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倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 について
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0001高田康利
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
 記紀など資料、中国史書、内外の伝承、神社の縁起、地名の由来を織り交ぜながら、
 倭奴国と邪馬台国の生い立ち、その王朝の成り立ち、覇権を争いあった歴史を物語化。
 大和朝廷ができるまでの歴史を物語につづりました。大和朝廷以前の歴史はというと、
 縄文中期後半、五帝期黄帝の一門が北九州に渡って来て地の神を崇拝する神仙の国(神国)・那珂(中)つ国を立ち上げ、
 ついで前五世紀に、呉の太伯や夫差の末裔が江南から渡来して、
 天を称える天之(あめの)国〔倭国王朝(高天の原)・倭奴国王朝に発展〕を興したことに始まった。
 その百年後の前四世紀後半、蛇神を崇める越のオロチ族(越王勾践の子孫、夏后帝小康庶子末裔)が江南から襲来して
 厳之(いつの)国王朝〔豊葦原中つ国王朝・伊都(いつ)国王朝・邪馬台国に発展〕を打ち立てるや、これら勢力が三つ巴になって覇権争いを繰り返してきました。
 ご意見・ご感想をお待ちしています。
 『邪馬台三国志』倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 についての詳細は、
 ホームページ『邪馬台三国志』http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/から、アクセスできます。
0002日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:Z1gH5lyC!
邪馬台国なんてどうせ朝鮮半島にあったんだろ。
0003日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
東北らしいぜ
0004日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【∩銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼
(アマテラス)の邪馬台国【○銅鏡祭祀】に国を譲る【∩銅鐸一斉処分:九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の張政/狗奴国による暗殺説)。

-分裂した倭「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)を
一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
 倭「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、中国内戦(五胡十六国)の
悪影響から距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷し、その女系先祖・卑弥呼
(アマテラス)台与由来の【○銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。

※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、【○銅鏡祭祀】「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
 【∩銅鐸祭祀】をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の功績を消され出雲に祀られる。
0005日本@名無史さん
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2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬)系大王と♀筑紫(邪馬台)系大王の(双方の男系男子途絶による)政権交代

4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬)系大王【四道将軍派遣→国造任命→日本武尊東西平定】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王(讃珍済興武)】
   →高句麗の南侵に脅かされた百済支援により金官伽耶(後の任那日本府)からの「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】


-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …(×応神5世孫○日本武尊7世孫)継体大王の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」完敗→百済・任那滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を喪失。国力低下→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
0007サガミハラハラ
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2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。
0008日本@名無史さん
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2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN
私は、
邪馬台国の肥国、
九州王朝の筑紫国、
神武東征の日向国は、
全部独立した別の国だと思っている。
0011高田康利
垢版 |
2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN
    それぞれの生い立ちについて知っておこう。
@【中国の仙話】、黄帝の妻の一人だった皇娥は、天上の仙女として天宮に住み、日夜、機織りに精を出していた。
ある日、彼女が疲れを癒そうと水辺に降り立つと、白帝の子と称する若者と出会って心を通わせあった。
二人の間に児ができた。成人したその児は、東方(山東方面)に鳥の王国を立てて東の天帝に昇った。
そのまた児が渤海の東海上に乗り出して帰墟なる最果ての島に渡り、海神らを従えて神国を立ち上げた。
☆黄帝は自らの国を中つ国(中国)として、東西南北四方に四人の天帝を配して国邑の安泰を図ってきた。
南の天帝は苗族を治める炎帝一門であり、その領域は長江の中・下流域まで及んだ。
  西の天帝は白帝と称して関中(渭水平原)を統治した。北の天帝となった后土は幽都(北の都)に留まって北方を統治する一方、
  死者の魂が寄り集まる鬼国(黄泉国)も鎮撫していた。この一門は死者が黄泉国に赴く際の葬送儀礼に加えて、天文地理や神仙術も司ったという。
【玄界灘沿岸の地名】、博多近くに那珂・那珂郡・那珂川の地名があり、
その北に暗黒の幽冥界(黄泉国)を連想させる玄界灘・玄界島・玄界の地名が残る。
これこそ、那珂つ国やその一門・后土の国があった名残だ。
☆『漢書』「地理志」、「殷の王道が衰えると、(紂王の叔父で賢人の誉れ高い)箕子は去って朝鮮に赴き、
そこの民に礼儀作法・田蚕・機織を教えた。このときの禁令はわずか八か条に過ぎなかった。
人を殺せば、即刻に死刑。人を傷つけると、穀物で償う。盗みを働けば、相手の家の奴婢に落とされる。
たとえ、服役の代わりに五○万銭をはたいて庶民に戻ったところで、恥がつきまとって結婚もままならなかった。
  このため、人々は決して盗みを働かず、家の戸締りもせず、婦人は貞節で淫乱にふけることもなかった。
  それが昨今では、中国の官吏や商人が行き来して、この気風を台無しにしてしまった。
国づくりにあっては、仁者賢人の感化がいかに貴いことか」
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