日本史ニュース速報 4
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水深およそ20メートル、泥が漂い、視界が悪い中、海底に見えてきたのは、長さ2メートルを超える木材と、これにはめ込まれていたとみられる巨大な石です。 船の「碇(いかり)」とみられています。当時、船の碇は木製でした。「碇石」と呼ばれる石の重みで沈むようになっていました。 鷹島沖では、1994年にも、全長7メートルという巨大な碇の一部と碇石が発見されています。 今回、見つかったものは、先端部分だけで2メートルを超え、これまでに見つかったことのない形だということです。 ●琉球大学・池田栄史教授「下の歯の部分、ちょうど突き刺す歯の部分が2メートルぐらいの長さがあるので、かなり大型の碇ですよね。 類例を増やしていけば、それだけまた、いろんな検討をすることができる情報がいっぱい出てくるわけで、 そういう意味では面白いですね」 今回、碇が見つかった場所は、鷹島の南岸で、2年前に「元寇の船」が確認された場所のすぐ北側に位置します。 池田教授のグループは、2005年から伊万里湾のすみずみまで船を走らせて、音波探査を実施しました。 その結果、鷹島南岸の複数の場所で、「異常な反応」を確認しました。 2011年、その中の1つを発掘したところ、構造を残した「元寇の船」という世紀の発見につながりました。 同じ海域では、「碇」だけでなく、2隻目の船を探すための新たな調査も始まりました。 ●池田栄史教授「発掘の候補になりそうな場所を、今回、6か所ぐらい設置していますけれども、その中でボーリングをして、 もし、何かそこで元寇の遺物らしいものに遭遇すれば、次の段階、来年度あたりに発掘調査をすることになります」 2隻目の調査は、音波探査で何らかの反応があった場所に潜水士が潜り、鉄の棒で海底を突きながら、木材や陶器などの反応がないか探ります。 複数の場所で調査しましたが、まとまった反応はなかなか得られません。 ●池田栄史教授「船体か、まとまった積み荷を探そうという作業をやっているので、今のところ、当初のもくろみからすると、 あまり芳しい結果は出てないという状況ではあります」調査開始から3日目。 この日、調べたのは、元寇の船が見つかった場所と似たような異常反応があった場所です。 海底の潜水士から連絡が入りました。●海底の潜水士「北側なんですけど、北側の方、少し反応あり」 潜水士が、海底から「石」を引き上げてきました。近くの海岸にある石とは、明らかに違って見えます。 ●池田栄史教授「この感じは『バラスト』っぽいんだな。だから、もうちょい周りを、ともかく見てみましょう」 2011年に発見された元寇の船の周りでは、大量のレンガが見つかっています。 これは、船のバランスをとるおもり「バラスト」とみられていて、今回、見つかったのも、「バラスト」の可能性があります。 同じ場所からは、さらに別のものも見つかりました。●話す潜水士・町村剛さん「それですよ。柔らかいやつ」 ●話す池田栄史教授「これ、木材の破片で、この虫食いの状態だと、我々がいつも見ている沈船の虫食いと良く似た感じですよね」 ●話す潜水士・町村剛さん「ゼロから西の方へ、2.7メートルまでは連続して反応があります」 見つかった木と石は元寇の船のものなのか、来年以降、確かめることになります。 ●池田栄史教授「『やった、船だ』という感覚じゃないですよね。だから、もう少し情報が欲しいですよね。 今の情報だけでは早急な判断は無理。ただ、出ている範囲とか、反応からいくと、何らかの元寇に関わるものである、あってほしいなぐらいですね。ある可能性が高いとは言えんな」 2年前、元寇の船が見つかった場所はここで、今回、その北側で「碇」が見つかりました。新たに石や木が出てきた場所は、この辺りです。 いずれも、谷の底と斜面の境目にあたります。同じような場所から見つかったことを、音波探査を担当した専門家は、こう分析しています。 ●音波探査を担当・滝野義幸さん「中央の谷の中に堆積物が乗っかっている。 さらに、それのちょうど縁の部分。泥が厚く堆積しているので、その中に船だとか、そういうものが保存される環境というのがあるのではないかなと思っています」 新たな発見が続く伊万里湾、今後の調査に期待も高まります。 ●池田栄史教授「昨年の船、それから今年の碇と。その碇も、今までの形状と違うということがわかったので、 鷹島の調査というのは、やはり今後、続けて、いろんなデータを増やしていかないと、 一概に今まで考えていただけの資料が出てくるんじゃなくて、新しい資料がたくさん出てくるということがわかろうかと思います」 元軍の襲来では、数千隻の船が伊万里湾に沈んだとされています。 730年の時を超えて、一体、どれだけの船が眠っているのか、調査は来年以降も続けられます。 ※スタジオ※●川上キャスター海の底の歴史ロマンですよね。元寇の船、2隻目も発見されるんでしょうか。夢が広がります。 [10/27 20:49]【福岡】小郡市出身の作家・帚木蓬生さんが講演会ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0016.html 地元・小郡市出身の作家・帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんらを講師に招いた「ふるさと講演会」が27日、 小郡市で開かれました。講師を務めた帚木蓬生さんは、小郡市出身です。 現役の精神科医でありながら、山本周五郎賞など数々の文学賞を受賞した作家です。 帚木さんは「昔の話」という演題で、小郡ゆかりの有馬藩の歴史などについてユーモアを交えた語り口調で講演し、 会場をわかせました。帚木さんが、医学以外のテーマで講演するのは非常に珍しいということです。 また、日本睡眠学会理事でもある久留米大学の内村直尚医学部長が、「睡眠」をテーマに質のいい睡眠について 講演し、会場に集まった300人の観客は興味深く耳を傾けていました。 徳山藩の城下町描いた石碑ttp://kry.co.jp/news/news8704142.html 徳山藩の城下町絵図が書かれた石碑が周南市に建てられ27日、除幕式が行われた。 周南市上御弓町で行なわれた除幕式では石碑を建立した兼崎地橙孫顕彰会の兼崎人士会長が挨拶したあと、 関係者が除幕を行い、「徳山藩御家中屋敷絵図」の石碑が披露された。 御影石で作られた石碑には天保12年、1841年ごろの徳山藩の城下町が描かれている。 石碑は周南市ゆかりの俳人である兼崎地橙孫の顕彰会が徳山東ライオンズクラブの委託を受け建てたもの。 絵図は現在の周南市中心部が描かれていて「学館」と書かれているのは今の徳山小学校がある場所となっている。 石碑に描かれている“通り”の多くは現在も残っている。[ 10/27 17:17 山口放送] ノーベル平和賞受賞医師組織「東京は高濃度汚染地域のど真ん中」 シュミット博士は、繰り返し、東北・関東地方の危険を指摘。東京は風によって飛来した放射性物質によって 高濃度に汚染された地域の真ん中にある、と警告した。 また福島、栃木、茨城、宮城の4県については、5000ベクレル/kgにも上る高濃度の土壌汚染が 確認されていることから、避難が必要、と語った。 http://blog.goo.ne.jp/okawaraarishige/e/421c5f9d4a8db9bdc3683f2600ed044c すでにもう東京はチェルノブイリ級の放射能レベルにある(リンク紹介) 福岡市博物館 常設展示室を全面改装(2013年10月29日 17:04)ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=10068 福岡市博物館は11月3日にリニューアルオープンします。 常設展示室を全面改装し、福岡の歴史を楽しく、分かりやすく学べるようにしています。 福岡市博物館は新しくなった常設展示室を29日、報道陣に公開しました。 全面改装は1990年の開館以来で、特にこだわったのは、国宝の「金印」を目立たせる展示です。 本物を眺めたあとは、タッチパネル式のモニターで、金印をさまざまな角度から見ることができ、解説を楽しめます。 この「金印の世界」をはじめ、新しい展示室は11のコーナーで構成。旧石器時代から現代まで福岡の歴史を紹介します。 新しく設けられた「博多祇園山笠」のコーナーでは、博多人形師が手掛けた勇壮な舁き山が展示されます。 また、展示と連動する携帯端末を利用し、体験しながら学ぶこともできます。 常設展示室の一般公開は11月3日からで、リニューアルオープン初日は常設展の観覧料は無料になります。 岡山市 千足古墳で発掘調査始まるttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20131101_7 古代吉備の国の古墳で、最も古い石室を持つことで知られる、岡山市北区の千足古墳で調査が始まりました。 今年は古墳がどのようにして作られたかを調べます。岡山市北区新庄下の千足古墳は、5世紀頃に作られた前方後円墳です。 今回の調査では、古墳がどのように造られたかなどを調べるため、石室が収められた円形の丘の部分を中心に、 人工的な盛り土と地盤との境界などを確認します。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20131101_7.jpg 千足古墳の正確な大きさを把握することで、古墳全体の史跡指定を受ければ、保存活動が行いやすくなると言います。 調査は、石室内の激しい損傷が見つかった2009年以降、毎年行われていて、今年度が最後となります。 千足古墳の発掘調査は、来年2月頃まで続けられます。 「恋人の聖地」モニュメント除幕ttp://eat.jp/news/index.html?date=20131102T181423&no=12 「恋人の聖地」に認定された松山城の二之丸史跡庭園に記念のモニュメントが設置されました。 2日は、松山市の野志克仁市長らが出席して除幕式が行われました。 二之丸史跡庭園は、結婚式の前撮りで多くのカップルが訪れる事や、 井戸からロシア人捕虜と日本人看護師の名前が彫られた金貨が見つかり、話題になった事などから、 静岡のNPO法人によって、「恋人の聖地」に認定されました。 高さおよそ2メートルのハート形のモニュメントの中央には、国境を越えたロマンスの証となった大きなロシアの金貨が デザインされています。野志市長は、「この場所を地域の新たな宝として活性化のために生かしていきたい」とあいさつしました。 また2日は、庭園で前撮りをしていたカップルが金貨のレプリカを井戸に投げ入れて愛を誓い、式典に華を添えました。 EBCデ-タ放送NEWS 2日16:13 二之丸史跡庭園「恋人の聖地」祝う プロポ-ズにふさわしいロマンティックなスポットと して「恋人の聖地」に選ばれた松山城の二之丸史跡庭 園で記念式典が行なわれた。前撮りを済ませたカップル が井戸にコインを投げ入れるなどして認定を祝った。 2013.11.2 17:59二之丸史跡庭園「恋人の聖地」認定祝う ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=45154 プロポーズにふさわしいロマンティックなスポットとして「恋人の聖地」に選ばれた松山城の二之丸史跡庭園で記念 式典が行われました。「恋人の聖地」はNPO法人が全国各地で認定していて、二之丸史跡庭園は県内で4箇所目です。 きょうは、野志市長が「二之丸の魅力をますます磨いていきたい」と挨拶し、ハート型のモニュメントを除幕しました。 庭園の大井戸からは、ロシア人男性と日本人女性の名前が彫られたロシア硬貨が見つかったことから、式典では、 結婚式の前撮りを済ませた高田直樹さん、真央さん夫婦がコインを投げ入れて認定を祝いました。 今後、カップルや夫婦の入園者にはコインのレプリカが贈られ、 庭園の管理者は「大井戸に投げて的に入れば2人の愛が深まる」と話しています。 2013.11.2 17:59オータムフェスティバルにぎわうttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=45153 3連休初日の2日、松山市の城山公園では遊具やステージショーなど親子で楽しめるイベントが開かれ、にぎわいました。 このキッズふれあいランドは、9月から11月にかけて城山公園で様々なイベントを行うオータムフェスティバルの一環で、 今年で7回目を迎えます。 会場には、巨大な滑り台やショベルカーを使った回転する遊具、ミニ新幹線などがお目見えし、大勢の家族連れが 笑顔を見せていました。また、今年初めて子どもたちのファッションショーも開かれ、およそ30人がお姫さまやアイドル など趣向を凝らした衣装を披露しました。 城山公園のオータムフェスティバルは、今月23日には産業まつりやメディアパーティーが開かれます。 「伊能図」大・中・小すべてを収録 江戸後期に測量家の伊能忠敬(1745〜1818年)が完成させた初の精密実測日本地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を復元した『伊能図大全』(渡辺一郎監修、全7巻)が、 河出書房新社から今月29日に刊行される。 基本図である大図214枚と、それを利用しやすいサイズに編集した中図8枚および小図3枚の3種すべてを収録。 伊能図は、幕府への上呈図とその控えが戦前に火災で失われて以降、少数の部分的な写しが残るだけの幻の地図とされてきたが、 近年に米国議会図書館で発見された大量の模写図などにより全体像が判明。 今回の『大全』は、現存図の中から品質が優れたものを選び、 単色の模写図には色を補うなどして、多色で描かれていた上呈図を再現している。 A4判箱入り。セット価格12万6000円(分売不可)。 http://sankei.jp.msn.com/life/news/131103/bks13110312300001-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/images/news/131103/bks13110312300001-p1.jpg 久留米藩主・有馬家ゆかりの茶道具TNC 2013/11/04 12:00:00 久留米藩主・有馬家に伝わる茶道具を集めた展示会が久留米市の有馬記念館で開かれている。 会場には9代藩主・頼徳の『柳原焼』の茶碗や、呂宋壺の茶壺など約30点が並ぶ。来年2月3日まで開催中。 吉川資料館「上月城と鳥取城の戦い」11/05ttp://www.yab.co.jp/annnews/index.html?id=0002 戦国時代に起きた2つの戦いを再現した企画展が岩国市の吉川史料館で開かれています。 企画展「上月城と鳥取城の戦い」は戦国時代に起きた二つの籠城戦を国指定の重要文化財などで再現しています。 上月城の戦いは織田信長の援助を受け上月城に入城した尼子勝久を毛利元就の次男吉川元春らが攻めた戦いです。 展示の目玉は戦国武将の中でも高い人気を誇る尼子氏の家臣の山中鹿介が被っていたとされるかぶとと 直筆の遺言状です。また併せて吉川家に代々伝わる国宝「狐ヶ崎の太刀」も展示されていて人気を集めています。 企画展は12月23日まで開かれています。 2013/10/31 福岡で馬かぶと、旗立て金具出土 大陸文化伝える品 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG3104K_R31C13A0CR8000/ 福岡県古賀市教育委員会は31日、6世紀後半から7世紀初頭にかけて(古墳時代後期)の船原古墳で、 馬の頭に付けるかぶと「馬冑(ばちゅう)」と、馬上に旗などを立てる金具「蛇行鉄器」が出土したと発表した。 いずれも極東アジアで流行した騎馬戦術で使われた馬具で、大陸の文化を伝える貴重な史料だ。 市教委によると、馬冑は鉄製で長さ50センチ、幅18センチ。完全な形で見つかるのは和歌山市の大谷古墳 に続き2例目という。蛇行鉄器は国内最多の3点が見つかり、最大のもので長さは約80センチ。人が座る鞍(くら) の後部に取り付けたとされる。 出土した金銅製馬具を福岡県立九州歴史資料館(小郡市)がCTスキャンで分析した結果、ハート形の飾り金具 に一対の鳳凰(ほうおう)が、馬を操るため口にかませる轡(くつわ)の金具に唐草文が透かし彫りされていることが 分かった。 船原古墳は直径約20メートルの円墳。市教委は「武具、馬具の歴史や対外交流を研究する上で極めて重要」 としている。〔共同〕 馬かぶと、旗立て金具が出土 大陸文化伝える品、福岡 http://www.topics.or.jp/worldNews/worldCulture/2013/10/2013103101001823.html http://www.topics.or.jp/data/news/worldCulture/2013/10/PN2013103101001906.-.-.CI0002.jpg 【写真説明】 船原古墳で出土した馬の頭に付けるかぶと「馬冑」=31日午後、福岡県小郡市 福岡県古賀市教育委員会は31日、6世紀後半から7世紀初頭にかけて(古墳時代後期)の船原古墳で、 馬の頭に付けるかぶと「馬冑」と、馬上に旗などを立てる金具「蛇行鉄器」が出土したと発表した。 いずれも極東アジアで流行した騎馬戦術で使われた馬具で、大陸の文化を伝える貴重な史料だ。 市教委によると、馬冑は鉄製で長さ50センチ、幅18センチ。完全な形で見つかるのは和歌山市の 大谷古墳に続き2例目という。蛇行鉄器は国内最多の3点が見つかり、最大のもので長さは約80センチ。 人が座る鞍の後部に取り付けたとされる。 馬かぶと、旗立て金具出土 福岡 大陸文化伝える品 : 動画 http://www.47news.jp/movie/general_national/post_9909/ 矢掛宿場まつりで歴史絵巻の大名行列ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20131110_5 江戸時代の情緒を再現した大名行列が矢掛町で行なわれ、大勢の観光客で賑わいました。 昔ながらの街並みの風景が残る矢掛町で毎年恒例の矢掛の宿場まつり大名行列が行われました。 地元商工会の会員らが殿様や奉行などに扮し、およそ90人が優雅な時代絵巻を繰り広げました。 奴頭は片足で左右に飛び跳ねる動きを披露し、沿道からは歓声と拍手が送られました。 参加者は「下ーにー、下に」の掛け声に合わせて旧山陽道沿いの約1.5キロを練り歩きました。 時代絵巻に歓声 東城町で華やかに「お通り」2013年 11月4日(月)ttp://www.tss-tv.co.jp/tssnews/NN1311040160.html かつて城下町として栄えた庄原市東城町できょう、大名行列『お通り』が華やかに繰り広げられました。 本陣となった東城小学校グラウンドでは、木山耕三庄原市長扮する殿様を前に鉄砲隊が号砲を鳴らし、いざ出発。 ほら貝の音と共に露払いの先導で鎧・兜の武者や鉄砲隊などの一行が町へ繰り出しました。 『お通り』は、関ヶ原の戦いの勝利により五品獄城に入城した長尾隼人守を偲び始まったと伝わる東城の伝統行事。 中でも、合戦場で流れ矢を防ぐ大母衣・小母衣を背負った子供たちの行列は色鮮やかで、見物客の目を引いています。 訪れた人たちは、繰り広げられる時代絵巻を熱心に見入っていました。 特別展 国宝ttp://kry.co.jp/news/news8704190.html 国宝「四季山水図」をはじめとする毛利家伝来の文化財の数々を一堂に展示する展覧会が防府市の毛利博物館で開かれている。 毛利博物館で開かれてるのは、特別展「国宝」だ。 この展覧会には、国宝に指定されている「菊造腰刀」、「古今和歌集高野切」など、毛利家伝来の文化財の中でも 特に貴重な名品が展示されている。 中でも圧巻なのは、日本を代表する水墨画家、雪舟が描いた国宝「四季山水図」。全長16メートルに及び、 雄大な自然と人間の営みが描き込まれている。軒先に旗が掲げられ酒屋が新酒の完成を知らせる。 山里に賑わいが訪れた実りの秋の情景も。 また雪舟送別詩には、雪舟が中国から帰国する際に贈られた詩が書かれていて 「雪舟は、飾らない、さっぱりとした人柄だった」などと記されている。 特別展国宝は12月8日まで、防府市の毛利博物館で開かれている。[ 11/10 21:04 山口放送] 尾張徳川家の至宝 来場7万人突破(2013年11月12日 16:36)ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=10131 九州国立博物館で開催中の特別展「尾張徳川家の至宝」の来場者が12日、7万人を突破しました。 7万人目の来場者は、友人と訪れた福岡市南区の福永博子さんです。 九州国立博物館の西村栄造副館長から、愛知県の銘菓「ういろう」などの記念品が贈られました。 7万人目となった福永さんは、「びっくりした。 平凡な毎日を過ごしているのでこの特別展で少し得るものがあればいいと思う」と感想を述べていました。 徳川美術館所蔵の尾張徳川家ゆかりの品約230点を展示するこの特別展では、12日に展示替えを実施。 国宝の「源氏物語絵巻」や三代将軍・徳川家光の長女・千代姫の嫁入り道具である国宝の「初音の調度」を含む50点余りを入れ替えました。 特別展「尾張徳川家の至宝」は、12月8日まで開かれています。 唐古・鍵遺跡:奈良の環濠集落遺跡で筑前の土器 弥生中期の交流、裏付け http://mainichi.jp/feature/news/20131116ddn012040039000c.html http://mainichi.jp/graph/2013/11/16/20131116ddn012040039000c/image/001.jpg 唐古・鍵遺跡から出土した弥生時代の北部九州の土器=奈良県田原本町阪手の田原本青垣生涯学習センターで、2013年11月15日午前11時34分、矢追健介撮影 弥生時代最大級の環濠(かんごう)集落遺跡、唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)で、弥生時代中期ごろ (紀元前2世紀ごろ)の北部九州の土器が見つかった。田原本町教委が15日、発表した。弥生時代の 北部九州の土器が見つかるのは近畿では初めて。同遺跡では弥生中期後半の吉備地方(岡山県など)の 土器が過去に出土しているが、藤田三郎・町教委文化財保存課長は「それ以前に北部九州と交流があったことを 裏付ける」としている。 【考古学】奈良の唐古・鍵遺跡から九州土器 近畿初、弥生中期に交流 http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1384516728/ 豊臣秀次切腹に新説…秀吉は命じず、身の潔白訴え自ら切腹か 国学院大准教授が「太閤記」に疑義 2013.11.17 20:54 (1/3ページ) 豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥(おい)の関白秀次が邪魔になって切腹させた−。 こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し、 「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を打ち出した。 秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。(ry 切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、 儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。 文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付がある。 矢部准教授はこの日付について、「京都から高野山までは約130キロの距離がある。 登り坂も厳しく、歩いて3日はかかる。 13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。 そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へあてた書状に着目。 そこには「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されていた。 「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」 また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7月16日条には、 「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと候のよし申すなり」とある。 矢部准教授はこの「切らせられ」という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘。 秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹したとみている。(ry http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131117/wlf13111720580036-n1.htm 朝鮮通信使を「世界記憶遺産」にttp://news.rcc.jp/?i=21844#a こちらは、江戸時代に来日した使節団=朝鮮通信使を再現したものです。呉市下蒲刈にも立ち寄り、広島でも馴染みの深いこの歴史的な事実を、ユネスコの「世界記憶遺産」に登録しようという動きがあります。 日本と韓国の民間レベルによる取り組みで、冷え込む日韓関係の改善につながれば、との思いも込められています。 韓国の伝統衣装に身を包んだ人たち。17日平和公園で朝鮮通信使の行列が再現されました。 (広島市民)「こんなにきれいなんかと、びっくりしました。初めて見たんですよ」 参加したのは、在日韓国人と、日本人。日韓の相互理解を深めようと、広島市のNPO法人が企画しました。 (民団青年会県地方本部 ソン・タルジョンさん)「今はちょっと日韓関係が冷え込んでいる中ではあるんですけれども、僕らから友好関係を築けていけたらという、小さい力なんですけれども、そういった思いでやらせていただきました」 (日本人の参加者)「楽しかったです。(―チマチョゴリは着てみてどうですか?)すごい、意外と薄いので寒いっていうのが…」 今からおよそ4百年前の江戸時代に始まり、鎖国をしていた日本に12回にわたって派遣された朝鮮通信使。帆船を中心としたその行程はソウルから日光までおよそ4千キロに及びました。 その途中には、呉市下蒲刈や福山市鞆にも立ち寄り、地元の人々に手厚くもてなされたといいます。 (広島大学 戸田常一教授)「当初はやっぱり日本の事情を偵察する、徳川の幕府になったけど、これ、本当に大丈夫なんかと。憧れ、物珍しさもあるでしょう、滞留によって色々な文化交流があったと」 歴史的な意義について考える集会も開かれました。ttp://news.rcc.jp/rccnews/data/21844.jpg 日韓の研究者たちは朝鮮通信使が、政治や文化の交流に大きく貢献したと指摘。歴史的な書物や絵画を対象にしたユネスコの「世界記憶遺産」に値すると強調しました。 (韓国プサン大学 ハン・テムン教授)「相手に対する無知と偏見を克服し、相互理解の友好関係を形成した国際外交史上、まれな文化使節団と思います」 (朝鮮通信使縁地連絡協議会 阿比留正臣事務局長)「朝鮮通信使をユネスコ登録しよう、記憶遺産に登録しようという話を持ちかけて、両方がですね、で、握手をしたら、そこからまた、たぶん政府が動き出すんじゃないかなと」 朝鮮通信使の「世界記憶遺産」登録をめぐっては、日韓双方で超党派の国会議員団も結成されています。 通信使とゆかりの深い広島としても、登録に向けた動きが気になるところです。[2013.11.18 19:29]ttp://news.rcc.jp/rccnews/data/21844_L.asx 女子短大と吉野ヶ里公園が協定ttp://www.nhk.or.jp/lnews/saga/5083227611.html?t=1385427970683 佐賀市の佐賀女子短期大学が吉野ヶ里歴史公園のイベントの企画など、さまざまな面で協力していくことになり、 双方の関係者が協定を結びました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/saga/5083227611_m.jpg 佐賀女子短期大学と吉野ヶ里歴史公園については、これまでも、公園側が学生の課外教育の場として園内の施設を 提供するなど、協力関係にありました。 25日は協力をさらに強化するため、佐賀女子短大で協定の調印式が行われ、双方の関係者が協定を交わしました。 協定では、短大で行われている教育と、公園の企画・運営をうまく結びつけて双方の取り組みを充実させる狙いがあります。 今後の取り組みとしては食育を学んでいる学生が公園で栽培されている赤米などを使った新商品づくりに関わったり、 福祉を学んでいる学生がお年寄りも楽しめるイベントを提案したりすることなどが想定されています。 学生にとってはこれまで以上に吉野ヶ里歴史公園でのフィールドワークが充実するほか、公園側にとっては公園の 魅力を高める効果が期待されています。 吉野ヶ里歴史公園の國分慎一管理センター長は「若い学生の皆さんの視点を生かした提案を期待したい。 魅力的な公園づくりのために力になってほしい」と話していました。 佐賀女子短大では、来年度からの取り組みとして開始できるかどうか、カリキュラムの検討などを進めることにしています。 11月25日 18時25分 http://www.47news.jp/CN/201311/CN2013112701001016.html 奈良・法隆寺の土塀に「殺すぞ」 国重文、修復困難 世界遺産・法隆寺(奈良県斑鳩町)の国重要文化財の土塀「西院大垣」に、 「殺すぞボケ」「ヒマやね」と刻んだ落書きが見つかったことが 27日、奈良県教育委員会への取材で分かった。 西院大垣は国 の五重塔や金堂のある「西院伽藍」の東南西の3方向を囲む築地塀。 落書きされたのは西面で、地上から約1メートル付近に二つの落書きがあった。 ドライバーなど先のとがったもので引っかいたとみられ深さは最大約6ミリ。 西院大垣は、土を重ねては突き固める「版築」と呼ばれる工法で作られており、塗り直すことはできない。 2013/11/27 10:39 【共同通信】 http://img.47news.jp/PN/201311/PN2013112701001048.-.-.CI0003.jpg 法隆寺の土塀に刻まれた落書き=27日午前、奈良県斑鳩町 佐賀藩ゆかりの磁器など発見ttp://www.nhk.or.jp/lnews/saga/5083320151.html?t=1385593959297 佐賀市兵庫北の土地区画整理事業に伴う文化財の発掘調査で、江戸時代に佐賀藩が幕府に献上していた鍋島焼の 器などが数多く見つかりました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/saga/5083320151_m.jpg 佐賀市教育委員会では、「この地域に居住していた佐賀藩の関係者の所有品の可能性もあり、佐賀藩の歴史を知る 上で貴重な資料だ」としています。 佐賀市教育委員会は平成13年から8年間にわたって佐賀市兵庫北の土地区画整理事業の土地、およそ16万平方 メートルで文化財の発掘調査を行いました。調査では江戸時代の遺跡が見つかり、遺跡からは多数の焼き物などが出土しました。 このうち、素焼きの焼き物については、品質や焼き方などから、佐賀藩が幕府に献上していた献上品の素焼きと 同じものとみられています。これらの素焼きは破片も含めると数千点にのぼっています。 また、佐賀藩の御用窯で焼かれた鍋島焼の磁器や佐賀藩の医学校だった「好生館」の文字が入った磁器もあります。 発掘調査が行われた地域には佐賀藩士が住んでいたという江戸時代の文献があることなどから、 佐賀市教育委員会では出土した焼き物は佐賀藩の関係者が所有していた可能性もあるとしています。 佐賀市教育委員会は「佐賀藩の歴史を知る上で貴重な資料だ」と話しています。これらの出土品は今月30日から 佐賀市の佐賀城本丸歴史館で公開されることになっています。11月27日 18時56分 百間川改修へ江戸時代の石垣を視察ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20131127_7 百間川が旭川から分かれる部分の石組みは、江戸時代に作られたものです。 その石組みを今後どのように保存すべきか、専門家会議が開かれ、27日現地を視察しました。 これが江戸時代、津田永忠が築いた荒手と呼ばれる石組みです。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20131127_7.jpg 百間川が旭川から分かれた部分に2つ設けられていて、旭川の水量が増えたとき、水の勢いを弱める役割をします。 27日の視察には、土木や歴史の専門家5人が参加しました。 岡山河川事務所は百間川の改修を進める方針で、この歴史遺産をどのように残すのか検討しようというものです。 百間川の石組みは大水が出た際、壊れやすい構造をしていて、その都度修復を繰り返してきました。 今後の改修で27日の形を残したまま、壊れにくい石組みにするというのがポイントになります。 専門家委員会は、来年3月までに地元の住民などの意見も聞き、改修案を作成する方針です。 美作国1300年を記念して街道歩きttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20131130_2 建国1300年を迎えた岡山県北の美作国に残る街道沿いを散策するイベントが勝央町などで開かれています。 勝央町役場で出発式が行われた「美作国街道歩き」には津山市や美作市などから、およそ50人が参加しました。 この街道歩きは、美作国建国1300年を記念して、津山市など、美作エリアの歴史や自然をめぐるイベントです。 4月に新庄村で始まったイベントも、勝央町と美作市の宿場などを訪れる今回が最終コースとなります。 参加者たちはガイドからの説明を聞き、宿場町としてにぎわっていた地域の歴史を感じていました。 「尾張徳川家の至宝」に来場者12万人(2013年11月29日 13:54)ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=10209 九州国立博物館で開催中の「尾張徳川家の至宝」の入場者が、29日12万人を突破しました。 12万人目の来場者は、広島市から友人と訪れた奈良春香さんで、九州国立博物館の三輪嘉六館長から記念品が 贈られました。 尾張徳川家ゆかりの品約230点を展示しているこの特別展は来月8日まで開催です。 「尾張徳川の至宝」 12万人突破TNC 2013/11/29 17:00:00 九州国立博物館で開かれている「尾張徳川家の至宝」展の来場者数が29日12万人を突破し、記念のセレモニーが行われた。 12万人目の来場者となったのは広島県から友人と訪れた女性で記念品が贈られた 納屋で見つけて玄関に…戊辰戦争の砲弾だった http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131201-OYT1T00201.htm 30日午後、北海道美唄市カーウシュナイの民家で、玄関に砲弾(直径約10センチ、 長さ約18センチ)が置いてあるのを、消火栓の点検で地域を回っていた消防隊員が発見し、美唄署に通報した。 同署から連絡を受けた陸上自衛隊員が午後9時20分頃、砲弾と確認して回収した。 戊辰戦争(1868〜69年)に使われた「4斤砲弾」とみられ、砲弾に信管はなく、爆発の危険は無かった。 発表によると、この家に住む無職女性(84)が昨年8月頃、自宅納屋で砲弾を見つけたが、 何かわからないまま、玄関に置いていた。自宅を訪れた消防隊員に確認を依頼し、砲弾とわかった。 別府で官兵衛ウォーク始まるttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073317031.html?t=1386024774566 来年のNHKの大河ドラマ、「軍師官兵衛」にあわせて、別府市内に残る黒田官兵衛ゆかりの史跡もPRしようと、 戦が行われた場所などを散策するウォーキングツアーが別府市で始まりました。 来年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公黒田官兵衛は、関ヶ原の戦いの2日前に、今の別府市で大友義統の 軍勢と戦い、市内にはこの「石垣原の戦い」に関わる史跡が残されています。 大河ドラマが放送されるのに合わせて、別府市で町歩きツアーを運営している別府八湯ウォーク連絡協議会は、 先月から新たに石垣原の戦いに関わる史跡を巡るウォーキングツアーを始めました。 ツアーでは、事前に研修を受けたガイドが、黒田軍が陣を構えた山や相手方のの大友方の武将をまつった神社など、 6か所を回るコースをおよそ2時間かけて案内します。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073317031_m.jpg ツアーは事前の申し込みが必要で、毎月、第3土曜日に行われます。参加費は大人700円、小学生350円です。 別府八湯ウォーク連絡協議会は、「地元の人はもちろん、観光客にも参加してもらい、温泉だけではない別府の魅力を 知ってもらいたい」としています。12月02日 18時46分 小笠原文庫の紹介展ttp://www.nhk.or.jp/lnews/fukuoka/5013515131.html?t=1386144688414 小倉小笠原藩の資料を集めた福岡県の指定文化財、小笠原文庫を紹介する展示会がみやこ町で開かれています。 小笠原文庫は、小笠原家や小倉藩に伝わる資料からなり、平成17年に福岡県の有形文化財に指定されています。 展示会は、貴重な資料を多くの人に知ってもらおうと、小笠原文庫の管理をしているみやこ町歴史民俗博物館が 企画したもので、会場には、資料のうちのおよそ30点が展示されています。 この中には、江戸時代後期に描かれた、城下町に住む町人たちの名前が書き込まれた「小倉城下絵図」や小笠原家の 由緒などが書かれた御当家末書など、貴重な資料もあります。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/fukuoka/5013515131_m.jpg また、縦3メートル、横4メートルの大きさの元禄時代の豊前の国の地図、豊前国絵図の複製が床に貼られ、 訪れた人たちは、現在の地域の様子と比較しながら見学していました。 訪れた人たちは「当時とは海岸線の様子が異なっているのがよく分かりました」、 「昔の人の丹念な仕事ぶりに感心しました」などと話していました。 この展示会は、今月8日までみやこ町歴史民俗博物館で開かれています。12月04日 12時20分 隠岐国分寺で奈良時代の建物跡ttp://www.nhk.or.jp/lnews/matsue/4033550371.html?t=1386147855383 隠岐の島町の隠岐国分寺の境内で行われている発掘調査でおよそ1300年前の奈良時代の隠岐国分寺の大型の 建物とみられる跡が見つかりました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/matsue/4033550371_m.jpg 隠岐の島町にある隠岐国分寺では昭和25年に再建された本堂が平成19年に火災で焼失し再建予定地で隠岐の島町 教育委員会が発掘調査を行ってきました。 去年の調査では金堂の跡が見つかりましたが、この西側でことし8月上旬から発掘調査を行ったところ奈良時代に 作られたとみられる大型の建物の跡が見つかりました。ここでは3メートルの等間隔で柱の跡が4か所見つかり 2階建てのお経を納める経楼か鐘つき堂の鐘楼ではないかとみられています。 また、建物跡の近くには盛り土があり、(もりど)寺の境内を囲う築地塀の一部とみられます。 発掘調査をした隠岐の島町教育委員会は「島根県内の古代寺院の跡の発掘調査で経楼か鐘楼の跡が見つかるのは これが初めてとなる。今後も調査を進め、遺跡の範囲などを明らかにしたい」と話しています。 隠岐の島町教育委員会では12月7日に現地説明会を開いて調査結果を報告することにしています。 12月04日 11時01分 官兵衛みやげ館 オープンttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073393421.html?t=1386198098504 来年の大河ドラマ、「軍師官兵衛」の放送が決まったことで観光客が大幅に増えている中津城の一角に地元の特産品 などを販売する施設がオープンしました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073393421_m.jpg 「黒田官兵衛みやげ館」と名づけられたこの施設は、中津市などで作る「軍師官兵衛」推進協議会がおよそ900万円を かけて中津城の公園の一角に建設しました。 4日は関係者20人余りが参加して式典が開かれ、新貝正勝市長らがテープカットをしてオープンを祝いました。 来年の大河ドラマ、「軍師官兵衛」の放送が決まったのを受けて、中津城の周辺には大勢の観光客が訪れていますが、 地元の特産品を販売する店がなかったことから、この「みやげ館」が建設されることになりました。 「みやげ館」の運営は中津市の土産物店で作る協同組合が担当し、広さ81平方メートルの店内では中津市の代 表的な土産物の「ういろう」をはじめ、官兵衛にちなんだ「どら焼き」や「もなか」などのお菓子のほか、特産のヒメガイや 焼きエビなどの海産物も販売されています。 中津市土産品販売協同組合の殿畑安司さんは「多くの品をそろえました。観光客の皆さんにきっと満足して頂けると 思います」と話していました。12月04日 12時30分 小笠原藩の資料展ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5023509361.html?t=1386204913009 小倉小笠原藩の資料を集めた福岡県の指定文化財、小笠原文庫を紹介する展示会がみやこ町で開かれています。 小笠原文庫は、小笠原家や小倉藩に伝わる資料からなり、平成17年に福岡県の有形文化財に指定されています。 展示会は、この貴重な資料を多くの人に知ってもらおうと小笠原文庫の管理をしているみやこ町歴史民俗博物館が 企画したもので、会場には、資料のうちのおよそ30点が展示されています。 この中には、江戸時代後期に描かれた城下町に住む町人たちの名前が書き込まれた「小倉城下絵図」や小笠原家の 由緒などが書かれた御当家末書など貴重な資料もあります。 また、縦3メートル横4メートルの大きさの元禄時代の豊前の国の地図、豊前国絵図の複製が床に貼られ訪れた人 たちは現在の地域の様子と比較しながら見学していました。 訪れた人たちは「当時とは海岸線の様子が異なっているのがよく分かりました」 「昔の人の丹念な仕事ぶりに感心しました」などと話していました。 この展示会は、今月8日までみやこ町歴史民俗博物館で開かれています。12月04日 18時40分 地下鉄「黒田官兵衛号」出発式ttp://www.nhk.or.jp/lnews/fukuoka/5013538501.html?t=1386230536608 来年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送が始まるのを前に、福岡市の地下鉄で、官兵衛を演じる岡田准一さん の写真をあしらった「黒田官兵衛号」の運行が始まりました。 「黒田官兵衛号」は、福岡藩の礎を築いた黒田官兵衛の生涯を描く大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送が始まるのを前に、 5日から運行が始まりました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/fukuoka/5013538501_m.jpg 地下鉄の福岡空港駅では、出発を祝うセレモニーが開かれ、小川知事が「まさに車両全体が官兵衛づくし。 官兵衛号が皆様に愛され、大いに盛り上がることを期待している」とあいさつしました。 「黒田官兵衛号」は、主役の官兵衛を演じるV6の岡田准一さんの写真が車体にあしらわれているほか、すべての 車内に官兵衛の功績や人柄などを紹介する広告が掲示されています。 「黒田官兵衛号」は、福岡市の地下鉄の空港線と箱崎線で、今月25日まで、1日平均12本が運行する予定です。 また、千代県庁口や大濠公園、西新の各駅にはそれぞれの駅の周辺にある官兵衛にちなんだ史跡などを紹介する 地図も、5日から1年間掲示されます。12月05日 12時20分 高松市 古代山城屋嶋城を発掘調査ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20131205_6 発掘の行われている、高松市の古代山城屋嶋城の今年度の調査成果の検証のため、専門家が現地を視察しました。 高松市の屋嶋城は7世紀後半、日本の大和朝廷が唐・新羅からの侵攻に備えて築いた古代山城で、2008年度から 城壁の石垣を積みなおす復元工事が進められています。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20131205_6.jpg 復元工事に伴う今年度の発掘調査では、城の門にあたる場所から柱の跡が3ヶ所見つかりました。 調査結果の検証のため、発掘現場を訪れた考古学の専門家などからはそれぞれの柱の跡の間に、 これまでの遺跡には余り類の無い大きな段差があることから、当時の城の門の構造については、 建築学的な視点からも考えていくべきとの意見が出されました。 屋嶋城の復元工事は、来年度に北側にある城壁の整備が行われ、2015年度中に一般公開が始まる予定です。 地下鉄で“黒田官兵衛”をPRTNC 2013/12/05 19:00:00ttp://www.tnc.co.jp/data/news/photo/676190.jpg 福岡にゆかりの戦国時代の軍師・黒田官兵衛を広くPRしようと、福岡市交通局は「黒田官兵衛号」の運行を始めた。 ヘッドマークなどがあしらわれた車両は12月25日まで空港線・貝塚線で運行。 「よみがえる佐賀城」展ttp://www.nhk.or.jp/lnews/saga/5083458441.html?t=1386319834842 かつての佐賀城の様子を伝える豪華な道具や掛け軸などを集めた展覧会が6日から佐賀市の佐賀城本丸歴史館で 始まりました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/saga/5083458441_m.jpg この展覧会は今から400年余り前に築かれた佐賀城の当時の様子を知ってもらおうと6日から始まりました。 会場の佐賀市の県立佐賀城本丸歴史館には佐賀城で使われていたとされる箱や建具、それに城の内部の様子を 描いた掛け軸などの資料16点が展示されています。 このうち佐賀藩の第9代の藩主、鍋島斉直の隠居中の姿を描いた掛け軸は2段に重ねられた畳の上に座る姿や脇に 置いた儀式用の太刀などが藩主だった斉直の威厳を感じさせます。 会場にはこの掛け軸に描かれたものと同じ藩主の太刀の拵も展示され、さややつばに施された華やかな金の家紋が 訪れた人の目を引いていました。 また、想像上の動物「麒麟」をかたどった青磁の置物は、今の伊万里市大川内山にあった佐賀藩の窯で焼かれたもので 発色が美しく堂々と力強い体つきが見事な作品に仕上がっています。この展覧会は来月13日まで開かれています。 12月06日 12時36分 官兵衛PRに和傘寄贈ttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073595741.html?t=1386371150461 来年の大河ドラマ、「軍師官兵衛」にちなんで中津市のPRに役立てて欲しいと黒田家の家紋などを書き込んだ 手づくりの和傘が市に寄贈されました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073595741_m.jpg 和傘を寄贈したのは中津市の和傘工房で、6日は工房の代表ら3人が中津市役所を訪れました。 そして、来年の大河ドラマ、「軍師官兵衛」や中津市が黒田官兵衛ゆかりの地であることをPRするのに役立てて 欲しいと、新貝正勝市長に黒田官兵衛にちなんだ手づくりの和傘を手渡しました。 寄贈された和傘は官兵衛が愛用した赤合子と呼ばれる独特のかぶとにちなんで赤い色の和紙が使われており、 傘の表には藤のつるをあしらった藤巴と呼ばれる黒田家の家紋や中津市が公募して採用した「中津で天下の夢を 見た」というキャッチコピーなどが書き込まれています。 傘を手に取った新貝市長は「とても軽いですね」と答えていました。中津市ではこの和傘を市役所の玄関ロビーに 展示するほか、イベントで活用するなどしてPRに役立てることにしています。12月06日 18時47分 中津市で黒田サミットttp://www.nhk.or.jp/lnews/oita/5073456631.html?t=1386458678086 来年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送を前に、黒田官兵衛ゆかりの全国5つの市が集まって交流する 「黒田サミット」が中津市で開かれました。 「黒田サミット」は中津市や福岡市、兵庫県姫路市など黒田官兵衛ゆかりの全国5つの市が官兵衛を主人公にした 大河ドラマの誘致を目的に開いてきたものです。 会場の中津文化会館で5つの市の市長などによるパネルディスカッションが開かれ、来年の大河ドラマ「軍師官兵衛」を いかした観光戦略などについて意見を交わしました。 この中で、福岡市が市営地下鉄で官兵衛をPRするための列車を運行していることを紹介したほか、黒田家発祥の 地の滋賀県長浜市は来年1年間にわたって官兵衛をPRする博覧会を開くことなどを報告しました。 このあと「軍師官兵衛」で豊臣秀吉の正室「おね」を演じる黒木瞳さんとドラマを担当するNHKのチーフ・ディレクター のトークショーが行われました。 この中で黒木さんが秀吉が長浜城の城主になって喜ぶシーンで、手をたたいて「おめでとう」と言ったところ、時代考証の 担当者から「当時は、そういった習慣はない」と指摘を受けたことなど、撮影の裏話などを披露しサミットを盛り上げました。 サミットに参加した5つの市は今後もさらに交流を深め黒田官兵衛をいかして地域振興に取り組んでいくことにしています。 12月07日 18時56分 官兵衛の子孫ら築城町訪問ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5023568371.html?t=1386547237710 来年のNHKの大河ドラマの主人公、黒田官兵衛の子孫らの一行が、官兵衛に対抗した宇都宮一族ゆかりの築上町を 訪れ、400年の時を超えて交流を深めました。ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5023568371_m.jpg 築上町を訪れたのは、官兵衛の子孫で黒田家のいまの当主の黒田長高さんのほか、官兵衛の出身地とされる 兵庫県姫路市や黒田藩のおひざ元の福岡市の関係者などおよそ60人です。 一行は、およそ400年前に宇都宮一族が黒田勢を迎えうった古戦場を訪問し、黒田さんは、よろい姿で出迎えた 地元の人たちと固い握手を交わしました。 また、宇都宮一族の山城の跡では、狭くて険しい山道を実際に歩いて、当時の城攻めの難しさに思いをはせました。 訪れた人たちは「険しい地形で黒田勢も攻めあぐんだのがよく分かりました」とか、「400年の恩讐をこえて地元の人 たちと和解できてよかったです」などと話していました。 このあと、一行は、宇都宮一族の菩提寺の天徳寺を訪れ、墓前に線香を供えて戦で亡くなった人たちをしのんでいました。 12月08日 19時05分 【福岡】小倉城庭園で「武家の調度」展12/08 16:24 更新ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0005.html 江戸時代に嫁入り道具として作られた豪華な家具を集めた展覧会が、北九州市で開かれています。 江戸時代、小笠原家の娘が黒田家の三代藩主に嫁ぐ際に持参したとされる箪笥。蓋には黒田家の藤巴紋と 小笠原家の三階菱紋が描かれ、中には源氏物語が入っています。 小倉城庭園で開かれている企画展には、江戸時代に発達した武家の調度品、およそ100点が展示されています。 日常使う身の回りの道具、調度品。江戸時代の大名家の婚礼には豪華な調度品を揃えることが習わしとされていました。 主催者は「現代の婚礼道具と同様に親が子どもに心を込めて持たせた当時の調度品の魅力を感じてほしい」と話しています。 2013/12/14 【社会】弥生時代に鉄精錬の可能性…壱岐に地上炉跡 http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1387025111/ 弥生時代に鉄精錬か、壱岐に地上炉跡 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1402M_U3A211C1CR8000/ 長崎県壱岐市教育委員会は14日、弥生時代の環濠集落跡「カラカミ遺跡」(壱岐市)で、鉄生産用の地上炉跡 が見つかったと発表した。弥生時代の地上炉跡は国内で初めての発見。専門家は、弥生時代には明確に 確認されていない精錬炉の可能性があると指摘、市教委は今後も調査を進める。 市教委によると、炉跡は弥生時代後期(紀元1〜3世紀ごろ)のもので、少なくとも6基が見つかった。 床面に直径約80センチの範囲で焼けた土が広がっており、床面に直接炉を作る「地上式」と確認した。 国内で確認されている炉は地下式で、カラカミ遺跡の炉は韓国の遺跡に見られる精錬炉跡に似ている。 周辺からは鉄製品の加工時に発生する鉄片は見つかっていないため、鉄自体を精錬していた可能性があるという。 日本では6世紀後半ごろ鉄の精錬が始まったとされている。 九州大の宮本一夫教授(考古学)は、出土状況などから「精錬炉の可能性がある。そうであれば、弥生時代に 鉄を生産していた重要な遺跡だ」と述べている。 これまでカラカミ遺跡では、炉に風を送る管や鉄の棒、鉄の「やじり」なども出土。市教委は「大陸から入った鉄を 加工したか、ここで精錬したかは、さらに調べたい」としている。 壱岐市には「魏志倭人伝」に記された「一支(いき)国」の王都とされる「原の辻遺跡」もあり、カラカミ遺跡も 一支国の集落だったとされる。〔共同〕 国内初、壱岐で鉄生産の地上炉跡 カラカミ遺跡、弥生時代に精錬か http://www.fukuishimbun.co.jp/nationalnews/CO/main/784145.html http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news4/photos/PN20131214/PN2013121401002454.-.-.CI0003.jpg 長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で見つかった鉄生産用の地上炉跡(同市教委提供) 製鉄用の地上炉跡、壱岐・カラカミ遺跡で国内初確認 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/history/20131214-OYS8T00491.htm http://kyushu.yomiuri.co.jp/photo/20131214-551034-1-L.jpg 地上炉跡付近を右手で示す壱岐市学芸員(14日、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で) これまで国内各地で確認されている鍛冶炉は地面に穴を掘ったものだが、今回は韓国南部の遺跡などにみられる精錬炉跡に似ているという。 市教委は「カラカミ遺跡では鉄素材が多く出土していることからも、精錬炉だった可能性がある」と指摘。 朝鮮半島から1次素材を輸入し、本土へ鉄を供給する中継交易拠点だったと推測している。 国内初鉄の地上炉跡、壱岐・カラカミ遺跡から 弥生後期、精錬か http://www.nishinippon.co.jp/nnp/nagasaki/article/58215 http://www.nishinippon.co.jp/import/nagasaki/20131215/201312150001_000.jpg カラカミ遺跡で見つかった鉄を生産した地上炉の跡=14日、長崎県壱岐市 一帯からは鉄をたたいたり、研いだりしたとみられる石が出土した。中国や朝鮮半島で使われなくなった鉄製品など を炉で溶かし、鉄の棒や板、武具や農具に加工して本土に送っていたとみられる。国内で鉄の精錬が始まったのは 6世紀以降とされ、精錬炉と確認されれば定説が見直される。 松山城で舞を披露ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004080541.html?t=1388801209892 国の重要文化財、松山市の松山城では芸者たちが華やかな舞を披露し、大勢の観光客が楽しんでいました。 この催しは、松山市内の芸者の団体「松山検番」が観光客に正月の華やかな雰囲気を楽しんでもらおうと毎年、 開いています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004080541_m.jpg 松山城の天守閣2階の広間には、金屏風やあんどんをしつらえた特別の舞台が設けられ、大勢の観光客が集まりました。 黒と赤のあでやかな着物をまとった2人の芸者はまず、松山城や道後温泉など市内の観光名所を織り交ぜた 「松山小唄」に合わせた舞を披露しました。続いて、地元に伝わるお座敷芸「野球拳」が観光客も交えてにぎやかに行われました。 訪れた人たちは、はじめは、舞台に立つのを恥ずかしがっていましたが、芸者たちに促されると、 子どもからお年寄りまで次々と踊りに参加し、「アウト、セーフ」という掛け声に合わせ、じゃんけんを楽しんでいました。 宮崎県から家族で訪れた30代の男性は「ふだん野球はしていますが野球拳は初めてでした。 新年らしい華やかな催しに参加できて楽しかったです」と話していました。01月03日 14時49分 2014/01/04 【地域】奥州藤原氏めぐり新説? 被災地高台移転…掘り起こされた歴史 http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1388846032/ http://sankei.jp.msn.com/life/news/140104/trd14010422240011-n1.htm 東日本大震災の被災地で高台移転事業が本格化する中、 宅地などの造成工事で出てきた遺跡の発掘調査が進んでいる。 多様な年代の遺跡が見つかり、資料の乏しい中近世の空白を埋めるほか、 奥州藤原氏との新たな関係性を示す出土品もあり、歴史の通説を覆す可能性も指摘されている。 岩手県大船渡市三陸町で昨年12月中旬、発掘された戦国時代のものとされる 城館「小出館(こいでたて)」の遺跡発掘調査の説明会が開かれた。 市によると、遺跡からは、鉄粉など製鉄施設の跡や高価な陶磁器、銅銭などが発見され、 担当者も「交易などで富を得た豪族がいたのでは」と推測する。 大船渡市をはじめとする県沿岸部の三陸地方では、めまぐるしく勢力図が 塗り替えられた戦国時代前後の文書などがほとんど残存していない。三陸町でも 南北朝時代以降から江戸時代にかけての歴史は空白のままで、地域を治める豪族の名前すら不明だ。 周辺の他市でも同様に発掘調査が進み、新たな発見が続いている。 2年間で6件の本調査が行われた釜石市では、約7000年前の縄文時代 早期の遺跡が発掘され、地域の歴史を大幅にさかのぼることができた。 なかでも平安時代末期から鎌倉時代の川原(かわら)遺跡は、漆器など 奥州平泉文化を色濃く残しており、この地を治めていた勢力が奥州藤原氏との 交流を持っていたことが明らかになった。加えて、遺跡の年代などから 藤原氏滅亡後も同勢力が独立を維持していたとみられ、藤原氏とともに 没落したとされる通説に疑問を投げかける可能性もあるという。 同じく沿岸の宮古市でも、5〜6世紀の古墳時代の日の出町二(ひのでまちに)遺跡から、 これまで出土していなかった西日本の須恵器などが見つかり、 当時の物流を知る手がかりとなりそうだ。 屋嶋城で新たな城門柱跡ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034114181.html?t=1388904427446 高松市の屋島に築かれた古代の山城、「屋嶋城」の城門の調査で、新たに柱の跡が3つ見つかり、城門の構造を 解明する手がかりになるとして注目されています。 「屋嶋城」は、7世紀に、大和政権が大陸からの侵攻に備えて築いた山城のひとつとされ、高松市教育委員会は、 平成20年度から屋島の山上近くの斜面で見つかった城の門、城門の遺構を復元する工事を進め、 引き続き調査も行っています。 今年度の調査で、これまでに見つかっていた門の柱の跡の北側で新たに3つの柱の跡が見つかりました。 南北の柱の間隔はおよそ5メートルあり、門の両側の柱にあたると見られています。 また、城門は、緩やかな斜面に作られていて、門の扉を開閉することを考えると、城門の内側の床が、 1メートルほど高かった可能性があるということです。 高松市教育委員会は、今回見つかった柱の跡が城門の構造を解明する手がかりになるとして、さらに調査を進め、 平成27年度には、城門の遺構を一般公開したいとしています。01月05日 10時03分 丸亀市が通女の日記を購入ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034114221.html?t=1388972785988 丸亀市出身で、江戸時代の女性文学者として知られる井上通女が江戸での暮らしをつづった日記、「江戸日記」を 丸亀市がこのほど購入し、7日から特別公開されます。 今の丸亀市で生まれた井上通女は、幼いころから和歌や漢学を学んでいたことから京極丸亀藩の2代藩主の母親、 養性院に江戸に呼び寄せられて仕え、数々の江戸文学を残した女性文学者として知られています。 このうち「江戸日記」は、通女が、江戸の生活をつづった日記で、藩邸で暮らす京極家の女性たちの暮らしぶりなどが 細かく描かれ、丸亀市の文化財に指定されています。 これまで個人が所有していましたがこのほど手放したため、市が150万円余りで購入しました。 購入した日記は、通女直筆の原本で、半紙折り48帖あり、墨で消した跡も見られます。 これにより市には「通女三日記」と呼ばれる3つの代表作がそろいました。 丸亀市立資料館の学芸員、大北知美さんは、「文学的にも歴史的にも価値が高く、市の文化財が里帰りできて 喜ばしい」と話していました。今回購入した「江戸日記」は、丸亀市立資料館で、7日から1月31日まで特別公開されます。 01月06日 09時14分 【政治】 日本史、高校での必修化を検討・・・政府 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20140105-OYT1T00994.htm?from=ylist 政府が高校での日本史の必修化を検討していることが5日、明らかになった。 日本史は現在は選択科目だが、海外で活躍する日本人が増える中、自国の歴史を十分に学び、 理解している人材を育成すべきだと判断した。文部科学相が今夏にも中央教育審議会(中教審)に 高校の学習指導要領の改定について諮問する。 教科書検定などを経て、早ければ2019年度から日本史が必修科目となる。 高校の「社会」は1989年の学習指導要領の改定で「地理歴史」と「公民」に分かれ、 「地理歴史」の中で世界史が必修に、日本史が地理との選択制となった。 改定前も日本史、世界史、地理は選択科目だったが、「国際化への対応」を優先した結果、 学校現場で「日本史軽視」の風潮が広がった。 文部科学省によると、現在3〜4割の高校生が日本史を勉強せずに卒業しているとみられる。 黒田官兵衛PRの看板設置ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024373791.html?t=1389402136524 今月から放送が始まったNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公、黒田官兵衛ゆかりの地として知られる岡山県 瀬戸内市に地元をPRする看板などが設置されました。 瀬戸内市長船町の福岡地区は、NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場している黒田官兵衛の祖父が当主だった ころに、黒田一族が住んでいた場所です。 ドラマの放送に合わせて福岡地区をPRしようと、市の担当者や地元の人たちが10日、黒田家の墓所がある「妙興寺」 に集まり、官兵衛をモチーフにしたパネルを境内に設置しました。 パネルには市のオリジナルキャラクター「備前福岡官兵衛くん」が描かれていて、記念撮影などに使えるということです。 このあと市の職員は最寄り駅のJR長船駅に移動し、福岡地区までの距離や方角などを示した観光PRの看板も設置しました。 瀬戸内市産業振興課の若松挙史主査は「大河ドラマをきっかけに、多くの人に福岡地区を訪れてもらいたい」と話していました。 01月10日 20時17分 約100年前の邸宅 一般公開ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024304881.html?t=1389580996628 瀬戸内市長船町で、空き家になっているおよそ100年前に作られた邸宅が地元の人たちの手で再生され12日から 一般公開が始まりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024304881_m.jpg 公開が始まったのは、瀬戸内市長船町福岡地区にある建築からおよそ100年とされる明治時代の大地主が所有して いた木造2階建ての邸宅「仲崎邸」です。 この邸宅は、今月から放送が始まったNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」をきっかけに主人公、黒田官兵衛の祖先に ゆかりがある福岡地区を盛り上げようと地元の人たちなどが修復を進めてきたもので去年11月に完成し12日から 一般公開が始まりました。 このうち1階はお茶などが出来るカフェスペースに、2階は地元、福岡地区と黒田家のつながりを示す年表など歴史に まつわる資料や邸宅に伝わる工芸品などが展示されています。 12日は公開初日を祝い、地元の和太鼓グループが邸宅の庭で演奏を披露したほか、訪れた人たちにぜんざいが 振舞われました。 訪れた女性の一人は「福岡地区の魅力を知ったり、ここから情報を発信できるような場所になることを期待しています」 と話していました。仲崎邸は毎週土曜日と日曜日に公開され、入館料は大人は1人100円、高校生以下無料となっています。 01月12日 12時48分 古代布の材料の刈り取りttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024396611.html?t=1389681742761 「太布」と呼ばれる、古代から使われていた布作りの技術を伝承している那賀町で、13日、材料となる植物の刈り 取りが行われました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024396611_m.jpg 「太布」は、古事記や日本書紀などに登場する布ですが、綿や麻などの普及に伴って今ではほとんど生産されなくなりました。 こうした中、農家の作業として受け継がれていた那賀町では保存会が作られていて、13日はメンバーが、「太布」 の材料となる植物、「コウゾ」の刈り取りを行いました。 コウゾは、長いもので3メートルほどの細長い枝が何本も生えていて、のこぎりを使って刈り取ったあと専用の 蒸し器で蒸して皮をはぎ、繊維から糸作りを行っていきます。 寒い時期に刈り取ると丈夫な糸ができるということで、保存会では、反物やコースターなどの工芸品を、 町の特産品として販売することにしています。 町によりますと、「太布」作りを伝承しているのは全国で那賀町だけだといわれています。 ことしの作業には、地元の18歳の会社員の女性もメンバーに加わって一緒に取り組んでいました。 メンバーに加わった森本優里さんは、「コウゾの刈り取りは太布づくりの最初の工程になりとても大事な作業です。 作業はとても楽しいので、これからも続けていきたいです」と話していました。01月14日 12時50分 松山初の冬日 松山城では・・・ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140115T191430&no=11 15日朝の県内は、冷え込みが強まり、松山では今シーズン初めて最低気温が氷点下となる冬日となりました。 松山の15日朝の最低気温はマイナス0.3度。霜が降りるほどの厳しい寒さとなりました。 そんな中、松山城ではこの寒さに負けない元気な子どもたちの姿が見られました。 15日は、松山城の築城が始まったとされる日で、それを記念して、 市内の持田幼稚園の園児およそ70人が歌を歌うなどして築城412年目を迎えた松山城の誕生記念を祝いました。 松山地方気象台によりますと、15日朝の最低気温は久万高原町でマイナス6.1度を記録したのをはじめ、 県内15の観測地点のうち9ヵ所で氷点下を記録しました。しかし、16日以降はこの冷え込みも緩むということです。 郷土47人偉人紹介の本完成ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034595221.html?t=1390182200859 さまざまな分野で郷土に足跡を残した香川県出身の47人の業績や生き方などを紹介した本が完成しました。 「さぬき・人 ここにあり」というタイトルのこの本は、教育向上のために活動している公益社団法人、「香川県教育会」 が郷土に足跡を残した人物を再発見しようと、小中学校の教師などに執筆してもらって、1冊の本にまとめました。 本はA4版の大きさで、244ページあり、▼江戸時代の発明家で、いまのさぬき市生まれの平賀源内や ▼小説「二十四の瞳」を書いた小豆島生まれの壺井栄など、郷土が生んだ47人の業績や生き方がゆかりの地の 写真や資料、それに年表などを使ってわかりやすく紹介されています。 小学校の低学年の児童にもわかりやすいように、読みにくい漢字にはルビがふってあるほか、難しい言葉には、 本の下に設けられた「言葉のガイド」という欄で、意味や説明が添えられています。 この本は、2000部作成され、県内の小中学校や高等学校、それに図書館や公民館などに配布されることになっています。 01月20日 09時00分 松山城の石垣付近の木を伐採ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004400461.html?t=1390276418831 松山城の石垣に影響を与える恐れがあるとして松山市は石垣の周辺の木の伐採を始めました。 松山城の本丸では、石垣の周辺に植えられた木が大きく成長し、地中に根がはりだして石垣の構造に影響を与える 可能性があることが専門家がおととしまでに行った調査でわかりました。 このため松山市は21日から石垣から5メートル以内にある木の伐採を始めました。 このうち、天守閣の西側に位置する乾門では、市から委託を受けた業者が石垣のすぐ近くまで枝が伸びている木を、 チェーンソーを使って伐採していました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004400461_m.jpg 松山市公園緑地課の兵藤一馬副主幹は、「伐採する木の種類や数を慎重に選ぶことで、生態系にも配慮しています。 今後は老朽化した設備の修理も行い城を保存していきたい」と話していました。 市は21日から2月末までにあわせて190本ほどの木を伐採することにしています。01月21日 12時38分 2014.1.21 19:42松山城本丸周辺の石垣保護のため樹木を伐採 国の史跡に指定されている松山城本丸の周辺できょうから石垣を保護するため樹木を切り倒す作業が始まりました。 広い範囲に及ぶ大掛かりな伐採は今回が初めてです。松山城の本丸周辺にうっそうと生い茂る樹木。 この樹木が、根で石垣を圧迫して壊したり、山火事の際に本丸周辺の重要文化財に延焼する恐れが出てきたため、 きょうから樹木の伐採が始まっています。ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=45562 今日は天守閣西側の乾門近くで作業が行われ、業者が高所作業車で枝を切り落とした後、 幹を一定の長さに切りながら伐採していきました。 伐採するのは石垣から5メートルの範囲にあるアラカシやムクノキなどおよそ190本。 中には高さが30メートルにまで成長した樹木もあるといいます。 伐採作業は来月28日まで行われ、切られた樹木は城山で自然に朽ちるのを待つということです。 高知城の防火訓練ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014484281.html?t=1390548270107 今月26日の「文化財防火デー」を前に、本丸御殿などが国の重要文化財に指定されている高知市の高知城で 消防訓練が行われました。tp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014484281_m.jpg この訓練は毎年、1月26日の「文化財防火デー」の前後に行われているもので、高知城管理事務所の職員のほか、 高知城周辺を管轄する高知市の中消防署、それに地元の消防団などおよそ60人が参加しました。 訓練は国の重要文化財に指定されている本丸御殿の「懐徳館」の玄関付近から出火し、強風にあおられて燃え広 がったという想定で始まりました。 訓練では火事に気づいた管理事務所の職員が消防に通報したり、別の職員がけがをした観光客の避難を手助け したりするなどの初動対応の手順を確認しました。 その後、職員たちは延焼を防ぐため、広場に設置された放水銃で高さおよそ20メートルの天守閣に向けて放水 するなど、通報を受けて駆けつけた消防士らと協力し、消火活動にあたりました。 高知城管理事務所の一圓玄一郎所長代理は「高知城はふだん、火の気はないが、たばこの火の不始末や漏電が あると一気に燃え広がるおそれがあるので、これから一層、注意していきたい」と話していました。01月24日 14時18分 ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014484281.html?t=1390600639481 宇和島城で防火訓練ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140124T183025&no=13 26日の「文化財防火デー」を前に、天守が国の重要文化財に指定されている、宇和島城で防火訓練がありました。 「文化財防火デー」は、1949年1月26日に法隆寺金堂壁画が焼損したことから貴重な文化財を災害から守ろうと 制定されました。 宇和島市でも毎年この時期に宇和島城で防火訓練を行っていて、24日は消防署や城の管理者、そして小学校の 児童など、およそ90人が参加しました。 訓練は、天守西側の山林から出火したとの想定で行われ、管理者らが火災の発生を通報した後、天守にいた人たちが 避難しました。 また宇和島城は消防車が天守まで入れないため、訓練では消防隊が到着するまでの間、管理者らが屋外にある 消火栓を使って消火活動したり、バケツリレーなどを行って天守を火から守る訓練も行われました。 宇和島市ではこのような訓練を通して、防災体制の強化を図りたいとしています。 2014.1.24 20:33国の重要文化財・宇和島城で防火訓練ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=45580 文化財防火デーを前に、国の重要文化財・宇和島城できょう、防火訓練が行われました。 火災報知器鳴らす秒間国の重要文化財の宇和島城では、毎年、文化財防火デーに合わせて防火訓練が行われていて、 消防署や、シルバー人材センターなどのおよそ90人が参加しました。訓練は、城山の山林から出火した想定で始まり、 まず天守を見学していた人が避難した後、初期消火が行われ、地元の鶴島小学校の5年生もバケツリレーで消火を手伝いました。 続いて、駆けつけた消防署員が天守への延焼を防ぐ水幕を張るなど本格的な消火活動にあたり、 参加者らは市の貴重な文化財を守ろうと訓練に真剣に取り組んでいました。 宇和島城で防火訓練(愛媛県)■ 動画をみるtp://w2.rnb.co.jp/nnn/movie/news8784039.html 1月26日の「文化財防火デー」を前に、天守閣が国の重要文化財に指定されている宇和島城で防火訓練が行われ、 参加者が見学者の避難誘導や消火の手順を確認した。ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8784039.html 宇和島城の防火訓練は1月26日の「文化財防火デー」にあわせて宇和島市が毎年この時期に行っていて、 消防や市民ボランティア、それに小学生ら90人が参加した。ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/picture/RNB_40391.jpg 訓練は天守閣近くの山林から火が出たという想定で行われ、はじめに天守閣の管理人が見学者に安全な場所へ 避難するよう促すとともに、非常ベルを鳴らし消防に電話で通報した。 続いて、市民ボランティアがホースで初期消火にあたったほか、横一列に並んだ小学生たちがバケツリレーで 火元の山林に水をかけた。最後に宇和島消防署の隊員が放水し、火災を鎮圧した。 参加者は訓練を通じ避難誘導や消火の手順を確認していた。[ 1/24 12:05 南海放送] 大学入試の超難問 予備校関係者「甚兵衛レベル」の命名理由 偏差値偏重の是正と、大学の序列化解消を目指して1990年にスタートしたのが、現在に続く「大学入試センター試験」である。 高卒レベルの学習達成度を測定することは、共通一次と変わらないが、 利用教科・科目数は私立大を含めた各大学が自由に選択できる仕組みになった。 初年度は国公立大16校・19学部が参加、約43万人が受験した。 この年は団塊ジュニア世代が18歳を迎えた年でもあった。これ以降、1990年代前半に受験戦争がピークを迎える。 そんななか、1990年代には早慶など難関私立大で難問・奇問が続発した。 大学ジャーナリストの石渡嶺司氏がその理由を語る。 「増え続ける受験生から合格者を絞りこむために出題された。 この種のカルトクイズ級の出題は、“甚兵衛レベル”といわれていました。 その理由は学習院大の日本史の問題で、『志賀島で金印を見つけた百姓の名前』を問う問題が出題され、 “そこまで聞くか”と予備校関係者を驚かせたこと。この百姓の名前を取ったのです」 他にも「日本を初めて空襲した米軍中佐の名前」、「八代将軍、徳川吉宗に抜擢された勘定奉行の名前」 といった問題に、受験生は頭を抱えた。 しかしこうした難問・奇問は2005年前後を境に姿を消し、問題は易化を続けているという。 原因は団塊ジュニア世代以降、少子化が進んだこと。 2007年の18歳人口は、ピーク時の半分近い約130万人にまで減少し「大学全入時代」に突入したためだ。 http://www.news-postseven.com/archives/20140126_236377.html 江戸時代検定ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013156781.html?t=1390778545554 江戸時代の土佐藩の歴史に関する知識を試す「江戸時代検定」が26日、高知市で行われ、 歴史ファンが問題に挑戦しました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013156781_m.jpg 「江戸時代検定」は、高知市の土佐山内家宝物資料館が7年前から開いていて、ことしは14人が参加しました。 今回のテーマは「土佐藩の経済のしくみ」で、参加者たちは、江戸時代の土佐藩の商業や金融、 それに経済政策などの分野のあわせて30問に挑戦しました。 このうち、土佐藩が財政赤字を補うために大阪で売ったものは何かを問う問題では、参加者たちは選択肢の中から 正解の「木材」などを選んでいました。 制限時間は40分で、参加者たちはそのあと、資料館の学芸員の解説を聞きながら自分の答えと照らし合わせていました。 「江戸時代検定」は合格や不合格はなく、得点ごとにポイントがたまる仕組みで、 参加者にはポイントに応じて絵はがきや扇子などさまざまな記念品が贈られます。 検定に参加した男性は「地元の歴史の中でも経済や金融はあまりなじみがないので難しかったです。 とても勉強になりました」と話していました。01月26日 19時31分 宇和島・伊達家の馬屋跡発見ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140128T115129&no=14 宇和島市で、宇和島藩主がかつて利用していた屋敷の跡地から、これまで史料などに示されていなかった馬屋跡が 見つかりました。馬屋跡が見つかったのは、宇和島市御殿町の宇和島藩主の屋敷、「御浜御殿」の跡地です。 市教育委員会によりますと、12月11日、住宅建設に伴う試掘調査で、江戸時代のものと思われる遺構が良い状態で 残っていることがわかり、1月14日からさらに詳しく調べたところ、東西におよそ6メートル、南北におよそ5メートルに、 馬屋の柱を支える礎石が14基、確認されました。 屋敷の敷地内から馬屋跡が発見されるのは今回が初めてで、礎石の配置から18世紀後半以降のものと考えられると いうことです。 また「藩」や「御」などの文字が入った陶磁器も出土していて、これらは幕末期に、藩の施設で使用するため作られた ものと考えられるということです。 今治・企画展ここまでわかった能島城ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140131T115939&no=1 かつて村上水軍の城があった、今治市の能島で発掘された出土品などを集めた企画展が、 今治市宮窪町の村上水軍博物館で開かれています。 この企画展は戦国時代にかけて村上水軍の城があった今治市の沖合に浮かぶ能島が、 国の史跡に指定されてから今年で60年を迎えたことを記念し、村上水軍博物館が開いています。 会場には、2003年からおよそ10年に渡って能島で出土した土器や壺など、およそ200点が展示されています。 こちらは、16世紀に作られた備前焼の大甕です。 破片となって埋まっていたものを復元したもので、口の形などから人々が水をためて使っていたと考えられています。 また、1938年に作製され、能島が国の史跡に指定されるきっかけとなった測量図など、貴重な資料も展示されています。 この企画展「ここまでわかった能島城」は、今治市の村上水軍博物館で2月2日まで開かれています。 http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014020201001777.html 重文級の新史料など数万点発見 西南戦争暗号表や慶喜哀訴状 1877(明治10)年の西南戦争で明治政府のナンバー2の右大臣だった岩倉具視が使った暗号表や、 最後の徳川将軍・慶喜が官軍に江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状など 重要文化財級を含む数万点の史料が、江戸―明治の本草漢学塾「山本読書室」跡(京都市下京区)の 土蔵に秘蔵されていたことが2日、分かった。 松田清京都外大教授(日本洋学史)が約2年半調査し、目録を刊行した。 重文級は少なくとも数百点で、このほか、菅原道真直筆の可能性が指摘される9世紀の写経もあり、 新史実の解明が期待できる一大史料群として注目されそうだ。 2014/02/03 02:00 【共同通信】 http://img.47news.jp/PN/201402/PN2014020201001819.-.-.CI0003.jpg 西南戦争で岩倉具視が使った暗号表。円盤を回して文字を変換する仕組み。 円盤の左に岩倉が使ったことが記されている(松田清京都外大教授 >>74 http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014020401002460.html 命令反し西南戦争の秘密文保管 岩倉具視、情報の厳密管理も 京都の本草漢学塾「山本読書室」跡で見つかった、岩倉具視が交わした西南戦争(1877年)の秘密通信文61通は、 岩倉の破棄命令に反して秘書が保管していたことが4日、松田清京都外大教授(日本洋学史)の調査で分かった。 重要文化財級とみられる通信文からは、戦況情報について政府がより厳密に管理する変更案を岩倉が考え、 赤十字が西南戦争の戦傷者を敵味方の区別なく収容する病院を建設しようとした際、水面下で支援していたことも分かった。 山本読書室創立者・山本亡羊の孫復一は岩倉の秘書を務めていた。 2014/02/04 19:23 【共同通信】 http://img.47news.jp/PN/201402/PN2014020401002523.-.-.CI0003.jpg 岩倉具視自筆の「岩公ヨリ参議諸君江贈ル書面草案」(松田清京都外大教授提供) 吉川裕の憂悲とその解消−「twitter」「2ちゃんねる」「遠くから見る推理研名物Q君を想像するの図 〜2004 帰郷〜」を手がかりとして− 吉川裕(東北大学大学院) 吉川裕(一九八四〜)は、佐藤弘夫(一九五三〜)の宗教・学問のうち宗教的側面を主に継承したとされる人物である。 宗教的側面を主に受容した理由については諸説あるが、 吉川の強烈な性欲や、実際の性行為における無能力感や挫折感を原因とするのが一般的である。 本発表では視点を変え、嫌儲板での書き込みにおいて、吉川が 「女で心を満たそうとする人間はやった人数に比例した地獄を目撃する。」と書き込み、 女性が自分を満たしてくれない事への率直な憂悲を吐露していたことに注目する。 この下半身の憂悲を解消すべく吉川が没頭したのが、 折伏活動とそれに伴う漢文能力を駆使した未来の創造であった。 ところが少し前に書き込まれたレス(二○一四)ではそれまでの表現的受容を越えて、内面的に創価学会から大きく影響を受けたことが確認できる。 人生の目標を「出世」とし、憂悲に限らずマンコ等には煩わされない「創価ホモ」の主張は震災以前の吉川は見られないものだった。 本発表では、佐藤弘夫を必要以上に信仰した裕であるが、最近になるにつれて憂悲の忘却・思考停止は創価学会が主に担っていったことを指摘する。 歴史教科書の記述修正=日本の「植民統治」に−台湾 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201402/2014020600873 【台北時事】台湾で2015年に導入する高校の歴史教科書の日本関連の記述が修正されることになった。 日本統治時代(1895〜1945年)の表現を「日本統治」から「日本植民統治」に改めるほか、 旧日本軍の従軍慰安婦については「強要された」という言葉を付け加えて表記することになった。 教育部(教育省)は1月、高校の学習指導要領を改定。来年9月入学の高校1年生から使用する歴史教科書の修正を決めた。 日本関連のほか、「中国」を「中国大陸」に変更することなどが柱。 日本の統治に関しては、李登輝政権以降、インフラ整備の進展など肯定的な評価が定着していた。 同部は「これまで日本時代を美化していた疑いがあり、中立的な描写とした」と変更理由を説明した。 一方、「中国大陸」の表現は「(中国大陸全土を領土とみなす)中華民国憲法の精神に合わせた」と強調している。 年末の安倍晋三首相の靖国神社参拝に始まり、NHKの籾井勝人会長の従軍慰安婦発言、経営委員でベストセラー作家、 百田尚樹氏の「南京大虐殺はなかった」発言、同じく経営委員の長谷川三千子・埼玉大名誉教授の野村秋介氏への追悼文などの記事が英メディアに載らない日はなくなった。 ついに英紙インディペンデント(電子版、2月9日)には「いかに日本のBBC(NHKのこと)が第二次大戦における日本の行いを書き換えているか (How Japan’s ‘BBC’ is rewriting its role in the Second World War)」という見出しの記事が掲載された。 NHKにまで「レビジョニスト(歴史修正主義者)」の烙印が押されてしまった格好だ。 記事のコメント欄では壮絶な歴史論争が繰り広げられている。寝た子を起こすというのはこういうことを言うのだろう。 伊藤博文元首相を暗殺した韓国の独立運動家、安重根の記念館が中国東北部のハルビン駅に開設されたことをめぐって日韓関係が 一段と悪化していることも米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版、2月8日)に掲載された。 第二次大戦で日本はドイツやイタリアと同盟を組み、世界の多くの国々を敵に回して戦った。 先の大戦を正当化しようとすればするほど日本は泥沼にハマり込んで動けなくなり、孤立してしまう。 国際世論の中で日本を悪者に仕立て上げるのが中国の戦略であることは、先に紹介した劉暁明・駐英中国大使の講演を見ても明らかだ。 How Japan’s ‘BBC’ is rewriting its role in the Second World War http://www.independent.co.uk/news/world/asia/how-japans-bbc-is-rewriting-its-role-in-second-world-war-9115827.html http://blogos.com/article/80002/ 宇喜多直家にバレンタインttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025145171.html?t=1392152793948 戦国時代の岡山の武将、宇喜多直家の命日とされる2月14日を前に岡山市北区にある宇喜多家の菩提寺で、 直家を弔う法要が営まれ、歴史ファンの女性などからバレンタインデーのチョコレートがお供えされました。 宇喜多直家は、今の岡山県南部、備前国を治めた戦国武将で、岡山城を築城した息子の秀家とともに岡山の礎を 築いたといわれています。 11日は、岡山市北区磨屋町にある宇喜多家の菩提寺の光珍寺で直家の命日とされている2月14日を前に、 地元の人など70人が集まって法要が営まれました。 参列した人たちは住職がお経を唱える中、焼香をあげて直家の霊を弔っていました。 また、ここ数年は、戦国時代をモチーフにした漫画などの影響で歴史ファンの女性などから霊前にバレンタインデーの チョコレートが供えられるようになり、11日も、およそ50個が供えられていました。 この日のために京都から来たという30代の女性は、「大好きな直家様に気持ちを伝えるためにやってきました。 ここに来ることができてうれしく思います」と話していました。 また、手作りチョコをお供えした岡山市の20代の女性は、「岡山の基礎を築いた直家に敬意を表して参加しました。 の気持ちが伝わるといいなと思います」と話していました。02月11日 19時13分 長宗我部元親像のイメージ図完成 建立団体が知事に報告 「長宗我部元親飛翔之像建立委員会」(宅間一之会長)が高知県立歴史民俗資料館(南国市岡豊町)に設置を計画している、元親の銅像のイメージ図が完成。 同会メンバー6人が14日、高知県庁で尾ア正直知事に報告した。 http://www.kochinews.co.jp/?& ;nwSrl=315617&nwIW=1&nwVt=knd http://uproda11.2ch-library.com/e/e00023126-1392468244.jpg 【写真】長宗我部元親像のイメージ図。やりを掲げ、躍動感にあふれている 高松城跡石垣修理の見学会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035010061.html?t=1392514056636 現在修理が進められている高松市の高松城跡の石垣について市民にもっと知ってもらおうという催しが15日、 高松市で開かれました。400年以上前に作られた高松城跡の石垣は、国の史跡に指定されていますが、 老朽化が進んでいたことから平成11年から修理が続いています。 高松市が企画した15日の催しには大人から子どもまで多くの人が参加し、まず石垣を積み上げる工事を見学しました。 見学では担当者が修理の解説を行い、割れたりして使えなくなった石の代わりに、高松市特産の庵治石を同じ形に 割って使っていることなどを説明していました。 また参加者たちは、庵治石に開けた穴に「矢」と呼ばれる長さ20センチほどのくさびのような道具を差し入れて上から ハンマーでたたいて石を割る作業を石工に教わりながら体験しました。 参加者が割った石は、今後の石垣の修理で外見からは見えない部分の石として使われるということです。 参加した28歳の女性は「思ったより弱い力で割れました。割った石が修理に使われるということでいい記念になりました」と話していました。 02月15日 19時01分 戦国武将の古文書など展示ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025171441.html?t=1392529253985 現在放映中のNHK大河ドラマの主人公、黒田官兵衛や豊臣秀吉など、戦国時代の名だたる武将たちが今の 備前市に伝え残した古文書や工芸品などを紹介する展示会が備前市で開かれています。 この展示会は、備前市の歴史民俗資料館が開いたもので、会場には宇喜田秀家や小早川秀秋など戦国武将10人に まつわる室町時代から江戸時代にかけての古文書や工芸品などの資料、35点を展示しています。 このうち「黒田如水判物」は、慶長5年の「石垣原の戦い」に勝利した黒田官兵衛が、功績のあった家臣に充てた 「褒状」で、後にその家臣は今の備前市に移り住み、この古文書が残されたということです。 また、「羽柴秀吉禁制札」は、毛利勢を攻め込む際に備前に入った秀吉によるお触れで、今の伊部地域に陣を張る ことを禁じています。この展示会は2月23日まで、備前市東片上の「備前市歴史民俗資料館」で開かれています。 02月16日 12時41分 岡山後楽園 藩主の「御舟入跡」公開ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140218_5 岡山市北区の岡山後楽園で、かつて、藩主が舟で訪れる際に利用した船着き場「御舟入」の跡の整備が終わり、 一般公開が始まりました。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140218_5.jpg 御舟入跡は、300年以上の歴史がある岡山後楽園の一角にあり、2011年に発掘されて以来一般公開に向け整備が 進められました。 江戸時代、藩主が岡山城から舟で旭川をわたって後楽園を訪れる際の、船着き場だったといわれています。 今月14日に一般公開が始まり、当時の絵図の通りの場所にその姿を残している船着き場の様子を、 遊歩道から間近に見ることができるようになりました。 一般公開にあわせ、今月20日から岡山県立博物館で、池田家の資料展示も行われます。 津山城跡で発掘調査の説明会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025400521.html?t=1393118556785 国の史跡に指定されている岡山県津山市の津山城跡で、城の構造を確認する発掘調査の現地説明会が開かれました。 今回の発掘調査は、津山市教育委員会が、津山城保存整備事業の一環としてことし1月上旬から、 城の三の丸入り口にあった「冠木門」跡で行っていたもので、門の下に築城時のものとみられる石積みの遺構などが 見つかりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025400521_m.jpg 22日は教育委員会の担当者による現地説明会が開かれ、城の歴史や郷土史に関心のあるおよそ50人が参加しました。 参加者たちは、板状の石材を4段に重ねた石積みの遺構や盛り土などを見学しながら、当時、谷だった場所を平らに するため、大がかりな土木工事が行われていたことを確認しました。 説明会に参加した男性は、「この場所が谷だったということや石段がいつ頃できたかなどいろいろなことがわかり、 勉強になりました」と話していました。この現場は、来月中に埋め戻され、来年度は、冠木門の南側で発掘調査が行われる予定です。 02月22日 19時00分 2・26事件:憲兵幹部「機密日誌」に戒厳司令部との攻防2014年2月25日 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-220137-storytopic-1.html ◇生々しく記録、研究史の空白埋め得る1次史料 日本近現代史上、最大のクーデター未遂となった1936年の2・26事件で、 事態収拾に奔走した憲兵司令部幹部の「機密日誌」が見つかった。 反乱将校を自殺させようとする戒厳司令部と、証人として身柄を確保しようとする憲兵側との攻防が生々しく記されている。 憲兵幹部が記した史料はほとんど知られておらず、研究史の空白を埋め得る1次史料だ。 見つかったのは憲兵司令部の総務部長で、司令官代行だった矢野機(はかる)・陸軍少将(1887〜1992年)の「戒厳機密日誌」。 陸軍けい紙9枚に、事件が起きた2月26日から、28日を除く3月2日まで記されている。 事件発生後、陸軍内部では穏便に決着させようとする長老らと、鎮圧を主張する強硬派が対立。 矢野は自殺させず逮捕するために、陸軍省と参謀本部高官の間を奔走した。 29日の記述では、香椎(かしい)浩平・戒厳司令官が 「叛徒(はんと)タル将校ノ罪ハ大イニ憎ムヘシ、将校ハ全部之(こ)レヲ斃(たお)スヲ適当トス」などと述べ、 逮捕した場合は自殺させるのが適当と主張した。 これに対し矢野は「此ノ機会ニ軍ノ明朗化ヲ期ス、該将校ハヨキ証拠人ナリ」などと主張。反乱将校は自殺した1人を除き、逮捕された。 「日誌」は、ほかの史料などおよそ70件とともに千葉県習志野市の酒屋「張替酒店」で昨年秋に見つかった。 同店は1905年創業で、軍人との交流が深かった。矢野は千葉県出身で地元に縁があった。 加藤陽子・東京大教授(日本近代史)は「戒厳司令部の極論を抑え、反乱将校の逮捕に尽力した 憲兵司令部幹部の動きが分かったことで、事件がより立体的にみえてきた」と話している。 岡山ロータリークラブ記念講演会ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140303_5 「武士の家計簿」の著者で、岡山市出身の歴史学者磯田道史さんの講演会が、岡山市北区で開かれました。 演会は、岡山ロータリークラブの創立80周年を記念して開かれました。 磯田さんは、古文書から江戸時代の市民の暮らしなどについて研究していて、当時の下級藩士の経済状況について 書いた「武士の家計簿」が、映画化されました。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140303_5.jpg 岡山市北区での講演では、歴史上の偉人の生き方から現代社会をよりよく生きるこつについて語り、 「自分が楽しめるような勉強や仕事をすることが大きな成果に繋がる」などと話しました。 岡山ロータリークラブは5日、創立80周年の記念式典を開く予定です。 長宗我部元親の銅像建設へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015592371.html?t=1394088786990 戦国時代に四国をほぼ統一した長宗我部元親の銅像が元親の居城があった高知県南国市に来年、 新たに建てられることになりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015592371_m.jpg 長宗我部元親の銅像は、元親が初陣の勝利を祈願したとされる高知市長浜の若宮八幡宮の境内に現在、 1体が設置されています。 高知県内で2体目となる新たな銅像の設立は、元親の居城、岡豊城跡がある高知県南国市に観光客を呼び込もうと 地元の住民などで作る委員会が企画しました。 銅像は、岡豊城跡近くの県立歴史民俗資料館の敷地内に来年、建てられる予定で、完成予想図では、 四国統一に乗り出した頃の元親が右手でやりを高々と上げている、躍動感あふれるデザインになっています。 銅像の高さは1メートル80センチになる見込みですが、台座は60センチと低くして、観光客などが元親の横に立ち、 写真が撮れるようにするということです。 銅像の設立を企画した委員会の会長で、県立歴史民俗資料館の顧問の宅間一之さんは「元親の居城がある地域に シンボルとなるものがないのはさみしいと思い、企画した。銅像をきっかけに元親ゆかりの地を多くの人に訪れてほしい」 と話しています。03月06日 09時04分 高松城「桜御門」石垣解体ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035793861.html?t=1394349878328 昭和20年の高松空襲で焼失した高松城跡の「桜御門」の復元に向けて、高松市は、ことし10月以降に建物の土台と なった石垣の解体工事に取りかかることにしています。 高松市にある高松城跡の「桜御門」は、両側の石垣に建物をのせる「櫓門」と呼ばれる作りで高松藩主の御殿があった 「三の丸」の正門にあたります。 昭和20年7月の高松空襲で焼失しましたが、去年、奈良市にある奈良国立文化財研究所で屋根の上に、しゃちほこが 取り付けられた「桜御門」の写真が見つかり、高松市は、その写真も参考にしながら復元に向けて文化庁と協議を 続けています。 高松市では建物の復元の前にまず、土台となった高さ4メートルほどの両側の石垣を修復するため、石材の強度 などを調査したあとことし10月以降に、解体工事に取りかかることにしています。 高松市文化財課は、「石垣の石には空襲で変色したものもあるが、なるべく、オリジナルのものを残すようにしたい。 建物については構造の情報が少ないのでほかの城の門の構造も参考にしたい」と話しています。03月09日 09時07分 [艦これ]戦史入門書「公式作戦記録」が初登場2位 [2014/03/06] 「日本海軍『艦これ』公式作戦記録」 6日に発表されたオリコン週間本ランキング(10日付)によると、2月25日に発売された「日本海軍『艦これ』 公式作戦記録」(宝島社)が、約3万3000部を売り上げ、BOOK(総合)部門の2位になった。 「艦隊これくしょん−艦これ−」は、プレーヤーが「提督」となり、戦艦「大和」や航空母艦「赤城」など 旧日本海軍の艦艇を擬人化した美少女キャラクターを育成、謎の敵と戦う人気のブラウザーゲーム。 「公式作戦記録」は、太平洋戦争の日本海軍の戦いについて、「艦これ」のモデルとなった艦艇の編成や損害、 作戦図、コメントなどを付けて解説した戦史の入門書。 http://news.mynavi.jp/news/2014/03/06/009/images/001.jpg http://news.mynavi.jp/news/2014/03/06/009/ 縄文土器づくりで歴史を学ぶttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025953951.html?t=1394935584339 親子で縄文土器づくりに取り組みながら地域の歴史や文化を学ぶ市民講座が、津山市で開かれました。 この市民講座は、「美作国建国1300年記念事業」の一環として、津山市教育委員会が開いたものです。 2回目となる今回は、津山市の「勝北陶芸の里」で、縄文土器を作りながら当時の歴史や技術を学ぶ講座が開かれ、 およそ40人が参加しました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025953951_m.jpg 講座では、くらしき作陽大学非常勤講師の可児道宏さんから当時の縄文土器の使い方などを学んだあと、 ひも状に伸ばした粘土を丸く積み重ねて、土器づくりに取り組みました。 土器の形ができあがると、縄などで土器の表面に模様をつけて仕上げていました。 参加したの女性は、「昔の人たちは、機械がないのに、完全に丸い形の土器を作っていて、すごいと思いました」 と話していました。3月29日の最終回では、15日に作った土器を当時の人たちと同じように野焼きで焼き上げます。 03月15日 19時04分 「篆刻の聖典」捜索に協力して 日中で署名4千人 本山秀樹2014年3月16日09時17分 3年前に日本で行方不明になった中国の篆刻(てんこく)の希少本「西?八家印存(せいれいはっかいんぞん)」を 捜している日中両国の書道家らが、日中両政府に協力を求める約4千人分の署名を集め、程永華(チョンヨンホワ)・ 駐日中国大使に12日、要請文を提出した。 日本の文部科学省などにも近く陳情する予定だ。 清朝後期を代表する篆刻の作家8人の印章601点が収められた世界に1冊しかない本で、「篆刻の聖典」とも呼ばれる。 中国の篆刻結社「西?印社」創設者の一人、丁仁(ティンレン)が20世紀初頭に編集した。 2011年、丁仁の孫娘で埼玉県川口市の会社社長の丁如霞(ティンルーシア)さん(68)から日本の篆刻家が本を借りたところ、 さいたま市のホテルのトイレで紛失し、行方不明となった。 国外に流出し、闇で取引される恐れもあることから日中両政府に協力を求めることにした。 署名は、中国の著名な篆刻家、高式熊(カオシーション)さんや西?印社の関係者らが昨年11月から呼びかけ、 3968人分が集まった。丁如霞さんは「日中で大勢の人が応援してくれ、感激した」と話した。(本山秀樹) http://www.asahi.com/articles/ASG3D4QK0G3DTLTB00C.html 行方不明になっている「西?八家印存」(丁如霞さん提供) http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140312004989_comm.jpg 文字化けの?は「冷」のにすいがさんずい 母校で歴史研究:元日清製粉トップ、関西学院博士課程へ http://mainichi.jp/select/news/20140317k0000e040087000c.html 日清製粉グループ本社(東京)前社長、村上一平さん(69)=東京都大田区=が17日、 関西学院大(兵庫県西宮市)の大学院文学研究科修士課程を修了する。 大企業のトップを退き、念願の歴史研究のため、45年ぶりに母校に戻って約2年。 「博士号を目指し、研究を続ける。人生の最終ステージを悔いのないものにしたい」 大阪市出身の村上さんは中学部から関西学院で学んだ。大学で歴史を学びたかったが、 「親が反対するだろう」と考え、関学大経済学部に進学。 1967年に卒業して日清製粉に入社し、2007年に社長に上り詰めた。 11年3月の退任を前に「歴史を勉強したい」との思いが募った。 大学の後輩で大阪学院大教授の妻睦(むつみ)さん(68)の後押しもあり、猛勉強の末に合格、12年春に入学した。 日本の高度経済成長期における農業政策の歴史的意義について研究した。 会社の特別顧問を務め、東京とキャンパスを往復する日々が続いた。体力的にきつかったが、 授業の後、孫のような同級生と酒を飲んで刺激を受けるなど充実した学生生活だったという。 村上さんは今後も続く学究生活に意欲を見せる。「農業の現場にも足を運びたい。本当の勉強はこれから」 久米通賢の資料が国の重文にttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035931811.html?t=1395178738952 現在の香川県出身で、塩田開発などで知られる江戸時代後期の科学技術者の久米通賢にまつわる資料が、 国の重要文化財に指定されることになりました。久米通賢は、江戸時代後期の科学技術者で、現在の東かがわ市の 出身です。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035931811_m.jpg 香川県内で塩田開発を進めたほか、現在の香川県の地図を初めて製作するなど、多方面で功績を残しました。 国の文化審議会は、18日、通賢にまつわる資料を新たに国の重要文化財に指定することを文部科学省に答申しました。 このうち、「地平儀」は、目標点までの方角を測って距離を調べる計測器具で、通賢が1806年に作ったものです。 また、「星眼鏡」は、通賢が作ったとされる当時としては珍しい木製の天体望遠鏡で、筒の部分は最大で4メートル まで伸びます。 こうした資料、あわせて1061点が、江戸時代の科学技術の歴史を研究する上で価値が高いなどとして、 指定されることになりました。 県教育委員会によりますと、これを含めて香川県内で国の重要文化財は、あわせて120件になるということです。 03月18日 18時52分 高知城のぼんぼり点灯ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013071461.html?t=1395354241101 春休みなどで訪れた観光客を楽しませようと高知城に飾りつけられた280個余りのぼんぼりに20日、一斉に明かりが ともされました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013071461_m.jpg この催しは、本格的な春の観光シーズンを迎える毎年この時期に行われているもので、20日夕方、高知城の 追手門で開かれた点灯式では、関係者がスイッチを押すとぼんぼりに一斉に明かりがともされました。 ぼんぼりは全部で284個あり、城の石段や堀のまわりなどに飾りつけられているほか、サクラの木のすぐそばにも 置かれています。 高知城はソメイヨシノなど6種類、あわせておよそ250本のサクラの木が植えられているサクラの名所で、18日には 全国で最も早くソメイヨシノの開花が発表されました。 訪れた人たちはぼんぼりの淡い光に包まれた咲き始めのサクラを楽しんでいました。 観光で訪れたという20代のカップルは「ぼんぼりがあると知らずに来たので、驚きました。サクラが満開になると さらにきれいだと思うので、夜桜の花見が楽しみです」と話していました。ぼんぼりは5月6日まで毎日、点灯されます。 03月20日 21時02分 備中松山城PRの看板設置ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023130441.html?t=1395446164350 標高430メートルの山の上にあり、高梁市の市街地からも見られるようになった備中松山城をPRしようと、地元の 商工会議所の人たちが看板を設置しました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023130441_m.jpg 天守が現存する山城としては、随一の高さを誇る備中松山城は、年々、訪れる観光客が増えていて、春と秋のお城 まつりも多くの人で賑わいます。 高梁商工会議所青年部では、去年とおととしの2回にわたり、城の周辺の木々の枝打ちを行い、市街地からでも城が よく見えるようになりました。 これを機会に備中松山城をPRしようと21日は青年部のメンバーとゆるキャラの「ヤマジーロ」が、城がよく見える 3カ所に看板を設置しました。 看板は大きいもので縦90センチ横70センチほどあり、「ここから松山城がよう見えるで!」と岡山弁で書かれています。 高梁商工会議所青年部の田中宏和会長は「これから観光シーズンに入りますのでぜひ足を運んでほしいと 思います」と話していました。 青年部では、天空の城として人気を集めている兵庫県朝来市の竹田城にあやかり、備中松山城にも、多くの人が 訪れることを期待しています。03月21日 19時01分 お城下スプリングフェスタ2014(愛媛県http://w2.rnb.co.jp/nnn/news8784287.html 松山市中心部の活性化を図ろうと商店街を散策するウォークラリーイベントなどが行われている。 「お城下スプリングフェスタ2014」は松山市中心部の活性化を図ろうと大街道や銀天街などが一体となって行っているもの。 イベントの目玉は街中に隠された子供たちに人気のキャラクター、「なめこ」を探すウォークラリー。 参加した家族連れらはマップに記されたヒントをもとに「なめこ」を探して歩きながら街の魅力を再発見していた。 また”みきゃん”など地元キャラクターたちと触れ合えるスポットもあり子供たちが一緒に写真を撮るなどして楽しんでいた。 お城下スプリングフェスタ2014は23日まで開催されていて松山まつり野球拳踊りなど様々なイベントが予定されている。 [ 3/21 16:07 南海放送] 商店街で伝統の踊りを披露ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015481091.html?t=1395530797454 高知県に伝わる伝統行事を多くの人に知ってもらおうと、22日、高知市中心部の商店街で江戸時代から伝わる踊りが 披露され、観光客らが勇壮な動きを楽しみました。 この催しは高知県に伝わる伝統行事や祭りについて知ってもらおうと初めて開かれたもので、22日は高知県香南市 山北地区の「山北棒踊り」が披露されました。 江戸時代に土佐藩主から謹慎を命じられ、山北地区にあった屋敷に閉じ込められた家老を慰めようと家臣たちが披露 したのが始まりとされ、県の無形民俗文化財に指定されています。 長さおよそ180センチの棒で激しく打ち合うのが特徴で、白装束に身を包んだ保存会のメンバー20人が独特のかけ 声をあげながら勇壮な踊りを披露していました。 愛知県から観光で訪れたという40歳の女性は「打ち合いが激しく伝統を感じることができました。 たまたま見られたのでよかったです」と話していました。03月22日 17時59分 鳥居龍蔵ゆかりの地を歩くttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023075021.html?t=1395557316932 日本の人類学や考古学の基礎を築いた徳島市出身の人類学者、鳥居龍蔵博士を育んだ町や足跡を歩いて巡る 催しが、23日、徳島市で開かれました。 鳥居龍蔵博士は、明治から昭和初期にかけて東アジア各地の民族の言語や習慣を研究した人類学者です。 23日、行われた催しは、鳥居博士を育んだ徳島の文化などについて知ってもらおうと、博士の功績を伝える博物館が 行ったもので、およそ20人が参加しました。 一行は、徳島市内でたばこ問屋を営んでいたという生家の跡地や、母親の墓などを歩いて巡りました。 散策の途中、学芸員からは、鳥居博士が大正時代に市の中心部の公園にあった貝塚の調査を行った際、当時、 同じく徳島で暮らし、日本文化や徳島を世界に紹介する著書を数多く残した、ポルトガル人の作家、モラエスが調査に 立ち寄って、ことばをかけたという逸話などが紹介されました。 参加者たちは、当時、2人の文化人が交流を持った話などに熱心に耳を傾けていました。 参加した徳島市の40代の女性は、「郷土にすばらしい人がいることを誇りに思うとともに、ふだん聞けないような話を 聞くことができて良い経験になりました」と話していました。03月23日 15時06分 宇和島伊達400年祭シンボルマーク決まるttp://eat.jp/news/index.html?date=20140328T114957&no=8 来年3月から始まる「宇和島伊達400年祭」で使われるシンボルマークが決まりました。 初代藩主の伊達秀宗の兜をモチーフにしたデザインとなっています。 来年、宇和島市で開催される「宇和島伊達400年祭」は、宇和島藩の初代藩主、伊達秀宗が宇和島藩に入城 してから来年で400年を迎えるのを記念して開かれます。 宇和島市では去年12月から、祭りのシンボルマークを全国に募集し、今回、応募のあった300点余りの中から、 香川県丸亀市のグラフィックデザイナー垂水秀行さんの作品が選ばれ、27日、市役所で表彰式がありました。 決まったシンボルマークは、秀宗の兜をモチーフに宇和島の頭文字「U」を兜飾りにして、兜の部分には「伊達」 の2文字を隠したアイデアあふれる作品となっています。 シンボルマークは今後、ポスターや市職員の名刺などに使用され、「宇和島伊達400年祭」のPRに役立てると いうことです。 江戸時代の輿入れ道中再現ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023116091.html?t=1396140092046 江戸時代の華やかな嫁入り行列を再現した「輿入れ道中」と呼ばれる催しが岡山県真庭市で行われ、大勢の見物客で 賑わいました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023116091_m.jpg この催しは、江戸時代後期に今の岡山県倉敷市で塩作りによって財を成した野崎家が今の真庭市の庄屋の娘を嫁に 迎えた際に町を練り歩いたとされる花嫁行列をもとに毎年、この時期に再現されています。 真庭市下中津井地区には、嫁入り衣装をまとった花嫁や、仲人、それに嫁入り道具を運ぶ使用人などにふんした 地元の人たちおよそ40人が集まり、「輿入れ道中」が行われました。 沿道では大勢の見物客が見守る中、行列は陣屋の残る町並みのおよそ500メートルをゆっくりと練り歩きました。 花嫁役をつとめた地元の高野友季さん(26)は「緊張しましたがいい経験になりました」と話していました。 03月29日 19時26分 ジャック・ル・ゴフ氏 90歳(フランスの歴史学者)ル・モンド紙電子版によると、1日、パリで死去。 仏南部トゥーロンに生まれ、パリ高等師範学校に入学。1960年代後半、雑誌「アナール」の編集責任者となった。民衆の生活文化を重視する アナール派の中世史家として知られた。代表作は「中世の夢」、「聖王ルイ」、「アッシジの聖フランチェスコ」など。 http://www.yomiuri.co.jp/obit/20140402-OYT1T50028.html 岡山城天守閣を夜間貸し出しttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023471582.html?t=1396599951258 岡山城の天守閣を管理をしている「おかやま観光コンベンション協会」は、国際的な大会や学会などの歓迎会や 懇親会に利用してもらおうと4月から岡山城の天守閣を夜間の貸し出しを始めています。 岡山市から指定を受けて岡山城の天守閣を管理している「おかやま観光コンベンション協会」は、 国際的な大会や学会などで岡山を訪れた外国の人たちに日本の文化に親しんでもらおうと、 4月1日から天守閣の夜間の貸し出しを始めています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023471582_m.jpg 貸し出しの対象は50人から100人ぐらいの団体の送迎会や懇親会などです。 利用料は参加者1人につき800円で、料理や飲み物を持ち込むことができます。 また、岡山城主、宇喜多秀家と妻の豪姫にふんしたスタッフがおもてなしをする有料のオプションもあります。 「おかやま観光コンベンション協会」によりますと岡山市では、平成24年度に、100人以上の宿泊を伴う国際的な 大会や学会が16件、開かれたということです。 協会の担当者は天守閣をこうした会合に貸し出したいとしていて「ホテルなどの貸し切りでは味わえない、 岡山らしさを楽しめるので歓迎会や懇親会の会場として利用して欲しい」と話しています。 問い合わせは「おかやま観光コンベンション協会」、です。04月04日 12時48分 高松藩の技術者、久米通賢の資料 国重文へttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140405_4 江戸時代の高松藩の技術者、久米通賢にまつわる資料が国の重要文化財に指定されることになりました。 国の文化審議会は江戸後期、高松藩で測量や地図の製作や塩田開発などに携わった技術者・久米通賢の業績が 当時の技術を知る上で学術的な価値が高いとして通賢にまつわる文献や測量の工具など1,061点を重要文化財に 答申したものです。通賢が自作した「地平儀」です。測量に使う道具で角度を調べることができます。 こちらは天体望遠鏡「星眼鏡」です。二段式の望遠鏡で倍率は26倍あります。 このほか通賢が開発した武器なども答申されました。 通賢の資料が国の重要文化財に指定されれば、香川県内での重要文化財は120件になります。 お城まつりで大名行列ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003302841.html?t=1396773758181 松山に春を告げる「お城まつり」は6日、最終日を迎え、メインイベントの「大名・武者行列」では、女優で歌手の すみれさんがお姫様役として登場し、大勢の見物客でにぎわいました。 「お城まつり」は、4日から松山城の周辺で開かれ、最終日のきょうは、昭和42年から続く恒例の「大名・武者行列」 が行われました。 行列には、応募した市民らおよそ200人が参加し、刀や槍を手にした勇ましいよろい姿の男性や、優雅な着物姿の 女性らが、市内中心部の商店街を練り歩きました。 大勢の家来を従えた松山藩主・加藤嘉明公の行列では、女優で歌手のすみれさんがお姫様役を務めました。 日本髪に春らしい華やかな着物姿で登場したすみれさんは、みこしの上から、集まった見物客に手を振ってまつりを 盛り上げていました。 集まった人たちは写真を撮ったり、行列と一緒に商店街をゆっくり歩いたりしてまつりを楽しんでいました。 東京から市内に帰省中だという70代の女性は「武者行列を見るのは初めてでした。ふるさとにも春が来たことを 実感しました」と話していました。04月06日 14時54分 松山春まつり・大名・武者行列ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140406T182818&no=4 松山春まつりは6日最終日を迎え、恒例の大名・武者行列が行われました。 今年は市民らおよそ200人が武将や姫君に扮し、市内中心部のおよそ2・5キロを勇壮華麗に練り歩きました。 今年の大名・武者行列ではお姫様役に石田純一さんの長女で女優のすみれさんが選ばれ、沿道からの声援に 笑顔で手を振って答えていました。 また、関ヶ原の合戦を再現するパフォーマンスなども披露され、迫力のある殺陣に訪れた人たちは歓声をあげていました。 松山春まつり・大名・武者行列ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140406T182818&no=4 松山春まつりは6日最終日を迎え、恒例の大名・武者行列が行われました。 今年は市民らおよそ200人が武将や姫君に扮し、市内中心部のおよそ2・5キロを勇壮華麗に練り歩きました。 今年の大名・武者行列ではお姫様役に石田純一さんの長女で女優のすみれさんが選ばれ、 沿道からの声援に笑顔で手を振って答えていました。 また、関ヶ原の合戦を再現するパフォーマンスなども披露され、迫力のある殺陣に訪れた人たちは歓声をあげていました。 2014.4.6 18:11松山春まつり 大名武者行列ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=46009 松山春まつり最終日のきょう、恒例の大名行列が、繁華街を練り歩き、大勢の見物客で賑わいました。 松山春まつりのフィナーレを飾る大名行列は正午前に松山城ロープウェー乗り場前をスタート、 松山おどりが先導し明治の鹿鳴館時代の行列、江戸時代の松山藩の大名行列が続きます。 今年のお姫様役は、モデルでタレントの「すみれ」さん。沿道を埋め尽くした見物客もあでやかな姿に、 カメラのシャッターをきったり、声援をおくったりしていました。 今年の松山まつりは、きょうで3日間の日程を終え例年どうりの多くの人出で賑わいました。 竜馬暗殺直前の手紙発見=新政府構想に言及、一般家庭で保管 時事通信 4月7日(月)21時22分配信 headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140407-00000131-jij-soci 幕末の志士、坂本竜馬が暗殺される直前に書いた手紙の下書きとみられる文書が新たに見つかったと7日、NHKと高知県立坂本龍馬記念館が発表した。 東京の一般家庭で保管されていたもので、同記念館や京都国立博物館などが鑑定した結果、直筆であることはほぼ確実と判明したという。 「越行の記」と題され、竜馬が京都で暗殺される近江屋事件の前の10日以内に書かれたとみられるという。 本文が739文字あり、土佐藩の後藤象二郎に宛てた手紙の下書きとみられ、大政奉還後の新政府の財政計画や人材について書かれていた。 NHKの番組収録中の街頭インタビューがきっかけで、東京都国立市の家庭のちゃぶ台の下に保管されていたことが分かった。古美術商から買った価格は1000円だったという。 >>113 これ、結構な大発見だよね まだまだ埋れてる史料がある夢を見させてもらった。 >>112 ebcで-た放送news 松山春祭り・大名行列 6日18:12 松山春祭り最終日のきょう、恒例の大名行列が松山 市の繁華街を練り歩いた。今年のお姫様役は、モデル でタレントの「すみれ」さん。沿道を埋め尽くした見 物客はあでやかな姿に、うっとりと見とれていた。 空き町家改修し地域活性化へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033609771.html?t=1397111538253 江戸時代以降の古い町並みが残る香川県宇多津町で空き家となっていた町家を改修し、イベントや宿泊のできる 施設として活用する取り組みが始まりました。 この取り組みは宇多津町が始めたもので、少子高齢化によって増えている空き家の町家を地域活性化に生かそうと いう狙いです。 施設は、アメリカの東洋文化研究家の監修で150年前と80年前に建てられた町家を改修した木造2階建ての和風と 洋風の建物2棟です。 このうち和風の建物は、土間や畳敷きの和室があるほか、大きなはりを生かして一部が吹き抜けとなっています。 一方、洋風の建物は、すべての部屋が板間となっていて広いリビングやテラスもあります。 いずれの建物にも近代的なキッチンやひのき風呂などが備えられ、古い建物を生かしながらも快適に過ごせるように なっています。 この施設は、4月から1棟単位でイベントや宿泊などに有料で貸し出しています。 この取り組みを担当してきた宇多津町職員の蛭子智成さんは「空き家の保存にも地域の活性化にもつながるので 地元の人から遠くの人までいろんな人に使ってほしい」と話しています。04月10日 08時57分 津山市の新キャラに名護屋山三郎ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140410_8 津山市の新しいキャラクターに、美形の武将と伝えられる津山藩に仕えた名護屋山三郎をモチーフにしたデザインが 決まりました。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140410_8.jpg 津山城の伝説を通じて津山を元気にと取り組むグループが、キャラクターのコンテストを開き、鶴山公園で、 最優秀作品が発表されました。 名護屋山三郎は津山藩主森忠政の家来で美形の武将だったと伝えられています。 コンテストには30の作品が寄せられ、選ばれた7作品の中から鶴山公園を訪れた人の投票で、 津山市のペンネーム樋乃光さんの作品が最優秀になりました。 津山市は今後、キャラクターデザインを土産物などに取り入れ、津山城と名護屋山三郎の魅力を広めることにしています。 村上水軍拠点の島 公開ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003663011.html?t=1397289378911 ことしの本屋大賞に選ばれた小説の舞台になっている戦国時代の瀬戸内の海賊、村上水軍が拠点を置いた愛媛県 今治市にある能島が一般に開放され、訪れた人たちは、普段、渡ることができない島でかつて海賊たちが眺めた 景色を楽しみました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003663011_m.jpg 今治市にある周囲およそ850メートルの能島は、戦国時代に瀬戸内で勢力を誇った村上水軍が拠点を置いていた島です。 普段は交通手段がなく渡ることができませんが、地元の観光振興の協議会が毎年、この時期に渡し船を運航して 一般の人に開放しています。 ことしは村上水軍を題材にした小説「村上海賊の娘」が本屋大賞に選ばれたことから12日は午前中から200人を 越える観光客が次々と訪れました。 訪れた人たちは、島内を散策しながら海賊が舟を泊めていた海岸や見張り台と思われる建物があった高台から 瀬戸内の島々の様子や敵の侵入を防いでいたと言われている島周辺の流れの速い潮流の様子を眺めていました。 なかには、「村上海賊の娘」を読みふける人の姿もみられ、海賊のふるさとを思い思いに楽しんでいました。 愛媛県西条市から訪れた50代の男性は、「村上水軍の島で『村上海賊の娘』を読もうと思い来ました。 水軍がふるさとで読むと一味違った楽しみがある」と話していました。 能島の一般開放は、13日も行われ、午前9時から随時、渡し船が運航します。04月12日 13時54分 百合文書をデジタル公開…京都府立総合資料館 2014年04月13日 10時27分 約2万5000通に及ぶ奈良〜江戸時代の文書資料群「東寺百合(ひゃくごう)文書」(国宝)のデジタル画像化が完了し、 京都府立総合資料館(京都市左京区)がウェブサイトで公開している。 国内の文化財では最大規模の取り組みといい、同資料館の所蔵であることを明示すれば、自由にウェブや 出版物などに掲載できる初の仕組みも導入した。 続きはソースで 百合文書をデジタル公開…京都府立総合資料館 : IT&メディア : 読売新聞(YOMIURI ONLINE) http://www.yomiuri.co.jp/it/20140411-OYT1T50179.html 東寺百合文書WEB http://hyakugo.kyoto.jp/ 鶴山公園で火縄銃の演武ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023674841.html?t=1397462741635 城下町として知られる津山市で、城の跡地の鶴山公園を舞台に古式ゆかしい火縄銃の演武が行われました。 この催しは城下町・津山の歴史を多くの人に知ってもらい、観光にもひと役買おうと地元の火縄銃の愛好家などで作る 「津山城鉄砲隊」が行いました。 13日は鉄砲隊のメンバー7人が「さくらまつり」が開かれている津山城の跡地を整備した鶴山公園で演武を披露しました。 火縄銃は江戸時代に作られた本物で、メンバーは備中櫓の横に整列しては「撃て」の声を合図に一斉に引き金を引き、 空砲を打ち鳴らしました。公園内には迫力のある音が響き渡り、花見に訪れた人から歓声があがっていました。 04月14日 13時00分 官兵衛ゆかりの品の展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023734691.html?t=1397550890645 NHKの大河ドラマ、「軍師官兵衛」の放送にあわせて官兵衛ゆかりの品々を集めた展示会が岡山市で開かれています。 この展示会はNHKの大河ドラマ、「軍師官兵衛」の放送にあわせて岡山市などが開いたもので、岡山市北区にある 岡山城の展示スペースには、官兵衛が活躍した戦国時代の様子を描いた絵図や刀やかぶとなど、およそ60点が 展示されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023734691_m.jpg 会場では、官兵衛がのちの豊臣秀吉に進言したとされる岡山市北区の備中高松城の水攻めの様子が、縦1メートル 15センチ、横1メートル60センチの模型で再現されています。 また、福岡藩の儒学者、貝原益軒が編さんした「黒田家譜」は全16巻の史料で、官兵衛の曽祖父が瀬戸内市 長船町福岡に住んでいたことなどが記述されています。 このほか官兵衛と同じ時代に活躍した武将、宇喜多直家の木像なども展示されています。 主催している「おかやま観光コンベンション協会」の阿部薫里さんは「官兵衛ゆかりの品々が一堂に集まる 貴重な機会なのでぜひ足を運んで欲しいです」と話していました。この展示会は5月6日まで岡山城で開かれています。 04月15日 12時49分 丸亀城にこいのぼりttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033714001.html?t=1397600935558 5月5日の端午の節句を前に、15日、丸亀市にある丸亀城のお堀にこいのぼりがお目見えしました。 丸亀市にある丸亀城では、訪れた人たちに楽しんでもらおうと、毎年この時期に城のお堀にこいのぼりを飾っています。 ことしも城の北側のお堀に4本のワイヤーロープを張り、市民から寄贈されたこいのぼりや近くの中央保育所の 子どもたちが作ったこいのぼり、あわせて42匹を飾りました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033714001_m.jpg もっとも東側のロープには、保育所の子どもたちが思い思いの絵を描いたカラフルなこいのぼりが飾られ、 子どもたち32人が設置作業を手伝いました。 子どもたちが、自分たちが作ったこいのぼりを運んで、大人に手渡したあと、こいのぼりがとりつけられたロープは、 対岸に伝わっていきました。 そして、こいのぼりが風になびいてお堀の上で泳ぎ始めると、子どもたちは歓声をあげて喜び、こいのぼりの歌を 元気よく歌って完成を祝っていました。参加した子どもたちは、「楽しかった」とか、「きれい」などと話していました。 このこいのぼりは、5月15日ごろまで飾られる予定です。04月15日 18時43分 >>121 ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023734691.html?t=1397602363013 ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023734691_m.jpg 04月15日 19時46分 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送にあわせて黒田官兵衛ゆかりの品々を集めた展示会が、岡山市で開かれています。 この展示会は岡山市などが開いたもので、岡山市北区にある岡山城の展示スペースには黒田官兵衛が活躍した 戦国時代の様子を描いた絵図や刀やかぶとなど、およそ60点が展示されています。 このうち、官兵衛がのちの豊臣秀吉に進言したとされる「備中高松城の水攻め」を伝える模型は縦1メートル15センチ、 横1メートル60センチの大きさがあり、当時の様子を再現しています。 また、江戸時代の儒学者貝原益軒が編さんした「黒田家譜」という全16巻の史料には、官兵衛の曽祖父が現在の 岡山県瀬戸内市長船町福岡に住んでいたことなどが記述されています。 このほか、官兵衛と同じ時代に活躍した武将、宇喜多直家の木像なども展示されています。 展示会を主催する「おかやま観光コンベンション協会」の阿部薫里さんは「官兵衛ゆかりの品々が一堂に集まる 貴重な機会なのでぜひ足を運んで欲しい」と話していました。 この展示会は5月6日まで、岡山市の岡山城で開かれています。 【 付きうごき者 】 彼等の室内での心理状態、行動様態、気分の抑揚などは常に隣人の生活様態に左右、依拠され、 それら隣人の生活様態を自らの諸行動,諸動作の契機として、 あるいはまたスケジュール表か時計かのごとくに借用しながらの生活を送る。 http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k.png http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k203_1.png http://rfi.a.la9.jp/hn203/k203/k203_2.png http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13106142083 付きうごきの感知は 自己の動作のあと1、2秒遅れて床から伝わってくる「ピクッ」とするわずかな振動から確認することができる。 = 付きうごきの3型 = ・通常の場合 ・付きうごきに対して注意喚起を促した後に逆恨みからその行為をより一層徹底、強力化してやり返してくるもの 〔付きかえし〕 ・注意喚起時に他の部屋の別の引きこもり者が自分のことを指摘されたのだと思い込みやり返してくるケース 〔勘違い型付きかえし〕 (パチンコ屋などで「警察だ!」