X



倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 について
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001高田康利
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
 記紀など資料、中国史書、内外の伝承、神社の縁起、地名の由来を織り交ぜながら、
 倭奴国と邪馬台国の生い立ち、その王朝の成り立ち、覇権を争いあった歴史を物語化。
 大和朝廷ができるまでの歴史を物語につづりました。大和朝廷以前の歴史はというと、
 縄文中期後半、五帝期黄帝の一門が北九州に渡って来て地の神を崇拝する神仙の国(神国)・那珂(中)つ国を立ち上げ、
 ついで前五世紀に、呉の太伯や夫差の末裔が江南から渡来して、
 天を称える天之(あめの)国〔倭国王朝(高天の原)・倭奴国王朝に発展〕を興したことに始まった。
 その百年後の前四世紀後半、蛇神を崇める越のオロチ族(越王勾践の子孫、夏后帝小康庶子末裔)が江南から襲来して
 厳之(いつの)国王朝〔豊葦原中つ国王朝・伊都(いつ)国王朝・邪馬台国に発展〕を打ち立てるや、これら勢力が三つ巴になって覇権争いを繰り返してきました。
 ご意見・ご感想をお待ちしています。
 『邪馬台三国志』倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 についての詳細は、
 ホームページ『邪馬台三国志』http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/から、アクセスできます。
0002日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.ANID:Z1gH5lyC!
邪馬台国なんてどうせ朝鮮半島にあったんだろ。
0003日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
東北らしいぜ
0004日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。

 漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【∩銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼
(アマテラス)の邪馬台国【○銅鏡祭祀】に国を譲る【∩銅鐸一斉処分:九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
 これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国が分裂、卑弥呼は急死(男弟/魏の張政/狗奴国による暗殺説)。

-分裂した倭「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘

 卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎え、旧奴国&隅国(隼人)とも同盟を結び、肥後狗奴国(後の熊襲)を
一網打尽にし、倭「和」国を再統一した。
 倭「和」国再統一の偉業をなした男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、中国内戦(五胡十六国)の
悪影響から距離を置くべく、都を筑紫・博多から先遣隊長ニギハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷し、その女系先祖・卑弥呼
(アマテラス)台与由来の【○銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始する。

※古事記・日本書紀が、日向長官の先祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、【○銅鏡祭祀】「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
 【∩銅鐸祭祀】をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の功績を消され出雲に祀られる。
0005日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
-「大和」朝廷における、♂日向(投馬)系大王と♀筑紫(邪馬台)系大王の(双方の男系男子途絶による)政権交代

4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬)系大王【四道将軍派遣→国造任命→日本武尊東西平定】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台)系大王【神功の三韓征伐→倭の五王(讃珍済興武)】
   →高句麗の南侵に脅かされた百済支援により金官伽耶(後の任那日本府)からの「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬)系大王【仏教伝来→白村江の戦い→律令国家】


-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
  …(×応神5世孫○日本武尊7世孫)継体大王の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
  …筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
  …「白村江の戦い」完敗→百済・任那滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を喪失。国力低下→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
  …両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
  …筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都
0007サガミハラハラ
垢版 |
2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は、小城公園内桜ヶ岡です。
0008日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/27(土) NY:AN:NY.AN
私は、
邪馬台国の肥国、
九州王朝の筑紫国、
神武東征の日向国は、
全部独立した別の国だと思っている。
0011高田康利
垢版 |
2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN
    それぞれの生い立ちについて知っておこう。
@【中国の仙話】、黄帝の妻の一人だった皇娥は、天上の仙女として天宮に住み、日夜、機織りに精を出していた。
ある日、彼女が疲れを癒そうと水辺に降り立つと、白帝の子と称する若者と出会って心を通わせあった。
二人の間に児ができた。成人したその児は、東方(山東方面)に鳥の王国を立てて東の天帝に昇った。
そのまた児が渤海の東海上に乗り出して帰墟なる最果ての島に渡り、海神らを従えて神国を立ち上げた。
☆黄帝は自らの国を中つ国(中国)として、東西南北四方に四人の天帝を配して国邑の安泰を図ってきた。
南の天帝は苗族を治める炎帝一門であり、その領域は長江の中・下流域まで及んだ。
  西の天帝は白帝と称して関中(渭水平原)を統治した。北の天帝となった后土は幽都(北の都)に留まって北方を統治する一方、
  死者の魂が寄り集まる鬼国(黄泉国)も鎮撫していた。この一門は死者が黄泉国に赴く際の葬送儀礼に加えて、天文地理や神仙術も司ったという。
【玄界灘沿岸の地名】、博多近くに那珂・那珂郡・那珂川の地名があり、
その北に暗黒の幽冥界(黄泉国)を連想させる玄界灘・玄界島・玄界の地名が残る。
これこそ、那珂つ国やその一門・后土の国があった名残だ。
☆『漢書』「地理志」、「殷の王道が衰えると、(紂王の叔父で賢人の誉れ高い)箕子は去って朝鮮に赴き、
そこの民に礼儀作法・田蚕・機織を教えた。このときの禁令はわずか八か条に過ぎなかった。
人を殺せば、即刻に死刑。人を傷つけると、穀物で償う。盗みを働けば、相手の家の奴婢に落とされる。
たとえ、服役の代わりに五○万銭をはたいて庶民に戻ったところで、恥がつきまとって結婚もままならなかった。
  このため、人々は決して盗みを働かず、家の戸締りもせず、婦人は貞節で淫乱にふけることもなかった。
  それが昨今では、中国の官吏や商人が行き来して、この気風を台無しにしてしまった。
国づくりにあっては、仁者賢人の感化がいかに貴いことか」
0012高田康利
垢版 |
2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN
太伯の末裔
A『晋書』や『魏略』逸文、「(倭人は)太伯の末裔と自ら言う」
宋・元時代を生き抜いた中国史家も、三世紀の倭人が語った言葉としてこう書き残す。
「日本いう、呉の太伯の後なりと。けだし、呉亡んでその傍流、海に入って倭となる」
☆『史記』、「末弟の季歴(文王)が優れた素質を持ちあわせ、その児・昌(武王)の出生時にも瑞兆が現れたことで、
太王は、『我が子孫で栄える者があるとすれば、それは昌であろう』と言った。
  これを耳にした嫡子の太伯は、太王が末弟に相続させたがっていると悟ると、次弟と一緒に荊蛮(南の異民族)の地に逃れた。
  そして、その土俗に従って入れ墨と断髪を施し、二度と周王朝に戻らない覚悟まで示した。
  これに感激した南蛮の千余家が太伯を君主に担いで呉の国を立てた」
☆『漢書』「地理志」、「楽浪海中に住む東夷(倭人)は、孔子が道徳の廃れたことを嘆くあまり、
東の海上に出てそこに住みたいと願ったほどに、その天性は今も柔順にして、三方とは異なる。
その東夷が百余国の上に立って年毎の貢ぎ物を持ち来たり、漢帝に献見したという」
B「倭人伝」、「夏后小康の子は会稽に封ぜられると、髪を切り体に入れ墨して蛟竜の害を避けた。
倭人の海士も海に潜って魚貝を捕え、体に入れ墨して大魚・水鳥を払いのける。・・倭への道程を計ると、
会稽、東冶(福建省、台湾の対岸)の東にあたる。風俗・習慣・産物・武器類は海南島に同じ」
 ☆『史記』「越王勾践世家」、「越王勾践の先祖は禹王の末裔であって、夏后帝小康の庶子である。
 会稽に封じられてからは、禹王の祭祀を勤めとさせられた。その後、南方の蛮族の風習に従って体に入れ墨し、
 髪を結わずに振り乱しながら、藪を切り開いて町をおこした」
 ☆越都のあった紹興近くには、今も禹を蛇神として祀る廟が残るという。
☆参考までに、越の字は漢音では越(えつ)、呉音では越(ヲチ)と発音して、越(こし)は和風の読みだ。
☆越オロチ族は、宗像家を宗家として、佐賀平野の吉野ヶ里、摂津、奈良盆地、北陸に広がり、
それぞれ伊都国(いつ)、小千氏(おち)、三輪氏、越のオロチ族(後世の越智氏)と称した。
0013高田康利
垢版 |
2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN
呉王夫差と越王勾践
C呉王夫差は、荊蛮の千余家に担がれた太伯が自国を句呉と称して以来、二○余代目にあたる。
 前四九四年、呉王夫差が越王勾践率いる大軍を打ち破った。勾践は兵五千と共に会稽山に立てこもったが、
 逃げる隙間もないほどに包囲された。進退窮まった勾践が平身低頭して和睦を願い出ると、
 夫差は臣下の反対を押し切って和睦を許し、兵をさっさと引き上げた。
 前四八九年、夫差は、斉では景公没後に大臣らが権勢を争っていると聞くや、
 北に出兵して艾陵(山東)で斉を叩いた。その後も斉に留まって、斉や魯の南方を攻略した。
 前四八二年春にも北に軍を送り、黄地(河南)で諸侯らと会盟した。中国の覇者となって、
 周室を安泰せしめたいと望んだからだ。このとき、呉軍の精鋭はあらかたが夫差に随行して、残る老人・婦女子が太子と共に留守を守っていた。
 勾践はその隙を突いて、水軍二千・訓練の行き届いた兵士四万・近親の武士六千・近衛兵千を総動員し、
 呉の都に不意打ちをかけ、太子を殺害してしまった。前四七八年、越はまたも呉に大勝してその都を包囲すること三年だった。
 孔子の死から六年後の前四七三年、越軍はついに呉の都を陥れた。勾践は呉の国内を隅々まで平定すると、
 大軍と共に淮水を渡って斉・晋の諸侯らと徐州で会合し、ついで貢ぎ物を周室に献上した。
 周の元王は使者を遣わして勾践にを賜い、覇者としての称号・候伯を与えた。
  その後も勾践は楚に淮水地方を与えたり、宋には呉が侵略した宋の旧領を返してやったり、
  魯に対しても泗水の東、方百里の土地を分与するなどした。
  この時期、越軍は長江や淮水の東を自由に行き来できたことで、諸侯らは越王勾践を慶賀して覇王と称えていた。
0014
垢版 |
2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN
読む気もしません。
0015高田康利
垢版 |
2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN
  倭の建国
前二二一年に、秦が中国を統一した時も、
「会稽の東海上に、蓬莱・方丈・瀛州の蓬莱三島が漂いながら浮かんでいる。その島の人々は、不老不死の仙薬をたしなみつつ長寿を保っている」
  との噂が広まっていた。徐福たちが東の海上に向けて船出したのは、この頃だ。
 そうした中に、祖霊が太陽に化身したと信じて、これを心安らかに祭祀できる楽土を求めながら東へ流浪する武装集団がいた。
 周分家の韓一門である。彼らは百官や百戦練磨の軍隊、それに陸稲づくりに長けた農民を数多引き連れ、遼東から朝鮮半島南端を目指していた。
 ☆『史記』、「韓の歴史を遡ると、その公室の先祖は周と同じく姫氏を姓とした。前七世紀中頃、
 これにつながる韓武子が晋(周分家)の献帝に仕えて韓原(陜西省)に封じられ、三代後の韓厥が封地にちなんで韓氏と語り始めた」
 朝鮮半島南端に至った韓勢は、一門や配下を要所要所に配置して背後の守りを固めてから、蓬莱三島と思しき筑紫島(九州)を目指して対馬海峡を渡って行った。
 そして唐津に上陸して軍を整えるや、四方八方の制圧にかかったのである。
 辺りの山間や海辺には縄文時代の昔から狩猟民・漁労民が住みついていたし、小高い平原・なだらかな丘陵にも那珂つ国勢が集落を構えていた。
 また低地の住みよい土地、めぼしい湿地帯、入り江・河川近辺には江南からの渡来民らが水田稲作や漁業に専念していた。
 双方は人や土地の支配をめぐって、あちこちで激突を繰り返した。その中で、厳本家筋のオロチ族武闘派は、めっぽう強かった。
 互いが相手を叩きつぶしにかかった結果、オロチ軍が手痛い傷を負って後ずさりし、代わって天之国勢が最前線に踊り出てきた。
 両者は押したり引いたりする中で、互いの祖先が周の古公亶父に繋がると知ると、周にも優る国をこの島国に共立したいという想いに駆られた。
 果てには、意気投合したのだ。その国都も周の太陽信仰にちなんで陽茂台(倭)と名づけられた。
 朝鮮半島に残された韓人たちも、韓にあやかる国を方々に立てた。
0016高田康利
垢版 |
2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN
 姫氏国
 ☆倭が周につながるとする逸話が平安時代の記録にある。『日本書紀』が貴族の間で流行った平安朝の頃、
 その講習会がほぼ三十年置きに開講された。大学寮の博士が講義し、参議らの高官や大臣も聴講して一連の講義が終わるまで、一年余りもかかった。
 その時の手記が『日本書紀私記』に綴られ、その中に次の問答がある。
 問「この国が姫氏国と呼ばれるのは、なぜか」 答「始祖の天照大神が女神、神功皇后が女帝だったからだ」
この答が見当はずれであるのは、論じるまでもなかろう。
0017日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN
ニワカがトンデモ論議してるよ(笑)
じゃあ何で日本に帰化した呉人が諸蕃に区別されてるんですか?で終わる話しだな(笑)
0018日本@名無史さん
垢版 |
2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN
昔の中国人は、東を南と言ったり北を東と言ったりするから、邪馬台国は大和国で既定なんだが。
0019高田康利
垢版 |
2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN
 王朝の変遷
T 那珂つ国(五帝期黄帝の一門)〓地の神+后土の国         前二十四世紀
U 那珂つ国+天之国(太伯や夫差の子孫)〓(あめつち)     前五世紀中頃
V 厳之国王朝(夏后帝小康や勾践の子孫)〓越オロチ族        前四世紀後半
       オロチ族を吉野ヶ里、摂津(小千族)、奈良盆地(三輪オロチ)、北陸(越オロチ)に策封。
W 倭国王朝〓天(厳)之国+日高国(戦国七雄・韓の一門)〓高天   前二二○年頃
X 豊葦原中つ国王朝〓豊国(漢一門)+葦原家(厳一門)+中つ国   前二世紀中頃
Y 伊都国王朝〓吉野ヶ里の越オロチ族(福岡平野に進出)+大倭家? 前一世紀中頃
Z 倭奴国王朝〓倭(=高天)+豊葦原中つ国〓天地          一世紀前半 
  〈倭国大乱〉 倭奴国王朝→三つに分裂             一八○年代中頃               
      畿内         日向            出雲
     豊葦原水穂国    大山祇ら中つ国一門  素戔嗚→豊葦原中つ国建て直しに失敗
   厳之国王朝      天之国王朝※     大己貴(素戔嗚の児)→葦原中つ国再建
   天(厳)之国王朝※             
   日本王朝※      狗奴 日前(日前)    
              熊襲 和王朝      
            〈神武東征〉          二八三〜二九○年代末
 [ 大和朝廷 和+日本+大倭+厳+葦原中つ国等
 
画像が出力できませんので、こちらをご覧ください。
 http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/xa11001.jpg
http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/new3.html
0024高田康利
垢版 |
2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN
   司馬遷の信念1
  日本の上古を切り開いたのは、大陸の南と北からやって来る渡来人たちでした。それぞれの種族が自身の宗教・伝統・風習とともに
歴史・神話・伝説も引きずりながら、時には反目し、時には手を携えるなどしてこの島国で生き抜き、日本の歴史を作りあげてきたのです。
  その中国では王朝が再三入れ替わることで、古い歴史を反映するはずの神話や伝説が断片的にしか残らず、しかもこっけい話が多いことで
歴史事実から外されてきました。だが、その一部が我が国に根づいていて、記紀の神話や伝承、地名、風俗・風習、さらには歴史そのものと結びついています。
  それを根拠の無いつくり話とか単なる言い伝えと切り捨てる前に、日本の古代史とどう符合するのか徹底的に吟味すべきです。司馬遷の言を借りると、
「総じて、上古のことを伝える書経(五帝・夏・殷・周の王者の言辞記録)や古老の伝承から、あまり離れていないものが真実に近い。
それに深く思いを巡らし、心にその意を知ること、そのことが大事なのであって、伝えられていることは決して虚言ではない」ということになります。
司馬遷は、この信念の下に数年かけて各地をめぐり歩き、丹念に伝説を拾い集めたのです。
 ☆司馬遷の書き残した『史記』「殷本記」は、神代と歴史時代を結びつけるための作り話に過ぎないとされたが、二十世紀に、王国維が甲骨文字を解読し、
 ついで殷の宮殿跡や陵墓が発見されたことで、「殷本記」にある事績や十数代にわたる王名がほぼ真実と判定されるに至りました。
0025高田康利
垢版 |
2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN
司馬遷の信念2
 ☆ヨーロッパでも、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』にある物語は、古代の伝説かお伽話と決めつけられてきたが、
 十九世紀になってドイツの素人学者シュリーマンがトロヤの大城壁都市とともにおびただしい財宝を探しあてるに及んで、記述どおり史実と判明しました。
 この考えの下で、歴史を体系的な物語に組み立てるという手法を駆使して、縄文晩期つまり水田稲作とともに始まる王朝の興亡史、
 邪馬台国史、大和朝廷成立の経緯、記紀や神話の歴史性、先祖祭祀や政の手法、古墳発生の経緯、地名の由来等を一挙に解き明かすことに挑戦しました。
そうしてでき上がった物語の筋書きや内容は、記紀に登場する各人の事績、『史記』・『前漢書』・『後漢書』・『三国志』など中国史書、
古社の縁起、古記録、地名、風俗・風習、伝説・伝承、発掘結果と概ね一致します。特に、本書の王系譜は籠(この)神社(宮津市)所蔵の海部氏系図(国宝)や
『播磨国風土記』の王系とも符号して、その筋書は「倭人伝」のそれと見事に合致します。
 さらに和辻哲郎氏の説(大正九年発表)、「皇室の発祥が大和であったなら、畿内勢の祭器だった銅鐸は大和朝廷や皇室の祭祀・文化の中に
何らかの形で残って然るべきだが、銅鐸は山中に打ち捨てられた形で見つかる。一方、北九州系の鏡・剣・玉は皇位の印しとなり、
古墳に副葬品として埋納されてきた。このことは、北九州勢が畿内勢を打ち破ったことを物語っている」とも符合します。
0028高田康利
垢版 |
2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN
ひょうごインターキャンバスに、コミニュティ<『邪馬台三国志』倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語、検証してみよう>を開設しました。
http://mypage.hyogo-intercampus.ne.jp/community/?bbs_id=5

参加・公開条件:誰でもOK[ 外部公開 ]※非ログインユーザにも書き込みが公開されています
使い勝手のよさそうなコミニュティです。ぜひ、覗いてみてください。
0029高田康利
垢版 |
2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN
海部氏系図から、磐余彦と神功の関係が浮かび上がってきます。
こちらから画像でご覧ください。http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/new1021.html
0030高田康利 
垢版 |
2013/08/15(木) NY:AN:NY.AN
  戦わずして勝つ〈英雄列伝〉 高皇産霊/経津主  神功皇后/磐余彦(神武天皇)/日本武尊
孫子曰く、「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するが善の善なるものなり」
〈敵と戦わずして、敵兵を屈服させるのが最善の策だ。それ故、戦う際のねらいどころは、
敵国または敵軍のはかりごとを未然に砕き、敵の戦意を喪失させることにある〉
 
 邪馬台国時代の指導者たちが競って神国・常世づくりに奮闘したことは、間違いのないところだ。結果は、皮肉にも国を二分するほどの争いに陥ったが、
 実のところは、五帝期の神国や、呉・越・周・韓を祖国とする人らが、中国や天竺の神仙観・儒教・仏教・バラモン教の良いところ取りをしつつ
 新たな国のかたちを模索したものであり、その狙いは部族間のしきたりや宗教観の違いから起こる対立を一気に消し去り、
 同じ価値観・同じ心のあり方・同じ生活の決まりを共有できる国に転換し、
 あわせて孫子の兵法極意、即ち「戦わずして勝つ」・「刃に血ぬらずして敵を従える」まで叶えてみせるところにあった。
 その秘訣は、十握剣・天日槍・天叢雲剣が放つ神威にあった。これは、高皇産霊/経津主による葦原中つ国の平定、
 神功皇后/磐余彦(神武天皇)/日本武尊による新羅征伐・東征・北伐の説話からも、はっきりと見て取れる。
 高天の原と組んだ出雲勢も、天日槍子孫の新羅王も、邪馬台国から追放された東北の蝦夷(火明の一派)も、
 祭器の神威が目に焼きついていた故、即座にひれ伏したのである。
このように、十握剣・天日槍・天叢雲剣には、水戸黄門のかざす葵紋の印籠をはるかに凌ぐ神威が宿っていた。
0031高田康利 
垢版 |
2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN
『邪馬台三国志』 <英雄列伝>戦わずして勝つ B6判87p  8/26に改定しました。 
★三世紀の邪馬台国時代、孫子の兵法極意−戦わずして勝つ−に挑戦した英雄が続出。
★邪馬台国の歴史は、感動に満ち溢れています。
★最新の邪馬台三国志原稿から抜粋して編集しました。
 ホームページhttp://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/から、アクセスできます。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN
邪馬台国なんて朝廷に滅ぼされた熊襲の国だろ
0034日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/23(火) 08:59:18.62
>>32
いや、滅ぼした朝廷の側のことだよ
0035日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/25(木) 11:49:45.06
1万2000里って邪馬台国じゃなくて奴国までだよな…
0036日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/01(土) 05:29:03.11
1万2000里といったら、約4万8千キロ。
地球を一周半する距離だ。
こんなでたらめがあるか。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/04(火) 14:05:07.45
一桁間違ってる?
0038日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/09(日) 05:23:01.66
すまん、地球一周は30万キロだった。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/09(日) 09:57:14.55
>>38
んな訳ないだろ。
0040日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/10(月) 16:30:42.86
倭奴国=邪馬台国説ってどうよ?
奴の文字自体が差別するための文字であり国名ではない
例 匈奴

そう考えると57年の朝貢で金印もらった理由も107年に帥升が朝貢したのも
一連の流れの中で理解できる

要するにAD50年頃にはもうヤマトはある程度形作られていていたと
0041日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/15(土) 23:41:59.44
倭とはヤマトと読めますが、イとも読めるのです
イとは、伊の国を指します。伊予の国の伊の国です
伊の国とは現代の徳島県阿波市を指します

伊の国の凄さは、伊を持つ地名に有ります
紀伊・伊勢・伊豆などです。また、厳島神社の前の名は伊都岐島神社です
斑鳩町には阿波の名を持つ地名も有ります。出雲のイは伊なのです

阿波には、天岩門・ヤマタノオロチ(吉野川氾濫)退治(治水)を納得する場所でもあります
倭大國魂神社があり伊射奈美神社があり大宜都比売神を祭神とする神社もある
その他の神々が祀られる神社の集合体でもあります

出雲大社・伊勢神宮・熱田神宮は荘厳です。それでいいのです
本家と分家は違うのです。知っている人が知っていればいいのです
これこそが日本の神々が教え伝える、奥ゆかしさと慎ましさなのです
0043日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/02(月) 16:29:56.43
やっぱり、邪馬台国は韓国だったんだね^^
0044日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/16(月) 16:07:58.46
金印は委だから、素直によむとイナ国だな。

これは糸島の三雲遺跡の近くにある細石神社にあったものだともいわれてるので・・
どうなんだろうね。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況