倭國王帥升とは一体何者だったのか?
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『後漢書』孝安帝紀東夷伝に初めて出てくる日本列島にいた国王であるが彼は一体何者なのでしょうか?
北九州在住説が有力なのだが後にでてくる邪馬台国の卑弥呼と関係あるのか?
また記紀に書かれた神話上の人物と何ら関係あるのか?
この謎の倭王帥升について議論しましょう。 懿徳の和風諡号にはオホヤマトが含まれるが孝昭で途絶え、孝霊で復活する。
懿徳は倭面土国、孝霊以後は邪馬台国であろう。
孝昭・孝安・孝霊・孝元と「孝」が続くが、これは漢の皇帝と同じでまさに「漢風」諡号。
淡海三船は懿徳=帥升と考えていたのではないか。 帥升・師升は和語とは思えないから、倭人だとしても漢名を自称したんだろうな。
それなら「倭面土国」も自称と思われるが、なぜか「中華思想による蔑称」とされることが多い。
だが「面」も「土」も別に悪い意味は無い。
古事記の国生みで九州と四国が「身一つで面四つ」と表現されている。
「倭面土国」がこうした倭人独特の思想による自称ならば面白いと思う。
ただ、それを読んだ中国人が倭人の入れ墨を連想してしまった可能性はある。 成務天皇紀で山陽=影面(かげとも)、山陰=背面(そとも)というのもあったな。 「丑寅日本国に倭国の皇統を砕く書が残っている。秩父に残った蘇我一族の国記及び天皇記である。将門を討ったけれども、本命の国記、天皇記の奪取がならなかった。倭国朝廷の企ても不覚に終わったのである」 「帥」も「師」も神武紀に頻出するが、「升」が不明。そこで妄想。
「狭野尊」=「狭騰尊」(神功紀の神名)と考え、「ノボリ」の漢訳としておく(^^) ニニギの降臨がサオリで、神武がサノボリということか。 >>144
その神名は神功紀の一書に「表筒雄・中筒雄・底筒雄」(住吉三神)の別名として出てくるが、本文ではこの三神は日向の国にいるとされている。
「五御魂」は五瀬命を連想させる。ちょっと気になる名ではある。 神武伝承の五瀬命と、神功伝承の仲哀天皇は似ていなくもないわな。 ○○天皇という呼び方は後世に付けられた名前だから、当然その当時はそんな呼び方は
されてない訳で、帥升は王の本名の響きから当て字されてると思うな。
スシかソシか、そんな感じの本名だったんだろう。 スサの王、と言いたかったことは分かる。
判断は保留。 160人という生口が多すぎる。運ぶ手間を考えると日本ではないのでは?
王が直接行くのも不自然。そこまでやって金印もらえないのも不自然。
山海経に出てくる燕に属す倭なんじゃない? 王
帥・・・・・大名
升・・・・・小名
等・・・・・たち
役職であって、人名ではない
彼らが連名で生口を献上した 倭面土の帥升は武力だけのつまんねえ人だから、漢王は会ってもくれなかったんじゃないかな?
卑弥呼は並外れた霊能者か超能力者だもの。
会う前から魏王はそれを知ってたはず。
扱いが違うのは当然だろう。 帥って字が付く人名、中国史や日本史に出てくるのか?
普通は役職だと思うが ご近所の小国同士連れ立って
帥「升」等30名ほどの御一行は
160人の生口を引き連れて朝貢に行ったが
一つの大きな勢力とは思われておらず
印綬下賜には至らなかった。
30国まとまってからまた来てね、と。 30人で160人の生口を管理するのは難しいのでは? >>159
生口の中に小隊長みたいな人間を
置くんですよ。 >>165
現代中国語を論じているのではない。
シナ語の有気音と無気音について論じているのだ。
「トマト」
日本人の耳には、シナ語では「ドマト」と聞こえる。
「有気音+母音」は、日本人には濁音と聞こえ、
「有気音単独」は、日本人には清音と聞こえる。 >>167
シナ語は現代も古代も同じ。
漢字には、同音異義字が多い。
それらを判別するには、発音の種類を増やさなければならない。
その方法として母音と子音の種類を増やさなくてはならない。
*母音には4〜8種類の声調が必要。
(現代標準普通話の声調は4種類。現代地方話の声調は最大8種類)
*子音には有気音と無気音で種類を増やす必要。
これで、同音の発音は8〜16種類に増える。 べジタリアンの生口はおいしいんだそうな
パプアニューギニアの原住民は日本人が一番美味しいと言って
よだれをたらした 帥升は綏靖天皇だろう。後漢は安帝の時代だが、皇太后のケ綏が摂政をしていた。この「綏」が入っている。 ていうか同音異義語が多いと思ってるのは日本人だろ
中国の発音は36個あるからな 倭国の王師、升(霎?、、、最高巫女/ヒミコ)。ではないのか?
王師、、、王の最高顧問の師(幼少期)、師父(長じて、相談、教導役) 王師、、、軍団
軍隊。中国の周代の軍制では、二千五百人の一隊を師、五師を軍とする。 「師団・王師・舟師・水師・出師(すいし)」
結局のところ、倭国の王師(軍団、国軍)を率いる升(勢い盛んな者)
位な意味しか無い(個人名ではなく、地位を表した)のでは? 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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4Y4M8 後漢では105年に和帝が死ぬと、皇后の綏が摂政になった。121年に綏が死ぬと、安帝の親政となる。125年、安帝の死後に劉懿が少帝となる。
綏靖、安寧、懿徳天皇はこの一字ずつを取ったものか。 少帝懿が数ヵ月で死んだ後、順帝(孝順)・桓帝(孝桓)・霊帝(孝霊)・献帝(孝献)の4代で後漢は終わる(在位の短い皇帝を除く)。
懿徳天皇の後、孝昭・孝安・孝霊・孝元と「孝」で始まる天皇が4代続く。 摂政皇太后の綏が綏靖天皇、安帝が安寧天皇、少帝の劉懿が懿徳天皇の時代ならば和帝が神武天皇の時代になる。
日本書紀で景行天皇12年から19年の九州巡幸は西暦82年から89年、神武東征と同じく7年かかっており、和帝の永元元年に終わっているのは何かの暗示かもしれない。 西暦82年(章帝の建初7年)は劉肇(後の和帝)が兄の劉慶に代わって皇太子になった年だった。 景行天皇の九州巡幸が、神武東遷の実年代を意識して書かれているとすれば、日本書紀の編者は皇太后綏・安帝・少帝懿も意識していただろう。
漢風諡号は後世に作られたとしても、淡海三船は編者の意向を知っていたと言える。 日本書紀は後漢書を引用しないが、帥升をヤマトタケルの時代にした。ヤマトタケルと綏靖天皇は行動が似ており、編者は帥升=綏靖を暗示している。 後漢書・安帝紀(少帝懿も含む)には元号「永寧」もあり「懿徳」の語もある。皇太后・綏の名は皇后紀にある。綏靖天皇の「靖」を除き、安寧・懿徳天皇の諡号は解明できる。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
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