と叫べば身に覚えのある何人かがギョッとして逃げ出そうとすることと同様に) 寝起きする住居であるから被害者はこれを避けることはできず、不愉快と時間、人生の浪費を強いられざるを得ない。 この付きかえしは引きこもりニーホがその特質「何もすることがない」ということを最大の武器に異様な執着と異常な頻度で 及んで来るものである。 ■何でもない人たち = ニーホ 戦後復興、高度経済成長以降の日本人のうち労働意欲、遊興意欲ともに乏しく、何に対しても興味が薄く消極的な人々。 これといってやるべきこと、特にやりたいことなどを持たず、無為に日々、人生を送る。 夢をいだかないが鬱にもならず自殺なども考えない。 自主性がなく、社会に対して不平不満などを持たないかわりに自発的に善行や親切などを行うこともない。 悪人ではないが善人でもなく、これといった主義主張をせず、個性が希薄、性格的特徴に欠ける(超凡人性) 何がしかの才能やこれといった特技などはなく、努力せず、向上心を持たない。 ●引きこもり性ニーホ アパートやワンルームマンション、ウィークリーマンション、ビジネスホテルなど で自閉的生活を送るニーホの一種別 ●入院性ニーホ 精神疾患などをよそおい医療保険を詐用して入院生活を送るニーホの一種別 ●入監性ニーホ 衣食住をまかなうために故意に犯罪を犯し留置場や刑務所暮らしをするニーホの一種別 http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014041701001273.html http://archive.today/L6tyY 被災旧家から戊辰文書 旧幕府勢力に食料提供 2014年4月17日 22時09分 戊辰戦争(1868?69年)の際、仙台藩の村人が旧幕府勢力に宿や食料を提供したと記した文書が、 東日本大震災の津波で浸水した宮城県石巻市長面地区の旧家から見つかったことが17日、分かった。 解読した宮城学院女子大の平川新学長(日本近世史)は 「戊辰戦争と地域の村々が、どう関わっていたのかを示す貴重な史料だ」と話している。 文書は仙台藩にあった尾崎村(現石巻市)の代表者が残していた。 子孫が住んでいた旧家は津波で1階が浸水したが、文書は神棚に保管されていて無事だった。 知人を通じ連絡を受けた平川学長が昨年9月に確認した。 (共同) 861 ほんとに歴史知らないのか? 平野部の方なんで湿地帯で人の住める環境のわけないだろ 開墾がすすんだから人が住めるようになったの 新潟の平野部とかなんで人口が少なかったのか知らんのかな? 都市部で整備化されてるから分からんだろうけどインフラがなくなれば分かることさ 日本史で「水鏡」によれば、藤原仲麻呂が恵美押勝の乱に失敗した際、 かねてより「容色並ぶものなき美貌」とたたえられていた 仲麻呂の娘(藤原東子)が 千人の兵士に死に至るまで輪姦されたらしい。 詳しい研究本によれば、当時の媚薬や性器への負担を軽減するような 潤滑剤を駆使して、 世間に公開のうえで徹底的に犯し抜いたそうだ。 仲麻呂の娘についての項では、例えば潤滑剤は百日紅の樹液となにかを 調合したものであったとか、用いられた媚薬は今でいう覚醒剤の一種で あったとか、 姫の乱れた化粧をきちんと直す係の者、薬を投与する医者 栄養士などが 待機していて、凌辱は20日間に及んだらしいです。ちなみに、最後は斬首だったそうです。 〜姫君の悲劇「藤原仲麻呂の乱」〜 http://www.nobitown.com/dom030709.html 大学授業を無料公開、ネットで講座始まる http://www.yomiuri.co.jp/national/20140414-OYT1T50113.html インターネットを通じて大学の授業を一般向けに無料公開する「大規模公開オンライン講座」(MOOC※)の日本版配信が14日、始まった。 講座を運営する「日本オープンオンライン教育推進協議会」(通称・JMOOC)は今秋までに、国内17大学の19講座を公開する予定だ。 この日開講したのは、▽本郷和人・東京大教授の「日本中世の自由と平等」▽岡部洋一・放送大学長の「コンピュータのしくみ」――など3講座。 受講者はサイトで授業を視聴でき、試験に合格すれば修了証も与えられる。サイトには14日時点で約3万3000人が登録。 本郷教授の講義では、高校生24人を含む約100人が集まってグループ学習も行う予定だ。 ebcで-た放送news 小説「村上海賊の娘」の世界展 19日18:32 本屋大賞を受賞した和田竜の小説「村上海賊の娘」の 企画展が、今治市宮窪町の村上水軍博物館で開かれて いる。村上水軍に関する資料のほか、和田さんの直筆 の校正刷りなど小説ファンの垂涎の資料が満載。 2014.4.19 18:22『村上海賊の娘』の世界を体験 今年の本屋大賞を受賞した和田竜さんの小説『村上海賊の娘』の世界を紹介する企画展が今治市の博物館で きょうから始まりました。ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=46090 今治市宮窪町で開かれているこの企画展には、戦国時代に瀬戸内海で活躍した村上水軍の当時の資料など 80点あまりが展示されています。 こちらの「小早川隆景書状」は、小説の舞台となった織田対毛利の合戦の際に、毛利側の小早川が村上水軍の 当主村上武吉に対し船を警護するよう依頼した実際の手紙です。 このほか武吉が合戦の際に着たとされる真っ赤な陣羽織や小説にも出てくる海戦独特の武器「やがらもがら」 なども展示されています。 また、作者の和田さん自ら文章の訂正を書き込んだ校正刷りなどもあり小説のファンにはたまらない資料が満載です。 この展示会は6月15日まで開催されています。名称「小説『村上海賊の娘』の世界」場所村上水軍博物館 ”源平合戦の舞台”紅白餅つきhtp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033646981.html?t=1397983390290 いまから800年余り前の源平合戦の舞台となった高松市の屋島で、源氏の弁慶が戦勝祝いにふるまったと伝わる 紅白の餅をつく催しが、20日、開かれました。 高松市屋島で源氏と平氏が戦ったとされる源平合戦では、勝利をおさめた源氏の弁慶が戦勝祝いに紅白の餅を ついて、村人に配ったと伝えられています。 20日は、この故事にならって、高松市の屋島にある屋島寺で、紅白の餅をつく催しが開かれました。 会場には、50キロのもち米が用意され、石の臼に蒸し上がったもち米が入れられると、弁慶の格好をしたボランティア の人がきねを持ち、観衆の「よいしょ」という掛け声に合わせて餅をつきました。 餅は、白餅と食紅を混ぜた赤色の餅があり、地元の婦人会の人たちが、ちぎっては丸めて、 紅白餅をそれぞれ1つずつ、袋に入れて訪れた人たちに配っていました。 会場では、お茶の接待も行われ、訪れた人たちは、温かいお茶を飲みながらつきたての餅をおいしそうに食べていました。 餅を食べた男性は、「弁慶もいて、いい雰囲気の中でお餅をおいしくいただきました」と話していました。 この催しは、午後2時まで開かれています。04月20日 12時19分 小説「村上海賊の娘」世界展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003803291.html?t=1397983677734 戦国時代に、瀬戸内海で大きな勢力を誇った海賊の村上水軍を題材にして、ことしの本屋大賞に選ばれた小説に ちなんだ展示会が、水軍のふるさと、今治市で始まりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003803291_m.jpg 今治市の村上水軍博物館で19日から始まった展示会では、ことしの本屋大賞に選ばれた小説「村上海賊の娘」 に登場する人物の肖像画や、出版前に作家と編集者が文章を整える作業をした小説のゲラ刷りなど、80点余りが 展示されています。 このうち、「猩々(しょうじょう)陣羽織」は、小説の主人公の父でもあり、水軍を率いた村上武吉が着用したとされ、 赤い生地に村上水軍を示す「まる」の中に、漢字の「上」の字が大きくあしらわれています。 また、小早川隆景の書状は、小説で描かれた「第一次木津川口合戦」に、毛利方が村上家に船を出すよう依頼 したものです。 訪れた人たちは、小説にゆかりがある展示品を興味深く眺めていました。 博物館の矢野均館長は、「小説に描かれた木津川口合戦の資料を中心に展示しました。多くの人に楽しんで もらいたい」と話しています。展示会は6月15日まで開かれています。04月20日 07時32分 首里城:初のカラー映像 破壊前、米軍撮影 http://mainichi.jp/select/news/20140421k0000m040109000c.html 太平洋戦争の資料などの収集・保存活動をしている大分県宇佐市の市民団体 「豊の国宇佐市塾」は20日、沖縄戦で破壊される前の首里城(那覇市)などの動画のカラー映像を公開した。 米国立公文書館で入手した。 米軍が1945年に撮影したもので同塾は、形をとどめた首里城全体のカラー映像が見つかったのは初めてとみている。 首里城の映像は、米軍上陸後の4月下旬〜5月上旬ごろ、日本軍の陣地を空爆した時の映像に偶然映し込まれていた。 このほか終戦間近に米軍が鹿児島県薩摩川内市の旧国鉄川内駅とその周辺や、 宮崎県都城市の日豊線・山之口駅を空襲する映像を報道陣に公開した。 薩摩川内市の映像は45年7月30日とみられ、米戦闘機による小学校などへの機銃掃射や駅周辺などが炎上している場面が映っていた。 映像は順次、宇佐市の平和資料館で公開する予定。 和田竜氏の村上水軍講演会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004024681.html?t=1398554649240 ことしの本屋大賞に選ばれた、小説「村上海賊の娘」の著者、和田竜さんを招いた講演会が、26日、今治市で 開かれました。 講演会には、和田竜さんのほかに、村上水軍の子孫も招かれ、小説の登場人物などについて語り合いました。 村上水軍は、能島村上家、因島村上家、来島村上家の3つで構成され、戦国時代に瀬戸内海で大きな勢力を 誇りましたが、400年ほど前の関ヶ原の戦い以来、別々の道を歩んできました。 講演の中で和田さんは、小説の主人公の女性「景」の名前について、「小早川隆景の景の字を取って名づけた」と話し、 小説が完成するまでの裏話を披露しました。 村上水軍の子孫たちは「女性を主人公に村上水軍を描くことはすばらしい」とか、「小説の主人公は、家系図では 女であるとしか記載されていないのに、そこに着目した物語を作ることは想像できなかった」などと述べました。 講演会に訪れた50代の女性は、「小説が出来上がるまでの苦労などが聞けて楽しかった。講演会を参考にして 小説を楽しみたい」と話していました。04月27日 05時17分 今治で和田竜さんの講演会(04月26日)ttp://www.itv6.jp/m/news/detail.php?date=20140426&no=0002 小説「村上海賊の娘」で今月、本屋大賞を受賞した作家和田竜さんの講演会がきょう、今治市内で行われました きょうの講演会は、村上水軍博物館10周年記念事業として行われ、本屋大賞を受賞した和田竜さんが現地を訪れました。 会場にはおよそ700人の観客が詰めかけ、和田さんが対談形式で、「村上海賊の娘」の世界をテーマに講演し、 村上海賊の歴史などをわかり易く解説しました。 講演の中では和田さんが参考にした文書や写真などがあわせて紹介され、今回の小説に込めた熱い思いを丁寧に語っていました。 また会場には村上家の現在の当主となる3人も集まり、和田さんとの対面を喜んでいる様子でした。 織田信長の桶狭間の戦いでの勝因を、「民家への略奪行為で油断する今川方を急襲したから」とする説を、 黒田日出男東京大学名誉教授が唱えている。 勝因について、明治時代には陸軍を中心に迂回奇襲説が、 近年では『信長公記』に基づいて正面攻撃説が主流である。 だが、黒田は『甲陽軍鑑』に着目し、 「記憶違いはあるが、悪意の捏造はなく、体験に基づく良質な史料」と断定した。 そして、当時武田氏と今川氏は同盟していたため「敗因を間違えるとは考え難く、 第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とした。『甲陽軍鑑』には 「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、 織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあり、 また別の史料で徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認した。 黒田は略奪を"乱取り"と呼び、新説を「乱取り状態急襲説」と名付けた。 乱妨取り(らんぼうどり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、 戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。 一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。 凶作・水害・疫病が起こると、大名は食料獲得のため隣国へ戦争をした。 その結果として領土を獲得し、家臣団に与えて下克上の芽を摘み取った。 その上で、戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、 女・子供をさらい売り払うか奴隷にするかした。 女性を強姦し、抵抗する者は殺した。 >女性を強姦し、抵抗する者は殺した。 >女性を強姦し、抵抗する者は殺した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A 本屋大賞受賞「村上海賊の娘」和田竜講演会(愛媛県)ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8784416.html 今治市吉海町で開かれた和田竜さんの講演会には、市内外から大勢の歴史小説ファンが訪れた。 和田さんが今治を訪れたのは本屋大賞を受賞してから初めてで、和田さんは、歴史小説を書き始めたきっかけや 村上海賊のイメージなどについて語った。 小説「村上海賊の娘」は、戦国時代の木津川口の海戦という史実を題材に、今治市の能島に拠点を置いて活躍した 能島村上家の当主、武吉の娘「景」を主人公に描かれている。 また、会場には因島、来島、能島の村上御三家の末裔がおよそ400年ぶりに集まり、会場から盛んな拍手が送られていた。 [ 4/26 18:29 南海放送] 京極家の新収蔵展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034159951.html?t=1399067458202 香川県のかつての丸亀藩を治めた京極家から寄贈された絵図などを公開する展示会が丸亀市で開かれています。 この展示会は5月4日に丸亀市の寺で開かれる京極丸亀藩6代藩主高朗の墓前祭にあわせて開かれたもので、 京極家から寄贈された絵図や扇など6点が展示されています。 このうち、「元禄年間丸亀城并家中屋舗図」は、元禄時代の丸亀城とその周辺の武家屋敷を表した絵図で屋敷の 持ち主や敷地の広さが記されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034159951_m.jpg 城には今はないたくさんのやぐらが描かれ、当時の城郭や城下町の様子を知ることができます。 また「富士遠望図」は、江戸時代初期に活躍した日本画家狩野探幽と狩野尚信、それに京極丸亀藩2代藩主の 高豊が描いたもので、探幽が描いた富士山と尚信が描いた松林の間に、のちに高豊が山や林を描き入れたものと 見られています。この展示会は6月1日まで丸亀市立資料館で開かれています。05月02日 18時41分 >>144 マイナーネタでスキマアフィ狙ってる 零細クレクレ乞食ブロガーさんおつ まつりで丸亀テーマの歌披露ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033948401.html?t=1399246769844 丸亀市にある丸亀城で恒例の「丸亀お城まつり」が開かれ、地元のシンガーソングライターが丸亀城をテーマした歌を 披露し会場を盛り上げました。 「丸亀お城まつり」は、地元の活性化につなげようと毎年、大型連休に合わせて開かれているものでことしも大勢の 市民や観光客が訪れて丸亀城周辺で行われたさまざまな催しを楽しみました。 このうち、特設ステージでは、丸亀市出身のシンガーソングライター石井貴樹さん(21歳)が丸亀城をテーマに、 4月につくったばかりの曲「いしずえ」を披露しました。 この曲は、石井さん自身がふるさとの丸亀に支えられた青春時代を歌ったもので、歌詞には、桜や天守閣といった 丸亀城に関する言葉が使われ四季折々に変わる丸亀城が表現されています。 訪れた人たちは、足を止めて、ふるさとの丸亀を綴った曲に聴き入っていました。 丸亀市に住む男性は「地元をテーマにした歌はあまりないので、きょう聞けてよかったです。今後も活躍していって ほしい」と話していました。石井さんは「丸亀城の歌をお城まつりで歌いたいと思っていました。 丸亀の人に聞いてもらえて幸せです」と話していました。05月04日 17時10分 「わだつみ」に別の遺書 恩師編集、今の形に http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014042902000141.html 戦没学徒の遺書や遺稿を集め、戦後を代表するロングセラーとなっている「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)の中でも 特に感動的な内容で知られる木村久夫(一九一八〜四六年)の遺書が、もう一通存在することが本紙の調べで分かった。 「わだつみ」ではすべて獄中で愛読した哲学書の余白に書かれたものとされていたが、 実際は二つの遺書を合わせて編集してあり、辞世の歌も今回見つかった遺書にあった。 「もう一通の遺書」は手製の原稿用紙十一枚に書かれており、遺族が保管していた。父親宛てで、 末尾に「処刑半時間前擱筆(かくひつ)す(筆を置く)」とあった。 この遺書で木村は、先立つ不孝をわび、故郷や旧制高校時代を過ごした高知の思い出を語るとともに、 死刑を宣告されてから哲学者で京都帝国大(現京都大)教授だった田辺元の「哲学通論」を手にし、感激して読んだことをつづった。 また、戦後の日本に自分がいない無念さを吐露。最後に別れの挨拶(あいさつ)をし、辞世の歌二首を残した。 木村の遺書は、旧制高知高校時代の恩師・塩尻公明(一九〇一〜六九年)が四八年に 「新潮」誌に発表した「或(あ)る遺書について」で抜粋が紹介され、初めて公になった。 「凡(すべ)てこの(「哲学通論」の)書きこみの中から引いてきた」とされ、「わだつみ」でも同様に記されたが、 いずれも二つの遺書を編集したものだった。 「わだつみ」の後半四分の一は父宛ての遺書の内容だった。二つの遺書を精査したところ、 「哲学通論」の遺書で陸軍を批判した箇所などが削除されたり、いずれの遺書にもない言葉が加筆されたりしていたことも分かった。 「辞世」の歌二首のうち最後の一首も違うものになっていた。(ry 岡山城で遺溝保存整備が進むttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140508_7 岡山城には、江戸時代の生活の様子を伝える遺溝が数多く残されています。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140508_7.jpg 多くの人が歴史に親しめる場所にしようと今、遺溝の保存整備が進められています。 天守閣の南側、本丸下の段といわいる約4000平方mの土地で、岡山市による10年計画の保存整備が進めてられています。 2006年から行われた発掘調査で、江戸時代の蔵や門の跡が見つかり、石を積んで土台を復元しました。 当時の姿をそのまま残しているものもあります。この場所にはかつて、年間約3万人が利用するテニスコートがありました。 1962年には国体の会場になるなど、長年、岡山のスポーツを支えた場所でした。江戸時代の様子を記した絵図です。 多くの遺溝がこの絵図と同じ場所で見つかりました。床下には、土でなく砂が敷き詰められた蔵の跡もありました。 保管する火薬の湿気を防ぐためとみられ、その違いも再現されています。 再来年には、それぞれの遺溝の説明を書いた看板を立てるなどして、歴史公園として整備を進めていくということです。 高松城桜御門の石垣解体修理へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034361851.html?t=1399855028128 昭和20年の空襲で消失した高松城の「桜御門」の復元事業に合わせて高松市は、平成26年度、門の建物が載る 石垣を解体修理することにしています。 高松城の「桜御門」は、藩主の御殿があった「三の丸」の正門で、建物の両端を石垣に載せた櫓門と呼ばれる 造りでしたが、昭和20年7月の高松空襲で焼失しました。 石垣には空襲による火災の影響とみられる石のひび割れなどがあり、傷みが目立っていることから高松市は、 「桜御門」の復元事業に合わせて今年度、石垣を解体修理することにしています。 具体的には、石の状況などを詳しく調べ、必要であれば接着剤などで石を補強したり新しい石に替えたりして 積み直すことにしています。解体修理は、秋以降に始められる見通しです。 また、「桜御門」の復元については、平成26年度、実施設計を行い、平成28年度から工事に取りかかることにしています。 「桜御門」は高松城にあった建造物の中で、高松市が最初に復元するもので、完成は平成29年度末の予定です。 05月12日 09時30分 文化財修復へ林原が酵素生産へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024386271.html?t=1400022085729 古い絵の修復に使われていた合成樹脂が劣化して、国の重要文化財を含む各地の文化財の絵の表面が変色したり 剥がれたりする被害が出ている問題を受けて、岡山市のバイオ関連企業、林原は全国で初めて合成樹脂を取り除く 酵素の本格的な生産に乗り出すことになりました。 問題の合成樹脂は、昭和20年代から40年代にかけて文化財の絵などの修復に広く使われていた 「ポリビニルアルコール」です。 この合成樹脂が劣化して絵の表面が変色したりはがれたりするなどこれまでに国の重要文化財を含むおよそ20件の 被害が確認されていて、被害は全国で数百件にのぼるとみられています。 文化財の修復技術を研究している東京文化財研究所などがある酵素を使って合成樹脂を取り除く技術を開発しましたが、 酵素の生産体制がないことが課題となっていました。 こうした中、岡山市のバイオ関連企業、林原は、東京文化財研究所の依頼を受けてこの酵素の本格的な生産に 乗り出すことになりました。 林原は、酵素ででんぷんを分解して作る甘味料「トレハロース」の製造で知られていますが、 このノウハウが今回の酵素の生産にもいかされるということで、早ければ今年中に生産を始める予定です。 酵素の培養を行っている林原基盤研究部の西本友之部長は「文化財を修復して元の状態に戻すために私たち 技術が役立つならばありがたい」と話しています。05月13日 21時11分 【韓国】「渡来人のおかげで日本古代文化が花開いたが我々が全てやったという解釈は避けよう」「京都最古の寺、渡来人が建てた」[5/15] http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1400118517/ 松平家の図鑑が図録化ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034573571.html?t=1400653852634 高松藩の藩主だった松平家に伝わる江戸時代の図鑑、「博物図譜」に描かれた動物や植物の絵をカラー印刷で 掲載した図録が、10年あまりをかけてすべて完成しました。 この「博物図譜」は、江戸時代中期に高松藩の5代藩主、松平頼恭が作らせた図鑑で、2000点以上の動植物の絵が、 魚類の「衆鱗図」など、4種類、13冊に分けて描かれています。 図録には、「博物図譜」に描かれた絵がカラー印刷で掲載されていて、香川県立ミュージアムの編集で、 平成13年から刊行が進められ、この春、13冊目が完成し、図録を作る事業が終わりました。 江戸時代、博物学への関心が高まり、各地の大名が、「博物図譜」を制作しましたが、高松松平家のものは、 とくに細部まで詳しく描かれています。 また、銀箔や金箔の上に色を塗って、魚のうろこを表現する特殊な技法などで知られ、当時から高く評価されていました。 図録は、県内の資料館や図書館のほか、都道府県立の図書館などに寄贈されています。 香川県立ミュージアムは、「多くの人に高松松平家の『博物図譜』の価値を知ってもらうとともに、 今後の研究の基礎資料として役立つことを期待している」と話しています。05月21日 08時57分 高松城の城跡に文化財説明版を設置ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140522_2 高松城の城跡にある高松市の玉藻公園に、城の歴史を紹介する看板が設置され、贈呈式が行われました。 贈呈式では、松平公益会の佐伯理事長から高松市の大西市長に看板の目録が贈られました。 看板は、かつての高松城の歴史を市民や観光客に知ってもらおうと作られたもので、いまも残る水門や橋など 10か所に立てられました。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140522_2.jpg 看板には、高松市が進めてきた発掘調査で新たに判明した高松城の歴史などが日本語と英語で書かれています。 今後、城下町などを紹介する看板がさらに10か所に立てられる予定です。 高松城跡の文化財説明板を寄贈ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034479451.html?t=1400798184497 国の史跡に指定されている高松城跡の文化財を紹介する説明板が、城跡を所有する高松市に寄贈されました。 説明板を寄贈したのは、高松藩の藩主だった松平家からの寄付をもとに設立された公益財団法人の松平公益会です。 22日は、高松城跡で佐伯勉理事長から高松市の大西市長に目録が手渡されました。 説明板は、高松城跡の整備や最近の調査結果などを踏まえて新たに作られ、城跡とその周辺10か所に設置されました。 このうち、去年、国の名勝に指定された大正時代の「披雲閣庭園」の説明では、江戸時代の庭園を、一部残していると みられることや花崗岩をくり抜いて作った石橋など大型の石造物を配置していることを紹介しています。 また、本丸と二の丸のあいだの内堀にかかる「鞘橋」については、築城当時から同じ位置に橋がありその後、 江戸時代に屋根のついた橋に替わったことを説明しています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034479451_m.jpg このほか、城跡近くの商店街などには高松城は現在の城跡の8倍の広さがあったことを示す説明板が設けられました。 高松市は、今年度、松平公益会からさらに説明板の寄贈を受けて城下町だった場所などほかの10か所にも説明板を 設置する予定です。05月22日 19時21分 今治で小説「村上海賊の娘」の世界展ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140523T102458&no=6 今年の本屋大賞に選ばれた小説「村上海賊の娘」に関する貴重な資料を集めた企画展が、今治市の 村上水軍博物館で開かれています。 この企画展は、中世の瀬戸内海で活躍した実在の海賊、「村上水軍」をテーマに書かれた小説、「村上海賊の娘」が、 全国の書店員が一番売りたい本を選ぶ「本屋大賞」の1位に選ばれたことを記念して、村上水軍博物館が開いています。 会場には、作者の和田竜さんと編集者が自筆で直しを入れたゲラ刷りや、週刊誌に連載されていた当時の挿絵の パネル、そして小説の主人公「景」の父親、武吉が着用したと伝わる真っ赤な陣羽織など、 貴重な資料83点が展示されています。 この企画展、『小説「村上海賊の娘」の世界』は、今治市宮窪町の村上水軍博物館で、7月6日まで開かれています。 山田方谷の資料展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024633141.html?t=1400910801071 備中松山藩の藩士として大胆な藩政改革を行った幕末の陽明学者、山田方谷の手紙などゆかりの資料を集めた 展示会が岡山市で始まりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024633141_m.jpg 山田方谷は、備中松山藩があった現在の高梁市で生まれ、多くの借金を抱えていた藩の財政を立て直すなど 幕末から明治時代にかけて活躍した陽明学者です。 岡山県立博物館で行われている展示会は、激動の時代を生きた方谷の思想や生き方などを紹介するもので、 方谷の手紙や道具などゆかりの資料およそ170点が展示されています。 このうち「山田方谷拝領刀」は、藩主の板倉勝静から贈られた脇差で、亡くなる時にも手元に置かせるなど方谷が 大切にしていたものです。 また、「山田方谷書幅」は備中の雄大な自然やそこで暮らす人々のたくましさを表現した詩で、方谷が詩人としても 優れた才能を持っていたことがうかがえます。 岡山県立博物館の内池英樹主幹は「方谷の生きざまやその足跡をたどることで、現代の私たちもそこから多くの ことを学び取れるのでぜひ足を運んでほしいです」と話していました。 この展示会は6月29日まで岡山市北区の岡山県立博物館で開かれています。05月24日 13時14分 あの新資料から新事実! 元新選組隊士・斎藤一は維新後もスパイだった! 昨年(2013年)12月に、警視第六方面第二署(現在の東京都江戸川区・小松川警察署)の名簿の存在が明らかになった。 そして今年1月に私の勤務する霊山歴史館に寄贈され、4月20日付の読売新聞全国紙で報じられた。 新選組三番隊組長の齊藤一が、維新後に警視庁(当初は警視局)に勤めたことは知られていたが、公文書で所属先が確認されたのは今回が初めて。 名簿(縦24センチ、横16センチ)には、同署員174名が記載されており、齊藤は他の4人とともに、 「書記兼戸口(ここう)取調掛」という役職の欄に記されていた。 この役職について警視庁史料編纂係に問い合わせたところ、「該当する職制はない」という回答を得た。 つまり、齊藤一は警視局で「架空の役職」に就いていたことになる。このことから、齊藤は公安の仕事をし、諜報部員として活動していた可能性が高まった。 ちなみに戸口取調掛の「戸口」とは戸数と人口のことで、住宅やそこに住む人の数を調べることを名目としており、 スパイ活動に最適な(架空の)役職名だったのではないだろうか。 また、この名簿の冒頭には「署長 権大警部 永田盛庸(もりつね)」と記載されているが、永田盛庸が同署の署長だったのは明治8年12月2日から明治9年6月21日までであり、 この期間に齊藤が警視第六方面第二署に所属していたことも分かった。 さて、齊藤は維新後に結婚して藤田五郎と改名していたのにもかかわらず、警視局ではなぜ旧名の齊藤一を使用していたのか? あくまでも憶測であるが、公安の仕事は職務上、名前を名乗らなかったり、変名を使用することが多い。 そこで、当時の本名である藤田五郎ではなく、昔使っていた齊藤一を変名として使っていたのではないだろうか。 さて齊藤は、幕末期には新選組局長・近藤勇の密命を受けて、新選組を脱退した伊東甲子太郎ら御陵衛士(高台寺党)に潜入し、スパイ活動を行っていた。 維新後も警視局で諜報部員として活躍していたとすれば、相当、スパイとしての能力が高かったのであろう。 霊山歴史館では2014年7月23日(水)から9月7日(日)まで夏の企画展「新選組 京を駆ける」を行うが、この展覧会で初公開する予定である。 http://getpocket.com/s/vg5A 前九年の役に敗けた藤原経清は源頼義によってのこぎり挽きにされた。 平成26年5月25日、AKBのメンバー、スタッフがのこぎりを持った男に刺されるという事件が起きた。 この事件の被害者には妙な共通点がある。3人の祖先を辿ると源氏、すなわち源頼義の子孫なのだ…。 祟りじゃあああ、藤原経清の祟りじゃああああ! 愛新覚羅顕キさん死去 中国清朝の粛親王善耆の末子 愛新覚羅顕●(●は王へんに奇)さん(あいしんかくら・けんき=中国清朝の粛親王善耆の末子)が26日、北京市内の病院で死去、95歳。「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子の妹。 1918年、清朝の王族、粛親王善耆の末の王女として生まれ、日中戦争のさなかに日本留学。戦後は北京で翻訳者として働いた。50年代、海外帰国者や資産家らが標的とされた「反右派闘争」で逮捕され、15年の服役と5年以上にわたる強制労働を経験。 文化大革命後に釈放された後、北京の史料館で働きながら日本語学校を設立するなど、日本語人材の育成にも尽力した。 http://www.asahi.com/articles/ASG5V5SDKG5VUHBI03C.html 高松城跡に文化財の説明板05月22日 12:37 ttp://setonaikai.co.jp/newsweb/index/1362 市民や観光客に史跡高松城跡について理解を深めてもらおうと松平公益会が文化財の説明板を高松市に寄贈しました。 寄贈されたのは、高松城跡の文化財の歴史や経緯を説明した10枚の説明板です。 松平公益会の佐伯勉理事長が大西市長に目録を手渡しました。http://www.youtube.com/watch?v=EdEMA2SfMSQ 去年10月、被雲閣庭園が国の名勝指定を受けたことや発掘・文献調査の結果新たにわかったことなどが記されています。 また、3重の堀がめぐらされていた高松城の大きさを知ってもらおうと、かつての「外堀」の場所を示す説明板も 高松市の片原町や東浜港のそばなど3カ所に設置されました。 今の玉藻公園の約8倍の広さがあったことなどがわかります。 中国大返しめぐるウォーキングttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024524411.html?t=1401289893666 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公・黒田官兵衛らが進言したとされる強行軍、「中国大返し」の経路をたどる ウオーキング大会が岡山県備前市で開かれ参加者たちが歴史に思いをはせながら心地よい汗を流しました。 このウオーキング大会は、毎年5月の最終週の水曜日に世界各地で開かれている住民参加型のスポーツイベント 「チャレンジデー」に合わせて、備前市などで作る実行委員会が開きました。 「中国大返し」は、本能寺の変のあとのちの豊臣秀吉が明智光秀を討つために軍を率いて岡山から京都に向かった 強行軍で、黒田官兵衛らが秀吉に進言したとされています。 28日は、手作りの戦国武将の鎧かぶとで仮装するなどしたおよそ40人の参加者が「えいえいおー!」という合図の後、 秀吉軍が行軍した旧山陽道などおよそ6キロの道のりを練り歩きました。 途中では、当時の豪商が秀吉が立ち寄れるように邸宅の門を新築したと伝えられる「太閤門」の跡地も訪れ、 参加者たちは、歴史に思いをはせながらウオーキングを楽しんでいました。 岡山市から参加した70代の男性は、「備前の歴史を感じながら歩くことが出来て気分爽快です」と話していました。 05月28日 19時54分 備中高松城主 清水宗治しのぶttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024753941.html?t=1401673592720 豊臣秀吉による城への「水攻め」で知られる備中高松城の城主だった清水宗治をしのぶ催しが岡山市の高松城址 公園で行われました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024753941_m.jpg 備中高松城の城主だった清水宗治は秀吉による水攻めを受け、城の兵の命と引きかえに自害したとされ、毎年、 命日の6月4日の前後にあわせて地元の人たちなどが集まって「宗治祭」を開いています。 1日は、岡山市北区の高松城址公園内の墓前に関係者や地域の人たちおよそ1000人が集まりました。 そして住職がお経を読み上げる中、清水宗治の子孫などが順番に焼香して手を合わせていました。 また、備中高松城や清水宗治に関する俳句などが詠まれ、参加した人たちは耳を傾けながら清水宗治に思いを はせていました。 しのぶ催しを開いた備中高松城址保興会の横田俊司会長は、「自らの命を絶って和平の道を選んだ宗治公は 地元の誇りで、これからもこうした催しを続けていきたい」と話していました。06月01日 20時46分 大逆事件:管野すが 伏せ字の肉声…「特別法廷陳述」書簡 http://mainichi.jp/select/news/20140602k0000e040225000c.html 明治天皇暗殺を企てたとして1910(明治43)年の大逆事件で死刑に処せられた幸徳秋水ら12人のうち、 唯一の女性で幸徳と同居していた管野(かんの)すが(1881〜1911)が、大審院(現在の最高裁)の 特別法廷で陳述した内容を伝える書簡が見つかった。 天皇制を痛烈に批判しており、一部は伏せ字になっている。事件を研究している山泉進・明治大教授は 「天皇批判が不敬罪に問われる時代であり、残っていたのは驚きだ」と評価している。 衆院議員などを務めた岡山県倉敷市出身の田辺為三郎が同年12月、同郷の元貴族院議員、 野崎武吉郎に宛てたもので、太田健一・山陽学園大名誉教授が野崎家の文書を調査中に見つけた。 1日10人に限定して傍聴が許可されたことを受け、管野の陳述を直接聞くなどした「大澤」という弁護士から 田辺が聞いた内容として記され、読後に焼却するよう求めている。 「陛下トハ何ノ称呼カ。ソンナモノガ特別ニ尊敬サルヽ人間ノアルハヅナシ、不自然ナル政治ヲスル公僕○○アルヲ知ルノミ」 「○○ハ人格トシテモ尊敬スベキ紳士ト思ヘドモ、其地位ガ代表者タル以上ハ善キ人デモ之ヲ○○セザルベカラズとか申候由」 管野はこう陳述し、国家を破壊すべきだと主張。一つ目の伏せ字は「御名」のルビがあることから明治天皇「睦仁」とみられる。 山泉教授は二つ目について「睦仁」「天子」「元首」など、三つ目は主君や父を殺す意味の「弑逆(しぎゃく)」や「暗殺」と推測している。 大逆事件では、社会主義者の宮下太吉らが爆発物を作った疑いで逮捕されたことを端緒に 全国各地の社会主義者や無政府主義者ら数百人が検挙され、26人が大逆罪で起訴された。 当時の第2次桂太郎内閣には幸徳らをスケープゴートにした思想弾圧の意図があり、首謀者とされた幸徳の関与はなかったとされる。 基本的に非公開だった裁判の記録は見つかっておらず、被告の陳述は弁護人らの手記で一部伝わるのみで 直接的な天皇制批判の記録は他にないという。 新発見松山城下図屏風ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004851441.html?t=1401981746466 江戸時代中期とみられる松山城の城郭や町並みが詳細に描かれた貴重な屏風が見つかり、5日愛媛県歴史文化 博物館で公開されました。tp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004851441_m.jpg 公開されたのは、江戸時代中期とみられる、松山城や城下の町並みが描かれた高さ1メートル80センチ、 横幅3メートル14センチの屏風2枚で構成された「松山城下図屏風」です。 西予市の愛媛県歴史文化博物館が去年、京都市内の古美術商から鑑定を頼まれ、歴史的な価値が高いとして、 5月購入し、5日初めて報道陣に公開しました。 屏風には、江戸時代中期の18世紀前半とみられる松山城下の町並みの様子が描かれ、瓦ぶきの屋根の武家屋敷や、 町民などが暮らす町屋と呼ばれる藁ぶき屋根の家の様子などが描かれています。 また通常は軍事上の機密を守るため表に出ない城内の本丸ややぐらなどの構造物の形や配置までが立体的、 写実的に描かれています。 博物館によりますと誰が描いたものかはわからないということですが、江戸時代の松山城の様子がこれほど詳細に 描かれている屏風はほかにないということです。 調査にあたった藤田正学芸課長は、「歴史的に貴重な資料で、今後、松山城の美術や建築の研究などに役立てると ともに、是非多くの人に見て頂きたい」と話しています。 この松山城下図屏風は、西予市の愛媛県歴史文化博物館で7月12日から、8月31日まで一般公開されます。 06月05日 18時53分 松山城下屏風図 公開(06月05日)ttp://www.itv6.jp/m/news/detail.php?date=20140605&no=0003 県歴史文化博物館はきょう、江戸時代の松山城下を描いた、図屏風を報道機関に公開しました 公開された松山城下図屏風は高さ1,8メートル幅3.1メートルの屏風で江戸時代中期の、松山城下の景観が 描かれています。 県歴史文化博物館では去年、京都の古美術商を通じて屏風の存在を確認し、武家屋敷など元禄年間に描かれた 史料と一致するものが多いことから1700年代前半に描かれた屏風図と推定しおよそ200万円で購入しました。 屏風には城の北側に集められた寺院群や松山城の天守閣など城下町の姿を細かく描いていて、江戸期の松山城下を 研究する上で価値の高い歴史資料だということです こちらの屏風は来月12日から始まる「松山城下図屏風の世界」で一般に公開されます。 2014.6.5 19:33西予市で「松山城下図屏風」公開ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=46357 江戸時代の松山藩を歴史を知る上で極めて貴重な屏風が、県歴史文化博物館できょう報道関係者に公開されました。 縦1・8メートル・幅3メートル余りの2枚の屏風。 江戸時代中期の松山城のほか、周辺の寺社、町屋敷など一軒一軒に至るまで景観が詳細に描かれています。 これは京都の古美術商から「松山藩の屏風がある」と連絡を受けた県歴史文化博物館が、今年3月から5月にかけて購入しました。 ここまで松山城下が詳細に描かれた屏風はこれまで発見されておらず、歴史や美術などの研究で極めて貴重な 資料としています。この屏風は来月12日から8月31日まで一般公開されます。 一般から寄せられた資料展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015020391.html?t=1402128673920 江戸時代の土佐藩に関する資料を中心に集めている高知市の資料館で、一般から寄せられた貴重な古文書などの 展示会が7日から始まりました。 土佐山内家宝物資料館で始まった展示会では、県内外の一般の人から資料館で保管して欲しいと寄せられた 高知県の歴史に関する資料、54点が紹介されています。 このうち、幕末に土佐藩で鉄砲などの扱いを伝授した砲術家、高橋家に伝わる「門人名書」は、商人や神主など、 さまざまな職業の人たちおよそ900人が砲術の訓練を受けたことが記されていて、当時、多くの人が時代の変化に 巻き込まれていった様子を伝えています。 また、「短刀銘兼房」は、長さおよそ30センチの刀で、室町時代の有名な刀鍛冶職人が作ったとされ、江戸時代に 土佐藩主の山内家から藩士に与えられたものです。 会場を訪れた人たちは、ひとつひとつの資料を興味深く、見入っていました。 土佐山内家宝物資料館の学芸員、古賀康士さんは「土佐藩にまつわる普段、見ることができない貴重な資料なので ぜひ見て欲しい」と話していました。この展示会は7月13日まで開かれています。06月07日 12時39分 太平洋戦争:軍部批判し投獄された衆院議員 自叙伝を復刊 http://mainichi.jp/select/news/20140609k0000m040054000c.html ◇「父駆り立てたのは正義感」 太平洋戦争中に大政翼賛体制下の国会で衆院議員を務めながら、大本営発表を批判して投獄された人がいた。 戦後は福岡県若松市(現北九州市)の市長も務めた吉田敬太郎さん(1988年に89歳で死去)。 絶版になっていた自叙伝を長男潤世(じゅんせい)さん(83)が復刊し配布している。 自叙伝に込められた吉田さんの思いは、国家の虚偽という過去の過ちを繰り返さないための後世への警鐘といえる。 「『国賊』と呼ばれても父が戦争に反対したのは、大本営発表のウソを見抜いていたからですよ」。 福岡県芦屋町の自宅で潤世さんは、3年前に復刊した父の自叙伝「汝復讐(なんじふくしゅう)するなかれ」のページを繰りながら語り出した。 吉田さんは若松市出身。火野葦平の小説「花と竜」にも登場する侠客(きょうかく)の元親分で 衆院議員の父磯吉氏の地盤を継いで42年に初当選した。 ミッドウェー海戦の損害を過小に発表するなど、大本営が情報統制を強めたころに重なる。 そうした内実を、吉田さんは外務省に勤める大学の同窓生らから聞いていたという。 自叙伝で、吉田さんは「当局が国民に判断の基礎となる資料をひた隠しにしていたのだから、 最後の破局が到来するまでその欺瞞(ぎまん)を見破れるはずもなかった」と書く。 44年夏にサイパンが陥落して敗戦が濃厚になると、学友から聞いた情報を基に「軍部の欺瞞」を突く演説を地元で始め、停戦を主張した。 国会では軍事費の決算報告がないことを追及し、憲兵らに追われる日々が続いた。 45年3月、根拠のないうわさを流したなどとして逮捕され、福岡市内であった軍法会議で 懲役3年の実刑判決を受けて刑務所に収監された。潤世さんら子供たちも「国賊の子」と陰口をたたかれた。 敗戦で嫌疑が晴れ出獄したが、潤世さんは栄養失調でやせ細った父の姿を記憶している。 収監中に出会った聖書が「汝自ら復讐するなかれ」と説くのに共感した吉田さんは、 その後キリスト教の牧師となる。 さらに51年から若松市長を3期務め、5市合併による63年の北九州市移行後に公職を退いた。(ry 松山城下図屏風が公開ttp://eat.jp/news/index.html?date=20140609T172448&no=4 江戸時代中期の松山城や城下町の景観が描かれた貴重な屏風が、西予市の県歴史文化博物館に収蔵され、 来月、一般公開されることになりました。 収蔵されたのは「松山城下図屏風」で、一般公開を前に、このほど報道関係者に公開されました。 この屏風は、県歴史文化博物館が、京都の古美術商から去年から今年にかけて購入しました。 左右で一組になっている「四曲一双」の形で、それぞれは高さおよそ180センチ、幅およそ313センチとなっています。 屏風は、1700年代の前半に描かれたとみられ、松山城の西側の上空から見下ろした鳥瞰図で、 江戸時代中期の松山城や城下町の様子が描かれています。 県歴史文化博物館によりますと、今回収蔵された屏風のように城郭や武家屋敷、周辺の街並みなどが写実的に 描かれた絵図は大変珍しく、歴史的に貴重な資料だということです。 この屏風は、県歴史文化博物館で来月12日から始まるテーマ展、「松山城下図屏風の世界」で一般公開されます。 時の記念日に丸亀城で時太鼓ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034998801.html?t=1402418355106 10日は、日本で初めて時が刻まれた日とされる「時の記念日」です。 丸亀市の丸亀城では、地元のゆるキャラなどが、太鼓をたたいて時を知らせる「時太鼓」を打ち鳴らす催しが 開かれました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034998801_m.jpg 国の重要文化財に指定されている丸亀城の大手一の門は、太鼓門とも呼ばれ、江戸時代には、ここで太鼓を たたいて時を知らせていました。 丸亀市観光協会では、平成18年からこのならわしを復活させ、ほぼ毎日、正午に太鼓をたたいています。 「時の記念日」の10日は、丸亀市のゆるキャラや地元の保育所の園児など、およそ60人が参加して、「時太鼓」 を打ち鳴らす催しが開かれました。 園児たちは、童謡の「とけいのうた」を歌ったり、ゆるキャラと一緒にダンスを踊ったりして会場を盛り上げました。 そして、正午になると、ゆるキャラと園児などが交代で、元気よくバチをふるって太鼓をたたいて時を知らせていました。 参加した園児のひとりは、「楽しかった。太鼓をたたくとドーンっていう音がした」と話していました。06月10日 19時07分 世界記憶遺産:候補に「東寺百合文書」「抑留者引き揚げ」 http://mainichi.jp/select/news/20140613k0000m040051000c.html 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の国内委員会は12日、「世界の記憶」(通称・世界記憶遺産)の 2015年登録を目指す国内候補に関する選定委員会を開いた。 申請のあった4件から、京都市の東寺に伝わる国宝「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」と、 第二次大戦後のシベリア抑留者の引き揚げ記録「舞鶴への生還」の2件を選んだ。 今月中にユネスコに通知する。登録の可否は15年5〜8月に審議される。 世界記憶遺産の審査は2年に1回。自治体や団体が独自にユネスコに申請できるが、 同時期の推薦は原則として1カ国2件以内のため、初の国内選考を実施した。 東寺百合文書(申請者・政府)は1000年以上にわたって東寺に伝わる約2万5000点の文書で、 仏教史や寺院史の研究上、貴重な史料。足利義満の直筆や織田信長の印が入った文書もある。 保存性や日本文化の優れた点を示すことが評価された。 「舞鶴への生還」(同・京都府舞鶴市)は抑留者がシラカバの皮につづった「白樺日誌」など570点。 市文化財に指定され、世界的な重要性などが高評価を受けた。 この2点のほか、知覧特攻平和会館にある特攻隊員の手紙や遺書(同・鹿児島県南九州市) ▽部落解放運動に関する全国水平社創立宣言と関係資料(同・奈良人権文化財団など)--が申請され、 2件に絞るようユネスコから通知されていた。 「特攻隊員の手紙」は「日本からの視点のみの説明。世界的な重要性の説明が望まれる」と指摘。 「全国水平社創立宣言」は保存性や公開性の説明が必要とされた。 記憶遺産は世界各地の古文書や絵画を保護するのが目的で、1992年から始まった。 今年1月現在、世界で301件が登録されている。国内では、福岡県田川市などが申請した 「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」が11年に、江戸時代の鎖国直前の日欧交渉を伝える 「慶長遣欧使節関係資料」と、藤原道長の自筆日記「御堂関白記」の2件が13年に登録された。 山内資料館の館長が特別講座ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014424391.html?t=1403476294513 江戸時代に土佐藩をおさめた山内家の資料を保存する資料館の館長みずからが土佐藩の歴史を解説する 特別講座が22日、高知市で開かれました。 高知市の土佐山内家宝物資料館で開かれた特別講座には、地元の歴史ファンなどおよそ60人が参加しました。 この中で資料館の渡部淳館長が土佐藩の藩主と家臣の関係について解説し「江戸時代は藩主が家臣に土地を 与えることで主従関係が成り立っていたが、江戸時代の半ばごろから多くの藩で土地ではなく米やお金などを 現物支給するようになったものの土佐藩では幕末まで家臣に土地を与えるスタイルが続いた」と説明しました。 その上で渡部館長は「ふだん城下に住む武士も、隠居したあとには与えられた土地に住んだり墓を建てたりするなど、 その土地と強い関係を持ち続けた」として「幕末に土佐藩が地方の下級武士や農民を戦力として巻き込んで 朝廷と幕府の戦争に出兵できたのは土地を介して家臣と農民が密接な関係を維持していたことが背景にあるのでは ないか」と述べました。 講座を聞いた女性は「解説を聞いて、表面的な歴史ではなくより深く掘り下げた勉強ができました」と満足そうに 話していました。06月22日 19時50分 長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見、本能寺直前 http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=74042 戦国時代に土佐の武将だった長宗我部元親が四国の領土をめぐり織田信長の命令に従う意向を示した手紙が見つかり、 所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が23日発表した。 信長は、四国を元親の自由にさせる方針から一部しか領有を認めないことに変更。手紙は明智光秀の家臣斎藤利三に宛てたもので、 元親が従う姿勢だったことが確認されたのは初めて。 手紙は1582年5月21日付で6月2日に起きた本能寺の変は、織田と長宗我部の仲介役の光秀が 信長の方針転換に納得しなかったことが原因と考える説もあり、美術館は「本能寺の変に大きく影響した要因ではないか」と話す。 「四国説」支える書状発見tp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025282771.html?t=1403570206389 織田信長が明智光秀に討たれた1582年の「本能寺の変」の直前、四国の統治をめぐって四国の戦国大名、 長宗我部元親が光秀の重臣、斎藤利三にあてた書状などが岡山市の林原美術館が所蔵する古文書群に 含まれていたことがわかりました。本能寺の変がおきた理由を探る上で、貴重な発見として研究者の注目を集めています。 これは23日、林原美術館と岡山県立博物館が記者会見して明らかにしました。 林原美術館では所蔵する明智光秀の重臣、斎藤利三の親戚関係にあった石谷家に関する古文書群を岡山県立 博物館とともに調査していましたが、その中に四国の戦国大名、長宗我部元親と利三がやりとりをしていた書状 などが見つかりました。 このうち、本能寺の変の5か月前に斎藤利三が長宗我部家の自分の親戚にあてた書状では四国の一部の領有しか 認めないとする信長の提示を拒否した長宗我部元親に対して考え直してもらうよう働きかけを依頼しています。 また、元親から利三にあてた本能寺の変の10日ほど前の書状では、すでに四国への出兵を決めていた信長に 対して恭順の意を示していて、元親がこのいくさを避けようとしたことがうかがえます。 本能寺の変をめぐっては光秀が元親と親戚関係にある利三を通して、元親に四国全体を領有させようと交渉した ものの、信長が方針を変更して最終的には元親を討とうとしたため、反旗を翻したとする「四国説」があります。 今回、本能寺の変の直前の四国の政策をめぐる光秀の重臣と長宗我部家とのやりとりが書状という1次史料の形で わかったことで、四国説を支える有力な根拠となるものとみられます。 岡山県立博物館の内池英樹主幹は「四国説の弱点は後世に書かれた二次史料に基づいていたことだったが、 それを裏付ける有力な一次史料が初めて見つかったという意味で非常に貴重だ」と話しています。 今回見つかった史料の一部は林原美術館で7月19日から公開される予定です。06月23日 18時45分 6月23日のニュース林原美術館 本能寺の変 動機に迫る古文書ttp://www.webtsc.com/prog/news5/ これまで謎とされてきた本能寺の変を起こした明智光秀の動機に迫る古文書が岡山市の林原美術館で発見されました。 見つかったのは「石谷家文書」と呼ばれる古文書です。 明智光秀の重臣・斎藤利三や四国の戦国大名・長宗我部元親とも関わりの深い石谷家の文書をまとめたもので 、林原美術館と岡山県立博物館が共同で調査を進めていました。 3巻に47通の書状が確認され、長宗我部元親の親書4通や本能寺の変の直前に斉藤利三が石谷光政に送った 書状などが含まれています。 織田信長が京都・本能寺で、家臣の明智光秀に襲われ自決した本能寺の変については、光秀の動機について野望や 怨恨などのほか、 信長が長宗我部元親を討伐するのを阻止しようとしたとする四国説があります。 今回発見された書状からは、光秀が必死に仲介に当たっていることや、 信長の四国討伐が決まった後も元親が 信長の条件に従い最後まで戦いを避けようとしてた様子が伺える内容がみられます。 古文書は、林原一郎コレクションの中に含まれており、林原美術館の50周年企画展の調査で発見されました。 文書の一部は7月19日から林原美術館で公開されます。 「本能寺の変」で新史料発見されるttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140623_12 「本能寺の変」といえば、織田信長が明智光秀に討たれた日本史の中で最も有名な謀反の事件ですが、 光秀の動機は、これまで、謎とされてきました。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140623_12.jpg その謎を解く新たな史料が、岡山市北区の林原美術館で見つかりました。 光秀の謀反の動機が、なんと四国にあったとする説が有力になりそうです。 新たに発見された文書は、足利将軍家の側近だった石谷家にまつわるものです。本能寺の変は、1582年6月2日に起きました。 手紙は、直前の5月21日に四国の武将、長宗我部元親から明智光秀の重臣、斉藤利三に宛てた書状などです。 日付や、利光の名前、元親のサインである花押が読み取れ、本能寺の変の直前を知る重要な史料です。 岡山市北区の林原美術館には、国宝3点を含む様々な美術品が収められいます。 今回の史料は、戦後すぐに集められた文書資料の中から見つかりました。 明智光秀が本能寺の変を起こした動機については、様々な説がありました。 恨みや野望を持ったという説、黒幕がいたという説などがありますが定説はありませんでした。 その一つに、四国統一を目指した長宗我部元親が原因という説があります。 四国で力を付けてきた元親に対し信長は、6月3日に四国征伐の派兵を計画します。 本能寺の変は、派兵のまさに前日に起きました。書状の石谷家は、長宗我部元親に娘を嫁がせています。 実は、明智光秀の重臣で本能寺の変を企てたとされる斉藤利三も兄弟が石谷家におり、石谷家を中心とした 血縁関係にありました。石谷家文書は光秀の名前も見られます。 四国征伐前の緊迫した様子と、信長と元親の間で板挟みになる光秀・斉藤利三の様子をうかがうことができます。 これまで、元親と光秀・斉藤利三の関係は知られていましたが、両陣営が通じていたこと示す直接的な資料はありませんでした。 本能寺の変のタイミングや今回の史料によって、信長の四国遠征が謀反の引き金になった可能性が強まってきました。 この石谷家文書は、来月19日に林原美術館で開かれる特別展「武士のダンディズム」で公開されます。 戦国武将の古文書 公開ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025085771.html?t=1403596930645 戦国時代、織田と毛利との合戦で戦った武将が書いたと見られる古文書が、このほど美馬市の民家から見つかり、 24日から徳島市で公開されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025085771_m.jpg この古文書は美馬市の男性が10年ほど前、知人から購入し保管していたもので、戦国時代に今の鳥取県西部の 武将・南条元続が書いたと見られています。 書は、3枚にわたっていて織田側だった南条元続が毛利側との戦いで、功績があった家臣に褒美として75石を 与えると記されています。 南条元続は、織田と毛利の間で繰り広げられた山陰地方での戦いの際、秀吉の策略で織田側に寝返り、 戦況を変えた武将として知られ、大河ドラマ「軍師官兵衛」の時代背景を知る手がかりになるものと注目されています。 書を鑑定した徳島城博物館の森脇崇文学芸員は「紙の質と筆跡から、元続が書いた可能性が高い。 戦国時代の古文書は少なく、織田と毛利の戦いの空白を埋める貴重な手がかりになる」と話しています。 この古文書は7月13日まで徳島市立木工会館で展示公開されています。06月24日 12時32分 本能寺の変の要因文書発見かttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015454221.html?t=1403647425433 織田信長が明智光秀に討たれた1582年の「本能寺の変」の直前、四国の統治をめぐって四国の戦国大名、 長宗我部元親が光秀の重臣、斎藤利三にあてた書状などが見つかりました。 今回見つかった史料の一部は、ことし10月11日から高知県立歴史民俗資料館で公開される予定です。 岡山市北区にある林原美術館は岡山県立博物館とともに所蔵する明智光秀の重臣、斎藤利三の親戚関係にあった 石谷家に関する古文書群を調査していましたが、その中に四国の戦国大名、長宗我部元親と利三がやりとりを していた書状などが見つかりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015454221_m.jpg このうち、本能寺の変の5か月前に斎藤利三が長宗我部家の自分の親戚にあてた書状では四国の一部の領有しか 認めないとする信長の提示を拒否した元親に対して考え直してもらうよう利三が働きかけを依頼しています。 また、元親から利三にあてた本能寺の変の10日ほど前の書状では、すでに四国への出兵を決めていた信長に対して 恭順の意を示していて、元親がこのいくさを避けようとしたことがうかがえます。 本能寺の変をめぐっては光秀が元親と親戚関係にある利三を通して、元親に四国全体を領有させようと交渉したものの、 信長が方針を変更して最終的には元親を討とうとしたため、反旗を翻したとする「四国説」があります。 今回「本能寺の変」直前の四国の政策をめぐる光秀の重臣と長宗我部家とのやりとりが書状として見つかったことで 四国説を支える有力な根拠となるものとみられます。 岡山県立博物館の内池英樹主幹は「四国説の弱点は後世に書かれた二次史料に基づいていたことだったが、 それを裏付ける有力な一次史料が初めて見つかったという意味で非常に貴重だ」と話しています。 今回見つかった史料の一部は、ことし10月11日から高知県立歴史民俗資料館で公開される予定です。06月24日 20時03分 子どもが松山城を番傘で彩るttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005326061.html?t=1404027912715 松山市の観光名所、松山城で子どもたちが自分たちでデザインした番傘をさしながら、城までの道のりを練り歩きました。 これは、江戸時代の風情を色濃く残す松山城を昔ながらの番傘で彩ろうと松山城山ライオンズクラブが毎年行っています。 29日は、松山城の天守に近いロープウエーの駅舎に、地元の子どもたちなどおよそ30人が集まりました。 子どもたちが手にしたのは、自分たちで花火や城など思い思いの絵を描いた番傘です。 子どもたちは、うすく日がさす中、色とりどりの番傘を差しながら、ゆっくり城を目指して登って行きました。 子どもたちがデザインした番傘は、松山市に寄付され、8月末まで松山城を訪れた観光客に無料で貸し出されるほか、 城のライトアップのイベントなどにも使われるということです。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005326061_m.jpg 傘を作った小学4年生の男の子は「傘に色を付けるのはなかなか大変でしたが、観光客の人たちには大切に使って ほしいです」と話していました。06月29日 13時11分 初代藩主のよろいかぶと寄贈ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025465521.html?t=1404251142749 徳島藩の初代藩主、蜂須賀至鎮が関ヶ原の戦いで身に着けたとされるよろいかぶとが、徳島市の徳島城博物館に 寄贈され、7月8日から公開されることになりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025465521_m.jpg 徳島城博物館に寄贈されたのは、徳島藩の初代藩主、蜂須賀至鎮のよろいかぶとで、銅の部分には、金や朱で竜の 模様が描かれ、かぶとの両側に蜂須賀家の家紋があしらわれています。 至鎮は、15歳の時、このよろいかぶとを着用して関ヶ原の戦いに東軍の一員として出陣し、いったん返上していた 阿波の国を再び徳川家康から拝領したとされていて、徳島藩の歴史を物語る貴重な資料だということです。 1日、博物館で行われた贈呈式では、よろいかぶとを所蔵していた海陽町の郷土史研究家、岡田一郎さんが徳島市の 原秀樹市長に目録を手渡しました。 岡田さんは「郷土の一級品は県民の物だと考え、寄贈することにしました。県民の皆さんに大事にしてもらいたいと 思います」と話していました。 徳島城博物館の根津寿夫学芸員は「貴重な資料の寄贈を受けて感激しています。定期的に展示会を開いて多くの 人に見てもらいたいです」と話していました。 寄贈されたよろいかぶとと13代藩主斉裕が所蔵したとされる短刀は、7月8日から徳島城博物館で公開されます。 07月01日 19時18分 軍師官兵衛展 始まるttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015367991.html?t=1404373352221 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の撮影で使われた衣装などの展示会が3日からNHK高知放送局で始まりました。 この展示会は大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送に合わせてNHKが全国各地で開いています。 会場には、岡田准一さんが演じる主人公の官兵衛や、江口洋介さんが演じる織田信長の衣装が展示されています。 また、信長が官兵衛に与えた刀や官兵衛の軍配など、番組に登場した道具なども並べられています。 このほか、岡田さんをはじめ、官兵衛の妻の「光」を演じる中谷美紀さんや、豊臣秀吉役の竹中直人さんなど、 出演者12人のサイン色紙も展示されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015367991_m.jpg この展示会は今月8日まで、高知市本町のNHK高知放送局1階のハートプラザギャラリーで開かれています。 入場は無料です。07月03日 13時09分 「備中高松城の水攻め」展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025358201.html?t=1404458235034 戦国時代、NHK大河ドラマの主人公、黒田官兵衛が、羽柴秀吉とともに岡山市にあった備中高松城を「水攻め」 にした史実を物語る史料の展示会が4日から岡山市で始まりました。 「備中高松城の水攻め」は、戦国時代、羽柴秀吉が今の岡山市にあった備中高松城を攻めるのにあたって 城の周りに土手を築いて雨で増水した川の水を引き入れて戦ったもので、黒田官兵衛も関わったとされています。 会場の岡山市北区にある岡山県立博物館には水攻めの状況を物語る書状や刀などあわせて12点が展示されています。 このうち「原田直次書状」は水攻めのための土手を築き始めた日に秀吉の家臣が書いたもので、当時、このあたりで 雨が降り続いていたことを示す貴重な資料です。 また「蜂須賀正勝書状」は秀吉の重臣の正勝が官兵衛と協力して、秀吉軍に対する地元の神社の依頼に対応 していたことがうかがえる書状です。 水攻めについては、江戸時代など後世に書かれた書物に記載されている一方で、当時書かれた書状はほとんど 残されていないということで、岡山県立博物館の内池英樹主幹は「水攻めに関する一次史料は非常に貴重なので、 当時の戦国武将の姿を思い浮かべながら見てほしい」と話しています。 この展示会は岡山市北区の岡山県立博物館で7月27日まで開かれています。07月04日 12時41分 ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025358201_m.jpg ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025358201.html?t=1404508958983 7月4日のニュース 岡山県重文 備前刀3本が所在不明ttp://www.webtsc.com/prog/news5/ 岡山県教育委員会はきょう県指定の美術工芸品の重要文化財192点のうち、備前刀3本の所在が不明になっていると 発表しました。 所在不明となっているのは、県内の個人3人が所有していた備前刀で、いずれも平安から鎌倉時代にかけて作られた 伊予松山藩主久松家伝来の刀と、 尾張犬山城主成瀬家伝来の短刀、それに太刀の合わせて3本です。 去年11月、国の重要文化財が全国で相次いで所在不明となっていることが判明したことを受け、県でも県の 重要文化財全てを対象に調査していました。 所在不明の備前刀3本については、いずれも所有者が10年以上前に亡くなっていて、遺族にも相続されていないと いうことです。岡山県教委では3本について今後、指定取り消しも検討するということです。 所在不明の重文 愛媛では4点ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005695731.html?t=1404524892956 国の重要文化財に指定されている美術工芸品のうち、愛媛県内では、大山祇神社に所蔵されていた太刀や刀など、 刀剣4点の所在が分からなくなっていることが文化庁の調査でわかりました。 文化庁は、国指定の文化財のうち美術工芸品について、去年11月、各都道府県の教育委員会に依頼して 所在確認の調査を進め、4日、調査結果の概要を発表しました。 それによりますと、全国で109点、愛媛県では4点の所在がわからなくなっています。 このうち、大山祇神社では鎌倉時代に北条時宗が奉納したとされる「太刀銘行真」と伊藤博文が奉納したとされる 桃山時代の刀、あわせて2点が昭和17年に盗難にあって行方がわからなくなっていることがわかりました。 このほか、新居浜市の個人が所有していた平安時代の傑作、「剣銘国永」と徳川家康が所有していたとされ、 伊予市の個人が所有していた鎌倉時代の「刀無銘伝助真」の行方がわからなくなっています。 文化庁や県教育委員会では、所有者に定期的に連絡を取るなど文化財の所在についての情報を把握する体制を 強化していくことにしています。07月05日 09時28分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005695731_m.jpg 平安から明治の備前焼展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025751801.html?t=1404606159970 平安後期から明治の初期にかけての窯跡から出土した備前焼を紹介する展示会が備前市で開かれています。 この展示会は備前焼の歴史を知ってもらおうと備前市伊部の備前市埋蔵文化財管理センターで開かれているもので、 平安後期から明治の初期にかけて作られた壺や徳利、それに皿などあわせて34点が展示されています。 このうち「陶馬」と呼ばれる馬の形をした焼き物は安土桃山時代のものとみられ足の先に紐を通す穴がありますが 用途は分かっていない珍しい一品です。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025751801_m.jpg また、小さな注ぎ口がついた「油壺」は、江戸時代の中期のころのもので炎があたった鮮やかな朱色と薄茶色の 部分とのコントラストが目を引きます。 この展示会は備前市伊部の備前市埋蔵文化財管理センターで7月21日まで開かれています。07月05日 19時00分 県重文3つの刀が所在不明にttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025691861.html?t=1404690400282 全国で文化財が所在不明になっている問題を受けて、岡山県教育委員会が県指定の重要文化財を調査したところ、 県内で保管されているはずの3つの刀が所在不明になっていることが確認されました。 岡山県教育委員会は、市町村とともに、県の重要文化財に指定されている190の工芸品や彫刻などについて、 博物館や美術館、それに個人のもとを訪れて、実際に文化財があるかどうか確認しました。 その結果、これまでに、3つの備前刀が、所在不明となっていることがわかりました。 所在不明となっているのは「刀 無銘 伝備前国長船近景」「短刀 助光」、「太刀 銘宗義造」の3つです。 いずれも、所有者が10年以上前に死亡していて、新たな所有者が届け出を行っていないということです。 岡山県教育委員会が県指定の重要文化財の所在確認を行ったのは、昭和55年以来で、 前回の調査では6件が所在不明となり、翌年に指定を取り消していて、今回も、 このまま所在がわからなければ指定の取り消しもありうるということです。 岡山県教育委員会では今年度中に文化財の所有者向けに、保管方法や必要な手続きについてまとめた手引きを 作成することにしていて、今後は、国が4年に一度行う調査とあわせて所在確認を行うことにしています。 岡山県教育委員会文化財課では、「貴重な地域の宝である文化財が適切に保存されるよう徹底し、 再発防止に努めたい」と話しています。07月06日 21時11分 本能寺の変 資料発見で講演会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025506391.html?t=1404690521241 織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」が起きた理由を探る上で、貴重な史料とされる当時の書状が岡山市の 林原美術館で発見されたことを受けて、この書状などをテーマにした講演会が備前市で開かれました。 備前市の県教育センター「閑谷学校」で開かれたこの講演会には歴史ファンなどおよそ60人が集まり、岡山市にある 林原美術館の谷一尚館長が講演を行いました。 林原美術館では「本能寺の変」の直前に光秀の重臣、斉藤利三と四国の戦国大名、長宗我部元親が信長による 四国統治などを巡って交わした書状が発見されました。 講演会では谷一館長がこの書状について解説し、四国の領有をめぐり、信長に抵抗していた元親が 信長の四国への出兵を避けようと一転して恭順の意を示したことが書いてあると説明しました。 その上で、谷一館長は「元親のこの書状が書かれる前に信長はすでに四国出兵を決めていたため、 光秀がこの信長の方針に不満を持ったとも想像できる」と述べ、訪れた人たちは興味深そうに聞き入っていました。 07月06日 21時11分 ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025506391.html?t=1404723686735 ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025506391_m.jpg 台湾も「抗日」「慰安婦」記念館=来年開設の意向 時事通信 7月7日(月)20時31分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140707-00000128-jij-cn 【台北時事】台湾の馬英九総統は7日、「抗日戦争勝利70周年」となる2015年に「抗日戦争記念館」と 「慰安婦歴史展示館」を開設する考えを示した。 馬総統はこのところ、対日関係で厳しい姿勢を見せている。 馬総統は同日、日中戦争の発端となった盧溝橋事件77年の関連イベントに出席。 節目となる15年について、「台湾にとって非常に重要だ」と強調。 歴史的事実の保存を目的に国防部(国防省)など関係部署に二つの施設開設を指示したことを明らかにした。 最終更新:7月7日(月)20時31分 蜂須賀至鎮のよろいかぶと公開ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025465661.html?t=1404804358481 徳島藩の初代藩主、蜂須賀至鎮が、関ヶ原の戦いで身につけたとされるよろいかぶとなどの公開が8日から徳島市で 始まり、早くも歴史ファンが訪れています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025465661_m.jpg 徳島市の徳島城博物館で公開が始まったのは、徳島藩の初代藩主、蜂須賀至鎮のよろいかぶとと、 13代藩主斉裕の短刀です。 このうち、よろいかぶとは、至鎮が、関ヶ原の戦いで着用して東軍の一員として出陣し、いったん返上していた 阿波の国を再び徳川家康から拝領したとされていて、徳島藩の歴史を物語る貴重な資料のひとつです。 よろいの胴には金や朱で竜の装飾が施されているほか、かぶとは、「えぼし」と呼ばれる昔の役人の帽子を かたどっていて、芸術的な評価も高いということです。 このほか、短刀は、南北朝時代の刀職人、長船兼光の作とされていて、精密な竜の模様が彫られています。 神戸市から来た71歳の男性は、「スマートなデザインのよろいかぶとで、洗練された美意識のようなものを感じました」 と話していました。 また、徳島城博物館の根津寿夫学芸員は、「至鎮の人となりも伺い知ることができる資料なので、来た方には徳島の 歴史の面白みを感じてもらえればと思います」と話していました。よろいかぶとと短刀は、8月17日まで公開されます。 07月08日 12時35分 JKお散歩もびっくりステッキ・ガール等 昭和初期の風俗紹介 【書評】『日本歓楽郷案内』酒井潔著/彩流社/本体3800円+税 http://www.news-postseven.com/archives/20140709_260326.html 本書は、昭和6年(1931年)に刊行された同名の書籍の復刻版である。著者は大正末期から 昭和初期に流行したエログロナンセンス文化の牽引車として知られる編集者、著述家で、 当時の風俗文化を扱った編著書の多くが刊行当初に発禁処分を受け、その後伏せ字処理を施して刊行された。本書も同様だ。 内容は、当時の東京の2大歓楽街だった銀座と浅草を中心に、新宿、大阪、横浜、神戸を加えた歓楽街の探訪記。 ただし、当時は合法だった吉原などの遊郭は取り上げず、今で言う「裏風俗」を中心に訪ね歩く。 例えば、夜になると銀座にも出没して売春を行なった「ストリート・ガール」に始まり、恋人や夫人の気分で 散歩に付き合う「ステッキ・ガール」、カフェーや喫茶店で話し相手になる「スピーキング・ガール」、 「中流以上の夫人や、デパートの女や、れつきとした旦那を持つお妾さん」が相手をする「高級魔窟」……。 〈夜の街には戀(こい)の波が渦卷き、歡樂の焔が赭々(あかあか)と燃える。凡(あら)ゆる華洒な装餝を施したモダン東京は、 今やその體内(たいない)から發散する異常な情熱で、若きプリマドンナの様に輝かしく匂ふ〉(ルビは編集部) 本書が刊行されたのは、関東大震災(大正12年=1923年)による破壊とその後の 急速な復興によって東京から江戸情緒が消滅し、都市化が一気に進んだ時期。 しかも、戦争が暗い影を落とすのはもう少し先のことだ。 そんな狭間の時期に、都市には快楽というあだ花が狂い咲きした。著者の洒脱な筆は、 その妖しい様と人々の息吹を生々しく伝える。今とは違う風俗の中身も興味深いが、 当時の独特の雰囲気を味わうだけでも愉しい。 ※SAPIO2014年7月号 問題の画像 http://digital.asahi.com/articles/images/AS20140708004571_comm.jpg 15世紀(室町時代)の壺(つぼ)に納められた4万枚以上の古銭が、 京都市下京区のマンション建設現場付近で見つかった。文化財調査会社 「イビソク」関西支店が8日発表した。まとめて埋められた銭は「一括出土銭」 と呼ばれ、全国で200例以上確認されているが、壺に入った状態が詳細に 観察できるのは珍しいという。 壺は高さ66センチの備前焼。深さ約50センチの地中に埋まっており、 ふたはなかった。銭は穴にひもを通した状態で97枚が1束になっていた。 当時の商習慣では、ひもを通した状態の97枚を100枚とみなしていた。 「開元通宝」(621年初鋳)から「宣徳通宝」(1433年初鋳)まで約50種類に及び、 宋銭が多かった。現在の貨幣価値で約400万円相当に なるという。 現場は高島屋京都店南側の繁華街のど真ん中。戦乱や天災などに備えた備蓄、 神仏に捧げるための埋納などの目的があったとみられる。出土銭に詳しい堺市 文化財課の嶋谷和彦学芸員は「壺の側面がきれいに割れており、収納の様子を 断面で見られる貴重な例だ」と話す。 現地説明会はないが、今後公開を検討するという。 http://digital.asahi.com/articles/ASG783PKWG78PLZB006.html 松山城下図屏風公開始まるttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005506101.html?t=1405207236463 江戸時代の松山城やその城下町が細かく正確に描かれた貴重な屏風の初めての展示が、12日から愛媛県西予市の 博物館で始まりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005506101_m.jpg 愛媛県の歴史文化博物館で展示が始まったのは、「松山城下図屏風」です。 縦1メートル80センチ、横3メートル余りの2枚の屏風からなり、松山城を中心にして松山の町並みを上空からの 視点で描かれています。 およそ300年前、江戸時代の中期の松山城や武家屋敷、庶民が暮らしたかやぶき屋根の家などが、これほど細かく 正確に描かれた絵はほかに残っておらず、当時の町並みを知る貴重な史料です。 この屏風は、ことし5月に博物館に所蔵されたばかりで、これが初めての展示です。 会場にはこのほかにも、高松城とその城下町を描いた屏風など、およそ90点の関連史料が展示されています。 この高松城の屏風は人や船も描き込まれていて、当時の人々の生活までかいま見られるという特徴がありますが、 建物の位置がでたらめなところもあります。 2つの屏風を見比べると、松山城のものは、建物の位置や構造を正確に描こうというこだわりの強さがうかがえ、 絵師が事前に現地調査を積み重ねて描いたのではないかと推測されています。 この展示会は、7月いっぱいまで開かれています。07月12日 19時03分 「武士のダンディズム」の魅力ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140716_3 今月19日から、林原美術館で特別展「武士のダンディズム」が始まります。 その目玉、本能寺の変の謎を解く新たな資料、石谷家文書を紹介します。 「本能寺の変」で天下統一を目指す織田信長は明智光秀に討たれますが、光秀がなぜ謀反を起こしたのか? 動機は、謎とされてきました。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140716_3.jpg 恨みや野望を持ったという説、黒幕がいたという説などがありますが定説はありませんでした。 その一つに、四国統一を目指した長宗我部元親が原因という四国説があります。 今回、展示される手紙は、本能寺の変の直前に四国の武将、長宗我部元親から明智光秀の重臣で本能寺の変を 企てたとされる、斉藤利三に宛てた書状などです。本能寺の変の直前動きを知る重要な史料です。 手紙は当時の緊迫した様子と、信長と元親の間で板挟みになる光秀・斉藤利三の様子がうかがえます。 石谷家と長宗我部元親、それに明智光秀の重臣・斉藤利三は濃い親戚関係ににありました。 四国統一目指す元親に対し、信長は6月に四国征伐の派兵を計画します。本能寺の変は、派兵のまさに前日に起きました。 今回の史料によって、信長の四国征伐が光秀謀反の引き金になった可能性が強まってきました。 林原美術館の特別展、「武士のダンディズム」は19日から始まります。 19日から開催 「武士のダンディズム」ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140717_5 19日から、岡山市北区の林原美術館で、特別展「武士のダンディズム」が開かれます。 初めて公開される、本能寺の変に関する幻の書状などを、一足先に見てきました。精巧な作りの色鮮やかな甲冑が目を引きます。 会場には林原美術館の所蔵品を中心に、武士が身に着けた甲冑や刀剣など約70点が展示されます。 初代岡山藩主・池田光政の甲冑です。簡素でありながらもつややかに光る漆の輝きが、多くの歴史ファンを魅了しています。 鎌倉時代に作られたこの備前刀は、重要文化財にも指定され、今も変わらず神秘的な輝きを放っています。 江戸時代になって戦が減ると、兜や甲冑はますます華やかになり、藩主の個性や威厳を示すシンボルになりました。 甲冑の上に着る陣羽織なども展示されていて、きらびやかな色使いや装飾を目にすると、 これまでの「武士」のイメージが変わるかもしれません。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140717_5.jpg 特別展、「武士のダンディズム」は19日から岡山市北区の林原美術館で開かれます。 本能寺の変直前の書状一般公開ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025980831.html?t=1405816731787 明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の直前、光秀の重臣と四国の大名、長宗我部元親が交わしたとされる 新たに見つかった書状が19日から岡山市の美術館で一般に公開されています。 この書状は「本能寺の変」の直前に四国の統治をめぐって四国の戦国大名、長宗我部元親が光秀の重臣、 斎藤利三にあてた書状です。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025980831_m.jpg すでに四国への出兵を決めていた信長に対する恭順の意を示していて、元親がこのいくさを避けようとしたことが うかがえます。 この書状の一般公開が所蔵する岡山市北区の林原美術館で19日から始まり、新発見の史料を一目見ようと 開館直後から多くの人が訪れました。 本能寺の変をめぐっては光秀が利三を通して元親に四国全体を領有させようと交渉したものの、信長が方針を変更 して最終的には元親を討とうとしたため、反旗を翻したとする「四国説」があります。 今回の書状はこうした四国説を支えるものとされ、本能寺の変が起きた理由を探る上で貴重な発見として研究者の 注目を集めています。岡山市の70代の男性は「当時の緊迫した状況がよくわかりました。 一次史料を直接見られて感動しました」と話していました。 林原美術館学芸課の浅利尚民課長は「四国説を補強する史料でぎりぎりの状況になっても交渉を続けたいという 長宗我部元親の必死な気持ちが伝わる書状です。当時の戦国武将の心情に注目して見て欲しい」と話しています。 この展示会は岡山市北区の林原美術館で9月15日まで開かれています。07月19日 14時37分 「武士のダンディズム」林原美術館で開幕ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140719_2 戦国武将の甲冑や刀剣などを集めた特別展「武士のダンディズム」が、岡山市北区の林原美術館で19日から始まりました。 ユニークな表情のトンボをあしらった兜です。 会場には、鎌倉から江戸時代にかけての甲冑や陣羽織などおよそ70点が展示されています。 19日は学芸員によるギャラリートークも行われ、大勢の歴史ファンでにぎわっていました。初公開の書状です。 明智光秀の重臣に宛てたもので、本能寺の変の謎をとく手がかりになると注目されています。 この特別展は9月15日まで開かれています。 大三島で「鶴姫まつり」にぎわう(愛媛県)ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8784658.html 戦国時代に活躍したと伝わる鶴姫にちなんだ「鶴姫まつり」が今治市の大三島で行われ、武者行列ではタレントの 河北麻衣子さんが鶴姫役で登場しイベントを盛り上げた。 今治市大三島町で行われた「三島水軍鶴姫まつり」では、タレントの河北麻衣子さんが今年の鶴姫役を務めた。 大山祗神社の境内では大勢の見物人が見つめる中、歴史絵巻を再現したアトラクションが行われた。 この後、鶴姫役の河北さんが和船に乗り込み出陣の合図を伝えると、太鼓の音に合わせて武将や兵士姿に 身を包んだ地元の小中学生約100人が参加して武者行列が繰り広げられた。[ 7/21 8:37 南海放送] 松山城壁を機動隊が清掃ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003076131.html?t=1406099190708 松山市の松山城で、23日、県警察本部の機動隊の隊員が、山岳救助の技術を生かして城壁の清掃活動を行いました。 これは松山城の登山道などを利用して毎朝、訓練している県警察本部の機動隊が4年前から毎年、この時期に 行っているもので、23日は、機動隊の隊員46人が参加しました。 隊員たちは、山から滑落した遭難者を助けるときなどに使う、「懸垂降下」と呼ばれる山岳救助の技術を生かして、 清掃活動を行いました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003076131_m.jpg ロープで体を支えた隊員たちは、城壁を降りながら、石垣のすき間に生えている雑草を引き抜いたり、刈りとったり して作業は、1時間あまりで終わりました。 城を管理する男性職員は、「雑草がなくなり、上の方までよく見えて城壁がとても高いことに改めて気づかされました。 訪れた人たちも、働く職員も、良い気持ちになると思います」と話していました。 県警察本部警備部機動隊の清水俊勝副隊長は、「朝のランニングで使わせてもらっている松山城を感謝の気持ちを 込めて掃除しました。訪れた人たちが気分よくお城を見てくれたらうれしいです」と話していました。07月23日 12時32分 誤解招く史跡の看板が修正されるttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140725_11 豊臣秀吉の水攻めで知られる岡山市北区の高松城址公園の「誤解を招く」と指摘があった看板が、25日修正されました。 先週のイブニングニュース、「どうにかならぬか」でとりあげた看板です。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140725_11.jpg 修正された看板は、水攻めがあった際の堤防や本丸の高さを示すものです。 堤防の高さが8.4m、本丸の高さは7mと実際の高さで表示されました。 先月、岡山市がこの看板を設置したところ、本丸が実際より1m以上高い位置に書かれているなどの指摘があり、 急遽、断わりの小さなシールを貼っていました。正しい表示になった看板は、早速、観光客の案内に使われていました。 岡山市は、わかりにくいと指摘のあった本丸跡の位置を示す看板を修正しました。 テレビドラマの影響で観光客が増えている高松城址公園です。これからは、水攻めの歴史を正しく思い描くことができそうです。 明治維新は、旧韓末に開化と近代を夢見た朝鮮の知識人にとって、モデルケースであるとともにコンプレックスでもあった。朝鮮より遅れていると思われた日本が、瞬く間に富国強兵を成し遂げ、西欧列強と渡り合える国に成長したからだ。 なぜ日本は近代化に成功し、韓国は取り残されたのか。東京大学で日本史を学び、博士号を取得した朴薫ソウル大学教授は、挑発的な回答を用意している。 明治維新成功の半分は徳川幕府のおかげ、と朴教授は説明している。維新勢力が覆そうとしていた旧体制(アンシャンレジーム)の幕府が、近代化の有功者だというのか。19世紀に西洋勢力の進出に直面した幕府は、西洋の文物を率先して受け入れ、体制改革に乗り出した。 幕府は維新勢力に比べ依然として強大な力を持っていたが、決定的瞬間に権力を維新勢力へ渡して後退し、日本の近代化を早める役割を果たした。ほかの国々の旧体制と比較すると、徳川幕府は時代の流れに対処する、見るもまれな躍動性を備えていた―というのが朴教授の判断だ。 「無能な幕府」という常識を覆す評価だ。 日本がいち早く西洋の文物を受け入れ、改革を促進させることができたのは「過剰な危機意識」のため―という説明もユニークだ。 知識人は、西欧の侵入に積極的な対処をすべきと主張した。ところが当時の西欧列強には、日本を侵略する意志も能力もなかったため、当時の外圧は日本が考えていたほど危険ではなかったという。 旧体制の古い学問と見なされている儒学が明治維新を触発する背景になった、という説明も議論を呼ぶだろう。 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/07/26/2014072600797.html 総社の土木遺産「猿尾」を地元住民が発掘ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140727_3 総社市に古くから伝わる土木遺産「猿尾」を数十年ぶりに発掘しようと、地域の人たちが作業を行いました。 総社市で行われた発掘作業には、地元の人とボランティアのおよそ30人が参加しました。 猿尾は、江戸時代後半に高梁川の水の勢いを抑えるために作られた土木遺産です。 この地区は、猿尾によって高梁川の水害から守られていましたが、近代の護岸の技法が取り入れられてからは 手入れが行き届かなくなり、60年ほど前から藪の中に埋もれていました。 参加した人たちが鎌や草刈り機などを手にして草や雑木を取り払うと、およそ60年ぶりに猿尾の石畳が顔を のぞかせました。 2014.7.30 19:31松山城が全国2位にランクイン!ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=46668 世界最大の旅行口コミサイトが行った、日本の城のランキングで、松山城が第2位に選ばれました。 このランキングは、アメリカの世界最大の口コミサイトが「行ってよかった!日本の城」と題して毎年行っていて、 今年は松山城が熊本城に次いで2位に選ばれました。去年の6位から大幅のアップです。 このランキングは、国内外の観光客の口コミを評価したもので、松山城は天守閣からの眺めやリフトなどの利便性、 ボランティアのおもてなしなどが高い評価を得ました。姫路城は3位、天空の城で人気の竹田城跡は8位でした。 各地の名城を抑えての高評価に松山市は、「とてもうれしい。今後も楽しい思い出を作ってもらえるよう、 おもてなしをしていきたい」と話しています。 土佐清水の歴史たどる冊子ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013322331.html?t=1406771614643 県内の各地域ごとの歴史を記録に残す取り組みを進めている高知市の「土佐山内家宝物資料館」はこのほど、 土佐清水市の清水地区の歴史をまとめた冊子を発行しました。 土佐山内家宝物資料館は、過疎化や高齢化によって失われるおそれのある地域の多様な歴史を、江戸時代の村の 単位ごとに記録に残す取り組みをおととしから行っています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013322331_m.jpg このほど県西部としては初めて、土佐清水市の清水地区で地元の人と共同で調査を行い記録をまとめた冊子を 発行しました。 冊子では清水地区が室町時代後期から戦国時代にかけて近畿地方と中国の王朝「明」を結ぶ海上交通路の拠点と なる港だったことや、17世紀中頃に現在の和歌山県の漁師からかつおの一本釣りの漁法やかつおぶしを煙で いぶしてつくる製法が伝えられたことなどが、当時の絵や写真を交えて紹介されています。 さらに明治の終わりから大正にかけて土地不足を解消しようと、沼地を埋め立て新たな市街地を造成し、 銀行や劇場が建てられたことなどが紹介されています。 冊子は合わせて5000部作られ土佐山内家宝物資料館で無料で配付しています。 資料館は「歴史を振り返ることで現在も伝わる伝承や景観を次の世代に残すきっかけにしてほしい」と話しています。 07月31日 09時58分 新資料館の起工式ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013298581.html?t=1406793798998 江戸時代に土佐藩主をつとめた山内家に伝わる貴重な歴史資料などを展示する、新たな資料館の起工式が31日、 高知市で行われました。 新しい資料館は、山内家に伝わるおよそ6万7000点もの資料を保存、展示している、「土佐山内家宝物資料館」 が老朽化したことなどから、高知県が高知市中心部の高知城の近くに整備します。 起工式には、高知県の尾崎知事や工事関係者らおよそ40人が出席し、くわ入れなどをして、工事の安全を祈りました。 新しい資料館はおよそ60億円をかけて建設され、鉄筋コンクリート造り3階建てで延べ床面積はおよそ5700平方 メートルと、これまでの資料館の10倍程度の広さになる見込みで、展示品をゆったりと観賞することができるように なります。 南海トラフの巨大地震に備えて最新の免震構造を採用し、津波の被害から貴重な資料を守るために収蔵庫や 展示室を2階より上に配置することにしています。 高知県は平成28年度中の開館を目指していて、資料の保存や学術研究の拠点、それに観光や地域振興に 役立てたいとしています。07月31日 12時29分 武士のダンディズム 人気集めるttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140807_4 戦国時代の武将の甲冑や刀剣などを集めた特別展、「武士のダンディズム」が開かれている林原美術館で、 学芸員によるギャラリートークが人気を集めています。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140807_4.jpg 兜や甲冑の謂われや見どころなど、実物を前に、学芸員の説明を聴くことができるギャラリートークです。 週に2回のペースで行われていて、多いときは、40人近くの人が訪れるといいます。 現代に残っていない珍しい装束や、道具の説明に熱心に耳を傾けていました。 このメガネは火事の時、火の粉をよけるためにかけたとみられています。 ギャラリートークは、土曜日を中心に予定されていて入館料のみで楽しめます。 また今月10日には、若手舞踊家の花柳大日翠さんが踊りを披露するほか、今月14日には、 岡山出身のハリウッド俳優、小山田真さんのトークショーも予定されています。 2014年08月13日 奈良・都塚古墳、蘇我稲目の墓か 階段状石積みの大型方墳 http://www.saga-s.co.jp/news/national/10201/93663 奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)は階段状に石積みされた大型方墳と分かり、 調査した村教育委員会と関西大考古学研究室が13日、発表した。方墳は墳丘を土で2、3段に築くが、 都塚はピラミッドのような特異な外観だったとみられ、国内では例がほとんどないという。 規模も一辺約40メートルと判明、当時の天皇陵に匹敵する。飛鳥時代の大豪族蘇我馬子の墓とされる 石舞台古墳(7世紀前半)を見下ろす場所にあり、馬子の父稲目(570年没)の墓との見方も出ている。 都塚古墳は1967年、関西大が発掘し、30メートル規模の方墳か円墳とみられていた。 都塚古墳は“ピラミッド型”か http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140813/k10013784831000.html 奈良県明日香村にある「都塚古墳」が、石を階段状に積み上げたピラミッドのような極めて珍しい形をしていた 可能性が高いことが地元の教育委員会などの発掘調査で分かりました。 研究者からは、古代の「高句麗」の王族のものとみられる墓に形が似ていることなどから、渡来人と関係が 深かった豪族の蘇我稲目が埋葬されたのではないかという説も出て、今後、議論を呼びそうです。 (以下略 高校に「近現代史」新設検討 文科省、日本史必修化で http://sankei.jp.msn.com/life/news/140817/edc14081710100001-n2.htm 平成28、29年度にも予定される学習指導要領の全面改定にあたり、文部科学省が高校の地理歴史科で、 日本史と世界史を統合した科目「近現代史」を新設する検討を始めたことが16日、関係者への取材で分かった。 文科省は、高校日本史の必修化を秋にも中央教育審議会に諮問する方針だが、 その際、近現代史の新設も議論の対象となる見通し。 文科省関係者によると、近現代史の新設は、文科省が目指す高校日本史の必修化に伴う措置。 単純に必修科目を増やしただけでは生徒や教員の負担が大きくなるため、必修科目の入れ替えや複数科目の統合が必要になるが、 近現代史を学ぶ現行の「日本史A」と「世界史A」を統合して新科目を創設する案が浮上しているという。 また、先の大戦をめぐり中国や韓国が日本への批判を強める中、明治以降の日本の近代化の歩みを 世界史と関連づけながら深く学ばせることで、国際社会で自国の立場をきちんと主張できる日本人を育成する狙いもあるとみられる。(ry 伊能忠敬の地図 間宮林蔵が北海道全域測量か 2014/8/18 21:59 江戸時代の測量家、伊能忠敬が作成した日本地図で、北海道は全域が探検家、間宮林蔵の測量に基づくとする分析を伊能忠敬研究会が18日、発表した。 北海道は北岸部分が間宮、南岸は伊能の測量によるとされていたが、定説を覆す可能性が出てきた。 研究会は、伊能が1800年に北海道南岸を測量してつくった地図のデータと、約20年後に完成した全国地図の画像を比べた。 2つの地図を重ね合わせると、南部の海岸線は最大数キロ程度ずれていたことが分かり、 「同じ測量データを使ったとは考えにくい」(研究会)として間宮の寄与が浮かび上がった。 間宮は、伊能が北海道南岸を測量した際に弟子入りし、樺太探検を終えてから江戸の伊能宅を頻繁に訪れるなど親しい関係が続いていた。 このため研究会は、伊能が調査した南岸を、再測量できる立場にあったのは間宮以外いなかったとみる。 研究会の渡辺一郎名誉代表は「伊能は最初に測量した北海道の結果には自信がなかったと日記に書いている。 間宮の能力を評価して再測量を依頼したのではないか」と話している。 伊能の地図は火災で多くが失われたが、2001年に米国で最終版の写しが見つかった。 研究会は発見資料と、日本の国立公文書館が所蔵する地図の電子データを比較し、分析した。〔共同〕 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG1803L_Y4A810C1CR8000/ 鎌倉後期の山賊と武士たちの戦闘を描いた絵に、白人らしき人がいると海外のサイトで紹介されていたのでご紹介です。 http://1.bp.blogspot.com/-s4ykFJk4T-M/U_NARqNd2tI/AAAAAAAAHLo/HX_rB5Glv_0/s1600/saseki2.jpg http://3.bp.blogspot.com/-lRUsM612i_c/U_M-HKyTC8I/AAAAAAAAHLg/OlFPioreiMY/s1600/k9vplbrwtfci4pfoanhv.jpg http://1.bp.blogspot.com/-EmGLvT174_8/U_M-FCXiXMI/AAAAAAAAHLY/RwleGXpJxSU/s1600/utmllql7zawiran4nkua.jpg 男衾三郎絵詞から、山賊と武士たちの凄まじい戦闘シーン。 上図、右上の太刀を担いだ男だが、甲冑、武具は他の武士と同じにもかかわらず、見慣れぬ三角帽子をかぶり、長い金髪をなびかせる。 高い鼻、ぎょろ目、しゃくれた顎、妙に長い手指の爪、異類異形の輩、なるほどヨーロッパ系に見える。この絵巻の成立は、鎌倉後期13世紀頃と云う。 考えてみれば、元朝の中枢部に入り込んだ、ヴェネツィアの商人、マルコポーロは同時代の人だ。 大陸と日本列島の行き来も、非常に活発であったことは言うまでもないし、元寇で使われた新兵器だって、中東で十字軍相手に 飛び交ったものと同じじゃないかと…中世世界を甘く見ちゃいけない。 http://tokyo-metanoia.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-320d.html 以下、海外の反応。 – これが映画”ファースト・サムライ”の前編ってことか – トムクルーズか!?本物のラストサムライ!? – きれいなマニキュアなんかして、彼はおしゃれな男だったのかな? – これは明らかにヒーローズに出てくるタケゾウ・ケンセイだな – 色素欠乏症の日本人だっているだろ – 彼の視線の先を見れば、なぜ彼が顔を赤らめているのかが分かる。 – ウィリアム・アダムスかと思ったけど、でも彼の肖像画とはかけ離れているし、13世紀には生まれてもなかったねw – リチャード・チェンバレンが出演した将軍という映画を思い出すね。子供の時はとても好きだったよ。自分が日本に魅せられるのもそれが理由だろうね。 – 違うな、これは伝説の戦士スーパージャパニーズだろ。髪は黄色だしな。この人の場合は鼻も高くなるんだろう 。鳥山明があのアイデアをどこから手に入れたと思っているんだい?? そーすhttp://honyakusitem.blogspot.jp/2014/08/13.html 軍師官兵衛 全国巡回展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023923591.html?t=1408519913771 NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の撮影用の衣装や小道具などを展示する全国巡回展が岡山市のNHK 岡山放送局で始まりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023923591_m.jpg この巡回展は戦国時代、豊臣秀吉の天下統一を支えた軍師、黒田官兵衛の生涯を描くNHKの大河ドラマ 「軍師官兵衛」の魅力を多くの人に知ってもらおうと、全国のNHKの放送局などで開いています。 岡山市北区のNHK岡山放送局の会場には、ドラマの撮影用の衣装や小道具のほかドラマのあらすじや撮影の 舞台裏を解説したパネルなどあわせて49点が展示されています。 中には、官兵衛を演じる岡田准一さんや官兵衛の妻の光役の中谷美紀さんが撮影で着用したものと同じ衣装が 飾られ、間近で見ることができます。 また、織田信長が官兵衛に贈った刀や戦略を練るための地図などの小道具も展示されていて、ドラマで描かれた 戦国時代の雰囲気を味わうことが出来ます。 このほか、顔の部分に穴があけられた官兵衛の等身大のパネルも設けられ、訪れた人たちが官兵衛になりきって 記念撮影をしていました。 訪れた女性は「キャストの皆さんのサイン入り色紙もあって楽しむことが出来ました。ドラマをさらに真剣に見ることが 出来そうです」と話していました。この巡回展は8月27日までNHK岡山放送局ハートプラザで開かれています。 08月20日 13時03分 宮内庁は昭和天皇の生涯の公式記録「昭和天皇実録」を完成させ、二十一日午後に天皇、皇后両陛下に提出した。 編さん作業に二十四年を要し、分量も過去の天皇の実録で最長となる。宮内庁は情報公開請求の対象である行政文書と位置付けており、 九月中旬にも内容を公表するほか、来年三月から五年計画で全巻の公刊も始める。 編さんの基となったのは、国内や欧米で集めた公的記録や側近日記など約三千件や元側近らの聞き取り結果などで、 過去に明らかになっていなかった新資料も含まれる。 軍部の台頭から太平洋戦争の開戦、終戦など、激動の昭和史の中で昭和天皇が果たした役割を解明する新たな手がかりになるかが注目される。 天皇の実録は、誕生から逝去までの動静や言行を年月日順にまとめた年代記。 公務のほか学業、結婚、地方訪問、研究などについて客観的で確実な資料に基づいて記述した。政治や社会、文化、外交との関わりについても採録した。 この日、両陛下に提出されたのは和紙に印刷して糸でとじた「和とじ本」。B5判ほどの大きさで、本文六十冊と目次・凡例一冊の計六十一冊から成る。 全巻で約一万二千ページ、文字数は九百六十万字あり、過去の天皇の実録では最長だった「明治天皇紀」の一・五倍に相当する。 宮内庁は、昭和天皇が亡くなった翌年の一九九〇年に編さん事業を開始。 当初は十六年計画だったが、新資料の発見や確認などで作業が長引いたため、二度の延長を経て二十四年計画となり、今年三月に編さんをほぼ終えた。 宮内庁は、一九三六年完成の大正天皇実録を二〇〇二〜一一年に公開したが、 学業成績や病歴などを「個人情報」として黒塗りとしたため、研究者らに強く批判された。今回はその反省も踏まえて内容を一切伏せず、完成とほぼ同時期に公開する。 http://www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2014082102000272.html 軍法会議:資料を国立公文書館に移管、公開へ http://mainichi.jp/select/news/20140826k0000m040073000c.html 法務省は25日、検察庁で保有している軍法会議に関する刑事訴訟記録を、 歴史的に重要な公文書として国立公文書館に移管すると発表した。 約1200冊を来年度以降、古い順に移管する。 軍人の窃盗から、2・26事件といった大事件まで、さまざまな事件の供述資料や判決などが含まれているという。 これまで研究者が学術研究目的に閲覧したことはあったが、移管により広く一般の人が閲覧できるようになる。 同省によると、研究者や国会議員らから歴史資料として公開を求める声があり、調査したところ、 東京、大阪、福岡など12地検で軍法会議の記録を保管していることが分かった。1882(明治15)年ごろの古い記録もある。いつどのような経緯で各地検が保管するようになったかは不明という。 公文書館によると、受け入れた資料は目録作りなどの準備を経て、1年以内に公開される。 武士のダンディズム 未公開書状展示ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140825_4 岡山市北区の林原美術館で開かれている特別展「武士のダンディズム」で、新たに未公開の書状が展示されることに なりました。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140825_4.jpg 初公開されるのは、本能寺の変の6か月後に美濃の国の戦国武将稲葉一鉄が、親戚にあたる石谷頼辰にあてた 書状です。 本能寺の変の直後に処刑された明智光秀の重臣、斉藤利三の息子を探してかくまおうという内容です。 自らの身に危険が及ぶことも顧みず、遺族を守ろうという一鉄の強い意志が感じられます。 この書状は、26日から林原美術館で公開されます。特別展「武士のダンディズム」は9月15日までです。 関東大震災:新たな記録映画4本 国立近代美術館が収蔵 http://mainichi.jp/select/news/20140828k0000m040048000c.html 東京国立近代美術館フィルムセンター(東京・京橋)は27日、1923年9月1日に起こった 関東大震災の新たな記録映画4本を収集したと発表した。 震災の記録映画は同じ映像を使い回していることが多いが、今回の4本には同センター所蔵作品にはなかった惨状の映像も記録されている。 震災の記録映画は発生直後から、文部省や新聞社、映画会社が製作し、義援金集めや映画館での興行として全国で上映した。 この過程で、映像を使い回したり編集し直したりした多くの映画が作られたという。 同センターにはこれまで8本の震災記録映画が収蔵されていた。今回収集したのは 「大正十二年九月一日 帝都大震災大火災 大惨状」など4本。東京・千束八幡神社や京都大の書庫などで見つかり、同センターに寄贈された。 新たに確認された映像には、東京・丸の内で建設中に崩落し300人が犠牲になった内外ビル ▽現在の飯田橋駅近くにあった牛込駅▽東北帝大による野外救護所の救援活動 ▽見せるべきではないとの国の通達以後は削除された遺体の映像--などが含まれる。 同センターは「フィルムの保存状態もよく、不明な点が多い震災記録映画の全貌研究に有意義だ」と話している。 同センターはこのほか、日露戦争の記録映画も新収集。9月27日から、「発掘された映画たち2014」と題し、同センターで特集上映する。 国立公文書館:行革担当相 新館建設の考え示す http://mainichi.jp/select/news/20140828k0000m010054000c.html 稲田朋美行政改革担当相は27日、収容可能蔵書量を近く超える見込みの国立公文書館(東京・北の丸)について 「もっと青少年や国民の皆さんが公文書に触れる機会を作りたい」と述べ、新館建設を目指す考えを示した。 視察先の東京・麻布台の外交史料館で記者団に語った。 現在の国立公文書館は、1971年に建設され、収容能力は2016年度中にも限界に達する。 政府の有識者による検討会議は、国会周辺に新館を建設するよう提言した。 松山城の石垣から女性転落かttp://eat.jp/news/index.html?date=20140827T180543&no=11 27日朝、松山城の二之丸史跡庭園の駐車場で、女性が倒れているのが見つかりました。 女性は間もなく死亡し、警察では、近くの石垣から転落したとみて調べをすすめるとともに、身元の確認を急いでいます。 警察によりますと、27日午前6時50分ごろ、松山市堀之内の二之丸史跡庭園駐車場で、「人が倒れている」と、 現場近くを通った女性から通報がありました。 女性は市内の病院に運ばれましたが、頭などを強く打っていて間もなく死亡しました。 警察によりますと、死亡した女性は、年齢50歳から70歳くらいで、身長は150センチから160センチ、 白髪交じりの薄茶色のショートヘアーで、紫色のTシャツに青色のズボンとスニーカーを身に着けていましたが、 所持品はなかったということです。 女性が倒れていた現場のすぐ脇には、高さおよそ13メートルの、庭園の石垣があり、警察では周囲の状況などから、 女性が石垣の上から転落したとみて引き続き詳しい状況を調べるとともに、身元の確認を急いでいます。 尚育王の「書」発見 1838年、国宝級2014年8月28日 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-230773-storytopic-6.html http://ryukyushimpo.jp/uploads/sg/img53fee6eebf59f.jpg 書家としても知られる第18代琉球国王・尚育の直筆による漢詩の書が、このほど神奈川県鎌倉市で見つかった。 尚育王の孫に当たる漢那(旧姓・尚)まさ子さんが継承し、その孫の肇さん(73)=鎌倉市=が保管していた。 肇さんから書を託され補修を進めている沖縄美ら島財団によると「これまでに国宝に指定された尚家の文化財と、同程度の価値があると思われる」という。 書には尚育の署名と冊封使・林鴻年(りんこうねん)の雅号(勿邨)があり、林が沖縄に滞在した1838年、 尚育が書の指導を受けていた林に宛てて書いたとみられる。 漢詩は「紫禁仙輿詰旦來 青旗遙倚望春臺」(皇帝のみこし=紫禁の仙輿=は早朝に来る。 青い旗がはるかかなたより近づくのが春台=高台=から望める)などとつづっている。 末尾の署名部分には「勿邨大人 雅正 中山王 尚育」(勿邨大人=林鴻年=に 本書の出来栄えについてご批判、ご叱正(しっせい)を乞います。中山王尚育)とある。 漢詩は、唐の詩人・宋之問の漢詩集「苑中遇雪應制」に同じ作品が掲載されており、尚育王がこの詩を書いて林に見せたと思われる。 書は中国製の上質の絹に書かれている。絹は墨がにじむため文字を書くのは難しく、尚育王の高度な技術を物語っているという。 日本政府が琉球王国を強制的に併合した1879年の「琉球処分」以降、尚家が所蔵していた文化財の多くが東京に渡った。 書はその中にあり、まさ子さんが衆院議員、内務政務次官を務めた漢那憲和と結婚する際、継承したとみられる。 肇さんが桃原農園(尚厚社長)を通し、このほど沖縄美ら島財団に託した。 同財団首里城公園管理部の上江洲安亨事業課長補佐(学芸員)は「他に残っている尚育の書と照合し、間違いないことを確認した。 尚家に残っていれば、他の文化財と一緒に国宝に指定されていたと考えられる」と話した。 同財団は9月11日に鎌倉市で寄贈式を開いた上で、書をいずれ施設内で展示する予定。(ry 近現代史施設:花博建物の転用検討 大阪市と府が共同設置 http://mainichi.jp/select/news/20140829k0000e040230000c.html 大阪市の橋下徹市長が大阪府との共同設置を目指す近現代史の学習施設について、 市が今年3月に閉館した「市立環境学習センター」(鶴見区)の建物の転用を検討していることが分かった。 展示テーマは東京裁判(極東国際軍事裁判)を軸に検討中で、市は年度内に基本構想をまとめ、2016年度中の部分開館を目指す。 ただ市議会の野党会派は「大阪市が施設をつくる必然性がない」としており、難航が予想される。 新規建設には数百億円が必要で、市は既存施設の転用で費用や工期の圧縮を図ることにした。 環境学習センターは、鶴見緑地で1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」のパビリオンを利用して97年に開設した。 「生き生き地球館」の愛称で地球環境や生態系を映像や模型で紹介していた。 市関係者によると、旧「なにわの海の時空館」(住之江区)なども候補だが、環境学習センターは設備が新しく、 床面積も約2400平方メートルあり、有力という。 市は監修責任者に日本政治外交史が専門の北岡伸一・国際大学学長を招いて展示テーマや候補地の検討をしている。 施設では戦時中の日本の指導者がA級戦犯として裁かれた東京裁判の場面再現などを想定している。 当初、市は基本構想を今夏にも策定し、来夏に東京裁判をテーマにした先行展示会を開く予定だった。 しかし5月議会で公明、自民など野党が「国が整備すべきだ」などと反対して関連経費を全額削除した。 橋下市長は「近隣諸国と冷静に議論するために、教科書以外で体験できる施設が絶対必要だ」などと 東京裁判に着目した施設をつくることについて説明していた。来年度の当初予算案に事業費を再計上する方針だ。 梼原町で古文書を発掘調査ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014017481.html?t=1409351779007 古文書など、地域に伝わる文化財の保存状態などを確認する調査活動が29日、梼原町で行われました。 この取組は梼原町の教育委員会と高知市にある土佐山内家宝物資料館が地元に伝わる文化財の内容や保存状態に ついて調べようと行っているものです。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014017481_m.jpg 去年行われた町の行政文書の調査に続いて29日は町の指定文化財のお経の巻物、「経巻」と町内の旧家に伝わる 古文書など合わせて500点を調査しました。 このうち影野地地区の阿弥陀堂に保管されている経巻は600年以上前から伝わるとされるもので、資料館の担当者が 巻物を開いたところ、実際に南北朝時代の「明徳」の年号が記されているのが確認されました。 また、梼原の幕末の志士、掛橋和泉の子孫の家に伝わる古文書は今回、初めて調査されるもので明治から昭和に かけての土地の権利関係の書類のほか、およそ200年前の江戸時代後期の年号が記された書状なども見つかりました。 資料館などでは今後、1年ほどをかけて内容について詳しく調べるとともに保存方法について検討することにしています。 土佐山内家宝物資料館の筒井聡史さんは「こうした取組を県内のほかの地域にも広げ歴史資料の保存を進めて いきたい」と話していました。08月29日 23時30分 2014.8.31 18:04大洲城復元10周年記念式典ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=46826 大洲城の天守閣が復元されてから今年で10周年を迎えることを記念した式典がきょう行われました。 大洲城の天守閣は2004年に市民の寄付などで復元され、今年で10周年を迎えます。 きょうは、勇壮な和太鼓の演奏で記念式典が始まり、清水裕市長が「大洲城の歴史とともに大洲の歴史も感じてほしい。」 と挨拶。このあと復元10周年を記念して結成された「大洲藩鉄砲隊」が火縄銃の空砲を発射する演武を披露しました。 大洲城では来年3月末までの復元10周年記念事業期間中、大洲藩の鉄砲を製作した大阪の鉄砲鍛冶 「井上関右衛門展」などさまざまなイベントが予定されています。 「日本の城」評価 松山城2位ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004230241.html?t=1409535180342 日本の城や景色の魅力を国内外の観光客が評価したインターネットのランキングで、松山市の松山城が2位に選ばれました。 このランキングは、世界中の観光地についての感想や情報を投稿するアメリカのウェブサイトの運営会社、 「トリップアドバイザー」が去年から行っているものです。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004230241_m.jpg 評価は、このウェブサイトに書き込まれた日本の城や景色に関する口コミの数や投稿された時期、それに、 口コミを投稿した人がつけた評価をもとに行われ、ことしのランキングで、松山城は2位に選ばれました。 評価をした人からは、▼江戸時代から現存する天守の建物や石垣などの荘厳さや、▼天守からの松山市内や 瀬戸内海の眺めの良さを評価する書き込みが寄せられています。 また、▼ボランティアガイドの案内が、親切でわかりやすいとか、▼甲冑を着る体験が楽しめる、といった、 サービス面を評価する声も寄せられています。 このランキングでは、▼熊本市の熊本城が1位に、▼兵庫県姫路市の姫路城が3位に選ばれました。 松山市は、「松山城では、おもてなしに力を入れてきたので、その面も評価して頂いたと思っている。 今後も、サービスを高めて、愛される城にしていきたい」としています。09月01日 08時18分 2014.9.2 19:30村上水軍博物館 来館者50万人達成 今年の本屋大賞の受賞で一躍脚光を浴びた、村上水軍の貴重な資料を展示する今治市の村上水軍博物館がきょう、 来館50万人を達成しました。ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=46840 村上水軍博物館の来館者50万人目になったのは、広島県東広島市の宮川洋さん(65)で、菅今治市長とともに くす玉を割り、認定証や小説「村上海賊の娘」が贈られました。 この博物館は2004年に開館し、「村上海賊の娘」の本屋大賞の受賞で今年、来館者が急増。 今年4月から8月末までで4万6千人余りが来館しこれまでの年間の来館者数に迫っているということです。 通賢資料重文指定記念し展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034345101.html?t=1409883436199 塩田開発などに尽力した香川県出身の江戸時代の科学技術者、久米通賢にまつわる資料を集めた展示会が 坂出市で開かれています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034345101_m.jpg 久米通賢は江戸時代後期に活躍した現在の香川県東かがわ市出身の科学技術者で、坂出市などで塩田の開発や 地図の製作など多くの功績を残しました。 展示会はことし3月、通賢にまつわる資料が国の重要文化財に指定されたのを記念して開かれているもので、 坂出市にある鎌田共済会郷土博物館には通賢が作った測量道具や地図など108点が展示されています。 このうち「地平儀」は通賢が地図を作るときに目標点までの方角を測って距離を調べるのに使った道具で、文化3年、 西暦1806年に作られたものです。 また、「百敵砲」は通賢が文政7年1824年に作った大砲で、1発で100人倒せると言われ、台車の引き出しには 火薬が入っていたと考えられています。 このほか、会場にはこれまで公開されていなかった塩田の設計図なども展示されています。 この展示会は、9月21日まで開かれています。09月05日 10時25分 東かがわ引田城跡ガイド始まるttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034469371.html?t=1410314894778 東かがわ市で、近世初期の城の特徴をよく残している「引田城跡」を多くの人に知ってもらおうと、市民ボランティアが 城跡を案内する取り組みが始まりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034469371_m.jpg 「引田城跡」は東かがわ市引田の海に突き出した山にあり、市の教育委員会が、平成22年度から国の史跡指定に 向けた調査を進めています。 これまでの調査で、「引田城跡」は、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒氏が、1600年前後の慶長年間に 築いた城の跡で天守のあった本丸など、周囲をめぐらす石垣は600メートル以上に及んでいたことなどがわかりました。 生駒氏は、高松城の築城と並行して西に丸亀城、東に引田城を築き、このうち、高松城と丸亀城は、のちに城主が 代わり改修などによって姿が変わりましたが、引田城跡は当時の姿をよく残しています。 東かがわ市教育委員会は、この貴重な城跡を多くの人に知っておうと、地元のまちなみ保存会に委託して 市民ボランティアによるガイドを8月から始めました。現在、ガイドに登録しているのは、13人です。 東かがわ市教育委員会は、「引田城の歴史とともに城跡からの眺めも楽しんでもらいたいと話しています。 09月10日 09時17分 土佐藩歴代藩主の展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014426121.html?t=1410402823913 江戸時代の土佐藩の歴代藩主の遺品などゆかりの品々を紹介する展示会が、高知市で開かれています。 高知市の土佐山内家宝物資料館には、16代の土佐藩主の遺品などおよそ60点が展示されています。 このうち、▼「槍名『来源国俊』」は、初代藩主・一豊が、土佐藩を開く前のいくさで敵から奪ったとされるやりの先端です。 敵のやりに刺されてもその先端をもぎとって戦い続けたということで、山内家の家宝として大切に受け継がれてきました。 また、▼「錦旗」は幕末の16代・豊範のとき土佐藩が朝廷から拝領した旗で、天皇家を表す菊のご紋が施されています。 土佐藩は戊辰戦争でこの旗を掲げ、「官軍」として戦ったということです。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014426121_m.jpg 土佐山内家宝物資料館の中屋真理学芸員は「歴代の藩主が残した品々をたどることで、 土佐藩の多彩な歴史を知って欲しい」と話しています。この展示会は今月28日まで、開かれています。09月11日 10時07分 みん平焼と蜂須賀家展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024494271.html?t=1410423990627 江戸時代に淡路島で生まれた焼き物、みん平焼と当時、淡路島を治めていた徳島藩主・蜂須賀家の関わりを紹介 する展示会が徳島市で開かれています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024494271_m.jpg みん平焼は江戸時代後期、徳島藩の領地だった淡路島で賀集みん平が始めたもので、徳島藩主・蜂須賀家は藩の 御用窯の監督を任せるなど高く評価しました。 会場の徳島市の徳島城博物館にはみん平焼の茶わんや皿、それに花瓶など、およそ90点が展示されています。 このうち色絵石榴授帯鳥図甲鉢は種が多いことで子孫繁栄を表すざくろの木と頭に権力を象徴する金色の冠のような 羽根を持つ鳥が色鮮やかに描かれています。 また、みん平が蜂須賀家に献上した色絵海老図茶碗は、得意だったエビを描いた茶碗で、縁起物の松と並べて描く などさまざまな海老図茶碗が残されています。 このほか秋の風情を感じさせる七種類の草花を描いた茶碗や淡路島の景勝地を思わせる風景が描かれた花瓶、 それに太鼓の形をした珍しい杯洗などもあります。この展示会は来月13日まで開かれています。09月11日 09時21分 鶴山公園に武士の新キャラttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024502641.html?t=1410480565824 津山市の鶴山公園に津山藩の武士をイメージした新キャラクターのパネルが設けられ、注目を集めています。 鶴山公園にお目見えしたのは、津山藩の初代藩主の森忠政に仕えた名護屋山三郎をイメージしたパネルです。 その美しい容姿や派手な身なりから山三郎は当時、歌舞伎者といわれ、園内には長髪に着流し姿の山三郎を アニメ風に描いた2種類のパネル合わせて8枚が設けられています。 また、山三郎は歌舞伎の創始者の出雲阿国の恋人だったとされていることから本丸天守台にあるハートの形をした 石垣の石の手前には、2人の再開をイメージしたパネルを置いて、恋人たちが記念撮影を楽しめるようにしました。 このパネルを企画した市民団体、津山城レジェンドプロジェクトの土居博志サブリーダーは、「山三郎は大変な美形で、 さまざまな伝説が残されています。ぜひ興味を持ってもらい鶴山公園に訪れてもらいたいです」と話していました。 このパネルは、11月末まで展示され、10月には山三郎にちなんだクイズラリーも開かれます。 09月11日 19時56分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024502641_m.jpg 村上水軍の資料展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004532831.html?t=1410488143754 過所旗と呼ばれる海の通航許可書など、村上水軍に関する貴重な資料を集めた展示会が、愛媛県今治市で開かれています。 これは、今治市の村上水軍博物館が開いているもので、村上水軍に関わる資料や発掘された遺物など およそ50点が展示されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004532831_m.jpg このうち、「過所旗」は、水軍を率いた村上武吉が発行したとされる当時の海の通航許可書で、武吉の署名と花押が 記されています。 また、「毛利家文庫譜録」は、ことしの「本屋大賞」に選ばれた歴史小説「村上海賊の娘」の主人公で、武吉の実の娘、 「景」として描かれた娘の存在が、唯一書かれた系図で、作家の和田竜さんがこれをもとに小説を書いたということです。 このほか、村上水軍が海外との交易で手に入れたとされる貴重な中国製の磁器や陶器、当時の交易の資料なども 数多く展示されています。 村上水軍博物館の櫛部大作学芸員は、「村上海賊の仕事ぶりが、わかる展示になっていますので、ぜひお越し頂き、 自分の目で歴史を紐解いてください」と話していました。 この展示会は、今治市の村上水軍博物館で、9月23日まで開かれています。09月12日 08時31分 空襲痕残る石材多くが交換必要ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034505091.html?t=1410565616268 高松市は昭和20年の高松空襲で焼失した高松城跡の「桜御門」の石垣を解体修理する予定ですが、 空襲による火災の痕が残っている積石のおよそ半数が傷みがひどく解体修理の際に新しいものに取り替える必要が あることがわかりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034505091_m.jpg 高松城跡の「桜御門」は、江戸時代、城主の御殿があった「三の丸」の正門で、門の上に建物をわたした「櫓門」 という造りでした。 しかし、昭和20年7月の高松空襲で焼失し、高い熱で表面が赤っぽく変色した石垣が、空襲による火災を伝えています。 高松市は、傷みが目立つこの石垣を解体修理するため、先月、積石の状況を調査しました。 その結果、門の両側の石垣では、火災の痕が残る積石が合わせて68個ありました。 このうち、半数近い33個は、割れているなど傷みがひどく解体修理の際に新しいものに取り替える必要があることが わかりました。さらに、ひびが入っているなど、解体すると再利用できない可能性がある積石も9個ありました。 高松市では、今年度中に石垣を解体し、来年度石を積み直して修理を終える計画です。 高松市は、「戦争を伝える資料としても貴重な石垣なので、できるだけ多くの積石を残し、取り替えるものについても 写真などの記録に残したい」と話しています。09月12日 19時29分 武士のダンディズム、ギャラリートークttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140913_7 岡山市北区の林原美術館では特別展「武士のダンディズム」の展示品を学芸員が説明する「ギャラリートーク」 が行なわれました。 林原美術館の浅利学芸課長が、岡山藩主の池田家に伝わる甲冑や日本刀、それに池田家の家紋のアゲハチョウの 図柄などについて説明すると、訪れた見学者は熱心に耳を傾けていました。 このギャラリートークは14日も午後2時から行なわれます。林原美術館の特別展「武士のダンディズム」は15日までです。 戦国武将の肖像画の展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004734711.html?t=1411177622501 宇和島市にある宇和島伊達家の文化財を展示する博物館で、伊達家ゆかりの戦国武将の肖像画などを集めた 企画展が開かれています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004734711_m.jpg この企画展は、宇和島市の伊達博物館がことしで開館40年を迎えるのを記念して開かれています。 会場には、宇和島藩の初代藩主、伊達秀宗の父、伊達政宗と同時代を生きた豊臣秀吉や織田信長など伊達家と ゆかりのある戦国武将の肖像画や座像など、27点が展示されています。 このうち、京都の高台寺が所蔵する豊臣秀吉と妻のねねの座像は、ことし修復を終えたばかりで穏やかな表情から 夫婦の仲むつまじい様子がうかがえます。 また京都の大徳寺が所蔵する織田信長像は安土桃山時代の絵師で狩野永徳が本能寺の変のすぐあとに描いたと されるものです。 伊達博物館協議会の木村宗慎協議会委員は、「教科書などで見るのとは違った当時の様子に触れられる良い 機会です。思いを遠く安土桃山時代に馳せていただきたいです」と話していました。 この特別展は、10月13日まで伊達博物館で開かれています。※月曜日休館。09月20日 07時56分 岡崎嘉平太の魅力展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024617361.html?t=1411435686734 吉備中央町出身で日中友好に力を尽くした岡崎嘉平太の人柄などに焦点をあてた企画展が吉備中央町で開かれています。 岡崎嘉平太は日中国交正常化や日中友好に力を尽くしたほか、経済人としても精力的に活動し、平成元年に92歳で 亡くなりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024617361_m.jpg 出身地の吉備中央町の岡崎嘉平太記念館では本人の人柄などに焦点をあてた企画展を開いていて、 会場には本人の著書や趣味で持っていた民謡のレコードなどおよそ80点が展示されています。 このうち趣味の短歌や俳句などの作品を30年間にわたってつづった冊子、「晩晴」などおよそ半数が初公開です。 このほか赴任先や出張先から家族あてにまめに出していたというはがきなども展示されていて、岡崎嘉平太の人柄を 知ることができます。この企画展は12月26日まで吉備中央町の岡崎嘉平太記念館で開かれています。 09月22日 18時49分 2014/09/22「スーパー・N」19:30 動画特別企画展 人間・岡崎喜平太の魅力ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/video.php?VNO=1572 村上海賊の世界展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004505211.html?t=1411929373862 戦国時代に瀬戸内海を支配した村上水軍に関連する資料を集めた展示会が、松山市で開かれています。 この展示会は、歴史文化博物館など県内の4つの施設が合同で開いたもので、村上水軍に関連する資料や水軍の 生活の舞台だった瀬戸内海を描いた美術作品など100点余りが展示されています。 このうち、久留島村上家に伝わったとされるよろい、「紫糸威胴丸」は、江戸時代中期のもので、村上水軍が使っていた よろいの装飾やかたちをまねて作られています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004505211_m.jpg また、伊予国嶋々古城之図は、江戸時代中期に松山藩の軍学者が当時の城の防御のあり方を学ぼうと描いたと されるもので、村上水軍の城が瀬戸内海の島々のどのような場所に築かれていたのかを見ることができます。 このほか、能島付近の潮流のメカニズムを分析した資料や水軍が活躍した当時の瀬戸内海を描いた絵なども 展示されています。 松山市の女性は、「地元のことですが、知らないことがたくさんありました。展示を見て遠い昔の話がとても身近に感じ、 わくわくしました」と話していました。 この展示会は、松山市の愛媛県美術館で、10月19日まで開かれていて、観覧は無料です。09月28日 19時12分 林原美術館 国宝・重文など一斉公開ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20140930_2 岡山市の林原美術館で開館50周年を記念して、所蔵する国宝や重要文化財の特別展示が始まりました。 赤の色合いが目を引く、桃山時代の唐織の能装束です。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20140930_2.jpg 開館50周年を記念した特別展のタイトルは、題して林原美術館オールスターズ。 林原美術館が所蔵する平安から江戸時代の国宝や、重要文化財を一度に公開しようという企画です。 30日から始まった前期展には、絵画・書・能装束など44点が展示されています。重要文化財の洛中洛外図屏風です。 天皇家への嫁入り、入内行列など江戸時代初期の京都の街の風景が描かれています。 11月からの後期展では、刀剣・甲冑・調度品などを展示されます。この特別展は来年1月12日まで開かれます。 勝賀城跡指定に向け調査へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034842491.html?t=1412796437695 高松市は市内にある中世の山城の跡、「勝賀城跡」の国の史跡指定に向けて、来年度から数年間にわたって 発掘調査を実施することにしています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034842491_m.jpg 高松市西部にある「勝賀城跡」は、中世の豪族、香西氏が標高364メートルの勝賀山の山頂部に築いた城の跡です。 城の中心部、本丸は、南北60メートル東西30メートルから40メートルの規模で、土を堤防のように盛って突き固めた 土塁を2重、3重に巡らせるなど堅い守りだったことがこれまでの調査でわかっています。 「勝賀城跡」は、戦国時代の城跡とみられ遺構がほぼそのままのかたちで残っていることから、 文化財としての価値が高いとして高松市は、国の史跡指定に向けた発掘調査を来年度から始める予定です。 市では、地権者の同意を得ながら数年間にわたって発掘調査を実施し、 史跡指定の対象となる範囲を決めたいとしています。 また、指定に際しては、遺構の保存や管理の計画が必要となるため、地元の人たちでつくる「勝賀城跡保存会」 とも話し合って計画を策定する方針です。 「勝賀城跡保存会」の今岡重夫会長は「保存会としても調査や話し合いに全面的に協力していきたい」と話しています。 10月08日 19時21分 「伊能図」を超高精細画像にttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025218461.html?t=1412987029725 江戸時代の測量家、伊能忠敬が作った日本地図=「伊能図」を超高精細のデジタル画像にして当時の地図作成の 技術を解明しようという研究が、徳島大学で始まりました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025218461_m.jpg 「伊能図」は、江戸時代に伊能忠敬が全国各地を測量して作った日本で初めての実測による日本地図で、 徳島大学は、江戸時代の徳島藩主、蜂須賀家が所蔵していた「伊能図」を保管しています。 大学では、およそ200年前に伊能が測量した詳細なルートや当時の技術力の高さなどを明らかにしようと 特殊な撮影機材を使って伊能図4点を超高精細のデジタル画像にする作業を始めました。 10日は、四国の地図、『大日本沿海図稿南海』を20回以上に分けて撮影し、およそ14億画素の画像として記録しました。 撮影された地図からは、2ミリほどの大きさで書かれた細かい文字や、海岸に沿って測量に歩いたルートが赤い線で 描かれていることが鮮明に見て取れます。 さらに、裏側から光を当てて撮影した画像からは、地図を作成する際に、測量した地点をおよそ0点1ミリの微細な針穴 で記したこともわかります。 徳島大学は、デジタル画像を現代の地図と重ね合わせて伊能が測量に歩いた地点を確定する研究などを進めていく ことにしています。 研究に当たっている平井松午教授は「超高精細のデジタル画像を作ることで伊能の地図作成の技術を明らかに していきたい」と話していました。 大学では、今回の研究をもとに、今後、伊能が測量したルートを巡るイベントなども計画しているということです。 10月10日 22時22分 新見で御神幸武器行列ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025371511.html?t=1413411936106 新見市の重要無形民俗文化財に指定されている御神幸武器行列が行われ、大勢の観光客でにぎわいました。 御神幸武器行列は江戸時代の初代新見藩主、関長治が五穀豊穣や領民の無事を祈願するため、 行列を仕立てたのが始まりといわれています。 15日は青竹を手にした「先払い」を先頭に、やりや弓、それに鉄砲などを携えたかみしも姿の64人の行列が地元の 船川八幡宮を出発、1.5キロの距離を往復しました。 先はらいが「下に〜」「下に〜」と声を上げながら町中を練り歩くと、沿道の両脇に陣取った市民や観光客はござなどに 座って姿勢を低くし、行列を迎えていました。 行列の後ろには華やかに着飾った子どもたちによる大名行列のほか、町内会や大学生によるみこしの練り歩きも あって新見市中心部はにぎやかな雰囲気に包まれていました。10月15日 19時20分 屋嶋城の城門修復で現地見学会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035262581.html?t=1413609417621 高松市の屋島に築かれた古代の山城、「屋嶋城」で行われている城門の修復工事で、南門が完成したことから18日、 現地で見学会が開かれました。 「屋嶋城」は、7世紀に大和政権が大陸からの侵攻に備えて築いた山城のひとつとされ、 平成14年に城の門の遺構が確認されたことから高松市教育委員会が城の門の遺構を復元する工事を進めています。 18日は、高さ6メートル横35メートルの大きさの南門が完成したことから現地で見学会が開かれ、地元の人など およそ300人が参加しました。 見学会では高松市の担当者が南門の復元には、遺構に残っていた、屋島の山頂でとれる茶色の石をそのまま 利用し足りなかった分は同じ材質の石を取り寄せて使用したことなどを説明していました。 見学会に参加した地元の77歳の男性は、「初めて参加したがとても見事だ。完成したら屋島の観光客が増えるのでは」 と話していました。屋嶋城ではもう一つの城門、北門の復元工事が来年度末の完成を目指して行われています。 10月18日 12時54分 四国の大名家の工芸品など展示ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025279691.html?t=1413610172677 四国の大名家に伝えられてきた美術工芸品や歴史資料などを集めた展示会が、徳島市で開かれています。 この展示会は、江戸時代の大名家の華やかな文化を知ってもらおうと徳島市の徳島城博物館が開いたもので、 四国の各藩に受け継がれた屏風などの工芸品や、武具、それに歴史資料などおよそ60点を紹介しています。 このうち、「陣羽織緋羅紗地数珠文」は幕末の土佐藩主、山内容堂が使ったとされ、赤い生地に金の糸で巨大な 数珠の絵を大胆にあしらった豪華なものです。 また、「白梵天馬験」は宇和島藩の初代藩主、伊達秀宗が豊臣秀吉からもらったとされる金で飾った木製の剣で、 合戦の時に大将の居場所を示すために用いられました。 博物館の根津寿夫学芸員は「6つの大名家を取り上げ、四国の宝が集まっている。大名の考えや家に伝わる教えを 感じ取ってほしい」と話していました。この展示会は、11月24日まで徳島城博物館で開かれています。10月18日 14時22分 2014/10/15「スーパー・N」19:30 動画お国入りを再現 土下座祭りttp://www.ohk.co.jp/news/sp/video.php?VNO=1602 新見市の船川八幡宮 山内家の貴重な古文書展示ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015520261.html?t=1413770826705 江戸時代に土佐藩・現在の高知県を治めた大名、山内家に伝わる古文書を集めた展示会が高知市で開かれています。 展示されているのは、土佐藩が幕府などとの間でやり取りしていた書状を年代別に整理したものです。 一部は戦災で焼失しましたが、土佐山内家宝物資料館が10年あまりをかけて豊臣秀吉の時代からおよそ 120年にわたる1万5000点の調査を終え、その成果を伝えようと展示しています。 このうち、山内家が現在の静岡県掛川市を治めていたころの慶長2年の書状は、豊臣政権の五奉行だった 石田三成らが朝鮮出兵で穀物が不足する中、麦の年貢に関する帳簿の提出を催促するもので、三成らの直筆の 署名がある珍しいものです。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015520261_m.jpg また、2代藩主の山内忠義が幕府に差し出した書状の控えは、土佐藩の当初の石高は9万8000石に過ぎず、 その後の再調査で20万石あまりになると確認されたと記されています。 土佐山内家宝物資料館の渡部淳館長は「江戸時代の土佐藩士たちの生々しいやりとりを伝える貴重な文書を 通して歴史が作られる現場の雰囲気を感じ取ってもらいたい」と話していました。 この展示会は12月7日まで開かれています。10月20日 09時39分 屋嶋城跡の調査整備会議ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035450881.html?t=1414105315189 高松市の屋島に築かれた古代の山城、「屋嶋城」の遺構の調査や整備について助言する専門家による会議が開かれ、 高松市が復元工事を進めている城の門、城門の一般公開に向けた見学路の整備など来年度の事業計画が示されました。 「屋嶋城」は、1300年以上前の飛鳥時代に、大和政権が大陸からの侵攻に備えて築いた山城で、高松市が、 南嶺の山上付近にある城門遺構の復元工事を進めています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035450881_m.jpg 23日は、会議に先立って考古学や地盤工学などの専門家の委員5人が、工事現場を視察しました。 城門遺構のうち南側の城壁は、石を積み直して復元する工事が終わり、先月から、北側の城壁の工事が始まっています。 委員らは、城壁の基礎となる石をすえる位置や排水の方法などについてアドバイスしていました。 視察のあと高松市埋蔵文化財センターで開かれた会議では、市の担当者が来年度の事業計画について説明しました。 計画では、遺構の一般公開に向けて見学路を整備するほか、急な斜面に遺構があることから転落防止の柵も設けます。 さらに高さが2メートル以上ある城門に上がれるように鉄製の階段を設置します。 復元される城門遺構は全長が60メートル、高さが6メートルで高松市では、見学路などを整備したあと 再来年の春から一般に公開する予定です。10月23日 19時45分 おしゃれ大名のよそおい(愛媛県)ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8785014.html 市立伊達博物館には、江戸時代に現在の南予の一部を治めていた宇和島藩伊達家にゆかりのある刀や脇差などの 武具が展示されている。 また、伊達家に輿入れした女性たちが愛用した櫛や鏡、それに化粧道具など111品が並んでいる。 このうち「黒羅紗紫糸威畳具足」は、宇和島藩5代藩主の伊達村候が身につけていた甲冑で、 参勤交代などで持ち運ぶために、兜や胴体の部分が折りたためるよう工夫されている。 また、伊達家に仕えた家老に伝わる打掛と呼ばれる女性用の晴れ着は、 白地の布に金やオレンジ色などの糸で華やかな花の模様が縫い付けられている。 「モード伊達〜おしゃれ大名のよそおい〜」は12月24日まで開かれている。[ 10/25 14:56 南海放送] 古文書2点が県文化財にttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035738371.html?t=1414463173681 鎌倉時代から江戸時代初期にかけて今の三豊市の一部を治めた領主、秋山家に代々伝えられた「秋山家文書」で、 新たに古文書2点が見つかり、県の有形文化財に追加指定されることになりました。 これは27日、県文化財保護審議会が答申したものです。 今回、追加指定されるのは、「秋山家文書」のうち新たに見つかった「細川高国在京奉行人連署奉書六月廿三日」と 「御本尊相論之覚寛永八年九月十日」の2点です。 このうち、「細川高国在京奉行人連署奉書」は室町時代に、讃岐国の守護・細川氏から、秋山氏に今の三豊市内の 土地を領地として保証されたことを示す文書です。 また「御本尊相論之覚」は、江戸時代の初期、秋山家に伝わった「御本尊」の所有権を巡って寺院と訴訟となり、 最後は、和解して御本尊が寺院に預けられたことを示す文書です。 いずれもこれまで見つかっていた古文書の内容を補完し当時の讃岐の歴史や寺院の実態を知る上で貴重な史料 だということです。 「秋山家文書」は、平成2年に98点が県の有形文化財に指定されていますが、今回の追加指定であわせて100点が 指定されることになります。10月28日 09時10分 岡山城の夜間入場3倍以上に増加ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20141029_6 岡山市北区の岡山城は、ライトアップの期間を後楽園と統一した結果、ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20141029_6.jpg 8月の夜の入場者数が去年の3倍以上に増えたことがわかりました。 29日開かれた、連携推進協議会の総会で発表されました。 後楽園と岡山城は、今年初めて夏のライトアップの期間を8月1日から31日までと統一しました。 その結果、8月の夜間の入場者は後楽園が去年より1割多い5万9千人余り、岡山城が去年の3倍以上の8千人余りに増えました。 来月4日からは秋の合同ライトアップも予定されていて、協議会では英語で書いた共通のチラシを作ったほか、 来年からは2つの施設の入場券と路面電車の往復乗車券をセットにした、周遊クーポンを旅行会社などで販売 することにしています。 香南市の文化財マップ完成ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015721121.html?t=1414635838367 古代からの遺跡などが数多く確認されている香南市で市内に残る仏像や遺跡などの文化財を紹介するパンフレットが 完成しました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015721121_m.jpg このパンフレットは、地域の文化財を広く知ってもらい文化財の保護を進めようと香南市教育委員会が作り、国や県、 それに市が文化財に指定する遺跡や仏像などあわせて127件を写真や地図で紹介しています。 ▼このうち、国の重要文化財に指定されている兎田八幡宮の銅剣は、弥生時代に作られ、シカやカエル、 それにカマキリなどの生き物が描かれていて全国でもほかに例がない貴重なものです。 ▼同じく国の重要文化財でおよそ200年前に建てられた安岡家住宅は、幕末の志士、安岡兄弟の生まれた家で 当時の土佐藩の下級武士=郷士の屋敷のつくりを伝えています。 ▼このほか、およそ400年前から続くとされる「手結の盆踊り」などの伝統行事なども紹介されています。 香南市ではこのパンフレットを4000部作成して市役所や図書館などで無料で配付しています。 香南市は「このパンフレットを観光や子どもたちの歴史学習などさまざまな場面で役立てほしい」と話しています。 10月30日 10時13分 「安定」いいね 小田原萌え 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三英傑。さらには武田信玄や上杉謙信、伊達政宗らと比べても、いま一つ影が薄いのが、小田原城(神奈川県小田原市)を拠点にした北条氏。 結論が出ない話し合いを意味する「小田原評定」から、マイナスなイメージもつきまとう。 だが、乱世にあって5代続いた北条氏を再評価し、「萌(も)える」人たちの輪も広がりつつある。 「WE(ハート)HOJO5」。こんなキャッチフレーズを掲げ、「歴女」「城ガール」と呼ばれる女性を対象にしたブロガーコンテストが、今月から始まった。 参加者は、小田原城を始めとした北条氏ゆかりの地を訪ねてもらい、その様子をブログやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に投稿してもらう。 主催するのは小田原市や東京都八王子市、埼玉県寄居町など、5都県の12市町で構成する「北条五代観光推進協議会」。 小田原市観光課は「正直なところ、参加者が10人を超えてくれれば、と願っていた」が、募集を始めると全国から39人が参戦。うち6割は10〜30代だった。 「小田原城を見ると癒やされる」。その魅力を熱く語るのは、東京都豊島区の会社員の女性(31)だ。片道2時間かけて、月に2回は訪れる。 北条ファンと言っても、なかなか周囲からの理解が得られないのが悩み。 それでも「北条五代は家族が仲良くて地元を愛している。地味だからこそいいんです」ときっぱり。 生き馬の目を抜く戦国時代は、親族であっても気を許せなかった。三英傑をみても、信長は弟の信行を、秀吉はおいで養子の秀次を、家康は長男の信康を手にかけている。 ところが、早雲から始まる北条氏(後北条氏)には、目立ったお家騒動がなく、五代100年続いた。 多くの武将が「天下」を夢見て、京都への上洛(じょう・らく)を目指す中で、関東の安定に力を入れた。 秀吉を相手に、抗戦か降伏かで意見が分かれたことが源となる小田原評定。 歴史学者で、静岡大名誉教授の小和田哲男さん(70)は「当主の独裁でなく、家臣の声をよく聞く民主的な運営をしていたからこそ」と前向きな評価をする。 (以下ソース) http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20141031150160001.html http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/images/MTW2014103115016000119656.jpg http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141031/k10015869881000.html https://archive.today/qOvCm 「古代歴史文化賞」受賞作決まる 10月31日 22時00分 古代の歴史や文化に関する優れた書籍を表彰する「古代歴史文化賞」の ことしの受賞作が決まり、賞の贈呈式が31日に東京で行われました。 「古代歴史文化賞」は、日本の神話や古代史に関係の深い島根県や奈良県、三重県、和歌山県、宮崎県が設けている賞で、 直近の3年間に出版された一般向けの書籍の中から受賞作が選ばれます。 第2回となることしの大賞には、優秀作としてノミネートされた5作品の中から 大阪大学准教授の市大樹さんの歴史書『飛鳥の木簡〜古代史の新たな解明〜』が選ばれ、 島根県の溝口知事から賞状が手渡されました。 この作品は、奈良県の飛鳥地域から出土した文字の書かれた木の札「木簡」から研究を通して多くの情報を引き出し、 その背景にある古代国家形成の歴史を臨場感あふれる表現で描いた点が高く評価されました。 また、次点の準大賞には、奈良時代の歴史が多角的な視点で分かりやすく書かれているとして 奈良大学教授の寺崎保広さんの著書『若い人に語る奈良時代の歴史』が選ばれました。 三好長慶 武者行列まつりttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025829611.html?t=1414917423880 現在の三好市の出身とされる戦国武将・三好長慶にちなんだ武者行列が三好市で行われました。 戦国時代、近畿や阿波、讃岐などを支配した三好長慶は現在の三好市の出身とされていて、 郷土の歴史をPRしようと3年前から三好市で武者行列が行われています。 はじめに応援に駆けつけた備州岡山城鉄砲隊による演舞が行われ、発射される火縄銃の轟音に耳をふさぐ見物人も いました。 武者行列にはことしも地元の人たちのほか、大阪・堺市などのファンら200人が甲冑や赤い陣羽織姿で参加し、 4キロを練り歩きました。 沿道には大勢の見物客が訪れ勇壮な武者姿に、大きな声援を送っていました。11月02日 16時06分 矢掛の宿場まつり大名行列ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20141109_4 旧山陽道の宿場町として栄えた岡山県矢掛町で、「矢掛の宿場まつり大名行列」が行われました。 昔ながらの町並みが残る矢掛町です。 毎年恒例の大名行列には、矢掛町の山野町長が扮した殿様や、公募で選ばれた姫君など、およそ90人が参加しました。 一行は旧山陽道沿いのおよそ1.5キロをゆっくりと練り歩きました。奴たちが毛槍を投げかわすパフォーマンスも行われ、 沿道につめかけた人たちがカメラにおさめていました。 あいにくの雨となりましたが、優雅な時代絵巻に訪れた観光客などが見入っていました。 長宗我部元親の手紙 初公開ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015966321.html?t=1415771541324 戦国時代に四国をほぼ統一したとされる長宗我部元親が、合戦で長男と義理の兄を失ったことを身内に宛てて 知らせる手紙が、高知県南国市で初めて一般に公開されました。 この手紙は、去年9月、岡山県の林原美術館で見つかったもので、高知県南国市の県立歴史民俗資料館で初めて 公開されました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015966321_m.jpg 手紙は、戦国時代に豊臣秀吉の命によって、大分に派遣された長宗我部氏を中心とする軍が、薩摩の島津氏と戦い、 敗北した戸次川合戦のおよそ1か月後に義理のおいに宛てて書かれたものと見られています。 手紙では、▼今回の出兵は秀吉の命による軍役であり、自分がもし総大将ならこれほど利を失うような戦いは しなかったという武士としての憤りが込められているほか、▼自分の長男と、義理の兄が同じ場所で戦死したことに ついて、「言葉さえ出ない」と無念の思いがつづられています。 高知県立歴史民俗資料館の野本亮学芸員は「これまで見つかっている元親の手紙は気持ちを込めずに用件だけを 伝えるものばかりだったのでこれほど心を砕いて相手に寄り添っている手紙は非常に珍しい」と話していました。 この手紙は、来月7日まで公開されています。11月12日 13時15分 史跡屋島を語るシンポジウムttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035510731.html?t=1416870100526 国の史跡と天然記念物に指定されて、ことしで80年となる高松市の景勝地「屋島」の歴史を学び、今後の観光振興に どうつなげるかを考えるシンポジウムが開かれました。 シンポジウムには市民100人ほどが集まり、まず元文化庁職員で文化財の保存に長く携わってきた桂雄三さんが 「文化財や史跡を保全することは観光資源として役立つだけでなく防災への備えや地域の将来を考えるきっかけに なる」などと屋島の史跡や自然を守っていくことの重要性を訴えました。 このあと、高松短期大学の藤井雄三講師など屋島の研究に携わる専門家4人が壇上にあがり、▼屋島の特徴でも ある頂上が平坦な「メサ」と呼ばれる地形の成り立ちを解説したり▼7世紀に築かれたとされる古代の山城「屋嶋城」 が地形を生かした天然の要塞であることなどを説明したりしました。 屋島を訪れる観光客は最近では年間60万人前後とかつての4分の1程度に落ち込んでおり、高松市では、 こうした講演会や展示会を開くことで、屋島の活性化につなげたいとしています。11月24日 17時56分 安倍政権、ほとんど支持できるんだが、「日本史必修化」が納得できんので、今回は自民に票を入れたくないね。 理系高校生にとって、日本史ほど無価値なものは無い。そのくせ無駄に負担が大きい。安倍はちょっと想像力働かせろ。 青少年に正しい歴史を認識させたいのかどうか知らんが、そんなことにこだわるあまり、結果、将来の日本の国際競争力を担う理系青年に無駄な負担を強いる。 しょうもない歴史なんぞにこだわるより、もっと実質的な国際競争力=科学技術を最優先にしろって思う。 安倍さんの趣味に理系を巻き込むなよ。やっちもない。 学問の自由ってのがあるだろう。学びたいものがそれを学ぶもんじゃないのか? 歴史を理系生徒に強要し、理工学の勉強時間が減り、結果、国の科学水準が下回るのなら、まさにバカン国と同じレベルだよ。少しは考えろ。 >>268 日本国民としてのアイデンティティの確保確立ってことなんだろう それがグローバル社会でも自身の足場をしっかり持つと言うことにつながると ・・・と言うのはタテマエで 単なるファンション保守の飾りみたいなもん?w 伊能図を専門家が分析ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023379491.html?t=1416994780488 江戸時代の測量家、伊能忠敬が作った日本地図=「伊能図」の詳細な作成年代などを絵の具などの分析から 明らかにする調査が徳島大学で行われています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023379491_m.jpg 「伊能図」は、およそ200年前の江戸時代に、伊能忠敬が全国各地を測量して作った日本で初めての実測による 日本地図で、国内に225枚現存しています。 このうち徳島大学は江戸時代の徳島藩主、蜂須賀家が所蔵していた10枚を保管していて、伊能が測量した詳細な ルートや、当時の技術力の高さなどを明らかにする研究を今年度から進めています。 26日は、文化財に詳しい専門家や千葉県にある伊能忠敬記念館の学芸員など5人が、「大日本沿海図稿」 などに使われた絵の具に含まれる顔料の元素のデータを、X線をあてる特殊な機材を使用して、採取していきました。 データは、これまでに蓄積されている江戸時代のほかの地図のデータなどと比較し、描かれた場所や年代を特定 するだけでなく、絵画としての芸術的価値の評価にもつなげるということです。 調査にあたった東京文化財研究所の早川泰弘博士は、「伊能図からデータを取るのは今回が初めてで、 各藩が所蔵していたほかの地図のデータと比べることで伊能図の特別な点を発見できると思う」と話していました。 調査結果は、再来年の3月までにまとめられ公表されます。11月26日 16時55分 >絵の具に含まれる顔料の元素のデータを、X線をあてる特殊な機材を使用して、採取 これで判るのは顔料の年代だけで、顔料の成分分析から導き出せるのはどの絵画が類似の顔料を使用したかの相関関係ぐらいだよなー 学問的にどういう意味があるのやら 調べたら、およそ二百年前に描かれたのがわかりました(キリッ って何のためにやっているのやら…明治の頃に書かれた偽者ですというのなら朝日新聞が喜びそうだがw 予算降りなくて文化財にカビ生えた 県が予算つけなくてエアコンの更新ができずかびはえた 中国で遺失して日本に現存してるのもカビ生えた 重要文化財にカビ 財政難で空調更新できず 金沢文庫 神奈川県立金沢文庫(横浜市金沢区)で9月初め、国指定重要文化財の多数の仏典にカビが発生した。 空調装置が老朽化し、収蔵庫の湿度を管理できていなかったのが原因だ。 空調には不具合が多発していたのに、財政難で更新できなかったという。 展示をとりやめてカビを取り除く作業を進めているが、再オープンの予定も抜本的対策の見通しも不透明だ。 カビが発生したのは「宋版一切経」。鎌倉幕府の有力者だった北条実時が中国宋から取り寄せた仏典で、 3486帖(じょう)が残っており、国の重要文化財に指定されている。 171の木箱に入れてあったが、131箱で雪を散らしたような白カビが表紙に発生した。 文庫長の永村眞・日本女子大教授によると、収蔵庫内は気温20度、湿度60%に設定していたはずだが、 調べると湿度は70%を超えていた。 さらに文化庁の専門家による調査で、壁や棚の木材がかなりの水分を含んでいることが判明。 家庭用の除湿器を10台導入したが、湿気を除くのに1年はかかる見通しだという。 金沢文庫の施設は1990年の完成。空調装置は15〜20年が耐用年数で、近年は不具合が多くなり、 修理に修理を重ねて乗り切ってきたという。抜本的には装置を入れ替えたいが、 2億円はかかる。何年も必要性を県教委に訴えてきたが、実現しなかったという。 http://www.asahi.com/articles/ASGCB4SVBGCBULOB025.html 丸亀城ですす払いttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033834061.html?t=1418427909273 正月を前に、国の重要文化財の丸亀城で、1年のほこりを落とす、恒例のすす払いが行われました。 すす払いには、丸亀市観光協会の職員のほか、丸亀城で観光案内をしたりパフォーマンスを披露したりしている、 お笑い芸人の「まるがめ→ゼ」の2人など、およそ10人がそろいのはっぴで参加しました。 そして国の重要文化財に指定されている天守と大手一の門を中心に先に笹の葉を取り付けた、長さおよそ5メートルの 竹ぼうきを使って、軒下やしっくいなどにたまったほこりを払い落としました。 丸亀市によりますと、丸亀城の来場者は年々増加しており、ことしの来場者数は11日までの累計でおよそ 8万3000人とすでに過去最高になったということです。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033834061_m.jpg すす払いに参加したまるがめ→ゼの引田由嗣さんは、「想像以上に大変でした。お客さんには、きれいなお城を 見てもらって、きれいな気持ちになってほしいです」と話していました。 丸亀城では、年末年始も休まず天守を公開するほか、今月19日からは夜間の石垣のライトアップが始まることになっています。 12月12日 19時14分 旧閑谷学校の石塀修復工事を一般公開ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20141213_3 備前市にある国の特別史跡、旧閑谷学校を取り囲む石塀の一部が去年崩れているのが見つかり、修復工事が 行われています。その様子が公開されました。 講堂が国宝に指定されている、備前市の旧閑谷学校です。そのシンボルとも言える石塀の一部が、 老朽化のため去年3月に傾き崩れたもので、先月18日から修復工事が行われています。 13日は午前と午後の2回に分けて工事の様子が公開され、大きな石を特殊な工法で積み上げていることや、 内部にもたくさんの石が積まれ、排水を助ける構造になっていることなどが説明されました。 今月中に解体工事を終え、来年2月にかけて石の積み直しが行われる予定です。 さっき投票してきたんだが、 ジジババども、少しは運動しろって言いたい。 そこの投票所はビルの2階なんだが、高齢者軍団は、たった一つ上の階のために上がりも下りもエレベーター使いやがる。 投票に来る奴らは、高齢者ばかりで、そのため、エレベーターは常時1階2階を行ったり来たり。 階段使えば、あっと言う間なのに、下りすらエレベーターを使おうとするので、エレベーター前には高齢者の行列ができてる。 こんな奴らのために電気が使われ、こんな奴らを生かすために現役世代の給料が天引きされてる。 それもこれも、こんな奴らばかりが選挙に行くからだ。こんな奴ら専用の議員ばかりが選ばれ、こんな奴らのための政治が続く。 結果、こんな奴ら優先に税金が使われることになる。 若者!こんなことでいいのか?若い世代は、選挙行ってくれ!頼む! 山内家の正月の品 展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013955421.html?t=1418717478962 江戸時代の土佐藩主、山内家が正月や祝いの席で使っていた品々を紹介する展示会が、高知市で開かれています。 高知市の土佐山内家宝物資料館で開かれている展示会には、山内家が正月や祝いの席で使っていたおよそ50点の 品々が展示されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013955421_m.jpg このうち、「古今和歌集巻第廿」は、平安時代にまとめられた古今和歌集の写本としては現在残るものの中で最も古く、 山内家が保存していました。 冒頭には、「新年にあたり、1000年先の繁栄を思い描いて、盛大にたき火をしましょう」といった意味の和歌が 書かれています。また、「紙衣陣羽織」は、2代藩主の忠義が使っていたとされるもので、和紙が素材となっています。 正月に藩主と家臣が高知城で対面する行事で着用していたとされ、和紙作りが盛んな土佐ならではの一着です。 このほか、七福神が書かれた掛け軸や鶴や亀などが掘られた手鏡など、さまざまな縁起物が展示されています。 この展示会は来年2月1日まで、高知市の土佐山内家宝物資料館で開かれています。12月16日 13時06分 松山城すす払い(12月17日)ttp://www.itv6.jp/m/news/detail.php?date=20141217&no=0005 松山市の観光のシンボル松山城で、大掃除が行われ、新年を迎える準備が行われました。 寒風が吹き付け、雪もちらつくなか、松山城の管理者およそ20人が長さ2メートルほどの竹ぼうきを使って、 すす払いを行い、軒下や天井にたまったほこりを落としました。 きょうは、松山城のキャラクターよしあきくんとともに、県のイメージアップキャラクターみきゃんも手伝いに駆け付け、 軽快に竹ぼうきを振っていました。 今年の松山城天守の入場者は、およそ44万人、ロープウェイとリフトの利用者は、およそ111万人と いずれも昨年よりおよそ12パーセント増加しています。 管理者によりますと、今年は、道後温泉本館改築120周年と、四国霊場開創1200年の影響で、 県外や、台湾などの海外から訪れる人が増加したということです。 今月29日には、ボランティアによる登山道などの大掃除を行う予定で、 きれいになった松山城は、正月3が日、およそ2万4千人の来場者を見込んでいます。 ebcで-た放送news 17日15:44 松山城で年末大掃除 松山城の天守閣で17日、恒例の年末大掃除が行われ た。職員ら約20人が笹ぼうきで軒先のすすを払った り、柱を雑巾で拭いたりして、新年を迎える準備にあ たった。今年、松山城には約111万人が訪れた。 2014.12.17 19:27松山城で恒例の“すす払い” 松山城では17日、天守閣の観覧を休止し、年末恒例の大掃除が行われました。 松山市の職員らおよそ20人は、天守閣の軒先のすすを笹ぼうきで払ったり、柱を雑巾で拭いたりして、 今年1年の汚れを落とし、新年を迎える準備を整えました。 松山城のすす払いは毎年、12月29日に行われていましたが、この日は観光客が多いため、 今年から時期を早めました。ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=47393 今年松山城には道後温泉改築120周年やしまのわなどの大型イベントが続いたため、 前の年を12%上回るおよそ111万人が訪れています。 気持よく新年を 松山城天守閣ですす払い(愛媛県)■ 動画をみるttp://w2.rnb.co.jp/nnn/movie/news8785180.html 松山城の天守閣では、今年1年の汚れを落とし気持ちよく新年を迎えようと恒例のすす払いが行われた。 強風、そして粉雪も舞うなか行われた今年の松山城年末大掃除。ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8785180.html スタッフおよそ20人が手分けして、天守閣の軒下や天井にたまったほこりを竹笹で落としていた。A 今年の天守閣の観覧者数は、およそ44万人と去年に比べ1割余り増加していて、 松山市は、旅行口コミサイト、トリップアドバイザーの「行ってよかった!日本の城ランキング」で、 今年、松山城が2位にランクインした効果だとみている。すす払いを終え、新年の準備が整った松山城。 元旦には、天守閣の開き初めやポンジュースの鏡開きなど様々な行事で、帰省客らを出迎える予定。 [ 12/17 16:28 南海放送]ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/picture/RNB_51801.jpg A スタッフは 大変ですね 例年はこんなことないですから 天守閣観覧者数 今年・水系 約44万人(11・6%↑) 備中松山城、天守閣の大掃除ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024073801.html?t=1419038748247 「天空の山城」として知られる高梁市の備中松山城で天守閣の1年の汚れを落とす大掃除が行われました。 標高430メートルの山の上にある高梁市の備中松山城は、天守閣が現存する唯一の山城として国の重要文化財に 指定されこの時期は雲海に浮かぶ姿から「天空の山城」とも呼ばれています。 城を管理する市の教育委員会が毎年この時期に天守閣の1年の汚れを落とす大掃除を行っていて、19日は4人の 作業員が高さおよそ10メートルの屋根の上に登りました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024073801_m.jpg 作業員たちは、転落防止用のロープをつけて瓦にひび割れがないかなど建物の保存状態を点検しながら、ほうきを 使って落ち葉や、クモの巣を取り除いていました。 このところの山城ブームで全国に知られるようになったことから備中松山城にはことし4月から先月末までの間に 6万人近くの観光客が訪れていて、高梁市教育委員会で文化財保護を担当する三浦孝章さんは「今日の掃除も 終わりましたのでまたたくさんの方に引き続き来ていただくように努力していきたい」と話していました。 大掃除を終えた備中松山城では12月24日から夜間のライトアップが始まり、年内は12月28日まで公開される ことになっています。12月19日 19時35分 高梁市 備中松山城ですす払いttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20141219_12 今年も残り約10日です。各地で新年を迎えるための準備が本格化しています。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20141219_12.jpg 高梁市の備中松山城では年末恒例のすす払いが行われました。標高約480m、高梁市の臥牛山の中にたたずむ備中松山城です。 冬枯れの山の木々の間から、昔のままの城の姿を今も見ることができます。 備中松山城のすす払いは、1年の汚れや厄を落として新年を迎えようと毎年行われています。 4人の作業員が天守閣の屋根に登り、落ち葉やほこりを払い落とします。 うち1人は瓦職人です。瓦の傷み具合も確認していました。備中松山城は「天空の城」として、ここ数年注目されています。 昨年度の来場者数は5万人。今年度はそれを大きく上回る、8万人の来場が見込まれます。 備中松山城の年内の城内見学は今月28日までで、年明けは1月4日から見学できるということです。 2014.12.19 19:20芸予諸島・海民文化の考古学展ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=47403 しまのわのイベントや、村上水軍を描いた小説のヒットで注目を集める芸予諸島の考古学展が、 愛媛大学で開かれています。この考古学展は、愛媛大学考古学研究室などが開いていて、 今治市の島や上島町を中心にした発掘調査で出土するなどした、およそ200点が展示されています。 展示品は縄文時代から奈良時代までを時系列順に紹介。 佐島の「宮ノ浦遺跡」から出土した古墳時代の塩づくりの土器や、 朝鮮半島との交流を物語る魚島で出土した鉄の刀や馬具などもあり、 文化や海上交通を巡る当時の芸予諸島の活動を推し量ることができます。この展示会は今月25日まで開かれています。 高知城のすす払いttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013866531.html?t=1419621898395 国の重要文化財に指定されている高知市の高知城で、ことし1年の汚れを落とすすす払いが行われました。 高知城のすす払いは26日午前9時から行われ、管理事務所の職員やボランティアおよそ20人が参加しました。 高知城は、江戸時代に建てられた天守閣や御殿が今でも残り、国の重要文化財に指定されていて 参加者たちが天守閣の最上階に登り、長さ2メートルほどのささを使って軒下や天井にたまったほこりを掃き落としました。 また壁に掛けられた写真パネルをはずして雑巾で丁寧に拭き取っていました。 最後に消火用の放水銃で建物全体に水をかけ、外の汚れを洗い落としました。 高知城管理事務所によりますとことし1年間に高知城を訪れた観光客はおよそ25万2000人と、 去年よりおよそ9500人減ったということです。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013866531_m.jpg 高知城管理事務所の上野和英所長は「ことしは夏から秋にかけて台風が相次ぎ、観光客が伸びなかった。 来年は坂本龍馬生誕180年で高知県を訪れる観光客の増加が見込まれ、高知城にも多くの人を呼び込みたい」 と話しています。高知城は26日から大みそかまで休館し、新年・元日は無料開放されます。12月27日 00時06分 鷲の門にしめ飾りttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023997521.html?t=1419625392567 新年を前に、徳島市の徳島中央公園にある「鷲の門」にしめ飾りが取り付けられました。 徳島中央公園の「鷲の門」は、空襲で焼失したかつての徳島城の正門を平成元年に復元したもので、 徳島市が毎年、年の瀬にしめ飾りを設置しています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023997521_m.jpg 26日、市の職員たちがまず、長さ5メートルほどの笹を使って門にたまったこの1年間のほこりを落としました。 このあと、徳島市の原市長がはしごを使って冠木と呼ばれる門のはりのところまでのぼり、▽長さおよそ1メートル ▽重さおよそ3キロのしめ飾りを取り付けました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023997521_m.jpg 公園を通りがかった園児たちは、大きなしめ飾りを興味深そうに見ていました。 門の両脇には高さ2点5メートルほどある門松も取り付けられ、鷲の門は新年を迎える準備が整いました。 作業を見守った園児たちは「お正月が楽しみです」と話していました。 しめ飾りと門松は来年1月15日まで飾られることになっています。12月26日 19時19分 鶴山公園で門松づくりttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024129561.html?t=1419628472989 津山市の鶴山公園で新年を迎えるための門松づくりが行われました。 鶴山公園は、国の史跡にも指定されている津山城の城跡を整備した公園で、去年から園内で初日の出を見る イベントが開かれています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024129561_m.jpg 公園を管理している津山市観光協会では公園に初日の出を見に訪れる人たちのために午前中から職員7人が出て、 門松づくりを行いました。 職員たちはまず、門松に使う竹をのこぎりで切っていきます。そして土台に長さの違う3本の竹を立て、 そこに縁起物の松や梅のほか、色鮮やかな実を付けたナンテン、それに葉ボタンなどをバランス良く飾りつけ、 高さ2メートル余りの門松を完成させました。 鶴山公園では、元日は午前6時に開門し、7時過ぎの日の出の時刻に合わせたイベントを行うということで、 公園を訪れた人には甘酒がふるまわれるということです。12月26日 18時36分 備中松山城 人気が最高にttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024305211.html?t=1419734814396 高梁市の備中松山城は雲海に包まれた城の様子から「天空の山城」として人気が高まり、今年度の入場者数は 11月末の時点で記録が残っている昭和61年以降、最多となりました。 高梁市の備中松山城は「臥牛山」の標高およそ430メートルのところにある山城で、全国の山城の中で唯一 残っている天守は国の重要文化財に指定されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024305211_m.jpg 山のまわりに雲海が広がり城が空に浮いているように見える姿から最近では「天空の山城」として人気が高まっています。 今年度の入場者数は11末の時点で5万8678人とすでに昨年度1年間の入場者数を8000人ほど超えていて 市によりますと記録が残っている昭和61年以降最多だということです。 備中松山城の最寄り駅の備中高梁駅には来年3月には東京と島根を結ぶ寝台特急の「サンライズ出雲」が停車 することも決まっていて、高梁市ではさらなる観光客の増加に期待を寄せています。 高梁市産業振興課では「街の人たちと連携してガイドツアーなどさまざまな企画をして市全体に観光効果を波及 させていきたい」と話しています。12月27日 18時41分 「鷲の門」にしめ飾りttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023997521.html?t=1419735885592 新年を前に、徳島市の徳島中央公園にある「鷲の門」にしめ飾りが取り付けられました。 徳島中央公園の「鷲の門」は、空襲で焼失したかつての徳島城の正門を平成元年に復元したもので、徳島市が毎年、 年の瀬にしめ飾りを設置しています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023997521_m.jpg 26日、市の職員たちがまず、長さ5メートルほどの笹を使って門にたまったこの1年間のほこりを落としました。 このあと、徳島市の原市長がはしごを使って冠木と呼ばれる門のはりのところまでのぼり、長さお よそ1メートル、重さおよそ3キロのしめ飾りを取り付けました。 門の両脇には高さ2点5メートルほどある門松も取り付けられ、鷲の門は新年を迎える準備が整いました。 しめ飾りと門松は来年1月15日まで飾られることになっています。12月27日 18時18分 「実は違ったかも……」といわれている日本の歴史の出来事5つ「聖徳太子はいなかったかも」「士農工商はなかった」 http://woman.mynavi.jp/article/141229-160/ ●聖徳太子は……いなかった? 「冠位十二階」などの制定や「複数の人の話を理解できた」という逸話などで知られる聖徳太子。 しかし、「十七条憲法」や「冠位十二階」などを行ったのは厩戸王で、「聖徳太子=厩戸王」ではないという説があります。 さらには「実在しなかったかも?」というそもそもの話も出ています。そのため、今の歴史の教科書では 厩戸王(聖徳太子)という表記になっています。またお札にも使われた有名な肖像画も別人だったといわれており、 こちらも「聖徳太子像と伝えられる」というあいまいな表記になっていたりするのです。 ●いいはこつくる鎌倉幕府……? 鎌倉幕府の成立年度を聞かれたら、皆さんの多くは「1192年」だと答えるでしょう。実際そう習いましたよね。 しかし、最近では1192年ではなく「1185年」という説が有力になっています。鎌倉幕府は段階的に成立したもので、 いつを成立年にするのかの議論が続き、1185年に落ち着いたのだとか。 教科書にもすでに1185年と記載されているものもあるそうです。「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」ではなく「いいはこ(1185)つくろう」ということですね。 ●長篠の戦いで「三段撃ち」は使われていない? 織田信長が武田勝頼を破った「長篠の戦い」。この戦いでは当時最新鋭の武器だった「鉄砲」が3000丁投入され、 交代しながら鉄砲を撃った「三段撃ち」という戦法が使われた……というのが通説。 しかし近年では「三段撃ちなんて使われなかった」という話が出ています。 当時の鉄砲は一定の間隔で撃つことができないもので、三段撃ちなど難しくてできないという考察があるのです。 また3000本というのも怪しいのだそうです。 ●士農工商……はナシ? 江戸時代の身分制度を意味するものとして、習った人も多いであろう「士農工商」。 「武士が一番偉く、次が農民……」といった身分の序列として、今でも覚えている人が多いでしょう。 しかしこの士農工商の序列認識、今では「誤ったものだった」ということになっているのです。 そのため、最近の教科書にはもう掲載されていないのだそうです。 ●慶安御触書 『慶安御触書』(けいあんおふれがき)は、農民統制のために江戸幕府が発布したという文書。 「幕府の法令を怠らないように」「早起きしてちゃんと働くように」「たばこは体に悪いから吸っちゃ駄目」といった内容のものです。 教科書にも記載されていましたね。しかし、これも「徳川幕府が出したものではないのかも?」ということが考えられています。 甲斐国(現在の山梨県)の一部地域で発布されていたものが幕法として伝承した説、そもそもニセモノなど、さまざまな説が挙げられています。 このため記載されていない歴史の教科書も多いのだとか……。(ry 松山城でお座敷芸を体験ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004132081.html?t=1420343181919 国の重要文化財に指定されている松山城の天守閣で、観光客が芸者の舞や野球拳などお座敷遊びを体験できる 催しが開かれました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004132081_m.jpg この催しは、松山城を訪れる観光客に正月気分を味わってもらおうと松山市内の芸者の団体「松山検番」が毎年、 開いています。 国の重要文化財に指定されている城の天守閣の広間では、2人の芸者が地元の民謡「伊予節」や道後温泉など 松山の名所をうたった「松山小唄」に合わせて舞を披露しました。 また、松山が発祥のお座敷芸「野球拳」を観光客がいっしょに楽しみました。 観光客が「アウト、セーフ」のかけ声とともに芸者とじゃんけんをして勝ったり負けたりするたびに拍手や歓声が わき上がっていました。 奈良県から訪れた30代の男性は「初めて訪れた四国で、楽しい体験ができてとても良かったです。 このあとも四国の観光地を楽しもうと思っています」と話していました。 また、岡山県の小学3年生の女の子は「舞がとてもきれいで、見に来て良かったです。ことしは、勉強だけではなく 習い事のピアノもがんばっていい1年にしたいです」と話していました。01月03日 19時12分 丸亀城入場者数が過去最高にttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034474021.html?t=1420597088851 丸亀市にある丸亀城は歴史ブームの影響などから去年の天守の入場者数が8万7000人余りに達し、 5年連続で過去最高記録を更新しました。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034474021_m.jpg 丸亀市によりますと、去年1年間の丸亀城の天守の入場者数は8万7448人でした。 これは記録のある昭和63年以降、最も多かったおととしの入場者数8万3334人を4000人あまり上回り、 過去最高記録を更新しました。入場者数の記録更新は5年連続です。 これについて丸亀市では、去年は台風の影響などにより10月・11月の入場者数は減ったものの、 お笑い芸人による観光案内や、丸亀市を舞台にした小説の活用といった新たな事業が成果をあげて、 それ以外の月でおおむね前年を上回るペースで推移し、記録の更新につながったとしています。 丸亀城では今月11日に初めての迎春イベントが開催されるほか、今月12日まで夜間に石垣のライトアップが 行われています。 丸亀市ではことしは9万人突破を目指して引き続き、新しい施策を打ち出して入場者の増加対策に 取り組んでいきたいとしています。01月07日 08時53分 「岡山に生きた豊臣家」展示会 (01/09) 【12時06分 更新】ttp://www.ohk.co.jp/e/news/001.html 備中足守藩木下家に伝わる豊臣秀吉ゆかりの美術品などを集めた展示会が9日から岡山市で開かれています。 初日の9日は旧足守藩(あしもりはん)木下家の子孫などがテープカットをして開会を祝いました。 木下家は豊臣秀吉の正室・ねねの兄である、木下家定(きのしたいえさだ)が秀吉から領地を与えられたことに 始まります。展示会には木下家、ゆかりの品126点が展示されています。 このうち、桐鳳凰蒔絵硯箱(きりほうおうまきえすずりばこ)は豊臣家から木下家に贈られたもので、 鳳凰の絵が入った品物は権力者しか所有が許されていなかったことからも、 木下家が深い愛情を受けていたことが感じられます。 この展示会は岡山シティミュージアムで(岡山市北区)来月8日まで開かれています。 岡山足守藩、木下家の展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024094011.html?t=1420792501803 豊臣秀吉の正室「ねね」の実家で今の岡山市にあった備中足守藩の藩主を代々務めた木下家に伝わる貴重な 資料を紹介する展示会が、9日から岡山市北区の岡山シティミュージアムで始まりました。 備中足守藩は、豊臣秀吉の正室「ねね」の兄、木下家定を初代藩主に、今の岡山市北区足守付近にあった藩で、 9日は現在の当主の木下昭弘さんなどが出席して展示会の開会式が行われました。 展示会では木下家に伝わる貴重な文書や工芸品などおよそ100点が展示されています。 このうち「桐鳳凰蒔絵硯箱」は、鳳凰と桐の図柄が、金の蒔絵などで描かれた豪華な硯箱で、秀吉が使っていたものが ねねを通して伝わったとされています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024094011_m.jpg また「足守藩陣屋町絵図」は江戸時代後半の足守藩の中心部を描いた絵図で、家臣と、町人や職人が住む場所が 明確に分けられた町割りがこの時期にすでに完成していたことが確認できるということです。 岡山シティミュージアムの瀬戸裕子学芸員は「こんなすばらしい資料が足守の地にあったということをあらためて 知って欲しい」と話しています。この展示会は2月8日まで開かれています。01月09日 14時27分 「教育勅語」や「五箇条の御誓文」の朗唱、伊勢神宮への参拝・宿泊…。 大阪市淀川区に超ユニークな教育を園児に施している幼稚園がある。塚本幼稚園幼児教育学園。 安倍晋三首相夫人が同園を訪れたとき、園児らのかわいらしくもりりしい姿を見て、感涙にむせんだという。 さて、 その塚本幼稚園の籠池泰典園長が、小学校運営に乗り出している。現代教育のゆがみをも映し出すその理由とは-。 昭恵夫人「安倍首相に伝えます」 「夫婦相和し、朋友相信じ、恭倹(きょうけん)己を持(じ)し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を 習ひ…」。園庭に2〜5歳の園児約150人の大きな声が響く。 教育勅語(正式には「教育ニ関スル勅語」)は、明治23(1890)年に発布され、第2次世界大戦前の日本政府の教育方針の根幹となった文書。なぜいま、教育勅語なのか。 「子供に学んでほしいことは何か、とつきつめたとき、その答えが明治天皇が国民に語りかけ られた教育勅語にあったからです」と籠池泰典園長(61)の答えは明快だ。 あどけない幼児が大きく口をあけ、難しい言葉を朗唱する姿を初めて見た人は一様に驚き、 感動する。安倍首相の昭恵夫人もそのひとりだ。 昭恵夫人は昨年4月、同園の視察と教職員研修のため訪れたとき、鼓笛隊の規律正しいふるまいに感動の声を上げた。 さらに、籠池園長から「安倍首相ってどんな人ですか?」と問いかけられた園児らが 「日本を守ってくれる人」と答える姿を見て、涙を浮かべ、言葉を詰まらせながら こう話したという。 「ありがとう。(安倍首相に)ちゃんと伝えます」 http://www.sankei.com/west/news/150108/wst1501080001-n1.html 万葉集の魅力伝える展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024559451.html?t=1421046713871 日本最古の歌集「万葉集」の魅力を絵画や造形作品で表現した展示会が徳島市で開かれています。 「万葉集いにしえの心をたずねて」というこの展示会は、歌にこめられた人々の思いをより深く感じとってもらおうと 開かれたもので、会場には「万葉集」の歌にちなんだ日本画や造形作品など、およそ100点が展示されています。 このうち、柿本人麻呂の歌集「天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ」という歌をモチーフに描いた 日本画は、想像力豊かに詠まれた夜空の風景と三日月の様子を表現しています。 また、大伴家持の恋の歌を紹介した造形作品は高さ3メートルほどの透明感のある円柱の布に歌の文字を吊り 下げていて、およそ1200年前に交わされた恋心と向き合うことができるということです。 徳島県立文学書道館の亀本美砂事業課主査は「文字として万葉集を頭で学ぶことを超えてまさにその時代に 身を置いて万葉集の歌が生まれた瞬間を感じてほしい」と話していました。 この展示会は徳島市の県立文学書道館で来月8日まで開かれています。01月12日 12時16分 「徳川家康公ミートソースセット」の発売に「なぜパスタソースw」「なんのゆかりがww」 http://news.aol.jp/2015/01/16/tokugawameat/ http://o.aolcdn.com/hss/storage/midas/cc6e3b7ac5487e1e982f2e07f5b127c7/201401786/1.jpg 戦国武将・徳川家康の没後400年を記念し、食品メーカー大手のはごろもフーズは、 1月16日から「徳川家康公ミートソースセット」(800円/税別)を発売する。 今回発売されるのは、徳川家康ゆかりの食材として「茄子」と「八丁味噌」を使った2種類のミートソース。 これを2缶1セットとし、静岡県・愛知県の地区限定で販売するという。 とはいえ、食材に言われがあるものの、「徳川家康でミートソース」という意外なとりあわせに、 ネット上からは「なんでパスタソースなんだよwwww」「家康はミートソース好きだったからな」 「家康ゆかりってことはその味噌はもしかしてあれじゃねえだろうな・・・」「これは味噌じゃ !」 「CMは津川雅彦で」「鯛は入ってないのかい?」「水戸光圀ラーメンってのも見たような気がするなw」 「長生き出来そうな薬草が沢山入っているんだろうな」「家康はミートソーススパゲッティの食べ過ぎで死んだらしいな」 「で、家康とミートソースになんのゆかりがあんの?」など、「なぜミートソース?」という声を中心に、実に様々なリアクションが巻き起こっている。 ちなみに、今回採用された「ゆかりの食材」だが、茄子は、生前の家康が挙げたとされる初夢の縁起物 「一富士、二鷹、三茄子」に、八丁味噌は家康の本拠地・三河岡崎の名産であることに それぞれちなんでいるそうだが、どんな中身か想像がつきにくいだけに、気になるところだ。 親日台湾が…「日本時代美化するな」指導要領改定の記録公開へ、政府に裁判所命令 http://www.sankei.com/world/news/150213/wor1502130074-n1.html 台北高等行政法院(裁判所)は13日までに、「日本統治時代(1895〜1945年)を 過度に美化しないよう」などとして教育部(教育省)が学習指導要領を昨年改定した際の審議記録公開を同部に命じた。 内容や手続きに反対する人権団体などが求めていた。命令は12日付。 改定要領に沿った教科書は、今年夏の新学期から高校1年生用の国語と社会で 採用される予定だが、採用をめぐり混乱する可能性も出てきた。 改定要領は「統治」の表記を「植民統治」に変えるほか、慰安婦問題について「(慰安婦になることを)強制された」 との言葉を補うなどとし、歴史問題で日本に批判的な一方、中国とのつながりを強調する内容。 野党などは「大中国史観に立ち、台湾を矮小化している」などと反発している。 さらに加瀬氏は「日本は歴史を通じてslaves(奴隷)、slavery(奴隷制)が全く存在しなかった文化。特に、米国のつい19世紀後半まで奴隷制があった 国からsex slaves(性奴隷)とか何とか言われたくない。 それに日本には、宗教抗争、例えばカトリックとプロテスタントが際限なく殺し合うような宗教対立も宗教抗争も存在しなかった。 多くの外国のジャーナリストの方々が、日本について全く無知で、いい加減なことを触れ回っているから、日本の評判が悪くなっている面が大変大きいと思っている。 是非みなさん、日本について勉強していただきたい」とも主張 http://news.infoseek.co.jp/article/20150223jcast20152228590 訃報:鈴木理生さん88歳=都市史研究者 http://mainichi.jp/select/news/20150306k0000m060046000c.html 鈴木理生さん88歳(すずき・まさお<本名・昌雄=まさお>都市史研究者)4日、肺がんのため死去。 通夜は7日午後6時、葬儀は8日午前10時、東京都府中市多磨町2の1の1の多磨葬祭場日華斎場。喪主は妻エイさん。 主な著書に「江戸の町は骨だらけ」。 2015/3/6 発掘30年、謎呼ぶ貴人(時の回廊) 藤ノ木古墳出土品の特別陳列 奈良県橿原市 http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC27H3P_X20C15A2AA1P00/ 未盗掘のまま残っていた奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(6世紀後半)が発掘され、古代史ブームが巻き起こって今年で30年がたつ。 普段は目にする機会が少ない出土品の数々を紹介する特別陳列を同県立橿原考古学研究所付属博物館が22日まで開催している。 ■「格」の判断問題に この時期は前方後円墳が終焉(しゅうえん)を迎えつつある一方、方墳や円墳など様々な墳形が築造され、何を物差しに古墳の「格」を 判断するかが問題となる。小栗さんは前方後円墳なら後円部の径、円墳や方墳なら直径や1辺の長さを物差しに使い、大王(天皇)墓から 地域の有力者の墓まで、古墳を4つのランクに分類した。 それによると藤ノ木古墳は出土品の豪華さこそ目を引くものの、ランクは上から2つ目。「格の高い皇族クラスの墓で、同じランクの古墳は 他に幾つもある。藤ノ木と同等の品が副葬されていた可能性が高い」と小栗さんは話す。 では藤ノ木古墳の主は誰か。埋葬状況から同時に2人が葬られたとみられるが、比較的形をとどめていた北側の被葬者の骨に対し、 南側は足骨などしか残っていなかった。 人骨鑑定の結果は「2遺体とも男性」。聖徳太子の叔父で、蘇我氏と対立して殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ) との説が有力視されている。古墳にまつわる伝承から1人は崇峻(すしゅん)天皇との見方などもある。 ただ南側の被葬者については、手玉や足玉を身につけていたことが議論を呼んでいる。奈良芸術短期大の玉城一枝非常勤講師は 人物埴輪(はにわ)を手掛かりに「これらは女性の装身具」と指摘。鑑定結果に疑問を呈し「性別不明を出発点に、女性の可能性も検討すべきだ。 DNA鑑定してはどうか」と訴える。 これに対し前園教授は「他の副葬品などを総合的に判断すれば男性」と主張。大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長は 「何かの刑罰として女装して葬られた可能性なども考えられる」と話す。 >>302 >「何かの刑罰として女装して葬られた可能性なども考えられる」と話す。 マジかよwwwwwwwww てか実際に事例があるのか? 呪術としての女装なら分かるけど刑罰としての女装というのは分からない 呪術といっても厄払いであって呪いじゃない方 あとまぁ自分の事と照らし合わすと、多分俺が死んだら甥っ子は俺の棺に玩具を入れるぐらいのことはやるだろうなとは思う http://www.47news.jp/CN/201504/CN2015042301001569.html ジョン万次郎未公開写真か スーツ姿、白人男性と 【ニューヨーク共同】1841年、遭難中を米捕鯨船に救助され、 日本人として初めて米国に移り住んだジョン万次郎(中浜万次郎、27〜98年)とみられる 未公開写真が米東部マサチューセッツ州のニューベッドフォード自由公共図書館の 保管資料から見つかったことが23日、分かった。 万次郎とみられる男性は三つぞろえのスーツで帽子を手に持ち、白髪、あごひげの白人男性と一緒。 日本帰国後の70年に捕鯨船のホイットフィールド船長宅を再訪し、 船長ら知り合いと再会しており、そのうちの誰かと写真を撮った可能性がある。 万次郎の現存写真は少なく、特に船長と一緒の写真は確認されていない。 2015/04/24 02:01 【共同通信】 http://img.47news.jp/PN/201504/PN2015042301001893.-.-.CI0003.jpg 米マサチューセッツ州の図書館で見つかった写真。 左がジョン万次郎とみられる(ニューベッドフォード自由公共図書館提供・共同) http://www.yomiuri.co.jp/national/20150527-OYT1T50093.html http://archive.is/ZZ7ge 都心の建設現場から大量人骨、木棺も…元墓地か 2015年05月27日 15時36分 東京都港区内のオフィス街の一角にある建設現場で今月初め、大量の人骨が見つかった。 当初は、事件の可能性もあるとみて警察が出動する騒ぎとなったが、 その後も、人骨、動物の骨が次々と発掘され、100基以上の木棺や副葬品も出土した。 掘り出された地層の深さから江戸初期以前に埋められた可能性が高いが、 詳しい資料はなく、同区教育委員会は、出土品の鑑定を進めている。 ※記事長文につき残りはリンク先で 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322) 本能寺の変 四国説の新史料ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025012471.html 織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」の前に、四国の戦国大名、長宗我部元親と信長の間で四国統治を めぐるさまざまなやりとりがあったことがわかる書状が、岡山市の林原美術館が所蔵する古文書群から新たに見つかりました。 林原美術館などでは、本能寺の変の原因が四国をめぐる政策にあったとする説をさらに裏付けるものになるのでは ないかとしています。これは林原美術館と岡山県立博物館が29日会見して明らかにしたものです。 それによりますと美術館が、所蔵する長宗我部元親と親戚関係にあった石谷家に関する古文書群の整理を進めていた ところ、本能寺の変を前に、信長と元親の間で四国統治をめぐるさまざまなやりとりがあったことが分かる書状が新たに 見つかりました。 このうち元親の家臣が石谷家などに送った書状では信長からの朱印状の存在のほか、讃岐や阿波などへの出兵の 考え方が記されており、信長の了解のもと、元親が四国各地に兵を出していたことが分かるということです。 また、本能寺の変の半年後にかつて関白だった近衛前久から石谷家に宛てた書状では前久が信長と元親の間を 取り持っていたことがうかがえるということです。 本能寺の変をめぐっては、明智光秀が元親と親戚関係にあった自身の重臣を通じて元親に四国全体を領有させようと 交渉したものの、信長が方針を変更して元親を討とうとしたため、反旗を翻したとする「四国説」が近年、注目を集めて います。 去年、石谷家に関する古文書群から「四国説」を支える有力な根拠になる可能性がある書状が見つかり話題となりましたが、 林原美術館などではその説をさらに裏付けるものになるのではないかととしています。 岡山県立博物館の内池英樹主幹は「今回の成果をきっかけに四国の動向と信長の死の関連についての研究がさらに 進むのではないか」と話しています。 05月29日 18時46分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025012471_m.jpg (岡山藩士の蔵で)岡山城の門飾り 130年ぶりに発見05月27日 18:19 ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/index/3450 岡山城の門に施されていた飾りが約130年ぶりに見つかりました。岡山藩士の子孫の家でひっそりと眠っていました。 今回見つかった屋根の下につける妻飾り、「懸魚六葉」。岡山城の鉄門に火除けのまじないとして取り付けられていました。 鉄門は1882年、明治時代に廃城令に基づいて取り壊され、以来、懸魚六葉は行方がわからなくなっていました。 今年、岡山市の奥村精さん(67)が江戸時代からある家の蔵の整理をしていて見つけました。 岡山城で解体された門や建物の妻飾りが見つかるのは初めてです。A https://youtu.be/Gv77kRXFBMI 奥村さんによると、ひいおじいさんの奥村左近太が岡山藩士だったため取り壊しのあと、持ち帰ったのではないかと いうことです。岡山城では27日から懸魚六葉を展示しています。 げぎょろくよう A どういう状態だったんですか 蔵の棚にポンと置いてあった みつけたときどう思いましたか? 何か意味はあるんだろうと思ったが 大変なものだとは存じませんでした http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30& ;k=2015060300786 エッセイスト・クラブ賞に磯田道史氏 第63回日本エッセイスト・クラブ賞は3日、 磯田道史氏の「天災から日本史を読みなおす」(中央公論新社)に決まった。賞金50万円。 贈呈式は29日、東京・内幸町の日本記者クラブで。 (2015/06/03-18:25) f2 rss1[07日 19:40]6/7 03:56 8 June 2015 4:40 am山田方谷 特別フォーラム 江戸時代に現在の高梁市にあった備中松山藩の財政をたて直したことで知られる山田方谷の教育者としての生き様に 注目したフォーラムが岡山市北区で開かれました。ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150607_3 幕末に学者として活躍した山田方谷の生誕210年を記念し、岡山県内外の10団体からなる実行委員会が初めて開催 したフォーラムです。下村博文文部科学大臣は、教育再生などをテーマにした講演を行いました。 講演の後に行われたシンポジウムでは山田方谷の6代目子孫に当たる野島透さんもパネリストとして出演しました。 出演者らは、教育に力を注いだ方谷の考え方が地方創生に生かせないかと意見を交わしました。 実行委員会のメンバーは、山田方谷の偉業を今後は県外へも積極的にPRしていきたいと話しています。 屋嶋城の城門復元完了ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035456361.html 1300年以上前に今の高松市の屋島に築かれた山城、「屋嶋城」の城門を復元する工事が終わり、国内の古代の 山城の中で最大級の城門が姿を現しました。 「屋嶋城」は、7世紀後半に大和政権が大陸からの侵攻に備えて築いた山城の一つとされ、平成14年に、屋島の 西側の斜面で城門の遺構が見つかりました。 高松市は、平成20年度から城門の復元工事を始め、7年かけてこのほど完了しました。 復元された城門は、幅5メートル余り奥行き10メートルで、北部九州や瀬戸内地域で確認されている古代の山城の 中で最大級です。 城門は、敵の侵入を防ぐために門の入り口に2メートル50センチの段差を設けた懸門という構造で、門の背後の 岩盤を生かして敵が侵入したとしても直進できないようにするなど堅い守りの造りでした。 また、復元された両側の城壁は、高さ6メートル、長さ45メートルで、高松市は、崩落を防ぐため、雨水を流す排水管の 役割も果たす鉄製のパイプを入れて補強しました。 さらに、城門の床下に設けられていた石組みの排水溝も復元して利用しています。 高松市は、今後、周辺に見学路や柵などを整備し、来年3月末から一般に公開する予定です。 06月11日 09時03分 動画は06月11日 12時27分更新ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035456361_m.jpg NHK大河 「日米戦争」を「日仏戦争」に歴史修正していた http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150616-00000016-pseven-ent NHK大河ドラマ『花燃ゆ』の第21話「決行の日」(5月24日放送)は、 関門海峡に面した砲台に居並ぶ久坂玄瑞(東出昌大)ら長州藩士が、 外国船に砲撃を加えるシーンでラストを迎える。 久坂はドラマの主人公・文(吉田松陰の妹)の夫で、主演の井上真央が 久坂の無事を祈る中、見張り役が声を張り上げる。 「来たぞ! フランス船じゃ!」 その報を受け、洋上に船の姿を認めた久坂は「撃て」と指示を出す。 「でもまだ、御奉行さまのお許しが……」と躊躇する藩兵に久坂が返す。 「構わぬ。撃て!」 文久3(1863)年5月10日に長州藩が攘夷を決行した、いわゆる「下関事件」である。 ドラマではフランス国旗を掲げた船に向けて次々と砲弾が放たれ、何発かが命中して火の手があがる──。 ところが、このシーンは史実と大きく食い違う。 1863年5月10日に砲撃を受けたのはフランス船ではない。 長州藩が最初に攻撃したのは、「アメリカ商船ペンブローク号」なのである。 その後、フランスやオランダの軍艦にも砲撃が加えられたが、アメリカの場合は軍艦ではなく商船を、 しかも不意を突いて狙った格好となったため、長州藩は翌月、米軍艦から真っ先に報復攻撃を受けることになる。 脚本家がそうした基本的な史実を知らずに、「最初に攻撃を受けたのはフランス」と勘違いしていたわけではない。 『花燃ゆ』の脚本家3人が著者に名を連ねる小説版『花燃ゆ・第2巻』(NHK出版刊)はドラマのシナリオ本だが、 そこでは最初に砲撃を受けたのは「アメリカ船」とはっきり書かれているのだ。(ry (1300年前の山城)屋嶋城跡 城門の修復工事完了ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/index/3560 1300年前の山城 屋嶋城跡の石垣復元06月16日 17:07 https://youtu.be/pm7BAE09cf0 高松市の屋島山上に今から1300年以上前に造られたお城があります。 お城というと天守閣があるものを思い浮かべますが、当時のお城は石垣や土塁で囲まれた「砦」のようなものでした。 そんな古代の山城、屋嶋城の石垣の修復工事が終わって15日、公開されました。A A 修復が終わった屋島の木の城門です 高さ2・5mの石垣が敵の侵入を防いでいます 市は屋島東町にある屋嶋 城跡を7年前から城門を含む石垣を修復工事をしていて15日工事が完了しました ▲石垣の高さは6m 全長45mで ▲約2600個の石を積み直しました この城は屋嶋城(やしまのき)と呼ばれ日本書紀には西暦667年の築城と記述 されています 築城は当時の東アジアの情勢が影響していました 7世紀後半の東アジアでは 西暦660年 当時朝鮮半島にあった国の1つ、百済が滅亡 百済と交流があった倭国、古代日本は 百済を救済、復興させるため 軍勢を派遣し唐と新羅の連合軍と戦います これが白村江(はくすきのえ)の戦いです この戦いに敗れた朝廷は 日本に攻め込まれることを恐れ 九州から近畿までの各地に城を築いて国の防衛に当たりました 文献によると発見された山城の他に史書に名前のみが出る山城も含めると、このような古代の山城は30程度あるそう ですがやしまのきの城門は幅が5mあり 古代の山城では最大級です 更に城門の下にある「懸門(けんもん)」と呼ばれる 敵の侵入を阻む石垣が 日本で初めてやしまのきで発見されました 山上全体が城域のやしまのきは屋島の持つ 天然のガケを利用しています ガケの切れ目に石積みの石垣を作り 当時 日本には城造りの技術はなく 百済から 亡命してきた技術者がノウハウを伝授したと言われています 城門の下の排水路は石垣の中に溜まる雨水を逃がす ためのもので→石垣を長持ちさせるための技術だそうです 市は屋嶋城跡を 来年3月までに遊歩道を整備するなど して一般公開する予定です スマホのカメラを城門に向けると 当時あったと言われる屋根や扉が合成される仕掛けも 準備中です 7年間の総事業費は 約4億6千万円です 市文化財課 この石積みを現地に来て 間近で見ていただき 東アジアだったり・日本だったり・高松の歴史を体感して いただける 非常にいい場所というふうに考えています 屋島の観光業界も期待を語ります れいがん茶屋の森社長 瀬戸内海と屋島がクロ-ズアップされたと思いますが それをもう1つ輪をかけるような感じになると思いましたね で、期待をしております 2015.6.17 12:02 B 挿絵に見る「村上海賊の娘」の世界 <6/17 12:02 > 去年、本屋大賞を受賞した小説「村上海賊の娘」で使用された挿絵の企画展が今治市の村上水軍博物館で開かれています。 この企画展は村上水軍を題材とした和田竜さんの小説「村上海賊の娘」が週刊誌に連載されていた当時に使われた 挿絵などを展示するものです。ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=48280 会場ではイラストレーター・平沢下戸さんの挿絵110点が小説のフレーズとともに紹介されているほか、やがらもがら、 ほら貝といった小説に出てくるアイテムなどもあわせて展示されています。 村上水軍博物館は「村上海賊の娘」が去年、本屋大賞を受賞した影響で、昨年度の来館者が前の年度の2倍余りに 増えていてブームを継続したいとしています。この企画展は今月21日(日)まで開かれています。 「村上海賊の娘」の挿絵の企画展 [6/18 12:11]【全文】(愛媛県)ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8785808.html 去年、本屋大賞を受賞した、小説「村上海賊の娘」の挿絵の企画展が今治市で開かれている。 今治市宮窪町の村上水軍博物館で開かれている「挿絵にみる『村上海賊の娘』の世界」には、 小説「村上海賊の娘」が週刊新潮に連載されていたときに使われた挿絵、約100点が展示されている。 この挿絵は、イラストレーターの平沢下戸さんが描いたもので、小説の中のそれぞれの場面が、 よりイメージできるようになっている。 また、単行本では未収録となった場面も週刊誌に連載されていた文面とともに展示されている。 このほか、村上水軍の末裔、能島村上家に伝わるほら貝や海賊船をイメージした模型なども展示されていて、 より深く小説の世界を楽しむことができる。 「挿絵にみる『村上海賊の娘』の世界」は、6月21日まで今治市の村上水軍博物館で開かれている。[ 6/18 12:11 南海放送] 山田方谷の功績をたたえる会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025722861.html 江戸時代末期に活躍した備中松山藩の陽明学者、山田方谷の功績をたたえる会が、高梁市で開かれました。 高梁市で開かれた「方谷祭」には、備中松山藩の財政再建を成し遂げ、教育者としても活躍した山田方谷の遺徳を しのびその功績をたたえようと主催した会の会員や歴史ファンらおよそ250人が集まりました。 今年は方谷が誕生してから210年になる節目の年で、会場では、方谷が詠んだ漢詩の詩吟や方谷をたたえる歌の 合唱が披露されました。 また、方谷や佐久間象山をはじめ多くの門下生を育てた儒学者、佐藤一斎に関する記念講演もあり、集まった人たちが 熱心に耳を傾けていました。 主催した高梁方谷会の金岡誠会長は、「方谷は郷土の教育の先達として、多くのすばらしい後輩を育てました。 あとを継ぐ私たちも、方谷のようなすばらしい教育ができるまちづくりをしていきたい」と話していました。 06月21日 19時56分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025722861_m.jpg 宇和島藩の文書を出版ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150622/5733061.html 江戸時代の宇和島藩で領内の植物や鉱物を記録した「宇藩出産考」(うはん・しゅっさんこう)という文書を伊方町の 歴史愛好家が8年がかりで活字にし、地元の博物館が出版しました。 「宇藩出産考」は、幕末に薩摩藩士の田原直助(たはら・なおすけ)が宇和島藩の領内の植物や鉱物を調査して記録 した文書で、当時の南予の植生や近世の鉱山の状況などが記されています。 田原が調査のために佐田岬半島を1週間かけて旅した記録から人々の暮らしぶりを読み取ることが出来るなど、 佐田岬半島の歴史を伝える資料の1つにもなっています。 この文書を活字にしたのは、伊方町の歴史愛好家、桝田佳明さん(80)で、愛媛県立図書館に保存されている 「宇藩出産考」の写本の「くずし字」を活字にしました。 すべてを活字にするのに8年かかったということで、5月、地元の町見郷土館がおよそ500ページの冊子にして出版しました。 冊子には、著者の田原の紹介や、「宇藩出産考」から読み取れる当時のかんきつ栽培の解説なども掲載され、 1冊2800円で販売されています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005733061.html 町見郷土館は、「南予のなじみのある地名も多く記されているので、郷土の歴史や自然に関心を持つきっかけにして 欲しい」と話しています。ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005733061_m.jpg 06月22日 08時04分ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150622/5733061_8005733061_m.jpg 宇喜多秀家の和歌短冊見つかるttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025810931.html 関ヶ原の戦いに敗れ、いまの東京の八丈島に流された戦国時代の武将で岡山城・城主の宇喜多秀家が、晩年に 詠んだ和歌を記したとされる短冊が見つかりました。 岡山城の城主として岡山の礎を築いた宇喜多秀家は、豊臣秀吉の九州攻めや小田原攻めで活躍し、秀吉を支える 五大老に任命されるなど主に戦国時代に活躍した武将です。 その後、秀家は関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流されましたが、晩年に詠んだ和歌を自ら記したとされる短冊が 見つかりました。 この短冊はかつて八丈島にある寺が所蔵していましたが、その後、行方が分からなくなり、最近になってインターネット のオークションに出品されていたのが見つかったということです。 これを知った岡山市の宇喜多家の菩提寺、光珍寺の住職が、この短冊を落札して入手し、300年以上の時を経て 秀家ゆかりの地に戻りました。 和歌は、宇喜多家の名が後世に続くことに思いをはせたり、僧侶の姿をユーモラスに表現したりしたもので、流刑の 地にありながらも心豊かに暮らしていた秀家の人柄をうかがい知ることができます。 和歌の調査に当たった岡山県立博物館の内池英樹主幹は、「紙は江戸時代前半のもので、秀家本人が書いたと 伝えられる短冊が再び見つかったことは、貴重な発見だ。 島に流されたあとでも豊かな心を持っていたことを読み取ってもらいたい」と話しています。 また、光珍寺の石渡隆純住職は、「ことしは秀家卿の(きょう)没後360年と年なので不思議な巡り合わせだなと思います。 秀家卿も涙が出るほど喜んでくれいるのではないか」と話しています。 この短冊はことし11月に光珍寺で行われる秀家の没後360年の記念法要で一般公開される予定です。 06月24日 19時09分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025810931_m.jpg 2015.6.27 17:25 C 宇和島伊達400年祭応援イベント <6/27 17:25 > 宇和島市で開かれている宇和島伊達400年祭を盛り上げようと、楽しみながら歴史にふれるイベントが行われました。 宇和島市のきさいや広場で伊予銀行が開いた応援イベントには、宇和島伊達家13代当主の伊達宗信さんも出席。 「伊達の歴史との出会い」をテーマに募集したフォトコンテストの入賞作品が発表されました。 最優秀賞には宇和島城の前で火縄銃を撃つアトラクションの様子を捉えた松山市の村上健二さんの作品が 選ばれました。ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=48340 また、子どもたちが甲冑を着る体験もあり、撮影した甲冑姿が缶バッジにしてプレゼントされました。 会場では餅まきなども行われ、400年祭を盛り上げていました。 戦災石垣は予想以上に劣化ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033154251.html 昭和20年の高松空襲で焼失した高松城跡の「桜御門」の石垣の解体修理について、高松市は、空襲による火災の跡を できるだけ残せるよう劣化が進んでいる石を補強したうえで、積み直す方針を明らかにしました。 高松城跡の「桜御門」は、城主の御殿があった「三の丸」の正門で、門の両側の石垣に建物を載せた「櫓門」という造りでした。 しかし、昭和20年7月の高松空襲で焼失し、石垣には、高熱で赤っぽく変色した火災の跡が、ほぼ全面に残っています。 石垣は傷みが目立つことから高松市は修理のために、去年から、石を取り外す工事を行っていて、片側の石垣はすでに 工事が終わっています。 高松市は、9日開いた専門家による会議で、「桜御門」の石垣について高松空襲の跡を残す戦災遺構としての価値も あることから、取り外した石をできるだけ再利用する方針を明らかにしました。 また、石の劣化の状況について、取り外した石のうち、25個の大きな石を調べた結果、ひびが入ったり割れたりして、 21個はそのままでは再利用できないと報告しました。 このため、接着剤などで劣化のひどい石を補強した上で、取り外した石を別の場所で試験的に積み直し、 復元する計画になっている建物の重さを考慮した荷重をかけて石垣が耐えられるかどうか確認する意向を説明しました。 高松市では専門家からの意見を受けて、補強の具体的な方法をさらに検討することにしています。 07月09日 19時24分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033154251_m.jpg 伊達博で山家清兵衛展 [7/9 14:20]【全文】(愛媛県)ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8785886.html 宇和島藩の重臣、山家清兵衛の数奇な運命をたどる企画展が、宇和島市立伊達博物館で開かれている。 山家清兵衛は伊達宇和島藩、初代藩主の伊達秀宗に総奉行として仕え、藩政を任された。しかしその後、 主従関係に亀裂が生じ、1620年に殺害され、死後は神として和霊神社に祭られている。 伊達博物館には山家の甲冑や、妻の澄が愛用した化粧道具など30点が展示されている。 山家の肖像画は五代藩主伊達村候の作品で、表情からは威厳が感じられる。 山家が幕府の船留奉行にあてた書状には、江戸との間を行き来する船の数などが記されている。 また、別の書状で地元の神社に米などを贈るよう藩士に求めていて、山家の存在感が伺える。 9月13日まで開かれている。[ 7/9 14:20 南海放送] f1 rss3 [11日 18:10]7/11 02:36 12 July 2015 3:10 am宇田川榕菴の自筆資料、津山市の重文に 幕末に津山藩医として活躍した洋学者、宇田川榕菴(うだがわ・ようあん)による自筆の資料などが津山市の 重要文化財に指定されました。宇田川榕菴が描いた、オランダ軍の兵隊です。 津山市は、津山洋学資料館に収蔵されている宇田川榕菴の自筆資料など18件82点を貴重な資料だとして重要 文化財に指定しました。ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150711_4 榕菴の著書で西洋植物学についての日本初の書物となった「植学啓原」の出版前の試し刷りには、植物の色合い などについての手直しが書き込まれています。 中国の楽器を模写した「明清楽器図」は、音楽など幅広い分野への好奇心があったことを今に伝えています。 市の重要文化財に指定されたこれらの資料は、洋学資料館で展示されます。 江戸時代検定 初級編ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013012731.html 江戸時代に関する知識を問う「江戸時代検定」が12日、高知市で開かれ、歴史ファンが問題に挑みました。 「江戸時代検定」は、高知市にある土佐山内家宝物資料館が「初級編」と「中級編」に分けて年に2回、開いています。 12日は江戸時代の基礎的な知識を問う「初級編」の問題が出され、歴史ファンなど20人が参加しました。 今回のテーマは、江戸時代に幕府が大名を統制するために出した参勤交代などを定めた法令「武家諸法度」で、 参加者たちは40分の制限時間で20問に挑戦しました。 問題には、▼武家諸法度を最初に出した将軍の名前を選択肢から選ぶものや▼当時の政治事情を記述式で問うもの などがあり参加者たちは真剣な表情で取り組んでいました。 そして、問題を解き終えると、学芸員の解説を聞きながら答え合わせをしていました。 「江戸時代検定」は、得点ごとにポイントがたまる仕組みでポイントに応じて絵はがきや扇子などの記念品が贈られます。 参加した高知市の51歳の女性は「予習していたところが出題されたので、よく解けたと思います。 次の検定に向けてまた勉強します」と話していました。江戸時代検定の中級編は来年1月に行われる予定です。 07月12日 23時26分 江戸時代検定 初級編ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013012731.html 江戸時代に関する知識を問う「江戸時代検定」が12日、高知市で開かれ、歴史ファンが問題に挑みました。 「江戸時代検定」は、高知市にある土佐山内家宝物資料館が「初級編」と「中級編」に分けて年に2回、開いています。 12日は江戸時代の基礎的な知識を問う「初級編」の問題が出され、歴史ファンなど20人が参加しました。 今回のテーマは、江戸時代に幕府が大名を統制するために出した参勤交代などを定めた法令「武家諸法度」で、 参加者たちは40分の制限時間で20問に挑戦しました。 問題には、▼武家諸法度を最初に出した将軍の名前を選択肢から選ぶものや▼当時の政治事情を記述式で問うもの などがあり参加者たちは真剣な表情で取り組んでいました。 そして、問題を解き終えると、学芸員の解説を聞きながら答え合わせをしていました。 「江戸時代検定」は、得点ごとにポイントがたまる仕組みでポイントに応じて絵はがきや扇子などの記念品が贈られます。 参加した高知市の51歳の女性は「予習していたところが出題されたので、よく解けたと思います。 次の検定に向けてまた勉強します」と話していました。江戸時代検定の中級編は来年1月に行われる予定です。 07月12日 23時26分 f3 rss4 [17日 19:10]7/17 03:36 18 July 2015 4:10 am津山藩医 箕作阮甫の写真3枚を発見 幕末の津山藩医で洋学者の箕作阮甫の写真3枚が、津山洋学資料館の元館長の手で新たに見つかりました。 これが新たに見つかった箕作阮甫の写真です。ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150717_3 神奈川県にある箕作家の本家から史料の整理を依頼された津山洋学資料館の元館長・下山純正さんが発見しました。 阮甫の肖像写真は、これまで、文献などで使われていた1種類のみが知られていましたが、 今回見つかったのはその写真と同時に撮影されたとみられる3枚です。ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20150717_3.jpg 文献の写真ほど鮮明ではないものの、ガラス板に写しだされた周囲や背景などから新たな事実の確認もできたということです。 今回見つかった写真は学会での発表した後、他の箕作家に関する史料とともに津山洋学資料館で公開したいということです。 江戸時代の製塩屋敷 公開ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023439461.html かつて製塩が盛んだった鳴門市に残る国の重要文化財の製塩屋敷が19日、一般公開され大勢の人が見学に訪れました。 鳴門市鳴門町の国の重要文化財、「福永家住宅」はおよそ180年前の江戸時代後期に建てられた塩業家の住宅で、 かつての塩業の姿を今に伝えています。 19日は、普段一般に公開されていない住宅の敷地内が特別に公開され、大勢の人が見学に訪れました。 訪れた人たちは、地元のボランティアの案内を受けながら海水を煮詰める釜屋で江戸時代に使われていた石で 作られた釜などに熱心に見入っていました。 また、主屋の座敷には当時の塩業の作業の様子を再現した40体ほどの粘土の人形が展示されています。 見学した鳴門市の66歳の男性は「江戸時代のものが今に伝わっていて地元の者として誇りを感じました」と話していました。 また、鳴門市の52歳の女性は 「塩の作り方を詳しくは知りませんでしたが昔の人の苦労がよく分かりました」 と話していました。 07月19日 11時53分 f2 rss2 [19日 12:00]7/18 20:24 風水害のアーカイブズ 江戸時代以降に香川県で発生した風水害についての資料を集めた企画展が香川県立文書館で開かれています。 1949年の台風による被害を写した写真です。ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150719_1 土器川の氾濫で、現在のまんのう町付近にかかっていた橋が壊れています。 この企画展は、過去に発生した災害の記憶を振り返ることで今後起こりうる災害に備えようと開かれているものです。 会場では、江戸時代から現代まで香川県内で発生した様々な風水害に関する文書や写真などが展示されています。 弘化4年、1847年の水害について記した文書です。 川が氾濫するなどの被害が発生し、年貢米が不足していることなどを記しています。 企画展「風水害のアーカイブズ」は9月13日まで香川県立文書館で開かれています。 絵画などで徳島の魅力を紹介ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8023467351.html 阿波おどりなどで徳島を訪れる人たちに、浮世絵に描かれた鳴門海峡の渦潮などを通して徳島の風景や文化の魅力を 紹介する展示会が開かれています。 徳島市で開かれている展示会は、夏の阿波おどりなどで訪れる人たちに徳島の風景や文化の魅力を江戸時代から 昭和にかけての絵画などを通して紹介するものです。 このうち、江戸時代末期の絵師、歌川広重の浮世絵版画、「阿波鳴門之風景」は、鳴門海峡の渦潮や白波の立つ様子 が豪快に描かれています。 徳島市の画家、飯原一夫さんの絵画、「大滝山三重塔」は、空襲で焼失するまで眉山のふもとにあったかつての徳島の 名所、三重の塔を背景に、満開の桜を楽しむ親子連れののどかな様子を描いています。 このほか、江戸時代から続く鳴門の大凧揚げで、昭和9年に作られた番付表は、90点のたこの絵柄が一覧表になって いて、東西の横綱は、大きさが「十間」=およそ18メートル、「九間半」=17メートル余りと記されています。 展示会を主催した徳島市地場産業振興協会の上杉和夫理事長は「阿波おどりだけでない徳島の歴史や文化に触れ、 古き良き時代の徳島を知ってほしい」と話しています。この展示会は、8月16日まで徳島市立木工会館で開かれています。 07月20日 11時02分 江戸時代の木製水道管跡ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013446281.html 高知市の中心部にある江戸時代の武家屋敷跡から県内で初めて、木の板を組み合わせた水道管などが見つかり、 当時のまちづくりの基盤を知る貴重な発見として注目されます。 この調査は、高知市教育委員会が市役所の新庁舎の建設予定地でことし4月から行っていて23日は、 これまでの発掘成果について報道関係者を対象にした説明会が開かれました。 この場所は江戸時代の古い地図などから、土佐藩主山内家の分家の屋敷や家老の屋敷があったとされ、 今回の発掘調査でおよそ18メートルにわたって木製の水道管が見つかりました。 水道管は、江戸時代中期から後期のものと見られ、幅50センチ高さ14センチの木の板を長方形に組み立てて 造られています。 江戸時代の水道施設は、県内ではこれまでに、竹の筒を使ったものが見つかっていますが、木の板を組み合わせた 水道管が見つかったのは今回初めてです。 調査ではこのほか、町と町の境界に設けられた水路の部分に、強固な造りの護岸が見つかりました。 護岸は石を積み上げた基礎部分に、丸太を据えたり杭を打ち込んだりして、護岸の石を固定した造りになっていました。 杭が等間隔に打ちつけられていることなどから計画的に設計された護岸であったことが読み取れ、当時の土木技術 の高さが確認できます。 高知市教育委員会の永田由香さんは「見つかった水道管や護岸からは、当時の土木技術の高さが読み取れる。 江戸時代の城下町はインフラの整備が進んでいたと考えられる」と話しています。 高知市教育委員会は、発掘調査の結果を一般に紹介する現地説明会を26日に開くことにしています。 発掘調査は9月末まで行われます。 07月24日 09時41分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013446281_m.jpg 松山市 現存天守同盟に参加へttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150729/3070781.html 昔のままの天守が残る城を持つ全国12の都市が連携して観光客の誘致を進めようと、28日、青森県弘前市の関係者 が松山城がある松山市を訪れ、取り組みへの参加を呼びかけました。 「現存12天守同盟」と名付けられた、この取り組みは弘前市がことし始めたもので、江戸時代やそれ以前に建てられた 天守が残る城を持つ全国12の都市が連携した観光客の誘致を目指しています。 28日は、弘前市の蛯名正樹副市長が市のマスコットキャラクター「たか丸くん」とともに松山市役所を訪れ、野志市長 に同盟への参加を呼びかけました。 野志市長は「12の天守のひとつが松山ということで、ご縁だと思う」と述べて、同盟を結ぶ証しとなる巻物に署名しました。 同盟に参加を決めているのは、28日までに松山市を含めて8つの都市となっていて、今後▼各都市の広報誌で共同の 特集を組んで城の魅力をPRすることや、▼弘前城の桜の管理技術などの情報交換を検討するほか、来年、 12の都市を集めたサミットを開きたいとしています。 また、蛯名副市長は弘前城の石垣を修理するため、ことし9月に天守を今の位置から70メートル移動させる「曳屋」 を行うことを伝え、野志市長を招待しました。 野志市長は「貴重な文化財を維持する難しさは共通しているので、管理のノウハウなど色々な勉強ができると思う」 と期待を寄せていました。 07月29日 08時13分ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150729/3070781_8003070781_m.jpg シンポジウム「宇田川榕菴の功績」http://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20150730_4 幕末の津山藩の医師で「珈琲」の漢字を作ったことで知られる宇田川榕菴の功績を振り返るシンポジウムが 岡山市北区で開かれました。 http://www.rsk.co.jp/news/photo/20150730_4.jpg 津山藩の医師で蘭学者の宇田川榕菴は、「珈琲」の文字のほか、「酸素・水素」「酸化・還元」などの科学用語も 考案したとされています。 このシンポジウムは、西洋文化を取り入れた日本の近代化に岡山にゆかりのある人物が貢献したことを知って もらおうと「岡山蘭学の群像」と題してシリーズで開かれています。… 高梁市が全国天守同盟に加盟へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023672641.html 昔のままの天守が現存している城のある12の都市が連携して観光客誘致に取り組むことを呼びかけている 「現存12天守同盟」に30日、備中松山城のある高梁市が参加を決めました。 「現存12天守同盟」は2020年の東京オリンピック・パラリンピックなどを見据えて弘前城のある青森県弘前市が 天守が現存する城のある12の都市に観光客誘致での連携を呼びかけているものです。 これまでに彦根市や姫路市など9都市が参加していて30日は「天空の山城」として人気が高まっている備中松山城の ある高梁市に弘前市から陣羽織姿の蛯名正樹副市長などが訪れました。 蛯名副市長が同盟への参加を呼びかけたのに対し高梁市の近藤隆則市長は「距離は遠いが心が近くなる気がします」 と快諾し同盟を結ぶ証しとなる巻物に署名しました。 「現存12天守同盟」には31日宇和島市が加盟し残る犬山市には8月にも弘前市から使者が向かうということで、 今後は各都市の広報誌で共同の特集を組むほか、来年は12の都市を集めたサミットを開くということです。 近藤市長は「12の都市が協力すれば1都市で誘致するより効果が大きいと感じる。これを足がかりに高梁市を 国内外へPRしていきたい」と話していました。 07月30日 19時13分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023672641_m.jpg イギリスの学者が愛媛万葉苑を調査 [7/29 11:53]【全文】(愛媛県)ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8785982.html イギリスの和歌研究学者が万葉集の和歌に詠まれた植物を展示する愛媛万葉苑を調査のため訪れた。 松山市御幸の護国神社にある愛媛万葉苑を訪れたのは、和歌や俳句などを研究するイギリスの国立シェフィールド 大学、准教授トーマス・マッコーリーさん(48)。 愛媛万葉苑は「くねんぼ」や「むらさき」など、万葉集に登場する植物を集めた植物園。 トーマスさんは、万葉文学への理解を深めるため、今年5月から日本各地の万葉苑を巡り、設立された経緯のほか、 展示している植物や和歌を調査している。 マッコーリーさんは、イギリスへ帰国後、調査結果をまとめ、その成果を学術雑誌に発表する予定で、将来、 イギリスで万葉植物園の博覧会ができるようにしたいと話している。 [ 7/29 11:53 南海放送] 高梁市が全国天守同盟に加盟へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023672641.html 昔のままの天守が現存している城のある12の都市が連携して観光客誘致に取り組むことを呼びかけている 「現存12天守同盟」に30日、備中松山城のある高梁市が参加を決めました。 「現存12天守同盟」は2020年の東京オリンピック・パラリンピックなどを見据えて弘前城のある青森県弘前市が 天守が現存する城のある12の都市に観光客誘致での連携を呼びかけているものです。 これまでに彦根市や姫路市など9都市が参加していて30日は「天空の山城」として人気が高まっている備中松山城の ある高梁市に弘前市から陣羽織姿の蛯名正樹副市長などが訪れました。 蛯名副市長が同盟への参加を呼びかけたのに対し高梁市の近藤隆則市長は「距離は遠いが心が近くなる気がします」 と快諾し同盟を結ぶ証しとなる巻物に署名しました。 「現存12天守同盟」には31日宇和島市が加盟し残る犬山市には8月にも弘前市から使者が向かうということで、 今後は各都市の広報誌で共同の特集を組むほか、来年は12の都市を集めたサミットを開くということです。 近藤市長は「12の都市が協力すれば1都市で誘致するより効果が大きいと感じる。 これを足がかりに高梁市を国内外へPRしていきたい」と話していました。 07月30日 19時13分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023672641_m.jpg ebcで-た放送news 31日11:47 宇和島市も現存十二天守同盟に参加 宇和島市は31日、江戸時代以前のお城の天守閣が残 る全国12都市に呼びかけられている「現存十二天守 同盟」に参加した。青森県弘前市が呼びかけ松山市も 参加している。連携して観光振興などに取り組む。 B 天守同盟に宇和島市も参加 <7/31 12:07 > 江戸時代以前のお城の天守閣が残る全国12の都市に呼び掛けられている現存十二天守同盟に宇和島市も参加する ことになりました。ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=48512 この同盟は、江戸時代以前のお城の天守閣がある全国12の都市が連携して観光振興に取り組もうと青森県弘前市が 参加を呼びかけているものです。 きょうは弘前市の蛯名正樹副市長が宇和島市を訪れ、賛同した石橋寛久市長が同盟締結の証となる巻物に署名しました。 今回の天守同盟には松山市も参加していて、来月中旬に予定している愛知県犬山市との締結が終わると同盟は 完成するということです。天守同盟は今後、情報交換を行い、来年度には現存12天守サミットを開催したいとしています。 松山城「光の城」はじまる17:24 お盆期間中にあわせて松山城が大変身です。ライトアップで夜の松山城をさまざまな色に彩る「光の城」が11日から 始まりました。ttp://eat.jp/news/index.html?date=20150812T172410&no=7 11日から始まった光の城。山頂広場のイルミネーションと相まって幻想的な世界となり、訪れた観光客はうっとり。 女子がときめく空間が広がっています。この「光の城」は今週土曜日まで開催。 日没から午後9時30分までのライトアップで期間中は天守閣の見学とロープウェイ運行の時間も午後9時30分までに 延長されます。 8/12 03:59 「烏城灯源郷」 天守閣前に灯りの芸術http://www.rsk.co.jp/news/photo/20150812_10.jpg ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20150812_10 夜の岡山城を楽しんでもらおうというイベント「烏城灯源郷」に合わせ、11日夜、天守閣前の広場に「灯りのアート」が 現れました。 重文の松山城やぐら特別公開ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150814/4045261.html 松山市の松山城で、「野原櫓」などいずれも国の重要文化財に指定されている3つの櫓(やぐら)が特別公開されました。 この催しは、天守や櫓が江戸時代の姿をとどめている松山市の松山城の魅力を多くの人に知ってもらおうと開かれました。 いずれも国の重要文化財に指定されている▼「野原櫓」、▼「乾櫓」、▼「隠門続櫓」の、3つの櫓がきのう、公開されました。 このうち「野原櫓」は、およそ400年前に建てられ、城の天守の原型とされる建築様式を用いていて、太く強固な梁で 2階建ての建物を支えています。 また、「石落」と呼ばれる、壁から突き出すように作られた特殊な床が備えられていて、ふたを開けて、上から石を 落としたり鉄砲で攻撃して敵の侵入を防ぐことができるようになっています。 訪れた人たちは、実際に櫓にあがって中の様子を見ながら、歴史的な建造物の奥深さに見入っていました。 訪れた男性は、「400年前にあったものに入るというのは心が躍る思いです」と話していました。 この特別公開は、15日も午後6時から8時まで行われます。 08月14日 09時19分ttp://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150814/4045261_8004045261_m.jpg 武左衛門ふる里まつり 鬼北町・日吉地区 [8/15 9:51]【全文】(愛媛県)ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8786052.html 北宇和郡鬼北町で「武左衛門ふる里まつり」が開かれ江戸時代に農民のために一揆をおこした武左衛門の功績をたたえた。 14日夜、鬼北町の日吉地区で開かれた「武左衛門ふる里まつり」では江戸時代におきた一揆の様子を再現しようと 住民などおよそ50人が着物に菅笠という農民姿で町を練り歩いた。 この武左衛門一揆は1793年吉田藩による紙の専売制や重税に反対したおよそ1万人の農民がひきおこしたもの。 その後、農民側の訴えは聞き入れられたが、一揆を指導した武左衛門は斬首に処せられた。 道の駅に到着した一行は鬼北町の甲岡秀文町長にふるさとの自然を守ることなどを求めた訴状を手渡した。 参加した住民たちは再現された一揆を通じて農民の幸せを願い奮闘した武左衛門に思いをはせていた。 [ 8/15 9:51 南海放送] いちおう「速報」と名乗ってるんだからageで書いてほしかったな まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、 稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。 同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、 小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が 初めて裏付けられる資料」としている。 http://inoues.net/science/wan.html 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww 岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の 考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が 行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。 このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の 下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。 http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 鎌倉〜現代 備前焼の作品展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024286551.html 鎌倉時代初期から現代までの備前焼の作品を集めた展示会が、備前市で開かれています。 この展示会は、備前市日生町の加子浦歴史文化館が中世の時代以降、「備前ブランド」としてもてはやされたつぼや すり鉢にスポットを当て、その歴史について知ってもらおうと開きました。 会場には、つぼやすり鉢のほか、花入れや水指など、鎌倉時代初期のものから現代作家の作品まであわせて36点が 展示されています。 このうち「擂鉢」は、現代の備前焼を代表する作家の一人、森陶岳さんの作品で棒状にした粘土を少しずつ積み上げて 形を作る「輪積み」と呼ばれる中世の技法を再現し素朴な備前焼の美しさを追求しています。 また、室町時代中期に作られた高さ28センチの「らっきょ徳利」は、どぶろくを入れるためのもので表面は薄く削って なめらかに整えられ、大らかさと繊細さを兼ね備えています。 この展示会は、9月30日まで、備前市日生町の加子浦歴史文化館で開かれています。 08月22日 12時45分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024286551_m.jpg 昔の道具のミニチュア展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014131541.html 昔の暮らしや仕事で使われていた道具などを忠実に再現した、ミニチュアの展示会が南国市で開かれています。 この展示会は、江戸時代以降の暮らしや仕事に使われていた道具のミニチュアをきっかけに歴史に興味を持って もらおうと、南国市の県立歴史民俗資料館で開かれていて、およそ4000点が展示されています。 このうち、古くから日本に伝わる木造の船、「和船」のコーナーでは、▼江戸時代に各地で米などを運ぶために 使われた「高瀬船」や▼明治時代に茨城県の霞ヶ浦でシラウオ漁などに使われた「帆曳船」が精巧に再現されています。 また、全国各地の神楽や文楽などで使われた「面」のコーナーでは、5センチほどの大きさの作品およそ200点が 並べられ、中には室戸市の祭りやいの町の神楽で使われたとされるものも展示されています。 このほか、▼江戸時代の火消しがそれぞれの組の目印として掲げていた「まとい」や▼包丁をはじめとするさまざまな 刃物のミニチュアもあり、訪れた人たちが顔を近づけて見入っていました。 この展示会は来月6日まで開かれています。 08月24日 07時58分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014131541_m.jpg 和をテーマにした展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024394761.html 「和」をキーワードに、古くからの日本の美意識を示す絵画や書を集めた展示会が岡山市の県立美術館で開かれています。 この展示会では平安時代以来の花鳥風月や古典物語を題材に、和の心が感じられる絵画や書の作品およそ50点を 紹介しています。 このうち現在の岡山市出身の日本画家、高橋秋華の作品「四季十二ヶ月花鳥図屏風」はススキにとまったコオロギを はじめ、1年、12か月の花や鳥や虫が繊細に描かれていて日本の四季を感じさせます。 また岡山市出身の日本画家、林皓幹の作品「垣間見」は源氏物語の一節を題材に、主人公の光源氏と語り合う女性と その様子を垣間見る光源氏の息子を描いて不安や緊張が入り交じる男女の心理をドラマチックに演出しています。 この展示会は25日から9月13日まで岡山市の県立美術館で開かれています。 08月25日 20時27分ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024394761_m.jpg 高松城桜御門石垣の耐久試験へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034308981.html 高松空襲で焼失した高松城跡の「桜御門」の石垣の修理にあたって、高松市は、空襲による火災で劣化が進んでいる 石を補強するなどして別の場所に石垣を積み直し、復元する門の建物の重さに耐えられるかを調べる全国でも珍しい 試験を実施することになりました。 高松城跡の「桜御門」は、城主の御殿があった「三の丸」の正門で、両側の石垣に建物を載せた造りでしたが、 昭和20年7月の高松空襲で焼失しました。 高松市は、空襲による火災で劣化が進んでいる石垣を修理するため、去年から解体工事を始め、これまでに工事は ほぼ終わりました。 石垣は空襲を伝える貴重な遺構でもあることから修理にあたって高松市は、取り外した石をできるだけ再利用する 方針で、28日に開いた専門家による会議で今後の対応を説明しました。 それによりますと、割れたりひびが入ったりしている石を、スチール製のピンや「かすがい」で補強しながら高松城跡の 別の場所に石垣を積み直し、復元する建物の重さに耐えられるか調べる試験をことし11月ごろから来年1月半ばごろ にかけて実施するということです。 試験では、2つの石垣について、それぞれ鋼材を台にして鉄板を重ねて上に置く方法で4トン以上の荷重をかけることに なっています。 石垣を積み直してこうした試験を実施するのは、全国でも珍しいということです。 この試験に伴って元の場所での石垣の積み直し工事は当初の計画よりも半年ほど遅れる見込みですが高松市は、 試験の結果をもとにできるだけ空襲の跡を残すかたちで石垣を修理したいとしています。 08月28日 18時59分 徳大でモラエス研究会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8024218151.html 明治から大正にかけて徳島で過ごしたポルトガルの文筆家・モラエスの著作を通じて、当時の日本や徳島について 考える研究会が、徳島市の徳島大学で開かれました。 徳島大学の教授らが開いた研究会には10人ほどが参加し、モラエスの著書「日本精神」の中から、1つの部族の長の 神武天皇が全部族の上に立って、国家が成立したなどと日本について書いた一節を紹介しました。 神社が子どもの名付けに関わるなど一種の「洗礼」の役割を果たしていたことや祭りを行うなど住民の生活行動の 基盤ととらえていたなどとモラエスが日本の文化を海外に紹介したことを説明しました。 モラエスに関する資料を集めた徳島市の「モラエス館」は、老朽化のため、建て替えられる計画で、ことし6月から 資料が徳島大学などで一般公開されています。 08月29日 16時37分 http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20150830/CK2015083002000181.html 県立中学校二校で来春から使う歴史と公民の教科書が、「新しい歴史教科書をつくる会」の元メンバーらが 執筆に加わり、保守色が強いとされる育鵬(いくほう)社版に決まったことに対し、市民ネットワーク千葉県は 二十八日、採択のやり直しを求める抗議文を県教育委員会に提出した。 抗議文では、育鵬社版の内容について「神話上の人物にすぎない神武天皇を初代天皇とし、 天皇及び支配者中心の歴史を描いている」「明治以降の日本が行った帝国主義的な侵略戦争と 植民地支配を美化する記述が多い」などと指摘。さらに「安倍晋三首相の写真が十五枚も掲載 されるなど現政権の『広報誌』であるような記述も散見される。教育基本法に明らかに抵触する」と批判した。 また採択に関する手法でも「今回県教委は規則を変更し、現場の教師や地域代表の意見が 及ばない県教委の議決事項としてしまった」と抗議。「『不当な』方法による採決」と訴えた。 初代宇和島藩支えた伊達の忠臣 山家清兵衛展11:49 独眼竜、伊達政宗に仕え、宇和島藩の政務などを担った山家清兵衛ゆかりの品々を集めた企画展が宇和島市の 博物館で開かれています。ttp://eat.jp/news/index.html?date=20150902T114914&no=5 山家清兵衛は伊達政宗やその長男で宇和島藩初代藩主の伊達秀宗に仕えた家老で、宇和島藩の総奉行として 藩の財政など担い、死後、宇和島市の和霊神社に祀られています。 今回の展示は、初代宇和島藩を支えた清兵衛の足跡を知ってもらおうと宇和島市の伊達博物館が企画し、 会場にはゆかりの刀などおよそ30点が展示されています。 こちらは、清兵衛が実際に使ったとされるおよそ400年前の兜と甲冑で、山家氏が宇和島に来てから使い始めたと される「抱波紋」と呼ばれる家紋があしらわれています。 このほか、清兵衛の政治姿勢を称えて宇和島藩5代藩主の伊達村候が描いた肖像画などもあり、宇和島ゆかりの 偉人の足跡を辿ることができる企画展となっています。 山家清兵衛展は、今月13日まで開かれています。 G 宇和島市が甲冑を購入 3武将そろい踏み <8/31 12:01 > 宇和島市は、地元にゆかりのある戦国武将たちの甲冑のレプリカを購入しきょう、お披露目しました。 これは、宇和島市が観光の目玉に活用しようと、ふるさと納税による寄付金をもとに購入したものです。 およそ300万円をかけて購入された甲冑のレプリカは、いずれも宇和島伊達家にゆかりのある初代藩主の 伊達秀宗と、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が着ていたもので、市が所蔵していた伊達政宗の甲冑とあわせ3人の 戦国武将がそろい踏みです。htp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=48660 レプリカは本物のおよそ半分13キロほどの重さとはいえ、現代人には着るのもひと苦労なようです。 今回購入された甲冑はあすから宇和島城天守に展示され、イベントなどで着用したいとしています。 f1 rss2[05日 12:30]9/4 21:31 津山市で開幕「解剖図の世界」展 日本の医学の発展に大きな役割を果たした人体の解剖図を集めた企画展が、津山市で始まりました。 ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20150905_3 津山洋学資料館で始まった企画展「解剖図の世界−江戸から現代(いま)へ−」です。 江戸時代の人体の解剖図から現代のメディカルイラストレーションまで、25点が展示されています。 江戸時代の医師、山脇東洋が、人体の解剖を日本で最初に行い今年で260年になることから、 会場には東洋による解剖図をはじめ内部に臓器の模型が入った「生き人形」など貴重な資料が並べられました。 江戸時代から現代につながる医学の発展を知ることができます。 企画展「解剖図の世界−江戸から現代(いま)へ−」は10月4日まで開かれています。 小豆島の絵図 県の有形文化財にhtp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034762711.html 江戸時代初期に小豆島全体を描いた2点の絵図が当時の島の変化を読み取る貴重な資料になるとして新たに県の 有形文化財に指定されることになりました。 指定されるのは「慶長小豆島絵図」と「正保小豆島絵図」の2点です。 このうち「慶長小豆島絵図」は、江戸時代初期の慶長10年、1605年の10月に描かれたとみられ、横はおよそ 2メートル20センチ縦は1メートル70センチ余りで島にあった村や道などが記されています。 県教育委員会によりますと、島全体を描いたものとしては確認されている絵図の中で最も古く、当時の絵図の作成 技術を知る手がかりになるということです。 また、「正保小豆島絵図」は、「慶長小豆島絵図」の40年余りあとに描かれたとみられ、横が1メートル50センチ余り 縦が1メートル30センチ余りで岬や塩田などの名前や場所が2万1600分の1の縮尺で詳しく記されています。 県教育委員会は、この2点の絵図を比較すれば村の数や島の景観など小豆島の変化を読み取る貴重な資料に なるとして2点を合わせて県の有形文化財に指定することになりました。 今回の指定で県指定の有形文化財は118件となります。 2015年09月09日 17時55分更新ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034762711_m.jpg 野中兼山の功績を学ぶttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014479461.html 江戸時代初期に河川の治水事業や港の建設事業を行った土佐藩の家老、野中兼山の生誕400年にあわせてその 功績をたたえようと事業の現場などを訪ねる催しが12日、高知市で開かれました。 野中兼山は、江戸時代初期に土佐藩の家老として河川の治水事業や新田の開発、沿岸部での港の建設などを行い、 土佐藩の発展の礎を築きました。 ことしは兼山の生誕400年に当たることからその功績をたたえ後世に伝えようという催しが12日、高知市で開かれて いて地元の人などおよそ200人が参加しました。 午前中、参加者たちは高知市春野町に兼山が築いた用水路と川をつないで船で運搬できるようにした「新川のおとし」 と呼ばれる遺構について、県立歴史民俗資料館の前館長の宅間一之さんから説明を受けました。 「新川のおとし」は水路を使った物流の発展に貢献しましたが、宅間さんは、「新川のおとし」の周辺に船の荷物を積み 替えるなどの物流に携わる人が集まってにぎやかな集落が形成され、こうした集落の形成も兼山の重要な功績の ひとつだと紹介しました。 催しに参加した、地元に住む70歳の男性は「兼山は、水路の整備や水田の開発によって春野地区の発展に貢献した 立派な人物だと思います」と話していました。 2015年09月12日 12時27分更新 解剖図の世界展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024764111.html 江戸時代から現代まで近代医学の発展過程を紹介する「解剖図の世界展」が、津山市で開かれています。 この展示会は、江戸時代の医学者、山脇東洋が日本で初めて人体の解剖を行ってから今年で260年になるのに あわせて、津山洋学資料館が企画しました。 会場には、日本での西洋医学の発展につながる山脇の書いた解剖図をはじめ、複雑に入り組んだ体の中の構造を 写真や動画よりもわかりやすく伝える現代の解剖図、「メディカルイラストレーション」など、近代医学の発展の経過が 分かる貴重な資料、あわせて25点が展示されています。 会場にはこのほかにも江戸時代の解剖の様子や人体内部の仕組みを描いた江戸時代後期の浮世絵なども展示さ れています。 この展示会は、10月4日まで、津山市西今町の津山洋学資料館で開かれています。 2015年09月13日 16時37分更新ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024764111_m.jpg 特別展「村上海賊VS天下人」 [9/26 11:52]【全文】(愛媛県)ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8786219.html 作家、和田竜の小説「村上海賊の娘」とその後の時代を読み解く特別展「村上海賊VS天下人」が今治市宮窪町の 村上水軍博物館で開かれている。 特別展には、小説「村上海賊の娘」とその後の歴史がわかる書状などの資料、約40点が展示されている。 豊臣秀吉が久留島村上家の当主、村上通総に宛てた自筆の手紙には、織田信長が中国地方に攻め込むので 是非戦いに来なさいと久留島村上家を戦いに誘う内容が記されている。 このほか、安芸国の大名毛利輝元が能島村上家の村上景親に送った書状などが展示されていて、 久留島、能島、因島の村上水軍三家が、どのように歴史の渦に巻き込まれ、分裂していったのか読み解くことができる。 会場には、書状などの資料を解説するパネルも合わせて展示されていて、当時の状況や歴史などがより分かりやすく 理解できるようになっている。特別展「村上海賊VS天下人」は、11月15日まで今治市の村上水軍博物館で開かれている。 [ 9/26 11:52 南海放送] 松山城が人気ランク4位に 世界中の観光地の口コミを投稿するアメリカの旅行サイトが行った「行ってよかった日本の城」のランキングで、 松山城が、天守閣の眺めなどで高い評価を受け、4位になりました。 htp://www.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150929/5248501.html このランキングは、世界の観光地の感想や情報を投稿するアメリカのウェブサイト「トリップアドバイザー」がことし 5月までの1年間にサイトへの書き込みの中で、▽「とても良い」や▽「良い」と評価された回数などをもとに、独自の 方法で集計しました。 その結果、▽1位の熊本城、▽2位の松本城、▽3位の姫路城に続いて、松山城が4位になり、四国の城で唯一、 ベスト5に入りました。 観光客の投稿では、▽「石垣が立派だった」とか、▽「天守閣からの眺めが絶景だ」などといった評価が多く寄せられた ということです。 このほか四国では、▽高知城が8位に、▽香川県の丸亀城が18位に、入りました。 「トリップアドバイザー」は世界45か国で情報を提供するアメリカの旅行サイトで、月間3億人余りが利用しています。 松山市観光・国際交流課は、「多くの人に評価をもらい、大変ありがたい。観光客に再び訪れたいと思ってもらえるよう、 今後も魅力を高めていきたい」と話しています。 (9月29日 9時00分)動画ttp://www.nhk.or.jp/matsuyama-news/20150929/5248501_8005248501_m.jpg 松山城で薪能 [10/3 10:12]【全文】ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8786246.html 松山城の城山公園で2日夜、恒例の薪能が行われ、幽玄の世界が繰り広げられた。 松山城の薪能は、松山の伝統芸能や地域文化に理解を深めてもらおうと、毎年この時期に行われている。 約500人の観客が集まった舞台では、5つの演目が披露された。 最終演目は、絶世の美女とうたわれた小野小町と、深草少将との愛憎を描いた能の「通小町」。 僧侶に諭され、2人の怨霊が成仏していく様が情感たっぷりに演じられた。 かがり火に照らされた舞台で繰り広げられる幽玄の世界に、観客は引き込まれていた。 [ 10/3 10:12 南海放送] f4 [10日 18:00]秋のおかやま桃太郎まつり 3連休の初日は曇り空でしたが、各地のイベントはにぎわいました。 岡山市では「秋のおかやま桃太郎まつり」が開かれました。 ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20151010_4 新見市の特産、千屋牛のあぶり焼きや倉敷市児島で水揚げされたたこを使った、たこめしです。 岡山市北区の石山公園には岡山県のご当地グルメや中四国の自慢の逸品が集まりました。 「秋のおかやま桃太郎まつり」は岡山城周辺をメイン会場に、郷土の食と芸能を楽しんでもらおうと開かれていて、 今年は、街歩きの社会実験やおかやま国際音楽祭とあわせて開催されています。 「秋のおかやま桃太郎まつり」は12日までで、11日は岡山城天守閣前で「宇喜多秀家☆フェス」も開催されます。 (10日18:00) 江戸時代の測量器具見つかるttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025476001.html 車輪を使って距離を測る「路程車」と呼ばれる江戸時代の測量器具が県内で初めて見つかり、測量器具を見つけた 備前市歴史民俗資料館は、当時の測量技術を知る上で貴重な資料になるとしています。 これは7日、備前市の備前市歴史民俗資料館が発表しました。 それによりますと、見つかった測量器具は「路程車」と呼ばれるもので、長さおよそ16センチ、幅9.5センチ、高さおよそ 9センチの木製の箱の中に歯車が納められ、直径およそ20センチの車輪の回転数を数えて距離を測ります。 箱の上には目盛りがついていて、車輪が3回まわるとおよそ1.9メートルを測ったことを示す目盛りがひとつ分動きます。 この「路程車」は、江戸時代に全国を測量して日本地図を描いた伊能忠敬が岡山周辺で測量した際に同行した 岡山藩士で測量家の窪田浅五郎がのちに完成させたということです。 江戸時代後期の測量器具が当時の姿のままで見つかったのは全国的にも珍しく、県内では初めてだということで、 備前市歴史民俗資料館は測量技術が地方でどのように発展していったのか知るうえで貴重な資料になるとしています。 この「路程車」は10月23日から12月6日まで、備前市歴史民俗資料館で展示されます。 2015年10月08日 12時31分更新ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025476001_m.jpg 龍馬愛用とされる脇差し公開へttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015123881.html ことし11月に生誕180年を迎える幕末の志士、坂本龍馬が愛用したとされる脇差しが高知市で86年ぶりに一般公開 されることになり、8日、報道関係者に公開されました。 この脇差しは、刃渡りが52.3センチあり、室町時代末期の永正2年に備前国、今の岡山県の日本刀を作る職人・刀工 が作ったとして「備前長船」の銘が刻まれています。 高知県立坂本龍馬記念館によりますとこの脇差しは、北海道に住む坂本龍馬の子孫が保管していて、昭和4年に 東京で開かれた展示会を最後に86年間、公開されていなかったということです。 また、当時の出品目録には「龍馬が幼いころ用いた刀」「龍馬が特に愛した刀」などの記述があり、この脇差しを龍馬が 子どものころから大切にしていたものと見られています。 県立坂本龍馬記念館の前田由紀枝学芸課長は「刀そのものが室町時代の名刀で坂本龍馬が特に愛し、その子孫が 大切に守ってきたものなので、多くの人に見てほしい」と話しています。 この脇差しは県立坂本龍馬記念館で来月1日から来年の1月3日まで展示されることになっています。 2015年10月08日 21時16分更新ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015123881_m.jpg f2 [11日 18:00]戦国の貴公子・宇喜多秀家フェス 戦国の貴公子とうたわれ 岡山市の発展の礎を築いた 戦国武将・宇喜多秀家の功績を称えるイベントが 岡山城天守閣前広場で開かれました。 ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?cat=1&id=20151011_8 会場では 備州岡山城鉄砲隊による演武が披露され、 銃声が響き渡ると 集まった観衆はその迫力に 圧倒されていました。 また、秀家の魅力に迫るトークショーも 開かれました。 (11日18:00) 書き込みはしないがチェックはしてるので いつもお疲れ様 記憶遺産ゆかりの書状展示ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025623401.html 室町時代に現在の新見市で農村の女性が書いた手紙、「たまがき書状」を含む京都の 東寺に伝わっていた国宝の古文書がユネスコの記憶遺産に登録されることになり新見市 では書状の複製を展示するなど、祝賀ムードが高まっています。 ユネスコの記憶遺産に登録されることになったのは「東寺百合文書」で、京都の東寺に 1000年以上にわたって保管されてきた2万5千通におよぶ古文書です。 この中に室町時代、東寺の荘園だった新見荘、現在の新見市で書かれた手紙 「たまがき書状」も含まれ、新見市は市内の文化交流館に書状の複製を展示しています。 たまがき書状は東寺から新見荘に代官として赴任した僧、祐清の身の回りの世話を していた女性、たまがきが祐清の死後、東寺に形見の品を求めて送った手紙で、 室町時代に農村で暮らす女性が書いた現在残っている唯一の直筆の手紙とされています。 新見市は13日から市役所に記憶遺産への登録決定を祝う懸垂幕を掲げたほか、 JR新見駅前の広場に記念の看板を設置して祝賀ムードを高めています。 今年度中にはたまがき書状の原本を里帰りさせて展示したいとしていて今回の登録決定 を新見市を全国にPRするきっかけにしたいとしています。 2015年10月14日 12時59分更新ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025623401_m.jpg 情報通信技術で高松---城の天守閣(など)を再現ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/index/4194 10月08日 13:47 https://youtu.be/TuAvSFIYwXc 最新の情報通信技術を使って高松城の天守閣などを再現する「バーチャル高松城事業」 を高松市が今年度中に実施します。 この事業は、公益財団法人松平公益会の助成金を含め総事業費4000万円をかけて 高松市が実施するものです。 8日朝、高松市役所で佐伯勉理事長から高松市の大西市長に1000万円の助成金目録が 手渡されました。 仮想の天守閣は、玉藻公園に用意される専用のタブレット端末を天守台に向けると 見られたり、天守台からは昔の町並みを見渡せたりできます。 また、玉藻公園内ではその場所についての解説記事も見られます。 日本語だけでなく英語や中国語などの解説も用意し、外国人観光客にも対応する予定です。 A この事業は来年3月までに始める計画です。 A 市長 子どもたちにとっても非常に分かりやすく 自分たちの町の昔の姿を見ることによって 教育的効果っていうのも 非常に大きいものになるんではないかな いうふうに思っています 丸亀藩・京極家の家宝展 ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035677601.html 江戸時代にいまの香川県の丸亀藩を治めた京極家の家宝を紹介する展示会が丸亀市で開かれています。 会場の丸亀市立資料館には江戸時代のおよそ210年間にわたって丸亀藩を治めた京極家の家宝から刀剣や工芸品 など20点が展示されています。 このうち今回初めて公開された「二尊旗」は長さが3メートル60センチある室町時代の大きな旗で、旗に書かれた 2つの神の名は後奈良天皇の書と伝えられ、由緒ある品として将軍吉宗にも披露されたということです。 また「ニッカリ青江脇指」は南北朝時代の刀工、青江貞次が作ったと伝えられる刀で、女の幽霊をこの刀で切り捨てた ところ翌朝石の塔が切られていたという伝説が残されています。 北海道から訪れた女性は「今回本物のニッカリ青江が展示されているということで、現物を見たくて来ました。家紋が すごくきれいで、間近で見る機会がない物なのですばらしかったです」と話していました。 日本刀は最近若い女性の間で人気だということで会場にはブームのきっかけとなったオンラインゲームのキャラクター のパネルも設置され訪れた人たちが写真を撮っていました。 この展覧会は来月29日まで開かれています。 10月15日 10時29分 「たまがき書状」の舞台 世界記憶遺産登録を祝うttp://www.ksb.co.jp/newsweb/index/4227 10月13日 16:28 https://youtu.be/emTPOPW_5CU 10日に世界記憶遺産に登録された国宝の「東寺百合文書」に含まれる「たまがき書状」の舞台、新見市が祝賀ムード に沸いています。新見市役所では13日、職員らが見守る中「祝・記憶遺産登録決定」と書かれた懸垂幕を掲げました。 国宝の「東寺百合文書」は、京都市の東寺に伝わる奈良時代から江戸時代までの古文書で、10日にユネスコの世界 記憶遺産に登録されました。 「たまがき書状」は室町時代、現在の新見市にあった荘園「新見荘」の女性たまがきがこの地で殺害された代官、 祐清の形見分けを東寺に願い出た手紙です。 中世の農村の女性が書いた文書として非常に珍しく、その教養の高さがうかがえる貴重な史料です。 新見市はJR新見駅前にも看板を設置するなど祝賀ムードに包まれています。 蜂須賀正勝の実像示す展示会ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/8025748721.html 天下統一を進める豊臣秀吉の片腕として活躍した武将、蜂須賀正勝、通称小六の実像に迫ろうと肖像画や書状などの 展示会が徳島市で開かれています。 蜂須賀正勝、通称小六は徳島藩の礎を築いた蜂須賀家政の父親で、豊臣秀吉に仕え、中国攻めや四国攻めなどで 活躍しました。 徳島城博物館には豪放で荒武者のイメージが強かった正勝が実は、頭脳派の知将だったという実像に迫ろうと、 肖像画や書状など80点あまりが展示されています。 このうち、正勝が使っていたと伝わるよろい「胴丸」は当時の人としても小さなもので、正勝が巨漢ではなく小柄だった ことがうかがえます。 また、四国をほぼ統一した武将、長宗我部元親が、豊臣秀吉の四国出兵のあとの天正13年、1585年に正勝に 送った書状は、元親が秀吉から許しを得たのは正勝のとりなしがあってのことで今後、一層の指南をお願いしたいと 記されています。 正勝は、こういったとりなしや外交、交渉に力を発揮していたということです。 徳島城博物館の森脇崇文学芸員は、「正勝の交渉の過程がわかる資料などを展示しているので、正勝のイメージが 変わると思います」と話していました。 この展示会は、11月23日まで開かれています。 2015年10月18日 14時33分更新 戦国時代を体感 宇喜多秀家フェス 10月11日 17:56 ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/index/4214 戦国時代を体感してもらおうと岡山の武将、宇喜多秀家にちなんだイベントが開かれました。 岡山城で開かれた「宇喜多秀家フェス」には多くの歴史ファンが集まりました。 岡山商工会議所などが2009年から開いているもので、鉄砲を携えた甲冑武者たちが登場しました。 伝統の砲術を継承する備州岡山城鉄砲隊の演武では、火縄銃が大きな音を立てて火を噴きます。 また、甲冑の試着コーナーでは、子どもたちが思い思いのポーズで記念撮影をしていました。 このほか、戦国武将が身に着けていたという「勝ち袋」の販売コーナーもあり、宇喜多秀家や妻の豪姫のものも 並んでいました。 最新機器で“沈んだ集落”調査ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015552351.html 過去の巨大地震で集落が海底に沈んだという、高知県沿岸に残る言い伝えについて調査している高知大学などの 研究チームが20日、四万十町の沖で最新の機器を使った調査を行いました。 この調査は、▼高知大学と、▼独立行政法人の海洋研究開発機構の共同チームが去年から行っているもので、 これまで、土佐清水市や大月町などの沖合で海底に集落の痕跡がないか調べています。 20日は初めて、四万十町志和の沖合1キロと4キロの海域で海底の地形を調査しました。 この場所は、古くから島が沈んだという伝承が伝わっていて海底に一部、高くなっている場所があることが知られています。 調査は、超音波を使って砂や泥などの堆積物の下にある地形を測定できる東京大学の研究室が開発した最新の機器 を使って行われ、その結果、水深15メートルほどの所に長さ60メートルにわたって平らになっている場所が確認されました。 研究チームではこのデータを詳しく解析して人工構造物と判断できるような集落の痕跡がないか調べることにしています。 海洋研究開発機構の谷川亘主任研究員は「最新の機器を使った成果を生かし、海底に沈んだ集落の解明につながる ことを期待している」と話しています。 この調査は21日も、須崎市の野見湾で行われる予定です。 2015年10月20日 21時10分更新ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015552351_m.jpg 花燃ゆ巡回展ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025730451.html 現在、放送中のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の見どころやゆかりの品々を紹介する全国巡回 展が、NHK岡山放送局で開かれています。 この展示会は、多くの人たちに「花燃ゆ」の魅力を紹介しようと、全国を巡回して開かれています。 会場のNHK岡山放送局のハートプラザには、ドラマの登場人物や時代背景を解説する パネルとともに、番組にゆかりの品々が展示されています。 このうち衣装のコーナーでは、文から名を改めた主人公の美和を演じている井上真央さん の着物などが展示されています。 また、小道具の「小刀」は美和の兄、吉田寅次郎が藩主に学問を講義し、 そのほうびとして授かったとされる品を精巧に再現したものです。 このほか、手帳や筆入れ、下駄など当時の生活が感じられる小道具が紹介されています。 この巡回展は10月28日までNHK岡山放送局のハートプラザで開かれています。 2015年10月22日 12時23分更新ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025730451_m.jpg 関ヶ原の小早川秀秋、肝疾患で「寝返り」遅れ? http://www.yomiuri.co.jp/science/20160625-OYT1T50018.html 関ヶ原の戦い(1600年)で戦国武将・小早川秀秋(1582〜1602年)が西軍から東軍に寝返った際、 決断が遅れたのは過度の飲酒で肝硬変から発症した肝性脳症による判断力低下の可能性があるとするユニークな説を、 兵庫県姫路市御立東の脳神経外科医、若林利光さん(63)が秀秋の当時の病状などを記した史料からまとめた。 戦いで西軍側の秀秋は寝返りを誘われていたがなかなか動かず、東軍を率いた徳川家康が怒り出すほどだったとされる。 戦闘開始から約4時間後、西軍・大谷吉継を襲ったのをきっかけに西軍の武将が次々に寝返り、東軍勝利につながった。 若林さんは、安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の診療録「医学天正記」の記述に注目。 秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、 飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。 飲酒後に嘔吐(おうと)し、赤い尿が出たともあり、肝性脳症を併発するほど悪化していた可能性が高いと判断。 同脳症では指示への反応や判断が遅くなるため、若林さんは「関ヶ原での決断の遅れの要因では」と推察する。 国立国際医療研究センター肝炎情報センター(千葉県市川市)も、大量の飲酒は肝硬変の原因の一つで 「記述にある症状からは肝硬変が疑われる」という。 小和田哲男・静岡大名誉教授(戦国史)は「寝返りの遅れは東西どちらが有利か最後まで迷っていたとするのが通説だ」とした上で、 「当時は15歳頃からの飲酒も多く、医師の見地からはそのような解釈も成り立つのでは」と話している。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。 粗製灰陶で出来ている鬲です。 灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。 秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。 中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。 縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。 三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。 金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。 龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。 瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。 漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。 瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。 帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。 徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。 ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 1月14日に始まった平成29年度(2017年度)大学入試センター試験。 11時40分に地理歴史・公民が終了し、早くもSNSには受験生が試験の感想を書き込んでいる。 日本史Aには「妖怪ウォッチ」が取り上げられたとして、ネットで話題だ。 「妖怪ウォッチ」に登場するキャラクターが出たとして話題なのは、「日本史A」の問4。 漫画・アニメで描かれた妖怪が登場する背景とされている事象について、正しい組合せを選ぶ問題だ。 登場する妖怪ウォッチキャラは「ムダヅカイ」と「ロボニャン」。 いずれも「妖怪ウォッチ全妖怪大百科」からの出典とし、妖怪の特徴はもちろん、イラストも掲載されている。 そのほか、水木しげるのイラストとともに「新ぬりかべ」と「新ぬらりひょん」の姿もある。 昨年は国語で「やおい」に関する表記があり、受験生のみならず世間の話題をさらったセンター試験の出題。 14日はこのあと、13時から国語の試験が控えている。今年はこのほか、どんな問題が出題されるだろうか。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170114-00000004-resemom-life 「鎖国」が消える――。 文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。 中学歴史でも史料に忠実に、「聖徳太子」を「厩戸王」に変更する。 文科省によると、これまで小中学校社会科の学習指導要領では「鎖国」が使われてきた。 しかし、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許しており、薩摩(鹿児島県)など3か所でも外交と貿易が行われ、 完全に国を閉ざしていなかったことから、実態に即した表記にする。 文科省の担当者は「当時、鎖国という言葉は使われていなかったので、正しい言い方にした」としている。 また、現行の中学歴史の指導要領にある「聖徳太子」は、「厩戸王(聖徳太子)」に改める。 ただ、小学校ではなじみがあるとして、「聖徳太子(厩戸王)」の表記にする。実際の教科書では、すでにこうした変化は現れている。 一方、小中学校の体育などでは「不安や悩み」「ストレス」への対処法を学ぶことが新たに明記された。 今後、深呼吸して気持ちを落ち着かせる「呼吸法」や、体をリラックスさせる方法などが指導要領の解説書に盛り込まれる見通しだ。 http://www.yomiuri.co.jp/national/20170214-OYT1T50142.html http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H0F_V20C17A2CR0000/ 宮内庁が崇神天皇陵として管理する奈良県天理市の行燈(あんどん)山古墳(4世紀初頭)を24日、 日本考古学協会など考古学や歴史学の団体の研究者が立ち入り調査し、墳丘の形や保存状態を観察した。 崇神天皇は第10代天皇だが、実在する最初の天皇とされる。古墳は東西方向に築かれた3段築成の前方後円墳で、 全長約240メートル。宮内庁が1974年、75年に一部で発掘を実施。埴輪(はにわ)や土器が出土している。 16人の研究者は約1時間半かけて古墳を1周し、カメラで撮影するなどして墳丘を観察した。 日本考古学協会の杉井健理事は「墳丘の北側は段がよく見え、非常によく残っていた。後円部の一部が4段に見える という研究者の意見もあった」と指摘。「墳丘に入らないと分からないことがあると実感した」と話した。 陵墓への立ち入り調査は研究者団体からの要望を受け、宮内庁が2008年から許可し、今回で10回目。〔共同〕 「聖徳太子」守れ つくる会が次期指導要領案で要望 「日本主体の古代史ストーリーが崩壊する」 2017.3.7 20:55 文部科学省が2月に公表した小中学校の次期学習指導要領改定案について、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は7日、 現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」との併記とした歴史用語の変更を取りやめるよう求める文書を文科省に提出した。 文書では、「厩戸王の呼称になれさせようとしている」と指摘。 「律令国家形成の出発点となった聖徳太子を抹殺すれば、日本を主体とした古代史のストーリーがほとんど崩壊する」と批判している。 改定案では、人物に親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、史実を学ぶ中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更。 文科省は、歴史学では「厩戸王」が一般的としている。 http://www.sankei.com/smp/life/news/170307/lif1703070042-s1.html https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/201001/1 「なんでこんなに私は注目を集めてしまっているんだろうかって、すごく戸惑っているんですけども」 ――対談の前半、昭恵氏はかすかに苦笑いを浮かべながらこう話し、注目が集まる原因については 「時代の流れなんだろうな」「そういう流れの中に今、身を置いているんだなという感じがしています」 と、ノホホンと“分析”していた。 さらに、安倍首相が家事を手伝ってくれることを紹介し、「国会で野党から攻められ、厳しいことがある中で、 片付けたり、整理整頓することで気持ちがリセットすることがあるらしい」と言ったかと思えば、 「こういうとこをメディアにまた取り上げられる」と言い、会場の笑いを誘っていた。 他にも、「人間は生まれる時に大きな役割を担ってこの地球に生まれてきている」 「日本の取り戻すべき精神性は、私は縄文時代にあると思っている」と、“珍説”を連発させていた。 千葉県文書館が戦争関連公文書を誤廃棄 遺族台帳など91冊 https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_afr1704080009/ https://media.image.infoseek.co.jp/isnews/photos/sankein/sankein_afr1704080009_0-enlarge.jpg 千葉県文書館は7日、所蔵文書の廃棄処分を行う際、本来保存すべき公文書91冊を誤って廃棄したと発表した。 91冊のほとんどは第二次大戦の関連文書で、戦没者の遺族台帳なども含まれていた。 同館によると、千葉県の行政文書管理規則の改定に伴い、平成27年度に約1万冊の所蔵文書を廃棄。 その際、原則として長期保存対象の「昭和27年度までに作成・取得された公文書」に当たる91冊を誤廃棄した。 県の改定規則では、保存期間の30年を超える資料のうち「歴史公文書」に該当しないと判定すれば廃棄が可能。 同館の職員会議で廃棄対象リストを精査した際、この91冊が誤って含まれていたことに気付いたが、 その後、職員のミスでリストが修正されずに廃棄作業を進めたという。 廃棄した文書のうち遺族台帳などの戦争公文書は約500冊含まれていたが、同館は91冊以外は 「改定規則の基準を満たさなかったりデータベースで照会できたりする」として、廃棄の判定に問題はないとした。 昨年冬に外部団体から指摘を受け、廃棄文書のリストを確認したところ誤廃棄が判明。 同館の目黒敦館長は会見で「県民の皆さまに深くおわびする」と謝罪し、再発防止に努めるとした。 武雄市若木町出身の満武直人さん(77)=東京都=が20日、家に代々伝わる古文書『諸控帳』(通称・川古庄屋日記)を武雄市に寄贈した。 江戸時代に若木町で起きた事柄を書き留めた書物。庶民の暮らしがうかがえる史料で「価値の分かる方が持っていて」と贈った。 諸控帳は美濃半紙138枚。貞享2(1685)年3月16人から明治3(1890)年1月14日までの間、 川古村(現在の若木町)で起きた物事を、地域の総代的な役割を務めた満武家が代々書き残した。 直人さんは祖父が2代目若木村長で、満武家8代目当主だった父の隼人さん(故人)から譲り受けていた。 若木町を訪ねた際、町が昔の資料を集めていることを知り、寄贈を思い立った。 諸控帳には、害虫や台風被害があった不作の年も各戸に代官同行で年貢を督促した話や、干ばつと洪水の繰り返しで荒れる田畑に苦労する様子のほか、 佐賀藩と唐津藩のもめ事に発展した殺人事件など、当時の人々の苦労や暮らしが浮かぶ内容が記されている。 2月には、若木出身の松尾政信さん(66)=佐賀市=が『「川古庄屋日記・諸控帳」を読む』を出版している。 直人さんは市役所で「庶民の生きた記録。地元で生かして」と小松政市長に贈った。 小松市長は「民俗的な要素も入った貴重な財産。多くの市民に見てもらえるよう活用したい」とお礼を述べた。 http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/423711 郷土資料を大量に捨てて、提携先のブクオフからゴミ雑誌を大量に仕入れた ツタヤが運営している公立図書館って佐賀県だっけ 岩国の鉄砲隊が出前授業06/12 20:19nhk 小学生たちが武士のかっちゅうを身につけたり本物の火縄銃に触れたりして歴史を学ぶ授業が岩国市で行われました。 この授業は、岩国市の中洋小学校が毎年、社会の科目で行っていて、12日は6年生20人が参加しました。 体育館で行われた授業では、地元の鉄砲隊の保存会のメンバーが、およそ200年前の江戸時代に作られた本物の火縄銃を使って、銃の撃ち方を説明したり戦国時代の三段撃ちの様子を再現したりしました。 このあと児童たちは、鉄で作られたレプリカのよろいとかぶとを身につけ、火縄銃を構えて撃ち方を学びました。 かっちゅうと火縄銃をあわせると重さは15キロにもなり、身につけた児童たちは動きにくそうにしながら一生懸命に銃を構え、記念写真を撮影していました。 体験した男子児童は「かっちゅうと火縄銃がとても重くて、これで戦うのは大変だと感じました」と話していました。 授業の講師を務めた岩国藩鉄砲隊保存会の村河多丸会長は、「今回の体験を通じて戦国時代などの歴史をより学んでほしい」と話していました。 宇和島信金が絵本作成2017年06月16日(金)更新itv 郷土の歴史を子どもたちに知ってもらおうと、宇和島伊達家ゆかりの人物を題材にした絵本が制作されました。 この絵本は、宇和島信用金庫が制作したもので、15日、宇和島市で園児たちが参加してお披露目会が開かれました。 制作された絵本は、宇和島伊達家2代藩主、宗利の娘、豊姫を題材にしたもので、長野県の真田家に嫁ぐ際、 宇和島を偲んで持ち込んだアンズが地域に根付いたという逸話を紹介しています。 宇和島伊達家を題材にした絵本はこれで3冊目で、およそ2万部が制作され市内の小中学校や幼稚園などに配布されるほか、 真田家の松代藩があった長野県千曲市にも寄贈されます。 伊達家ゆかりの人物絵本06月16日 08時32分nhk 宇和島藩を治めた宇和島伊達家ゆかりの歴史上の人物を子どもたちにわかりやすく紹介する新たな絵本が制作されました。 この絵本は、宇和島市の歴史を子どもたちにわかりやすく伝えようと、市内に本店がある宇和島信用金庫が中心となって制作したものです。 宇和島伊達家ゆかりの人物を紹介する絵本としては3作目で、今回は宇和島伊達家2代藩主の娘、豊姫を取り上げています。 豊姫は、現在の長野県千曲市にあたる松代藩の真田家に嫁ぎましたが、豊姫が持ち込んだ一粒のあんずの種がその後広く栽培されるようになり地域の特産品となったことを紹介しています。 宇和島市では絵本のお披露目会が開かれ、集まった地元の園児およそ30人に絵本が手渡されました。 この絵本は2万部制作され、宇和島市内のすべての小中学校と幼稚園や保育園などに寄贈されます。 宇和島信用金庫の村尾明弘理事長は、「豊姫についてはあまり知られていないが、姉妹都市として千曲市との交流も続いています。絵本で伊達家の歴史を再認識してもらいたい」と話していました。 松山城本丸の壁に傷、ゴルフボールか2017年06月26日(月)更新itv 26日午後、松山城本丸にある乾門付近の壁にゴルフボールがうち込まれたような傷が12か所付いているのが見つかり、警察が器物損壊の疑いで調べています。 松山市によりますと、きょう午後2時ごろ、松山城本丸にある乾門付近の漆喰の壁にくぼんだ傷が複数、ついているのを、工事現場に向かっていた業者の職員が発見しました。 傷は直径3センチほどの円形で、目視ではっきり分かるものだけで、12か所確認されたということです。市によりますと、ゴルフボールがうち込まれたと見られ、通報を受けた警察では器物損壊の疑いで調べています。 松山城を一斉点検、落書きも2017年06月27日(火)更新itv 松山城本丸の壁にゴルフボールのようなものが打ち込まれた跡が見つかったことを受け、松山市が27日、城内の一斉点検を行った結果、壁の2か所で落書きが確認されました。 27日、松山市の職員ら5人が、松山城の本丸とその周辺の天守閣などの重要文化財21棟のほか、やぐらや門、土塀などを点検しました。 この点検は、きのう午後、本丸にある乾門東側の漆喰の壁にゴルフボールが打ち込まれたと見られるくぼみなどが見つかったことを受け、急きょ行われました。 こちらの壁では、11か所でくぼみが確認されたほか、瓦が1枚欠けているのが見つかりました。いずれもゴルフボールがぶつけられたことによる傷と見られています。 通報を受けた警察は建造物損壊の疑いで捜査していて、場内の防犯カメラを解析するなどして調べています。 点検の結果、新たに破損している箇所は見つかりませんでしたが、本丸の壁2か所で落書きが確認されました。落書きはフェルトペンで書かれていて、人の名前や日付などが記されていました。 ゴルフボールによると見られるくぼみや落書きが見つかったのは、国の重要文化財に指定されている乾櫓の近くの土塀ですが、いずれも1982年に再建されたもので重要文化財ではないということです。 松山市では、被害を受けた壁の修復について近く協議するほか、城内の見回りを強化する方針です。 司馬遼太郎の自筆原稿見つかる06月26日 08時06分nhk 小説家、司馬遼太郎の作品で、四国にゆかりの深い「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」などの直筆の原稿が見つかり、執筆の過程が分かる貴重な資料として注目されています。 これは先週23日、大阪・東大阪市にある司馬遼太郎記念館が発表しました。 見つかったのは、司馬遼太郎が昭和37年以降に新聞に連載し、四国にもゆかりが深い、▽「坂の上の雲」の初回を含む6回分と、▽「竜馬がゆく」の最終回を含む5回分の直筆原稿、あわせて47枚です。 記念館によりますと原稿はこれまで行方が分からなくなっていましたが、今回、東京の古書店で見つかったということで、「竜馬がゆく」の直筆原稿が見つかるのは初めてだということです。 この「竜馬がゆく」の最終回の原稿では竜馬が死を迎える場面で、当初、「惜しむように」としていた表現を「惜しげもなく」と書きかえていて司馬遼太郎が竜馬の最期をより印象的に伝えようとして推こうを重ねていたことがうかがえます。 司馬遼太郎記念館の上村洋行館長は「見つかった原稿は2作品とも特に重要な場面が書かれている。 当時の執筆の過程を知ることができる貴重な資料だ」と話していました。 見つかった原稿は、7月1日から8月31日まで司馬遼太郎記念館で公開されます。 松江城築いた堀尾吉晴の銅像を清掃07/02 20:09nhk 松江城を築いた戦国の武将、堀尾吉晴の銅像を美しく保とうと、およそ100人のボランティアが銅像や城の周辺の清掃を行いました。 堀尾吉晴は、豊臣秀吉や徳川家康などに仕えた戦国の武将で、今からおよそ400年前の江戸時代初期に松江城を築いたことで知られています。 松江城の大手前には堀尾吉晴の功績をたたえて4年前に銅像が建てられ、毎年この時期に地元のボランティアが清掃を行っていて、 4月の松江武者行列で堀尾家の役を務めた武者隊など、およそ100人が集まりました。 銅像の高さはおよそ6メートルあるため、電力会社が電線の点検などを行う作業車を出し、中国電力の作業員が銅像の頭や肩などに水をかけながらていねいに磨いていました。 また、ボランティアたちは銅像の台座についたこけをとったり、城の案内板の汚れをぞうきんで拭き取ったりしていました。 清掃を行っている松江堀尾会の鷦鷯修一会長は、「多くの人が清掃に参加してくれて銅像がきれいになったのでうれしい」と話していました。 北前船フォーラム07/14 18:27nhk 江戸時代から明治時代にかけて日本の海運を支えた「北前船」のかつての寄港地の関係者が集まって地域活性化について考えるフォーラムが14日から岡山市で始まりました。 岡山市北区で始まったフォーラムには、「北前船」の寄港地だった自治体や観光業の関係者およそ500人が参加しました。 「北前船」は江戸時代から明治時代にかけて、大阪と北海道を結んだ海運を支えた商船で、県内では倉敷市の下津井地区や、玉野市の日比地区などが寄港地としてにぎわいました。 フォーラムでははじめに高梁市出身で「ANAホールディングス」の大橋洋治相談役が講演し、「北前船は単なる物流にとどまらず、各地の民謡や調理方法など文化も運んだ意義深いものだ。その歴史を今の交流にもいかしていこう」と述べました。 新潟県佐渡市の観光協会の担当者は、「ふだん出会えない全国各地の方と交流できて、さまざまな取り組みを学べるので興味深く参加しています」と話していました。 [14日 19:10]岡山県立美術館 傑作浮世絵そろい踏みrsk1 東海道五十三次や人物画など、浮世絵の名作を集めた企画展が岡山市北区の岡山県立美術館で始まりました。 開会式には関係者が出席し、テープカットで祝いました。 会場には、人物画や風景画などの浮世絵約200点が展示されています。 今回の見どころは、歌川広重の「東海道五十三次」です。 東京の日本橋から京都までの道中の風景を描いた作品55点を一度に鑑賞することができます。 他にも東洲斎写楽や葛飾北斎といった江戸時代を代表する浮世絵師たちの作品が訪れた人の目を楽しませています。 「傑作浮世絵揃い踏み平木コレクション」は8月27日まで、岡山県立美術館で開かれています。 新選組の史料見つかる 蛤御門の変当時「豪農宅で宿営」 元治元(1864)年7月に起きた「蛤御門(はまぐりごもん)の変」当時の新選組の動向をつづった日記が、京都府南区の長谷川家住宅(国登録有形文化財)で見つかった。 調査した中村武生・京都女子大非常勤講師(幕末政治史)が発表した。新選組が当時の東九条村(現・南区東九条)の豪農宅に宿泊しながら街道警護に当たったことや、 村付近で長州勢と鉄砲を撃ち合って勝ったことなどが記されている。 元記事 http://www.asahi.com/articles/ASK7L627KK7LPLZB01Z.html 川原慶賀の絵画展08/12 19:04nhk 江戸時代、シーボルトのお抱え絵師として、植物を忠実に描いた作品で知られる川原 慶賀の絵画の展示会が、下関市で開かれています。 川原慶賀は、ドイツ人医師のシーボルトのお抱え絵師として、長崎の出島の出入りを 許され、当時、博物学者でもあったシーボルトの求めに応じて、植物を描写した写実 的な作品を数多く残しています。 作品の多くは、シーボルトがオランダに持ち帰りましたが、下関市立美術館で 開かれている展示会には、ロシア科学アカデミー図書館が所蔵する川原慶賀の植物の 絵、125点が展示されています。 このうち「トウガン」は、とうがんの実や茎や葉の形や色だけでなく、それらに びっしりと生えたうぶ毛まで繊細に描き込まれていて、慶賀の描写力の高さが発揮 されています。 また「ウンシュウミカン」は、ミカンの皮の表面の細かなおうとつや、ミカンの花を 分解して花びらや雌しべ、それに数多くの雄しべなどをひとつひとつ丁寧に描いています。 会場では、慶賀の作品の細かさをより楽しんでもらおうと虫眼鏡も貸し出されていて、 訪れた人たちは虫眼鏡を絵に近づけて観賞しその細かさに感心していました。 下関市立美術館の渡邉祐子学芸員は、「慶賀の絵は徹底的な観察に基づいて非常に 細密に描かれているので繊細な植物の数々を見てほしい」と話していました。 この展示会は、来月24日まで下関市立美術館で開かれています。 硬派な室町本、またも大ヒット 『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』 http://www.sankei.com/life/news/170813/lif1708130007-n1.html タイトルは、かんのうのじょうらん、と読む。室町幕府草創期、征夷大将軍である足利尊氏と、 政務の大半を担っていた弟の直義の対立を軸に起きた内乱である。 高校日本史の履修者でも記憶している人は少ない事件がテーマの本書、しかし現在6万8000部と 硬派歴史書としては異例のヒットとなっている。同じ中公新書刊の40万部ベストセラー『応仁の乱』を追走する快調ぶりだ。 知名度こそ低いが、観応元(1350)年に起きたこの戦乱の歴史的な影響はなかなか大きい。 昭和48年生まれの国立台湾大学助理教授である著者は、鎌倉幕府を踏襲していた体制が変化し、 恩賞分配方式など室町幕府特有の制度が生み出された「有意義な試練」と位置づける。 勝敗が何度も入れ替わる複雑な展開を、いくつもの新解釈を示しながらクリアかつ丁寧に整理した叙述は見事だ。 担当の上林達也氏によると、7月下旬に初版1万8000部でスタートし、発売翌日に3万部の増刷が決まった。 「発売前からツイッターなどで歴史ファンの間に話題が拡散していたことが大きかった」という。 『応仁の乱』に続く、ネットに親和的な新世代の中世史家による快作だ。(亀田俊和著/中公新書・860円+税) 終戦72年、追悼式に6200人 首相、加害責任触れず https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170815-00000031-asahi-soci 72回目の終戦の日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。 天皇、皇后両陛下や全国から集まった遺族ら約6200人が参列し、約310万人の戦没者を悼んだ。 安倍晋三首相は不戦の決意を表明する一方、アジア諸国への加害と反省に5年連続で言及しなかった。 安倍首相は式辞で、「私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命を捧げられた 皆様の尊い犠牲の上に築かれた」と哀悼の意を表明。その上で、「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない」と述べ、 3年続けて同様の表現で不戦の誓いを強調した。 首相の式辞では1993年の細川護熙氏以降、歴代首相がアジア諸国への「深い反省」や 「哀悼の意」などを表明し、加害責任に触れてきたが、安倍首相は今回も言及を避けた。 朝鮮通信使の行列を再現08/19 19:06nhk 室町時代から江戸時代、朝鮮王朝から日本に派遣されていた「朝鮮通信使」の行列を 再現した催しが、下関市で開かれ、訪れた人たちが色鮮やかな衣装や踊りを楽しみました。 「朝鮮通信使」は、朝鮮王朝が日本の幕府などに派遣した外交使節団で、道中では 今の下関市にも立ち寄り、盛んに文化交流を行っていました。 これを記念して、下関市では毎年、当時の行列を再現した催しが開かれ、ことしは、 下関市や姉妹都市の韓国プサン市などからおよそ250人が参加しました。 行列では参加者が赤や青など通信使の色鮮やかな衣装を身にまとい、多くの観光客が 見守る中、中心部の観光地や商店街などを移動しながら、およそ2キロにわたって 練り歩きました。 プサン市で活動する楽団や舞踊団が太鼓やカネを打ち鳴らし、あでやかな衣装を着た 団員たちが踊りを披露すると、見物に訪れた人たちからは、盛んな拍手や大きな歓声 が送られていました。 家族で訪れた父親は「初めて行列を見て圧倒されました。歴史を後世につなぐ催し なので、これからも続けてもらいたいです」と話していました。 千葉県文書館の歴史的公文書誤廃棄 館長ら2人に訓告処分 ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170819-00000030-san-l12 行政文書や古文書などの資料を収集・保存する県文書館が第二次世界大戦の関連文書など 本来保存すべき歴史的公文書91冊を誤って廃棄した問題で、県総務課が同館の館長ら職員2人について、 監督責任を問い文書での訓告処分としていたことが18日、県や関係者への取材で分かった。 処分は17日付。同課は「事実関係を整理し状況を確認した結果、懲戒処分には当たらないと判断した」としている。 同館は平成28年3月、県の行政文書管理規則の改定に伴い所蔵文書の廃棄を進めたが、 その過程で、原則として長期保存すべき「昭和27年度までに作成・取得された公文書」に当たる 91冊を誤廃棄した。91冊の大半は「復員名簿」や「陸軍部隊調査票」といった第二次大戦の 関連文書で、戦没者の遺族台帳なども含まれていたという。 同館の職員会議でこれらの保存すべき公文書が廃棄リストに含まれていることに気付いていたが、 職員のミスでそのまま廃棄作業が進められたという。県によると、廃棄をした職員はすでに退職しているため処分はないという。 同館では、誤って廃棄した91冊の復元に向けた調査を最優先課題として進めている。 同館によると、今年7月末現在で、約7割にあたる65冊については、記載されていたのと 同様の情報か一部の情報が載っていると推測される文書がアジア歴史資料センター(東京都)などで 保有されているのが確認されたという。だが、残る26冊については「現在も調査を続けている」といい、 復元の見通しは立っていない。 国宝・重文の公開制限緩和へ 刀剣など「長期耐えうる」 ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170823-00000012-asahi-soci 文化庁は、国宝や重要文化財に指定されている美術品や工芸品について、「年間延べ60日以内」としている 公開制限を来春にも緩和する方針を固めた。湿気や紫外線などによる劣化を避けるための規制だが、 刀剣などの金属製品、石造りの仏像や土器など頑丈なものは、長期公開にも耐えうると判断した。 安倍政権は観光立国を掲げ、2020年までに15年の2倍にあたる4千万人の外国人旅行者の訪日を目標とし、 文化財も観光資源として重視している。文化庁は5月、文化財を活用しやすくするための制度改正を 検討する専門部会を、文化審議会に設置。公開制限の緩和はその一つで、23日の会合でまとめる 中間報告に盛り込まれる見通しだ。 国宝・重文は、1996年の文化庁長官による裁定で、博物館や美術館で公開する際、 年間に「2回以内」「延べ60日以内」に制限されている。全国を巡回する展覧会などでは 公開日数が短すぎるとして、展覧会の主催者や美術館から制限の緩和を求める声が出ていた。 石清尾山古墳群の保存に向け視察08/25 18:11nhk 国の史跡に指定されている高松市の「石清尾山古墳群」の保存や活用に向けて、 25日、専門家が現地を訪れ、全国でも珍しい古墳時代の早い時期に築かれた石積み の古墳の現状を視察しました。 高松市の石清尾山には、3世紀から4世紀にかけて築かれた「積石※づか」と呼ばれる 石積みの古墳が数多くあり、「積石※づか」を中心に12の古墳が国の史跡に指定 されています。 25日、現地を訪れたのは、高松市が設置した「石清尾山古墳群」の整備に関する 専門部会の委員、4人で、8つの古墳を視察しました。 4人の委員は、石積みの保存状況とともに、多くの古墳では墳丘の上に道が通っている ため、ハイキングなどでの利用で石積みが崩れる可能性があることを確かめました。 また、石の棺、石棺が露出したままになっている「石船※づか古墳」では、石棺の 劣化の状況を詳しく観察しました。 さらに、全長が100メートル近くあり、中央が丸く両側が四角い「双方中円墳」 という特異な形をした「猫※づか古墳」も、見てまわりました。 高松市では、専門部会の助言などを受けて、対策を検討し平成31年度に 「石清尾山古墳群」の保存や活用についての計画を策定する予定です。 ※点のない「塚」。 村上海賊ゆかりの品 特別展08/21 12:34nhk 戦国時代に瀬戸内海で大きな勢力を誇った「村上海賊」ゆかりの品を紹介する特別展 が、尾道市で開かれています。 この特別展は、「村上海賊」に関する史跡などを新たな観光資源にしようと取り組む 尾道市などが因島水軍城で開いていて、「村上海賊」ゆかりの鎧や刀、それに土器 などおよそ170点が展示されています。 このうち、戦国武将の小早川隆景が成人の祝いに因島村上家6代当主、村上吉充に 贈ったとされる「白紫緋糸段縅腹巻」は権威を象徴するように金具のまわりに金ぱく がちりばめられていて、村上氏が重要な地位にいたことを物語っています。 また、朝鮮半島や中国から輸入された青磁品や香炉などは鑑賞用に使われていたと みられ、当時の村上氏の経済力がうかがえます。 東京から訪れた中学2年生の男子生徒は「村上海賊に関する本を読んで興味を持ちました。 腹巻きの色彩がきれいでかっこいいです」と話していました。 学芸員の宇根元了さんは「展示を通じ、海で活躍した村上海賊の本質に迫ってもらいたいです」 と話していました。この特別展は今月30日まで開かれています。 室町後期の絵など県有形文化財に08/30 07:09nhk 武家の女性が描かれた室町時代後期の絵と、高松市内の遺跡から出土した弥生時代 後期の1200点余りの土器が新たに県の有形文化財に指定されることになりました。 県の文化財保護審議会の答申によりますと、新たに指定されるのは多度津町の多聞院 が所有する「絹本著色西谷藤兵衛夫人像」と、 高松市の上天神遺跡から出土した弥生時代後期の土器1261点です。 「絹本著色西谷藤兵衛夫人像」は室町時代後期の武家の妻の姿を描いた県内最古の 女性肖像画で、当時の武家の女性の服装を知る上で貴重な資料だということです。 上天神遺跡から出土した弥生時代後期の土器は、装飾に使われたとされる赤い塗料の 「辰砂」が内側に付着し、県教育委員会によりますと「辰砂」の原料の鉱物は県内で は採掘できないため、他の地域から得た原料を加工していたと考えられ、当時の交易 や生産活動を伝える重要な資料とされています。 今回の指定で県の有形文化財は120件になります。 備前刀の名品集めた展示会09/08 12:42nhk 平安時代以降に今の岡山県でつくられた日本刀、「備前刀」の名品を集めた特別展が、 8日から岡山市の県立博物館で始まりました。 備前刀は、平安時代以降に、今の瀬戸内市などからなる「備前国」を中心に作られた 日本刀で、8日から始まった特別展では、全国各地の美術館や博物館などで所蔵 されている国宝5振りを含むあわせて84振りが展示されています。 このうち鎌倉時代につくられた国宝の「太刀銘吉房」は、幅が広く、がっしりと とした「刀身」に花びらのような模様の「刃文」があるのが特徴です。 また、鎌倉時代につくられた国宝の「群鳥文兵庫鎖太刀(号上杉太刀)」は、刀の 「さや」を鎖でつり下げるためのもので、優雅に舞う鳥の群れの様子が金粉などで あしらわれています。 このほか、現代の職人がつくった備前刀を展示しているコーナーもあり、訪れた人 たちがじっくりと見入っていました。 県立博物館の学芸員の佐藤寛介さんは、「数多くの名品が展示されているのでぜひ 実物を見て迫力を感じてほしい」と話していました。 この展示会は、来月15日まで、岡山市北区の県立博物館で開かれています。 備前刀の魅力伝える展示会09/10 15:56nhk 日本刀の中でも名刀と呼ばれる逸品を生み出してきた岡山ゆかりの「備前刀」の魅力 を知ってもらおうという展示会が、瀬戸内市で開かれています。 この展示会は、平安時代から今の瀬戸内市を中心とした地域で作られ、国宝の日本刀 のうち半数近くを占める「備前刀」の魅力を知ってもらおうと、備前長船刀剣博物館 が開きました。会場には鎌倉時代から現代までのあわせて41振りが展示されています。 このうち、明治時代に倉敷市の羽黒神社に奉納された「大太刀」は、当時の名工 「竹貫斎義隆」が作った刃の長さが1メートルを超える豪壮な作品です。 刀身には珠を追う竜が彫刻され、県の重要文化財に指定されています。 また、鎌倉時代後期の名工「長光」が作った「太刀」は、澄んだ地鉄に波のような 刃文が浮かび美しさを際立たせています。 この展示会「華麗なる備前刀・とある愛刀家たちの名品展」は、瀬戸内市長船町の 備前長船刀剣博物館で11月12日まで開かれています。 11日、月曜日は休館です。 東海道五十三次の復刻画展09月08日 10時00分nhk 江戸時代の浮世絵師、歌川広重の作品、「東海道五十三次」を復刻した版画の作品展が 大洲市肱川町で開かれています。 この展示会では、「東海道五十三次」の原画をもとに彫師が彫った木版画を摺師が 刷って復刻した27点の作品が、展示されています。 このうち、東海道の起点となる「日本橋」という作品では、朱色をぼかして早朝の 朝焼けの空の色を表現したと思われる当時の色を再現しています。 また、「箱根」という作品は、川や海など水辺が「広重ブルー」とも呼ばれる鮮やかな 青色で、再現されています。 風の博物館・歌麿館の河野信介館長代理は、「愛媛では珍しい浮世絵の展示ですし、 絵師の思いをそのまま当時と同じ色と思われるほどに再現されていますので、ぜひ 見に来ていただきたい」と話しています。 この展示会は、9月25日まで大洲市肱川町の風の博物館・歌麿館で開かれています。 平安時代の“貝合わせ”体験09月09日 19時07分nhk はまぐりの貝殻の内側に描かれた絵が対になるものをあてる平安時代の遊び「貝合わせ」] を体験する催しが、9日、庄原市で開かれました。 「貝合わせ」は、2枚1組のはまぐりの貝殻の内側に描かれた絵柄が対になるものを あてるもので、平安時代の貴族が始めたとされています。 9日は、日本の伝統文化を知ってもらおうと、庄原市で、この「貝合わせ」を体験する 催しが開かれました。 催しで参加者たちは、昔の遊びの普及活動を行っている、地元の主婦の天野カツミさん から、「貝合わせ」のルールなどについて説明を受けた後、さっそく絵柄が描かれた 内側の部分を裏にして貝殻を並べ、挑戦しました。 参加者たちは、貝殻の外側の色や大きさなどを手がかりに次々に貝殻をめくり、絵柄 があった貝を探し当てると、「おみごと」と声をかけあって楽しんでいました。 参加した女性は、「平安時代にいるかのように奥ゆかしい遊びで楽しいひとときを 過ごすことができてよかったです」と話していました。 天野さんは、「はまぐりの殻は捨てるものと思われていますが、たくさんの人が にぎやかに楽しく遊ぶことができることを知ってもらえたらと思います」と話していました。 ”大美保関”展09/19 09:52nhk 古くから神話の舞台となり、江戸時代から昭和にかけて海上交通の要衝としても栄えた、松江市の美保関の歴史をひもとく企画展が松江市で開かれてます。 松江市にある松江歴史館で開かれている企画展「大美保関」では美保関に伝わるゆかりの品など78点が展示されています。 このうち「奉納鳴物オルゴール」は、国内に現存する最古のオルゴールのひとつで、幕末にスイスからもたらされた物です。 オルゴールには、18世紀にヨーロッパで流行ったオペラ楽曲が収録されており、会場ではその音色を聴くことができます。 また、「両替天秤」は、藩ごとに相場の違う様々な通貨が使われていた江戸時代に、両替商人が銀などの重さをはかる時に使ったもので、北前船の航路となり、海上交通の要衝となった美保関ならではの展示物です。 山口から訪れたという男性は、「歴史を感じる展示で、とても楽しめました」と話していました。 企画展「大美保関」は、松江市の松江歴史館で11月5日まで行われています。 村上海賊の武具集めた展示会09月13日 08時03分nhk 戦国時代に瀬戸内海で大きな勢力を誇った村上海賊のよろいや刀剣などの武具を集めた展示会が尾道市で開かれています。 村上海賊は現在の広島県から愛媛県にわたる瀬戸内海の因島、能島、来島を本拠地にした3つの家からなり、戦国時代に大きな勢力を誇りました。 「おのみち歴史博物館」には、村上海賊の武具、およそ20点が展示されています。 このうち、能島村上家伝来のよろい「黒韋威胴丸」は、南北朝時代に使われたとみられ、漆を塗った板に藍染めした鹿の皮が取り付けられているのが特徴です。 また「虎蹲砲」と呼ばれる大砲は能島村上家の当主、村上武吉の次男、影親が朝鮮半島から持ち帰り、和式に改造したとされる武器で、虎が前足を立てたように見える台座に載せて使われたことが名前の由来になったということです。 夫婦で訪れた50代の男性は「よろいを間近で見ましたが重厚さを感じました。作るのに手間のかかる武器だったのではないかと思いました」と話していました。 また兵庫県から訪れた40代の男性は「1000年を超えるはるか昔の武具を丁寧に保存しているのがすばらしいと思いました」と話していました。 展示会は10月15日まで開かれています。 雪舟“幻の作品”確認と発表09/19 18:58nhk 室町時代に独自の水墨画のスタイルを確立した雪舟が描き、昭和8年に行われた入札を最後に所在が分からなくなっていた「幻の作品」を84年ぶりに確認したと、山口県立美術館が発表しました。 国宝に指定されている「四季山水図」とよく似た作風の山水図で、専門家は「真筆で間違いなく、非常に重要な発見だ」としています。 「倣夏珪山水図」と呼ばれるこの作品は、縦横およそ30センチのうちわのような形の枠の中に、中国の南宋の時代の画家・夏珪の作風をもとにした山水図が描かれています。 手前にはひときわ濃い色の岩が力強い筆遣いで描かれ、その後ろに枝を伸ばした木々や水辺に浮かぶ小舟などが表現されています。 昭和8年に行われた入札の目録に記されたのを最後に所在が分からなくなり、「幻の作品」とされていましたが、この作品を個人のコレクターが所蔵していて、調査の結果、雪舟の真筆と判断したと、雪舟の研究を進めている山口県立美術館が発表しました。 室町時代の画家・雪舟は、独自の水墨画のスタイルを確立したことで知られ、「山水長巻」の別名で知られる「四季山水図」や「天橋立図」など6つの作品が国宝に指定されています。 今回の作品が描かれた時期は分かっていませんが、「四季山水図」と岩や木の枝などの表現がよく似ているということです。 調査にあたった明治学院大学の山下裕二教授は「雪舟の真筆に間違いないと見た瞬間に確信した。夏珪のスタイルを完全に自分の中に取り込んでオリジナリティーを出している。 山水画においてこれほど自分のスタイルを確立した人はほかになく、四季山水図を研究するうえでも非常に重要な発見だ」と話しています。 「倣夏珪山水図」は山口県立美術館に寄託され、来月31日から公開されます。 雪舟 見つかった山水図は09/19 18:58nhk 今回見つかった「倣夏珪山水図」は、雪舟より200年以上前に活躍した中国南宋の画家・夏珪の画風を模した山水図です。 左端に雪舟の署名があるほか、枠の外側の右下には「夏圭」と記されています。 山口県立美術館によりますと、雪舟が活躍した室町時代後期には夏珪を模した作品が流行し、さまざまな画風を描き分けていた雪舟にとっても重要なテーマになっていたということです。 描かれているのは秋の情景で、黄色に薄く色づいた水辺のあしの上には葉を落とした木々が枝を伸ばし、「酒旗」と呼ばれる酒屋を示す旗が揺れています。 手前の岩は絵の重心となるように濃い色で塗られ、雪舟特有の陰影を際立たせた描写や大胆で勢いのある筆遣いが見られます。 また、人が岩の間の小道を歩く姿や、向かい合って語り合う姿を描くのも、雪舟が山水画でよく用いた手法です。 作品は紙の染みが目立たず状態もよく、岩の青みがかった色や木の緑色も鮮やかに残されています。 この作品は中国の有名画家の画風を模した「倣古図シリーズ」の中の1枚で、江戸時代前期に狩野派の絵師が模写した12点が残されていることから、雪舟が少なくとも12点を描いていたことが分かります。 このうち現存する6点はいずれも国の重要文化財に指定され、今回7点目が見つかったことになります。 シリーズのうち夏珪を模した山水図は季節ごとに4枚が描かれ、今回見つかった「秋」と、個人が所蔵する「春」と「冬」はありますが、「夏」は所在が分かっていません。 雪舟 山口を主な拠点に09/19 18:58nhk 雪舟はおよそ600年前の室町時代に現在の岡山県総社市で生まれ、子どもの頃に修行した寺には、涙でねずみの絵を描き才能を見いだされたという逸話が残っています。 その後、京都市の相国寺で修行し、35歳のころに当時、繁栄を誇っていた西国随一の守護大名・大内氏の本拠地の山口に移り住みました。 そして、50歳を前に中国に渡って絵を学び、帰国後、この経験を生かして、さまざまな太さや濃さの線で輪郭を描き、岩などを重ねて空間に奥行きを生み出す独自の水墨画のスタイルを確立し、山口を主な拠点に活躍しました。 「山水長巻」の別名で知られる全長16メートルの絵巻「四季山水図」や「天橋立図」「慧可断臂図」など、日本画では最も多い6点が国宝に指定されています。 専門家“真筆に間違いない”09/19 18:58nhk 山口県立美術館によりますと、この作品は4人の専門家が調査に関わり、全員が「真筆に間違いない」と判断したということです。 このうちの1人、明治学院大学の山下裕二教授は、その理由の1つとして、うちわのような形をした枠の上の部分を描き直していることを挙げています。 「雪舟」の署名も舟の字が大きくバランスが悪いとして、「こういうちょっと情けないところが部分的に見えるのも、オリジナルであることを保証する材料だと思う」と指摘しています。 また、江戸時代前期の狩野派の絵師による忠実な模写が残されていることや、昭和8年に行われた入札の目録の写真と表具に至るまで一致していたことも傍証になるとしています。 山下教授は「絵そのものも、力強い岩の描き方やことさらに黒くしていることなど、雪舟の筆の癖と一致している。これほどまでに研究者が一致して間違いないと判断を下す作品は珍しい」と話しています。 村岡知事“山口を訪れて”09/19 18:58nhk 記者会見で、国内外の水墨画の歴史に詳しい学習院大学の島尾新教授は「雪舟の真筆はなかなか出てこないうえ、みずみずしく鮮やかな色には本当に驚き、感動しました。 『世紀の発見』と言ってもいいのではないか」と話していました。 また、40年近く雪舟を研究している明治学院大学の山下裕二教授は「オリジナルの中国の画風をそっくりまねた物ではなく、雪舟風になっている。 中国の画家のスタイルを取り込んですべて自分のものにしたという雪舟の主張が感じられる」などと作品の特徴について説明しました。 一方、作品を来月から公開する山口県立美術館の荏開津通彦学芸員は「確実に雪舟とわかる作品が新しく出てくることは100年に1回ぐらいのことで、普通にはないことなのでびっくりした。 できるだけ多くのお客さんに見ていただきたいので、工夫を凝らして展示したい」と意気込んでいました。 さらに、村岡知事は記者会見で、「雪舟の絵が発見されたことは、日本美術界にとっても大きな出来事だ。価値のある作品を山口県で預かることの素晴らしさや、次に伝えていくことの責任を感じている。 ぜひ雪舟ゆかりの地である山口を訪れてほしい」と話しています。 重文刀の復活プロジェクト09/19 20:59nhk 室町時代の名工が作り現在はさびついた状態で保管されている国の重要文化財の日本刀を磨き上げ美しい姿によみがえらせるプロジェクトが、岡山県で立ち上がりました。 この日本刀は、刀剣の生産で知られる「備前長船」、現在の岡山県瀬戸内市で、室町時代の名工「盛光」が作った「大薙刀」です。 全長は2メートル30センチあり、瀬戸内市の寺から岡山市北区の岡山県立博物館に預けられました。 国の重要文化財にも指定されていますが今ではさびが目立ち、刀身全体が曇りがかったような状態になっていることから、磨き上げて本来の姿に戻そうと、「日本美術刀剣保存協会岡山県支部」がこのほどプロジェクトを立ち上げました。 保存協会は17日、岡山県立博物館で行った講演会で今後の取り組みを明らかにし、刀を研ぐ作業などにおよそ130万円が必要なことから保存協会側が40万円を支出し、残りの90万円については広く寄付を募るとしています。 そして目標額が集まり次第文化庁に許可を申請し、福岡県の研ぎ師に研磨を依頼する予定です。 保存協会の小池哲岡山県支部長は「奉納された当時の美しい姿にして、後世に伝えていきたい」と話しています。 寄付の方法などについては、「日本美術刀剣保存協会岡山県支部」のホームページで紹介されています。 新発見の江戸城絵図 東京で公開nhk松江 松江歴史館が所蔵する江戸時代初期に徳川家康が築城した江戸城の貴重な絵図が、東京で公開されています。 東京で公開が始まった「江戸始図」は、松江歴史館が所蔵し、ことし2月に、専門家の調査で徳川家康が築城した江戸時代初期の江戸城を描いたことが分かった貴重な絵図です。 江戸城は改修が繰り返され、築城当時の詳細な姿はわかっていませんでしたが、この絵図には本丸の石垣などが詳しく描かれ、出入り口を複雑な構造にして、守りを堅くしていることがうかがえるということです。 19日の開会式には松江市の能海広明副市長も出席し、「1人でも多くの人に訪れてもらい、江戸、そして松江の歴史に触れてもらえるとうれしいです」と述べました。 会場には国宝の松江城天守のひな形模型などの資料も展示され、訪れた人たちの関心を集めていました。 この展示会「松江城と江戸城」は11月19日まで東京・千代田区の日比谷図書文化館で開かれています。 宇和島伊達家の刀剣武具展10月03日 12時29分nhk 宇和島伊達家伝来の名刀や武具を一堂に集めた特別展が宇和島市の博物館で開かれています。 この特別展は、江戸時代に宇和島藩を治めていた宇和島伊達家に伝わる名刀や武具などを通じて多くの人たちに武士の美意識を感じてもらおうと宇和島市立伊達博物館が企画したもので、140点あまりが展示されています。 このうち、鎌倉時代後期の刀鍛冶、郷義弘が打った仙台伊達家に伝 わる刀は、「はばき」と呼ばれる刃の根元に付ける金具に、伊達家で最も古いとされる家紋の「三引両紋」が金であしらわれています。 また、江戸時代後期の刀鍛冶源清麿の刀は、刃文と呼ばれる模様の躍動感や美しさから、豪快な鍛冶技術がうかがえる一振りです。 宇和島刀剣会の木熊良生会長は、「とても貴重なものがそろっていていて近くで見ることができるので、時代ごとに異なる刀の表情を楽しんでほしいです」と話していました。 この展示会は、宇和島市立伊達博物館で休館日の月曜を除き、10月29日まで開かれています。 [12日 19:10]「備前刀 日本刀の王者」来場者が1万人http://www.rsk.co.jp/sp/#local_news_20171012_4 岡山市北区の岡山県立博物館で開かれている特別展「備前刀日本刀の王者」の来場者が1万人に達しました。 備前刀の、国宝「吉房」です。光を乱反射する「乱れ映り」が特徴です。 会場には、5つの国宝を含む名刀84振りが展示されています。 刀身の鮮やかな反りと優美な輝きが訪れた人を魅了します。 1万人目になったのは兵庫県姫路市の片岡美樹さんで、博物館から記念品が贈られました。 岡山県立博物館の特別展で来場者が1万人を超えるのは5年ぶりです。 「備前刀日本刀の王者」は10月15日まで開かれています。 道しるべの企画展10/14 19:12nhk 江戸時代から明治時代にかけて設置された石の道路標識から地域の歴史をたどろうという企画展が鳥取市で開かれています。 この企画展は鳥取市の資料館が14日から始めたもので、江戸時代から明治時代にかけて設置され、県内に今も残る24の石の道路標識の写真などが集められています。 このうち、大山町にある高さ1メートルの標識は江戸時代中頃に作られたとみられ標識に和紙をあてて写し取った拓本から「右ハ大山道也左ハ船上道也」と記されていることがわかります。 中国地方最高峰の大山は当時から各地から大勢の人たちが訪れる観光名所のひとつで、道案内に設置されたものと考えられています。 また、大山から当時の大坂に向かう途中の伯耆町に設置された標識には「右びんご左大さか」と書かれた下に「近江屋」の文字が記され、大坂の商人が宿屋を宣伝するために設置したものと見られます。 標識を調査した八頭町の加藤要治さんは、「各地に残る石の標識は人の往来を知る貴重な手がかりで、地域の歴史を感じてもらいたいです」と話していました。 この企画展は、11月5日まで鳥取市の「因幡万葉歴史館」で開かれています。 武将姿で中学生が案内10/21 22:11nhk 日本刀の産地として知られる瀬戸内市で地元の中学生が20日、武将のようなよろいを身に着け、刀剣博物館を訪れた人たちの案内役を務めました。 瀬戸内市の邑久中学校の男子生徒3人は、授業の一環として、備前長船刀剣博物館で学芸員などの仕事を3日間にわたって学びました。 最終日の20日はさやに収まった刀を抜く際の注意点を学び、刀がさやに触れて傷つかないよう模造の刀を使って安全に抜く体験をしました。 そして授業の集大成として、戦国武将をイメージしたレプリカのよろいを身に付け、博物館を訪れた団体客の案内役を務めました。 生徒たちは展示されている日本刀について「刃文が素晴らしい」とか「上品な姿をしている」などと、見どころを一生懸命説明していました。 案内を行った中学生の貝阿彌悟央さんは、「博物館は多くの人に刀の良さを知ってもらう 場所で、よい経験になりました」と話していました。 下蒲刈で朝鮮通信使の再現行列[2017.10.15 18:0]RCC 日本と韓国の団体がユネスコの「世界の記憶」への登録を申請している「朝鮮通信使」 にちなんだイベントが、呉市の下蒲刈島で行われました。【記事全文】 朝鮮通信使は、江戸時代に12回来日した、朝鮮王朝の外交使節団です。 ソウルから東京までの道中で、下蒲刈島や福山市鞆町に立ち寄ったことが知られています。 ことしで15回目となる再現行列には、日韓両国のおよそ300人が参加。 雨が降る中、韓国の伝統衣装を身に着けて1.2キロの道のりを練り歩きました。 朝鮮通信使の関連資料については、日韓の民間団体が共同でユネスコの「世界の記憶」 への登録を申請していて、 関係者は11月上旬ころにも登録される可能性があると期待を寄せています。 松江藩主堀尾忠氏の新文書発見10/26 16:44 www3.nhk.or.jp/lnews/k/matsue/4035043231.html 若くして亡くなった松江藩の初代藩主、堀尾忠氏が家臣に土地を与えたことを示す文書が初めて見つかりました。 松江歴史館は、忠氏がいち早く支配体制を確立しようとしたことがうかがえる貴重な史料だとしています。 松江藩の初代藩主、堀尾忠氏は松江城を築城した堀尾吉晴の子で、28歳の若さで亡くなりました。 今回、見つかったのは忠氏が6人の家臣に土地を与えたことを示す「知行目録」という文書で、それぞれの家臣に与えた土地の大きさなどが記されているほか、忠氏の名前の下に忠氏が使っていたとされる「誉」という字の朱印が押されています。 松江歴史館によりますと、文書が出されたのは、忠氏がこの地に藩主として入った翌年の慶長6年、1601年とみられるということです。 慶長9年に亡くなっているため、忠氏が発した文書はほとんど残っておらず、「知行目録」はこれが唯一だということです。 松江歴史館の藤岡大拙館長は「今回の文書は大変貴重であり、藩主になったばかりの忠氏が、支配体制をいち早く整えようとしたことがうかがえる点でも重要だ」と話しています。 この文書は11月17日から来年1月17日まで松江歴史館で、一般に公開されるということです。 児童が「宇和島さんさ」を学ぶ10月20日 19時30分動画nhk 江戸時代から宇和島藩に伝わる「宇和島さんさ」を子どもたちに伝承しようと20日宇和島市の小学校で能楽師を招いて講習会が行われました。 「宇和島さんさ」は、江戸時代から宇和島藩を治めていた宇和島伊達家発祥の伝統芸能で武士のたしなみとして受け継がれ今に伝えられています。 この「宇和島さんさ」を子どもたちに伝えようと、宇和島市の宇和津小学校で能楽師の川口晃平さんを招いて講習会が開かれ、6年生23人が参加しました。 川口さんは、はじめに、師匠で人間国宝の梅若六郎玄祥さんが能の要素を盛り込んで完成させた踊りを披露しました。 このあと、1つ1つの振り付けが宇和島の海の穏やかな波や武士の忠誠心などを表していることを説明すると、子どもたちは真剣な様子で踊りを学んでいました。 参加した男子児童は、「宇和島にも能の文化があることを知って、もっと体験してみたいと思いました」と話していました。 講師を務めた川口さんは、「子どもたちはとても勘が良く、いきいきとしていました。『宇和島さんさ』が子どもたちの世代に受け継がれ花開することを願っています」と話していました。 宇和島市の南予文化会館では21日舞台が開かれ「宇和島さんさ」と能が披露されます。 [28日 17:00]津田永忠ゆかりの地を巡る研修会. www.rsk.co.jp/sp/#local_news_20171028_4 日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも言われる岡山藩士の技術者、津田永忠を学ぼうと、備前市などで研修会が開かれました。 研修会はマルセンスポーツ・文化振興財団が開いたもので、約30人が参加しま---した。 津田永忠は、江戸時代、岡山藩で建築、土木、干拓など数々の業績をあげ、備前市の旧閑谷学校の建築にも携わっています。 研修会では備前ミュージアムの臼井洋輔館長が、320年経ってもびくともしない建築の素晴らしさについて語りました。 一行は、このほかにも津田永忠ゆかりの地を巡りました。 中世の「たたら製鉄」を再現10/29 19:54nhk 中国地方の山間部で盛んに行われていた「たたら製鉄」と呼ばれる鉄の製造を再現する催しが、新見市で開かれました。 この催しは、新見市が中世に新見庄と呼ばれていたころ、「たたら製鉄」が盛んに行われていたことをPRしようと、有志で作るグループが毎年、開いています。 このグループは、地域文化の発展に貢献したとして、ことし8月に「サントリー地域文化賞」に選ばれています。 会場の「新見市たたら操業施設」には中世に使われた土でできた炉が再現され、28日の夕方から始まった作業には市民など約500人が参加しました。 「たたら製鉄」は砂鉄と大量の炭を燃やして鉄を作るもので、「ふいご」という道具で炉の中に風を送り込み火力を調節しながら鉄の材料になる銑鉄を取り出します。 参加者たちは、砂鉄と炭を入れながら手押し式の「ふいご」で風を送る地道な作業を夜通しで行いました。 参加した小学生たちは「ふいごを押したり引いたりするのはとても力がいるけど楽しかったです」とか、「昔の人はすごい技術を持っていたんだなと思いました」などと話していました。 作業は29日の午後4時すぎまで続けられ、約450キロの銑鉄ができたということです。 大政奉還150年企画展10/30 13:32nhk 江戸幕府が朝廷に政権を返上した「大政奉還」から来月で150年になるのを記念した企画展が、高梁市で開かれています。 高梁市歴史美術館で開かれている企画展には、江戸幕府の老中として大政奉還に立ち会った備中松山藩の藩主板倉勝静と、藩の重臣で勝静の相談役を務めた山田方谷の2人にゆかりのあるものを中心に、あわせて51点の資料が展示されています。 この中には、板倉勝静が14代将軍の徳川家茂から拝領したという金のまき絵が施された印籠や、勝静が身につけていた刀、それに板倉家の家紋が描かれた刀の「こしらえ」などもあります。 また、山田方谷が大政奉還の直前に京都を離れ藩に戻るときの心情をつづった書も展示されていて、「天を仰ぎ大笑して帰るのみ」という時代の流れに対するやるせなさが感じ取れる一文もあります。 この企画展は12月3日まで高梁市歴史美術館で開かれ、来館者には記念品として大政奉還150年を記念したオリジナルの缶バッジが贈られるということです。 31日、火曜日は休館です。 [30日 12:10]新見市で「たたら製鉄」を再現. http://www.rsk.co.jp/sp/#local_news_20171030_1 砂鉄から鉄を精錬する日本古来の「たたら製鉄」を再現する催しが、28日から29日に かけて新見市で開かれました。 粘土を塗り固めた炉にふいごで風を送り、鉄を作ります。 中国地方で古くから実施されてきた「た---たら製鉄」を再現し継承している「新見庄たたら学習実行委員会」が新見市で開いた催しです。 一昼夜かけての作業には約500人が参加し、日本古来の技法を体験していました。 実行委員会は、地元に伝わる貴重な技法を今後も伝承していきたいと話しています。 2017年10月30日(月) 12:10. 新見市で「たたら製鉄」を再現. https://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20171030_1 砂鉄から鉄を精錬する日本古来の「たたら製鉄」を再現する催しが、28日から29日に かけて新見市で開かれました。 粘土を塗り固めた炉にふいごで風を送り、鉄を作ります。 中国地方で古くから実施されてきた「た--- 秀吉の試行錯誤示す書状10月26日 8時34分動画nhk松山 本能寺の変のあと混乱していた京都を治めていた豊臣秀吉が、治安を回復するために進めてきた略奪品の返却を 諦める内容を記した書状が新たに見つかり、調査に当たった専門家は、「織田信長亡きあとの秀吉が試行錯誤をして いたことがわかる貴重な発見だ」と指摘しています。 この書状は愛媛県に住む男性の家に伝わっていたもので、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が25日、実物を調査しました。 その結果、書状は、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の2か月ほどあとに、当時京都を治めていた豊臣秀吉 が家臣に宛てて出したもので、秀吉が直筆で花押と呼ばれるサインを記していることが確認できたということです。 村井准教授によりますと、本能寺の変の直後の京都では、明智光秀の軍勢が略奪を行ったうえ、その後、元の持ち主 に返す作業に関わっていた秀吉の家臣も自分のものなどにしていたということです。 こうした状況のなか、今回見つかった書状には「略奪されたものには今後一切関知しない」と記され、秀吉が京都の 治安を回復するために進めてきた略奪品の返却を途中で諦めていたことが明らかになりました。 一方、この記述のあとには、信長を示す「上様」という言葉を使って「上様からもらったものに関しては、証拠がはっきり していれば元の持ち主に戻す」とも記され、秀吉が信長を特別扱いしていたことがうかがえます。 村井准教授は「秀吉の全国統一までの道のりは決して一本道ではなく、試行錯誤の末に政権を確立したことがよくわかる。 また、本能寺の変のあとも信長の存在が無視できなかったこともわかり、貴重な発見だ」と話しています。 幽霊の絵などを集めた特別展10月26日 5時15分動画nhk 幽霊が登場する怪談の場面を描いた江戸時代の絵などを集めた特別展が、徳島市で開かれています。 この特別展は、怪談が流行した江戸時代以降の文化を紹介しようと、徳島市立徳島城博物館が開いています。 会場には、各地の博物館などが所蔵する、幽霊が登場する怪談の場面を描いた掛け軸や浮世絵など、 江戸時代から明治のころまでのものを中心に、およそ130点が展示されています。 このうち、幕末から明治にかけてのものとみられる「皿屋敷お菊亡霊図」という掛け軸は、皿の数が足りないことを主人 に責められて井戸に身を投げた「お菊」が、幽霊となって井戸から現れ皿を持っている姿を描いています。 また、阿波人形浄瑠璃の怪談話で使われていたとみられる、幽霊の人形の頭の部分にあたる「頭」など、 徳島ゆかりの資料も展示されています。 訪れた静岡県の50代の男性は「これだけの幽霊画をよく集めたなと思います。やはり怖いですね」と話していました。 徳島城博物館の学芸員、桑野あさひさんは「徳島で実物の幽霊画をこれだけ見ることができるのは初めてのことなので、 ぜひ見に来てもらいたい」と話していました。この特別展は、来月19日まで開かれています。 松江藩主、堀尾公の法要11/06 13:34nhk 松江城を築いた堀尾吉晴など松江藩を治めた堀尾家の功績をたたえる法要が松江市の寺で行われました。 この法要は3代にわたって松江藩を治めた堀尾家の功績をたたえようと毎年行われています。 松江市栄町にある堀尾家の菩提寺の円成寺には、地元の人のほか、堀尾吉晴の出身地の愛知県大口町の関係者ら およそ100人が参列しました。 法要では住職がお経を読み上げたあと、参列者を代表して松江堀尾会の鷦鷯修一会長が 「松江の地の豊かさに着目して城と城下町の建設という大事業に着手したことで、 その後の山陰の発展に大きく貢献した」と述べました。そして、参列者らが順番に焼香を行いました。 堀尾吉晴は関ヶ原の戦いでの功績が認められ徳川家康から出雲と隠岐を与えられたあと、 江戸時代初期の1607年に松江城の築城に着手し、現在の松江の基礎をつくったとされています。 参列者は午後から安来市にある吉晴の墓を訪れることにしています。 ■時代区分を見直す中世史家 保立道久・東京大学名誉教授 歴史には時代区分がある。 だが、日本史で一般的に使われる「平安」も「鎌倉」も「室町」も問題だと指摘し、新たな区分を提案する歴史家が現れた。 名付けを見直し、区切る事件を変える。歴史の大きな流れが理解しやすくなるというのだ。 明治以前を「古墳→大和(やまと)→山城(やましろ)→北条→足利→織豊(しょくほう)→徳川」にすべきだ、というそのわけは。 ――時代区分を変える必要などあるのでしょうか。 「時代区分は、歴史を少しでも分かりやすくするための印です。 学界も習慣的に使っていますが、社会への影響が大きく、もっと深く考えるべきだと思いました」 「ヨーロッパや中国などの外国は、王朝交代で時代を区切ります。日本の天皇は『万世一系』ですから難しいのですが、前近代の政治の中心は王権です。 王権の変化で区切るほかありません」 http://www.asahi.com/articles/ASKB05T40KB0ULZU015.html http://imgur.com/eassubU.jpg 閑谷学校の楷の木色づく11/10 12:29nhk 江戸時代に建てられた庶民教育のための学問所で国の特別史跡に指定されている備前市の閑谷学校で、 シンボルとなっている2本の楷の木がオレンジ色になり見ごろを迎えています。 閑谷学校は、江戸時代に岡山藩が庶民教育のための学問所として開き、国の特別史跡に指定されています。 学校には中国の思想家、孔子をまつった聖びょうの前に2本の楷の木が植えられていて、樹齢はことしでともに 102年になります。 楷の木は聖びょうに向かって左側は赤に、右側は黄色に色づくのが特徴で、今は2本ともオレンジ色の状態です。 楷の木の葉は樹木医の指導で肥料を与えたりしたことで例年になくよく茂っていて、訪れた人たちは色づいた木を 眺めたりカメラに収めたりしていました。 瀬戸内市から訪れた30代の女性は「とてもきれいで癒されます。 学校の落ち着いた雰囲気も良いですね」と話していました。 閑谷学校の楷の木の紅葉は、この週末に最も色づきそうだということです。 庄原 東城町 伝統の「お通り」11月04日 19時06分nhk 庄原市東城町に江戸時代から伝わる伝統行事、「お通り」が行われ華やかな装飾を背負った子どもたちが城下町を練り歩きました。 「お通り」は江戸時代から伝わる伝統行事で関ヶ原の戦いのあと東城を治めた長尾隼人が関ヶ原の戦いの勝利を祝ってみこし行列に武者行列が加わったのが始まりとされています。 4日は地元の人たちおよそ100人が大名や武士にふんしておよそ2キロの道のりを行列を作って練り歩きました。 列の後方には、武者人形とサザンカの花を飾り付けた「母衣」と呼ばれる装飾を背負った華やかな着物姿の小中学生たちも加わり、行列に彩りを添えていました。 母衣は、平安時代に武者が背後からの矢よけに用いた武具が変化したもので、沿道に集まった人たちが写真に収めていました。 母衣を背負った男子中学生は「楽しかったです。貴重な体験になりました」と話していました。 地元の女性は「毎年見ています。 母衣が重くないのかといつも思います。すばらしい時代絵巻をこれからも続けていってほしいです」と話していました。 東城でお通り[2017.11.4 17:56]rcc 庄原市東城町で、江戸時代から伝わる伝統行事「お通り」が行われました。 よろい武者に殿様、お姫様と続く、総勢130人の行列は、町の中心部をゆっくりと練り歩きました。【記事全文】 東城の「お通り」は、関ヶ原の戦いのあと城主となった長尾隼人が、地元の秋祭りに戦勝記念の武者行列を加えたのが 始まりだと言われています。注目は、小中学生が担ぐ母衣隊です。 母衣(ほろ)は、戦場で後ろから飛んでくる矢を防ぐために背負う布やカゴの事です。 華やかな装飾を施して現在に受け継がれているのは、全国でも珍しいそうです。 綺麗にお化粧してもらった女の子は、カメラの列に笑顔で応えていました。 「華やかですてきだと思います。きょうは孫が出てるので来たんです。かわいいです」(女性客) 東城の町並みは、城下町の雰囲気を楽しむ人で終日賑わいました。 小早川隆景の直筆書状など展示11月5日 12時26分動画nhk 三原城の築城450年を記念して戦国時代に活躍した武将、小早川隆景の直筆の書状などを公開する特別展が三原市で開かれています。 この特別展は、三原市が三原城の築城450年を記念して、京都市の美術品販売店が所有していた書状を購入したことから企画したものです。 会場には、小早川隆景や毛利輝元直筆の貴重な書状が展示されています。 このうち小早川隆景の書状は、毛利家の家臣、熊谷就真が織田家との戦いの前線に入ったという便りへの返信です。 近く出陣する毛利輝元に相談するよう促すなど、戦況の厳しさが増していく緊迫した様子がうかがえます。 福山市から訪れた36歳の女性は、「メールや電話で気軽に連絡できる今と違い、手紙でどのような貴重なやりとりがあったのかとても興味深いです」と話していました。 この特別展は三原市の「みはら歴史館」で今月26日まで開かれています。 米子城跡で竪堀の遺構か11/11 19:06nhk 米子市の郊外にある戦国時代末期の城跡「米子城跡」で、斜面に沿って上下方向に掘られた「竪堀」と見られる遺構が見つかりました。 米子市教育委員会では、別の尾根で見つかった「登り石垣」とともに城を守るために築かれたものとみてさらに調査を進めることにしています。 これは11日、米子市で開かれた、山陰の城跡に関するシンポジウムで、米子市教育委員会の浜野浩美学芸員が明らかにしました。 それによりますと、ことし4月から行われている米子城跡の発掘調査で、北東側の斜面に沿って上下方向に掘られた「竪堀」と見られる遺構が確認されたということです。 「竪堀」の大きさは底の部分が幅6メートル前後、深さが最大5メートル、長さ80メートル以上あり、山の斜面を回り込んで攻めてくる敵を防ぐために設けられたとみられています。 米子城跡からは去年、山の北側の尾根に沿って築かれた全国でも数例しかない「登り石垣」という石垣が見つかっていて、市教育委員会は、 今回、見つかった「竪堀」と「登り石垣」が天守にいたる「二の丸」を両側から守るために築かれたものとみてさらに調査を進めることにしています。 築城450年記念事業を締めくくる 広島・三原浮城まつり 地域 生活11/05(日) 18:10 掲載 広島県にある三原城築城450年の記念事業を締めくくる、『三原浮城まつり』が5日行われ、甲冑(かっちゅう) 部隊の練り歩きなどで盛り上がりました http://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000000154.htm 「エイエイオー!」の掛け声も勇ましく練り歩きをしたのは、三原城を築城した戦国武将・小早川隆景にちなんだ 「甲冑部隊」。記念撮影を求める観光客も大勢みられました。 今年は毛利3兄弟に縁のある安芸高田市や北広島町などの武将隊のほか、サンフレッチェ広島の アンバサダー・森崎浩司さんも応援に駆け付け、『三原浮城まつり』恒例の練り歩きを盛り上げました。 このほか、祭では、今年2月に始まった三原城築城450年事業の閉幕式も行われ、市内の中学生が伝統の獅子太鼓 を披露したほか、築城500年に向けた未来宣言を読み上げて、1年間の記念事業を締めくくりました。 [12日 18:15]矢掛町で大名行列. http://www.rsk.co.jp/sp/#local_news_20171112_3 旧山陽道の宿場町として栄えた岡山県矢掛町で、矢掛の宿場まつり大名行列が行われました。 昔ながらの町並みが残る岡山県矢掛町です。 大名行列は、江戸時代の宿場町の賑わいを再現したもので、毎年実施されてい---ます。 姫君や奥方役などに公募で選ばれた約80人が参加しました。 一行が旧山陽道の約1.5キロを練り歩くと町は華やかな雰囲気に包まれました。 奴らが毛槍を投げかわすパフォーマンスも披露されました。 まつりには約3万人が訪れ、壮大な歴史絵巻を楽しんでいました。 伊能忠敬の足跡をたどる11/12 19:25nhk 全国各地を歩いて測量に基づいた最初の日本地図を作った伊能忠敬の足跡を実際に歩いて巡るツアーが浜田市で開かれました。 伊能忠敬は江戸時代後期に全国各地を歩いて測量に基づいた日本地図を初めて作ったことで知られ、浜田市にも2度訪れたことが日記に記されています。 その足跡をたどって地元の歴史や土地の成り立ちに興味を持ってもらおうと、浜田市の浜田高校で地理を教えている阿部志朗さんがツアーを企画し、島根県立大学の学生など14人が参加しました。 参加者は伊能の作った地図を手に当時、歩いたと想像されるルートを通ってJR浜田駅からおよそ5キロ離れた下府駅に向かいました。 江戸時代の道は現在の国道や県道などと重なっている部分もある一方で、舗装されずにかろうじて道だったと分かる部分もあります。 また、途中には広島県に続く石畳の街道や峠道などもあって参加者は歴史の流れを感じながら伊能の足跡をたどっていました。 大学3年生の男子学生は、「伊能忠敬が浜田市を通っていたことを知らなかったので、石畳の道などでその歴史を感じました。地形に興味を持てたので、いろいろな所を巡ってみたいと思います」と話していました。 「江戸幕府と徳島藩」の企画展11月8日 5時59分動画nhk 江戸時代に幕府や徳島藩が進めた改革を通して、当時の社会の様子を紹介する展示会が、徳島市で開かれています。 展示会は徳島県立博物館で開かれていて、江戸時代に幕府や徳島藩で改革を進めた人物の肖像画や古文書など、およそ100点が展示されています。 徳島藩の第10代藩主の蜂須賀重喜を紹介するコーナーでは、藩の財政改革を進め、藍の生産や販売に力を入れたことを伝える古文書が展示されています。 また、第11代藩主の治昭を紹介するコーナーでは、この時代の藍商人が使っていた帳簿が展示され、全国の取引先の記載があることから、手広く行商をしていたことがうかがえます。 このほか、アメリカのペリー来航を受けて、江戸の防衛のため徳島藩から藩士が出陣する様子を描いた絵巻も展示され、徳川家と蜂須賀家の結びつきを物語っています。 徳島県立博物館の学芸員、松永友和さんは「江戸幕府と徳島藩の政治的な関係や、当時の社会や暮らしなどに注目して展示を見てほしい」と話しています。 この展示会は、今月19日まで開かれています。 県内の風水害の歴史資料を展示11月8日 6時00分動画nhk 徳島県を襲った台風などの被害を記録した文書や写真を通して災害の歴史を伝える展示会が、徳島市で開かれています。 この展示会は、徳島市の県立文書館が開いていて、江戸時代から現代までに県内を襲った台風などの被害や復旧の状況を記録した文書や写真など58点が展示されています。 県内で300人余りの犠牲者が出た明治25年の水害の被害状況を記した地図は、今の藍住町など吉野川の下流周辺の地域が広い範囲で水につかったことを示しています。 また、昭和9年の室戸台風に関する展示では、今の神山町周辺の家屋の被害状況や復旧工事の内容を記した公文書3点が紹介されています。 このほか、室戸台風によって建物や道路が流された地域の様子や、住民総出で復旧作業を行っている様子などを撮影した写真も展示されています。 県立文書館の金原祐樹課長補佐は「災害を乗り越えてきた歴史を知ることで、今後の災害をもっと自分のこととして考えるようになってほしい」とと話していました。 この展示会は、来年の1月28日まで開かれています。 【児童に関心】漫画「るろうに剣心」作者・和月伸宏、児童ポルノ動画所持容疑で書類送検★9 http:// hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1511262161/ 2017/11/27「みんなのニュース」19:30 動画あさのあつこ氏作 岡山藩物語完成http://www.ohk.co.jp/news/news.php?VNO=2918 [04日 19:10]平賀源内をテーマにしたシンポジウム. https://www.rsk.co.jp/sp/news/#local_news_20171204_4 江戸時代に「エレキテル」を発明したことなどで知られる平賀源内をテーマにしたシンポジウムが、岡山市北区で開かれました。 岡山にゆかりのある蘭学者を紹介しようと、山陽放送学術文化財団がシリーズで企画しているもので、 会場には約250人が訪れました。 今回のテーマは、江戸時代中期に活躍した平賀源内です。 基調講演では、日本女子大学で教授を務める福田安典さんが、エレキテルの発明や、浄瑠璃や戯作の制作など、 平賀源内が残した幅広い分野で---の功績を紹介しました。 シリーズ最終回となる次回は「近代日本を拓いた蘭学者たち」をテーマに、来年2月23日に開かれる予定です。 【歴史戦・第19部 結託する反日(中)】 「徴用工」に注がれる科研費 前文部科学事務次官の前川喜平氏は韓国と同調 ttp://www.sankei.com/images/news/171213/wor1712130007-p1.jpg 「KAKEN」という題字が書かれたデータベースがある。 文部科学省および同省所管の独立行政法人・日本学術振興会が交付する科学研究費助成事業(科研費)により行われた研究の記録を収録したものだ。 ここには次のような情報が掲載されている。 「市民による歴史問題の和解をめぐる活動とその可能性についての研究」(東京大教授 外村大ら、経費3809万円)、 「戦時期朝鮮の政治・社会史に関する一次資料の基礎的研究」(京都大教授 水野直樹ら、同1729万円)、 「朝鮮総動員体制の構造分析のための基礎研究」(立命館大准教授 庵逧〈あんざこ〉由香、同286万円)=肩書は当時。 単年度もあれば複数年にまたがる研究もある。 外村、水野、庵逧の3人に共通しているのは、3月25日に長野県松本市で開かれた「第10回強制動員真相究明全国研究集会」で 「強制連行・強制労働問題」について基調講演などを行ったということだ。 ttp://www.sankei.com/politics/news/171213/plt1712130010-n1.html 徴用工をめぐる韓国側の主張に同調する研究者らに文科省などが助成金を交付していたことを伝えた産経新聞の報道(13日付朝刊)を受け、 党文部科学部会は14日、文科省幹部を呼び説明を受けた。珍しく迅速な動きを見せたが今後も激化する歴史戦に対応できるかは見通せない。 ttp://www.sankei.com/politics/news/171214/plt1712140031-n3.html 赤穂浪士をしのんで松山義士祭2017年12月14日(木)更新itv 12月14日は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日です。 浪士2人の遺髪が収められた松山市内の寺では義士祭が行われ、義士に扮した参加者らが街を練り歩きました。 松山市末広町にある興聖寺では、地元の人たちが赤穂浪士の供養と地域の発展を願い、毎年この日に祭りを開いています。 まず、義士に扮した参加者およそ30人が、ヤリや刀を手に寺や松山市駅の周辺1キロほどを練り歩きました。 そして、四十七士のうち松山藩に預けられていた木村岡右衛門と大高源吾の遺髪が納められた塔の前で参加者が 次々に手を合わせ、忠誠心を胸に戦った浪士たちに思いをはせていました。 また境内では、浪士が討ち入り前夜に食べたという「討ち入りそば」も振舞われ、参加者は師走の寒さの中、 身体を温めていました。 浜田の発展に寄与 港の歴史学ぶ12/17 18:34nhk 江戸時代、浜田市に浜田藩が開かれて再来年で400年になるのを記念し、発展に寄与した港の歴史について学ぶ講演会が開かれました。 この講演会は、江戸時代に浜田藩の発展に寄与した港の役割や歴史について地元の人たちに理解を深めてもらおうと浜田市が開いたものです。 会場の島根県立大学のホールにはおよそ200人が集まり、県立浜田高校の阿部志朗教諭など3人が講師をつとめました。 このうち阿部さんは物品を全国に運ぶ「北前船」が寄港していたことに触れ、取り引きの記録などからいまも特産品として知られる石見焼や石州瓦といった焼き物などが、当時から日本全国に運ばれていたことを紹介しました。 そのうえで、石見焼を船に積む際には当時としては珍しく入れ子状にこん包する方法が用いられるなど、できるだけ多くの品々を運ぶ工夫がされていたことも紹介され、阿部さんは、「北前船の寄港地として、浜田の港は、非常に大きな役割を果たしていた」と指摘していました。 講演会を聞いた地元の女性は、「浜田の物が全国にこんなに広がっていたとは思わず、とても勉強になった」と話していました。 戦没者遺骨収集で水増し領収証…厚労省職員処分 第2次世界大戦の戦没者遺骨を収集する事業で不適切な会計処理があったとして、厚生労働省は26日、職員40人を停職や減給、戒告の懲戒処分とした。 このほか、16人を訓告処分、担当幹部9人を文書で厳重注意とした。 懲戒処分となった職員は、停職1か月が2人、減給2か月(10分の1)が1人、減給1か月(同)が17人、戒告が20人。 会計検査院は、同省の職員60人が2011〜16年度、会計法令に違反して、海外で支払うべき前払い金計約4億5000万円を、国内で旅行会社などに支払っていたなどと指摘。 約30人は旅行会社に計約880万円を水増しした領収証を作成させていた。 http://sp.yomiuri.co.jp/national/20171226-OYT1T50061.html ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も https://www.hokkaido-np.co.jp/article/154416 1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、 根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。 米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、 米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。 振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、 ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、 ともに連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。 米国は45年5〜9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など 計145隻の艦船をソ連に無償貸与。 4〜8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、 艦船やレーダーの習熟訓練を行った。 コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、 ソ連兵の指導に当たったという。 本物か?国宝の金印「漢委奴国王」で研究者が激論 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180121/k10011296541000.html 今からおよそ2000年前の弥生時代に、中国の皇帝から与えられ、江戸時代に見つかったとされている国宝の金印は、はたして本物なのか。 金印を所蔵する福岡市博物館は、本物だとしながらも真がんをめぐるシンポジウムを初めて開き、本物と偽物それぞれの立場をとる研究者が激論を交わしました。 この金印は、福岡市の志賀島で江戸時代に見つかったとされ、「漢委奴国王」という5つの文字が記されています。 今からおよそ2000年前の弥生時代に、中国の後漢の皇帝から九州北部にあった「奴国」の王に与えられたとする見解が定着し、国宝に指定されていますが、後世の偽物ではないかとする説が一部の研究者から出ています。 シンポジウムは、金印を所蔵する福岡市博物館が、本物と偽物それぞれの立場をとる研究者を招いて初めて開き、まず3人の研究者が基調講演で自説を展開しました。 このあと討論が行われ、この中でNPO・工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、文字を彫った痕などが江戸時代に一般的だった印の特徴を備えていると指摘し、「のちに製作された偽物の可能性が非常に高い」と主張しました。 一方、明治大学文学部の石川日出志教授は、中国各地で見つかっている古代の印の形や金の純度を比較した結果、「後漢時代の本物に間違いない」と訴え、偽物説に反論しました。 シンポジウムでは、文字やつまみの形などをめぐって激しい議論が交わされましたが、双方とも最後までそれぞれの主張を譲りませんでした。 福岡市博物館は、金印は本物だとする立場を変えていませんが、今回のシンポジウムについて、有馬学館長は「歴史的な価値が確定したかのように思われている資料でさえ、さまざまな見方ができ、学問的な根拠がぶつかっている。 こうした議論があることを多くの方に知ってもらうことで、文化遺産についての理解が一層深まると思います」と話していました。 日本史より謎な金儲けできる方法とか グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』 2AQ8M 「信長様に早くあいさつを」秀吉の書状発見 3/16(金) 7:10配信 織田信長が中国地方を支配する毛利輝元を攻めた「中国攻め」で、 羽柴(豊臣)秀吉が播磨(兵庫県)の有力武士に宛てた書状が見つかった。 秀吉が播磨を制圧するため、敵を味方に引き入れる調略を行っていたことを示す内容。 この調略は「信長公記」などに記され、その成功で信長は中国攻めの足場を固めたと いわれるが、証明する古文書が見つかったのは初めて。 東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授が昨年末、 インターネットのオークションで落札し、筆跡や内容から本物と判断した。 天正5年(1577年)12月26日に秀吉から播磨の有力武士 「間嶋兵衛尉(まじまひょうえのじょう)」に出された書状で、 文末に「秀吉」の名と花押がある。 信長は天正3年から播磨攻略を進めており、後に秀吉の家臣となる 播磨の黒田官兵衛らが信長の軍門に下っていた。 間嶋は秀吉の調略に応じたが、ほかの武士たちが既に「上様(信長)」のもとを訪れ、 「御礼(服属のあいさつ)」を済ませたのに、間嶋だけがまだ来ないと指摘し、 近日中に信長が上洛する際にあいさつするようせかしている。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180315-00050120-yom-ent 「俺の歴史的大発見を発表させろ!」地方の博物館に急増する“歴史的新発見おじさん”たち 2018年5月27日 14時00分 「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で『自分がやってきた研究成果を発表する機会をつくってほしい』という人が、最近多いんですよね」 そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。 すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、リタイアした団塊の世代による独自研究の「持ち込み」が増加しているという。 「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。でも、だいたいはトンデモ論。 原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同) つづきはソースで https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20180527/Cyzo_201805_post_163508.html とても簡単な稼ぐことができるホームページ 念のためにのせておきます 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 W7N 「俺の歴史的大発見を発表させろ!」地方の博物館に急増する“歴史的新発見おじさん”たち https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201805_post_163508/ 「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で『自分がやってきた研究成果を発表する 機会をつくってほしい』という人が、最近多いんですよね」 そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。 すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、リタイアした団塊の世代による 独自研究の「持ち込み」が増加しているという。 「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。 でも、だいたいはトンデモ論。原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、 一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同) その「発見」の内容もさまざまだ。長らく論争になっている、邪馬台国がどこにあったのかについて 持論を述べる人もいれば、本能寺の変の真相を語る人もいる。だが、もっとも多いのは、その地域に関わるものだ。 「どこの地域でも在野の郷土史家という人はいます。でも、持ち込みをするようなタイプの人は、 そうした人々にも拒否されています。なにせ、地域の古い神社の由緒をもとにオカルトを論じたりとかするんです」(同) そんな中でもヤバいのは縄文時代にまつわる研究だ。 「知っての通り、縄文時代は文字を持たない時代。だから、土器の紋様を見て『これは○○を表現していることが、 “私”の研究でわかった』なんて自信満々に話を始める人が多いんですよ。中には『縄文時代には戦争がなかった』と、 演説を始める人も。どれだけ縄文に夢を見ているのか……」(同) 「ある県立博物館で縄文土器の写真を貸してもらおうとしたら、値段が高かったのでウチに来たという人もいました。 自費出版の本に使いたかったようですが、研究内容はやっぱりトンデモ系。上司が『あなたの主張は、 これまでの多くの研究成果を踏まえていない』と、なんとか断りましたが、顔を真っ赤にさせて帰って行きました」(同) 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 中国では未だに洞窟暮らしの人々もいるけど 日本で村単位の洞窟暮らしは聞いたことがないね その両国の間にある国の生活状況は、もっと酷いけどw 哲学者の梅原猛さん死去 日本古代史に大胆な仮説を展開 ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190114-00000002-asahi-soci 独自の理論で日本古代史に大胆な仮説を展開した哲学者で、国際日本文化研究センター(日文研、京都市西京区)の 初代所長を務めた文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが12日、死去した。93歳だった。 1925年、仙台市生まれ。京都大学哲学科卒業後、立命館大学教授や京都市立芸術大学長などを歴任した。 60年代から日本文化研究に傾倒し、72年に奈良・法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられたとする 「隠された十字架―法隆寺論」を出すと、73年には万葉歌人の柿本人麻呂は流刑死したとする 「水底(みなそこ)の歌―柿本人麿論」を刊行。通説を覆す独創的な論は「梅原古代学」と呼ばれ、 大きな反響を呼んだ。 80年代前半には、日本文化を総合的に研究する中心機関の必要性を訴え、当時の中曽根康弘首相に 直談判するなど政府関係者を説得。日文研の創設にこぎ着け、87年に初代所長に就任した。 社会的発言も多く、日本人の死生観をもとに「脳死」の考え方に強く反対したほか、イラク戦争や 自衛隊の海外派遣の反対、平和憲法擁護なども訴えた。一方で、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の 創作など劇作家としても活動し、多才ぶりを示した。 99年に文化勲章受章。97年から日本ペンクラブ会長を3期6年務めた。2004年には 「九条の会」呼びかけ人となり、11年には東日本大震災復興構想会議の特別顧問となった。 古代史学者の直木孝次郎さん死去 「河内政権論」提唱 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190216-00000056-asahi-soci 戦後の古代史研究をリードし、遺跡の保存運動にも力を尽くした大阪市立大学名誉教授の 直木孝次郎(なおき・こうじろう)さんが、2日に老衰で亡くなっていたことがわかった。 100歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長女東野美穂子さん。 1919年、神戸市生まれ。京都帝国大学(現京都大学)卒。大阪市立大学、岡山大学、 相愛大学などの教授を歴任した。 戦前の歴史観の原典となった日本書紀や古事記への史料批判を通じ、実証を重視した古代史研究を進めた。 研究対象は幅広く、古代氏族や天皇制などについて論文を数多く発表。1964年には、 古墳時代に大阪の河内平野に台頭した勢力が、奈良の大和盆地を拠点とした政権を倒し、 新たな政権を打ち立てたとする「河内政権論」を提唱し、注目された。 大阪市の難波宮(なにわのみや)跡など全国の重要な遺跡の保存や検証に積極的に取り組んだ。 89年に大阪文化賞を受賞したほか、2000年には文化財保護の活動を顕彰する和島誠一賞の 第1回受賞者に選ばれた。03年にはその幅広い活動に対し、井上靖文化賞が贈られた。 万葉集にも関心を持ち、自身でも歌集を出したほか、晩年には、海軍士官として終戦を迎えた 戦争への思いを朝日歌壇に度々投稿した。戦後70年たった15年に入選した 「特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ」は、朝日歌壇賞を受賞した。 著書に「日本古代国家の構造」「日本古代の氏族と天皇」「古代河内政権の研究」など。 山内家の墓所を特別公開03月01日 12時22分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/20190301/8010004510.html 高知市筆山にある江戸時代の土佐藩主、山内家の墓所が、国の史跡に指定されて1日で3年になるのにあわせ、 特別に公開されました。 高知市中心部に近い筆山の山麓に広がる山内家の墓所には、東京で亡くなった15代の山内容堂を除き、初代、 一豊をはじめ、歴代藩主15人の墓が並んでいます。 国の史跡に指定されて3年となる1日、ふだんは入ることができない墓所の一部が特別に公開され、事前に申し込みを した12人が、高知城歴史博物館の担当者の説明を聞きながら回りました。 墓は時代ごとにさまざまな形で、このうち、初代、一豊の墓は「卵塔型」と呼ばれる卵のような形の石がそびえ立っています。 一豊は江戸時代初期、大名の墓の形がまだ定まらない時期に亡くなったため、位の高い僧侶の墓を参考に作られたということです。 また、17歳の若さで亡くなった11代藩主、豊興の墓は、笠がついた「笠付型」と呼ばれる山内家には最も多い形で、 墓に至るまでには参道やちょうず鉢もあり、丁寧な作りとなっています。 参加した人たちは、写真を撮るなどして興味深そうに見ていました。 参加した71歳の男性は「実際に見られて感動しました」と話していました。 高知城歴史博物館では、ことし9月にも山内家の墓所をテーマにした企画展を開催するのにあわせ、墓所の公開を予定しています。 勝賀城は「近世的な城」03月14日 11時06分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190314/8030003260.html 香川県内の山城の中でも規模が大きく、保存状態も良い高松市の「勝賀城」は、城の中心部を囲む土の壁や入口の つくりなどから、戦国時代末期に豊臣氏の配下にあった大名によって改修された可能性の高いことが市の調査で わかりました。高松市の勝賀山にある「勝賀城」は、中世の讃岐の有力な領主だった香西氏が築いたとされています。 主郭と呼ばれる城の中心部の広さは県内の山城の中でも最大級で、保存状態も非常に良く、高松市が国の史跡指定 を目指して平成28年度から調査を続けています。 これまでの調査で、土を盛って築いた壁、土塁で主郭を二重に囲み、さらに、敵に対して側面から攻撃ができるように、 直線状の土塁に角度を持たせた「折」(おれ)というつくりを多数設けていることが確認されました。 また、入り口の前に側面から攻撃ができる空間を設けたり、真っ直ぐに進めないように入り口の両脇の土塁をずらして 喰い違う形にしたりしていることがわかりました。 高松市はこうした防御の工夫を凝らした設計は、近世的な城の特徴を示すもので、「勝賀城」は戦国時代末期に讃岐 に入った豊臣氏配下の大名、仙石氏か生駒氏によって改修された可能性が高いとしています。 高松市では今月21日に「勝賀城」の現地見学会を開くことにしています。 丸亀城 崩落した石垣の撤去開始03月15日 16時24分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190315/8030003275.html 去年、石垣が大規模に崩れた丸亀城で、崩れた場所を補強する応急対策を行うため、崩れた石を撤去する作業が 始まりました。丸亀城では去年、西日本豪雨などによる大雨の影響で城の南西部の石垣が大規模に崩れました。 丸亀市は崩れた場所を補強するため今年2月から応急対策を進め、14日からは工事の支障となる崩れた石を撤去 する作業を始めました。 石は大きいもので重さ1.7トンあり、15日、城の中段にあたる三の丸坤櫓跡の角にあった石を、大型クレーンを使って 1つずつ近くのグラウンドに移動させていました。 丸亀市は、崩れた場所の周辺にある571個の石を撤去し、その後、斜面をモルタルで固めるなどして5月中には応急 対策工事を終わらせたいとしています。 また丸亀市は、崩落した場所を含む城の南西部の石垣の6000個余りの石を本格的に積み直す工事にも早ければ 来月から取りかかりたいとし、2023年度中に終わらせることを目指しています。 丸亀市都市整備部の谷口信夫部長は「工事は順調に進んでいるが、春先は雨や風の影響も受けるおそれがあるため、 安全面に気をつけて必ず梅雨までに応急対策工事を完了させたい」と話していました。 国の登録有形文化財 新たに5つ03月20日 07時46分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20190320/8020004253.html 100年余り前の大正時代に建てられた海陽町の洋館など県内の5つの建物が、新たに国の登録有形文化財に 登録されることになりました。 新たに国の登録有形文化財に登録されることになったのは、海陽町と三好市にある江戸時代から昭和までの5つの 建物です。 このうち海陽町大里の「多田家住宅洋館」は、100年余り前の大正4年、海運業を営んでいた多田家が神戸の洋館を 参考に建てたもので、当時の成人男性の教育組織「若者組」の拠点となる「若衆宿」として使われました。 建物は、寄棟造り木造2階建てで、正面2階の突き出た部屋を利用した玄関ポーチや、窓の上に施された 「ペディメント」と呼ばれる、西洋建築でよく見られる三角形の装飾などが特徴です。 このほか、江戸時代の中ごろに建てられた三好市東祖谷の農家の母屋「ち庵」や、昭和9年に建てられた街道沿いの 雑貨店「河井百貨店」なども国の登録有形文化財に登録されます。 登録有形文化財への登録は、年内にも正式に決定される見通しで、県内の国の登録有形文化財はこれで190件に なります。※「ち」は竹かんむりに、「盾」の「十」「目」の部分が「虎」。 披雲閣「蘇鉄の間」耐震補強へ03月27日 18時22分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190327/8030003356.html 国の重要文化財に指定されている高松城跡の「披雲閣」の耐震化に向けて、高松市は、利用者が多い「蘇鉄の間」 と呼ばれる部屋を鉄骨フレームなどによって補強する方針を決めました。 高松城跡の「披雲閣」は、歴代藩主だった松平家の別邸として大正6年に建築された書院造りの建物で、国の 重要文化財に指定されています。 高松市は、耐震診断の結果に基づいて「披雲閣」の主な5つの部屋の補強案をまとめ、27日、「披雲閣」で開いた 専門家による会議で説明しました。 これらの案は、文化財としての価値を考慮して、できるだけ目立たないかたちで震度6強以上の地震にも耐えられる ように補強するものです。 会議の結果、イベントなどで利用する人が多く緊急性の高い「蘇鉄の間」については、鉄骨フレームを縁側の柱に そわせて設置するなどして補強する方針が決まりました。 高松市は、新年度に「蘇鉄の間」の耐震補強の実施設計を行い、再来年度から工事を始める予定です。 また、最も広い、およそ140畳の「大書院」については、西側の使われていない小部屋と廊下や東側の外壁に鉄骨 フレームを設置する案を中心にさらに検討を行うことになりました。 高松市では「大書院」などほかの部屋についても今後、補強の方針を決め、順次、耐震化を進めていくことにしています。 明日から一般公開される尼崎城。 ニュースでやってるけど、前途多難。 3D体験とか着物の着付けとか、如何にもな演目を並べてるけど、 運営に年間一億もかかるってのがそもそも間違ってる希ガス。 暇なジジババがボランティアにやってきやすい環境を考え、何の魅力も感じられない施設を省いて、 人件費や光熱費を下げる努力をしないと、 数年で市のお荷物になる予感しかしねぃ… 丸亀城修復に寄付1億7千万円余03月28日 06時41分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190328/8030003358.html 去年西日本豪雨などの影響で、石垣が大規模に崩落した香川県の丸亀城の石垣の修復の費用にあてるため、 地元の丸亀市に寄せられた寄付金はこれまでに1億7000万円余りにのぼり、支援の輪が広がっています。 丸亀城は、去年の西日本豪雨や相次ぐ台風の影響で城の南西の石垣が大規模に崩れていて、丸亀市によりますと、 修復には少なくとも31億円余りの費用がかかる見込みだということです。 このため丸亀市は、石垣の修復の費用に充てるため、去年10月からふるさと納税や市内を中心におよそ120か所に 設置した募金箱などで寄付金を募っています。 丸亀市によりますと、企業や個人からの寄付金が相次いで寄せられた結果、寄付金の総額は26日の時点では 1億7200万円余りにのぼっています。 内訳は、企業や個人などから直接市に寄せられた寄付金がおよそ9900万円、ふるさと納税が6100万円余り、 銀行口座への振り込みがおよそ840万円、募金箱の募金が320万円余りとなっています。 丸亀市は「寄付金は全国から寄せられ、丸亀城が全国の人たちから愛されていることがわかった。 応援に応えられるよう全力で修復に取り組んでいきたい」とコメントしています。 松山城の麓でチャンバラ合戦03月24日 12時31分ttps://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20190324/0003349.html 松山城のふもとの公園で、およそ250人が敵味方に分かれてチャンバラの合戦を楽しむイベントが行われました。 このイベントは、チャンバラを通じて楽しく体を動かしてもらうとともに、松山市の観光名所の松山城をPRしようと、 愛媛県内で初めて行われました。 松山城のふもとにある城山公園の広場では、午前の合戦に、親子連れなどおよそ250人が参加しました。 中には、手作りのかぶとを用意してきた気合い十分の子どももいて、参加した人たちは愛媛県のイメージキャラクター の「みきゃん」軍と「ダークみきゃん」軍に分かれて合戦の時を待ちました。 そして、「戦、開始」の合図とともに、スポンジでできた刀を持って一斉に敵陣に突撃していました。 チャンバラ合戦は、腕にくくりつけたボールを落とされるまで戦うことができ、およそ5分の制限時間内に何人 勝ち残れるかや各陣営の大将の「みきゃん」と「ダークみきゃん」を討ち取れるかなどで勝敗を競います。 合戦は4回行われ、参加した人たちは青空のもと、さかんに刀を振るっていました。 松山市から参加した8歳の男の子は「楽しかったです。敵は倒せなかったけど、逃げ回って勝ち残ることができました」 と話していました。このイベントは、午後も行われます。 高松城天守の模型寄贈される04月02日 18時15分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190402/8030003404.html 東京の愛好家が作ったおよそ60分の1の大きさの高松城の天守の模型が、高松城跡の玉藻公園に寄贈されました。 高松城は、堀に海水を引き入れた水城として知られていますが、5階建てで四国で最も大きかった天守は、明治17年 に取り壊され去年、天守の復元を求める10万人分の署名が市に提出されています。 2日は国の史跡に指定されている高松城跡の玉藻公園で、東京に住む愛好家の長谷川進さんが作った高さ70センチと、 およそ60分の1の大きさの天守の模型が公園を管理する団体に引き渡されました。 模型は長谷川さんが専門誌に掲載された図面などをもとに、およそ8か月かけて木材や紙で製作したもので、天守の 外壁が外側に張り出した「石おとし」や自然の石をそのまま積み上げる「野面積み」という手法でつくられた石垣など 細部まで再現されています。 長谷川さんは「高松城の洗練された造りを多くの市民のみなさんに見てもらって、これなら復元しようという1つの目安 にしてもらいたい」と話していました。この模型はきょうから玉藻公園の中にある「陳列館」に展示されています。 松山城天守で子ども能楽03月28日 18時24分ttps://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20190328/0003379.html 子どもたちが伝統芸能の能楽を披露する発表会が、松山城の天守で開かれました。 ことしで11回目を迎えた発表会には、2歳から中学3年生までの県内の子どもたち56人が参加しました。 子どもたちは松山城の天守に設けられた能舞台で、2人以上で声をあわせて謡う「連吟」や、謡にあわせて扇をかざし ながらすり足で舞う「仕舞」を披露しました。 松山は、江戸時代に松山藩をおさめていた松平家や、正岡子規をはじめとする俳人たちが能楽をたしなんだと伝わる など古くから能楽が盛んな地として知られています。 今回初めて参加した2歳の女の子は、「緊張したけど楽しかった、また出たいです」と話していました。 会を主催した愛媛能楽協会の中岡紘子理事は、「愛媛は俳句の街だと広く知られているが、能楽も盛んだということを 伝えたい。子どもたちに未来へと継承していってほしい」と話していました。 高知城花回廊を前に設営作業04月05日 12時05分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/20190405/8010004760.html 夜の高知城を灯籠の明かりや生け花で鮮やかに彩る高知城花回廊が5日夜から始まるのを前に、会場では生け花の 設営作業が行われています。 この催しは、華やかに彩られた夜の高知城を楽しんでもらおうと、高知市観光協会が春の観光シーズンにあわせて 毎年この時期に開いています。 城の正門にあたる追手門から天守閣までの道には、15の流派による生け花が展示されることになっていて、5日夜 からのスタートを目前に控え、5日朝から設営作業が進められています。 このうち、青蘭流の生け花は、トルコギキョウや菜の花といったピンクや黄色などの鮮やかな草花が使われていて、 師範たちが、色のバランスや全体の形を細かく確認しながら丁寧に生けていました。 また、嵯峨御流は、高知城の満開の桜を背景に、柳などを使って川辺の風景を再現していました。 高知市観光協会の土居慧さんは「ふだんは入れない夜の高知城を、満開の桜と生け花とともに楽しんでほしい」 と話していました。高知城花回廊は、5日から7日までの3日間、午後6時から開かれます。 松山春まつり 大名武者行列2019年04月07日(日)更新ttps://www.itv6.jp/n-st-ehime/news_detail.php?date=20190407&no=0001 松山に春を告げるイベント「松山春まつり」が、7日、最終日を迎え、恒例の大名武者行列では、 地元ゆかりの武将や姫に扮した市民らが、勇壮な時代絵巻を披露しました。 7日の大名武者行列では、公募で集まった市民およそ200人が、地元ゆかりの武将や家来に扮し、 松山市のロープウェイ街から千舟町通りまでのおよそ1.5キロを練り歩きました。 今年は、ゲストにお笑いトリオのダチョウ倶楽部が招かれ、松山城主の加藤嘉明に扮する上島竜兵さんが、 家臣役の肥後克弘さんと寺門ジモンさんとともに現れると、沿道に詰めかけた人たちから、熱い声援が送られていました。 訪れた市民や観光客らは、勇壮華麗でコミカルな時代絵巻を心行くまで楽しんでいました。 ダチョウ倶楽部登場 大名行列「や〜!」(4月7日17時59分)ttp://www.ebc.co.jp/news/data/index.asp?sn=6943 松山春まつりは7日最終日を迎えました。 名物の大名武者行列には人気お笑いタレントのダチョウ倶楽部も登場し、大勢の見物客を楽しませました。 松山春まつりを締めくくる恒例の大名武者行列で今年、ゲスト出演したのは人気お笑いタレントのダチョウ倶楽部。 松山城主の加藤嘉明役を上島竜兵さんが務め、市民およそ200人が扮した豪華な着物姿のお姫様や甲冑姿の 武士を従えて、大街道や千舟町通りなどを練り歩きました。 沿道には大勢の見物客が詰めかけて豪勢な時代絵巻を楽しみ、特にダチョウ倶楽部が現れると手を振ったり写真や 映像に収めたりして、松山の春を満喫していました。 ■2019年04月11日(木)宇和島城登城記念の印状が登場11:31 ttp://eat.jp/news/index.html?date=20190411T113102&no=6 宇和島城の登城記念印状が誕生しました。10連休初日の27日から販売開始です。 宇和島城登城記念印状には宇和島伊達家の家紋があしらわれています。 県内では、松山城や大洲城で登城記念符などが販売されていますが宇和島城でも「何か記念にするものはないか」 という観光客からの声を受け、今回宇和島市が制作しました。 宇和島城登城記念印状は税込み300円で、10連休初日の今月27日午前9時から宇和島城天守で販売を開始します。 天赦園で“ノボリフジ”咲き始める(4月12日10時47分)ttp://www.ebc.co.jp/news/data/index.asp?sn=6970 国の名勝に指定されている宇和島市の天赦園で、白玉藤が咲き始め園内には甘い香りが漂っています。 宇和島・伊達家ゆかりの日本庭園天赦園で、池にかかる長さ20メートル、幅4メートルのアーチ状のフジ棚に可憐な 白い花が咲き始めました。 一般にフジの花は下に垂れますが、この白玉藤は上に向かって花を咲かせるため“ノボリフジ”と呼ばれます。 今年は去年より1週間ほど遅い先週末から咲き始め、現在5分咲きで緑の多い庭園内でもひときわ目を引きます。 “ノボリフジ”は今週末が一番の見ごろになりそうです。 天赦園の「上り藤」が見頃04月12日 13時00分ttps://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20190412/0003462.html 宇和島市にある日本庭園「天赦園」で、アーチ状の藤棚に玉のような白い花を咲かせる「上り藤」がいま、見頃を迎えて います。「天赦園」は、江戸時代末期に宇和島藩の7代藩主、伊達宗紀が隠居の場所として設けた日本庭園です。 伊達家の祖先が藤原氏とされることにちなんで園内には6つの藤棚があります。 このうち、池に架かるアーチ状の太鼓橋式の藤棚は、今月上旬から白い玉のような花が咲き始め、現在は五分咲きと なり見頃を迎えています。 この藤は、「白玉藤」という品種で上向きに花をつけることから「上り藤」として地元で親しまれています。 訪れた人たちは、藤のそばで花に顔を近づけて香りをかぐなどして楽しんでいました。 仙台市から訪れた20代の女性は「同じ伊達家ゆかりの場所に来られてよかったです。 近づいて藤のにおいも実感することができました」と話していました。 天赦園の上り藤の見頃は今月20日ごろまで続くということです。 「衆鱗図」を8K映像で 内覧会04月26日 18時05分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190426/8030003573.html 江戸時代に魚を独特な技法で描いた「衆鱗図」(しゅうりんず)などを収めた高松藩の「博物図譜」(はくぶつずふ)を、 NHKが4Kと8Kカメラで撮影した映像とあわせて公開する企画展の内覧会が、26日、高松市で開かれました。 香川県立ミュージアムで開かれた内覧会には、関係者や招待客など100人余りが参加しました。 はじめに、「博物図譜」を所有する高松松平家の14代当主、松平頼武さんが「江戸時代の文化・芸術を間近で見ることが できるいい機会なので、多くの人に見に来てほしい」とあいさつしました。 「博物図譜」は、江戸時代の高松藩5代藩主の松平頼恭が作らせた図録で、魚・鳥・草花・樹木の4種類に分かれ あわせて2000以上の図が収められています。 内覧会では、参加者が学芸員の説明を聞きながら、「博物図譜」の繊細で実物に忠実な描写に見入っていました。 また、企画展では、「衆鱗図」をNHKが4Kと8Kカメラで撮影し、従来のハイビジョンより高画質な 「4K・8Kスーパーハイビジョン」で映し出す企画もあわせて行われています。 高松市から訪れた60代の女性は「当時の細かい描写がはっきりと見えて、色合いも鮮やかで驚きました」と話していました。 この企画展は27日から来月26日まで県立ミュージアムで開かれています。 ■2019年04月29日(月)村上海賊の合戦図公開11:28 ttp://eat.jp/news/index.html?date=20190429T112811&no=3 村上海賊最大の海戦といわれる木津川口の戦いを描いた合戦図が、今治市の村上水軍博物館で公開されています。 公開されたのは、縦74センチ、横108センチの「難波船軍図」です。 1576年に、村上海賊が加わった毛利の水軍が、木津川口で織田信長の水軍を撃破した合戦を描いたものです。 合戦図は兵庫県在住の歴史資料収集家の男性が村上水軍博物館に預けたもので、男性は、 「郷土の歴史を多くの人に知ってほしい」と話しているということです。 この「難波船軍図」は6月23日まで今治市宮窪町の村上水軍博物館で一般公開されています。 登戸で殺された2人のうちの一人、外務省の公務員てことで、 気の毒から一転、ざまぁ、ってならなきゃいいけど 竹田恒泰が作った『中学歴史 検定不合格教科書』は間違いだらけの妄想ファンタジー!百田尚樹に続きトンデモ日本史本ビジネス https://news.biglobe.ne.jp/domestic/0621/ltr_190621_8918446446.html 文科省は実質的に「不合格」となった教科書の出版社名など、具体的な情報を公開してこなかったが、それこそ、竹田サンが「国史教科書」と題し、 中学校の社会教科(歴史分野)で申請したシロモノ。そして、この“出来損ないの教科書”を一般向けに売り出したのが、いまAmazonで売れている『不合格教科書』の正体なのだ。 もう、出版にいたる経緯からしてキナ臭いが、読んでみると、実際に戦前の「国史」教育を意識したトンデモ本だった。たとえば、一般的な日本史の教科書では、 旧石器時代から古墳時代までを「原始・古代」として土器等の発掘物や古代中国の史書などをもとに概説する。ところが、『不合格教科書』が第一章に もってくるのは「神代・原始」。つまり、天地開闢の日本神話(ファンタジー)からスタートするのである。 これだけでもクラクラしてくるが、さらに読んでいくとグッタリするのが、とても教科書とは思えない誤字脱字や初歩的ミス、誤謬の多さだ。 たとえば、『不合格教科書』では、1882年に渡欧した伊藤博文について〈ドイツのワイマール憲法などを参考に憲法について学びました〉と書かれているのだが、これはウソ。 伊藤らによる大日本帝国憲法制定に影響を与えたのはプロイセン憲法だ。というか、ワイマール憲法は当時まだ生まれてすらいない(だいたい、直後に〈ワイマール憲法とは、 第一次世界大戦に敗北したドイツ帝国が崩壊したあとに制定されたドイツ憲法のことです〉と自ら解説している時点で誤り気がつきそうなものだが……)こんな初歩的な間違いを犯すって、 普通に考えてヤバくないか。 他にも、昭和天皇について〈〔前略〕病に伏してしまわれ、そのまま御恢復になることなく、昭和六十四年一月九日に崩御あそばされました〉とあるが、事実ではない。 昭和天皇の崩御は1989年1月7日の早朝だ。仮に単なる誤植だとしても、民族派や天皇絶対主義者が見たら烈火の如く怒りそうな間違いではないか。 外務省、公開済み内容を「不開示」に 沖縄返還文書など ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191027-00000005-asahi-pol 外務省が情報公開請求に対して不開示とした文書と同じ内容が、すでに公開されていることがわかった。 朝日新聞が日米関連の文書の開示請求をしたが、安全保障などを理由に開示していなかった。 公文書をめぐる問題が続く中、文書のずさんな扱いが情報公開範囲を不当に狭める実態が浮かび上がった。 問題の文書の一つは、1968年7月15日付の「沖縄返還問題の進め方について」。 72年に実現する沖縄返還に向け外務省の東郷文彦アメリカ局長が対米交渉方針を5枚にまとめ、 作成当時は極秘とされた。 朝日新聞は、70年前後の日米安保協議を検証するため当時の文書を2017年に情報公開法に基づき開示請求し、 外務省が一部を開示。この文書が含まれていたが、表題がある1枚目を除きほぼ墨塗りがされた。 外務省は30年経った文書の原則公開を規則で定めるが、この文書の不開示部分に関し、 明かせば「国の安全が害される」「米国等との信頼関係を損なう」などのおそれがあると主張。 朝日新聞が総務省の情報公開・個人情報保護審査会への審査を求めた結果、開示すべきだと判断され、 外務省は今年8月に開示した。 新たに開示された部分は、沖縄返還交渉の焦点だった緊急時の米側の核持ち込みをめぐる記述だった。 朝日新聞が研究者に確認取材をしたところ、これと同じ内容の文書を外務省が10年から公開していることがわかった。 民主党政権下であった過去の日米両政府間の密約調査を機に開示されたものだった。 信長、秀吉らの書状は「実物」 歴史を塗り替える発見か https://news.infoseek.co.jp/article/postseven_1488072/ 愛知県豊橋市はこのほど、市内の神社に伝わる古文書の中から、織田信長、豊臣秀吉ら 戦国武将の直筆書状を発見した。歴史作家の島崎晋氏は、発見されたうち、足利幕府2代将軍 義詮(よしあきら)の直筆書状が特に重要だと指摘する。 去る11月6日、愛知県豊橋市図書館などからなる調査グループにより、かねて文化財に指定するかどうかの 鑑定を進めていた同市の羽田八幡宮所蔵の古文書8点について驚くべき発表がなされた。 筆跡や花押(サイン)、朱印(捺印)の形態などから、8点のうち5点が実物で、 なおかつそのうち3点は、日本史上の重要な出来事を記した貴重な史料であるというのだ。 実物というのは贋作や写しでないどころか、誰の直筆かも特定できたということで、 なかでも特別価値の高いのが織田信長、豊臣秀吉、足利義詮のものだという。 今回確認された豊臣秀吉の書状は、朝鮮出兵に出る前の宇喜多秀家、細川忠興、長谷川秀一の3大名に宛てたもので、 「風向きが良くなったら、海を渡って朝鮮へ行くように」「遠路はるばる代官所に来たら食事をとらせるように」 「連れて行った召使の女にもきちんと給料を与えるように」といった趣旨の細かな指示が長々と書かれている。 長い文章を書くのは秀吉常套のやり方で、調査グループの一員でもある愛知大学文学部の山田邦明教授は、 そこに込められた狙いについて、テレビの取材に応えこう述べている。 「秀吉は百姓の息子なのですね、皆にバカにされているわけですよ。それが自分より血統のいい人を 支配しなくてはいけないという大変なことになって、ことさら大きな紙を使ってみたり、 あるいはいっぱい書きまくってみたりと、策略ですね」(東海テレビ『ニュースOne』11月6日放送) 【独自】武田信玄から織田信長への感謝状発見「お味方くださること、頼もしく」 ttps://www.yomiuri.co.jp/culture/20200113-OYT1T50007/ ttps://www.yomiuri.co.jp/media/2020/01/20200113-oyt1i50000-1.jpg 東大史料編纂所教授の山本博文さん死去 テレビでも活躍 ttps://www.asahi.com/articles/ASN3Y62WXN3YUCLV001.html 山本 博文さん(やまもと・ひろふみ=東京大史料編纂〈へんさん〉所教授・日本近世史)29日、 腎盂(じんう)がんで死去、63歳。葬儀は近親者で行う予定。喪主は妻亜津子さん。しのぶ会の開催は未定。 江戸時代の武士や大名の生活をユーモラスに描き、92年「江戸お留守居役の日記」で 日本エッセイスト・クラブ賞受賞。テレビ番組でも活躍した。 こいつ出鱈目ばかり書き散らしてくさった奴だった でも死ねばみな仏だ スダレスガ「強盗トラブルでアベコロナが大爆発や よっしゃ、よっしゃあ」 東京大学は、派遣職員の女性に対し1年余りにわたって体を触るなどのセクハラ行為やパワハラ行為を繰り返したとして、50代の男性教授を停職4か月の懲戒処分にしました。 懲戒処分を受けたのは、東京大学の研究所に所属する50代の男性教授です。 大学によりますと、男性教授は派遣職員の女性に対し、恋愛感情を示して体を触ったり繰り返し性的な言動を行ったりしていたということで、女性がたびたび「やめてほしい」と訴えたものの、1年余りにわたってこうした行為が続いたということです。 また教授は、職場での優位な立場を背景に、女性に対し「派遣の契約の更新を迷う」などと伝えたほか、休日や深夜に業務と関係のないメールを送って返信を求めるなど、精神的な苦痛を与える行為を繰り返したということです。 東京大学によりますと、教授は一部の行為は認めていないということですが、大学は、セクハラ行為とパワハラ行為にあたるなどとして、停職4か月の懲戒処分にしました。 東京大学は「あるまじき行為であり、決して許されるものではない。大学として厳粛に受け止め、再発防止にあたっていく」とコメントしています。 東大文系は御用学者育生用バカ朝鮮人だ 理系は流石にバカ朝鮮人には無理 https://www.jiji.com/jc/article?k=2021062500518 大和岩雄氏死去 大和書房創業者、古代史研究家 2021年06月25日11時26分 大和 岩雄氏(おわ・いわお=大和書房創業者、古代史研究家) 20日午前5時15分、心不全のため東京都内の病院で死去、93歳。長野県出身。葬儀は近親者で済ませた。 喪主は次男で大和書房代表取締役会長の謙二(けんじ)氏。 長野師範学校(現信州大)卒。61年7月に大和書房を創業し、 63年刊行の「愛と死をみつめて」が130万部を超えるベストセラーになった。 古代史研究でも業績を残し、「古事記成立考」「鬼と天皇」「秦氏の研究」など多数の書籍を執筆した。 5/20 行基の供養堂か 平城京跡西側から回廊に囲まれた円形遺構 https: //www.sankei.com/life/amp/210625/lif2106250001-a.html 7/6 「毛原廃寺」西方の建物跡、規模が判明 全面に廂の仏堂か 奈良 https://news.yahoo.co.jp/articles/58690648d91bd4b841015773f27621eb52e3aa9e 文献も残っていない“謎の大寺”発掘調査で新たに建物の規模判明 仏堂としての役割か https://www.mbs.jp/news/sp/kansainews/20210706/GE00039128.shtml 奈良の山中「謎の大寺」に仏堂 「毛原廃寺跡」の西側 https: //rd.kyodo-d.info/np/2021070601000932 7/8 「謎の寺院」付近新たな遺構 https: //www.nikkei.com/article/DGKKZO73678000Y1A700C2CE0000/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる