倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 について
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記紀など資料、中国史書、内外の伝承、神社の縁起、地名の由来を織り交ぜながら、
倭奴国と邪馬台国の生い立ち、その王朝の成り立ち、覇権を争いあった歴史を物語化。
大和朝廷ができるまでの歴史を物語につづりました。大和朝廷以前の歴史はというと、
縄文中期後半、五帝期黄帝の一門が北九州に渡って来て地の神を崇拝する神仙の国(神国)・那珂(中)つ国を立ち上げ、
ついで前五世紀に、呉の太伯や夫差の末裔が江南から渡来して、
天を称える天之(あめの)国〔倭国王朝(高天の原)・倭奴国王朝に発展〕を興したことに始まった。
その百年後の前四世紀後半、蛇神を崇める越のオロチ族(越王勾践の子孫、夏后帝小康庶子末裔)が江南から襲来して
厳之(いつの)国王朝〔豊葦原中つ国王朝・伊都(いつ)国王朝・邪馬台国に発展〕を打ち立てるや、これら勢力が三つ巴になって覇権争いを繰り返してきました。
ご意見・ご感想をお待ちしています。
『邪馬台三国志』倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 についての詳細は、
ホームページ『邪馬台三国志』http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/から、アクセスできます。 弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【∩銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼
(アマテラス)の邪馬台国【○銅鏡祭祀】に国を譲る【∩銅鐸一斉処分:九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の張政/狗奴国による暗殺説)。
-分裂した倭「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘
卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)を
一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
倭「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、中国内戦(五胡十六国)の
悪影響から距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷し、その女系先祖・卑弥呼
(アマテラス)台与由来の【○銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。
※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、【○銅鏡祭祀】「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
【∩銅鐸祭祀】をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の功績を消され出雲に祀られる。 -「大和」朝廷における、♂日向(投馬)系大王と♀筑紫(邪馬台)系大王の(双方の男系男子途絶による)政権交代
4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬)系大王【四道将軍派遣→国造任命→日本武尊東西平定】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王(讃珍済興武)】
→高句麗の南侵に脅かされた百済支援により金官伽耶(後の任那日本府)からの「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】
※
-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
…(×応神5世孫○日本武尊7世孫)継体大王の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
…筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
