豊臣家
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秀吉が秀次を許していたら豊臣家はその後どうなっていたかな? >>5
豊臣姓には違いないが、秀吉−秀頼の直系ではなく木下家の縁戚に過ぎないけどね 秀次を処罰せずに関白のまま太閤として政務を行って秀次に上手く継がせたら
どうなっただろうか?
まず関白と昵懇の伊達政宗が豊臣政権の一角に躍り出てくるか? 秀頼が誕生しなければ豊臣家(秀次系)が続いていた可能性はある 秀次が関白のままで秀吉がなくなったら
五大老五奉行もなかっただろうな
徳川が勝手に婚姻でもしようものなら
すぐに徳川を朝敵にして関東征伐が開始されただろうな 秀吉が残した金銀ってどのくらいあったの?
黄金一枚で何が買えたの? 知られてないけど秀吉の金銀よりも、家康が駿府に残した黄金のほうが多いぞ >>12
そもそも秀吉が残した黄金量なんてわからんだろうが。
しかも秀吉死んだ後に
神社仏閣をたんまり修繕費用を豊臣家は出しまくってるのに
まったく財力が尽きそうになかったじゃん。 神社仏閣をたんまり修繕費用を出してるのはイメージじゃなくて事実じゃん しかし牢人衆を十万人抱えてたらいかな豊臣家でも短期間で財力尽きるよ
急きょ募集したのでは間に合わない、前から主だった牢人衆には従者含めて金出してたんだろうから 豊臣家って普通にやってたら超有力な徳川の御家門として続いたのは確実なのに
あまりにも安泰なためにはねっかえりがバカなことばっかやって
とうとう家康が秀忠周辺をフォローできなくなって自爆
そんなイメージしかない 秀頼もおとなしくしていようと思っていたら、家臣がテロリストをヘッドハンティングしだしているからな…
素直に江戸に出仕で家臣団をクビにしたほうが生きながらえたかもね。 冬の陣の段階ではアルカイダに乗っ取られたアフガンをやむなく攻撃したようなものだからね
家康が豊臣家討滅を決意したのは講和の後で牢人衆が秀頼を擁して退去せず暴走してから 御湯殿日記以外の公家の日記には秀吉の命令でとあるから、ちと無理があるね 命令して切腹させたのでは、イメージ悪いから新説が出たのかな そもそも、命令が伝達されるまで高野山まで三日はかかるといっているのに、
御湯殿日記の16日に前日15日の秀次切腹のことが出ているのが証拠とされているのはどういうこと? 俺が秀次なら、秀頼が生まれた時点で関白返上する。
政治と関わりがない部署に異動する。
でも、実際も家臣達が黙ってなかったんだろうな。 「秀吉が泣いて引き止めたが出家断行」ってシチュエーションが双方とも良かったかもよ >>27
秀次存命時点では、関白の空位は豊臣政権の否定ってレベルだからそれは無理な気がせんでもない 切腹させた後は空位じゃなかったの?
秀吉が復職したのかな。
秀吉に返上を言上するだけでもだいぶ違ったかも。 >>30
秀吉は秀次殺した後は自分の太政大臣の権威で政権を保っている。
秀吉は太政大臣だけは死ぬまで辞任しなかった。
秀次を殺した時点で武家関白制は崩壊し、かといって太政大臣権威による政権機構も形成しきれず
秀吉は死んだ 何で右大臣秀頼より下の内大臣鷹司信房が関白になってるの? 持ち回りが復活したからじゃないの
秀吉がやり散らかした改革で生じた空白を家康がとりあえずもとに戻した >>31
>秀次を殺した時点で武家関白制は崩壊
一応、秀吉が没するまでは関白不在
他の五摂家からも関白が任じられない状態だった
秀頼が摂家嫡男にならった昇進方法をとっていることからも
武家関白制崩壊とまではいえない >>35
武家関白不在の状況で政権が回ってるんだからそれは制度として崩壊してると評価すべきだよ 秀吉が生きている間に秀頼に関白を継承できなかったのが痛い。
むりくりにでもすりゃよかったのにね。 年齢が若すぎるから
関白になるには他の官職(大臣とかね)を経験してなきゃいけない
史実ですらかなりゴリ押して、あれ
征夷大将軍と違って関白は
そういう制限が多々あるんだよ
名目上、天皇の代わりに政治をみる役職だし
あと5年、10年早くに生まれてたら可能だったろうね >>41
関白は五摂家の世襲・持ち回りだよ
そして秀吉は養子の秀次に関白を譲り
豊臣家の独占世襲にしようとした >>36
鎌倉幕府だって3代実朝が死んでから4代九条頼経が征夷大将軍になるまで
7年間将軍不在で回っている
しかし制度として崩壊していたとはいえんだろ
秀吉が秀次の切腹後、秀吉が死ぬまでの4年間関白を置かなかったところで
秀吉がその間別の関白を任じず、実子秀頼は摂家嫡子に准じた扱いをしているのだから 持ち回りでしょ、世襲ではない
世襲ってのは親から子と代々継ぐもの
秀吉のその行為が公家から反感を買った
その意志をくみ取り秀吉以前の状態に戻したのが家康 関係ないんだけど、何で信長は鷹司家を再興させたの? 九条系摂家を増やすことで、近衛前久の権勢を削ぐ目的があったと唱えてみる >>44
世襲に違いはないよ
鎌倉時代に兄弟同士で摂家が分離する以前は親から子への世襲だった
現に秀吉は秀次への世襲を行い六摂家での持ち回りにしていない 豊臣家が摂家確定していたら、残りの摂関家はどうなっていたのか。
用済み? そうなると五摂家と清華家の区別もなくなる
だから必死になって秀頼の関白就任を妨げたんだろうね 鎌倉の将軍位は、承久の乱で勝って政権基盤が固まり、かつ政子が頼経の後見として将軍と記してあるものもあるが、
豊臣の武家関白は関ヶ原で家中分裂の勃発により秀吉→秀頼の引継ぎがこころもとなかった… 秀吉が関白で、家臣の誰かを将軍にさせたら良かったのに >>43
だから、鎌倉幕府は将軍親政政権としての機構は崩壊しているだろ。
執権政治という形で再定義されているわけで。
それと同じ意味で豊臣政権における武家関白制度は崩壊していた 五摂家は持ち回りで関白だから強いよな。世代の隙間で関白が空位になりにくい。
豊臣家も豊臣秀頼・豊臣秀次・羽柴秀勝の娘が嫁いだ九条氏・福島氏・加藤氏・木下氏あたりで関白持ち回りすればよかったのでは。 秀次が自害したあと、秀吉本人が関白に再任するという選択肢はなかったのだろうか?
摂家の場合、一度関白をやめた人物が再任されるケースはあったはずだが。 >>52
親政かどうかは関係ない。
天皇親政じゃなくなり摂関政治になったら天皇制崩壊とは言わんだろ。
執権が誰であれ、鎌倉幕府は将軍が必要だったのであり、
あくまでも御家人は執権とではなく将軍との間に主従関係があった。 創作説もあるが、秀吉が足利義昭の猶子になって源氏を名乗り征夷大将軍に就いて幕府を開けば、その後の歴史は変ったに違いない >>56
そうしたら家康が関白目指しただけのような
豊臣家で関白と将軍を独占しないと 関白って天下人の絶対要件だったのかな?
足利義満も太政大臣だったし、晩年の秀吉も太政大臣。
太政大臣の官職を握ってれば、関白も将軍も必要なかったんでは? >>58
絶対条件は実際の権力。
関白も将軍も太政大臣も天皇権威を立てて自己の権力を正当化するための必要条件に過ぎん。 晩年に適当に理由をつけて
家康を九州に転封すればよかったな
そうすれば京都大坂から遠く
島津と毛利に挟まれることになる で、ただでさえ朝鮮役に従軍中の九州諸国が大混乱に成って収集つかず秀吉の生きている間に豊臣政権崩壊ですねわかります。
もうちょっと常識的に考えられる訓練した方がいいよ 豊臣政権にとって家康は政権にとっての連立与党みたいなもの
敵と認識するのがそもそもの間違い 織田政権でも重要同盟国、豊臣政権でも重要同盟国だもんなあ。 >>62
家康の祖国三河を奪ってそれより遠い関東転封にしたのだから
秀吉も家康を全面的に信用してたわけじゃないだろ
信長だって家康を家臣同様に扱い家康暗殺の噂があったくらいだから
ただし幼少の秀頼を愛するあまり盲目となった秀吉は
本来豊臣政権の担い手となるべきだった身内を疑い(秀次切腹、秀次の男子処刑)
秀吉とは血縁もなく接点も薄い外様と形ばかりの姻戚関係を結んで重用した
外様の家康に秀頼と豊臣政権を託したのが間違いだった 他に任さられる人材がいねぇ
まぁ秀次殺したのは自業自得だが 関東に関しては、比較的関係の良好だった上杉氏の領国にするという構想もあったよ
懲罰ではない(江戸を居城に勧めたのも秀吉ではないかと言われる) 家康が関東に移ったのは、そもそも家康は豊臣政権で北条に対する申次だったのが、北条の臣従化に失敗して
小田原合戦に成ったので、その責任を取らされたのだという説もある。
合戦になった場所の安定化をしろ、ってことだな >>66
間違っても厚遇とはいえんだろ
秀吉は豊臣一門には大和(弟の秀長)
近江八幡(甥の秀次)といった畿内の主要地を与えてるんだから 太閤蔵入り地(豊臣家直轄地)220万石。
関東移封後の徳川家の石高250万石。
畿内から離れた東国とは言え豊臣家に互する領地を与えてしまう秀吉は、天下を統一する創業の才能はあっても天下を統治する守成の才能はなかったと言える。 >>71
馬鹿かお前は。「蔵入地」ってのは家臣の領地を除いた、文字通りその家の直接の収入となる領地だ。
関東時代の徳川家の「蔵入地」は80万石程度だぞ 秀吉的には東国の安定化は唐入りに必須だっただろうから、
家康の関東移封は逆に秀吉の信用の現れだと解釈した方がよかろう >>72
関東移封時の徳川の蔵入り地は100万石だ。
豊臣は蔵入り地が200万石あっても、ろくな家臣がいなかったので石高250万石((旗本領含む)の徳川に負けけた。 秀吉はむしろ政治家としては有能だが軍人としては無能すぎる
雑魚毛利相手に防衛戦で3000人戦死の大敗、備前児島や美作でも敗北
アホ信雄相手に135000の大軍で短期決戦挑んで1万人戦死の大敗・蟹江浜田二重掘河波戸木長久保東駒野
前田下市場神戸など格城郭で敗北(特に二重掘合戦では信雄1000に奇襲くらって叩き出され、前田・下市場・蟹江
長久保・浜田など秀吉方本陣の眼前なのに奪回されたりしてる)
小田原合戦の時にも240000くらい規格外の兵力集めて北条34500相手に
小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない 秀吉は防御戦でも醜態さらしてるからね
二重堀合戦では1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられてるし
熊見川の戦いは上月城の防衛を目的に行われた防御戦だったが見事に失敗して3000人も殺されてるし上月城・神吉城も奪回されて尼子勢をはじめ大量に戦死者出してる
つか山崎合戦とかも光秀方から仕掛けた戦だし陣地も光秀は朝廷を守るため天王山の陣取りを捨てて不利な形で布陣したわけだし防衛戦じゃない。
しずヶ岳だって勝家が攻撃してた中川の拠点守るため出兵しただけだし普通に防御戦だろ。勝家の方から攻めかかってきただけだし秀吉は撤退途中の勝政・盛政を背後から圧倒的大軍で強襲したら
逆襲くらって不破・前田・金森らが兵をひくまで結局均衡くずせない始末だし 秀吉は譜代いまくりでしょ
尾張衆の前野・蜂須賀や加藤や、秀吉子飼い系の福島加藤など尾張衆に加え長浜衆一杯で叩き上げ武将だらけ。
譜代衆だから外様に大封やったんじゃなくてただ単に他力本願でなあなあな同盟みたいな関係で
トップにたっただけでいわば公家とか朝廷みたいなもんで武力で押さえつけたわけじゃなく
そんな力秀吉にはなくて上杉毛利宇喜多木曽小笠原石川水野佐竹十河河野大友佐竹芦名真田等
敵勢力の敵が味方をしたから成っただけのハリボテ政権だから崩れさっただけ。
大体家康なんて天正12年初頭の徳政連発・木曽小笠原石川水野真田とそれによる軍事機密露見による領国崩壊で
めちゃめちゃな状況なのに これで母や妹人質に出す程雑魚なんだからどうしようもない
つうか外様系でも宇喜多なんてもう直家が死んだ時点で秀吉領との一体化が進められてたし
毛利や上杉も、最初から秀吉に敵対せずに協力した時点で家康よりも遥かに豊臣に忠義的。
僅かな期間で築いたとか書いてるけどそれは別に徳川も織田も細川も三好も大内も何も変わらんからいいわけにならん
織田に仕えてる時点での秀吉は家じゃないのかって話だし 秀吉家臣団は長浜時代でいうと一門衆が秀長秀勝三好義房浅野長政杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正福島山内蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉昭・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木生駒石川光政日根野弘就谷衛好仙石秀久
一柳直末伊藤秀盛・尾藤知宣。
これに近江衆と他国衆が加わる感じかな。 >>71
豊臣宗家…220万石
豊臣秀長(秀保)…100万石
豊臣秀次…100万石
豊臣一門を合わせれば420万石ほどあったよ
大和大納言家は秀保で絶え、秀次も豊臣宗家を継いだから
太閤検地後に豊臣の直轄地が増えたんでは? 補足
豊臣家の直轄地が増えたというのは秀保の没後大和郡山城には別の大名が入っているが
秀次・秀保ほどの石高は貰ってないため(増田長盛は22万石しかない) 『地震加藤』 (人工大震災がマジで来ませんように!<(_ _)>) 直轄地の代官ができる家臣数が不足してると、名義だけ書き換えても指示通りに管理ができないんでは 豊臣家臣団なんて初期からの譜代連中が馬鹿みたいに一杯いるじゃんよ。
長浜時代でいうと一門衆が秀長秀勝三好義房浅野長政杉原家定・家次、木下家定
尾張衆は加藤清正(秀吉一族)福島(秀吉一族)山内・蜂須賀(河波衆リーダー)青木・平野・加藤嘉明・堀尾・宮田光次
美濃衆が竹中・坪内利定・稲葉貞祐・加藤光康・小野木・生駒・石川光政・日根野弘就・谷衛好・仙石秀久
一柳直末・伊藤秀盛・尾藤知宣。
これに近江衆 木村隼人正 片桐且元 寺沢広政 石田三成 中村一氏 増田長盛 宮部継順 速見守久 脇坂安治 長浜衆(伊藤牛介・谷兵介・石川・藤懸・田中など)
他国衆の中川清秀(舎弟) 小西行長 宇喜多秀家 黒田孝高 >>79
秀次家は仕方として
秀長家絶えたのは惜しいな 傀儡化した大名権力と、言う事を聞かず専横しまくる家臣という腐りきった支配構造を抱えた守護大名とかと違って
秀吉は言う事を聞かず邪魔になるような先代からの旧臣とかがいなかったから
その分自分の都合よく動かせるよく言う事を聞く好きな家臣を生え抜きの叩き上げで育成できたからね。 >>83
豊臣政権はやたら細かく指示を出しているのを見ると、下級官僚の数がたりないんじゃない すでに秀長を失ってるのに何で秀次を殺したんだろうかな
秀長を失った段階で焦ってしまったのだろうか >>86
普通に考えて統制力の高さを示すだけでしょ。
例えば上杉領国とかも謙信時代は領国内の統治はおざなりで
家臣たちに投げやり状態だったけど御館の乱の克服や本能寺の変、豊臣政権への服属など
経て領内が安定してくると、家臣たちに対する発給文書が次々増えてくるし 秀吉は本能寺以前の織田家みたいな与力制の間接統治ではなく軍閥化・軍制改革に取り組んで
直轄支配・直接支配体制に変革させて陣立書によって今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。 最も格の高い池田や丹羽ですら清洲会議の時点で秀吉に臣従同然だった上に
これまでのような委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるのに
秀吉軍の敗戦理由を烏合の衆だったからとか相当馬鹿だな
むしろ織田…清洲会議以降に従った領主が大半・木造家の実権支配により信雄は傀儡状態・重臣連中まで秀吉の馬と化し
信雄は仕方なく津川・岡田などの粛清に踏み切る
徳川…ほとんど旧今川系旧武田系の外様連中、譜代連中も三河一向一揆で過半に割れるような雑魚統制部隊、石川も秀吉にこの頃既に
篭絡されていた様子と遥かに烏合の衆だったといえるわ。
現に会戦当初から信雄方では尾張では石田毛利氏、毛利秀頼、松ノ木近辺の諸将、伊勢では神戸関田丸八重羽津田富田小島榊原岡田津川
美濃では池田・森、木曽谷の木曽など重臣連中が寝返りまくってるが秀吉方では何ら寝返りが起きてないし 追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない 本能寺の変後の秀吉軍は軍閥化が進んでいて委任制の軍団方式から直接命令型・直轄支配体制に切り替えて
逐一書状で命令指示を事細かに申し付けてるし陣立書の導入により今までのような一揆的秩序の貫徹する
軍隊内部に 命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている 叩き上げ武将達が悉く豊臣家を見捨てて家康に篭絡され
前田や浅野が家康の示威行動に対してビビって即効ヘタレ土下座し
総大将であり首謀者の毛利輝元が馬鹿すぎて100%かてる状況にもかかわらず
何もできず兵力を分散しまくり大敗したのが、豊臣家衰退の原因。
三成や宇喜多や小西などの恩顧系・親藩系の諸大名はそこそこ頑張ってたが
前田や浅野や毛利や豊臣武功派系などあまりにも情けない馬鹿な大名らが多すぎたのが痛かった。 押小路家文書には、
秀頼を左大臣に任命する宣旨が残存している。 >>88
いや、兵粮について一々細かい指示を出している上に、それを遠隔地から指示するから、
移動時間に伴う情報の劣化が生じて、状況に対応できなくなったり、事務処理が飽和している >>95
何それ(笑)
そんな事誰が書いてるんだよ(笑)
秀吉研究第一人者の三鬼の論文とか、北条と毛利の領国構造の差異を研究した池上氏や、
それを批判した池氏の論文でもそんな事は全く書いておらず、織田時代の、統治も内政も軍備も戦争も家臣に全権委任に近かった
間接的な、寄子寄親制やそれに近い統治から、秀吉時代の直接的・直轄的な支配に変遷していってるのを誰でも書いてるんだが。 >>96
いや、兵粮に関する豊臣政権と江戸幕府の発給数比較しても、前者が多いし
秀吉発給文書も多い、更に内容も詳細なのだけど 兵糧というか、戦争時の指示なら信長時代も末期は結構出してたぞ。
武田攻めの時とか一々細かく川尻に慎重な攻略と突出の禁止を書いてたし。
つか、兵糧に関して指示も出さず、家臣に丸投げするような支配じゃ全く話にならんだろ。
それこそ初期の武田とか、毛利とか原始的国人連合の統制0ハリボテ大名くらいだろ。
北条とか移封後の徳川とか本能寺後しばらくした上杉とか、中央集権化に成功した、あるいはそれに近い大名ほど
領国内の命令や指令にあたる発給文書が多く出されてるだろ。
命令や指令を出さない=配下の国人か家臣に委任してるor自分で統制や命令できないほどの弱い間接支配でしかないというだけだしな。
例えば、北条でいうと東上野の由良や長尾に対して指令や命令に当たる文書が少なく、この地域の間接支配を示しており
移封前の徳川だと、外様中の外様の国人がいた、信濃の木曽・諏訪・佐久・小県の国人に対して命令文書が少ない(ほとんど出されてない)のと一緒。 >>97
いやだから>>95は誰がそんな事書いてるんだよ(笑) >>98
中央から一々指示するとの、ある程度は現地に一任するのは随分な差がある
>>99
個人的な考えだけど
それでwwwとかプゲラとか言われたら、ソウデスカーとしか返せないけど >中央から一々指示するとの、ある程度は現地に一任するのは随分な差がある
>移動時間に伴う情報の劣化が生じて、状況に対応できなくなったり、事務処理が飽和している
それでこれは具体的にいつのことで、どんな問題がそれによって生じたのか、史料つきで詳しく頼むよ。
そういう命令指令を、進歩的な領国の支配や統治と考える学者の論文ならいくらでも知ってるが
逆に解釈する人は君くらいしか知らないんで。 >>101
真面目な話、論文2.3本になるのでチョット…
まぁ、鼻で笑ってく下さい
簡単に言うと
秀吉が補給で一々指示をしているというのは中野等氏の著作(『秀吉の軍令と大陸侵攻』『豊臣政権の対外侵略と太閤検地』)から得た印象
移動時間の情報の劣化も中野氏の著作(『秀吉の軍令と大陸侵攻』)から
後、会津征伐や関ヶ原時の三奉行や西軍の兵站給付史料(『愛知県史』)から
現地への一任は徳川家が関ヶ原で奉行を各地に派遣して兵站の管理に当たっていたという認識(『信濃史料』等)と、
大坂冬の陣で板倉勝重の扶持米の給付方法から(『大日本史料』) 少し訂正、関ヶ原時の西軍の給付史料は『益田家文書』からでした >>98
バカの主張
兵糧というか、戦争時の指示なら信長時代も末期は結構出してたぞ。
バカが出した根拠
武田攻めの時とか一々細かく川尻に慎重な攻略と突出の禁止を書いてたし。
だから何なの?全く証明になって無いだろ。
しかも信長が本能寺の変で死ぬ直前の話だけじゃんw そりゃ朝鮮出兵くらいになると、現地に出向きもせず、日本から指示送るだけの秀吉からの直接指示頼みでは、情報劣化になるというのもわかるが
国内の戦闘でそんな物はなかっただろ。距離が桁違いに違うからな。
でも現地で何してるかもわからん部隊に対して委任するだけでは不安だったってだけで、別に任せられる武将がいないとかそういう問題でもないだろ。
豊臣奉行衆らは何のためにいたんだって話だし。 つか、奉行を派遣する手法による兵站管理においても、直接指示による兵站管理においても
結局の所中央の意向や意思によって兵站管理や情報伝達がなされてる点では大きくは変わらないだろ。
それが、本部(秀吉や家康)と現地(前線に出てる連中)が長くなりすぎると、情報劣化などが生じるというのも分かるが、
それは基本朝鮮出兵くらいしか思いつかないし >>105
関ヶ原の時に西軍の益田(毛利家)に対して、最初は長束正家、
後には毛利家家臣が大坂から給付の許可書を出している
この辺が東軍と西軍、引いては豊臣家と徳川家の違いと考えている 中央が指令を出す豊臣と現地一任の徳川の相違というのは元寇のとき蒙古兵と日本武士団と似た感じで、
銅鑼鉦で兵を細かく統制して進退するのが必ずしも「近代的」な軍隊とは言えないということ? アホか。発給文書は徳川のほうが圧倒的に多いわ。
一体何を比較してるんだ? 兵糧というか、戦争時の指示なら信長時代も末期は結構出してたぞ。
武田攻めの時とか一々細かく川尻に慎重な攻略と突出の禁止を書いてたし。
つか、兵糧に関して指示も出さず、家臣に丸投げするような支配じゃ全く話にならんだろ。
それこそ初期の武田とか、毛利とか原始的国人連合の統制0ハリボテ大名くらいだろ。
北条とか移封後の徳川とか本能寺後しばらくした上杉とか、中央集権化に成功した、あるいはそれに近い大名ほど
領国内の命令や指令にあたる発給文書が多く出されてるだろ。
命令や指令を出さない=配下の国人か家臣に委任してるor自分で統制や命令できないほどの弱い間接支配でしかないというだけだしな。
例えば、北条でいうと東上野の由良や長尾に対して指令や命令に当たる文書が少なく、この地域の間接支配を示しており
移封前の徳川だと、外様中の外様の国人がいた、信濃の木曽・諏訪・佐久・小県の国人に対して命令文書が少ない(ほとんど出されてない)のと一緒。 >>108
独断専行の許容が、備に代表される戦国日本の強みと考えている
>>109
戦争時の指示内容を比較している >>111
>独断専行の許容が、備に代表される戦国日本の強み
そんな事主張してる学者はいないし、トップの意見の直接的な反映や、
直接的、独裁的な統治や支配という点で、独断専行型は大きく見劣りするよ。
直接指示の文書発給量の多さを、進歩的な領国の支配や統治と考える学者の論文ならいくらでも知ってるが
逆に解釈する人は君くらいしか知らないんで。
諸大名の例でいっても>>110の通り、中央集権化に成功し、国人や家臣に丸投げの間接統治ではなく
直接支配に近い権力構造の諸大名ほど発給文書は増えるんだが。 >>戦争時の指示内容を比較している
戦争時も、それ以外の統治も基本が大きく変わらないよ。
戦争時だと委任型は家臣の独断専行の許容はトップの意見の反映度の劣化に繋がるし
トップが逐一作戦立てて、それを家臣に伝達する方が遥かに合理的。
現に家康も北条も上杉も、直接的に命令出せる家臣には命令を直接伝達し
そうではない家臣国人には、命令に当たる発給文書はろくに出せておらず、彼らの独断専行に任せている。
戦国前期から後期にかけて武田も上杉も織田→豊臣も徳川も北条も
家臣に委任や独断専行型の統治や支配から、直接指示命令・直轄支配・中央集権型に進化してきたわけで、
それに伴う発給文書の増加を、劣化と書いてる学者なんていないよ。 >>112、113
統治や支配でなく、戦闘時の即座の判断や変更といった
軍事史的観点で語っていますので >>115
いや、同じ事だよ。戦争時も、それ以外の統治も基本が大きく変わらないよ。
朝鮮出兵みたいな大将が日本在国。
戦争現場は朝鮮みたいな、超特殊なケースだけで考えてもらっては困る。。
戦争時だと委任型は家臣の独断専行の許容はトップの意見の反映度の劣化に繋がるし
トップが逐一作戦立てて、それを家臣に伝達する方が遥かに合理的。
現に家康も北条も上杉も、直接的に命令出せる家臣には命令を直接伝達し
そうではない家臣国人には、命令に当たる発給文書はろくに出せておらず、彼らの独断専行に任せている。
戦国前期から後期にかけて武田も上杉も織田→豊臣も徳川も北条も
家臣に委任や独断専行型の統治や支配から、直接指示命令・直轄支配・中央集権型に進化してきたわけで、
それに伴う発給文書の増加を、劣化と書いてる学者なんていないよ。 >>116
いや、軍事では速達性と秘匿性を重視するから、細かな指示を記したものは問題
で、家康と秀吉の書状を比較すると明確に後者の方が情報量が多い
特に古米の入れ替えを命じるという天下人がそこまで指示すかという内容の朱印状を、
朝鮮役はおろか小牧・長久手戦いから出しているし 家臣団統制が小牧長久手時点で行き届いていたようなのに、なぜ崩壊したのだろう 秀吉一人の力に頼りきってから?
よく言われるけど秀吉の藩屏となる一族一門の少なさはどうしようもない >>117
そんな馬鹿な妄想書いてる学者はいないし
直接的にトップが家臣に逐一細かく伝達する徹底した体制じゃないと
家臣が好き勝手やって暴走するだけ。信虎時代の武田家臣団なんて全く統制できてなかったから
発給文書なんて信玄期と比べると極端に少ないしな。
戦争における大将の命令の直接伝達体制ほど、戦争において重要な物はない。 大体細かい指示出してない、前線指揮官や家臣に委任丸投げの軍隊ほど烏合の衆で簡単に崩壊してるじゃん。
関ヶ原合戦の西軍や、北条に負けた両上杉・古河公方・関東諸侯連合。
伊達に敗れた葦名佐竹相馬二階堂猪苗代白川石川連合。
島津に敗れ、領内で反乱が起きた宗麟復権前の大友。
毛利に敗れた大内氏。
天正序盤〜中盤の、離反や、家中の足並み不一致ばかりだった毛利。
領内や戦争での家臣達への発給文書の多さは単に支配力や直接支配、中央集権度の強さを示すだけであって、
独断専行できないから劣った軍事機構などという馬鹿な妄想書いてる学者なんぞいないんだよ。 情報の速達性でいえば、現場指揮官依存型はかなり危険としかいいようがない。
なぜならその部隊や連絡を取る部隊のみでの戦況判断となり、戦場全体の戦況が理解しにくい上に
総大将の意思が全く軍事作戦に反映されないからだ。
最たる例が関ヶ原合戦時の西軍だな。あれは総大将の毛利輝元と、現場指揮官の三成や島津小西宇喜多らの歩調が全くかみ合わず
見事に敗れている。こういう統制も全くできていないハリボテ軍隊はダメダメな典型。 そもそも兵糧とか物資の調達ではどうか知らんが
細かい軍事作戦を前線指揮官に委任で丸投げするような軍隊なんて戦国期には存在しないだろ。
それは縦の従属関係がないか、かなり弱い場合の、連合軍とか同盟軍同士みたいな烏合の衆の集まりの時だけでしょ。
大将の指令が家臣に伝達されないのでは、全く家臣とは呼べない、ただの同盟者か協力者だし。 >>121、122
そういうのは基本的な意思疎通ができていないのであって、委任以前の問題なのだが
>>123
どこを攻めるかは主君が決めるけど、どのように攻めるかは現地に主君がいなければ
現場指揮官が決めるよ スレチ覚悟でここで聞くが1591年に武家奉公人が百姓・商人になることや百姓が商人・職人になるを禁じた法令って身分統制令だよな?
テストで書いたらピンくらって答えが人掃令だったんだが違いがよくわからん
てか誰か日本史板に質問スレつくってくれ >>124
>そういうのは基本的な意思疎通ができていないのであって、委任以前の問題
いや現地委任型の軍隊に、そういう特徴がよく見られるって話なんだが。
意思疎通ができてないからこそ、そういう軍隊なんであって。 >>126
うーん、ここまで認識の隔たりがあると、この先は堂々巡りにあると思うので
ここで止めさせてもらいます、それでは とりあえず認識とか個人的感想とかではなく
まともな学者とか論文とか史料とかあげてもらわないと困る。
自分の妄想願文だけなら幼稚園児でもかけるわけで。 関ヶ原における毛利と石田は違う戦略目的で動いていたと考えれば、
輝元が大坂城を動かなかったほうが当然かも知れない
西軍の「不統一」は行為に根差すものではなく成立経緯に根差すもので、
不統一を責めるならば西軍という存在そのものが成立する余地がなかった そりゃ大名と奉行では利害問題が全く違うからな。
つか奉行の間ですら利害の一致が見られていない。
「家康を排除する」という唯一無二の目標すら、それぞれの勢力の間に強い温度差がある。 三成・長盛:奉行の立場の強化、家康の政権からの排除
輝元:毛利家の筆頭大老化、若しくは最低でも家康と同格に
秀家:とにかく家康を殴らせろ
正家:そんなことより財政安定化させたい 宇喜多家は豊臣家の準譜代のように言われるけど、
当初は上杉討伐の命を奉じて出陣したけど、途中で家康討伐に公儀の方針が変更されて従ったのでしょ
大谷吉継がそれ以前に家康側についていたのを見ても、個人的感情で動いていた人って多くなさそうだが 本能寺の変以前ですら羽柴領との一体化が進められてたからね >>137
とはいえ
結城秀康は、関東の片田舎に養子に出され
秀吉の養子の中だと宇喜多秀家ぐらいしか頼れる有力大名ていないし 結城秀康は過大評価
上杉征討、関ヶ原といずれも実父徳川家康の指示通りに動き
最初の徳川家親藩として後の御三家より高い石高で福井藩初代藩主になった
江戸に初参勤したときには「将軍の兄」として将軍徳川秀忠自ら品川まで出て出迎えた
バリバリ徳川家の息子であって豊臣家のために働くわけないだろ >>140
秀康は親藩扱いだし苗字も松平に戻してるでしょ 養子関係で一番割り食らったの結城晴朝だな
家康も結城城周辺の領土と孫の誰かに名跡継がせて大名として結城家残してあげれば良かったのに 奥州…上杉、伊達
関東…徳川
北陸…前田
中国…宇喜多、毛利、小早川
四国…長曽我部
九州…黒田、加藤、島津
を配置した上で
京畿、東海、甲信を豊臣譜代で固める >>143
秀康の養子入りでいらない子扱いされた結城朝勝のこともたまには思い出してあげてください >>145
御家のため良かれと思って権力者から養子迎えてた結果
旧領も家名も失うとは
小大名の哀愁感じるな >>142
秀康が越前入府後なんの苗字を名乗っていたかは不明
ただ秀康が家康から貰った福井藩67万石、権中納言就任は
徳川家の子息なればこその扱いであって
結城家程度では貰えるはずもない
嫡男の忠直は松平姓で将軍秀忠の娘を正室に貰っている 名字が不明だけどなんとなくで明治以降に名字つけられてる人もいるよね
家康長男の信康とか >>149
越前松平家は制外じゃないぞ
親藩で御家門扱いになっている 豊臣政権が存続したら、はたして家格が五摂家の上となったのだろうか?
徳川は公家のプライドを傷つけないようにうまいことやったが。 完子の子に豊臣姓を名乗らせて豊臣家再興とかできなかったのか? >>154
木下家に豊臣姓を名乗らせてお家再興済みですが? /::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
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|::::::=ロ -=・=- |, | -=・=- ロ=::::::| ←女装趣味のあるジャムリン
|::::::::/ヽ /ノ ヽ /ヽ:::::::|
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|::| l l |::| ウフフ・・・
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|::::\ /::::| 私ジャムリンよ
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|Ξ|~ \ / ~|Ξ|
/::::::ヽ/|\_______/|\ /:::::::ヽ
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/|:::::::::::| \ / |::::::::::::| >>125
あれはややこしい。
1591年に秀吉名義で出されたのが、身分移動を禁止する人掃令で、
翌年、関白秀次名義で出された全国的な戸口調査を命じたものも人掃令。
で、この二つの総称が身分統制令なんだと。
だから、人掃令でも身分統制令でもまちがいではないと思う。
採点する人は、大量の答案を模範解答見ながら機械的に採点してるから、
模範解答どおりの答えでないと機械的にピンにすることは往々にしてあること。 信長はどっちかっつーと女より男が好き。信玄と同じで。
謙信も女に生涯触れなかったし、ひょっとして男に興味ない秀吉の方が異常者?
男色が一つの確固たる文化だった・・・
なかなか興味深い事実ではある。 太閤=豊臣秀次
関白太政大臣=豊臣秀頼
八大老
徳川秀忠、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川秀秋、上杉景勝、結城秀康、加藤清正、福島正則 >>158
女とちがってある程度自由に恋愛できるしな
程度が過ぎれば家が傾くが >>159
秀頼が生まれている段階で秀次は確実に死んでるし、秀頼が成人してる段階で
史実と大して変わらん流れだろうよ。
淀が間男して拷問でぶち殺されてれば、もっと早くに崩れる。豊臣政権は、
織田の権威の傘の下で勢力を伸ばした以上、織田の血を否定すれば
織田の同盟者に屠られるわな。
そんな政治バランスだよアホが。 >>159
8大老なら
豊臣秀保、小早川秀秋、宇喜多秀家、
徳川秀忠、結城秀保、前田秀長、毛利秀元、上杉景勝、 朝日姫が、後家好みの家康に寵愛されまくってたら歴史は変わったんだろうな。
一人だけでも子どもを産めば正室腹で秀吉から押されて嫡男にせざるを得ない。 確かにお六とか若い側室もいた。
でも、西郷局、阿茶局、茶阿局、お亀、お勝(出戻ってきたので)
が、みんな後家。
才が無いと寵愛されないのはそうかもね。 フロイスがね、秀吉が小牧長久手の野戦で敗れた理由を説明してるくだりがあるんだけどね、
家康は信長の姉妹を娶り、高貴な血統に属していたので多数の家臣がいたために
日本中で大いなる名声があったことを書いてる。
一方で秀吉は名声や位階や権力や財産をまだ有していなかったので小牧長久手の野戦で敗北したことに触れてる。
ここで注目されるのは旭姫が嫁ぐ前の家康には信長姉妹が正室として存在していたことなんだな。
その高貴な血統が存在する方が明らかな有利になることがフロイスによって書かれている。
清洲会議において柴田勝家がお市を娶っていた理由もこれで明らかになった。 >>165
家康が大坂の役にも連れて行き大坂方との交渉やらせてた
側室の阿茶局とか当時62歳だよね
家康の側室は後家が多く必ずしも若さは重要ではなかった
だけど全部が全部才があったわけでもないだろう
領内や家臣たちの夫に死に別れた気の毒な未亡人を救う口実で
次々未亡人たちを城に引き取り側室にしていたらああなっただけという感じはする 清洲同盟があったとする根拠が完全に消されてて証拠がまったくないのも
信長姉妹が正室だった事実を消す幕府の工作なのだろうね。
でも、これが事実とすれば信長死後に、信長のあだ討ちをするために
家康が尾張へ進軍してきたり、信雄の肩を持って秀吉と戦ったことも納得できる。 フロイスの勘違いな気がするけどな。
・信長妹の市が嫁いだ浅井長政との混同。
・「家康は義兄弟」と言った信長のリップサービスを誤解。
・信長長女の徳姫が信康に嫁いだことを誤解。
・信長の叔母が松平(桜井)信定に嫁いだことを誤解。
この4つの1つまたは複数が混ざり合って書いたんだと思う。 >>172
ネタだろうが…
西郷局ってまだ築山殿が生きている頃に家康の側室になってるだろ
信長姉妹が家康に嫁いだなら正室として以外あり得ず
その時点で築山殿は離縁・松平信康は廃嫡だろ
西郷局が正室扱いを受けていた事実もない
信長は松平信康に娘を嫁がせて徳川家嫡男として尊重しているのに
親父の家康に姉妹を嫁がせる意味がない なるほど。家康の正妻が信長姉妹になることになり、
邪魔になった築山殿と信康を殺すことになったわけか。 >>174
だから西郷局は家康の正室じゃないって
西郷局の出自もはっきりしてるじゃん 7年間も正室不在を続けてるだけでも不審なのに、
旭姫をおしつけられなかったら、さらにずっと正室なしと言うのは考えられん。
秀吉の姉妹と結婚前に、家康の正妻だった人物を隠蔽してるから
その人との間に生まれた男子も家臣の養子にされてんだろね。
築山殿(1579年虐殺)
織田西郷局(1579年誕生秀忠、1580年誕生忠吉らの生母で1589年死去し正一位追贈)
朝日姫(1586年婚姻)
朝日姫を押し付けられた家康は西郷局を正室の座から後退させて
朝日姫を迎えてるのは明らか。
幸い、西郷家自体が強大な家では無かったので大問題に発展しなかっただけだな。
幕府も面子から、最初から当時の家康には正室がいなかったんだよ!!!と改竄隠蔽したんだろ。 >>176
信長も濃姫は生死不明、正室不在なんてありえんから生駒が正室だった!とか言うやつか?
柴田勝家だってお市と結婚するまで正室の存在が知られない
家康だって朝日姫が死んでから何十年も正室不在 >>176
あの時代にも正室はおろか側室すらいない大名もいたからな… 家康の正室が信長姉妹で家康が織田家の婿、秀忠が織田家の孫なら
小牧・長久手の戦いの時に自ら我が子秀忠に織田家当主となる資格があると言うだろうしね
日本側に家康正室となった信長姉妹の存在を表す史料がないのが一番の証拠 36歳から43歳まで正室不在というよりは隠蔽してたと考えるべきだろうね。
秀吉より先に死んだフロイスは後の江戸幕府の隠蔽圧力とか関係ないから書き残してるわけか。 フロイスの判断基準は「おいらに好意的か否か」だしな。フロイスは秀吉が大嫌いだし
秀吉に敵対する人間=高貴なんす フロイスだけでなく宣教師は、なしてあれだけ秀吉が嫌いなのだろう
同じくバテレン禁止令出した家康に対してはツンデレ気味なのに ほらほらほらwww
お前らのやりかたは単なる流通
はっきりいって単なる泥棒www 看羊録の作者が日本に連行され伏見に来たのは秀吉が死ぬ寸前。
その前後の日本国内の話は信憑性が非常に高いが、 逆にそれ以前の話の信憑性は低い。
だから、看羊録作者は北条氏がいたことを知らずに、
相模の領主を代々引き継いでいる家康などと大きく誤認してるのが露呈している。
徳川のことと北条の内容を区別できずに混同し間違ったことを書いているため、
史料として採用出来るのは慶長期の記述のみである。
宣教師はずっと日本にいるから、それ以前の記録は宣教師の記述を利用すると良い。
しかしこれも条件付きであり、 秀吉が九州征伐時にキリシタン大名に棄教命令を出して、
宣教師や信者たちが天草に逃げ隠れてから、
宣教師の記録が秀吉を信仰を妨害する悪魔だと悪口三昧言い出すように豹変するから、
宣教師の記録は天正14年の記述以降、 かなり秀吉についてねじ曲がったことを
書き連ねて罵倒していることに留意せねばならない。
(フロイス日本史はフロイスが慶長2年死去しており、ローマの総長への報告も文禄3年あたりで
終わっているらしいが現存は文禄2年までで、慶長3年に死んだ秀吉のことを最後まで記してない。
その後の慶長期の研究史料は看羊録が引き継ぐ形になっているがここで致命的な事実に気づくだろう。
それは文禄4年の秀次事件に関する第三者的客観史料がない事実である) 1587年の日本史には、 尾張に秀吉の姉妹がいるという話を耳にした秀吉が、 大坂でその人々を死刑にしている。
要するに伊勢から来た秀吉の兄弟やら、尾張から来た秀吉の姉妹など、
秀吉の家族を称する詐欺師が大量にいたことを表してるだけ。
そりゃあ治安を守るために秀吉だって、その職務にある者に命じて罪人は処断するわ。
秀吉の家族を自称していたやつを捕まえて殺しただけなのに、
キチガイ朝鮮人は、これを取捨選択し我田引水で残虐者扱いするいつもの重度曲解ぶりを発揮。
ウソだって言ってるじゃん。 それを宣教師が勝手に本当のことを告白しなければならなかったのに、
などとトンデモ解釈を、なんら証拠を挙げずにぶっ込んできただけじゃん。
ヨーロッパのキリスト社会ではヘンリー8世の離婚問題などでわかるように
どうも英雄色を好むという概念がないため、その手の話が悪口として常套句だったようで、
言わば「妊婦の腹を割いた」という暴君批判の常套句と同じ性格を持つ貶しパターンだったようだ。
この話が秀吉の女好き伝説に拡大解釈されている。
実際、人質として取っただけで、性行為があったかどうか怪しい話も、
このフロイスの悪口慣用表現によって悪意の解釈がなされている。 でも同じように禁教令を出した家康に対しては、秀吉程には非難していないよね、宣教師 フロイスほど日本事情に詳しいやついなかったから
フロイス死後は大した記録も残ってないし、
英国のウィリアム・アダムスが家康と入魂になってポルトガル人を排除しちまってるしな。 はいはいw何でもかんでも秀吉が悪いとかアホですねw
それ実際は、吉川元春と嫡男の元長が行ったことだし。
しかも東大の家わけ文書の吉川文書の該当書状の注釈にも
吉川氏の豊前宇留津城攻略の戦功
と解説してるし。
この千人の首を刎ね、男女残らず磔の残虐な殺戮を11/7に行ったあと、
11/15に元春が急死したので祟りにあったと騒いでるし。
元長もまた半年後に急死してるし。呪われたと思うのも当然。
>>遺体は城周辺で処理しきれず海に廃棄
それはまた別の城で毛利がやった話だろ。
大阪城公園で復讐成功ニダ韓国大勝利ニダ
日本の3大古城の一つであるとともに豊臣秀吉の本拠地だった大阪城。韓国では壬辰倭乱(じんしんわらん、文禄・慶長の役)の元凶として知られる秀吉は、ここから日本統一の夢をつかんだ。
暗闇の中でショーが始まると、天守閣が日本刀によって真っ二つに切られ
その瞬間、韓国アイドルグループ「BEAST」の歌が流れ、中には口ずさむ見物客も見られた。
キム・ドンソンさんは「しかしそれを実現した技術と設備は純粋に韓国のもの >>188
フロイス以降も多くの宣教師が報告を遺しているんだが パジェー日本耶蘇教史、レオン・パゼー日本耶蘇教史
日本耶蘇会年報も1628年まで続いているし パジェー日本耶蘇教史、レオン・パゼー日本耶蘇教史
日本耶蘇会年報も1628年まで続いているし フロイスの文書は無駄に長すぎとか、ヴァリニャーノにボロクソ言われてたしなー >>192
それぜんぜん日本についてくわしくないヤツが書いてるから一次史料扱いすらされてねー駄書じゃん。
だから史学者もまったく引用史料に使用してないし。 >>197
単に日本語訳が刊行されていないので、面倒臭がって取り上げていないだけ >>198
価値がないものを翻訳するわけねーだろ。 >>199
価値がなのでは無く、信長・秀吉死後の話なので一般受けしないから翻訳しないだけ
『大日本史料』では摘訳されているし >>200
坊主は、洋の東西を問わずまめなやつが多い。
日本でも坊主の日記は第一級史料。 名古屋市の住宅で67歳の女性が死亡しているのが見つかりました。警察は女 性に暴行を加えた疑いで39歳の長男を逮捕しました。
逮捕されたのは名古屋市名東区の大学院生・木本隆義容疑者(39)です。
愛知県警によりますと、木本容疑者は23日午前8時ごろ、母親の美代子さん (67)が自宅で首にひもを巻かれて死亡していると110番通報してきまし た。
警察が調べたところ、美代子さんは首を吊った状態で死亡していて、両腕に 複数のあざがあり、調べに対して木本容疑者が美代子さんへの暴行をおおむね認 めたため、23日夜、傷害の疑いで逮捕しました。
木本容疑者は美代子さんと2人で暮らしていて、警察は24日、遺体を解剖し て詳しい死因を調べるとともに、傷害の動機や経緯について木本容疑者を追及す る方針です。(24日00:53) 202
古代から色んな記述を残してきたのはそういう人らだからね
頭を剃り上げただけのなんちゃって坊主とは違う
そういうのは大体、肉欲の権化になるもんだ >>201
>>一般受けしないから
いやいや学術レベルで印刷販売されてる研究書や論文集や翻訳書は、
補助金が出ているから一般受けする本なんて、そもそも存在しないぞ。
そこらの本屋やアマゾンで買える本と同じにするなよ・・・・ 秀吉の姉さん(秀次母)
桶狭間から大坂の陣まで身近に体験した希少な人物かも
徳川にちょっかいだされなかったのかな
彼女はどんな晩年を過ごしたのか >>208
徳川家は名実共に隠居した人物に対しては寛容だよ 国松も大坂の陣の前に城を出て出家してれば助命されたかもな。 千姫が秀頼の男子を生んで、秀頼が大阪の陣の前に隠居し、千姫の子が家督を継ぎ、大阪が幕府からの付家老を受け入れていれば、豊臣氏が存続いていたかも鱈レバーだな。 >>212
家康は身内に対してもかなり冷酷だよ
実息子でも殺害したり改易・幽閉したりしている
たとえ外孫が当主でも徳川家にとってあまりにも危険すぎる豊臣家存続は認めないだろう
ありうるのは秀忠の外孫であることに免じて死一等を免じられ
外祖父徳川秀忠の養子となって豊臣姓を捨てて松平を名乗るか他家の養子に入って別姓を名乗り
豊臣出身であることを伏せて何食わぬ顔をして生き延びる道だろう
しかしそれでもやっぱり出家させられただろうな 関東か東海に転封して江戸定府というのはどうだろうか。 >>214
家康は織田家に対して織田秀信を改易・高野山で出家させ、
かつて小牧・長久手で自ら担ぎ上げて共に戦った織田信雄に対しても
織田家当主であるのに奈良の山奥に5万石しか与えず
信雄自身は生涯領地に入ることを許さず京都で軟禁していた
家康が織田家以上に豊臣家を優遇するとは思えない >>211
国松と奈阿姫は大坂の役後に京極家が家康に差し出しており
大坂の役以前から大坂城にはいなかったとみられている
国松に関しては京極竜子が処刑後の遺体を引き取り、
国松の墓の隣に自分の墓を造らせるなど並々ならぬ思い入れが見られ、
京極竜子や淀殿の妹初など京極家が国松・奈阿姫の養育に関わっていたとみられている
千姫に遠慮して脇腹の国松らを淀殿が京極家に託していた可能性があるらしい
国松は8歳なので出家するにはまだ幼い
普通に大坂の役後に寺に入れれば良かっただけでは
家康に助けるつもりがなかったから幼児を処刑したんだろうが >>210
日秀尼については女性だし、他家(三好家)に嫁ぎ、秀次死後は秀吉存命中のうちから
嵯峨野に隠棲しており、伏見城や大坂城に住んでいないので
秀頼とも疎遠(息子を殺されておいて秀頼と親しいというのも変だが)
特に徳川家が何か言いたい危険人物ではなかったってことだろ
隠居してても危険人物に関してはなんだかんだとやっているよ 「家康が」豊臣を潰したかったとしたら、
秀忠将軍就任のときに秀頼が上洛拒否った時点で何かしら強硬な介入を始めているという意見もあるがな 秀忠が関ヶ原に遅参して、加藤、福島らの兵力に頼ったのが、初期に強硬に出られなかった原因だからな。
秀忠の将軍宣下当時に強行策はまだ無理だろう。
そのころから、豊臣が下手に出るほど利口だったらどうにかなっていたかもな。 秀忠将軍就任時点で秀忠は権大納言
それに対して秀頼は右大臣だった
右大臣が権大納言の下手に出るというのも変な話だな
関ヶ原が終わっても西日本の大名は依然として
豊臣家を盛り立ててるところも多かった 室町時代だと、関白も左右大臣も、大納言どころか宰相中将のところに
伺候していたな。 >>222
高貴な関白や左右大臣を保護しただけだろ
武家は所詮官位は低く
関白や左右大臣に気は使ってただろ 大臣はおろか関白でも、「武命に違う(将軍の命令に背いた)」という理由で
追放されたり解官と所領没収なんていう目に合わされているけどね。
当然、公家の方は低姿勢で将軍家に伺候する。
官位よりも家格の方が重要になっていた時代だし。 摂関のほうが天皇より権力があっても天皇より摂関のほうが上位だったことはない
武家のほうが天皇や摂関より権力があっても天皇や摂関より武家が上位だったことはない 天皇はともかくとして、武家の方が摂関を下座に着かせた例など
いくらでもあるが。
蹲踞して将軍の裾を取る関白、諸臣の前で将軍の下座に着した
摂関の存在を無視して
> 摂関より武家が上位だったことはない
と強弁しても意味はないぞ。 公家社会自体が、鎌倉、室町期以降、家柄が確定して変質していったからね。
現任の官職<<家柄
摂関家の中将と、羽林家の大納言の関係を見れば明らか。 厳密には前将軍だが、一条経嗣は内裏の節会で太政大臣時代の義満の
裾を取っている。
もちろん、入道前だし准后でもなんでもないときだから、「武家」でなけれ
ば有得ない話だよ。 >>230
一次史料は?
なんかの勘違いじゃない
義満は将軍時代に准三后となっており
将軍を退下したあと准三后になる前の時期というのは存在しない >>231
准后の時期はご指摘の通りです。失礼しました。 足利義持・義教は摂関が天皇の裾を取るのを
御簾を掲げたりして補佐に徹しているし別に摂関より上じゃないよね
豊臣秀吉が関白となったときに初めて摂関の役割である天皇の裾を取って
武家が公家関白に取って代わったとされている 中村からの豊臣創設のみんなは秀吉含め若く亡くなってるよね
百姓時代、あまり良い食べ物をとっていなかったのも要因かな?
とはいえ大政所と日秀尼は極端にご長寿なんだけども >>234
過労だったり、不摂生だったりと色々あるだろうね。
家康みたいに、医学知識があって節制してるような戦国武将が希だったわけで。 >>234
あれだけ合戦続きだったら過労死もあり得る
現代のサラリーマンの比じゃない働かせぶりだろ、あれ >>233兄貴はともかくあの天魔王足利義教が関白と一緒に天皇の御簾や裾をもってあげてたのが寧ろ驚愕 >>233
>関白と一緒に天皇の御簾や裾をもってあげてた
天皇の裾を持つのは関白の役割
天皇と関白が通るところの御簾を掲げていたのが将軍
天皇と関白に対して敬意を表している なるほどなるほど
要はお前らにとっては権威維持ってのが大事って話なわけね
日本国内ではっきりしているのは日本国王史だ
鎌倉に絡む正史の話だ
天皇史はある意味、おとぎ話 平将門の時代までちゃんと繋がる話だからな
日本統一物語、日本を統一したのは源頼朝 これか ttp://wave.sankei-kansai.com/2013/04/post-108.php
真田信繁の側室になった秀次娘もいるぞ >>234
秀吉も織田家時代からあれだけ働きまくって62歳まで生きれば十分長寿。
秀長も52歳まで生きたから若死にって感じでもないような。
秀次も粛清されなければ相当長生きしたような感じはする。 国松殺さるほど徳川は豊臣抹消徹底してたけど
尾張中村時代の血筋としては皇室で現代もが存続してるのが凄いと思う
そう思うと豊臣家でも秀次は勝ち組だ 皇室に入った豊臣の血は、秀勝→完子の血だな。
完子の子孫の九条家出身の貞明皇后が昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮をお生みになられた。 九条家は、完子を貰って大きな利益があったな。
最初は豊臣の援助をもたらしたし、大阪落城後は完子が秀忠の養女になったんで徳川からの援助があった。
九条家も徳川和子入内のために働いてるから徳川家にもメリットがあった。 >>249
九条家は完子の義弟・秀頼の左大臣任官を朝廷に働きかけているから
豊臣の為にも動いているよ 大坂の陣の頃の豊臣家臣って大野兄弟・片桐兄弟・七手組の諸将以外に
名の知れた重臣っていなかったのでしょうかね?あとは織田や細川などの
武家貴族の居候がいくらか。
長宗我部や真田・毛利など元大名級の浪人衆からしたら、このぐらいの
連中は格下に見下されて統制できなかったのでしょうかね。 >>245
秀次系も真田縁者と岩城縁者でたぶん女系では残ってる。 豊臣家は秀次一族の霊たちに滅ぼされたんだよ。
秀吉がやった事は人間の所業ではない。
秀吉一族は滅ぼされて当たり前。 秀吉に心からの忠誠大名少ない
欲だけの加藤 福島 黒田 浅野 これらが 最後までやる気なら 滅びなかった。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 】「大坂の陣」について記された在日オランダ人の書簡発見。
豊臣秀頼が寝返った大名たちを城壁から突き落とす様子など描かれる
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160921-00000113-mai-cul 茶坊主?だったかな、
大名ではなく御伽衆にはいたから、多分勘違いか確信犯 豊臣秀頼には衆道相手は居なかったのですか?
太閤秀吉にすら、石田三成を筆頭に何人かの寵愛せし小姓が居た
というのに・・・ 秀頼はプライドを捨てて 大和郡山50万石の大名で我慢すれば、豊臣家は存続できたかもしれない。
だが、家康死後 秀忠が難癖つけて改易し 秀頼は木下家預かりのみとなる。
豊臣国松は 姓を山田に代えられ、町人として天寿を全うする。 『新発見で迫る戦国の謎』(TJMOOK ふくろうBOOKS/宝島社)
小牧・長久手の戦い中に家康が降伏を申請したことについての秀吉の書状
http://oz-k.com/news/shinhakkende-semaru-sengokuno-nazo >>262
例のごとく秀吉の大法螺
まぁ、秀吉はそれを後に実現するからあそこまで成り上がったのだが、
その大法螺インフレが遂に破綻したのが、唐入り 秀頼と淀殿が豊臣家全盛の時の具足を震えて握り締めながら
最後の最後になって徳川方に命乞いの使者を送ったのが
死ぬ3日前。
その時に付き従っている武将はわずか20人足らずだった・・・・・ ただ北の政所の親族で豊氏を名乗っていた木下家は、
見苦しい抵抗をせず、数千石の旗本として存続を許された。 自分の髪の毛がなくなるまでかきむしるほどの屈辱だったと思うが
そういう屈辱にうなだれならも耐えて耐えて耐え抜いて
老後の寿命を少しだけのばしたのである。 >>265
木下は備中足守藩と豊後日出藩と日出の分家の交代寄合。
なんで一番小さな家を持ち出すのか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています