新田と足利4
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都合のいい解釈や伝承、寺伝の話はご遠慮下さい
都合のいい解釈や伝承の例
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい
・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移した
寺伝の例
・偽書で有名な滝山寺縁起
過去ログ
新田と足利3
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284627067/ 私乱、叛乱の50年
独裁の50年
ようぼつ50年
どこに住んでるのかわからない追討位50年
信長復権数年
裏切り数年
という非社会分量による将軍位妄想乱心してただけの錯乱分
物理的に法的地位、権力、領土は相当なかった。 源、足利はあまりに酷すぎた山賊の私簒奪だけの歴史であり
1 よしとも以前は完全な反乱者山賊であり、武士団と対立しも藤原にあまりにも酷すぎた私簒奪をして追討改易処分された。
2 その次世代は武士団領強盗私簒奪して悪党と呼ばれた
3 よしともは落ちぶれた所を上総に買われ知行分となった。この時間違ってわいけないのは、上総のほうが物的権力、法的地位は上で、よしともは無身分追討身分の知行である。
4 頼朝は、政治カードとして白河に情婦として売られた。
5 頼朝は、地位武士団後見知行だったが、上皇と武士団の窓口のパイプラインであり、二重従属分であった。
6 明らかに1184年まで実行権力、政治決定力もない手紙番であって、下の連絡係だった。
7 にもかかわらずクーデターを行ったが、勢力、能力不足で二重傀儡のママだった。
8 恐ろしい事に平氏討伐のみ飽き足らず、源及び、自分の勢力まで暗殺謀殺繰り返したのは、能力、勢力不足と傀儡ゆえの内ゲバ
9 白河没後、平然と暗殺
10 ろうとう勢力は一静粛性、追放、足利はタイミング的に衰退してたので免除
11 これで当時の主要源は絶滅 鎌倉は源及び追従小勢力が滅んで形成され
足利が乱をおこしおわり
足利が事実上反乱で戦国を始め
足利一門、武田(源)、後条(平)、大内が滅び他膨大な巻き添えを出して、終わった。
源のせいりゅうは日本の乱の原因で、源の衰退で日本は安定する
紛れもなく日本の武士の殆どはほぼ源非血流で源は傍流
ゆえあって衰退諸りゅうの細川、吉良は
・わけわかんないのに刺される
・何故かろうとう焼き討ち
↓
で今の政治の反乱は細川がおこしたようなもの
近衛だったかw うーん、キムチ臭い。ひらがなもなんか読みにくい。
無意味に漢字廃止したからな。あそこは。 足利荘は義家が下野守時代に開発。
以降、為義ー義朝と相伝して、平氏とその支配下にあった藤姓足利氏の支配する所であった。
治承寿永の乱の戦功により、頼朝の近親者である足利義兼に与えられる。
源義国が隠遁したと言われる足利別業の地は、源義家の別業地であって、源氏の家人・藤姓足利氏が支配していた。
藤姓足利氏は平治の乱以降は平氏の家人となる。
源義国の本領は上野国八幡荘。
源頼信が上野介時代に開発し、以後、頼義ー義家ー義国と相伝して義重が相続する。
これらのことから、義国流の本流は義重であったことがわかる。
しかし、義重は頼朝の不興を買い、頼朝の近親者である足利義兼がこれに取って変わる。
足利義兼は、源義国が開発した簗田御厨を相続した、義康を継いだ義清が源義仲に与して戦死したために、庶家筋から本家を継ぐ。
これは頼朝の近親者であるが所以である。
足利氏は義兼に至って初めて足利荘を支配する。
このことから、足利氏の初代は義兼であり、義康は源姓、義清は矢田を苗字としていた。
義国流の本流
源義国ー源義重ー足利義兼→
義康流の本流
源義康ー矢田義清ー足利義兼 源義康の死後、これを継いだ矢田義清は源義重の猶子となり、娘婿となって新田党の構成員となる。
源義国から相続し、源義康ー矢田義清と相伝した簗田御厨は源義重が支配する八幡荘、新田荘とともに源義重を棟梁とする義国流武士団の傘下となった。
では、治承寿永の乱以後、矢田義清の跡を継いだ足利義兼はいったいどこから来たのであろうか?