…「白村江の戦い」完敗→百済・任那滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を喪失。国力低下→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
…両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
…筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都 邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。 私は、
邪馬台国の肥国、
九州王朝の筑紫国、
神武東征の日向国は、
全部独立した別の国だと思っている。 それぞれの生い立ちについて知っておこう。
@【中国の仙話】、黄帝の妻の一人だった皇娥は、天上の仙女として天宮に住み、日夜、機織りに精を出していた。
ある日、彼女が疲れを癒そうと水辺に降り立つと、白帝の子と称する若者と出会って心を通わせあった。
二人の間に児ができた。成人したその児は、東方(山東方面)に鳥の王国を立てて東の天帝に昇った。
そのまた児が渤海の東海上に乗り出して帰墟なる最果ての島に渡り、海神らを従えて神国を立ち上げた。
☆黄帝は自らの国を中つ国(中国)として、東西南北四方に四人の天帝を配して国邑の安泰を図ってきた。
南の天帝は苗族を治める炎帝一門であり、その領域は長江の中・下流域まで及んだ。
西の天帝は白帝と称して関中(渭水平原)を統治した。北の天帝となった后土は幽都(北の都)に留まって北方を統治する一方、
死者の魂が寄り集まる鬼国(黄泉国)も鎮撫していた。この一門は死者が黄泉国に赴く際の葬送儀礼に加えて、天文地理や神仙術も司ったという。
【玄界灘沿岸の地名】、博多近くに那珂・那珂郡・那珂川の地名があり、
その北に暗黒の幽冥界(黄泉国)を連想させる玄界灘・玄界島・玄界の地名が残る。
これこそ、那珂つ国やその一門・后土の国があった名残だ。
☆『漢書』「地理志」、「殷の王道が衰えると、(紂王の叔父で賢人の誉れ高い)箕子は去って朝鮮に赴き、
そこの民に礼儀作法・田蚕・機織を教えた。このときの禁令はわずか八か条に過ぎなかった。
人を殺せば、即刻に死刑。人を傷つけると、穀物で償う。盗みを働けば、相手の家の奴婢に落とされる。
たとえ、服役の代わりに五○万銭をはたいて庶民に戻ったところで、恥がつきまとって結婚もままならなかった。
このため、人々は決して盗みを働かず、家の戸締りもせず、婦人は貞節で淫乱にふけることもなかった。
それが昨今では、中国の官吏や商人が行き来して、この気風を台無しにしてしまった。
国づくりにあっては、仁者賢人の感化がいかに貴いことか」 太伯の末裔
A『晋書』や『魏略』逸文、「(倭人は)太伯の末裔と自ら言う」
宋・元時代を生き抜いた中国史家も、三世紀の倭人が語った言葉としてこう書き残す。
「日本いう、呉の太伯の後なりと。けだし、呉亡んでその傍流、海に入って倭となる」
☆『史記』、「末弟の季歴(文王)が優れた素質を持ちあわせ、その児・昌(武王)の出生時にも瑞兆が現れたことで、
太王は、『我が子孫で栄える者があるとすれば、それは昌であろう』と言った。
これを耳にした嫡子の太伯は、太王が末弟に相続させたがっていると悟ると、次弟と一緒に荊蛮(南の異民族)の地に逃れた。
そして、その土俗に従って入れ墨と断髪を施し、二度と周王朝に戻らない覚悟まで示した。
これに感激した南蛮の千余家が太伯を君主に担いで呉の国を立てた」
☆『漢書』「地理志」、「楽浪海中に住む東夷(倭人)は、孔子が道徳の廃れたことを嘆くあまり、
東の海上に出てそこに住みたいと願ったほどに、その天性は今も柔順にして、三方とは異なる。
その東夷が百余国の上に立って年毎の貢ぎ物を持ち来たり、漢帝に献見したという」
B「倭人伝」、「夏后小康の子は会稽に封ぜられると、髪を切り体に入れ墨して蛟竜の害を避けた。
倭人の海士も海に潜って魚貝を捕え、体に入れ墨して大魚・水鳥を払いのける。・・倭への道程を計ると、
会稽、東冶(福建省、台湾の対岸)の東にあたる。風俗・習慣・産物・武器類は海南島に同じ」
☆『史記』「越王勾践世家」、「越王勾践の先祖は禹王の末裔であって、夏后帝小康の庶子である。
会稽に封じられてからは、禹王の祭祀を勤めとさせられた。その後、南方の蛮族の風習に従って体に入れ墨し、
髪を結わずに振り乱しながら、藪を切り開いて町をおこした」
☆越都のあった紹興近くには、今も禹を蛇神として祀る廟が残るという。
☆参考までに、越の字は漢音では越(えつ)、呉音では越(ヲチ)と発音して、越(こし)は和風の読みだ。
☆越オロチ族は、宗像家を宗家として、佐賀平野の吉野ヶ里、摂津、奈良盆地、北陸に広がり、
それぞれ伊都国(いつ)、小千氏(おち)、三輪氏、越のオロチ族(後世の越智氏)と称した。 呉王夫差と越王勾践
C呉王夫差は、荊蛮の千余家に担がれた太伯が自国を句呉と称して以来、二○余代目にあたる。
前四九四年、呉王夫差が越王勾践率いる大軍を打ち破った。勾践は兵五千と共に会稽山に立てこもったが、
逃げる隙間もないほどに包囲された。進退窮まった勾践が平身低頭して和睦を願い出ると、
夫差は臣下の反対を押し切って和睦を許し、兵をさっさと引き上げた。
前四八九年、夫差は、斉では景公没後に大臣らが権勢を争っていると聞くや、
北に出兵して艾陵(山東)で斉を叩いた。その後も斉に留まって、斉や魯の南方を攻略した。
前四八二年春にも北に軍を送り、黄地(河南)で諸侯らと会盟した。中国の覇者となって、
周室を安泰せしめたいと望んだからだ。このとき、呉軍の精鋭はあらかたが夫差に随行して、残る老人・婦女子が太子と共に留守を守っていた。
勾践はその隙を突いて、水軍二千・訓練の行き届いた兵士四万・近親の武士六千・近衛兵千を総動員し、
呉の都に不意打ちをかけ、太子を殺害してしまった。前四七八年、越はまたも呉に大勝してその都を包囲すること三年だった。
孔子の死から六年後の前四七三年、越軍はついに呉の都を陥れた。勾践は呉の国内を隅々まで平定すると、
大軍と共に淮水を渡って斉・晋の諸侯らと徐州で会合し、ついで貢ぎ物を周室に献上した。
周の元王は使者を遣わして勾践にを賜い、覇者としての称号・候伯を与えた。
その後も勾践は楚に淮水地方を与えたり、宋には呉が侵略した宋の旧領を返してやったり、
魯に対しても泗水の東、方百里の土地を分与するなどした。
この時期、越軍は長江や淮水の東を自由に行き来できたことで、諸侯らは越王勾践を慶賀して覇王と称えていた。 倭の建国
前二二一年に、秦が中国を統一した時も、
「会稽の東海上に、蓬莱・方丈・瀛州の蓬莱三島が漂いながら浮かんでいる。その島の人々は、不老不死の仙薬をたしなみつつ長寿を保っている」
との噂が広まっていた。徐福たちが東の海上に向けて船出したのは、この頃だ。
そうした中に、祖霊が太陽に化身したと信じて、これを心安らかに祭祀できる楽土を求めながら東へ流浪する武装集団がいた。
周分家の韓一門である。彼らは百官や百戦練磨の軍隊、それに陸稲づくりに長けた農民を数多引き連れ、遼東から朝鮮半島南端を目指していた。
☆『史記』、「韓の歴史を遡ると、その公室の先祖は周と同じく姫氏を姓とした。前七世紀中頃、
これにつながる韓武子が晋(周分家)の献帝に仕えて韓原(陜西省)に封じられ、三代後の韓厥が封地にちなんで韓氏と語り始めた」
朝鮮半島南端に至った韓勢は、一門や配下を要所要所に配置して背後の守りを固めてから、蓬莱三島と思しき筑紫島(九州)を目指して対馬海峡を渡って行った。
そして唐津に上陸して軍を整えるや、四方八方の制圧にかかったのである。
辺りの山間や海辺には縄文時代の昔から狩猟民・漁労民が住みついていたし、小高い平原・なだらかな丘陵にも那珂つ国勢が集落を構えていた。
また低地の住みよい土地、めぼしい湿地帯、入り江・河川近辺には江南からの渡来民らが水田稲作や漁業に専念していた。
双方は人や土地の支配をめぐって、あちこちで激突を繰り返した。その中で、厳本家筋のオロチ族武闘派は、めっぽう強かった。
互いが相手を叩きつぶしにかかった結果、オロチ軍が手痛い傷を負って後ずさりし、代わって天之国勢が最前線に踊り出てきた。
両者は押したり引いたりする中で、互いの祖先が周の古公亶父に繋がると知ると、周にも優る国をこの島国に共立したいという想いに駆られた。
果てには、意気投合したのだ。その国都も周の太陽信仰にちなんで陽茂台(倭)と名づけられた。
朝鮮半島に残された韓人たちも、韓にあやかる国を方々に立てた。 姫氏国
☆倭が周につながるとする逸話が平安時代の記録にある。『日本書紀』が貴族の間で流行った平安朝の頃、
その講習会がほぼ三十年置きに開講された。大学寮の博士が講義し、参議らの高官や大臣も聴講して一連の講義が終わるまで、一年余りもかかった。
その時の手記が『日本書紀私記』に綴られ、その中に次の問答がある。
問「この国が姫氏国と呼ばれるのは、なぜか」 答「始祖の天照大神が女神、神功皇后が女帝だったからだ」
この答が見当はずれであるのは、論じるまでもなかろう。 ニワカがトンデモ論議してるよ(笑)
じゃあ何で日本に帰化した呉人が諸蕃に区別されてるんですか?で終わる話しだな(笑) 昔の中国人は、東を南と言ったり北を東と言ったりするから、邪馬台国は大和国で既定なんだが。 王朝の変遷
T 那珂つ国(五帝期黄帝の一門)〓地の神+后土の国 前二十四世紀
U 那珂つ国+天之国(太伯や夫差の子孫)〓(あめつち) 前五世紀中頃
V 厳之国王朝(夏后帝小康や勾践の子孫)〓越オロチ族 前四世紀後半
オロチ族を吉野ヶ里、摂津(小千族)、奈良盆地(三輪オロチ)、北陸(越オロチ)に策封。
W 倭国王朝〓天(厳)之国+日高国(戦国七雄・韓の一門)〓高天 前二二○年頃
X 豊葦原中つ国王朝〓豊国(漢一門)+葦原家(厳一門)+中つ国 前二世紀中頃
Y 伊都国王朝〓吉野ヶ里の越オロチ族(福岡平野に進出)+大倭家? 前一世紀中頃
Z 倭奴国王朝〓倭(=高天)+豊葦原中つ国〓天地 一世紀前半
〈倭国大乱〉 倭奴国王朝→三つに分裂 一八○年代中頃
畿内 日向 出雲
豊葦原水穂国 大山祇ら中つ国一門 素戔嗚→豊葦原中つ国建て直しに失敗
厳之国王朝 天之国王朝※ 大己貴(素戔嗚の児)→葦原中つ国再建
天(厳)之国王朝※
日本王朝※ 狗奴 日前(日前)
熊襲 和王朝
〈神武東征〉 二八三〜二九○年代末
[ 大和朝廷 和+日本+大倭+厳+葦原中つ国等
画像が出力できませんので、こちらをご覧ください。
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/xa11001.jpg
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/new3.html 邪馬台国の位置
画像が出力できないので、こちらをご覧ください。
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/hp3338.gif 箸墓古墳(ヒミコの墓)の変遷、歴代のヒミコの墓
こちらからご覧ください。
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/new1003.html
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/xd5002.jpg 倭国、倭奴国の国のかたち
こちらをご覧ください。
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/xd99011.jpg 高千穂宮は、四ヶ所存在しました。
こちらから、確認してください。
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/hptakachiho1.jpg 司馬遷の信念1
日本の上古を切り開いたのは、大陸の南と北からやって来る渡来人たちでした。それぞれの種族が自身の宗教・伝統・風習とともに
歴史・神話・伝説も引きずりながら、時には反目し、時には手を携えるなどしてこの島国で生き抜き、日本の歴史を作りあげてきたのです。
その中国では王朝が再三入れ替わることで、古い歴史を反映するはずの神話や伝説が断片的にしか残らず、しかもこっけい話が多いことで
歴史事実から外されてきました。だが、その一部が我が国に根づいていて、記紀の神話や伝承、地名、風俗・風習、さらには歴史そのものと結びついています。
それを根拠の無いつくり話とか単なる言い伝えと切り捨てる前に、日本の古代史とどう符合するのか徹底的に吟味すべきです。司馬遷の言を借りると、
「総じて、上古のことを伝える書経(五帝・夏・殷・周の王者の言辞記録)や古老の伝承から、あまり離れていないものが真実に近い。
それに深く思いを巡らし、心にその意を知ること、そのことが大事なのであって、伝えられていることは決して虚言ではない」ということになります。
司馬遷は、この信念の下に数年かけて各地をめぐり歩き、丹念に伝説を拾い集めたのです。
☆司馬遷の書き残した『史記』「殷本記」は、神代と歴史時代を結びつけるための作り話に過ぎないとされたが、二十世紀に、王国維が甲骨文字を解読し、
ついで殷の宮殿跡や陵墓が発見されたことで、「殷本記」にある事績や十数代にわたる王名がほぼ真実と判定されるに至りました。 司馬遷の信念2
☆ヨーロッパでも、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』にある物語は、古代の伝説かお伽話と決めつけられてきたが、
十九世紀になってドイツの素人学者シュリーマンがトロヤの大城壁都市とともにおびただしい財宝を探しあてるに及んで、記述どおり史実と判明しました。
この考えの下で、歴史を体系的な物語に組み立てるという手法を駆使して、縄文晩期つまり水田稲作とともに始まる王朝の興亡史、
邪馬台国史、大和朝廷成立の経緯、記紀や神話の歴史性、先祖祭祀や政の手法、古墳発生の経緯、地名の由来等を一挙に解き明かすことに挑戦しました。
そうしてでき上がった物語の筋書きや内容は、記紀に登場する各人の事績、『史記』・『前漢書』・『後漢書』・『三国志』など中国史書、
古社の縁起、古記録、地名、風俗・風習、伝説・伝承、発掘結果と概ね一致します。特に、本書の王系譜は籠(この)神社(宮津市)所蔵の海部氏系図(国宝)や
『播磨国風土記』の王系とも符号して、その筋書は「倭人伝」のそれと見事に合致します。
さらに和辻哲郎氏の説(大正九年発表)、「皇室の発祥が大和であったなら、畿内勢の祭器だった銅鐸は大和朝廷や皇室の祭祀・文化の中に
何らかの形で残って然るべきだが、銅鐸は山中に打ち捨てられた形で見つかる。一方、北九州系の鏡・剣・玉は皇位の印しとなり、
古墳に副葬品として埋納されてきた。このことは、北九州勢が畿内勢を打ち破ったことを物語っている」とも符合します。 邪馬台国について、まとめました。こちらから画像でご覧ください。
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/new1006.html 邪馬台国/倭奴国の生い立ちについて、まとめました。
こちらからご覧ください。
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/new1004.html ひょうごインターキャンバスに、コミニュティ<『邪馬台三国志』倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語、検証してみよう>を開設しました。
http://mypage.hyogo-intercampus.ne.jp/community/?bbs_id=5
参加・公開条件:誰でもOK[ 外部公開 ]※非ログインユーザにも書き込みが公開されています
使い勝手のよさそうなコミニュティです。ぜひ、覗いてみてください。 海部氏系図から、磐余彦と神功の関係が浮かび上がってきます。
こちらから画像でご覧ください。http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/new1021.html 戦わずして勝つ〈英雄列伝〉 高皇産霊/経津主 神功皇后/磐余彦(神武天皇)/日本武尊
孫子曰く、「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するが善の善なるものなり」
〈敵と戦わずして、敵兵を屈服させるのが最善の策だ。それ故、戦う際のねらいどころは、
敵国または敵軍のはかりごとを未然に砕き、敵の戦意を喪失させることにある〉
邪馬台国時代の指導者たちが競って神国・常世づくりに奮闘したことは、間違いのないところだ。結果は、皮肉にも国を二分するほどの争いに陥ったが、
実のところは、五帝期の神国や、呉・越・周・韓を祖国とする人らが、中国や天竺の神仙観・儒教・仏教・バラモン教の良いところ取りをしつつ
新たな国のかたちを模索したものであり、その狙いは部族間のしきたりや宗教観の違いから起こる対立を一気に消し去り、
同じ価値観・同じ心のあり方・同じ生活の決まりを共有できる国に転換し、
あわせて孫子の兵法極意、即ち「戦わずして勝つ」・「刃に血ぬらずして敵を従える」まで叶えてみせるところにあった。
その秘訣は、十握剣・天日槍・天叢雲剣が放つ神威にあった。これは、高皇産霊/経津主による葦原中つ国の平定、
神功皇后/磐余彦(神武天皇)/日本武尊による新羅征伐・東征・北伐の説話からも、はっきりと見て取れる。
高天の原と組んだ出雲勢も、天日槍子孫の新羅王も、邪馬台国から追放された東北の蝦夷(火明の一派)も、
祭器の神威が目に焼きついていた故、即座にひれ伏したのである。
このように、十握剣・天日槍・天叢雲剣には、水戸黄門のかざす葵紋の印籠をはるかに凌ぐ神威が宿っていた。 『邪馬台三国志』 <英雄列伝>戦わずして勝つ B6判87p 8/26に改定しました。
★三世紀の邪馬台国時代、孫子の兵法極意−戦わずして勝つ−に挑戦した英雄が続出。
★邪馬台国の歴史は、感動に満ち溢れています。
★最新の邪馬台三国志原稿から抜粋して編集しました。
ホームページhttp://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/から、アクセスできます。 1万2000里って邪馬台国じゃなくて奴国までだよな… 1万2000里といったら、約4万8千キロ。
地球を一周半する距離だ。
こんなでたらめがあるか。 倭奴国=邪馬台国説ってどうよ?
奴の文字自体が差別するための文字であり国名ではない
例 匈奴
そう考えると57年の朝貢で金印もらった理由も107年に帥升が朝貢したのも
一連の流れの中で理解できる
要するにAD50年頃にはもうヤマトはある程度形作られていていたと 倭とはヤマトと読めますが、イとも読めるのです
イとは、伊の国を指します。伊予の国の伊の国です
伊の国とは現代の徳島県阿波市を指します
伊の国の凄さは、伊を持つ地名に有ります
紀伊・伊勢・伊豆などです。また、厳島神社の前の名は伊都岐島神社です
斑鳩町には阿波の名を持つ地名も有ります。出雲のイは伊なのです
阿波には、天岩門・ヤマタノオロチ(吉野川氾濫)退治(治水)を納得する場所でもあります
倭大國魂神社があり伊射奈美神社があり大宜都比売神を祭神とする神社もある
その他の神々が祀られる神社の集合体でもあります
出雲大社・伊勢神宮・熱田神宮は荘厳です。それでいいのです
本家と分家は違うのです。知っている人が知っていればいいのです
これこそが日本の神々が教え伝える、奥ゆかしさと慎ましさなのです 金印は委だから、素直によむとイナ国だな。
これは糸島の三雲遺跡の近くにある細石神社にあったものだともいわれてるので・・
どうなんだろうね。 >>36
アンタ、1里=4キロ(日本ではほぼこれだが)で計算したのか。邪馬台国に
関しては1里=400メートルを主張する者が多いが、倭人伝の記述から逆算すると
1里=70〜90メートル程度しかない。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 倭奴国と邪馬台国は同じ国ですよ。時代により国名がかわったのです。
倭(委)奴国=邪馬壹国=邪馬臺国なのでス。
倭面土国は別国デス。 漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。
『後漢書』「卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人」 「倭在韓東南大 海中依山島為居 凡百餘國」
三国志『魏書』巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」 「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
『晋書』四夷傳(東夷条) 「倭人在帶方東南大海中 依山島爲國」
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」[11] 「倭國在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居」 当時の倭国は、多くの国々によってなりたっていました。
それらの中の1っ国が、他の国々をまとめていました。
それが邪馬台国です。卑弥呼はそこの女王でした。
多くの国が寄り集まって(邪馬台国もその1っ国)倭という国をなしていました。その倭国の王が卑弥呼でした。
その連合の国の王が卑弥呼でした。
よって卑弥呼は倭国の女王にして、邪馬台国の女王だったわけです。 ■■■悪の化身『台湾人工作部隊』による二段構造の江南改竄詐欺の手口A■■■
@バカを確実にダマし落とすために、まず朝鮮人のふりをしながら日本人が
朝鮮人と同じ人種かのようなコピペを貼りまくって嫌がらせをしまくる。
(台湾人の自家発電に、おのれ、朝鮮人め!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、ホワイトナイトがごとく何十年も
かけて作り上げてきた、それはそれは高度な改竄用の捏造創作を使って
勝手に自分たちの祖先、長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(朝鮮人を叩く正義のおぢちゃんだ!と、バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南ブタ土人」が日本人の祖先になりました。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 2チャンネル屈指のクソスレである「畿内説スレ」に比べると勉強になるな。
実証するのがたいへんだろうけど。大和朝廷は渡来人が建てた国ということは
よく言われるが、邪馬台国もそうであってもおかしくない。 人によって渡来人の定義が違う
縄文人以外は全部渡来人と言えるから
定義によっては卑弥呼はほぼ100%渡来人という言い方も出来るぞ
もう少し具体的に言わないと意味が無い 歯が語るアイヌの先住性 講師 松村博文(札幌医科大学)
http://www.frpac.or.jp/about/files/sem1721.pdf
人には絶壁頭という頭の短い人と、才槌頭という頭の長い人がいます。
近畿地方を中心として圧倒的に頭の短い人たちが多く、東に行くほど頭が前後に長い人が多くなってくることがわかりました。
大阪大学の小浜基次はもともと頭の長いアイヌ系の人が広く日本に分布していて、朝鮮半島から短頭の人が流入してきたというふうに考えたのです。
比上肢長という体に対する腕の長さの比と足の長さの比をみると、アイヌ、東北人、畿内人の順に長い。
つまり、アイヌの人たちが一番腕や脚が長く、畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。
朝鮮半島の人々も畿内人と同じように腕や脚が比較的短いことがわかりました。
男性の髭は北海道と琉球でよく発達しており、近畿地方の人や朝鮮半島の人ではさほどでもありません。
蒙古襞が発達しているのは近畿の人たち朝鮮半島の人々です。
琉球と北海道の人は目がぱっちりしていて、涙腺がまぶたであまり覆われていません。
いろいろ見ていくと、畿内人と朝鮮半島の人々は北方アジア的な寒冷地適応型の体の特徴を持っている。
沖縄とアイヌの人は似ている。それから東北人はアイヌに近い特徴を示す。
といった共通した地域差の傾向がみてとれます。
頭骨の形の地域性は1980年代に埴原和郎が明らかにしています。
やはり畿内の人々は平均的な日本人とは全然違う人たちだということがはっきりしました。
どういうふうに特殊かというと、顔が面長で平たんな顔といった渡来系の弥生人の特徴を濃厚に持っているのです。 56じゃないけど、弥生人が渡来というのは常識だろ。 それを言ったら縄文人も渡来なんだから
言い方の問題だよ >>55
>人によって渡来人の定義が違う
>縄文人以外は全部渡来人と言えるから
>定義によっては卑弥呼はほぼ100%渡来人という言い方も出来るぞ
>もう少し具体的に言わないと意味が無い
だよな。 中国の歴史書で、単なる水行は河川交通で、それが海上交通を意味する例は1つもありません。
海を行くときは、必ず文には「海」と明示します。
これで、九州であることが明らかな不弥国から南へ河川交通を利用してたどり着く邪馬台国は、
九州島内であることは明らかです。
★畿内説論者が、海を水行する例として出てきた文
>沢散王属大秦、其治在海中央。北至驢分、水行半歳、風疾時一月到。最与安息安谷城相近。(魏志注魏略西域)
「海」の明示あり
>赤土国、扶南之別種也。在南海中、水行百余日而達所都。土色多赤、因以為号。(隋書南蛮)
「海」あり
>流求国、居海島之中,当建安郡東、水行五日而至。(隋書東夷)
「海」の明示あり
>注輦国東距海五里、西至天竺千五百里、南至羅蘭二千五百里、北至頓田三千里。
>自古不通中国、水行至広州約四十一万一千四百里。(宋史外国)
>(※数字からして明らかに海)
「海」の明示あり
>佛逝国東水行四五日、至訶陵国。(新唐諸蛮)
>(※シュリヴィジャヤから東なので当然ながら海)
これだけないように省いてるけど、実は、
「又五日行至海z、蕃人謂之質、南北百里、北岸則羅越国、南岸則佛逝国、佛逝国東水行四五日」で、
「海」の明示あり >>66
日本では河川交通で10日もかかるような川が無いのだが。
関門海峡を通ったということか? 流れの早い川を遡るには、舟に長いロープを2本付け、両岸から舟を引っ張り上げる。
この移動は人間が歩く速度より遅いが、大量の物資を移送できる。 10日もかけてそんなバカみてーなことしないと行けない様なクソど田舎に都があってたまるか! そう言いたいなら、3世紀の魏使に対して言ってやれよ。 倭人伝に書いてあるんだから、その時代の人間に言えよ。 「流れの早い川を遡るには、舟に長いロープを2本付け、両岸から舟を引っ張り上げる。」なんて倭人伝のどこにあんだよ
慰安婦バリの捏造乙 日本列島の川を10日行くんだろ?
3世紀の人間に、そんなはずはないだろう、と一人で文句を言っていればいいんじゃない? 21世紀には裸国と黒歯国へ行くために1年間も川で船を引っ張ってくキチガイがいるときいて 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 邪馬台国が入貢してきたというのは奴国を制圧して外交のための港を奪い取れたからなんだな 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 委は「わ/ゐ」であって「い」とは読めない
現代仮名遣いで解釈してるやつは無知 昔の人は掛詞とか縁とかに気を配ったから、あり得なくはない。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、火の国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を算出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 熊襲梟師。、、、クマソ・タケル。と読むのが通例ですが、
熊はイ、ユとも読むから、、、
熊襲梟師で、、、イソタケル!?=五十猛。 >>92
おお、面白いですね。
もっとも、梟師は筑紫の王を意味する称号だと思うので、固有名詞ではないかもしれません。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
80S4Y 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>1
で、五帝期黄帝の一門と呉の王族の末裔と越のオロチ族が渡来定着した事を
証明する証拠遺跡と、その生活痕たる中国系生活土器と中国系耕作用農具と
中国系住居と中粒種のイネは?
. 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>1
で、五帝期黄帝の一門と呉の王族の末裔と越のオロチ族が渡来定着した事を
証明する証拠遺跡と、その生活痕たる中国系生活土器と中国系住居と
中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓は?
早く言えよ考古学センスゼロの低知能の馬鹿男。 別に栄枯盛衰はしてないだろ。
金印の奴国がそのまま栄枯盛衰なく横すべりで魏志倭人伝の奴国になってるだけ。 福岡は4世紀や5世紀も沖ノ島の祭祀でわかるように栄えているし、その後も太宰府の建設など、繁栄し続けている。 筑紫の中で王宮が代ごとに変わっているだけ。
栄枯盛衰だなんて、どんな小さな国を想定しているんだ? >>1
で、五帝期黄帝の一門と呉の王族の末裔と越のオロチ族が渡来定着した事を
証明する証拠遺跡と、その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と
土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と
漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、五帝期黄帝の一門と呉の王族の末裔と越のオロチ族が渡来定着したと
ウソブているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えよホラ吹き三太夫! とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
E94 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>8
>ジャップの日王が扶余から来てるらしいが
高句麗は当時の日本(越前能登加賀越中)と渤海挟んだ交易で潤ってたからな
財力も半端ない
実際、天皇家の血筋が途絶えた後、福井県通して奈良に攻め登って数年後強引に「継体」(体制の継承者)天皇になってる 継体は越の王だろ。
高句麗というより渤海そのものの分家では? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 上古の韓半島からいくつかの部族が故郷を捨てて海を渡り南の島国にたどり着いた。そこで原住民を指導し神々や天皇になった。それが天孫降臨神話。 >>122
むしろ半島のほうが未開の土人なんだよな
陸続きの文化なのに最古の金印は李氏朝鮮 >>123
誇るべき歴史がない朝鮮系の妄想だからな
まず前提に根拠がない 百済との関係なら、そもそも朝鮮族ではなく扶余族だろ。
扶余から半島と列島にそれぞれ移住したということになる。 >>125
Y遺伝子で人の流入はなかったことが証明されてるじゃん ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>126
人が動かなくても文化は確実に流れ込んできてるだろ 関西の人は韓半島や中国の人にとてもよく似ています
観光客も大阪に親近感を抱きます ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>66
川には水行の語は使わない
川の移動は、泝流か順流
大陸正史の地理・旅程記事で、川に水行の語を使っているのは、
ガンジス川の2例とソンホン川の1例しかない
全例検索、全例検討したからこれ以外ないと断言できる >>66
こんな船で九州の川は進めないと思うぞ。
「楼船 ろうせん
周囲に板を立て並べて、矢石を防ぐように作られた大型船。その形が監獄に似ていることから、この名前がつけられた。
また、多層の船体を持つことから楼船とも呼ばれた。
長さ20m前後、艪の数は片舷20前後。
戦国時代から建造されはじめ、秦、漢時代になると次第に大型化してゆき、三国時代には外洋へ出るための大型海洋船にまでなった。
孫権が東南アジアに使者を使わせたときの船は、7枚の帆を張り600人から700人の乗員を乗せていた。」
http://www1.cts.ne.jp/fleet7/Museum/Muse053.html _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ | []_]∧∧
| | |/ 支\
| ( `ハ´) < 餌の時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
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ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
|. ∧_,,∧ .人. |
| <ヽ`∀´> (__) .....|
|:::(つ= ) \ /:::::::|
__∧___ ̄
待ちわびたニダ♪ 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る
そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない
しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、
また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています