もし秀吉が明ではなく東南アジアに進出してたら
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一応スペイン・ポルトガルと武力衝突はさけられないと思うが
日本は豊かになったのか、そして東南アジアを植民地にできた
のだろうか マニラに着いた途端死亡した高山右近のことを見てるからそれはない。 >>4
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E8%97%A9%E5%A3%AB%E6%AE%89%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
北海道ですらこのありさまだが何か? >>5
現地人ですら死亡率が高く、平均寿命が短い地域だからな。
現地人の案内もなく、急ごしらえで、出立したのがまずかった。 海という巨大な壁を考えない脳天気なやつは、信長を主人公にした妄想でオナニーする。 信長は好奇心も強く、宣教師にも好意的だったので、
西洋式の船や航海技術も手に入れていただろう。 .
秀吉の以前に松浦鎮信が、ルソン征服計画を立案し、実行直前まで行っている。
スペイン人の支配に不満を募らせたルソン島の原住民首領は、日本から
火縄銃や大砲、手投爆弾等を輸入して、松浦軍の到着と同時にスペイン人に
対して反乱を起こす計画だった。
しかもボルネオ・モルッカ・マレーのイスラム勢力もそれを支援し、
松浦軍の侵攻と同時に一斉蜂起してマニラのスペイン人を包囲撃滅する計画だった。
その為にルソン島の原住民首領は、日本製の火縄銃を既にボルネオ王に送っていた位である。
秀吉以降も、薩摩藩初代藩主の島津家久や島原の乱の松倉重政・勝家親子がルソン遠征を狙い準備をしていた。
その場合でも、ルソン島の原住民首領からの出兵要請や協力の申し出が、有ったとされる。 そいいやインドネシアあたりまでイスラム教って伸びているもんな
ちょっと伸び方が変なのよあれ、中央アジアは元は大乗仏教圏
インドはイスラム勢力と戦争まで起こしヒンドゥー教を守った
仏教を残すは少乗仏教圏の東南アジアのみ イギリスがインドと始め結びついたのは反イスラムだろあれ
支配権を奪っちまったがな、最初は利害の一致なんだろ ハーン号は元はモンゴル発祥だけど元朝の消滅により仏教勢力は消滅
ハーン号や思想はイスラム勢力出身の王たちに引き継がれその勢力拡大に
伴い中央アジアはイスラム化
これが歴史的過程 そういや仏教の遺跡の爆破事件があったよな
当たり前だがね、14世紀ころまではあの辺全て
大乗仏教圏なんだからよ 当時スペインポルトガルとイギリスオランダは戦争中で
奴らの東南アジアの戦力は日本人奴隷に頼っていたから
朝鮮よりはマシな結果だったと思う >>5
ろくな準備をさせてもらえずほうりだされた特殊な事例だな
庄内藩盛岡藩久保田藩ではそんなことは起きてない
もっともロシア人に銃撃されて死者がでることはあるが 北海道よりさむい朝鮮でも越冬してたよね
大変だったらしいけど
北海道に江戸時代に行っていたら
毛皮商業が活発になってたんだろうな >>1日本人に植民地って発想はあったのかね?農地を切り分けて宛がって終わりそうな悪寒 江戸時代初期の対外遠征
http://www.asyu ra2.com/0505/asia2/msg/325.html
1630.11.11 島原藩主松倉重政、ルソン征伐のために偵察を派遣 11.16 松倉重政死去。ルソン征伐中止
1637 幕府、ルソン征伐を計画するが島原の乱発生のため中止 「征伐」って発送になっちゃうんだよな
港町の小さな橋頭堡つくる
面じゃなくて点をたくさん ああ、ルソンを征服したら日本は変わったね。当時のフィリピン群島は人口100万人くらいだから、
案外綺麗に日本語を押し付けられたと思うよ。
そうすれば南洋に第2の日本誕生だ。
江戸時代300年のあいだに、フィリピンが少しづつ開発され幕末には300万石ぐらいの領地になっていただろうね。
現地領主には、皇族を呂宋の宮としてお迎えし、平安初期の日本みたいに皇胤が大繁栄していたかも。 で、移住する人々はそれを望むのかな?
人間は将棋の駒じゃねえぞ。 月刊正論2016年2月号
第4章 欧米の太平洋侵略と江戸時代の日本A
評論家 西尾幹二
http://seiron-sankei.com/recent
西尾氏の文を読んだら、鎖国がなければ確実に台湾は日本領になったようだね。
徳川幕府が支配者でなければアンボイナ事件などでモルッカやマニラの白人相手に武力行使に出ていただろう。
アルブケルケ提督は、リスボンでアジアに於ける経験談を本にまとめ、その中で日本人を紹介した。
「彼らは信義を重んじ、相手の虚言に気がつけば直ちに取引を中止して立ち去る。他国に留まることを好まず、
植民地を作らないし、持たない。極めて言葉が少なく、本国の事情を多く語らない。彼らは勇敢で、マラッカでは
畏敬されている。マレー人は狡猾で信実に乏しいが、彼らは高貴の種族にして善良なる風習の民族である」
http://d.hatena.ne.jp/nisikiyama2-14+kurigonn-1957/20150801/1438437994
1609年メキシコにて出版されたアントニオ・デ・オルガ(Antonio de Morga)の
「フィリピン群島誌」には、日本人に関して
http://devlin.blog.so-net.ne.jp/2013-06-30 (26)鎖国際策の結果、17世紀末には日本人は東南アジアから姿を消した。次に日本人が登場するのは 250年後である。
ちなみに、1549年から1603年まで駐マニラのフィリピン副総督だったスペイン人 モルガという人物が当時の日本人観に
ついて「日本人達は誇り高い人種で、勇敢で精力的であり、 苦難に遭っては断固たる行動に出る。また誠実な人間で、
洗礼を受ければよい信者になる。そして なるべく早く日本に帰りたがる。さらに現地の人に対して威張りたがる」と
述べている。三浦朱門 『東南アジアから見た日本』小学館、1976年、109?110頁。
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images/_tz0729.5767e633cc59c2db4ac026360f0f4429.pdf
16〜17世紀マニラのモルガ副総督談:
「洗礼を受けたとしても中国人は打算からで油断はならない/
日本人は魂の救済を求めてのことである」
http://blog.livedoor.jp/ail01u9j10taw/archives/2011-09-05.html
スペイン人が残した史料では、日本人はすぐに帰国したがるから恐れることはないが、中国人は一族郎党を連れて船に
乗ってやってきてそのまま定住する習性、脅威があったそうだ。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
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