足利義兼は父系の東国や簗田とは無縁で、母系である藤姓熱田大宮司家に生まれ育だった。
源義仲が滅亡し、源義重が没落し、矢田義清が死んだのち、義兼は近親者である源頼朝の命により、これを継いだ。
義兼は足利荘を得て足利を苗字とするには理由があり、足利は東国にあり、義国が義家より相伝したその足利を苗字の地とするによって、源義重を排し、義国流の本流と成った。
義兼は頼朝の近親者であることにより、世に出るきっかけを得たのであった。 足利荘は八条院領
伊勢二宮領の御厨である簗田ではなく、足利にこだわるもう一つの理由は、平氏追悼の令旨を発した以仁王が八条院の猶子であり、その八条院領荘園である足利を苗字の地とすることによって、得るネームヴァリューに着眼したからである。
頼朝の近親者であり、義国流の棟梁者であり、八条院領足利荘の支配者であることが、幕府内での地位獲得に優位に働いたことの想像は難くない。 都合のいい解釈や伝承、寺伝の話はご遠慮下さい
都合のいい解釈や伝承の例
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい
・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移した
矢田義清は足利荘や梁田御厨に行ったことすらない Wikipediaのコピペですね?
小保方さんと同じ手法ですか? >>28
勘違いしているかもしれないが、征夷大将軍というのは、令外の官。
武門の最高の職は、近衛大将。
鎌倉時代の書物でも、源頼朝については
征夷大将軍であることよりも、右近衛大将だったことが強調されていて
右大将頼朝公って呼ばれている。
ただし、天皇から離れた遠隔地で全国規模の政権を運営しようと思ったら
近衛大将よりも、征夷大将軍のほうが好都合なわけ。
これに任命されていると、天皇から朝敵だと思われ、
平将門みたいに討伐されないため。
そこで、武門の最高位である近衛大将に任命され
それと合わせて、令外の官である征夷大将軍に任命された。
また、頼朝も尊氏も、武門の官位だけではなく、
公家基準でも高い官位を得た。
両者とも、正二位権大納言に任命されている。 当初、頼朝の鎌倉政権は、平将門の東国政権と何の違いもなかった。
このままでは、朝敵にされる。
そこで、朝廷から征夷大将軍に任命され、その危険から逃れることにしたわけで。
似たようなことは、奥州藤原氏もやっていて、彼らは東北地方に
半独立政権のような政治機構をつくっていたが
このままでは、朝敵にされる危険があったので、鎮守府将軍に任命されるおとによって
朝敵にされる危険から逃れていた。
どちらも令外の官であり、朝廷から遠隔地に政権を作るのには好都合だった。
一方、武門の最高位は、近衛大将だったが、これは、あくまでも朝廷内部での
軍事最高位であり、遠隔地に政権をつくる名目ではなかった。 矢田義清については、当初は源義康の嫡男だったと思うけど
結局、早々と戦死してしまったので
異母弟の足利義兼に家督が渡ってきたと思われ。
また、足利義兼の生母が、頼朝の生母の姪だったことも有利に働いた。
実際に、矢田義清の生母は、義清の戦死後も、
足利義兼から大切に保護されていたのをみると、
もともとは彼女が正室であり、その長男である義清も嫡子だったと思われる。 42
朝敵か〜
疑問符?が付くのは、家祖満仲の子の頼信の奉納文に応神天皇の何代目子孫て
のが見つかっていること
それ以降の系譜は正しいと思うけど もしなんらかの争いが起こってるとして独立的な動きがあったのだとしたら
応神天皇の系譜は途絶えてたかもしれないってこと むづかしいね
過去の何らかの資料は見つかってきてるみたいだけど
どこまでが正しいやら >>45-46
臣籍降下したら、あくまでも皇族ではなく、臣下なんだよ。
平将門も桓武天皇の5世の末裔だったけど
朝敵になったんだよ。
そんなもん常識じゃんか?
何を言っているんだ? 清和源氏なのか?陽成源氏なのか?は
ある程度、決着がついているだろう?
この当時、臣籍降下した元皇族が激増していて
誰しも臣籍降下後、高い官位や所領がもらえるわけではなかった。
そこで、どこで臣籍降下したかで、待遇が全然違った。
清和天皇の源氏か、陽成天皇の源氏かで、待遇が全く違った。
当然、後者の源氏のほうが、新しい天皇の源氏なので、大分、有利だったので
清和源氏のモノとしては、近い親戚である陽成天皇の皇子や源氏の
養子や猶子にしてもらったほうが、官位等の面で有利に立てた。 臣籍降下って要は皇族のリストラでしょ?
臣籍降下しない場合は仏門にでも入れられるの?
臣籍降下するメリットってなに? 臣籍降下せず親王(または諸王)のままだと官職に就けないので、
大きな収入源のある一部の親王以外は生活が困窮する
臣籍降下し、賜姓源氏として官に就く場合に、その時点の天皇と近い親族であった方が、官に就く側としても任用する天皇の側としても有利
陽成天皇のあと、少し世代をさかのぼって別系統に皇位が遷ったから、陽成天皇より前の清和天皇の方が当時の天皇との距離が近いはずだが。
といっても、清和天皇だろうが陽成天皇だろうが、あまり近い親戚ではないって点には大差がなかったはず
影響があったとすれば、陽成天皇が廃位されたって点だけだろう、これがおそらくは大きかったはず 矢田義清の後ろ盾は、このつながりで頼政だったんだろうな、いずれにせよ北関東は関係ないw
■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家
家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘→源頼朝
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→娘→足利義兼
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)→C
・他多数 B藤原範季
・源範頼(養子、三河守)→源範円(正法寺(三河国宝飯郡)僧)→吉見氏
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C源頼政
・源仲綱(大内守護)→有綱(伊豆守)→女子(源義経室)
・源国政(初代山県氏)
・源兼綱(実父は頼政兄の頼行)→大河内顕綱(初代大河内氏(三河国額田郡大河内)か?)
・源頼兼(大内守護)
・源広綱(実兄の仲綱に養子入り、駿河守)
・二条院讃岐
D藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Eへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏) 53
矢田義清は木曽義仲に付いて出奔してますけど? 赤城神社辺りにお参りしてから出奔した記録なかったか?
里見太郎義範なんかもそんな記録あったような 義清も庶子だったかどうか分からないんだよな確か
出奔しなければ宗家継いでいたかもしれないといわれてるはず この辺は荘園関係あちこち作られてたから不思議でもなんでもないです むしろ判官義経なんか山本義経説もあるんだよな
それよりはずっと正確 >矢田義清は木曽義仲に付いて出奔してますけど?
最初は頼政に付いていただろ、早々と死んだから義仲だろうが
義清の息子の義実や孫の義季が北関東にいた伝承は一切ないんだよな
出世した細川氏が、北関東で何かした事実も一切ない、義実の墓があるはずだよな
本当に北関東から来たのかよ
こんなか感じで何かしないのかよ
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
永源寺
中世、碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 さあどうなんでしょ?
多胡あたりの伝承はあるけどな
一色とか桃井、一時は九州管領になった
渋川氏関連がいたから捏造した? どーせ、義清が戦死して、息子の義実の面倒をみたのは三河の藤姓熱田大宮司家なんだろ
苗字の広沢は豊田か豊橋の地名、広沢が由来だ
だから豊田に菩提寺がある
隣松寺(豊田市幸町隣松寺126番地)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%D9%BE%BE%BB%FB
義実のもう一人の息子義宗が、村積神社の神官だったのも、土着性がうかがえる
母親が三河の物部氏だったんだろな
村積神社(岡崎市奥山田町字山田46)
村積山(奥山田町 256.8メートル)は、花園山とか、その麗姿から三河富士とか呼ばれているが、
山頂に、真福寺(天台宗)の開祖物部真福が、同寺の守護神として大山祇命(おおやまづみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主命)、木花咲耶姫命の三神を勧請したという村積神社がある。
鎌倉時代には細川氏の守護神となったと伝え、近世には奥殿藩主大給(おぎゅう)松平家の祈願所となった。この神社正面左側の一段低い所、石の玉垣の中には、しめなわの張ってある「毒石」と呼ばれる2つの岩(右が約1メートル、左が1.3〜1.4メートル)が立っている。
これにさわると病気になるといって村人に怖がられ、玉垣にすら触れる者がないという。昔、那須野が原(栃木県)にあって人や動物が触れると病にかかったり死んだりするという殺生石の破片が、村積山頂に飛んできたものだという。
あるいは、細川氏の祖細川義季(右)と、一族の村積神社神官である弟義宗(左)の墓とも言われており、村人に大切にさせるために毒石と称したとの説もある。
豊田市隣松寺に所蔵されている『細川家御由緒』には、この毒石は「神霊石」とか「石神」とか書かれ、細川氏の守りの石塔であることが書かれており、墓とは書かれていない。
なお細川町蓮性院にも、類似の伝承をもつ石がある。権水(ごんずい)城(3つの細川城のひとつ)のすそ(イタチの道)にあったもので、三本石塔と言われる石碑と共に蓮性院に移された。供養塚との説もあるが、不完全な五輪の塔である。
動かしたり、さわったり、不浄にすると祟るといわれるが、けが程度かあるいはオコリを震うという。これが細川頼之の墓ではないかとの説もある。 ありがとうです。書籍検索だと能登町と、石川県内の市町村史に記述あります。もうちょっと調べてみます。 >>52
清和天皇であうよりも、陽成天皇の後胤であるほうが
新しい天皇の後胤だから、一応は有利だよ。 現役の天皇との血縁が、ひと世代分であっても近い方がいい
その意味では、系図の中抜き程度の意味だったかもしれん
ただ、陽成天皇は廃立の際にかなり悪名を残されたから、名乗りにくかったっぽい気はする。
一説では、臣籍降下する以前に清和天皇の皇子の某氏に養子入りしてた関係で清和源氏に数えられたとも? >>69
おれは逆だと思うけどな。
清和源氏はやはり清和源氏な。
それは、諱の関係上な。
経基王は、どうみても、貞純親王の皇子だよ。
この当時、諱は、兄弟で同じ字を使う習慣があった。
天暦七年の王氏爵不正事件を起こしたの皇子も
経の字が諱にある皇子だし。 高氏所領
・三河国額田郡菅生郷、三河国額田郡比志賀郷、三河国額田郡政所、三河国額田郡矢作東宿、三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)
■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(愛知県岡崎市)地頭
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲った(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(愛知県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進した
■高師重
・父は高師氏
・三河国額田郡菅生郷地頭
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(愛知県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する
■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)
■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(愛知県岡崎市)大勧進
■三郎
・父は高師秋
・滝山寺(愛知県岡崎市)僧
■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に総持寺を建立する、
・三河国菅生郷(愛知県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された
■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(愛知県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持 足利義高が義澄に改名したのは、祖先の一字を下にするのが不遜だったから? >>75
興世王は臣籍降下してないから皇族だよ
平将門は祖父の代で臣籍降下してるでしょ 新田は「あらた」だった。つまり、新羅田だ。八幡太郎義家の子孫というのは誤りで、実は、新羅三郎義光の流れをくむ。
新田氏は、渡来系の武将で、百済系から新羅系への政権交代の象徴と言える。
新羅による朝鮮半島統一、じつは、唐(漢民族)に取る朝鮮半島支配、これが日本の武士社会を形成する契機だったわけで、東アジア情勢の変化は、日本に大きな影響を及ぼした。
新田郡に隣接する世羅田、平家の出身地 多羅、この「羅」こそ、日本の武士社会の謎を解く鍵なのだ。 イスラム教のアラーの神とは唯一の神、つまり a ra(阿羅)と言う意味だ。
イスラム教が成立するより前から信仰されていた神の名こそ「羅」なのだ。
同様に、多神教も存在していた。それが、多羅。
日本のよう八百万の神を信仰する宗教は多羅なのだ。
古代宗教の対立を理解できないと、日本の古代史はみえてこない。 イスラム教創始ころに中央アジアを支配してたのってなんて国だっけ? >>81支配と言えばサーサン朝ペルシアということになるが、
キーとなるのは、ゾロアスター教の中心国バクトリアだ。
バクトリアは、ペルシア人が侵入し先住民であるサカ族などを支配することになる。
その子孫はやがて月氏と呼ばれるようになり、日本にも渡来し大きな影響を与える。 足利尊氏の出身地は鎌倉でしたっけ?栃木でしたっけ?
場合によっては足利氏による鎌倉幕府や栃木中心の足利幕府なんて可能性はあった? たぶん鎌倉じゃね?
尊氏は栃木にも、(尊氏の本領が有るわけではないから当然とは言え)群馬にも行ったことはないはず
領地の分布としては、三河とか尾張美濃、それに丹波とかも大きかったっぽいよな。
後醍醐帝が早期に諦めて吉野に行かず京都で隠居してた場合には、幕府を京都じゃなく鎌倉に置いてたかもしれんという気がする 尊氏以前に、足利氏系は三河に縁が在るけれど、
新田氏系は三河とは関連は無かったのかな?
後に家康が、新田氏系を持ち出して来るのもその辺に根拠が在ったのではとも? 南北朝期に新田系の大島氏が三河守護になったぐらいかな?
>新田氏系は三河とは関連 義氏が祖母の家系の権益を継承する形で三河守護になって直々に三河に乗り込んで来たが
同時期に源氏の栄職である陸奥守を拝命して急遽関東に戻った
その時に数年間、守護代を娘婿にやらせたそうだが、それが世良田頼氏 南北朝時代って謎が多いよな。
日本の正史が書き換えされた可能性すら考えるもんな 南北朝時代といえば豊前での活動の記録が残っている足利統氏って何者だろうか
九州での活動なら一色氏か仁木氏あたりかなあ? 新田の方が兄系なのに足利が清和源氏の嫡流なのなんで?
鎌倉時代、新田は門葉にも入れてもらえなかったって当時よっぽど力が無かったん? >>93
一般的には母が側室で庶流(庶長子)だった事になっている
実際には
新田本家が頼朝の下に付くのをごねたのと、
足利義兼が頼朝と母(熱田大宮司)・妻(北条)も一族、子孫も北条と度々姻戚
その上で室町幕府だから後付けで庶流イメージが植え付けられたら >>93
鎌倉時代初期までは、最も出世してる者を嫡流扱いするような流動性があったからな
頼朝ら鎌倉幕府に睨まれて凋落した新田と幕府に功績を立てて出世した足利で差がつくのが当然
ほかの氏族でも鎌倉時代初期頃までは嫡庶の入れ替わりが頻繁だぞ >>93
新田流の山名と里見も宗家を離れて頼朝に懐柔された >>95
逆に鎌倉期に功を立てたら後の子孫が得をする訳だな >>98
それも微妙なんだな
政争に巻き込まれて北条の粛清を受けた功臣家は少なくない
梶原は別としても比企、和田・三浦宗家・安達
むしろ鎌倉党でも長尾みたいに没落後に大人しくしてたのが日の目を見る事もある 吉良家分家の荒川家の荒川定安−定昭−定由−定長−定政の子孫とかどうなったの? >>97 でも、義貞の鎌倉討伐の時に、里見は越後新田党をまとめて従軍。山名は、
尊氏に従い京都に。 >>48_52 臣籍降下だけじゃなく。藤原氏も生存競争は過酷。藤原4兄弟の京家の
麻呂の系統は終始振るわず。北家でも秀郷の親父の村雄は房前5代の孫であるのに
下野国の下級官人に落ちぶれている。 >>107
一代(一世)に二人づつ子供を残せたとしても五代で32人
下級とみるか、実利を得る土着化とみるか >>108 秀郷の 祖父豊沢 父村雄ともに中央での栄達を望まなかったとありますね。
藤原忠平の家人になり、中央での栄達を願った 平将門 貞盛 とは別路線を
歩んだんですね。
http://blogs.yahoo.co.jp/kenichiuematsu/5204696.html 河内源氏の本来の嫡流は、源義忠の後胤。
義家の正室の産んだ子供で最年長は義忠。 >>110
そこで問題になるのは
正室って何?
当時と後世での文化とか価値観などの違い 妻問婚の時代に正室云々は不毛な論争だろう
父親の通称を継承しているかどうかだな >>113
嫡流って考え方も微妙だよね(`・ω・´)
正室が複数ってところかな
女系とか、取り巻く女性の重要性は殊の外強かったんだろうね >>112
義朝の下野守任官までの最後の
河内源氏の受領任官がそれなのかな? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ヨスガノソラ 田舎生活53日目 [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/ranimeh/1477215269/
新田
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足利義兼の眠る樺崎寺がエロゲーの聖地 義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、全成、円成、義経 余談だが、俺が早くに買って推奨した袖珍本、
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念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
GM2 刀剣乱舞で有名になった 山姥切国広を造らせた足利城主 長尾顯長は、
群馬の戦国大名、太田金山城主 由良成繁の息子。 『刀剣乱舞』が紅白出たり、映画化公開されたりで、ブームになるから。
山姥切国広、由良長尾、太田足利、って事で。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています