【羽柴】武家の臣下への賜姓について【松平】
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・江戸時代の国持大名がほとんど「松平」を姓として使っていた
・豊臣家は家臣に「豊臣」「羽柴」などのを与えていた
・織田弾正忠家の「織田」も守護代家からの賜姓で、元の姓は「津田」?
・平盛国は清盛から「平」を賜姓されていた?
などなど、賜姓についてのスレッド。 容保が率先して松平姓や葵紋を返上していれば、恭順の姿勢も明確になったのにな。
ついでに第一次長州征討のときみたいに、戦わずに家老数名の首を差し出しとけばよかった。 光圀の兄の家だし、本来なら水戸家を継ぐべき立場だったからな。
それにしても、頼房はなんで頼重や光圀が生まれたときに、あんな仕打ちをしたんだろう。
そのあともボコボコ子作りしてるくせに。 水戸は、本藩の石高は少ないが、高松を加えるとまあまあだな。
伊達の宇和島みたいなものかね。警戒されたんで別家立てて加増とか。 宗家ー廃嫡家
水戸ー高松
仙台ー宇和島
福井ー津山
萩ー長府
彦根ー与板 >>364
当時の藩主の意思によるんじゃないかな。
瀧脇は何度も養子を取っていて幕末の時点では伊達宗城の子が継いでいたと思う。
大給もおそらく蒲生の家臣だったよくわからない人物の男系になってる。
そういったのが判断に影響したのかも。 藩主の意思っていうか、当時の社会的・常識的な判断みたいなのがあって
それが太政官布告に影響したものと思われる。
会津藩の場合は保科正之が将軍の弟であったことが藩設立のエピソードとして
全国的に認識されていたであろうし、
桑名の場合も、田安宗武の子である定信が嗣いだ藩だってのが
大きく影響しているはず。
ともに、松平中の松平みたいに世間からは認識されていたはずなので、
今更復姓って感じではなかったんだろう。 桑名の本家である松山には定信の兄が養子に入ってるけど久松に復してるぞ
いずれにせよ自主規制みたいなものだし
松平捨てたか捨てなかったかの違いを殊更に問題にしようとしても意義を見出だしにくい 松山藩も長州征討に参加したり、維新で帰順が遅れて辛酸を舐めたからな 松平の復姓の場合は、どうも、本人が自分の自由意思で選べたようには見えないんだよね。
桑名と松山の違いも、定信の老中としての功績や、幕末の帰趨が影響しているように感じる。
直接の根拠があって言ってるわけじゃないので、あくまでも日本史的直観だけだけど。
正親町三条→嵯峨とか、喜連川→足利とかは、自分の意思でやったって気がする。 正親町三条の改姓の理由って、あまりにも長ったらしく、クドかったからだろうな。
しかも正親町氏や三条氏とかぶるし。 そもそも姓と氏について適当すぎないか
制度として賜姓なんて制度が後から出来たから分かり難いんだろうが
姓ってのそもそも論として、本来の姓って姫とか羌とかそれ以上さかのぼりようのない原初的に発生したものだろ。
劉姓なんて言われるが、劉だって地名にすぎない。
劉邦の祖父が劉って土地に移住してくるまで、劉なんて姓はなかった。
◆例
姫→容の地に封土→姫姓容氏→容氏分に移住(@)→分氏→分氏号に移住→号氏
この一族が、@辺りで大隆盛すれば、容が姓として位置づけられ分が氏になる。
まあこういったケースの場合最初の姫が不明なんだが。
これって古代ローマを基準にした、欧州の姓氏の変遷でも同じじゃね。
時代が下るといつの間にか氏族が姓になってたりする。
これがそもそもの姓と氏の成り立ちで、
これとは別に制度として、
商か周あたりから姓を下賜するって制度が早くも出始めて、日本でも同様に制度としての姓と氏が発生する。
これは古代ローマでも同じで、降伏したガリア人の集団に姓or氏を大盤振る舞いしてたりする。
原初的姓と移住に伴う変遷、これと制度上の姓氏がごっちゃになって話が進んでるだろ
じゃあこの場合姓と氏がどこで切り替わるの?と言われれば本人の主張と周囲の認識にすぎない。
ルールがあるわけでもなく、かなり主観的な材料で成り立つ。
子孫が反映すれば、それまで氏だったものが姓として切りかわることがありる。
これが下賜される姓氏などの制度上の姓氏と、ごっちゃになってるだろ。 姓という漢字は、かなり早くから本来のカバネとか身分称号の意味から、
ウジと混同されて、源平藤橘のような氏(ウジ)を本姓と言うようになり、
現代では姓名の姓が名字を意味するようになってる。
身分称号→本姓→名字と、時代によって字の意味が変化した。 >>417
頭悪いとか空気読めないねってよく言われない?
現代日本で野姓と氏の使い分けは文脈によるんだよ。 誰一人としてまともに説明できないし
説明できないにしてもそれなりの理解をしている奴がいるのかすら怪しい
これが現状の日本史板だわw >>417
日本における氏姓の語は律令制度と俗称と明治政府の用い方と近代以降の法律用語と様々だから、
これらを無視した統一的な用法なんてないしそれを定めたいのなら論文書いて同意を得てください。 一口で言うと、時代によって用語の意味が変化している。 やっぱり会津松平家と桑名松平家が、保科姓や久松姓に戻さなかったのは納得いかない。
おまえら、本当の松平じゃないだろ。 >>426
会津っぽの気骨だ。クソ喰らえ明治政府。 反省と自覚?
そんなこと言ってるからお前ら殺されたんじゃねえの? などと意味不明な言葉を発しており、動機は未だ不明。 などと意味不明な言葉を発しており、動機は未だ不明。 意味はこういうことだろ。
朝敵、逆賊として討伐され降参した身でありながら、
本来の保科や久松に戻さず、未練がましく松平姓を称し続けてるのが、
戦犯としての反省も自覚もないと。 「武士に二言は無い」
はいつごろから、無くなったのでしょうか。
信長はさておき、秀吉、家康はヒドイ者です。 >>434
孝明帝の御宸翰の存在は知ってるか?
明治政府がビビった話とか >>437
孝明天皇に忠誠を誓ったのに
明治天皇に忠誠を誓わないのが悪い 大坂から逃げたのが運のつき。
部下を大切にしない殿様への天罰。
大坂城に残って将軍不在により降伏無血開城してれば会津藩はちょっとした減知で済んだ。 朝敵慶喜の妄動を助けて鳥羽伏見で錦旗に向かって銃口を向けた時点で、
その罪は重い。
首魁の慶喜が降伏・恭順したあとも国元に割拠して武力で抵抗した容保、
本藩は恭順しているのに箱館まで脱走して反抗した定敬。
この二人が心の底から反省し謝罪する意志があるのなら、松平姓に執着せず、
本来の保科、久松の姓に復すべきだったのではないか? >>438
へえ、若年の明治天皇は、孝明天皇の方針をさっさと変えちゃった親不孝者なのかぁ
すげえ低能だな、お前 明治天皇は子供だったから
祖父や周囲の言いなりだった >>441
低能はお前。
幕末の世界情勢見てみろ。
孝明天皇が幕末を生きていたら家茂死後も慶喜と永遠に手を取り合って
「攘夷」を言い続けていたとでも思っているのか?
>>442
明治天皇は16歳
充分大人 >>444
憶測だけで自分を正当化するageage低能くん、
もう少しマシなレスができないなら、アンカーを使うな 明治天皇のことなど、どうでもいい。
問題は保科容保と久松定敬が慶喜の軽挙妄動を助けて、京都に攻め上り、
錦旗に向かって銃口を向けたという事実だ。 >>445
父の意見を子が変えた天皇などいくらでもいるわけだが
ひたすらに会津ageするために「孝明天皇の生前の主張を天皇家は子々孫々末代まで守るべし!」
というしかないわな。低能君。
そもそも孝明天皇が幕府存続を認めていたのは幕府の責任で鎖国を行わせるためだ
それを幕府が守らなかったのに孝明天皇と幕府の信頼関係は永遠に続くと思っている馬鹿 鎖国は幕府が始めたことなんだから、開国に朝廷を関与させたことが敗因。
朱印船貿易の例を見れば明らかなように、幕府に外交権もあったはず。 桑名藩主家はともかく、
会津が保科に複するのは、当時の一般常識に照らして違和感ありだろ。
織田信雄の子孫である天童藩主家に、北畠姓に戻れって言ってるのと同レベルだろ スレとはまったく関係のない、場違いな会津ネタを振って、
自爆し続ける会津アンチは哀れを通り越してるな でも、会津松平家は上総飯野藩保科家を同族として扱っている。
容保の義姉の姫様も、飯野藩から松平容敬の養女になり、嫁ぎ先から出戻ったあとも、
会津戦争まで、ずっと会津松平家のヌシのような存在だったし。
やっぱり会津容保は、保科姓に復すべきだったな。 >>447
16才で即位直後に国家の命運にかかわるような国策変更を打ち出した天皇って誰だよ?
永遠永遠って、お前は知恵遅れか? 睦っちゃんのことなど、どうでもいい。
酔っぱらいの容堂にすら、幼沖の天子と言われるような奴だ。 長じても伊藤や山県の傀儡だしな。
文字通り、木偶のような存在。 >>452
当時16歳と言えばすでに元服して妃持ち
お前みたいな智恵遅れの16歳とは違うわ >>455
低能なのに負けず嫌いだな。
質問に答えられないなら、まともな話の逸らし方はできないものか?
で、誰だよ? 答えてみろよ、いくらでもいるんだろ。 いつまで、どうでもいい話題をやってるんだ?
ムツヒトのことなんかどうでもいいだろ。
所詮、傀儡にすぎないヤツなのに。 >当時16歳と言えばすでに元服して妃持ち
これは、明治天皇本人の能力や資質、政治思想とは明らかに関係ないよ だから、木偶の話はもういいって。
あいつが、ただの操り人形だったのは、山内容堂がうっかり失言したことでも明白だろ。 慶応3年前後の史料を活字本で読んだことがあるけど、
山内容堂が「松平容堂」って署名してるのが、なんか面白かった。
容堂って、王政復古のギリギリまで慶喜びいきだったくせに、
維新後はあっさり松平姓を捨ててるんだよな。
反省の足りない保科容保・久松定敬兄弟も恥知らずだが、容堂も恥知らずだな。
土佐山内家の神君への恩義はなんだったのか? 尾張家まで官軍についたしな。名古屋で防戦すりゃ少しは流れが変わったぞ。 尾張慶勝って保科容保や久松定敬の実の兄貴で慶喜とは又従兄弟なのに、
あっさり官軍に寝返ったな。
王政復古後の新政府では、一応、土佐、越前、尾張は慶喜擁護派だったのに。 尾張も福井も裏切り者
津山、松山、松江は西国にあって頑張った忠臣 浜田松平家も越智姓に復姓しなかったな。
初代清武からして、実兄の家宣に徳川姓も大封も与えられずに他人扱いされ、
歴代当主も大半は譜代大名=家臣扱いだったというのに、松平姓に執着するなんて・・・ 外様の大大名って松平姓と葵紋下賜されて公式には松平加賀守とか呼ばれるけど
殿中で裃に付ける紋も葵なのか? 本田家は、遠慮せずに立葵を使ってたがな。元はうちのものだとかなんとか言って。 2ちゃんではなんでも話せる匿名性と引き替えに、
頭も人生もからっぽの名無しになることを要求されるのさ。
違うか。
もとからからっぽの奴が2ちゃんにたむろして愚痴ってるのか。
くだらないな。
俺もお前もくだらない。 秀吉のお古の「羽柴筑前守」をもらった前田利家は、さぞや屈辱だったことだろう。
若い頃の朋輩に靴の裏を舐めさせられたような感じだからな。 利家なんて織田政権の序列では秀吉よりだいぶ下だっただろ
それが豊臣政権では100万石の大大名で清華家だよ
これで屈辱に思う人間がいるか?
むしろ秀吉との関係の近さをアピールできて鼻が高いのでは 関ヶ原の後で、
何故か利家倅が大幅に加増されて、
100万石になったんだが >>488
元々長男次男合わせて100万石超えてるんだが
西軍についた次男の領知を長男が貰って100万石 西軍についたでなく
兄弟ともにこうもりのような怪しげな行動だったが
より西軍よりだった弟がババつかんだって話だな 前田家は母親を江戸に人質に出したり、将軍家から嫁を貰って跡継ぎを産ませたりと色々やってたからな。
あと、本多政重を家老に召し抱えて対幕府折衝をやらせてたし。 日本二千年の歴史の中の覇王だよな
最初は天皇家
次が秀吉
そして現代が、、
もうわかるよな? 豊臣姓は配れないはずなんだけどな
源平藤原が姓を配ったことがあったか?
徳川将軍だって松平は配ったが、源は配ってない 豊臣姓は任官する時必須だから大名未満の武士でも結構貰えている。
羽柴苗字は豊臣製よりもハードル高めだが有力大名〜中堅大名は大抵もらえてる。 >>496
徳川政権下でも本来源氏じゃなくて別の氏の由緒を持つ者が源氏で任官してる例がある。
源氏に仮冒したとかじゃなくて、あくまで元の氏の由緒を保ったままでね。
なので徳川も源氏を与える事があった模様。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています