倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 について
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記紀など資料、中国史書、内外の伝承、神社の縁起、地名の由来を織り交ぜながら、
倭奴国と邪馬台国の生い立ち、その王朝の成り立ち、覇権を争いあった歴史を物語化。
大和朝廷ができるまでの歴史を物語につづりました。大和朝廷以前の歴史はというと、
縄文中期後半、五帝期黄帝の一門が北九州に渡って来て地の神を崇拝する神仙の国(神国)・那珂(中)つ国を立ち上げ、
ついで前五世紀に、呉の太伯や夫差の末裔が江南から渡来して、
天を称える天之(あめの)国〔倭国王朝(高天の原)・倭奴国王朝に発展〕を興したことに始まった。
その百年後の前四世紀後半、蛇神を崇める越のオロチ族(越王勾践の子孫、夏后帝小康庶子末裔)が江南から襲来して
厳之(いつの)国王朝〔豊葦原中つ国王朝・伊都(いつ)国王朝・邪馬台国に発展〕を打ち立てるや、これら勢力が三つ巴になって覇権争いを繰り返してきました。
ご意見・ご感想をお待ちしています。
『邪馬台三国志』倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語 についての詳細は、
ホームページ『邪馬台三国志』http://www2h.biglobe.ne.jp/~aoitaka/から、アクセスできます。 1万2000里って邪馬台国じゃなくて奴国までだよな… 1万2000里といったら、約4万8千キロ。
地球を一周半する距離だ。
こんなでたらめがあるか。 倭奴国=邪馬台国説ってどうよ?
奴の文字自体が差別するための文字であり国名ではない
例 匈奴
そう考えると57年の朝貢で金印もらった理由も107年に帥升が朝貢したのも
一連の流れの中で理解できる
要するにAD50年頃にはもうヤマトはある程度形作られていていたと 倭とはヤマトと読めますが、イとも読めるのです
イとは、伊の国を指します。伊予の国の伊の国です
伊の国とは現代の徳島県阿波市を指します
伊の国の凄さは、伊を持つ地名に有ります
紀伊・伊勢・伊豆などです。また、厳島神社の前の名は伊都岐島神社です
斑鳩町には阿波の名を持つ地名も有ります。出雲のイは伊なのです
阿波には、天岩門・ヤマタノオロチ(吉野川氾濫)退治(治水)を納得する場所でもあります
倭大國魂神社があり伊射奈美神社があり大宜都比売神を祭神とする神社もある
その他の神々が祀られる神社の集合体でもあります
出雲大社・伊勢神宮・熱田神宮は荘厳です。それでいいのです
本家と分家は違うのです。知っている人が知っていればいいのです
これこそが日本の神々が教え伝える、奥ゆかしさと慎ましさなのです 金印は委だから、素直によむとイナ国だな。
これは糸島の三雲遺跡の近くにある細石神社にあったものだともいわれてるので・・
どうなんだろうね。 >>36
アンタ、1里=4キロ(日本ではほぼこれだが)で計算したのか。邪馬台国に
関しては1里=400メートルを主張する者が多いが、倭人伝の記述から逆算すると
1里=70〜90メートル程度しかない。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 倭奴国と邪馬台国は同じ国ですよ。時代により国名がかわったのです。
倭(委)奴国=邪馬壹国=邪馬臺国なのでス。
倭面土国は別国デス。 漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。
『後漢書』「卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人」 「倭在韓東南大 海中依山島為居 凡百餘國」
三国志『魏書』巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」 「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
『晋書』四夷傳(東夷条) 「倭人在帶方東南大海中 依山島爲國」
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」[11] 「倭國在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居」 当時の倭国は、多くの国々によってなりたっていました。
それらの中の1っ国が、他の国々をまとめていました。
それが邪馬台国です。卑弥呼はそこの女王でした。
多くの国が寄り集まって(邪馬台国もその1っ国)倭という国をなしていました。その倭国の王が卑弥呼でした。
その連合の国の王が卑弥呼でした。
よって卑弥呼は倭国の女王にして、邪馬台国の女王だったわけです。 ■■■悪の化身『台湾人工作部隊』による二段構造の江南改竄詐欺の手口A■■■
@バカを確実にダマし落とすために、まず朝鮮人のふりをしながら日本人が
朝鮮人と同じ人種かのようなコピペを貼りまくって嫌がらせをしまくる。
(台湾人の自家発電に、おのれ、朝鮮人め!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、ホワイトナイトがごとく何十年も
かけて作り上げてきた、それはそれは高度な改竄用の捏造創作を使って
勝手に自分たちの祖先、長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(朝鮮人を叩く正義のおぢちゃんだ!と、バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南ブタ土人」が日本人の祖先になりました。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 2チャンネル屈指のクソスレである「畿内説スレ」に比べると勉強になるな。
実証するのがたいへんだろうけど。大和朝廷は渡来人が建てた国ということは
よく言われるが、邪馬台国もそうであってもおかしくない。 人によって渡来人の定義が違う
縄文人以外は全部渡来人と言えるから
定義によっては卑弥呼はほぼ100%渡来人という言い方も出来るぞ
もう少し具体的に言わないと意味が無い 歯が語るアイヌの先住性 講師 松村博文(札幌医科大学)
http://www.frpac.or.jp/about/files/sem1721.pdf
人には絶壁頭という頭の短い人と、才槌頭という頭の長い人がいます。
近畿地方を中心として圧倒的に頭の短い人たちが多く、東に行くほど頭が前後に長い人が多くなってくることがわかりました。
大阪大学の小浜基次はもともと頭の長いアイヌ系の人が広く日本に分布していて、朝鮮半島から短頭の人が流入してきたというふうに考えたのです。
比上肢長という体に対する腕の長さの比と足の長さの比をみると、アイヌ、東北人、畿内人の順に長い。
つまり、アイヌの人たちが一番腕や脚が長く、畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。
朝鮮半島の人々も畿内人と同じように腕や脚が比較的短いことがわかりました。
男性の髭は北海道と琉球でよく発達しており、近畿地方の人や朝鮮半島の人ではさほどでもありません。
蒙古襞が発達しているのは近畿の人たち朝鮮半島の人々です。
琉球と北海道の人は目がぱっちりしていて、涙腺がまぶたであまり覆われていません。
いろいろ見ていくと、畿内人と朝鮮半島の人々は北方アジア的な寒冷地適応型の体の特徴を持っている。
沖縄とアイヌの人は似ている。それから東北人はアイヌに近い特徴を示す。
といった共通した地域差の傾向がみてとれます。
頭骨の形の地域性は1980年代に埴原和郎が明らかにしています。
やはり畿内の人々は平均的な日本人とは全然違う人たちだということがはっきりしました。
どういうふうに特殊かというと、顔が面長で平たんな顔といった渡来系の弥生人の特徴を濃厚に持っているのです。 56じゃないけど、弥生人が渡来というのは常識だろ。 それを言ったら縄文人も渡来なんだから
言い方の問題だよ >>55
>人によって渡来人の定義が違う
>縄文人以外は全部渡来人と言えるから
>定義によっては卑弥呼はほぼ100%渡来人という言い方も出来るぞ
>もう少し具体的に言わないと意味が無い
だよな。 中国の歴史書で、単なる水行は河川交通で、それが海上交通を意味する例は1つもありません。
海を行くときは、必ず文には「海」と明示します。
これで、九州であることが明らかな不弥国から南へ河川交通を利用してたどり着く邪馬台国は、
九州島内であることは明らかです。
★畿内説論者が、海を水行する例として出てきた文
>沢散王属大秦、其治在海中央。北至驢分、水行半歳、風疾時一月到。最与安息安谷城相近。(魏志注魏略西域)
「海」の明示あり
>赤土国、扶南之別種也。在南海中、水行百余日而達所都。土色多赤、因以為号。(隋書南蛮)
「海」あり
>流求国、居海島之中,当建安郡東、水行五日而至。(隋書東夷)
「海」の明示あり
>注輦国東距海五里、西至天竺千五百里、南至羅蘭二千五百里、北至頓田三千里。
>自古不通中国、水行至広州約四十一万一千四百里。(宋史外国)
>(※数字からして明らかに海)
「海」の明示あり
>佛逝国東水行四五日、至訶陵国。(新唐諸蛮)
>(※シュリヴィジャヤから東なので当然ながら海)
これだけないように省いてるけど、実は、
「又五日行至海z、蕃人謂之質、南北百里、北岸則羅越国、南岸則佛逝国、佛逝国東水行四五日」で、
「海」の明示あり >>66
日本では河川交通で10日もかかるような川が無いのだが。
関門海峡を通ったということか? 流れの早い川を遡るには、舟に長いロープを2本付け、両岸から舟を引っ張り上げる。
この移動は人間が歩く速度より遅いが、大量の物資を移送できる。 10日もかけてそんなバカみてーなことしないと行けない様なクソど田舎に都があってたまるか! そう言いたいなら、3世紀の魏使に対して言ってやれよ。 倭人伝に書いてあるんだから、その時代の人間に言えよ。 「流れの早い川を遡るには、舟に長いロープを2本付け、両岸から舟を引っ張り上げる。」なんて倭人伝のどこにあんだよ
慰安婦バリの捏造乙 日本列島の川を10日行くんだろ?
3世紀の人間に、そんなはずはないだろう、と一人で文句を言っていればいいんじゃない? 21世紀には裸国と黒歯国へ行くために1年間も川で船を引っ張ってくキチガイがいるときいて 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 邪馬台国が入貢してきたというのは奴国を制圧して外交のための港を奪い取れたからなんだな 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 委は「わ/ゐ」であって「い」とは読めない
現代仮名遣いで解釈してるやつは無知 昔の人は掛詞とか縁とかに気を配ったから、あり得なくはない。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、火の国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の国々は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を算出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 熊襲梟師。、、、クマソ・タケル。と読むのが通例ですが、
熊はイ、ユとも読むから、、、
熊襲梟師で、、、イソタケル!?=五十猛。 >>92
おお、面白いですね。
もっとも、梟師は筑紫の王を意味する称号だと思うので、固有名詞ではないかもしれません。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
80S4Y 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>1
で、五帝期黄帝の一門と呉の王族の末裔と越のオロチ族が渡来定着した事を
証明する証拠遺跡と、その生活痕たる中国系生活土器と中国系耕作用農具と
中国系住居と中粒種のイネは?
. 畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 邪馬台国畿内説が、粉々に、木っ端みじんに論破され、見る影もなく叩き潰されてしまった、今、キナイコシはどうやって生きて行けばよいのだろうか。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 >>1
で、五帝期黄帝の一門と呉の王族の末裔と越のオロチ族が渡来定着した事を
証明する証拠遺跡と、その生活痕たる中国系生活土器と中国系住居と
中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓は?
早く言えよ考古学センスゼロの低知能の馬鹿男。 別に栄枯盛衰はしてないだろ。
金印の奴国がそのまま栄枯盛衰なく横すべりで魏志倭人伝の奴国になってるだけ。 福岡は4世紀や5世紀も沖ノ島の祭祀でわかるように栄えているし、その後も太宰府の建設など、繁栄し続けている。 筑紫の中で王宮が代ごとに変わっているだけ。
栄枯盛衰だなんて、どんな小さな国を想定しているんだ? >>1
で、五帝期黄帝の一門と呉の王族の末裔と越のオロチ族が渡来定着した事を
証明する証拠遺跡と、その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と
土壁の中国系住居と石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と
漢字の金石文と龍信仰と亀卜は?
で、五帝期黄帝の一門と呉の王族の末裔と越のオロチ族が渡来定着したと
ウソブているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えよホラ吹き三太夫! とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
E94 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>8
>ジャップの日王が扶余から来てるらしいが
高句麗は当時の日本(越前能登加賀越中)と渤海挟んだ交易で潤ってたからな
財力も半端ない
実際、天皇家の血筋が途絶えた後、福井県通して奈良に攻め登って数年後強引に「継体」(体制の継承者)天皇になってる 継体は越の王だろ。
高句麗というより渤海そのものの分家では? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 上古の韓半島からいくつかの部族が故郷を捨てて海を渡り南の島国にたどり着いた。そこで原住民を指導し神々や天皇になった。それが天孫降臨神話。 >>122
むしろ半島のほうが未開の土人なんだよな
陸続きの文化なのに最古の金印は李氏朝鮮 >>123
誇るべき歴史がない朝鮮系の妄想だからな
まず前提に根拠がない 百済との関係なら、そもそも朝鮮族ではなく扶余族だろ。
扶余から半島と列島にそれぞれ移住したということになる。 >>125
Y遺伝子で人の流入はなかったことが証明されてるじゃん ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>126
人が動かなくても文化は確実に流れ込んできてるだろ 関西の人は韓半島や中国の人にとてもよく似ています
観光客も大阪に親近感を抱きます ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>66
川には水行の語は使わない
川の移動は、泝流か順流
大陸正史の地理・旅程記事で、川に水行の語を使っているのは、
ガンジス川の2例とソンホン川の1例しかない
全例検索、全例検討したからこれ以外ないと断言できる >>66
こんな船で九州の川は進めないと思うぞ。
「楼船 ろうせん
周囲に板を立て並べて、矢石を防ぐように作られた大型船。その形が監獄に似ていることから、この名前がつけられた。
また、多層の船体を持つことから楼船とも呼ばれた。
長さ20m前後、艪の数は片舷20前後。
戦国時代から建造されはじめ、秦、漢時代になると次第に大型化してゆき、三国時代には外洋へ出るための大型海洋船にまでなった。
孫権が東南アジアに使者を使わせたときの船は、7枚の帆を張り600人から700人の乗員を乗せていた。」
http://www1.cts.ne.jp/fleet7/Museum/Muse053.html ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています