新田と足利4
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都合のいい解釈や伝承、寺伝の話はご遠慮下さい
都合のいい解釈や伝承の例
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい
・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移した
寺伝の例
・偽書で有名な滝山寺縁起
過去ログ
新田と足利3
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284627067/ 足利義兼(2代目足利氏当主)の年表
【1153年】父:源義康(初代足利氏)、母(源頼朝の母と姉妹):藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の娘(実父は藤原季範の長男:藤原範忠)の間に生まれる(出生地は京都もしくは三河)
【1155年】母方の祖父(血縁上は曾祖父):藤原季範死去、父方の祖父:源義国死去
【1157年】父:源義康死去
【1159年】母の姉:由良御前(源頼朝の母)死去
【1160年】源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
【1160〜1162年頃】母親(頼朝の母と姉妹)の三河国額田郡乙見内の所領(父親からの化粧料)に、異母兄弟2人(源義清、源義長)と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
【1161年】藤原範忠(実の祖父)周防国に配流
【1167〜1168年頃】八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮祭典の大宮司代理に補された)
・異母兄の源義清(細川氏・山名氏の祖、室に新田義重の娘)は、三河国幡豆郡矢田(皇嘉門院(崇徳天皇中宮)領)に拠を構え、矢田義清(矢田判官代)と称する
【1174年】三河国碧海郡碧海庄で長男、源義純(源姓畠山氏の祖、新田義重が養育)が生まれる(その所縁か、室町時代に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
【1176年】三河国碧海郡碧海庄で次男 源義助(桃井氏の祖)が生まれる
【1180年】以仁王挙兵、源義清(矢田義清)、源義長、源義兼は三河国から参戦、義清と義長は源頼政(頼政死後は木曽義仲)と、義兼は源頼朝と行動を共にする
【1181年】北条時政の娘を正室に迎える
【1183年】異母兄2人源義清(矢田義清)と源義長は、水島の戦いで戦死
【1184年】源範頼(後に三河守)軍の一員として九州平定
【1185年】上総介に推挙される
【1189年】源頼朝軍の一員として奥州合戦に従軍、嫡男足利義氏(後に足利氏として初めて三河守護)が産まれる
【1195年】東大寺で出家
【1195年頃】三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺を建立(義純、義助の母である白拍子を菩提)、三河国額田郡乙見の真福寺に法華堂を建立(母親を菩提)
【1199年】死去 源範頼(源頼朝の異母弟、蒲冠者、参州、三河守)の年表
【1150年】父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
・藤姓大宮司一族(由良御前(源頼朝の母)か?)が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎
【1155年】藤原季範(初代熱田大宮司)死去
【1157年】由良御前(源頼朝の母)死去
【1159年】父:源義朝暗殺、異母兄:源頼朝は伊豆に配流
【1161年】藤原範忠(藤原季範の長男、由良御前の兄)周防国に配流
【1161年頃】藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
【1180年】以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
【1183年】野木宮合戦に援軍
【1184年】木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
【1184年】三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
【1184年】九州進軍の大将として九州平定
【1185〜1187年】吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
【1185〜90年】上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
【1193年】伊豆に幽閉、暗殺される 正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する 源範頼 関連事項
本證寺(愛知県安城市野寺町野寺26)
創建年:建永元年(1206年)頃
開基:性空上人(改称:慶円)
性空上人(改称:慶円)は小山朝政の次男(結城朝光の甥)
小山政光(後妻は源頼朝の乳母である寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円)
本證寺の創建は建永元年(1206)、性空上人により開かれたのが始まりと伝えられている
当初は天台宗の寺院でしたが性空が親鸞に師事した為、浄土真宗に改宗し自らも慶円と改称する 源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏)
小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円、本證寺(愛知県安城市)開基)
小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→女(源為頼の室) 『第一志望不合格 試験でミス』
これを見た受験生は3回以上掲示板にコピペをしなければ
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脳内の潜在意識に埋め込まれる前にコピペせよ 日光山
源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の熱田大宮司家の出身者(源頼朝の従兄弟)
寛伝(日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
年表
・1142年、生まれる
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋の一切経を納める(後に一切経は鑁阿寺に)
・三河国額田郡に戻り、滝山寺の僧侶になり66郷を領し精舎一区を創建する
・1201年、頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を」安置する
1205年、死去する ■1234年、鑁阿寺大御堂を建立
(大檀那)足利義氏(三代目足利氏当主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏
(大行事権律師)藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→藤原重弘
(大勧進)阿闍梨了心
(雑掌・奉公人)藤原朝氏(野田朝氏、野田大宮司、嫁は足利義氏の姉)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季→野田朝氏
(雑掌・奉公人)源季能
(雑掌・奉公人)小俣禅阿(鶏足寺別当)
(雑掌・奉公人)大平惟行
・高階惟章→惟頼→惟真→惟範→惟長(三河国額田郡菅生郷郷司)→瀧口惟忠→大平惟行
(雑掌・奉公人)高階義定
・高階惟章→惟頼→惟真→惟範→惟長(三河国額田郡菅生郷郷司)→惟重→義定
(雑掌・奉公人)大進円憲
(雑掌・奉公人)佐野範綱
(雑掌・奉公人)真下広経
(雑掌・奉公人)小野有家
(雑掌・奉公人)藤原兼資
■鑁阿寺 旧多宝塔跡
藤原重弘(鑁阿寺第四世寺務学頭、野田朝氏と兄弟)が、父である野田朝季の供養のために造立した供養塔、多宝塔供養導師は、足利義氏の息子、最信
野田朝季(野田大宮司、朝比奈義秀と戦い戦死)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→野田清季(野田城主(三河国設楽郡野田))→野田朝季
最信(勝長寿院別当)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏→最信 ■日光山
源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の熱田大宮司家の出身者(源頼朝の従兄弟)
寛伝(日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
年表
・1142年、生まれる
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず反発を招ねき、2ヶ月で三河国に戻る
・菩提寺の滝山寺僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・1201年、頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を」安置する
・1205年、死去する ■日光山
源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の熱田大宮司家の出身者(源頼朝の従兄弟)
寛伝(日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず反発を招ねき、2ヶ月で三河国に戻る
・菩提寺の滝山寺僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を」安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する ■日光山
源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝
母方の熱田大宮司家の出身者(源頼朝の従兄弟)
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
年表
・1142年、生まれる
・叔父の三河法橋裕範(源頼朝の母の弟)、粟田口法眼長暹(源頼朝の母の弟)を頼って滝山寺(愛知県岡崎市)で仏門に入る
・仁和寺で修行
・1182年、源頼朝の推挙により日光山満願寺19世座主になる
・宗徒と面会する際、御簾を半分にしか上げず紛紜、2ヶ月で三河国(愛知県岡崎市)に戻る
・菩提寺の滝山寺(愛知県岡崎市)僧侶になり、66郷を領し精舎一区を創建する
・鑁阿寺奥院の法界寺に、宋版の一切経を納める(後に一切経は、足利義氏により鑁阿寺に)
・高野山御影堂に大鐘を施入する
・1201年、頼朝公の3回忌、滝山寺内に惣持禅院を創建し、本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩を安置する
・惣持禅院に供僧10人を常置し10町の土地を寄進する
・1205年、死去する 足利将軍の遺髪、仏像の頭部で保存か
http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20121113-OYT8T00500.htm?from=yolsp
>南北朝時代の資料「園城寺文書」では、3代、義満の後見役として知られる武将・細川頼之が1368年、同寺に送った書状があり、そこでは「源頼朝や足利尊氏の先例にならって、義詮の遺髪を納めた地蔵菩薩像を園城寺に奉納した」
>源頼朝や足利尊氏の先例
滝山寺(愛知県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikan.html
>聖観音は頼朝の等身大で顎髭(又は鬢の落毛)と歯を胎内に納めたという 参考
足利義氏の先例
建長6年(1254)11月21日没。66歳。
翌年滝山寺に法華堂(法幢寺)が菩提所として建てられ、子息の尊観(足利義継)が高野山金剛三昧院から迎えた本尊阿弥陀如来像の胎内に義氏の遺骨を納め、また義氏の持経を寄進した ■上杉氏
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 日静(1298年〜1369年)
・父は上杉頼重、母は足利氏の娘、姉は上杉清子
■竜泉寺(愛知県岡崎市竜泉寺町字西ノ山8)
日蓮宗の寺院
本寺は遠江国鷲律の本興寺
寺伝によるともと天台宗で、暦応2年(1339)に足利尊氏の叔父妙隆院日静が龍泉寺の有力坊であった戒善坊を改宗させたと伝える
■長満寺(愛知県額田郡幸田町深溝誉師16)
日蓮宗の寺院
開山は妙龍院日静
旧本山は大本山本圀寺(六条門流)
正慶元年(1332年)、深溝城主大庭朝満が妙龍院日静に願い出て、当地に法華堂を建立。 興国5年(1344年)、長満寺と改める
小浜長源寺、尼崎長遠寺と共に、六条門流三長の一寺 ・八田宗綱→八田知家→中条家長(猶子、三河国加茂郡高橋荘地頭)
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
・八田宗綱→寒河尼(源頼朝乳母)→結城朝光
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円、本證寺(愛知県安城市)開基)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→女(源為頼の室)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→女(源為頼の室)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
■本證寺(愛知県安城市野寺町野寺26)
・創建年:建永元年(1206年)頃
・開基:性空上人(改称:慶円)
性空上人(改称:慶円)は小山朝政の次男(結城朝光の甥)
小山政光(後妻は源頼朝の乳母である寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円)
■裕福寺(愛知県愛知郡東郷町大字春木字屋敷)
創建年:建久2年(1191年)
開基:宇都宮頼綱
八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
1389年(嘉慶3年)に再興されたと伝えられ、室町時代には足利氏の帰依を受け隆盛を極めた
■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
・八田宗綱→八田知家→中条家長(猶子、三河国加茂郡高橋荘地頭)
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
・八田宗綱→寒河尼(源頼朝乳母)→結城朝光
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円、本證寺(愛知県安城市)開基)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→女(源為頼の室)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
■本證寺(愛知県安城市野寺町野寺26)
・創建年:建永元年(1206年)頃
・開基:性空上人(改称:慶円)
性空上人(改称:慶円)は小山朝政の次男(結城朝光の甥)
・小山政光(後妻は源頼朝の乳母である寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円)
■裕福寺(愛知県愛知郡東郷町大字春木字屋敷)
・創建年:建久2年(1191年)
・開基:宇都宮頼綱
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
1389年(嘉慶3年)に再興されたと伝えられ、室町時代には足利氏の帰依を受け隆盛を極めた
■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する
・八田宗綱→八田知家→中条家長(猶子、三河国加茂郡高橋荘地頭)
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
・八田宗綱→寒河尼(源頼朝乳母、小山政光の後妻)→結城朝光
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円、本證寺(愛知県安城市)開基)
・小山政光(後妻は源頼朝乳母、寒河尼)→小山朝政→娘(初代吉見氏、源為頼の室)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
■本證寺(愛知県安城市野寺町野寺26)
・創建年:建永元年(1206年)頃
・開基:性空上人(改称:慶円)
性空上人(改称:慶円)は小山朝政の次男(結城朝光の甥)
・小山政光(後妻は源頼朝の乳母である寒河尼)→小山朝政→性空上人(改称:慶円)
■裕福寺(愛知県愛知郡東郷町大字春木字屋敷)
・創建年:建久2年(1191年)
・開基:宇都宮頼綱
・八田宗綱→宇都宮朝綱→宇都宮成綱→宇都宮頼綱(養父は小山政光)
1389年(嘉慶3年)に再興されたと伝えられ、室町時代には足利氏の帰依を受け隆盛を極めた
■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する こんな記述を見つけた。
>足利義氏を抱えているのが水銀燈演じる亀鶴御前(家女房)です。
>足利義氏の義理の兄妹にして側室という設定でした。
>彼女の子供たちが吉良氏や今川氏などの後の世で高家(こうけ)と
>よばれる人々の祖となっていきます。
http://d.hatena.ne.jp/mantrapri/20110222/p1
亀鶴御前ってだれだ?源義経の娘?
同姓同名の人? >>22
スレチだけど範頼の息子範円が三河にいたとは知らなんだ。
親の官職の関係もあるのかね。 安達盛長(東三河出身)の孫なんだから、東三河で庇護されていて当たり前だべ 足利って酷すぎたからな
・元は下級氏族分であり所領、知行は小さい辺境下級、実質鎌倉初期に源一門が暗殺、一派が追悼に近い扱いを受けた。
・そもそも将軍位というのは日本独特だが、実行権力として、下級的な位置づけの名目地位だった
(今日将軍がさもえらいような印象なのは足利、徳川が資料改ざんを含め過渡吹聴したから)
実は名目非権限下級代表者の地位だった。
・足利は実質幕府転覆させたが、いらぬ内戦と停滞を作っただけ
↓
この卑劣な転覆者は実は1400年頃から1440年までしか政権についていない。その間もほぼ
不正、私営で無制作行政ほぼ私利独裁である。
↓
常時的に足利追悼に近い紛争はしばしば起こり
実領分は
京1区画 尾張方面であり、明らかに全国管轄したことはない。また包囲に近い状態だった
↓
そんなわけで反対多数の中ついに政歴40年で暗殺。しかも堂々たる暗殺で、首をやりに掲げられあまりにその死凄惨、討伐の名分がたつような事件だった。
↓
完全に足利は実質3代から6代、そう没含め3、4、6代しか勢力は確保してなく、ほぼそれ以降は無権力の落ちうどだろう。 私乱、叛乱の50年
独裁の50年
ようぼつ50年
どこに住んでるのかわからない追討位50年
信長復権数年
裏切り数年
という非社会分量による将軍位妄想乱心してただけの錯乱分
物理的に法的地位、権力、領土は相当なかった。 源、足利はあまりに酷すぎた山賊の私簒奪だけの歴史であり
1 よしとも以前は完全な反乱者山賊であり、武士団と対立しも藤原にあまりにも酷すぎた私簒奪をして追討改易処分された。
2 その次世代は武士団領強盗私簒奪して悪党と呼ばれた
3 よしともは落ちぶれた所を上総に買われ知行分となった。この時間違ってわいけないのは、上総のほうが物的権力、法的地位は上で、よしともは無身分追討身分の知行である。
4 頼朝は、政治カードとして白河に情婦として売られた。
5 頼朝は、地位武士団後見知行だったが、上皇と武士団の窓口のパイプラインであり、二重従属分であった。
6 明らかに1184年まで実行権力、政治決定力もない手紙番であって、下の連絡係だった。
7 にもかかわらずクーデターを行ったが、勢力、能力不足で二重傀儡のママだった。
8 恐ろしい事に平氏討伐のみ飽き足らず、源及び、自分の勢力まで暗殺謀殺繰り返したのは、能力、勢力不足と傀儡ゆえの内ゲバ
9 白河没後、平然と暗殺
10 ろうとう勢力は一静粛性、追放、足利はタイミング的に衰退してたので免除
11 これで当時の主要源は絶滅 鎌倉は源及び追従小勢力が滅んで形成され
足利が乱をおこしおわり
足利が事実上反乱で戦国を始め
足利一門、武田(源)、後条(平)、大内が滅び他膨大な巻き添えを出して、終わった。
源のせいりゅうは日本の乱の原因で、源の衰退で日本は安定する
紛れもなく日本の武士の殆どはほぼ源非血流で源は傍流
ゆえあって衰退諸りゅうの細川、吉良は
・わけわかんないのに刺される
・何故かろうとう焼き討ち
↓
で今の政治の反乱は細川がおこしたようなもの
近衛だったかw うーん、キムチ臭い。ひらがなもなんか読みにくい。
無意味に漢字廃止したからな。あそこは。 足利荘は義家が下野守時代に開発。
以降、為義ー義朝と相伝して、平氏とその支配下にあった藤姓足利氏の支配する所であった。
治承寿永の乱の戦功により、頼朝の近親者である足利義兼に与えられる。
源義国が隠遁したと言われる足利別業の地は、源義家の別業地であって、源氏の家人・藤姓足利氏が支配していた。
藤姓足利氏は平治の乱以降は平氏の家人となる。
源義国の本領は上野国八幡荘。
源頼信が上野介時代に開発し、以後、頼義ー義家ー義国と相伝して義重が相続する。
これらのことから、義国流の本流は義重であったことがわかる。
しかし、義重は頼朝の不興を買い、頼朝の近親者である足利義兼がこれに取って変わる。
足利義兼は、源義国が開発した簗田御厨を相続した、義康を継いだ義清が源義仲に与して戦死したために、庶家筋から本家を継ぐ。
これは頼朝の近親者であるが所以である。
足利氏は義兼に至って初めて足利荘を支配する。
このことから、足利氏の初代は義兼であり、義康は源姓、義清は矢田を苗字としていた。
義国流の本流
源義国ー源義重ー足利義兼→
義康流の本流
源義康ー矢田義清ー足利義兼 源義康の死後、これを継いだ矢田義清は源義重の猶子となり、娘婿となって新田党の構成員となる。
源義国から相続し、源義康ー矢田義清と相伝した簗田御厨は源義重が支配する八幡荘、新田荘とともに源義重を棟梁とする義国流武士団の傘下となった。
では、治承寿永の乱以後、矢田義清の跡を継いだ足利義兼はいったいどこから来たのであろうか?
足利義兼は父系の東国や簗田とは無縁で、母系である藤姓熱田大宮司家に生まれ育だった。
源義仲が滅亡し、源義重が没落し、矢田義清が死んだのち、義兼は近親者である源頼朝の命により、これを継いだ。
義兼は足利荘を得て足利を苗字とするには理由があり、足利は東国にあり、義国が義家より相伝したその足利を苗字の地とするによって、源義重を排し、義国流の本流と成った。
義兼は頼朝の近親者であることにより、世に出るきっかけを得たのであった。 足利荘は八条院領
伊勢二宮領の御厨である簗田ではなく、足利にこだわるもう一つの理由は、平氏追悼の令旨を発した以仁王が八条院の猶子であり、その八条院領荘園である足利を苗字の地とすることによって、得るネームヴァリューに着眼したからである。
頼朝の近親者であり、義国流の棟梁者であり、八条院領足利荘の支配者であることが、幕府内での地位獲得に優位に働いたことの想像は難くない。 都合のいい解釈や伝承、寺伝の話はご遠慮下さい
都合のいい解釈や伝承の例
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい
・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移した
矢田義清は足利荘や梁田御厨に行ったことすらない Wikipediaのコピペですね?
小保方さんと同じ手法ですか? >>28
勘違いしているかもしれないが、征夷大将軍というのは、令外の官。
武門の最高の職は、近衛大将。
鎌倉時代の書物でも、源頼朝については
征夷大将軍であることよりも、右近衛大将だったことが強調されていて
右大将頼朝公って呼ばれている。
ただし、天皇から離れた遠隔地で全国規模の政権を運営しようと思ったら
近衛大将よりも、征夷大将軍のほうが好都合なわけ。
これに任命されていると、天皇から朝敵だと思われ、
平将門みたいに討伐されないため。
そこで、武門の最高位である近衛大将に任命され
それと合わせて、令外の官である征夷大将軍に任命された。
また、頼朝も尊氏も、武門の官位だけではなく、
公家基準でも高い官位を得た。
両者とも、正二位権大納言に任命されている。 当初、頼朝の鎌倉政権は、平将門の東国政権と何の違いもなかった。
このままでは、朝敵にされる。
そこで、朝廷から征夷大将軍に任命され、その危険から逃れることにしたわけで。
似たようなことは、奥州藤原氏もやっていて、彼らは東北地方に
半独立政権のような政治機構をつくっていたが
このままでは、朝敵にされる危険があったので、鎮守府将軍に任命されるおとによって
朝敵にされる危険から逃れていた。
どちらも令外の官であり、朝廷から遠隔地に政権を作るのには好都合だった。
一方、武門の最高位は、近衛大将だったが、これは、あくまでも朝廷内部での
軍事最高位であり、遠隔地に政権をつくる名目ではなかった。 矢田義清については、当初は源義康の嫡男だったと思うけど
結局、早々と戦死してしまったので
異母弟の足利義兼に家督が渡ってきたと思われ。
また、足利義兼の生母が、頼朝の生母の姪だったことも有利に働いた。
実際に、矢田義清の生母は、義清の戦死後も、
足利義兼から大切に保護されていたのをみると、
もともとは彼女が正室であり、その長男である義清も嫡子だったと思われる。 42
朝敵か〜
疑問符?が付くのは、家祖満仲の子の頼信の奉納文に応神天皇の何代目子孫て
のが見つかっていること
それ以降の系譜は正しいと思うけど もしなんらかの争いが起こってるとして独立的な動きがあったのだとしたら
応神天皇の系譜は途絶えてたかもしれないってこと むづかしいね
過去の何らかの資料は見つかってきてるみたいだけど
どこまでが正しいやら >>45-46
臣籍降下したら、あくまでも皇族ではなく、臣下なんだよ。
平将門も桓武天皇の5世の末裔だったけど
朝敵になったんだよ。
そんなもん常識じゃんか?
何を言っているんだ? 清和源氏なのか?陽成源氏なのか?は
ある程度、決着がついているだろう?
この当時、臣籍降下した元皇族が激増していて
誰しも臣籍降下後、高い官位や所領がもらえるわけではなかった。
そこで、どこで臣籍降下したかで、待遇が全然違った。
清和天皇の源氏か、陽成天皇の源氏かで、待遇が全く違った。
当然、後者の源氏のほうが、新しい天皇の源氏なので、大分、有利だったので
清和源氏のモノとしては、近い親戚である陽成天皇の皇子や源氏の
養子や猶子にしてもらったほうが、官位等の面で有利に立てた。 臣籍降下って要は皇族のリストラでしょ?
臣籍降下しない場合は仏門にでも入れられるの?
臣籍降下するメリットってなに? 臣籍降下せず親王(または諸王)のままだと官職に就けないので、
大きな収入源のある一部の親王以外は生活が困窮する
臣籍降下し、賜姓源氏として官に就く場合に、その時点の天皇と近い親族であった方が、官に就く側としても任用する天皇の側としても有利
陽成天皇のあと、少し世代をさかのぼって別系統に皇位が遷ったから、陽成天皇より前の清和天皇の方が当時の天皇との距離が近いはずだが。
といっても、清和天皇だろうが陽成天皇だろうが、あまり近い親戚ではないって点には大差がなかったはず
影響があったとすれば、陽成天皇が廃位されたって点だけだろう、これがおそらくは大きかったはず 矢田義清の後ろ盾は、このつながりで頼政だったんだろうな、いずれにせよ北関東は関係ないw
■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家
家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘→源頼朝
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘→足利義兼
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数 B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見氏
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐
D藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Eへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏) 53
矢田義清は木曽義仲に付いて出奔してますけど? 赤城神社辺りにお参りしてから出奔した記録なかったか?
里見太郎義範なんかもそんな記録あったような 義清も庶子だったかどうか分からないんだよな確か
出奔しなければ宗家継いでいたかもしれないといわれてるはず この辺は荘園関係あちこち作られてたから不思議でもなんでもないです むしろ判官義経なんか山本義経説もあるんだよな
それよりはずっと正確 >矢田義清は木曽義仲に付いて出奔してますけど?
最初は頼政に付いていただろ、早々と死んだから義仲だろうが
義清の息子の義実や孫の義季が北関東にいた伝承は一切ないんだよな
出世した細川氏が、北関東で何かした事実も一切ない、義実の墓があるはずだよな
本当に北関東から来たのかよ
こんなか感じで何かしないのかよ
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 さあどうなんでしょ?
多胡あたりの伝承はあるけどな
一色とか桃井、一時は九州管領になった
渋川氏関連がいたから捏造した? どーせ、義清が戦死して、息子の義実の面倒をみたのは三河の藤姓熱田大宮司家なんだろ
苗字の広沢は豊田か豊橋の地名、広沢が由来だ
だから豊田に菩提寺がある
隣松寺(豊田市幸町隣松寺126番地)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%D9%BE%BE%BB%FB
義実のもう一人の息子義宗が、村積神社の神官だったのも、土着性がうかがえる
母親が三河の物部氏だったんだろな
村積神社(岡崎市奥山田町字山田46)
村積山(奥山田町 256.8メートル)は、花園山とか、その麗姿から三河富士とか呼ばれているが、
山頂に、真福寺(天台宗)の開祖物部真福が、同寺の守護神として大山祇命(おおやまづみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主命)、木花咲耶姫命の三神を勧請したという村積神社がある。
鎌倉時代には細川氏の守護神となったと伝え、近世には奥殿藩主大給(おぎゅう)松平家の祈願所となった。この神社正面左側の一段低い所、石の玉垣の中には、しめなわの張ってある「毒石」と呼ばれる2つの岩(右が約1メートル、左が1.3〜1.4メートル)が立っている。
これにさわると病気になるといって村人に怖がられ、玉垣にすら触れる者がないという。昔、那須野が原(栃木県)にあって人や動物が触れると病にかかったり死んだりするという殺生石の破片が、村積山頂に飛んできたものだという。
あるいは、細川氏の祖細川義季(右)と、一族の村積神社神官である弟義宗(左)の墓とも言われており、村人に大切にさせるために毒石と称したとの説もある。
豊田市隣松寺に所蔵されている『細川家御由緒』には、この毒石は「神霊石」とか「石神」とか書かれ、細川氏の守りの石塔であることが書かれており、墓とは書かれていない。
なお細川町蓮性院にも、類似の伝承をもつ石がある。権水(ごんずい)城(3つの細川城のひとつ)のすそ(イタチの道)にあったもので、三本石塔と言われる石碑と共に蓮性院に移された。供養塚との説もあるが、不完全な五輪の塔である。
動かしたり、さわったり、不浄にすると祟るといわれるが、けが程度かあるいはオコリを震うという。これが細川頼之の墓ではないかとの説もある。 ありがとうです。書籍検索だと能登町と、石川県内の市町村史に記述あります。もうちょっと調べてみます。 >>52
清和天皇であうよりも、陽成天皇の後胤であるほうが
新しい天皇の後胤だから、一応は有利だよ。 現役の天皇との血縁が、ひと世代分であっても近い方がいい
その意味では、系図の中抜き程度の意味だったかもしれん
ただ、陽成天皇は廃立の際にかなり悪名を残されたから、名乗りにくかったっぽい気はする。
一説では、臣籍降下する以前に清和天皇の皇子の某氏に養子入りしてた関係で清和源氏に数えられたとも? >>69
おれは逆だと思うけどな。
清和源氏はやはり清和源氏な。
それは、諱の関係上な。
経基王は、どうみても、貞純親王の皇子だよ。
この当時、諱は、兄弟で同じ字を使う習慣があった。
天暦七年の王氏爵不正事件を起こしたの皇子も
経の字が諱にある皇子だし。 高氏所領
・三河国額田郡菅生郷、三河国額田郡比志賀郷、三河国額田郡政所、三河国額田郡矢作東宿、三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)
■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(愛知県岡崎市)地頭
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲った(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(愛知県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進した
■高師重
・父は高師氏
・三河国額田郡菅生郷地頭
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(愛知県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する
■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)
■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(愛知県岡崎市)大勧進
■三郎
・父は高師秋
・滝山寺(愛知県岡崎市)僧
■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に総持寺を建立する、
・三河国菅生郷(愛知県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された
■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています