倭國王帥升とは一体何者だったのか?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
『後漢書』孝安帝紀東夷伝に初めて出てくる日本列島にいた国王であるが彼は一体何者なのでしょうか?
北九州在住説が有力なのだが後にでてくる邪馬台国の卑弥呼と関係あるのか?
また記紀に書かれた神話上の人物と何ら関係あるのか?
この謎の倭王帥升について議論しましょう。 倭の面土国の王なんだから、彼は。
これは当時の中国語の音韻で、メタ国とよぶ。
旧事本紀によると、吉野ヶ里遺跡のあったあたりは、
筑紫の米多国(メタ国)という行政区間だったらしい。 宗像渡海ルートが確立したのは4世紀と見える。
宗像 ⇔ 大島 → 沖ノ島西側 → 対馬北端 → 釜山
巨済島 → 対馬北端 → 沖ノ島東側 → 大島 ⇔ 宗像
沖ノ島には時計回り潮流が発生するので、
その潮流で渡海可能になるのは月齢の特定時期に限られる。
その特定時期以外は船が日本海に流される。 87
筑紫の米多国ですが、目田原という地名が吉野ヶ里付近に残っていますから、目田原付近が米多国であった可能性がありますが、吉野ヶ里町の旧名は三田川(みたがわ)です。これもメタに由来するものと思われますが以下がお考えですか。
また、風土記では隣の神埼は景行天皇により神幸(かむさき)と命名されたとされています。
神埼の旧名を調べていますが、ここも米多国であったのではないかと思っています。いかがお考えですか。 >>89
×目田原 ○目達原
提言
吉野ヶ里町「井柳」と上峰町「米多」の間を流れる川が「井柳川」。
「井柳川」が流れるところが元祖「三田川村」
「井柳川」の旧名が「三田川」か?
「三田」は「米多」に通ずる。 南極のピラミッドも知らないやつがもごもごもごもご、いい加減やめろと何度いわれたらわかるんだ?低脳! 90
ありがとうございます。
面白いですね。
久留米に高良山がありますが、高良山勢力と吉野ヶ里勢力は、どういう関係だったか考えています。
高良山には高木神から玉垂命へ変わっていますが、 これは吉野ヶ里にも影響があったとお考えですか。
質問ばかりで申し訳ありません。 久留米は豊姫、豊玉姫の伝承も根強いな。
これが気になって仕方がない。 豊姫とは台与のこと。これが九州説の大きな根拠だ。畿内には豊姫はいない。 久留米には豊姫神社があって、
周囲の神社で合祀されてるところも多い。
当然後世の製作だが、石の社に豊姫の人形が
祀られてるのを見て、ちょっとどきっとした >>92
高木神は歴代の吉野ヶ里勢力と同時代かより古い神です。
高良山の立地からみると、玉垂命(豊姫も)が筑紫平野東部内陸部の4ヶ国を
統合して邪馬台国(邪馬台国の原型)を作った人物ではないかと。
高良山(久留米)の勢力は新興勢力として吉野ヶ里の勢力と対立した。2世紀倭國乱の頃。
未だ裏付が不十分な仮説にしか過ぎません。 高良は孝霊だろ、他から来てるのだから
九州の人物ではないのだがw 『神社覈録』高良大社の項「高良は加波良と訓べし」(高良はカハラとヨムべし)
高良大社 祭神:高良玉垂命 配祀:八幡大神 住吉大神 合祀:豊比淘蜷_
水沼君が祀る神は宗像三女神
高良山の別名「高牟礼山」(たかむれやま)「不濡山」(ぬれせぬやま)
高牟礼の地名 鹿児島県出水市下大川内高牟礼
高牟禮神社 えびの市 出雲の孝霊山、別名カワラ山。または瓦山、韓山。
ここで半島からやってきた王と山比べして
大山に負けたと置いていったのが
孝霊山だという国引き神話の謂われ有り。 高良山、英彦山は非常に面白いですよね。
天忍穂耳と高木神の娘ヨロヅハタトヨアキチシヒメとの間にホヒカリ、ニニギの子が・・・
高良山の支配勢力の変遷が記紀により裏付けられたら、いいんですけどね。
高良山の地元の小学校の校歌に、タカムレという言葉が入ってるそうです。
地元では、タカムレという言葉に愛着があるってことでしょうかね。
いつか明らかにしたいなぁ〜 高牟礼は元々高良山にいた邪馬台国と親しい系列。
玉垂命は九州北岸から来た元祖大和朝廷系列で、
本拠地を福岡平野から
人口密度が高く、人口も多い筑紫平野に移した。 103
その話、非常に興味があります。
全体像がわかる資料など教えていただけませんか? 本当は、委奴面土國が正しい
つまり稲本
稲本という地名は宗像に在る
それ以外に稲本、稲元という地名は九州に無く
本州、四国でも4か所だけ
因みに稲本(INAMOTO)は大和(IAMATO)の語源に成った 肥の君の出自を教えて下さい。
できたら、邪馬台国や狗奴国、大和勢力との関係の点からだとありがたいです。 肥の君が火国造の一族のことを指すのなら、
初代神武天皇の第二皇子神八井耳命の後裔、建緒組命が10代崇神天皇のころ火国を征服し任じられたとされる。
日本書紀によると九州が大和勢力に組み込まれるのは12代景行天皇の親征、13代成務天皇の国造・県主整備なので
ウチはそれ以前からヤマト王権に従っていた由緒正しい家ですよ、と主張していることになる。
甥の速瓶玉命が阿蘇氏の祖。
崇神天皇は3世紀末〜4世紀前半の人なので、邪馬台国より後の話になる。
ほかに邪馬台国との関係でいえば火国造の流れから邪馬台国が出たという説を系譜研究の大家の太田亮が挙げていた。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm 北九州にあったのは宋人街
そこからのながれで石山本願寺とか発展してるから見てみろ
北条の政子なんかもそんときに帰依しとるわ 帥升について語るスレで本願寺とか政子とか馬鹿なの? 在日韓国人優遇より,まず日本人のための社会を!
「在日(日本に居座る韓国人,朝鮮人)特権」とは?
日本人の税金で,日本人の生活保護者以上に優遇!
・生活保護優遇・月額最低17万円無償で支給。
・在日韓国・朝鮮人64万人中46万人が無職。
・なお仕事を持っていても給付対象から外されることはない
・国民年金全額免除(“掛け金無し”で年金『受給』が可能)
・保険診療内の医療費は全額タダ(通院費も全額支給)
・市営交通無料乗車券給与・・仮名口座可(脱税の温床)
・上下水道基本料金免除
・JRの定期券割引
・NHK全額免除
・特別永住資格(外国籍のまま子々孫々とも日本に永住できる)
・公文書への通名使用可(在日隠蔽権獲得)
・公務員就職の一般職制限撤廃
・永住資格所有者の優先帰化
・公営住宅への優先入居権
・外国籍のまま公務員就職
・犯罪防止指紋捺印廃止
・朝鮮学校、韓国学校の保護者へ年間数十万円の補助金援助(所得に関係なく全額補助)
・大学センター試験へ韓国語の導入(朝鮮語受験者への異常な優遇)
・民族学校卒業者の無審査公私高校受験資格付与
・競争率の低い帰国子女枠で有利に進学可能
・朝鮮大学校卒業者の司法試験1次試験免除
・民族学校卒業者の大検免除 中世の肥前の豪族高木氏だが、火国造の後との説があるが、この高木氏はどういうわけか弟橘媛を祀っているようですが、両者はどのような関係かわかりますか? 「難升米」と「帥升」
これはどうやら、「海彦」と「山彦」に相当するようだ。
海軍の元帥と陸軍元帥と考えればうまく説明できるだろう。 >>111
高木氏がほかに祀る神として淀姫神があるが、この神は神功皇后の妹や豊玉姫命とされ、
ほかに氏流が鏡神社で神功皇后を、途中で養子に入ったとされる高向氏は宗像神を祀る。
これらに共通するのは海運に関連する女神であるということであり、その縁で弟橘姫を祀ることになったんだろう。 漢字二文字名だから何世代前からか倭国に住みついた中国系の支配者かも。
日本風の名前の記述なら漢字を五、六文字ぐらい使うじゃん。 二文字名ではなく「升」の一字名だろうな、王は主の誤写で。
倭国の王「帥升」ではなく倭国の主帥「升」 難升米の「難」は奴国の「奴」
難「升米」は倭国の主帥「升」の子孫だろう
倭国の主帥「升」の国は従って末盧国でも伊都国でもなく奴国だ 倭面土国をどう読むか。邪馬台国をどう読むか。
それぞれ時代が違うから、同じ国が違う表記になっているかもしれない。
ワメド国とヤマト国。
昔、ロバート・ミッチャムという俳優がいたが、アメリカ人が
発音しているのを聞いたらロバ・ミッチョンと聞こえた。 「面土国王」は「国王」を誤って二回書いただけだろう >>120
>倭面土国をどう読むか。邪馬台国をどう読むか。
倭面土國・・ヰメタ国・・倭米多國 吉野ヶ里を中心とした佐賀平野
邪馬台国・・邪馬壹國(ヤマヰ国) 北野地域と筑後平野内陸部の筑紫平野 「倭」も「壹」も「ヰ」とは読めないだろ
古田電波もたいがいにしろ
おまえは「冶」の字で与太話でもいてるのがお似合い >>123
>「倭」も「壹」も「ヰ」とは読めないだろ
3世紀のシナ人は、「倭」も「壹」も「イ」に近い音として聞き取ったのだ。 >>124
「イ」と「ヰ」じゃ発音が違うじゃん。その返事は適当すぎだろ 370 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 03:18:30.96
”委奴國”って、まともに読むと、イヌ国。
ソフバンCMの甲斐クンを連想しちゃった。(笑)
371 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 10:40:08.77
>>370
基礎から勉強しなおしなさいよw
372 :日本@名無史さん:2014/09/28(日) 23:53:04.18
>>370
はるかに後世の訛りまくった出鱈目な読み方を基準にする馬鹿丸出しの発想を捨てることが先決だ。 奴をドと読めるとしたら、倭面土国を倭面奴国と考えることはできるだろうか。
そしてこれを面奴国としたら、魏志倭人伝にある国の中で一番近いのは「彌奴国」となるだろうか。 倭国王師升。、、、
区切りを変えて 、
倭国の王師(軍師、国王の師(大師)で補佐)、升。 中国語の発音からすると
一番近いのは崇神天皇か垂仁天皇だろう
倭の奴の国の王とは異なり
師升は倭王だ
地位も一番高かったと推測できるな 『熊野』の読み(から転化の表記)。、、、イノ(伊野。井野。亥/猪、、、イノシシ?)。イヤ(弥。禮。祖谷。揖屋)。イヌ(狗(、、、天狗)。犬。去ぬ、伊怒(天村雲命の后が伊怒姫(伊加利に転化)))。
ユヤ(油谷とか)。ユヌ。ユノ(油野、湯野、)。 清湯山主狭漏彦八島篠命。
須賀の熊山の主、サロヒコ(サルタヒコ)、八島(日本列島)を統治した(所知食)命。 清湯山主狭漏彦八島篠命。
須賀の熊山の主、サロヒコ(サルタヒコ)、八島(日本列島)を統治した(所知食)命。 お暇なら♪読んでよね♪
倭国大乱における、
【新興「吉備」(塩)王国vs伝統「出雲」(鉄)王国】の対立→【邪馬台国vs狗奴国】の代理戦争に発展
【漢委奴国王〜帥升】までの伝統フィクサー・出雲(タタラ鉄王国)から、倭国大乱(帥升奪還)を経て、
【帥升〜卑弥呼〜天皇家】までの新興フィクサー・吉備(瀬戸内海の塩王国)へ、影の政権交代が起こり、
吉備の古墳文化を国家祭祀とした邪馬台国、そしてヤマト王権が誕生。その後の吉備の運命やいかに? @出雲では荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で、広形銅矛(北部九州)と銅鐸(近畿東海)の祭祀具が両方出土。
A倭国乱における新興吉備(瀬戸内海の塩王国)の台頭に危惧を抱いた出雲が、全国各地の国王の息子と娘を結婚させ、
その席で配ろうとしていた矢先、かつて自らが支援して建てた北部九州の奴国王・帥升「其国、本亦以男子為王、住
七八十年」の、(伊都国王を調略した)吉備による奪環事件が起こり、その墓(楯築弥生墳丘墓)を築造されてしまう。
Bその神威に乗じた吉備が出雲に攻め込んできて出雲は陥落。来るべき復活の日に備えて、広形銅矛と銅鐸を埋納。
→後に天皇家による「出雲の国譲り」として語られる。官(国造)弥弥が置かれ、魏志倭人伝に「投馬国」と書かれる。
C吉備はさらに出雲との関係が深かった東海の狗奴国を征服すべく、大和の唐古鍵遺跡を支援して邪馬台国を建てる。
D卑弥弓呼との戦争が始まり、想定外の大苦戦に見舞われた邪馬台国連合は239年魏帝に朝貢。「親魏倭王」となり、
銅鏡百枚を(厭戦気分&平和希求の)全国の王に配る調略が奏功し、形勢逆転。
E危惧を抱いた狗古智卑狗が寝返り、卑弥弓呼の首を台与に差出して、邪馬台国の勝利。台与は西晋に報告(266年)。
官(国造)だけとなった投馬国(出雲)と狗奴国(尾張)の故地では、前方後方墳が築造される。
F巫女(神とのみ交わる)台与の死後、跡継ぎが途絶え、吉備は磐余の崇神(天皇家)を倭王とし、ヤマト王権成立。
G吉備の全面支援で大王になれた天皇家は前方後円墳祭祀を続行。吉備は神功皇后の三韓征伐にも全面協力した功績で、
続く応神/仁徳の「倭の五王」時代、造山&作山古墳を築造。
Hしかしその末期、ヤマト王権が最盛期を迎える雄略(武)没後、建国の秘密を知る吉備は粛清され、一官(国造)へ。
I天武の時代(天皇家の万世一系に都合の悪い)吉備と邪馬台国は記紀から抹殺され、吉備津彦の鬼退治のみ語られる。 奴国の主帥だろうな、名は升。この子孫が難升米。この難(な)も奴国の(な)だろう 吉備自体が出雲と同じ、播磨による制圧対象だったんだよね。
播磨は吉備を制圧後、吉備を拠点に出雲を調略し、後顧の憂いを絶って、晴れて大和へ進出。『播磨国風土記』に欠損、書き換えがあって見られないが類推すると↑のようなことになる。 帥升=懿徳天皇と見る。
日本書紀は応神、景行、崇神、孝霊の即位年を120年ずつ過去に延長している。
107年から600年遡ると懿徳天皇在位の真ん中の年になる。 懿徳の和風諡号にはオホヤマトが含まれるが孝昭で途絶え、孝霊で復活する。
懿徳は倭面土国、孝霊以後は邪馬台国であろう。
孝昭・孝安・孝霊・孝元と「孝」が続くが、これは漢の皇帝と同じでまさに「漢風」諡号。
淡海三船は懿徳=帥升と考えていたのではないか。 帥升・師升は和語とは思えないから、倭人だとしても漢名を自称したんだろうな。
それなら「倭面土国」も自称と思われるが、なぜか「中華思想による蔑称」とされることが多い。
だが「面」も「土」も別に悪い意味は無い。
古事記の国生みで九州と四国が「身一つで面四つ」と表現されている。
「倭面土国」がこうした倭人独特の思想による自称ならば面白いと思う。
ただ、それを読んだ中国人が倭人の入れ墨を連想してしまった可能性はある。 成務天皇紀で山陽=影面(かげとも)、山陰=背面(そとも)というのもあったな。 「丑寅日本国に倭国の皇統を砕く書が残っている。秩父に残った蘇我一族の国記及び天皇記である。将門を討ったけれども、本命の国記、天皇記の奪取がならなかった。倭国朝廷の企ても不覚に終わったのである」 「帥」も「師」も神武紀に頻出するが、「升」が不明。そこで妄想。
「狭野尊」=「狭騰尊」(神功紀の神名)と考え、「ノボリ」の漢訳としておく(^^) ニニギの降臨がサオリで、神武がサノボリということか。 >>144
その神名は神功紀の一書に「表筒雄・中筒雄・底筒雄」(住吉三神)の別名として出てくるが、本文ではこの三神は日向の国にいるとされている。
「五御魂」は五瀬命を連想させる。ちょっと気になる名ではある。 神武伝承の五瀬命と、神功伝承の仲哀天皇は似ていなくもないわな。 ○○天皇という呼び方は後世に付けられた名前だから、当然その当時はそんな呼び方は
されてない訳で、帥升は王の本名の響きから当て字されてると思うな。
スシかソシか、そんな感じの本名だったんだろう。 スサの王、と言いたかったことは分かる。
判断は保留。 160人という生口が多すぎる。運ぶ手間を考えると日本ではないのでは?
王が直接行くのも不自然。そこまでやって金印もらえないのも不自然。
山海経に出てくる燕に属す倭なんじゃない? 王
帥・・・・・大名
升・・・・・小名
等・・・・・たち
役職であって、人名ではない
彼らが連名で生口を献上した 倭面土の帥升は武力だけのつまんねえ人だから、漢王は会ってもくれなかったんじゃないかな?
卑弥呼は並外れた霊能者か超能力者だもの。
会う前から魏王はそれを知ってたはず。
扱いが違うのは当然だろう。 帥って字が付く人名、中国史や日本史に出てくるのか?
普通は役職だと思うが ご近所の小国同士連れ立って
帥「升」等30名ほどの御一行は
160人の生口を引き連れて朝貢に行ったが
一つの大きな勢力とは思われておらず
印綬下賜には至らなかった。
30国まとまってからまた来てね、と。 30人で160人の生口を管理するのは難しいのでは? >>159
生口の中に小隊長みたいな人間を
置くんですよ。 >>165
現代中国語を論じているのではない。
シナ語の有気音と無気音について論じているのだ。
「トマト」
日本人の耳には、シナ語では「ドマト」と聞こえる。
「有気音+母音」は、日本人には濁音と聞こえ、
「有気音単独」は、日本人には清音と聞こえる。 >>167
シナ語は現代も古代も同じ。
漢字には、同音異義字が多い。
それらを判別するには、発音の種類を増やさなければならない。
その方法として母音と子音の種類を増やさなくてはならない。
*母音には4〜8種類の声調が必要。
(現代標準普通話の声調は4種類。現代地方話の声調は最大8種類)
*子音には有気音と無気音で種類を増やす必要。
これで、同音の発音は8〜16種類に増える。 べジタリアンの生口はおいしいんだそうな
パプアニューギニアの原住民は日本人が一番美味しいと言って
よだれをたらした 帥升は綏靖天皇だろう。後漢は安帝の時代だが、皇太后のケ綏が摂政をしていた。この「綏」が入っている。 ていうか同音異義語が多いと思ってるのは日本人だろ
中国の発音は36個あるからな 倭国の王師、升(霎?、、、最高巫女/ヒミコ)。ではないのか?
王師、、、王の最高顧問の師(幼少期)、師父(長じて、相談、教導役) 王師、、、軍団
軍隊。中国の周代の軍制では、二千五百人の一隊を師、五師を軍とする。 「師団・王師・舟師・水師・出師(すいし)」
結局のところ、倭国の王師(軍団、国軍)を率いる升(勢い盛んな者)
位な意味しか無い(個人名ではなく、地位を表した)のでは? 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
4Y4M8 後漢では105年に和帝が死ぬと、皇后の綏が摂政になった。121年に綏が死ぬと、安帝の親政となる。125年、安帝の死後に劉懿が少帝となる。
綏靖、安寧、懿徳天皇はこの一字ずつを取ったものか。 少帝懿が数ヵ月で死んだ後、順帝(孝順)・桓帝(孝桓)・霊帝(孝霊)・献帝(孝献)の4代で後漢は終わる(在位の短い皇帝を除く)。
懿徳天皇の後、孝昭・孝安・孝霊・孝元と「孝」で始まる天皇が4代続く。 摂政皇太后の綏が綏靖天皇、安帝が安寧天皇、少帝の劉懿が懿徳天皇の時代ならば和帝が神武天皇の時代になる。
日本書紀で景行天皇12年から19年の九州巡幸は西暦82年から89年、神武東征と同じく7年かかっており、和帝の永元元年に終わっているのは何かの暗示かもしれない。 西暦82年(章帝の建初7年)は劉肇(後の和帝)が兄の劉慶に代わって皇太子になった年だった。 景行天皇の九州巡幸が、神武東遷の実年代を意識して書かれているとすれば、日本書紀の編者は皇太后綏・安帝・少帝懿も意識していただろう。
漢風諡号は後世に作られたとしても、淡海三船は編者の意向を知っていたと言える。 日本書紀は後漢書を引用しないが、帥升をヤマトタケルの時代にした。ヤマトタケルと綏靖天皇は行動が似ており、編者は帥升=綏靖を暗示している。 後漢書・安帝紀(少帝懿も含む)には元号「永寧」もあり「懿徳」の語もある。皇太后・綏の名は皇后紀にある。綏靖天皇の「靖」を除き、安寧・懿徳天皇の諡号は解明できる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています