【羽柴】武家の臣下への賜姓について【松平】
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・江戸時代の国持大名がほとんど「松平」を姓として使っていた
・豊臣家は家臣に「豊臣」「羽柴」などのを与えていた
・織田弾正忠家の「織田」も守護代家からの賜姓で、元の姓は「津田」?
・平盛国は清盛から「平」を賜姓されていた?
などなど、賜姓についてのスレッド。 また懲りもせず、間違いだらけのスレをたてやがって。ウジナとカバネとミョウジの区別つくまでオマイはスレタテ禁止と言っただろ。 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/ >>1
4つ目で大コケしたな。
まあ上2つに関連する話題に限定したら良いスレに化けるかもしれない。 秀吉が豊臣をやったやつと羽柴をやったやつの違いとか知りたい。 >>5
すごい簡単に言うと、官位を持っているのはみんな豊臣姓
羽柴は親戚扱いってことだな 豊臣は秀吉のお気に入りに
羽柴は大名たちへ儀礼として
この違いだと思ってたぞ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%9F%B4%E6%B0%8F
天正3年(1575年)
羽柴秀長
天正8年(1580年)
羽柴秀勝
天正10年(1582年)
堀秀政
天正12年(1584年)
羽柴秀次、結城秀康、蒲生氏郷
天正13年(1585年)
羽柴秀勝、滝川雄利、丹羽長重、細川忠興、前田利家、前田利長
天正14年(1586年)
稲葉貞通
天正15年(1587年)
宇喜多秀家、細川忠隆、佐々成政、池田輝政、筒井定次、長谷川秀一、蜂屋頼隆、毛利秀頼
天正16年(1588年)
大友吉統、上杉景勝、立花宗茂、吉川広家、小早川隆景、毛利輝元、島津義弘、毛利秀包、龍造寺政家
天正17年(1589年)
森忠政、長宗我部元親
(続く) 天正18年(1590年)
島津義久
天正19年(1591年)
木下勝俊、堀親良、佐竹義宣、伊達政宗
天正20年/文禄元年(1592年)
織田秀信、宗義智、最上義光
文禄2年(1593年)
里見義康、徳川家康
文禄4年(1595年)
小早川秀秋、堀秀治、蒲生秀行、織田秀雄、京極高次、京極高知、前田利政、織田信高、徳川秀忠、毛利秀元
慶長2年(1597年)
龍造寺高房
慶長3年(1598年)
福島正則
慶長4年(1599年)
青木一矩、戸田勝成、羽柴秀直、島津家久
160?年
池田利隆
慶長20年/元和元年(1615年)
滝川正利(疑問あり)
年代不明
羽柴忠清(福島忠勝と同一人物か)
寛永12年(1635年)
羽柴市十郎(疑問あり)
(羽柴氏授与おわり) 豊臣姓授与
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F
1586年 豊臣秀長、豊臣秀次、宮部長煕、雀部重政、溝口秀勝、高力清長
1587年 宇喜多秀家、森忠政
1588年 羽柴秀勝、木下勝俊、結城秀康、稲葉貞通、池田輝政、織田長益、織田信秀、蒲生氏郷、京極高次、
筒井定次、丹羽長重、長谷川秀一、蜂屋頼隆、細川忠興、堀秀政、前田利家、前田利長、毛利秀頼、
波多親、大友義統、最上義康、上杉景勝、立花宗茂、龍造寺政家、吉川広家、小早川隆景、毛利輝元、
粟屋元貞、堅田元慶、口羽春長、国司元蔵、島津義弘、林就長、福原元俊、穂田元清、三浦元忠、
渡辺長、直江兼続、赤川元房、色部長真、萩田長茂
1589年 鍋島直茂、内藤政長、大友義述、大宝寺義勝、毛利秀包、粟屋元吉、児玉元次、出羽元蔵、平佐元貞、鍋島勝茂、須田満親
1590年 富田知信、朽木元綱、堀秀治、(?)之孝、(?)忠長
1591年 小早川秀秋、豊臣秀保、駒井重勝、堀親良、東義久、(?)宣武、(?)吉勝。
1592年 浅野長政、福智政直、柴田勝政、松野重元、毛利秀元、佐野信吉、(?)成直。
1593年 石田正澄、前田利政、山中長俊、柳沢元政
(続く) 1594年 長束直吉、今枝重直、戸田重治、津田重久、加藤貞泰、中川秀成、生駒直勝、上田重安、宇都宮国綱、真田信繁、
(?)政春、(?)直正、(?)満一
1595年 宍戸元次、奥平家昌、内藤清成、松井康重、三浦重成、二宮就辰、末次元康
1596年 小出秀政、宮城定勝、田丸直昌、富田景政、山高親重、永井直勝、伊達秀宗、阿部正勝、毛利元政、平賀元相、
榎本元吉、熊谷元直、益田元祥、(?)宗信、(?)土佐守政長
1597年 福原長成、吉田忠文、佐久間政実、寺西是成、分部光嘉、水野忠重、徳川秀忠、五島玄雅、宇喜多秀徳、石川三長、
(?)伊賀守政長、(?)長治、(?)賢忠、(?)宗保、(?)盛吉、(?)長則
1598年 平野長泰、(?)武吉(村上武吉?)
1599年 伊東祐兵、大村喜前、相良頼房、大須賀忠政、毛利秀就、(?)元次、(?)重成
1600年 有馬慶氏、(?)忠能
1602年 福島正則、吉田保三
1603年 加藤清正、蜂須賀至鎮、生駒一政、山内一豊
1604年 堀尾吉晴
1605年 片桐且清、津田正勝、佐々正重、池田利隆、(?)吉元
1606年 加藤清孝
1612年 寺沢忠晴、松浦隆信
1614年 片桐孝利、速見則守、大野頼直、土橋景明
年代不明 青山宗勝、生駒利豊、稲葉典通、奥村永福、片桐且元、 木下家定、来島通総、前田秀則 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F
松平氏の分家ではないが松平姓を許された譜代大名
依田氏(依田康国)
大須賀氏(大須賀忠政)
戸田松平家(信濃松本藩)
松井松平家(武蔵川越藩)
大河内松平家(三河吉田藩等、上述の十八松平の長沢松平家の養子)
鷹司松平家(上野吉井藩等)
本庄松平家(丹後宮津藩,越前高森藩→廃絶)
柳沢松平家(大和郡山藩)
菅沼松平家(美濃加納藩→改易) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F
外様大名
松平家 加賀藩 前田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 越中富山藩 四品
松平家 加賀大聖寺藩 四品
松平家 仙台藩 伊達氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 薩摩藩 島津氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 長州藩 毛利氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱[6]
松平家 筑前福岡藩 黒田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 安芸広島藩 浅野氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 広島新田藩
松平家 肥前佐賀藩 鍋島氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 備前岡山藩 池田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 因幡鳥取藩 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 鹿奴藩(鳥取藩支藩)
松平家 若桜藩(鳥取藩支藩)
松平家 播磨山崎藩→福本藩 一時期、交代寄合(旗本)となる。
松平家 赤穂藩 四品。後に改易される。
松平家 平福藩
松平家 阿波徳島藩 蜂須賀氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱
松平家 土佐高知藩 山内氏 四品・国持大名 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F
江戸時代初期に廃絶した以下の大名家も松平の称号を与えられていた。
松平家 越後高田藩 堀氏 賜諱
松平家 陸奥会津藩→伊予松山藩 蒲生氏 従三位宰相・賜諱
松平家 伯耆米子藩 中村氏 従四位下・賜諱 清和源氏の徳川、松平というのと豊臣、羽柴は同列ではないと思うがどうなの? 誰も家康が清和源氏なんて信じちゃいないから同列
だって三河守任官のために徳川に改名したことを皆知ってる世代だよ >>19
家康の清和源氏は最低でも祖父の松平清康の時代から言っているぞ。
最近の説では、家康の安城松平は最初から清和源氏を名乗っていたのではないかとさえ言われている。 そりゃ自称するよ。それなりの土豪になればみんなやってる。
自称してても、朝廷に認められず改名までしたっていうのがアレなの。
織田信長はあっさり平信長でも藤原信長(初期)でも認められてるのに。 家康の任官については、近衛前久が「近頃は金さえあれば、前例がなくても
任官するようになって嘆かわしい」って名指しで嘆いている。 >>18
(清和)源氏→豊臣氏
徳川・松平→羽柴=名字
じゃないの?
といいたかったんだけど、書き方が悪かったかな。 家康の清和源氏自称は、家康一代のものではない。
松平氏は、かなり早い段階から、清和源氏を主張していた。
おそらく、家康は男系で見たら賀茂氏の可能性が高い。 だからこそ清康=家康説に結びつくんじゃない?清康のやったことが家康の事跡となっていたり、その逆もあったり。史料に本当のこと書くと当代に対して憚りがあるから筆者がわざと先々代さまのことに曲筆したり。 清康は同時代史料も残ってるっつーの
それまで改竄したのかよ。徳川はどれだけ超権力だ どんな史料が残ってんの。
最初は藤原信長って名乗ってたって史料? どんな史料が残ってんの。
最初は藤原家康って名乗ってたって史料? 面白そうなスレだと思ったら
スレタイも読めない低能ばかりだった だいたいスレタイの「賜姓」からして、使い方間違っとる。 天皇から賜った姓を配るってひどいよな
秀吉が関白になるにあたっては、近衛家の猶子となった
藤原を配られたわけじゃない 配るというより、親子の杯を交わして養子、猶子として傘下に組み入れたということだな 通俗的な歴史本や小説などで真田信繁(幸村)や直江兼続が豊臣姓を受けたことを特別視する記述を見かけるが(幸村は秀吉から特別に気に入られていたみたいな)
秀吉が豊臣姓を賜った以後に叙位任官した武士はほとんどが豊臣姓で位記官記口宣案等を受けており
それが特別に名誉なこととは言えないのは明白
それよりも格別なのは羽柴苗字
これを受けるときは「御一家に被仰付」という文書を給せられたようで
一門扱いを受けるということを意味する 島津だの伊達だの毛利だのも松平姓を賜っているけど、
どの大名家もそれなりに伝統ある家でも、松平姓を賜って
「ありがてー」「恐悦至極にございます」と思っていたのかな?
それとも「鎌倉時代以来の名門である当家が松平なんぞを名乗らされるのは屈辱」
と思ってたのかな?
それとも名門とはいえ、所詮は地方大名に過ぎなかったわけだから、天下人である徳川家の
旧姓を賜ることは名誉なことだったのだろうか? 細川、上杉を除いて賜姓は賜諱・殿上元服とセットで、大名の格付け的には名誉なこと
松平宗家が徳川を名乗ったように、本宗家の一門内での同姓の一族家臣との差別化、地位向上にもなった >>37
武家清華家論の話は知ってる?
矢部健太郎と木下聡の著者読んだらいいよ >>39
細川家は忠興が断ったらしいけど
さすがに本物の清和源氏しかも足利支流にとっちゃ
新田支流(自称だけど)の松平は名乗りにくかったのかね 秀吉の子飼いで血縁でもある
正則清正の二人が秀吉から羽柴姓も豊臣姓授与されてないのが不思議
お前誰だよ見たいな陪臣武将にさえバンバン与えてんのに
清正の場合
勝手に豊臣姓なのったら秀吉から怒られた逸話もあるし 東北
蒲生・上杉ー最上ー伊達
関東
家康ー秀忠ー秀康・徳川麾下
みたいな賜姓・叙任による序列があった 豊臣姓って秀吉が氏長者として官位を申請するから自動的に豊臣性になるだけなんじゃないの? >>42
処世の都合で仮冒しただけだろう
実際は惟宗氏というのが有力説 >>45
そこに秀吉を頂点とする擬似家制を用いて統制支配 >>12 >>43
福島正則が羽柴姓許さらたのって、
秀吉生前かしら? >>47
実際かどうかではなく、そよ当時どのように認識されていたか。
だよ。 外様雄藩の殿さまが、臣下に姓を与えた事例はあるの? >>22
ん?前例がないからと任官を断られた家康のために、
「藤原氏になった徳川家」なるものをでっち上げた上で、
松平家康の徳川改称と三河守任官を周旋したのが
近衛前久なんだが。 >>43
正則は侍従に任官し羽柴苗字を許されてる
清正は秀吉の関白宣下時(豊臣賜姓以前)に從五位下主計頭になっただけだから豊臣姓はもらっていない
正則は一門扱いで清正は遠い親戚扱いだったのかも
あと同じ大政所の血縁としては青木一矩が羽柴苗字+侍従だから
清正よりも血縁が近いと見なされていたのかな 家康を将軍に推薦したのは誰ですか?
その際に他の大名も昇進したり任官している場合は家康が推薦したんですか? 織田ー津田
羽柴ー木下
徳川ー松平
細川ー長岡
伊達ー中村 臣下から見て、
主君から姓を賜るのと、
主君の実子を養子に迎えるのは
どっちがよかったんだろ? 養子に迎えるほう
一時的にしろ、実際に主君の親族になるから
賜姓は名目的に一門、賜諱、烏帽子親は名目的な親子関係にすぎない 信長が光秀、長秀に与えた惟任、惟住って何だったんだろう?
九州の名家の姓っていうけど、あんまり聞かないな。
むしろ、宗氏とか島津氏は惟宗氏だろ。 あれって姓のはずなのに名字みたいに使われてよくわからん。 と思って調べてみたらあれって名字なのな。
今までに読んだあれについて触れた書では姓と表現していたから惟宗と同じようにそういう氏があるのかと思ってたよ。
なんでこんなのが与えられたのだろう。これなら日向守だけで十分だし明智や土岐の名字の方が威張りが利きそうなのに。 毛利→原田とか、九州由来の名族風にアレンジさせて、九州まで侵攻する意思を天下に示した 黒田に小寺の苗字を与えたのが大河ドラマで知れ渡った件 >>70
いやだから、それなら日向守だけで十分だしもっとやるなら九州探題職やもっと著名な名字の方がいいのに、
なんでこんな微妙な名字なのさってこと。 落ちぶれてた大内とか少弐とか菊池とか渋川とか、なんぼでもあったのにね。 立花道雪の姓が本来戸次(べっき)なので、多分、戸次姓の当て字かと。 >>74 豊後の豪族
阿蘇、菊池、少弐氏らは落ちぶれていたと言え当主はいた。
それに対して惟任惟住は完全に絶えていたから。 惟任は「九州の名族」ということになってるけど詳しくはわからないらしいね
もしかして信長、別の何かと間違えたんじゃ… 信長@米軍司令官「お前等日本に侵攻するからには、日本っぽい苗字つけとけよ」
米兵A、B、C「アイアイサー!」
信長「まずA!お前はワタナベだ!」
米兵A「アイアイサー!」
信長「次にB!お前はダタナベだ!」
米兵B「アイアイサー!」
信長「次にC!お前はキャタマベだ!」
米兵B「アイアイサー!」
↑もしかして、こんな感じとか・・・ 信長って普通じゃないからね。
子供に何を願って人とか命とか名前付けたのか聞きたい >>79
こういう人物についてはどう思う?
巨勢人(こせのひと)
佐伯男(さえきのおとこ) 藤原不比等って名前もよくわからんな。人でなし?
不比等―房前―真楯―内麻呂―冬嗣―良房
日本史の中で二文字の諱が定着するのは平安初期で、
それまでは、後の世から見ると変な名前が多いんだよね。
旅人―家持・書持兄弟とか、どういう意図だろうって考えるのは楽しい。 皇族・臣下問わず、罪を得た者の名前を、奇妙な名前に変えるというのもあった気がする。 >>82
有名な例は和気広虫→狭虫か。 広虫って名前自体も、よくわからんのだがw
あれは子供の喧嘩みたいで、楽しい。 >>81
不比等は、史(ふひと)の当て字だろう。
不比等が幼いときに鎌足が亡くなったので、田辺史という渡来系豪族に養育されたらしい。 >>81
藤原といえば藤原四兄弟の麻呂はなんか名前が不憫
上の兄貴のように○○麻呂にしてあげればよかったのに >>83
こういう例って他に誰がいるっけ?
何か平氏でも改名させられた奴いたような気がする。 思い出した!
平宗盛→平末国だ!頼朝、センスあるなぁ。 不破内親王→称徳天皇を呪詛した疑いで、「厨真人厨女」と改名
これはちょっとかわいそうだ。
呪詛した疑いって・・・w 細川忠興は羽柴名字は喜々として名乗ってたくせに、松平名字は拒否したんだよな。 >>92
天皇から新たにもらった豊臣姓は容認できるけど、
松平の「ニセ源氏」は、正真正銘の源氏名門の末裔である忠興には、容認できなかったんでしょう。
少し考えてみれば、想像はつく。 >>94
元々の名字は長岡を名乗っていたわけだが? 羽柴と違って、松平の称号は改氏を伴わなかったはず。
> 松平の「ニセ源氏」は、正真正銘の源氏名門の末裔である忠興には
は見当違いだな。 >>96
そう。で?
>>97
改氏も何も、源氏から源氏で変えようがないんだが。
それで、だから何?
見当違いって言う主張の方が見当違いであるように、自分には思われる。
少し真面目に想像してみてほしいんだが、
自分の一族を名乗る偽物Aがいたとして、
そいつが見る見るうちに権力を握る。
実際すごい奴だし、そいつに服属することは問題ない。
でも、じゃあ自分も自らAって名乗って、偽物一族の仲間入りするか?
ってことになると、またそれは別の話。
っていうか、実際に忠興が松平を拒否したって史実自体が、
彼がその苗字が、自分にふさわしくないと考えていたことを示しているんだが。
あの時代、将軍から苗字授けられて断るって、よほどのことだよ。確実に将軍の機嫌を損ねるわけだし。 清和源氏は百済系三善氏の出。
すなわち渡来系氏族で細川も渡来系氏族のニセ源氏。 > 改氏も何も、源氏から源氏で変えようがないんだが。
羽柴−豊臣と同じように改氏を伴うのであれば、擬制的な
一族になる。つまり、足利庶流から(自称)新田庶流に変
わる。まさしく
> 自らAって名乗って、偽物一族の仲間入りするか?
の状態になる。
で、松平の場合には改氏を伴っておらず、大江も菅原も
元のまま。源氏の一族も、当然足利流から新田流に変わ
ったりはしない。
いずれにせよ、忠興がどういう思惑で辞退したのかもわか
らんのに、
> 松平の「ニセ源氏」は、正真正銘の源氏名門の末裔である忠興には、容認できなかったんでしょう。
と言い出すのは、単なる思い付き以上のものではないな。 >>100
まあ、そこはあなたが自分とは違う想像力の持ち主だってことですね。
でも、実際に史実として、忠興はそれを辞退しているわけで。
少くともそれを「見当違いだ」などと断定する根拠は全くない、というのは
明らかだと思うよ。
あと参考まで聞かせてほしいんだけど、
あなたはどういう理由で、忠興がそれを辞退したと思うのですか?
「そんなの知るか」ですか? 一応、丁寧に答えとくと、
> で、松平の場合には改氏を伴っておらず、大江も菅原も
> 元のまま。源氏の一族も、当然足利流から新田流に変わ
> ったりはしない。
当然ながら、そんなことは知った上で>>98のように書いているんですが。
それでも松平とかいう奴らが、自分の一族を勝手に名乗っている偽物だっていう意識は当然ながら
あったはずで、だから>>98のように思ったのだろう、ってのが自分の想像だし、
そう想像するのは極めて自然であるように自分には思われる、って言ってるわけなんですけど。 ここは日本史板だと思っていたが、勘違いだったのか。
小説を語るところだとは思ってもみなかったよ。 >>103
もちろんここは、日本史板ですが、何か。
小説を語るところじゃありません。
たぶん「史料にないことを想像で語るな!」って言いたいんだろうけど、
でもそういうことを主張する人って、史学ってものについて真面目に考えたことのない人に限られる、
っていうのが自分の理解ですね。
(大抵そういう人って、自分も普段想像で語りまくっていて、都合の良いときだけ史料云々
言うわけだし)
例えば秀吉が死んだとき、家康は「これで自分に天下が回ってくる」と考えたに違いないわけだけど、
家康がそう考えた、などとはどの一次史料にも書かれてはいない。
でも、そう想像するのは妥当だと自分は思うし、実際のその後の家康の行動を見ると
それは明らかだと思う。
むしろ、その程度の想像さえできない人に、歴史を学ぶ意義は全くない、とも思う。
で、
「あなたはどういう理由で、忠興がそれを辞退したと思うのですか? 」って聞いたのだけど、
それには答えてくれなかったんだね。残念だ。 そもそも、「源氏として同族」「源氏だから一族」なんていう
考え方自体が、当時の意識とはかけ離れたものだね。で、
偽物だから云々という意識だったんだ、ということであれば、
「本物の源氏」の苗字であれば拒否しなかったはずだ、という
ことになるけど、それでいいのかな?
たとえば「今川」だの「畠山」だったら文句なく改称していた
ということになるが。 > 「あなたはどういう理由で、忠興がそれを辞退したと思うのですか? 」って聞いたのだけど、
根拠が存在しない以上、「不明」としか言えないというのが
誠実な態度でしょうな。少なくとも、あなたのように妄想で
意味不明なことを書き散らす気はない。 > そもそも、「源氏として同族」「源氏だから一族」なんていう
> 考え方自体が、当時の意識とはかけ離れたものだね。
新田と足利は祖を同じくする、近い一族だっていう意識はあったはずですが?
近親憎悪で喧嘩しまくってたけどね。
> 「本物の源氏」の苗字であれば拒否しなかったはずだ、という
> ことになるけど、それでいいのかな?
そう言っているつもりですが。
> 根拠が存在しない以上、「不明」としか言えないというのが
> 誠実な態度でしょうな。
確認するけど、あなたは
「秀吉が死んだとき、家康はこれで自分に天下が回ってくるかも知れん。
やってやるぞ!」って思っただろう、って想像することも、
「世阿弥があれだけ優れた作品を作り、名声を博したのは、
影でものすごく努力もしたに違いない」って想像することも、
不誠実だ、と思うんですね?
繰り返すと、その程度の想像もできない人に歴史を学ぶ意義はない、と自分は思うけれど。
まあ、根本的に、ものに対する意識がちがうんだろうねきっと。 っていうか、そもそも自分は、>>106さんが本当に、
史料で確実に確認できる範囲内のことしか一切語っていないかも知れない、
とは全く思っていない。
そういう意味で、繰り返しになるけど、
>>106みたいなことを言いたがる人は、極めて不誠実な人だと思っている、ってことを
付言させてもらいますね。 ごめん、若干訂正させてもらうと、
> たとえば「今川」だの「畠山」だったら文句なく改称していた
> ということになるが。
↑これも、もしかしたら同族嫌悪で、改称を拒んだかも知れん、とは思いますね。
少くとも、絶対拒まなかっただろう、と断言するのは、それこそ言いすぎだとは思う。 そもそも、>>94で
> 天皇から新たにもらった豊臣姓は容認できるけど、
と書いているが、羽柴忠興になったときにはまだ豊臣姓は
存在していないはず。(天正13年に侍従。秀吉が豊臣姓に
改めたのは、通説では天正14年12月。)
話の前提が間違っているよ。 >>110
ああそれは悪かったけど、
だから何?>>98 >>102 >>104で言っていることには、影響しませんね。 なるほど、偽平氏だか偽藤原氏はいいけど、偽源氏だけは
許せなかったはずだ、という想像ですか。
まあ、想像するのは自由ですねとしか言いようがないね。 そりゃ細川にとっちゃ、偽物源氏なんて胸糞悪かったんだろうけど、
よく断ったよな。将軍家に向かってお前みたいな偽源氏とは違うんだよって言うようなもんじゃん。
大御所さまから細川を継ぐようにって言われたから、松平は名乗れませんって弁解したんだっけ? まあ実際、誰もが認めるニセ源氏なんだし
大御所様にそう言われたって言われたらしゃーない 米沢藩上杉氏が家綱の時代まで将軍の一字を拝領できず、
吉良の息子を養子にもらって幕府と親密な関係を結んでからも、
ついに松平の称号をもらえなかったのは、なんでだろう?
関ヶ原の罪が原因というのは、毛利も同罪だから違うと思う。 >>116
細川と同じで、「もらえなかった」んじゃなくて「もらわなかった」
ってことはないの? 石高的には藤堂も松平名字もらっておかしくないのに、もらってないね。
こっちは細川とか上杉みたいな名家でもなんでもないのに。 >>118
藤堂は、くれると言ったらホイホイもらうだろw
国持大名で石高も高いとはいえ、殿上元服も偏諱もなし、
家格的には一段低かったはず。 佐竹は松平も将軍の一字も、どっちももらえなかったけど、
石高や家格からいけば、もらってもおかしくないのにな。 藤堂が「もらわなかった」のでなく「もらえなかった」ってことから、
それよりも石高の低い佐竹や南部ももらえなかったんだろうって推測がつく。
むしろ、何で蜂須賀がもらってるんだ?ってことの方が不思議だね。 しかし、本能寺から関ヶ原までの、たった20年足らずの間に起きた
一々の細かな出来事だけによって、
その後江戸時代を通した武家全体の家格や格式が決まってしまった、
っていうのが、不思議なところだよなあ。
本能寺の時点で、前田が徳川に次ぐ第二位の勝ち組になるとか、誰が予想しただろうか。 >>121
蜂須賀は、家康の幼女を正室にもらった関係だね。 それこそ関ヶ原時点での、婚姻関係とか、当主どうしの個人的な関係とか
だけによって、その後の家格が全部決まってしまってるからな
不思議な点があるのは当然。 藤堂が准譜代みたいに言われることがあるし、
山内もそう言われることがあるけど、
小笠原みたいに本当の譜代にはしてもらえなかったな。 細川忠興がニセ源氏を嫌って拒絶したってのはわかるけど、
佐竹とか南部に与えてたらどうなってたのかね?
南部なんか案外、喜んで拝受しそうだが 細川姓を捨てて長岡とか羽柴とか名乗ってたくせに、
つまらないことにこだわってたんだな>忠興 >>130
あんたにとってはつまらなくても、
当時の人にとってはそうでなかったってこと。 時系列の問題か?
単に、忠興にとって羽柴は受け入れられたけど、松平はそうではなかった
ってことでそ 細川姓を捨てたのは足利から離れた時ですよ
捨てたのはあくまでも藤孝 つかもともと足利の庶流とはいえ長男の系統だもんな
木曽義仲についたから本流から外れたけど >> 121
プラス冬の陣での活躍で>蜂須賀家、阿波の七感状
しかし一の子分と言っても蜂須賀家の活躍で大阪方が敗れるとは
あの世で秀吉と小六涙目だろうな。 129
佐竹は上杉から養子貰ってるからすでに源氏じゃねえけどな >>135
肥後細川家の家系は保元源平の頃から関ヶ原まで
日本史上の主要な戦乱に参戦してるんだからスゲーな > 細川忠興がニセ源氏を嫌って拒絶したってのはわかるけど、
かどうかはわからない。単に何度も変えるのがいやだっただけかも
知れないし。
そもそも駿府で家康から「細川に戻せ」と言われてすぐに「やっぱり
松平を」ともいえないでしょう。 将軍家から拝領するものを、
「単に何度も変えるのがいやだった」からとか、そんな理由で拒絶するって
普通に考えて、有り得ないだろ・・・ 家康>>秀忠だから、家康の仰せを口実にしたんだろう。 秀忠だって、家康から言われて復姓したことは承知の上だったはずで、
まさかそんなことを口実に使われるとは・・・と、してやられた気分だっただろうね 新田も本家は途絶えたけど庶長子、新田小太郎義俊の子孫は全国展開してるのが面白いとこだな
新田義貞も新田朝氏に里見から養子にはいったのが始まりだし、上杉と争った越後の分家筋も里見一門
美濃辺りにも勢力もってたし山形で最上と争った天堂氏も里見氏の末裔 室町時代って影の展開で足利、新田、絡めた争い続いてんだよね 観応の擾乱で直義に付いた本家だか分家だか知らないけど片方は残ってるしな 初期に定着した大和源氏のその後が気になるとこやね
どうなったんだろ? 鎌倉幕府ってのはあれは平直方のもとの勢力を基盤とした坂東平氏の政権と
いってもいいんだよな、義朝派
足利氏ってのは下野の藤姓足利氏の繋がりが元だろ
他に義仲の父親、義賢の勢力があったのは北関東、新田義重辺りの勢力とな
にげにつかながってるし
他には義国と争った甲斐源氏の義光一派 奈良の始まりから平安にかけてはあれは荘園制度の確立だからね 伊勢の平氏ってのは同じ坂東平氏から距離を取られていたのが皮肉やね
なにげに国香流って避けられていたろ
武士と思われていなかったのかも 細川家の祖先てのはこのとき義仲について出奔しちゃってるんだよ
もしそれがなければ足利をついでたのは矢田義清の系統だったかも
しれんのにね 151
新田足利もそうだけど一族でやたら分裂してんの あと分からないのが為朝の系統なんだよな
九州にいった説もみたことあるけど >>100>>102
松平名字は源氏とセットです。 >>157
セットじゃないでそ。
毛利は大江姓のまま松平を名乗ってたのでは?
ようはこの場合、「松平」ってのは単なる称号であって、
家を表す苗字ではない、と考えた方がいい。 >>158
自分には伊達や毛利など本来は源氏でないのに源朝臣で任官してる松平が、
松平名字と別個に源氏を与えられている例が見つけ出せなかったのだけど、
それでも違うと言うならその根拠を提示して。 名字と苗字は同じでいいけど、称号は定義が難しいな。
そもそも氏姓自体が本来爵位的な称号だったみたいだし、氏姓、名字、屋号などはそれ自体が地位を表す称号性を兼ねてると言ってもいい。
名字で言ったら外国の例で悪いけどオランダ王族はオラニエナッサウの家名とオラニエナッサウ伯の爵位(称号)を持ってるけど、
これは日本で名字の後ろに御所、屋形、殿とかの称号を繋げたり、称号の地名部分を名字としたりするのと同様だと思うんだ。
そういう見方でいくと、大身の外様にある程度一律に与えられる松平の名字は中華王朝での王号や都督その他の上級称号みたいなものかなと。
そう考えれば確かに松平の名字は極めて称号的であるし、明治になって廃止になったのも納得。
任官時に一律に与えられる豊臣は範囲が広いので、明治以降の華族の称号みたいなものかな。 豊臣は姓だろ
一律にあたえたのか?
一応一門集に準じる親しい奴にしか与えてなかったと思ったが >>159
手元に資料がないが、松平の名乗が源氏改姓を伴うか否かということに
ついては大名から問い合わせがあり、幕府側で否定しているはず。
増上寺の家重霊廟に幕命で奉献した灯篭の銘文や銘の控えなどでは、前田家は「参議
従三位菅原朝臣綱紀」、伊達家は「藤原朝臣綱村」「従四位上行左近衛権中将兼陸奥守
藤原朝臣吉村」となっているなど、幕府の公式命令でも源氏には改めていないらしいが。 >>163
ありがとう。
じゃあ>>159の例は何故だろう、本人の意思によって僭称したものか、途中で事情が変わったか。
そのうち調べよう。 日光や上野東照宮の鐘や灯篭でも、伊達家は藤原朝臣政宗、忠宗、
毛利家は大江姓松平という銘を刻んでいるということらしいですね。
後、>>163の家重は家宣の間違いです。 すんません、質問よいですか?なんで源氏じゃなきゃ幕府開けないんですか? 源氏将軍説はそういう先例をつくったから
本来、幕府へ近衛⚪️将で開設できた >>169
幕府の定義とかの話じゃなくて、
実際にどんな幕府であれ、源氏じゃなくても開けたんだが・・・
例えばもし秀吉が「豊臣姓で征夷大将軍に就任し、幕府を開く」ことを望んだとしたら、
当然ながら、それは可能であったはず。実際にはそうしなかったってだけの話で。 >>168
なら、平清盛も幕府開けたわけですか? 家康って徳川姓じゃなく松平でも良かったんじゃないですか? 征夷大将軍になる = 幕府を開くまたは継承する
ではないんだけどな 家康が名乗りを徳川に変えたのは、三河守任官のためで将軍云々とは全く関係ない。
そもそこのときには氏まで「藤原朝臣」に変えているくらいだから。 頼朝
近衛大将 任官 =幕府 → 征夷大将軍 任官 >>171
・清盛だって幕府開こうと思ったら開けた。征夷大将軍に任ぜられようと思わなかったから開かなかっただけ。
・松平から徳川に改めたことと、幕府開く・開かないとは関係ない。 しかし朝廷には妙な先例主義があるから、いざやろうとすると五月蠅い奴が出てくるだろうな むしろ太政大臣になった清盛自身が、征夷大将軍を欲しただろうとは到底思えない いや、清盛は近衛大将に任官されていないか、幕府は開けない
鎌倉幕府=右大将家(頼朝)政所跡 >>178
もし清盛が近衛大将に任ぜられることを欲したとしたら、
それが不可能であっただろうとは、到底思えないのだが?・・
ヘンな人だね、何でその程度のもの望むの?って周りに思われただろうけど。 頼朝は、「幕府とはこういうもの」と意識して
幕府を開いたわけではなかろう >>173
なるほど、よく分かりました 教えて頂きありがとうございます、近衛大将って太政大臣より上なんですか? 自分が小学校のとき、中学受験の塾の先生に
「将軍になって幕府開けるのは源氏だけ」って教わった気がするんだが、
今になってみると、単にその教師が無知だったってだけだと思うんだが、
今でも小学生や中学生はそうやって教わっているんだろうか? 中学受験ならそう教えるのは間違ってないな。
細かい経緯や史実を無視しても覚えやすいことを優先したほうがいい。 中学受験だろうと何だろうと間違い教えちゃいかんだろw ×「将軍になって幕府開けるのは源氏だけ」
△「将軍になって幕府開いたのは源氏だけ」
○「鎌倉・室町・江戸各幕府の創始者は全員(自称)源氏」 >>185の△までは許容できるが、
×を教える教師は、非難されても致し方ない ×「将軍になって幕府開けるのは源氏だけ」
△「将軍になって幕府開いたのは源氏だけ」
○「鎌倉・室町・江戸各幕府の創始者は全員(自称)?源氏」 ×「将軍になって幕府開けるのは源氏だけ」
△「将軍になって幕府開いたのは源氏だけ」
○「鎌倉・室町・江戸各幕府の創始者は全員泰氏」 泰氏ってなあに?
中国史にでてくる秦とか関係で権威付けようっての?
無理^_^ みんな無知とか言ってるけど俺が子供の頃に見ていた学研の漫画なんかは普通に「源氏しか将軍になれない」って書いてあったよ
ちなアラフォー 秦氏って始皇帝の末裔を自称してるわりに、名門感が全然しない。
秦氏を名乗ってた著名な大名も長宗我部氏くらいしかいないし。 むしろ>>166さんは、誰から「源氏じゃなきゃ幕府開けない」って
教わったの? ×「武士を統率出来るのは自称源氏だけ」
△「日本を統率出来るのは自称源氏だけ」
○「日本を支配したのは百済系三善氏のみ」 源氏じゃなきゃダメなのは源氏長者、奨学院、淳和院別当でなかった? >>195
源氏長者が淳和・奨学院両別当を兼帯する
(奨学院別当だけでもいい)
源氏長者は基本は村上源氏だったが、足利義満が簒奪して、以降は足利将軍5人と村上源氏の交替で務めていた
徳川将軍はこれを世襲した
源氏長者(=淳和・奨学両院別当)+征夷大将軍=日本国王
という人もいる >>193
歴史の教科書を見たのと大河ドラマ 葵徳川三代で、朝廷からの使者が秀忠に征夷大将軍に任官する書状を読み上げたあとに源秀忠と名前がなってたからそう思ったのですよ >>193
あと、八重の桜でも松平容保が源容保って名前が書状ででたので、松平家でも将軍になれると思いました。 長年、源氏でなければ将軍になれないというのが通説(俗説?)だったわけだけど、
近年の研究で信長の三職推任とかが注目されてきて、将軍=源氏が否定されてきたんだよね。
秀吉が源氏じゃなかったから義昭の養子になろうとして拒否されたとか、昔はよく言われてたけど、
いまは2chでも鼻で笑われるレベルの与太話になってしまった。
昔のマンガの日本の歴史でこのへんの基礎知識を刷り込まれた人間としては、ちと寂しいね。 >>199
まあ、松平氏は徳川氏ともともと同じだから。
紀伊家の庶子から連枝の松平を経て御三家を継いで、将軍になった松平頼方(徳川吉宗)、
水戸家の一公子から御三卿を継いで将軍になった松平昭致(徳川慶喜)なんて例もあるし。 >>201
なるほど、でも松平のままでは将軍にはなれないんですよね?三河守を任官されないってこのレスで見かけましたけど、福井の松平春嶽とかは将軍家と何かの関わりがあるのですか? 家康が名字を松平から徳川に改めたとき、徳川名字は家康本人しか名乗れなかったらしい。
(信康が松平だったか徳川だったかは、はっきりしない)
その後、江戸時代になってからは徳川名字は宗家と御三家の当主・嫡子だけしか名乗れなくなった。
だから、たとえ将軍の子であっても嫡男でないと松平名字のままで、御三家の庶子も同様だった。
はじめ吉宗や慶喜が松平頼方や松平昭致だったのは、そういう事情による。
三河守は江戸時代を通じて、秀康の嫡流である越前家の津山松平家が独占を許されていて、
松平三河守を称していた。
福井は越前家の嫡流をめぐって津山と対抗関係にあったが、松平越前守を代々称していた。
松平春嶽は、御三卿の田安家から福井松平家の養子に入ったので、12代将軍家慶とは従兄弟になる。 もう春嶽が将軍家と関わりがあるんですか?とかアホな事言ってる奴の相手は止そうよ スレタイと全然関係ない話題ばかりのくせに
他人をアホ呼ばわりするゆとり 江戸時代に入っても、豊臣と徳川では天皇から貰った分、氏としては豊臣の方が格は上だったんですか? 江戸時代の豊臣氏って木下氏しかいなくなったんだっけ? >>206
豊臣は氏(うじ)。源・平・藤原・橘・紀・伴・菅原などと同じ分類。
徳川は名字。北条・足利・細川・今川・織田・松平などと同じ分類。
そもそも同じ俎上で比較するものではない。 なんか最初は真面目に答えてたけど、
>>202とか、>>206とか>>210とかって、
さすがにあまりにもアホすぎて、真面目に答える気がしないんだけど・・・
スレ違いの質問を延々として、みんなをうんざりさせてるってことがわからないのか。
それと、せめてもう少しは歴史について勉強して、最低限のこと位は知ってから来てくれ。 氏の格っていうと朝臣よりも真人の方が格上だから、
高階真人である毛利家臣・国司氏の方が豊臣よりも格上だな
とマジレス 近世大名の大田原氏は、多治比真人か知らん?
公式文書ではどう名乗っていたのだろう 華族類別録によれば、多治比真人は以下の通りらしい。
摂津麻田藩・青木家、
下野大田原藩・大田原家、
下野黒羽藩・大関家、
常陸松岡藩・中山家、
上総久留里藩・黒田家
http://www.geocities.jp/okugesan_com/yougo.html 真人の姓は自然消滅というか絶滅したかと思ってたら、
華族制度の時代までしぶとく生き残っていたのか。 >>215には紀宿禰って書いてあるけど
紀氏って宿禰だっけ? なぜ鎌倉以降の有名人で豊臣秀吉だけ名字でなく姓で呼ばれるの?
徳川にせよ織田にせよ公家の近衛にせよ源平や藤原で呼ばれることは無いのに。 羽柴秀頼とかあまり聞かないよね
豊臣=姓=名字になったのか羽柴が名字のままで豊臣が姓なのかいまいちわからん。 ウィキペディア編集者ジャムリンによる自作自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50
569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569
ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。 歌舞伎で秀吉のことを「真柴久吉」と言い換えてるのは、
やっぱり豊臣宗家の名字が「羽柴」だったからなんだろうな。
天下人になったから公称する必要がなかっただけで、
秀吉は死ぬまで「羽柴秀吉」だったんだろうな。
豊臣朝臣賜姓の前は、近衛家の猶子として藤原朝臣ではあるが、
羽柴秀吉として関白だったし。 新しい摂家を作ったのが日本支配の象徴的出来事だから
豊臣が重視されてるのでは?
あるいは公家として日本を支配したので公家の名前豊臣を強調したか >>220
朱印の印文など通常は苗字を使う場面でも「豊臣」を用いていて
羽柴は使っていないから、その認識で正しいんじゃないかな。
本姓と別に苗字を持たねばならぬなんて言うルールは存在しな
い。それに家臣ならともかく天下人が苗字を改める許可を求める
相手は存在しないんで、本人と一族が「羽柴」の使用をやめ、
周囲も「豊臣」で呼ぶのであれば、それは通常の「苗字」「称号」
と同じ意味合い「も」兼ねているんだろう。 豊臣ー羽柴ー木下
徳川ー松平
織田ー津田
伊達ー中村 徳川家康も天下人になってから、「源家康忠恕」って朱印を使ってるから、
「豊臣」を朱印の印文で使ってるからといって羽柴名字をやめたとはいえないのでは?
家康だって公文書では、対朝廷・対外関係では源家康、諸大名には花押か朱印だし。 せっかくだったら豊主(とよぬし)とかにすれば良かったのにな どんなに栄華をきわめようが、所詮、「臣」の枠組みから抜け出すことができないという姓でもあるな。 > せっかくだったら豊主(とよぬし)とかにすれば
うさんくさいww
どんなに立派な姓にしたところで、
「姓を持たない」天皇家を超えることはできないからなぁ・・ 先時代の家格の高い姓が後代の馬の骨の姓を貰うことあるのか?
なんのための家柄詐称よ この場合は松平は新田を通じた源姓につながるって意味合いをもってくる ここに関しては松平といえども守らないと姓を与えることによる威信が保てなくなってくるからな 232
臣籍降下で天皇の子は源姓、孫以降は平姓
臣籍降下をしなければ親王以外は名前のあとに王号 >>234
それくらいは分かっている。断れば幕府に疑われかねないだろうと言っている だから九州に飛ばされたんじゃないの?
近場の源氏で大名格はすべて滅ぼされてる
もう分かりやすいくらい 伊達(藤原)や毛利(大江)は松平姓をもらったのに、なんで上杉はもらえなかったんだろう?
吉良の息子を養子にしたときに、もらえばよかったのに。 自ら辞退した細川はともかくとして、上杉、佐竹、南部、有馬あたりはもらっても悪くないし、
蜂須賀や山内がもらってるのなら、藤堂がもらってもよさそうなものだ。 上杉は藤原じゃん
謙信景勝は平氏だけど山内上杉とか途中で扇谷上杉の血がはいってる 東国の方がそういう血筋に関しては正解だからな
松平姓与えられたの祖先がアヤフヤなのが多くない? 240
あ〜、伊達や毛利は貰ってるのか
なんだろなちょっとわからないな 秀吉は千年に一人の天才というか千年に一度の覇王だな
二千年前の覇王は天皇家で千五百年後秀吉、現在の覇王は国籍ないのに日本牛耳るものたち つか2000年前に天皇家はどうみてもいない
日本の古代史は豪族連合 2000年前は、アフリカの部族王国みたいなのがあっちこっちに分立していた状態。
いや、王国とすらいえない、インディアンの部族なみの集団が分立していた。
それが楽浪海中の倭人の百余国。 上杉は押し付けられれば諦めて拝領したかもしれんが
積極的に欲しがるってことはないだろ。
上杉家って江戸期の大大名では最高の名門だよ。 上杉家は充分に大大名じゃね。
実高で30万石以上あったらしいし。
前田や伊達や島津が破格だっただけで。 >>241
有馬は藤堂や細川に比べると大した武功もないのに
いつのまにか大大名になって分家は吉宗の引き立てで譜代って訳判らん家だな それいうなら小笠原なんて最初から幕末までひたすら雑魚ぶり見せつけても生き残った不思議ちゅんだろ
もう江戸時代の武家は武士じゃない
戦国時代で武士の歴史は完全に終焉した うーん
文弱のやつもいるが簡単な理由で殺しあうやつも板シナ
幕末のキチガイぷりをみるとやっぱ武士だと思うよ 江戸時代の武士なんて些細な過失でも切腹させられるし、
毎日がサバイバルだよな。 本来の武家の棟梁格でない徳川氏が将軍になっちまったからな
いつ本筋の源氏や平氏が蜂起して政権崩壊がおこっても不思議ではない ようやく安定したのが家光のころだろ
次の世代あたりから文治政策に向かうからな たとえば織田信長の上総介ってのは主家である斯波氏が上総守護だった関係からきてるだろ
どんなに足掻いても起源は関東にあるからな 幕府を開くって言っても同時代で幕府とは言われてないんだよな
頼朝が公卿になって家政機関である政所を設置できるようになって
その政所が発展したのがいわゆる幕府 と呼ばれる統治機構でしょ
だから実態として幕府も豊臣政権も代わりはないよね
幕府の語源が将軍の所在地だから、トップが将軍になった政権だけが幕府と呼ばれてるだけで 秀吉は血統によらない豊臣氏という新貴族層を創設して、そのトップである氏長者として大名を統制しようとしたんじゃないかと思うけど
古い物好きの家康がそれまでのような血統をもとにした氏姓制度に戻したんじゃないだろうか
それで豊臣氏も大名全てをあらわすものから秀吉の親族である木下家だけが名乗る普通の氏になったと
単に古い物好きってだけじゃなく、豊臣本家の権威を否定するためでもあるけど >>263
幕府という言葉のせいでその辺が誤解されてるよね。
俗称としてならともかく学校教育で用いるには不適切な用語だと思うし、政権の語に置き換えた方がいい。 >>266
いや、江戸時代当時から幕府と呼ばれていたものを、
学校教育で使用することが不適切とは思えない。
誤解されやすいからって、その言葉自身を教えないというのは本末転倒。
何でもかんでも「○○政権」に置き換えてしまうような傾向はいただけない。 >>267
教えるなとは言ってない。
あくまで、長が将軍だった政権は幕府と俗称しますよ、江戸時代からそうなりましたよ、とそれだけでいい。
鎌倉や室町みたいに自称していないものまであたかも当時からそういう固有の存在であったかのように教えるのはどうかと思う。
そもそも歴史人物の名前の取り扱いとか、日本の歴史教育は当時どうであったかを無視し過ぎている。 >>268
それだったら、当時どう呼ばれていたかを無視して
「鎌倉政権」などと呼ぶのは、尚更適切でないと思うな >>268
幕府自身が幕府って言葉を使っていたわけだから、「俗称」って言う言葉は適切でない。
鎌倉室町はともかく、江戸幕府は江戸幕府で全く何ら問題ない。 学校教育で重要なのは大きな流れを理解させることで、
>>268が主張するような細々したことは重要じゃないと思うが。
大学の一般教養というならともかく、小中高の話だろ?
教えるにしても、「コラム」の扱いで十分だよ。 262
吉良は三河における足利氏の守護代的地位(現地の代理
人)
御所を開いたのは足利氏と斯波氏だけ
あとは九州における今川あたりが可能性なくもない
そういや畠山辺りも東北におけるその可能性もあったかな? 272
いずれ”都合”というものが理解できるようになればおかしいと思われるようになるけどなw 山名は新田氏族ってとこでどうしても実力があっても
一段下がるからな 当時の呼称にあわせるなら、摂関政治等々も全滅だし、大半の天皇からは天皇号も
除かないといけないな。
そうすれば「天皇を『王』『国王』とは何事だ!!!」と暴れるような輩は将来的には
減るかもしれんが、意味があるとは思わんね。 当時の呼称にあわせるなら、歴代天皇は全員、名前なしだな 天皇家の系図
大王−大王−(略)−大王−天皇−天皇−(略)−天皇−天皇 少し荒れるかも知れないが、
「大和朝廷」→「ヤマト政権」
「建武新政」→「建武政権」
このあたりの言い換えを是とするかどうかで、
その人の感覚が現れるね。
自分の場合、学会では一般的云々以前に、「ヤマト政権」って言い方は
生理的に受け付けないが。 276
摂関政治は平安時代で終わってるだろうよw
秀吉のときだって一時的に蘇りそのあとの呼称は
身分差を示すために使われた公卿号じゃねえかw
寺社領、公家領の名目的な所有の広さにそれは比例する
今だって総理号採用で太政官号が意味あるのか?
名誉号 アンカーなしで数字書き込んでる人の言ってることは読まなければいいんだなって
考えると、わかり易い 短絡したねえw
どうとるかは好きにすればいいさね^o^ 短絡じゃなくて、今までレスを沢山読んできた結果の判断なんだけどな
まあ好きにすればいいさね。 279
ヤマト政権ならもう大和(奈良)を指す言葉って意味が正解だろ 正保2年(1645年)5月8日条(徳川実紀)
神祖(徳川家康)創業のころ、四海擾乱(ぜうらん)の折からなりしかば、
御一世御累歴任の御官位、口宣、位記等の散佚(さんいつ)せしもあり、
日光山御遷宮のとき正一位を贈らせ給ふといへども、
其宣命いかゞしたるにや、御神庫に存在せず、
台徳院殿(徳川秀忠)御官位の口宣宣命も
二通散佚せしかば、こたび帰洛ののちこの旨奏聞をとげ、
新に改めて賜はるべき旨を伝奏衆へ仰含(おほせふくめ)らる、
両伝奏(正二位前権大納言今出川経季52歳と
正二位前権大納言飛鳥井雅宣60歳)畏(かしこま)りたる旨聞えあげ、
拝謝して退く、 まあ天領って名目を使ってるもんな
自ら神になろうとしたと解釈することもできる
古来の伝承なども利用してる
そんなに白くはどうみてもないw 事実、家康秀忠のときに取り潰された大名などみれば
かなり意図的な面があるというのは分かる 283
ほんとに短絡だなw
言いがかりつけて喧嘩売るタイプだろw
いつでも買ってやるよ 「お前の言ってることは読む価値ないし議論する意味もない。喧嘩するほどでもない」
って言ってる人に対して、
「いつでも喧嘩買ってやるよ」なんてレスをすること自体、
いかに自分が相手の言っていることを理解せず、ものを考えずに発言しているかを
少しは自覚した方がいい 「鎌倉時代、室町時代は幕府と言っていなかったらしい」という
ことを最近知った中学生が書いているんだろうな。 幕府が嫌いならGHQならどうだ。同じ意味だぞ。
鎌倉GHQ、室町GHQ、江戸GHQ。 それで檫文文化とモンゴルの争い以上の物的証拠でてきてるの? 文字化けひでえな
擦文文化
あとは仏教あたりがどう繋がるかか >>285
いくら創業期だからって、幕府開設以降の文書が、
そんなに簡単に散逸するものだろうか? >>296
家康、秀忠は、藤原や豊臣で官位を受けてた時期のを、源に書き直して欲しかったんじゃないのか。
都合の悪い文書だけ無くなったというわけにいかないから、一括再発行を受けたということだろう。
それを行える権力もあったし、朝廷側にも経済的見返りがあったんだろう。 スレタイ読めない極少数の住人が
間抜けなバトルを繰り広げるスレですか? 武家が主君の姓を家臣に下賜するようになったのは、いつ頃からなんだろう?
後北条氏が北条綱成に北条姓与えたあたりくらいから? 豊臣は御所を開いていない
徳川は御所を開いている
この違い
例え仮冒であってもだね
単独政権は豊臣では無理だったということ 299
豊臣は公儀の代理人て立場で触れを出し続けてるけどね 300
鎌倉幕府の御門葉辺りにヒントがありそうだな
名前の一字を与える通字は執権北条氏のころからだろ 入り婿が妻の家の名字を名乗るようになったのって、いつ頃からなんだろう?
北条綱成は入り婿なのか、家臣として主家の名字を与えられたのか微妙だな。 吉井藩松平家は、摂関家の庶子が松平姓を賜った珍しい例だな。 Naitou1980>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Freetrashbox>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
海獺>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Colocolo>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
氷鷺>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Holic 629W>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
ぱたごん>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Ks aka 98>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
謎の魔人X>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
篠岡>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Blue-comet>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
馬屋橋>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
cpro>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
Akatsuki444>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
アイザール>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン
朝彦>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ジャムリン ほんと武家だのなんだのいってるけど根元につながるとこは
知ってるから無駄なんだがな 意図的な少弐や菊池氏などの事件とかには触れないってとこで歴史の
抹殺部分は読み解けるわ 信長は義昭から斯波の家督を相続しろと言われたとき、副将軍や管領同様辞退したけど、
上総介名乗るくらいなら、斯波の家督も乗っ取ればよかったのに。
どうせ織田なんて本物の平氏じゃない、越前の元神主(忌部氏)上がりなんだから。 斯波の家督相続したら宗家の義昭より生涯目下じゃんか。
副将軍や管領を辞退したのならこっちも当然辞退でしょ。
後に右大臣もあっさりやめちゃって散々朝廷から官位についてくれと言われてもいろいろ言ってなかなか受けなかったしな。
信長にとって官位は単なる道具で、官位という道具につきまとう制約は嫌ってたように思える。 上皇、太閤、大御所、これらは、現職だと地位に伴う制約があるから、隠居して権力を行使している。 信長なり秀吉が斯波の家督継いだら、すんなりと将軍任命されたかな?
それとも本家潰しの汚名着るから室町幕府再興して傀儡将軍の下で北条みたいな執権になる感じかな? 謙信が上杉家相続しても、あんまり周囲の反発がなかったのは鎌倉公方の下の関東管領だったからか。 >>310
朝彦親王は親王号を一時停止されたが、皇籍まで剥奪されたかどうかわからん。
以仁王は皇籍と王号を剥奪されて、源氏に落とされ源以光と改名させられた。 >>317
信玄が猛烈に反発してたじゃん。
甲斐守護は関東管領の下になるからね。
4回目の川中島が激戦だったのはそのせいだって言う説もあるくらい。 上洛した際に天皇が副将軍に任じて信長はそれを受けているよ。
義昭がそれを任じようとした一次史料は存在しないけどね。
それと斯波武衛の居宅は義輝が将軍邸に利用した時に斯波氏は完全滅亡してるから
その斯波氏を信長が継承したところでメリットないんじゃね。
天皇に副将軍にしてもらってるし。いまさら管領職の権利なんていらんでしょ。 信長は斯波の家督相続や管領職就任は蹴ったけど、足利家の桐の紋は頂戴してるよな。 武衛家が津田を名乗ったのって織田庶流の津田と関係ある?徳川家の松平みたいに織田の擬似家臣、庶流になったの?
それとも偶然の一致? 武衛家の息子たちは信雄さんの家老になったり、完全に織田の家臣になって主従逆転してるよ。
加賀前田家の家老になった津田氏の由来はよくわからんけど。 あの「津川」って名字の由来は何なんだろうな?
斯波一門にそんな名字、もともとあった? 斯波の庶流の名字らしいぞ。
もちろんどっかの所領の名前なんだろうな。 細川にしても斯波にしても、信長に臣従してしまうと、
いままでの名字を公称できなくなってしまうのが哀しいね。 今川は一応、本家は今川姓で存続してる。
なぜか分家の品川家の方が石高が高いけど。 武家の臣下への賜姓って、秀吉の羽柴名字と徳川将軍家の松平名字が有名だけど、
江戸時代の国持大名って伊達とか鍋島とか、けっこう重臣に賜姓やってるところが多いよね。
もともと同格やライバルだった連中を懐柔したりする手段として、どこもやってたんだな。 そら擬似家系制度だもん
主君と同じ苗字、主君と同じ通字、主君と同じ諱ということは名誉 伊達、毛利、鍋島みたいに、主君と同じ名字を与えるケースと、
細川の長岡姓みたいに、主君の旧姓を与えるケースがあるが、
後者の方がもったいぶってるな。 羽柴は希少だけど松平には大して価値がない。
豊臣と松平が似たような感じ。 鍋島の場合だと、旧主家の龍造寺一門が軒並み鍋島姓もらってるんだよな。
例外は所領の名前を名字にした諫早家くらい。 鍋島は主家から簒奪して藩主になるまでに経緯が経緯だから
宗主としての地位を確立するために
積極的に旧主家の一族や元同輩の家臣団を取り込もうとしたんだろうな。 旧主家の場合は、例えば龍造寺を名乗り続けると
本来俺はあんたの主人なんだよ、って言っているみたいで
本人も恐縮するし、鍋島側もやりにくいんで、
名字与えるっていうのは自然な流れっていうか、不可避だっただろう。
織田に対する斯波氏も同じ。 古代氏族の場合は戦乱なんかが起きて滅びると新興勢力の家老筋とかで
はいることが多いからそっちを調べた方が早いかもね 足利尊氏の子孫である鎌倉公方の足利氏が江戸時代、喜連川氏を称していたのも、
徳川将軍家との関係で>>340のような感覚があったからなんだろうな。
徳川家は喜連川氏を客分として、参勤交代も免除するなど、特別扱いはしてたが。 そらそうだろ
自称源氏がリアル源氏に冷や汗だろうけらな家系図つっこまれたら 名も知れぬ乞食から
将軍家が生まれるとは
松平親氏て、相当種馬として優秀だったんだな とうの親氏もめさかコジキからコジキングがうまれるなんて予想だにしなかったろうな >>346
松平だけじゃないのよw
酒井さんとこの娘も孕ませたw >>346
乞食秀吉の親父は関白の種だから、そっちの方が上だろ 経基と親氏が同じ種馬に並べられてるのが納得いかない
源氏問井ってモ経基以降は胡散臭さ半端ないのも現実にはいる満仲なんかも怪しすぎる
が経基は唯一無二のリアル臣席降下源氏だろ
親氏はリアル古事記だろ 経基と親氏が同じ種馬に並べられてるのが納得いかない
源氏問井ってモ経基以降は胡散臭さ半端ないのも現実にはいる満仲なんかも怪しすぎる
が経基は唯一無二のリアル臣席降下源氏だろ
親氏はリアル古事記だろ 経基と親氏が同じ種馬に並べられてるのが納得いかない
源氏問井ってモ経基以降は胡散臭さ半端ないのも現実にはいる満仲なんかも怪しすぎる
が経基は唯一無二のリアル臣席降下源氏だろ
親氏はリアル古事記だろ そもそも松平親氏って実在の人物なのか?
架空の人物説もあるらしいが。 松平姓って外様ばかりで、どうして譜代には与えられなかったの? 江戸初期の松井とか大河内とか、綱吉時代の本荘とか柳沢とか。 もともと他人だった松井や大河内が明治維新で松平姓を返上したのは当然として、
松平庶流の大給とか滝脇とか桜井まで、松平姓を捨てたのは理解に苦しむ。
家康異父弟の久松松平一門も松山藩主家や今治藩主家は松平姓を返上しているが、
なぜか桑名藩主家とか旗本だった家は返上していない。これも理解に苦しむ。 明治天皇の意向ということで、旧姓に復するように言われたのは、大名だけ。
だいみょうは、知事、華族といった地位についたが、旗本は只の士族。
桑名は、高須からの養子なんで家康の男系子孫だからじゃないか。 >>363
松平庶流の譜代大名の去就がバラバラなのが気になる。
大給、滝脇、桜井みたいに、さっさと松平姓を捨てた家もあれば、
深溝、藤井、形原みたいに松平姓のままの家もある。
大給なんて何人も老中を輩出した家柄なのに・・・ 早期に倒幕側に回ったとか、薩長新政府に睨まれていてご意向に逆らえないとかかな? >>361
大河内は養子入りしてだから
与えられたとは少し違うのでは 越前結城や会津も保科に戻さないで松平のままだったよね >>364
松平庶流の大名って、もともと松平が本当の名字なんだから、
他の大名とちがって松平のままで何の問題もないはずなのにな。 松平忠明を祖とする奥平系松平も明治維新のとき、奥平に戻してないが、
こっちは家康の男系子孫じゃなくて外孫にすぎないのに、なんで戻さなかったんだろう? 外様大名の場合だと、島津氏がそうであるように当主と嫡子のみが松平姓で、
その他の公子は島津姓のままだが、保科松平とか久松松平は賜姓松平なのに、
嫡子以外の子どもや甥とかもみんな松平姓を名乗っている。
なぜ、外様のように嫡子以外は保科や久松のままにさせなかったのだろう? 保科松平は秀忠の隠し子が藩祖だし、久松松平は、家康が異父弟に与えたが、家康存命中から嫡子以外も松平を名乗っていたような。 保科は結城と同じ扱いだろ。
松平の血筋だから賜姓というより出戻り。 越前松平家って重臣に結城姓を下賜してないな。
結城とは完全に縁を切ったってことなんだろうか。 戦国時代を必死に生き残って
有力者の息子養子迎えて家名も安泰だと思ったら
名門結城ブランドも地に落ちたもんだ 結城の名跡は前橋松平家が継いでいるが
苗字は継いでいない >>208
いたよ。
滝口武者の地下家・木工寮官人の地下家
滝口の方は木下、木工寮官人の方は佐野?(うろ覚え)って苗字。 >>381
この連中は、よりによって、なんで「豊臣姓」を本姓にしたんだろう?
滝口のほうは、本物の木下一門なんだろうか?
それにしても、徳川の時代に豊臣を本姓にするなんて、ひねくれてるな。
例の「まろは帝の臣であって徳川の臣ではない」ってパターンかw そういう見方をする方がよっぽどひねくれてる
秀吉が豊臣朝臣姓を賜った後に叙任に与った武家はほぼすべて豊臣某名義で位記官記口宣案等を受けている
その子孫が生き残っていたとすれば不思議はないしそれらが豊臣氏を受け継いでいても何もおかしくない
大名連中は自主的に遠慮して豊臣を捨ててはいるが
木下二軒は豊臣で通してもそれ故にお咎めを受けたという話もない
ましてや官人が豊臣だろうが何だろうが不都合があろうはずはない 家康は北政所を利用したからなあ
大坂城の淀殿・秀頼は豊臣にあらず
北政所の系統こそ本当の豊臣であるとして
北政所の養子になっていた甥の系統が本姓豊臣・苗字木下としてずっと残っていた
東福門院は生母江の位牌を養源院に納める際に皇室・徳川・豊臣の紋をあしらっている
(江が豊臣家養女であったため)
徳川の時代でも北政所の系統やら家光・東福門院の母が豊臣家出身(養女だが)であることは
隠さなくてよかったらしい 豊臣家康、羽柴秀忠ww
徳川家も単なる清家成大名の一角ww
その史実を覆い隠してきた徳川最悪w 松平容保は新政府に恭順、謹慎する意志があるのなら、
松平姓を捨てて、初代正之の保科姓に復帰するべきだった。
定敬も、同族の松山藩と同じように久松姓に復すべきだった。
こいつら、全然反省しとらん。 >>390
マルチだろう。御三家、御三卿スレと同じこと書いて。 >>390
容保も定敬も確信犯だから、本気で反省も恭順もしてない。 容保は孝明天皇に尽くしたのは間違いないし、直筆の感謝状をもらったのを竹筒に入れて肌身離さず持っていたんだろう。
禁門の変をやらかした長州が勝てば官軍となったのが、515や226の遠因だ。 宇喜多秀家や伊達秀宗の子孫が豊臣姓なのるのはあり?
二人とも秀吉の養子だけど >>393
孝明天皇の頃とは時代が変わったのだから仕方がない
孝明天皇は妹婿の徳川家茂をそれなりに可愛がり
これまで通り幕府存続、政治は武家、でいいと思ってたのだから なんにせよ、会津松平家は保科姓に戻すべきだった。
初代が保科正之なのに、下賜された松平姓を明治以降も使い続けるなんて未練がましい。
それは久松姓に戻さなかった桑名松平家も同様。同族の松山・今治と比べて頑固すぎる。 源姓松平と葵紋を返上するかどうかって元大名の意思で
どっちでも好きに選べたんだっけ?
太政官布告って特定の人に返上しろというものではなくて? 容保が率先して松平姓や葵紋を返上していれば、恭順の姿勢も明確になったのにな。
ついでに第一次長州征討のときみたいに、戦わずに家老数名の首を差し出しとけばよかった。 光圀の兄の家だし、本来なら水戸家を継ぐべき立場だったからな。
それにしても、頼房はなんで頼重や光圀が生まれたときに、あんな仕打ちをしたんだろう。
そのあともボコボコ子作りしてるくせに。 水戸は、本藩の石高は少ないが、高松を加えるとまあまあだな。
伊達の宇和島みたいなものかね。警戒されたんで別家立てて加増とか。 宗家ー廃嫡家
水戸ー高松
仙台ー宇和島
福井ー津山
萩ー長府
彦根ー与板 >>364
当時の藩主の意思によるんじゃないかな。
瀧脇は何度も養子を取っていて幕末の時点では伊達宗城の子が継いでいたと思う。
大給もおそらく蒲生の家臣だったよくわからない人物の男系になってる。
そういったのが判断に影響したのかも。 藩主の意思っていうか、当時の社会的・常識的な判断みたいなのがあって
それが太政官布告に影響したものと思われる。
会津藩の場合は保科正之が将軍の弟であったことが藩設立のエピソードとして
全国的に認識されていたであろうし、
桑名の場合も、田安宗武の子である定信が嗣いだ藩だってのが
大きく影響しているはず。
ともに、松平中の松平みたいに世間からは認識されていたはずなので、
今更復姓って感じではなかったんだろう。 桑名の本家である松山には定信の兄が養子に入ってるけど久松に復してるぞ
いずれにせよ自主規制みたいなものだし
松平捨てたか捨てなかったかの違いを殊更に問題にしようとしても意義を見出だしにくい 松山藩も長州征討に参加したり、維新で帰順が遅れて辛酸を舐めたからな 松平の復姓の場合は、どうも、本人が自分の自由意思で選べたようには見えないんだよね。
桑名と松山の違いも、定信の老中としての功績や、幕末の帰趨が影響しているように感じる。
直接の根拠があって言ってるわけじゃないので、あくまでも日本史的直観だけだけど。
正親町三条→嵯峨とか、喜連川→足利とかは、自分の意思でやったって気がする。 正親町三条の改姓の理由って、あまりにも長ったらしく、クドかったからだろうな。
しかも正親町氏や三条氏とかぶるし。 そもそも姓と氏について適当すぎないか
制度として賜姓なんて制度が後から出来たから分かり難いんだろうが
姓ってのそもそも論として、本来の姓って姫とか羌とかそれ以上さかのぼりようのない原初的に発生したものだろ。
劉姓なんて言われるが、劉だって地名にすぎない。
劉邦の祖父が劉って土地に移住してくるまで、劉なんて姓はなかった。
◆例
姫→容の地に封土→姫姓容氏→容氏分に移住(@)→分氏→分氏号に移住→号氏
この一族が、@辺りで大隆盛すれば、容が姓として位置づけられ分が氏になる。
まあこういったケースの場合最初の姫が不明なんだが。
これって古代ローマを基準にした、欧州の姓氏の変遷でも同じじゃね。
時代が下るといつの間にか氏族が姓になってたりする。
これがそもそもの姓と氏の成り立ちで、
これとは別に制度として、
商か周あたりから姓を下賜するって制度が早くも出始めて、日本でも同様に制度としての姓と氏が発生する。
これは古代ローマでも同じで、降伏したガリア人の集団に姓or氏を大盤振る舞いしてたりする。
原初的姓と移住に伴う変遷、これと制度上の姓氏がごっちゃになって話が進んでるだろ
じゃあこの場合姓と氏がどこで切り替わるの?と言われれば本人の主張と周囲の認識にすぎない。
ルールがあるわけでもなく、かなり主観的な材料で成り立つ。
子孫が反映すれば、それまで氏だったものが姓として切りかわることがありる。
これが下賜される姓氏などの制度上の姓氏と、ごっちゃになってるだろ。 姓という漢字は、かなり早くから本来のカバネとか身分称号の意味から、
ウジと混同されて、源平藤橘のような氏(ウジ)を本姓と言うようになり、
現代では姓名の姓が名字を意味するようになってる。
身分称号→本姓→名字と、時代によって字の意味が変化した。 >>417
頭悪いとか空気読めないねってよく言われない?
現代日本で野姓と氏の使い分けは文脈によるんだよ。 誰一人としてまともに説明できないし
説明できないにしてもそれなりの理解をしている奴がいるのかすら怪しい
これが現状の日本史板だわw >>417
日本における氏姓の語は律令制度と俗称と明治政府の用い方と近代以降の法律用語と様々だから、
これらを無視した統一的な用法なんてないしそれを定めたいのなら論文書いて同意を得てください。 一口で言うと、時代によって用語の意味が変化している。 やっぱり会津松平家と桑名松平家が、保科姓や久松姓に戻さなかったのは納得いかない。
おまえら、本当の松平じゃないだろ。 >>426
会津っぽの気骨だ。クソ喰らえ明治政府。 反省と自覚?
そんなこと言ってるからお前ら殺されたんじゃねえの? などと意味不明な言葉を発しており、動機は未だ不明。 などと意味不明な言葉を発しており、動機は未だ不明。 意味はこういうことだろ。
朝敵、逆賊として討伐され降参した身でありながら、
本来の保科や久松に戻さず、未練がましく松平姓を称し続けてるのが、
戦犯としての反省も自覚もないと。 「武士に二言は無い」
はいつごろから、無くなったのでしょうか。
信長はさておき、秀吉、家康はヒドイ者です。 >>434
孝明帝の御宸翰の存在は知ってるか?
明治政府がビビった話とか >>437
孝明天皇に忠誠を誓ったのに
明治天皇に忠誠を誓わないのが悪い 大坂から逃げたのが運のつき。
部下を大切にしない殿様への天罰。
大坂城に残って将軍不在により降伏無血開城してれば会津藩はちょっとした減知で済んだ。 朝敵慶喜の妄動を助けて鳥羽伏見で錦旗に向かって銃口を向けた時点で、
その罪は重い。
首魁の慶喜が降伏・恭順したあとも国元に割拠して武力で抵抗した容保、
本藩は恭順しているのに箱館まで脱走して反抗した定敬。
この二人が心の底から反省し謝罪する意志があるのなら、松平姓に執着せず、
本来の保科、久松の姓に復すべきだったのではないか? >>438
へえ、若年の明治天皇は、孝明天皇の方針をさっさと変えちゃった親不孝者なのかぁ
すげえ低能だな、お前 明治天皇は子供だったから
祖父や周囲の言いなりだった >>441
低能はお前。
幕末の世界情勢見てみろ。
孝明天皇が幕末を生きていたら家茂死後も慶喜と永遠に手を取り合って
「攘夷」を言い続けていたとでも思っているのか?
>>442
明治天皇は16歳
充分大人 >>444
憶測だけで自分を正当化するageage低能くん、
もう少しマシなレスができないなら、アンカーを使うな 明治天皇のことなど、どうでもいい。
問題は保科容保と久松定敬が慶喜の軽挙妄動を助けて、京都に攻め上り、
錦旗に向かって銃口を向けたという事実だ。 >>445
父の意見を子が変えた天皇などいくらでもいるわけだが
ひたすらに会津ageするために「孝明天皇の生前の主張を天皇家は子々孫々末代まで守るべし!」
というしかないわな。低能君。
そもそも孝明天皇が幕府存続を認めていたのは幕府の責任で鎖国を行わせるためだ
それを幕府が守らなかったのに孝明天皇と幕府の信頼関係は永遠に続くと思っている馬鹿 鎖国は幕府が始めたことなんだから、開国に朝廷を関与させたことが敗因。
朱印船貿易の例を見れば明らかなように、幕府に外交権もあったはず。 桑名藩主家はともかく、
会津が保科に複するのは、当時の一般常識に照らして違和感ありだろ。
織田信雄の子孫である天童藩主家に、北畠姓に戻れって言ってるのと同レベルだろ スレとはまったく関係のない、場違いな会津ネタを振って、
自爆し続ける会津アンチは哀れを通り越してるな でも、会津松平家は上総飯野藩保科家を同族として扱っている。
容保の義姉の姫様も、飯野藩から松平容敬の養女になり、嫁ぎ先から出戻ったあとも、
会津戦争まで、ずっと会津松平家のヌシのような存在だったし。
やっぱり会津容保は、保科姓に復すべきだったな。 >>447
16才で即位直後に国家の命運にかかわるような国策変更を打ち出した天皇って誰だよ?
永遠永遠って、お前は知恵遅れか? 睦っちゃんのことなど、どうでもいい。
酔っぱらいの容堂にすら、幼沖の天子と言われるような奴だ。 長じても伊藤や山県の傀儡だしな。
文字通り、木偶のような存在。 >>452
当時16歳と言えばすでに元服して妃持ち
お前みたいな智恵遅れの16歳とは違うわ >>455
低能なのに負けず嫌いだな。
質問に答えられないなら、まともな話の逸らし方はできないものか?
で、誰だよ? 答えてみろよ、いくらでもいるんだろ。 いつまで、どうでもいい話題をやってるんだ?
ムツヒトのことなんかどうでもいいだろ。
所詮、傀儡にすぎないヤツなのに。 >当時16歳と言えばすでに元服して妃持ち
これは、明治天皇本人の能力や資質、政治思想とは明らかに関係ないよ だから、木偶の話はもういいって。
あいつが、ただの操り人形だったのは、山内容堂がうっかり失言したことでも明白だろ。 慶応3年前後の史料を活字本で読んだことがあるけど、
山内容堂が「松平容堂」って署名してるのが、なんか面白かった。
容堂って、王政復古のギリギリまで慶喜びいきだったくせに、
維新後はあっさり松平姓を捨ててるんだよな。
反省の足りない保科容保・久松定敬兄弟も恥知らずだが、容堂も恥知らずだな。
土佐山内家の神君への恩義はなんだったのか? 尾張家まで官軍についたしな。名古屋で防戦すりゃ少しは流れが変わったぞ。 尾張慶勝って保科容保や久松定敬の実の兄貴で慶喜とは又従兄弟なのに、
あっさり官軍に寝返ったな。
王政復古後の新政府では、一応、土佐、越前、尾張は慶喜擁護派だったのに。 尾張も福井も裏切り者
津山、松山、松江は西国にあって頑張った忠臣 浜田松平家も越智姓に復姓しなかったな。
初代清武からして、実兄の家宣に徳川姓も大封も与えられずに他人扱いされ、
歴代当主も大半は譜代大名=家臣扱いだったというのに、松平姓に執着するなんて・・・ 外様の大大名って松平姓と葵紋下賜されて公式には松平加賀守とか呼ばれるけど
殿中で裃に付ける紋も葵なのか? 本田家は、遠慮せずに立葵を使ってたがな。元はうちのものだとかなんとか言って。 2ちゃんではなんでも話せる匿名性と引き替えに、
頭も人生もからっぽの名無しになることを要求されるのさ。
違うか。
もとからからっぽの奴が2ちゃんにたむろして愚痴ってるのか。
くだらないな。
俺もお前もくだらない。 秀吉のお古の「羽柴筑前守」をもらった前田利家は、さぞや屈辱だったことだろう。
若い頃の朋輩に靴の裏を舐めさせられたような感じだからな。 利家なんて織田政権の序列では秀吉よりだいぶ下だっただろ
それが豊臣政権では100万石の大大名で清華家だよ
これで屈辱に思う人間がいるか?
むしろ秀吉との関係の近さをアピールできて鼻が高いのでは 関ヶ原の後で、
何故か利家倅が大幅に加増されて、
100万石になったんだが >>488
元々長男次男合わせて100万石超えてるんだが
西軍についた次男の領知を長男が貰って100万石 西軍についたでなく
兄弟ともにこうもりのような怪しげな行動だったが
より西軍よりだった弟がババつかんだって話だな 前田家は母親を江戸に人質に出したり、将軍家から嫁を貰って跡継ぎを産ませたりと色々やってたからな。
あと、本多政重を家老に召し抱えて対幕府折衝をやらせてたし。 日本二千年の歴史の中の覇王だよな
最初は天皇家
次が秀吉
そして現代が、、
もうわかるよな? 豊臣姓は配れないはずなんだけどな
源平藤原が姓を配ったことがあったか?
徳川将軍だって松平は配ったが、源は配ってない 豊臣姓は任官する時必須だから大名未満の武士でも結構貰えている。
羽柴苗字は豊臣製よりもハードル高めだが有力大名〜中堅大名は大抵もらえてる。 >>496
徳川政権下でも本来源氏じゃなくて別の氏の由緒を持つ者が源氏で任官してる例がある。
源氏に仮冒したとかじゃなくて、あくまで元の氏の由緒を保ったままでね。
なので徳川も源氏を与える事があった模様。 >豊臣姓は任官する時必須だから
秀吉が勝手につくったルールでしょ
臣下に姓を与えれるのは天皇だけ 天皇は任官の際に系図を要求しないから既存の氏なら名乗りたい放題だし、
天皇が秀吉の臣下に自発的に叙任する事も無かったので、
任官を推薦する秀吉が事実上、就く官位とその際に名乗る氏を自由に決められた。
秀吉がどこかの百姓を捕まえて、お前は今から豊臣某として御所で任官してこいと言われても、
こいつは豊臣氏じゃないなんて天皇が言える状況じゃなかった。
というか言ったらどうなるかわからなかったし、そんなリスクを冒してまで拘る事でも無かった。
だから、新しい氏を作るのは天皇の権利で、それが冒された事は無かったと思われるが、
既存の氏を与えたり自称する事は天皇固有の権利とは関係無かった。
ただまあ既存の氏を与えられるのでも、天皇から与えられる方が有り難くはあったろうが。 豊臣氏長者の権限で、家臣を豊臣氏として叙位任官を朝廷に奏上してたんだろう。 >>500
史実を無視して「そんなはずはない」「そんなことできるはずがない」とか
当為論を喚く低能っていつまでもいなくならないな
氏ってのは本来的に「擬制的同族集団」だから
その氏の機能を利用して武家統制に利用しただけのこと 他姓の重臣に主家の姓を与えて名乗らせるのは島津、伊達、鍋島など、
戦国以来の土着大名に多いな。 >>506
高校生の頃の俺に同じこと聞いてもおまえのような低能よりは正確に理解してたわw
おまえ「氏(ウヂ)」と「姓(カバネ)」と「姓(セイ)」と「尸(シ)」の用法の違いとその時代による変遷を理解できていないだろ >>505
土着大名の重臣も土着者として勢力持ってるから気を使うんじゃね 天皇しか氏姓を与えられないと勘違いしてる者がいるようだが、
天皇しか新しい氏姓を作れないと言った方が正しいな。
それこそ本来の氏姓とは異なる氏姓を自称してる者なんかいくらでもいたし、
既存の氏を天皇の許可無く勝手に名乗ったり与える事については咎めなど無かった。
あるとしたら公家など天皇に出自を知られてる者くらいか。
ただ公家でも平が平群と名乗ったりはあったからな。
摂関家精華家の当主がいきなり藤原氏を廃して物部氏だとか称したらそりゃ天皇からも何か言われるだろうが。 >>507
>高校生の頃の俺に同じこと聞いてもおまえのような低能よりは正確に理解してたわw
すごい日本語ですねw
ケンカ腰で威張ってるけど、偏差値35くらい? 氏長者に同族認定、放氏の権限があるんだろう。長者が認めれば血縁がなくとも同氏で通るんじゃないのか。 豊臣は官位叙任とセットで
羽柴はおおよそ公家成とセットって理解でいい? じゃあ、「群雲、関ヶ原へ」で、加藤清正が、羽柴はもらったのに
自分の家柄が悪いから豊臣姓がもらえないって福島正則に嫉妬してたのは
作者の勘違いなのか? それは知らんが
秀吉の生前に羽柴をもらったのは正則だろ
秀吉の晩年になって、正則と青木一矩だけが親族ということで侍従に任官され公家成してる
清正も親族だろうに評価が低かったのか? あなたは40代ロサンゼルス新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか? 京都に羽柴長吉ってう地名があるけど、
これは、池田長吉のことらしいけど、
浅野長吉は羽柴を名乗っていたことはないの? 浅野は関白殿下の諸大夫だしね
多くの場合、羽柴は公家成した大名しか与えられていないからね
公家成大名は秀吉の元同僚とか服属した国持クラスの大名
豊臣は任官すれば一部の例外除いて豊臣朝臣 黒田とか浅野とか蜂須賀とか加藤とか石田とか山内とか、
秀吉の譜代の家来だと、秀吉政権下で中堅以上の大名でも「羽柴姓」はもらえなかったみたいね。
概ね、本能寺の時点で、大名だったかどうか。秀吉に引き立てられて大名になったのはもらえない。
福島がもらったのは秀吉が死んだのと同じ年だけど、たぶん秀吉が死んでからだろうね。 >>523
そのあたりは豊臣政権では豊臣家の直臣だから諸大夫
羽柴名字や侍従以上の官位を授けられるのは中堅以上の大名や織田家の元同僚
例外が福島正則、青木一矩、井伊直政
福島と青木は秀吉の親族だからか晩年の1597年に侍従に任官されて公家成してるよね
井伊は聚楽行幸のときには公家成してるが、家康が特別だからなのか、井伊を徳川家から離す狙いがあったのか、まだその時点で家格制度が未完成だったための例外なのかは分からない
原則から言えば清華の徳川家の家臣なんだから諸大夫のはず >>526
得川が清華というのがそもそも間違い。
五摂家を家礼として従える「清華」なるものが存在しうると考えているなら別だけどね。 >>527は完全に読み間違いです。失礼しました。
本題ので、秀吉は他にも有力大名の有力家臣を取り立てようとしているようだから、
> 井伊を徳川家から離す狙いがあった
というのはありそうな話だね。 同じような例として、小早川隆景も同時期に侍従に任官してるね
隆景の場合は秀秋を養子にして清華成まで果たしているけど 清華大名で実際大臣になったのは徳川家康だけだよね。
あとは前田が大納言舐った以外は中納言止まり。
豊臣政権が長続きしていたら武家清華の半分くらいは大臣なれたのか?
それか武家清華の官位設定自体、公家よりも下に設定されてる? >>530
織田信雄が先に内大臣任官したけど、秀吉の勘気を蒙って改易されたわね。
そん次が有名な内府殿ですわ。
豊臣秀頼が関白にならない限りは、他の武家が大臣になるのは考えられないけど、
強いて言えば舅の秀忠ならありえると思われ。 >>530
秀吉の生存中は公家も大差ない
大臣
今出川晴季(武家伝奏、失脚)
近衛信輔(失脚)
権大納言
鷹司信房(左大将兼任)
西園寺実益(右大将兼任)
大炊御門経頼(再任)
久我敦通(武家伝奏)
権中納言
今出川季持
花山院定煕
この中で秀吉の関白任官後に昇進したのは今出川季持と花山院定煕、あとは鷹司信房が左大将兼任しただけ
他の摂関家、清華家は少将、中将止まり
大臣家以下で公卿になったのが名家の広橋兼勝の権大納言昇進、大臣家の三条西実条の参議昇進くらい 前の方で、細川家が羽柴はもらったのに松平を拒否した理由だけど、
羽柴の方は家格が強く関係してるんじゃない?
松平はもらわないからといって家格が落ちるわけじゃないけど 元主家潰した褒美に貰うのは気が引けただけなんじゃんかな 本家でかつ累代の主家でもある家をつぶした褒美は受けているのに? 主家を足利→織田→豊臣→徳川
のように見えるが、
細川氏は古今伝授を以って朝廷の臣となった。
ついに摂関家筆頭の家督をも兼任し、
首相 関白 管領 の 三冠王となった・・・・・・・
井山七冠より大局観が凄い。 羽柴が丹羽+柴田っていうのは間違いらしいな
ずっと柴田>丹羽だろうに、丹羽の下と柴田の上をこの順序で並べるのはどうかと思ってた 松前は松平+前田のような気がするので順序は正しいか・ 本当に松平+前田なのかな
もともとある地名だった可能性は? 偽源氏田舎紫の松平姓下賜を厳然と拒否した細川、上杉 両方とも羽柴はもらってる理由はなんだね?
なぜ毅然と拒否しなかったのかね? えらく遅レスですまんが>>12
訂正追加よろしくです
池田利隆→1607年(松平)
池田輝政→1612年(松平) >>12の羽柴秀直って誰?
清華成大名の子息か
漢字の書き間違え、読み取り違い? 中川清秀が次子、姓を賜り中川秀直から羽柴秀直となったが、惜しくも夭折 >>541
羽柴は天下人と同姓
松平は天下人の親類と同姓 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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念のためにのせておきます
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