが、
不思議なことにこれにより邪馬台国の場所を特定することは絶対にできない。
これは、両方とも邪馬台国の場所を特定するための情報ではなく、
倭人伝の謎を解くための情報なのだからである。
どこにも比定できないような情報、
言い換えれば、どこにでも比定できるような情報が、位置情報である訳が無い。
どちらの情報を選択したとしても、邪馬台国の場所は特定できず、
無理な解釈、珍解釈を創作するしかないではないか。
しかも、無理な解釈、珍解釈を無理に採用したとしても邪馬台国の場所は特定できない。
邪馬台国の場所を特定するための情報でないものを、
邪馬台国の場所を特定するための情報として扱っているからなのである。
邪馬台国の場所を決して特定できないという事実が、これらが
邪馬台国の場所を特定するための情報ではないという証拠である。
それでは、邪馬台国の場所を特定する情報とは一体何なのだろうか?
本当にそんなものが、倭人伝に記載されているのだろうか? わしの心の中では、奴国は、ずっと那の津と言われた博多 末盧国は本拠地は松浦だが、当時九州北岸を支配していた。
魏使は壱岐から松浦半島に寄ったが、そこからさらに東へ海岸沿いに博多沿岸まで進んだ。
これが壱岐国〜末盧国まで千里の理由。
伊都国は博多沿岸から内陸部へ五百里進んだところにあるが、ここは昔の倭奴国の王都であったが、
邪馬台国が一大率を置いて直轄領とした。すなわち広大な奴国の中(あるいは一角)にある。
奴国は東南に百里行ったところにあるとされるが、これは当時の奴国の中心地のことを指していて、
倭奴国の元王族が伊都国から移り住んだ場所である。
東に百里行ったところにある不弥国も元は奴国の一部。
ちなみにここまでの国の副官の名は、伊都国を除いて卑奴母離で共通している。 魏志倭人伝で大国とみられる国は奴国、投馬国、邪馬台国、狗奴国の四つ。
一方、古事記では九州を筑紫国(白日別)、豊国(豊日別)、肥国(建日向日豊久士比泥別)、熊曾国(建日別)の四つに分けていて、
それぞれ、
筑紫国(白日別)=奴国
豊国(豊日別)=投馬国
肥国(建日向日豊久士比泥別)=邪馬台国
熊曾国(建日別)=狗奴国
に対応する。 奴国。
ナカ/ナガの国。
那賀、那加、長、中(中つ国)、永、なが
級長津彦命(風神)に長が付くのが意味深?
(土佐一宮の土佐神社(味鋤高彦根命/賀茂の大御神)は地元ではシナネ様と呼ばれ親しまれている)
ナカ(ナガ)の国と言われたのが現在の徳島県南部地域。
紀伊水道の船舶の動向を掌握し、日(朝日)に向かう地勢。
橘湾、小戸の阿波岐原、
北部地域がアワの国。
那賀須泥毘古/長髄彦(倭大己貴命)のナガ(ナカ)であり支配地域だった?。
那珂郡、那賀川。海部郡とか長尾姓。 >>54
>2万戸が想定出来る国だという事を忘れるなよ。
>当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな。
計算もできない低能が一人前の顔して寝言言ってんじゃねーよ www
俺が教えてやるよ。
吉野ヶ里は、面積が約50ヘクタールで推定人口は5400人だ。
邪馬台国は7万戸。1戸当たりの人口が問題になるが、5人説が多いので
そうだとすると35万人だ。ということは、単純計算では65倍の人口だ。
面積については、居住区域=集落の面積のほかに集落間の「緩衝地帯=非居住
区域」の存在が必要となるので、これを合わせて10倍の面積が必要だと仮定しよう。
すると、50ヘクタール×65×10=32500ヘクタール となる。
これを平方キロメートルに換算すると、325平方キロメートルになる。
ちなみに福岡市の面積は341平方キロメートルだ。福岡県の面積は4979
平方キロメートルだ。
計算もしないアホがバカ言ってんじゃねーよ wwwwwwwwww
おっと、邪馬台国じゃなかったな。奴国だったか。7分の2でいいわけだから、
325×2÷7=92.8平方キロだ。大牟田市より少し大きい程度の国だぜ。 >当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな。
これが畿内説のレベルだな www 言っておくけど、精密に思われている天文学だって、星の数なんかこういう概算で
やっているんだぜ。理系に言わせれば、こういう計算は十分ありなんだよw
文系の石頭にはわからないだろうが。 本当に文系、特に歴史系のヤツは使えない人間ばかりだな。」 >2万戸が想定出来る国だという事を忘れるなよ。
>当時の住居適地では北部九州全部を含んでも足りない広さが必要だからな
この計算が成り立つための条件とは、次のとおり。
奴国の人口は、2万戸×5人=10万人
北九州を福岡県及び佐賀県とすると、その面積は7485平方キロメートル
吉野ヶ里の面積は50ヘクタール=0.5平方キロメートル、人口は5400人
したがって奴国の人口は吉野ヶ里の18.5倍。
「緩衝地帯=非居住区域」の面積が居住区域に対してどれほど必要なのかが問題
となる。
0.5×18.5×k=7485 → k=809
つまり、このド阿呆の主張が成り立つためには、「緩衝地帯=非居住区域の」の
面積は居住区域の800倍の面積が必要だということ。
石器時代じゃねーんだよ wwwwww 結局このド阿呆は、邪馬台国の時代は稲作じゃなくて縄文時代の狩猟採集を
やっていたということなんだろw それならこれくらい低い人口密度じゃないと
生きていけないよね。 その狩猟採集をやっていた原始的な国=邪馬台国が中国から金印を授けられていたと。
北九州では収まらないくらい広い国がねーw >>90
>面積については、居住区域=集落の面積のほかに集落間の「緩衝地帯=非居住
>区域」の存在が必要となるので、これを合わせて10倍の面積が必要だと仮定しよう。
この時代は10倍じゃ済まない。70倍くらいだろう。
壱岐で計算すると200倍になる。これは離島だからどうしても人口密度が低くなる
ので、九州本土ならその3倍の密度で70くらいだろう。それだと奴国は福岡県の面積の
45%、約半分になるぞ。 奴国→不彌国は百里だが、1里=80メートルで計算すると8キロしかない。
>>98 の意見では奴国の面積は650平方キロメートルと計算されるが、奴国の
形が正方形と仮定すると、25キロ四方となって、8キロという計算に合わない。
1里=70〜90メートルはほぼ確定しているので、>>98 の「この時代は10倍
じゃ済まない。70倍くらい」という仮定は怪しいね。 国の面積をどうこう言ってもあまり意味はない。どこの国にも属さない場所があったのだろうし。
ある国に千戸の民がいたとして、その外側にはどこの国にも属さない民もいたかもしれないね。
だから、俺は倭人伝に出てくる国というのは集落の集合体で、その集落間の距離はさほど離れて
いなかった、だから >>90 の言う「非居住区域」は集落の10倍くらいがけっこう妥当じゃないか
と思う。後は、どの国にも属さない土地がどれだけあったのかということ。 別にお前らが主張したからってお前らの願いが叶うわけじゃないぜ 倭人伝には一夫多妻制であることが記述されている。階級が上の者だけでなく、
階級が下と思われる「下戸」でもそうだったと。すると、妻を持てない男はどう
暮らしていたのか、という疑問が生じる。使用人に甘んじていた者が多かった
のだろうが、性格の激しい者は犯罪者集団を作っただろうし、世捨て人的な一匹狼
もいただろうし、自滅した者もいただろう。こういうアウトサイダーたちがおそらく
国=集落の外にいたのだろう。だから、この時代は迂闊に知らない場所=国の外側
に一人で入ることはかなり危険なはずだった。今のように国と国が論説してその境が
はっきりしているというイメージは間違いだろう。 だからこの時代陸路を1日に20キロ進んだはず、などというのは笑止千万なんだよ。
国の中は普通の速度で進んでも、国の外に出ればアブナイわけだから必要以上の大集団
で行かざるを得ない。そして道も案内人なしには進めない。馴れた者が行く速度の3倍
近くはかかったんじゃないだろうか。だから1日に7キロ程度というのが妥当だと思う。
とすると、博多から奈良の700キロ近い陸路は100日かかるわけで、奈良に邪馬台国
があって博多の港を使用していたなどというのは噴飯物なんだよw もちろんこの時代は
馬なんかなかった。 >博多から奈良の700キロ近い陸路は100日かかるわけで
その700キロというのは直線距離だろ。実際は直線では進めないからその
30%増しで900キロ。130日かかったと考えるべき。往復すると260日だ。 戸二万の奴国は、佐賀県肥前山口です。
唐津に上陸したら、表記通り東南に進みます。500里ですから三十数キロです。そこが伊都国です。
そこは佐賀県多久市南多久庄集落です。
そこから表記は東南奴国に至る百里とあります。ところが、この文には行とかの動詞がありません。
ですから、行く必要はありません。二万戸もある大国なのでのせただけですが、邪馬台国への行路上にはないのです。
よって、伊都国から東行百里で不彌国に到着となります。 >そこから表記は東南奴国に至る百里とあります。
その通りだ。東南へ行けば奴国へ到るよと、文字どおり方角を示しただけだな、、、 てことは邪馬台国にも行っていないわけだな
魏の使者の最終目的地は不弥国だったのか たしかに、行程ルートの説明は不弥国で終わっているということだ。
ただ、だからと言って魏の人間は、
誰一人として邪馬台国女王之所都に行かなかったのかと言うことではない。
下記の通り、
魏の一人は卑弥呼、もう一人は台与に目通りしたと書かれている。」
・正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、
・其八年、、、遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之、、、政等以檄告諭壹與。 >>109
・行とかの動詞がないところには行ってない
・邪馬台国にも動詞がないけど、ここには特別に行ってる
ていうのと
・動詞があってもなくても行ってる
ていうのと、どっちが無理がないだろうね? これは伊作がたびたび論じていたことであるが、
「自郡至女王国万二千余里」で中締めさられた行程記事は、
卑弥呼がまだ邪馬台国の女王にすぎなかった時代のことを記述したものである。
つまりこの時代には、
到、至の後ろに動詞を付けないことで、魏の人間は誰ひとりとして邪馬台国へ到達していなかったことを示しているわけである。
しかし、景初二年、、、十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑弥呼、、、帯方太守劉夏遣使送汝大夫難、、、今以汝為親魏倭王、假金印紫綬」
「正始元年、太守弓遵遣た中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王」
この二つ記事は、卑弥呼が倭王に任じられたとき、及び任じられてからの記事となっている。
行程説明の記事とは明らかに時代設定が異なっている。
ゆえに、動詞のあるなしは、ここではもう関係無くなっているわけである。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 倭人伝行路記事は二種にわけられます。始めの部分は里数で表記されています。ところが不彌国
からは日数にかわっています。
つまり、日数表記からは別の資料からかかれたものなのです。
そうなった事情は、邪馬台国の遷都によるものなのです。 邪馬台国の吉野ヶ里から小城甘木への遷都は242年です。
倭人伝の243年の貢献はその報告です。(国号のヤマイ国からヤマタイ国への変更も)
遷都の前は、里数でかかれていたが、遷都後は里数で計測しなかったので、倭人の計測法である日数表記で記述されているのである。
つまり、里数は前漢の時代に測ったものなのである。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
IFP3E とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
O23 ようは、早い段階で漢字が入ってきた地域は
独自に自国語での読みを決められるわけだ 奴国は吉野ケ里と博多に在ったというか、
お家騒動で2か国に分裂していたんだよ。
一方は邪馬台国に、もう一方は出雲国についた。
漢倭奴国王印の200年後の時代だ。時代は変わる。 難しく考える必要はない。単純に考えればよい。
倭人伝の行程とおり進めば、伊都國と奴國に到着する。
末蘆國上陸地点(唐津中原)から東南方向に陸行500里(40km)行けば
伊都國城柵(佐賀大和町惣座肥前国庁跡付近)に到着。
伊都國城柵(佐賀大和町惣座肥前国庁跡付近)の東南100里(8km)に
奴國城柵(佐賀城跡)がある。
ちなみに、伊都國城柵(佐賀大和町惣座肥前国庁跡付近)から
東方向に100里(8km)行くと不彌國城柵に着く。 >>125
>不弥国の現在の地名は?
不弥国は
築城五反田遺跡、上別府沖代遺跡、安武・深田遺跡、安武・土井の内遺跡、赤幡森ヶ坪遺跡
などがある「築上町辺り」だね。 @阿波 _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ | []_]∧∧
| | |/ 支\
| ( `ハ´) < 餌の時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
 ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄
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ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
|. ∧_,,∧ .人. |
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待ちわびたニダ♪ 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る
そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない
しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、
また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い >>1
奴隷の国か・・それだったら朝鮮しかないぞwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています