日本史ニュース速報 4
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日本史ニュース速報 3
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284625158/ 岩国の鉄砲隊が出前授業06/12 20:19nhk
小学生たちが武士のかっちゅうを身につけたり本物の火縄銃に触れたりして歴史を学ぶ授業が岩国市で行われました。
この授業は、岩国市の中洋小学校が毎年、社会の科目で行っていて、12日は6年生20人が参加しました。
体育館で行われた授業では、地元の鉄砲隊の保存会のメンバーが、およそ200年前の江戸時代に作られた本物の火縄銃を使って、銃の撃ち方を説明したり戦国時代の三段撃ちの様子を再現したりしました。
このあと児童たちは、鉄で作られたレプリカのよろいとかぶとを身につけ、火縄銃を構えて撃ち方を学びました。
かっちゅうと火縄銃をあわせると重さは15キロにもなり、身につけた児童たちは動きにくそうにしながら一生懸命に銃を構え、記念写真を撮影していました。
体験した男子児童は「かっちゅうと火縄銃がとても重くて、これで戦うのは大変だと感じました」と話していました。
授業の講師を務めた岩国藩鉄砲隊保存会の村河多丸会長は、「今回の体験を通じて戦国時代などの歴史をより学んでほしい」と話していました。 宇和島信金が絵本作成2017年06月16日(金)更新itv
郷土の歴史を子どもたちに知ってもらおうと、宇和島伊達家ゆかりの人物を題材にした絵本が制作されました。
この絵本は、宇和島信用金庫が制作したもので、15日、宇和島市で園児たちが参加してお披露目会が開かれました。
制作された絵本は、宇和島伊達家2代藩主、宗利の娘、豊姫を題材にしたもので、長野県の真田家に嫁ぐ際、
宇和島を偲んで持ち込んだアンズが地域に根付いたという逸話を紹介しています。
宇和島伊達家を題材にした絵本はこれで3冊目で、およそ2万部が制作され市内の小中学校や幼稚園などに配布されるほか、
真田家の松代藩があった長野県千曲市にも寄贈されます。 伊達家ゆかりの人物絵本06月16日 08時32分nhk
宇和島藩を治めた宇和島伊達家ゆかりの歴史上の人物を子どもたちにわかりやすく紹介する新たな絵本が制作されました。
この絵本は、宇和島市の歴史を子どもたちにわかりやすく伝えようと、市内に本店がある宇和島信用金庫が中心となって制作したものです。
宇和島伊達家ゆかりの人物を紹介する絵本としては3作目で、今回は宇和島伊達家2代藩主の娘、豊姫を取り上げています。
豊姫は、現在の長野県千曲市にあたる松代藩の真田家に嫁ぎましたが、豊姫が持ち込んだ一粒のあんずの種がその後広く栽培されるようになり地域の特産品となったことを紹介しています。
宇和島市では絵本のお披露目会が開かれ、集まった地元の園児およそ30人に絵本が手渡されました。
この絵本は2万部制作され、宇和島市内のすべての小中学校と幼稚園や保育園などに寄贈されます。
宇和島信用金庫の村尾明弘理事長は、「豊姫についてはあまり知られていないが、姉妹都市として千曲市との交流も続いています。絵本で伊達家の歴史を再認識してもらいたい」と話していました。 松山城本丸の壁に傷、ゴルフボールか2017年06月26日(月)更新itv
26日午後、松山城本丸にある乾門付近の壁にゴルフボールがうち込まれたような傷が12か所付いているのが見つかり、警察が器物損壊の疑いで調べています。
松山市によりますと、きょう午後2時ごろ、松山城本丸にある乾門付近の漆喰の壁にくぼんだ傷が複数、ついているのを、工事現場に向かっていた業者の職員が発見しました。
傷は直径3センチほどの円形で、目視ではっきり分かるものだけで、12か所確認されたということです。市によりますと、ゴルフボールがうち込まれたと見られ、通報を受けた警察では器物損壊の疑いで調べています。 松山城を一斉点検、落書きも2017年06月27日(火)更新itv
松山城本丸の壁にゴルフボールのようなものが打ち込まれた跡が見つかったことを受け、松山市が27日、城内の一斉点検を行った結果、壁の2か所で落書きが確認されました。
27日、松山市の職員ら5人が、松山城の本丸とその周辺の天守閣などの重要文化財21棟のほか、やぐらや門、土塀などを点検しました。
この点検は、きのう午後、本丸にある乾門東側の漆喰の壁にゴルフボールが打ち込まれたと見られるくぼみなどが見つかったことを受け、急きょ行われました。
こちらの壁では、11か所でくぼみが確認されたほか、瓦が1枚欠けているのが見つかりました。いずれもゴルフボールがぶつけられたことによる傷と見られています。
通報を受けた警察は建造物損壊の疑いで捜査していて、場内の防犯カメラを解析するなどして調べています。
点検の結果、新たに破損している箇所は見つかりませんでしたが、本丸の壁2か所で落書きが確認されました。落書きはフェルトペンで書かれていて、人の名前や日付などが記されていました。
ゴルフボールによると見られるくぼみや落書きが見つかったのは、国の重要文化財に指定されている乾櫓の近くの土塀ですが、いずれも1982年に再建されたもので重要文化財ではないということです。
松山市では、被害を受けた壁の修復について近く協議するほか、城内の見回りを強化する方針です。 司馬遼太郎の自筆原稿見つかる06月26日 08時06分nhk
小説家、司馬遼太郎の作品で、四国にゆかりの深い「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」などの直筆の原稿が見つかり、執筆の過程が分かる貴重な資料として注目されています。
これは先週23日、大阪・東大阪市にある司馬遼太郎記念館が発表しました。
見つかったのは、司馬遼太郎が昭和37年以降に新聞に連載し、四国にもゆかりが深い、▽「坂の上の雲」の初回を含む6回分と、▽「竜馬がゆく」の最終回を含む5回分の直筆原稿、あわせて47枚です。
記念館によりますと原稿はこれまで行方が分からなくなっていましたが、今回、東京の古書店で見つかったということで、「竜馬がゆく」の直筆原稿が見つかるのは初めてだということです。
この「竜馬がゆく」の最終回の原稿では竜馬が死を迎える場面で、当初、「惜しむように」としていた表現を「惜しげもなく」と書きかえていて司馬遼太郎が竜馬の最期をより印象的に伝えようとして推こうを重ねていたことがうかがえます。
司馬遼太郎記念館の上村洋行館長は「見つかった原稿は2作品とも特に重要な場面が書かれている。
当時の執筆の過程を知ることができる貴重な資料だ」と話していました。
見つかった原稿は、7月1日から8月31日まで司馬遼太郎記念館で公開されます。 松江城築いた堀尾吉晴の銅像を清掃07/02 20:09nhk
松江城を築いた戦国の武将、堀尾吉晴の銅像を美しく保とうと、およそ100人のボランティアが銅像や城の周辺の清掃を行いました。
堀尾吉晴は、豊臣秀吉や徳川家康などに仕えた戦国の武将で、今からおよそ400年前の江戸時代初期に松江城を築いたことで知られています。
松江城の大手前には堀尾吉晴の功績をたたえて4年前に銅像が建てられ、毎年この時期に地元のボランティアが清掃を行っていて、
4月の松江武者行列で堀尾家の役を務めた武者隊など、およそ100人が集まりました。
銅像の高さはおよそ6メートルあるため、電力会社が電線の点検などを行う作業車を出し、中国電力の作業員が銅像の頭や肩などに水をかけながらていねいに磨いていました。
また、ボランティアたちは銅像の台座についたこけをとったり、城の案内板の汚れをぞうきんで拭き取ったりしていました。
清掃を行っている松江堀尾会の鷦鷯修一会長は、「多くの人が清掃に参加してくれて銅像がきれいになったのでうれしい」と話していました。 北前船フォーラム07/14 18:27nhk
江戸時代から明治時代にかけて日本の海運を支えた「北前船」のかつての寄港地の関係者が集まって地域活性化について考えるフォーラムが14日から岡山市で始まりました。
岡山市北区で始まったフォーラムには、「北前船」の寄港地だった自治体や観光業の関係者およそ500人が参加しました。
「北前船」は江戸時代から明治時代にかけて、大阪と北海道を結んだ海運を支えた商船で、県内では倉敷市の下津井地区や、玉野市の日比地区などが寄港地としてにぎわいました。
フォーラムでははじめに高梁市出身で「ANAホールディングス」の大橋洋治相談役が講演し、「北前船は単なる物流にとどまらず、各地の民謡や調理方法など文化も運んだ意義深いものだ。その歴史を今の交流にもいかしていこう」と述べました。
新潟県佐渡市の観光協会の担当者は、「ふだん出会えない全国各地の方と交流できて、さまざまな取り組みを学べるので興味深く参加しています」と話していました。 [14日 19:10]岡山県立美術館 傑作浮世絵そろい踏みrsk1
東海道五十三次や人物画など、浮世絵の名作を集めた企画展が岡山市北区の岡山県立美術館で始まりました。
開会式には関係者が出席し、テープカットで祝いました。
会場には、人物画や風景画などの浮世絵約200点が展示されています。
今回の見どころは、歌川広重の「東海道五十三次」です。
東京の日本橋から京都までの道中の風景を描いた作品55点を一度に鑑賞することができます。
他にも東洲斎写楽や葛飾北斎といった江戸時代を代表する浮世絵師たちの作品が訪れた人の目を楽しませています。
「傑作浮世絵揃い踏み平木コレクション」は8月27日まで、岡山県立美術館で開かれています。 新選組の史料見つかる 蛤御門の変当時「豪農宅で宿営」
元治元(1864)年7月に起きた「蛤御門(はまぐりごもん)の変」当時の新選組の動向をつづった日記が、京都府南区の長谷川家住宅(国登録有形文化財)で見つかった。
調査した中村武生・京都女子大非常勤講師(幕末政治史)が発表した。新選組が当時の東九条村(現・南区東九条)の豪農宅に宿泊しながら街道警護に当たったことや、
村付近で長州勢と鉄砲を撃ち合って勝ったことなどが記されている。
元記事
http://www.asahi.com/articles/ASK7L627KK7LPLZB01Z.html 川原慶賀の絵画展08/12 19:04nhk
江戸時代、シーボルトのお抱え絵師として、植物を忠実に描いた作品で知られる川原
慶賀の絵画の展示会が、下関市で開かれています。
川原慶賀は、ドイツ人医師のシーボルトのお抱え絵師として、長崎の出島の出入りを
許され、当時、博物学者でもあったシーボルトの求めに応じて、植物を描写した写実
的な作品を数多く残しています。
作品の多くは、シーボルトがオランダに持ち帰りましたが、下関市立美術館で
開かれている展示会には、ロシア科学アカデミー図書館が所蔵する川原慶賀の植物の
絵、125点が展示されています。
このうち「トウガン」は、とうがんの実や茎や葉の形や色だけでなく、それらに
びっしりと生えたうぶ毛まで繊細に描き込まれていて、慶賀の描写力の高さが発揮
されています。
また「ウンシュウミカン」は、ミカンの皮の表面の細かなおうとつや、ミカンの花を
分解して花びらや雌しべ、それに数多くの雄しべなどをひとつひとつ丁寧に描いています。
会場では、慶賀の作品の細かさをより楽しんでもらおうと虫眼鏡も貸し出されていて、
訪れた人たちは虫眼鏡を絵に近づけて観賞しその細かさに感心していました。
下関市立美術館の渡邉祐子学芸員は、「慶賀の絵は徹底的な観察に基づいて非常に
細密に描かれているので繊細な植物の数々を見てほしい」と話していました。
この展示会は、来月24日まで下関市立美術館で開かれています。 硬派な室町本、またも大ヒット 『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』
http://www.sankei.com/life/news/170813/lif1708130007-n1.html
タイトルは、かんのうのじょうらん、と読む。室町幕府草創期、征夷大将軍である足利尊氏と、
政務の大半を担っていた弟の直義の対立を軸に起きた内乱である。
高校日本史の履修者でも記憶している人は少ない事件がテーマの本書、しかし現在6万8000部と
硬派歴史書としては異例のヒットとなっている。同じ中公新書刊の40万部ベストセラー『応仁の乱』を追走する快調ぶりだ。
知名度こそ低いが、観応元(1350)年に起きたこの戦乱の歴史的な影響はなかなか大きい。
昭和48年生まれの国立台湾大学助理教授である著者は、鎌倉幕府を踏襲していた体制が変化し、
恩賞分配方式など室町幕府特有の制度が生み出された「有意義な試練」と位置づける。
勝敗が何度も入れ替わる複雑な展開を、いくつもの新解釈を示しながらクリアかつ丁寧に整理した叙述は見事だ。
担当の上林達也氏によると、7月下旬に初版1万8000部でスタートし、発売翌日に3万部の増刷が決まった。
「発売前からツイッターなどで歴史ファンの間に話題が拡散していたことが大きかった」という。
『応仁の乱』に続く、ネットに親和的な新世代の中世史家による快作だ。(亀田俊和著/中公新書・860円+税) 終戦72年、追悼式に6200人 首相、加害責任触れず
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170815-00000031-asahi-soci
72回目の終戦の日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。
天皇、皇后両陛下や全国から集まった遺族ら約6200人が参列し、約310万人の戦没者を悼んだ。
安倍晋三首相は不戦の決意を表明する一方、アジア諸国への加害と反省に5年連続で言及しなかった。
安倍首相は式辞で、「私たちが享受している平和と繁栄は、かけがえのない命を捧げられた
皆様の尊い犠牲の上に築かれた」と哀悼の意を表明。その上で、「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならない」と述べ、
3年続けて同様の表現で不戦の誓いを強調した。
首相の式辞では1993年の細川護熙氏以降、歴代首相がアジア諸国への「深い反省」や
「哀悼の意」などを表明し、加害責任に触れてきたが、安倍首相は今回も言及を避けた。 朝鮮通信使の行列を再現08/19 19:06nhk
室町時代から江戸時代、朝鮮王朝から日本に派遣されていた「朝鮮通信使」の行列を
再現した催しが、下関市で開かれ、訪れた人たちが色鮮やかな衣装や踊りを楽しみました。
「朝鮮通信使」は、朝鮮王朝が日本の幕府などに派遣した外交使節団で、道中では
今の下関市にも立ち寄り、盛んに文化交流を行っていました。
これを記念して、下関市では毎年、当時の行列を再現した催しが開かれ、ことしは、
下関市や姉妹都市の韓国プサン市などからおよそ250人が参加しました。
行列では参加者が赤や青など通信使の色鮮やかな衣装を身にまとい、多くの観光客が
見守る中、中心部の観光地や商店街などを移動しながら、およそ2キロにわたって
練り歩きました。
プサン市で活動する楽団や舞踊団が太鼓やカネを打ち鳴らし、あでやかな衣装を着た
団員たちが踊りを披露すると、見物に訪れた人たちからは、盛んな拍手や大きな歓声
が送られていました。
家族で訪れた父親は「初めて行列を見て圧倒されました。歴史を後世につなぐ催し
なので、これからも続けてもらいたいです」と話していました。 千葉県文書館の歴史的公文書誤廃棄 館長ら2人に訓告処分
ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170819-00000030-san-l12
行政文書や古文書などの資料を収集・保存する県文書館が第二次世界大戦の関連文書など
本来保存すべき歴史的公文書91冊を誤って廃棄した問題で、県総務課が同館の館長ら職員2人について、
監督責任を問い文書での訓告処分としていたことが18日、県や関係者への取材で分かった。
処分は17日付。同課は「事実関係を整理し状況を確認した結果、懲戒処分には当たらないと判断した」としている。
同館は平成28年3月、県の行政文書管理規則の改定に伴い所蔵文書の廃棄を進めたが、
その過程で、原則として長期保存すべき「昭和27年度までに作成・取得された公文書」に当たる
91冊を誤廃棄した。91冊の大半は「復員名簿」や「陸軍部隊調査票」といった第二次大戦の
関連文書で、戦没者の遺族台帳なども含まれていたという。
同館の職員会議でこれらの保存すべき公文書が廃棄リストに含まれていることに気付いていたが、
職員のミスでそのまま廃棄作業が進められたという。県によると、廃棄をした職員はすでに退職しているため処分はないという。
同館では、誤って廃棄した91冊の復元に向けた調査を最優先課題として進めている。
同館によると、今年7月末現在で、約7割にあたる65冊については、記載されていたのと
同様の情報か一部の情報が載っていると推測される文書がアジア歴史資料センター(東京都)などで
保有されているのが確認されたという。だが、残る26冊については「現在も調査を続けている」といい、
復元の見通しは立っていない。 国宝・重文の公開制限緩和へ 刀剣など「長期耐えうる」
ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170823-00000012-asahi-soci
文化庁は、国宝や重要文化財に指定されている美術品や工芸品について、「年間延べ60日以内」としている
公開制限を来春にも緩和する方針を固めた。湿気や紫外線などによる劣化を避けるための規制だが、
刀剣などの金属製品、石造りの仏像や土器など頑丈なものは、長期公開にも耐えうると判断した。
安倍政権は観光立国を掲げ、2020年までに15年の2倍にあたる4千万人の外国人旅行者の訪日を目標とし、
文化財も観光資源として重視している。文化庁は5月、文化財を活用しやすくするための制度改正を
検討する専門部会を、文化審議会に設置。公開制限の緩和はその一つで、23日の会合でまとめる
中間報告に盛り込まれる見通しだ。
国宝・重文は、1996年の文化庁長官による裁定で、博物館や美術館で公開する際、
年間に「2回以内」「延べ60日以内」に制限されている。全国を巡回する展覧会などでは
公開日数が短すぎるとして、展覧会の主催者や美術館から制限の緩和を求める声が出ていた。 石清尾山古墳群の保存に向け視察08/25 18:11nhk
国の史跡に指定されている高松市の「石清尾山古墳群」の保存や活用に向けて、
25日、専門家が現地を訪れ、全国でも珍しい古墳時代の早い時期に築かれた石積み
の古墳の現状を視察しました。
高松市の石清尾山には、3世紀から4世紀にかけて築かれた「積石※づか」と呼ばれる
石積みの古墳が数多くあり、「積石※づか」を中心に12の古墳が国の史跡に指定
されています。
25日、現地を訪れたのは、高松市が設置した「石清尾山古墳群」の整備に関する
専門部会の委員、4人で、8つの古墳を視察しました。
4人の委員は、石積みの保存状況とともに、多くの古墳では墳丘の上に道が通っている
ため、ハイキングなどでの利用で石積みが崩れる可能性があることを確かめました。
また、石の棺、石棺が露出したままになっている「石船※づか古墳」では、石棺の
劣化の状況を詳しく観察しました。
さらに、全長が100メートル近くあり、中央が丸く両側が四角い「双方中円墳」
という特異な形をした「猫※づか古墳」も、見てまわりました。
高松市では、専門部会の助言などを受けて、対策を検討し平成31年度に
「石清尾山古墳群」の保存や活用についての計画を策定する予定です。
※点のない「塚」。 村上海賊ゆかりの品 特別展08/21 12:34nhk
戦国時代に瀬戸内海で大きな勢力を誇った「村上海賊」ゆかりの品を紹介する特別展
が、尾道市で開かれています。
この特別展は、「村上海賊」に関する史跡などを新たな観光資源にしようと取り組む
尾道市などが因島水軍城で開いていて、「村上海賊」ゆかりの鎧や刀、それに土器
などおよそ170点が展示されています。
このうち、戦国武将の小早川隆景が成人の祝いに因島村上家6代当主、村上吉充に
贈ったとされる「白紫緋糸段縅腹巻」は権威を象徴するように金具のまわりに金ぱく
がちりばめられていて、村上氏が重要な地位にいたことを物語っています。
また、朝鮮半島や中国から輸入された青磁品や香炉などは鑑賞用に使われていたと
みられ、当時の村上氏の経済力がうかがえます。
東京から訪れた中学2年生の男子生徒は「村上海賊に関する本を読んで興味を持ちました。
腹巻きの色彩がきれいでかっこいいです」と話していました。
学芸員の宇根元了さんは「展示を通じ、海で活躍した村上海賊の本質に迫ってもらいたいです」
と話していました。この特別展は今月30日まで開かれています。 室町後期の絵など県有形文化財に08/30 07:09nhk
武家の女性が描かれた室町時代後期の絵と、高松市内の遺跡から出土した弥生時代
後期の1200点余りの土器が新たに県の有形文化財に指定されることになりました。
県の文化財保護審議会の答申によりますと、新たに指定されるのは多度津町の多聞院
が所有する「絹本著色西谷藤兵衛夫人像」と、
高松市の上天神遺跡から出土した弥生時代後期の土器1261点です。
「絹本著色西谷藤兵衛夫人像」は室町時代後期の武家の妻の姿を描いた県内最古の
女性肖像画で、当時の武家の女性の服装を知る上で貴重な資料だということです。
上天神遺跡から出土した弥生時代後期の土器は、装飾に使われたとされる赤い塗料の
「辰砂」が内側に付着し、県教育委員会によりますと「辰砂」の原料の鉱物は県内で
は採掘できないため、他の地域から得た原料を加工していたと考えられ、当時の交易
や生産活動を伝える重要な資料とされています。
今回の指定で県の有形文化財は120件になります。 備前刀の名品集めた展示会09/08 12:42nhk
平安時代以降に今の岡山県でつくられた日本刀、「備前刀」の名品を集めた特別展が、
8日から岡山市の県立博物館で始まりました。
備前刀は、平安時代以降に、今の瀬戸内市などからなる「備前国」を中心に作られた
日本刀で、8日から始まった特別展では、全国各地の美術館や博物館などで所蔵
されている国宝5振りを含むあわせて84振りが展示されています。
このうち鎌倉時代につくられた国宝の「太刀銘吉房」は、幅が広く、がっしりと
とした「刀身」に花びらのような模様の「刃文」があるのが特徴です。
また、鎌倉時代につくられた国宝の「群鳥文兵庫鎖太刀(号上杉太刀)」は、刀の
「さや」を鎖でつり下げるためのもので、優雅に舞う鳥の群れの様子が金粉などで
あしらわれています。
このほか、現代の職人がつくった備前刀を展示しているコーナーもあり、訪れた人
たちがじっくりと見入っていました。
県立博物館の学芸員の佐藤寛介さんは、「数多くの名品が展示されているのでぜひ
実物を見て迫力を感じてほしい」と話していました。
この展示会は、来月15日まで、岡山市北区の県立博物館で開かれています。 備前刀の魅力伝える展示会09/10 15:56nhk
日本刀の中でも名刀と呼ばれる逸品を生み出してきた岡山ゆかりの「備前刀」の魅力
を知ってもらおうという展示会が、瀬戸内市で開かれています。
この展示会は、平安時代から今の瀬戸内市を中心とした地域で作られ、国宝の日本刀
のうち半数近くを占める「備前刀」の魅力を知ってもらおうと、備前長船刀剣博物館
が開きました。会場には鎌倉時代から現代までのあわせて41振りが展示されています。
このうち、明治時代に倉敷市の羽黒神社に奉納された「大太刀」は、当時の名工
「竹貫斎義隆」が作った刃の長さが1メートルを超える豪壮な作品です。
刀身には珠を追う竜が彫刻され、県の重要文化財に指定されています。
また、鎌倉時代後期の名工「長光」が作った「太刀」は、澄んだ地鉄に波のような
刃文が浮かび美しさを際立たせています。
この展示会「華麗なる備前刀・とある愛刀家たちの名品展」は、瀬戸内市長船町の
備前長船刀剣博物館で11月12日まで開かれています。
11日、月曜日は休館です。 東海道五十三次の復刻画展09月08日 10時00分nhk
江戸時代の浮世絵師、歌川広重の作品、「東海道五十三次」を復刻した版画の作品展が
大洲市肱川町で開かれています。
この展示会では、「東海道五十三次」の原画をもとに彫師が彫った木版画を摺師が
刷って復刻した27点の作品が、展示されています。
このうち、東海道の起点となる「日本橋」という作品では、朱色をぼかして早朝の
朝焼けの空の色を表現したと思われる当時の色を再現しています。
また、「箱根」という作品は、川や海など水辺が「広重ブルー」とも呼ばれる鮮やかな
青色で、再現されています。
風の博物館・歌麿館の河野信介館長代理は、「愛媛では珍しい浮世絵の展示ですし、
絵師の思いをそのまま当時と同じ色と思われるほどに再現されていますので、ぜひ
見に来ていただきたい」と話しています。
この展示会は、9月25日まで大洲市肱川町の風の博物館・歌麿館で開かれています。 平安時代の“貝合わせ”体験09月09日 19時07分nhk
はまぐりの貝殻の内側に描かれた絵が対になるものをあてる平安時代の遊び「貝合わせ」]
を体験する催しが、9日、庄原市で開かれました。
「貝合わせ」は、2枚1組のはまぐりの貝殻の内側に描かれた絵柄が対になるものを
あてるもので、平安時代の貴族が始めたとされています。
9日は、日本の伝統文化を知ってもらおうと、庄原市で、この「貝合わせ」を体験する
催しが開かれました。
催しで参加者たちは、昔の遊びの普及活動を行っている、地元の主婦の天野カツミさん
から、「貝合わせ」のルールなどについて説明を受けた後、さっそく絵柄が描かれた
内側の部分を裏にして貝殻を並べ、挑戦しました。
参加者たちは、貝殻の外側の色や大きさなどを手がかりに次々に貝殻をめくり、絵柄
があった貝を探し当てると、「おみごと」と声をかけあって楽しんでいました。
参加した女性は、「平安時代にいるかのように奥ゆかしい遊びで楽しいひとときを
過ごすことができてよかったです」と話していました。
天野さんは、「はまぐりの殻は捨てるものと思われていますが、たくさんの人が
にぎやかに楽しく遊ぶことができることを知ってもらえたらと思います」と話していました。 ”大美保関”展09/19 09:52nhk
古くから神話の舞台となり、江戸時代から昭和にかけて海上交通の要衝としても栄えた、松江市の美保関の歴史をひもとく企画展が松江市で開かれてます。
松江市にある松江歴史館で開かれている企画展「大美保関」では美保関に伝わるゆかりの品など78点が展示されています。
このうち「奉納鳴物オルゴール」は、国内に現存する最古のオルゴールのひとつで、幕末にスイスからもたらされた物です。
オルゴールには、18世紀にヨーロッパで流行ったオペラ楽曲が収録されており、会場ではその音色を聴くことができます。
また、「両替天秤」は、藩ごとに相場の違う様々な通貨が使われていた江戸時代に、両替商人が銀などの重さをはかる時に使ったもので、北前船の航路となり、海上交通の要衝となった美保関ならではの展示物です。
山口から訪れたという男性は、「歴史を感じる展示で、とても楽しめました」と話していました。
企画展「大美保関」は、松江市の松江歴史館で11月5日まで行われています。 村上海賊の武具集めた展示会09月13日 08時03分nhk
戦国時代に瀬戸内海で大きな勢力を誇った村上海賊のよろいや刀剣などの武具を集めた展示会が尾道市で開かれています。
村上海賊は現在の広島県から愛媛県にわたる瀬戸内海の因島、能島、来島を本拠地にした3つの家からなり、戦国時代に大きな勢力を誇りました。
「おのみち歴史博物館」には、村上海賊の武具、およそ20点が展示されています。
このうち、能島村上家伝来のよろい「黒韋威胴丸」は、南北朝時代に使われたとみられ、漆を塗った板に藍染めした鹿の皮が取り付けられているのが特徴です。
また「虎蹲砲」と呼ばれる大砲は能島村上家の当主、村上武吉の次男、影親が朝鮮半島から持ち帰り、和式に改造したとされる武器で、虎が前足を立てたように見える台座に載せて使われたことが名前の由来になったということです。
夫婦で訪れた50代の男性は「よろいを間近で見ましたが重厚さを感じました。作るのに手間のかかる武器だったのではないかと思いました」と話していました。
また兵庫県から訪れた40代の男性は「1000年を超えるはるか昔の武具を丁寧に保存しているのがすばらしいと思いました」と話していました。
展示会は10月15日まで開かれています。 雪舟“幻の作品”確認と発表09/19 18:58nhk
室町時代に独自の水墨画のスタイルを確立した雪舟が描き、昭和8年に行われた入札を最後に所在が分からなくなっていた「幻の作品」を84年ぶりに確認したと、山口県立美術館が発表しました。
国宝に指定されている「四季山水図」とよく似た作風の山水図で、専門家は「真筆で間違いなく、非常に重要な発見だ」としています。
「倣夏珪山水図」と呼ばれるこの作品は、縦横およそ30センチのうちわのような形の枠の中に、中国の南宋の時代の画家・夏珪の作風をもとにした山水図が描かれています。
手前にはひときわ濃い色の岩が力強い筆遣いで描かれ、その後ろに枝を伸ばした木々や水辺に浮かぶ小舟などが表現されています。
昭和8年に行われた入札の目録に記されたのを最後に所在が分からなくなり、「幻の作品」とされていましたが、この作品を個人のコレクターが所蔵していて、調査の結果、雪舟の真筆と判断したと、雪舟の研究を進めている山口県立美術館が発表しました。
室町時代の画家・雪舟は、独自の水墨画のスタイルを確立したことで知られ、「山水長巻」の別名で知られる「四季山水図」や「天橋立図」など6つの作品が国宝に指定されています。
今回の作品が描かれた時期は分かっていませんが、「四季山水図」と岩や木の枝などの表現がよく似ているということです。
調査にあたった明治学院大学の山下裕二教授は「雪舟の真筆に間違いないと見た瞬間に確信した。夏珪のスタイルを完全に自分の中に取り込んでオリジナリティーを出している。
山水画においてこれほど自分のスタイルを確立した人はほかになく、四季山水図を研究するうえでも非常に重要な発見だ」と話しています。
「倣夏珪山水図」は山口県立美術館に寄託され、来月31日から公開されます。 雪舟 見つかった山水図は09/19 18:58nhk
今回見つかった「倣夏珪山水図」は、雪舟より200年以上前に活躍した中国南宋の画家・夏珪の画風を模した山水図です。
左端に雪舟の署名があるほか、枠の外側の右下には「夏圭」と記されています。
山口県立美術館によりますと、雪舟が活躍した室町時代後期には夏珪を模した作品が流行し、さまざまな画風を描き分けていた雪舟にとっても重要なテーマになっていたということです。
描かれているのは秋の情景で、黄色に薄く色づいた水辺のあしの上には葉を落とした木々が枝を伸ばし、「酒旗」と呼ばれる酒屋を示す旗が揺れています。
手前の岩は絵の重心となるように濃い色で塗られ、雪舟特有の陰影を際立たせた描写や大胆で勢いのある筆遣いが見られます。
また、人が岩の間の小道を歩く姿や、向かい合って語り合う姿を描くのも、雪舟が山水画でよく用いた手法です。
作品は紙の染みが目立たず状態もよく、岩の青みがかった色や木の緑色も鮮やかに残されています。
この作品は中国の有名画家の画風を模した「倣古図シリーズ」の中の1枚で、江戸時代前期に狩野派の絵師が模写した12点が残されていることから、雪舟が少なくとも12点を描いていたことが分かります。
このうち現存する6点はいずれも国の重要文化財に指定され、今回7点目が見つかったことになります。
シリーズのうち夏珪を模した山水図は季節ごとに4枚が描かれ、今回見つかった「秋」と、個人が所蔵する「春」と「冬」はありますが、「夏」は所在が分かっていません。 雪舟 山口を主な拠点に09/19 18:58nhk
雪舟はおよそ600年前の室町時代に現在の岡山県総社市で生まれ、子どもの頃に修行した寺には、涙でねずみの絵を描き才能を見いだされたという逸話が残っています。
その後、京都市の相国寺で修行し、35歳のころに当時、繁栄を誇っていた西国随一の守護大名・大内氏の本拠地の山口に移り住みました。
そして、50歳を前に中国に渡って絵を学び、帰国後、この経験を生かして、さまざまな太さや濃さの線で輪郭を描き、岩などを重ねて空間に奥行きを生み出す独自の水墨画のスタイルを確立し、山口を主な拠点に活躍しました。
「山水長巻」の別名で知られる全長16メートルの絵巻「四季山水図」や「天橋立図」「慧可断臂図」など、日本画では最も多い6点が国宝に指定されています。
専門家“真筆に間違いない”09/19 18:58nhk
山口県立美術館によりますと、この作品は4人の専門家が調査に関わり、全員が「真筆に間違いない」と判断したということです。
このうちの1人、明治学院大学の山下裕二教授は、その理由の1つとして、うちわのような形をした枠の上の部分を描き直していることを挙げています。
「雪舟」の署名も舟の字が大きくバランスが悪いとして、「こういうちょっと情けないところが部分的に見えるのも、オリジナルであることを保証する材料だと思う」と指摘しています。
また、江戸時代前期の狩野派の絵師による忠実な模写が残されていることや、昭和8年に行われた入札の目録の写真と表具に至るまで一致していたことも傍証になるとしています。
山下教授は「絵そのものも、力強い岩の描き方やことさらに黒くしていることなど、雪舟の筆の癖と一致している。これほどまでに研究者が一致して間違いないと判断を下す作品は珍しい」と話しています。 村岡知事“山口を訪れて”09/19 18:58nhk
記者会見で、国内外の水墨画の歴史に詳しい学習院大学の島尾新教授は「雪舟の真筆はなかなか出てこないうえ、みずみずしく鮮やかな色には本当に驚き、感動しました。
『世紀の発見』と言ってもいいのではないか」と話していました。
また、40年近く雪舟を研究している明治学院大学の山下裕二教授は「オリジナルの中国の画風をそっくりまねた物ではなく、雪舟風になっている。
中国の画家のスタイルを取り込んですべて自分のものにしたという雪舟の主張が感じられる」などと作品の特徴について説明しました。
一方、作品を来月から公開する山口県立美術館の荏開津通彦学芸員は「確実に雪舟とわかる作品が新しく出てくることは100年に1回ぐらいのことで、普通にはないことなのでびっくりした。
できるだけ多くのお客さんに見ていただきたいので、工夫を凝らして展示したい」と意気込んでいました。
さらに、村岡知事は記者会見で、「雪舟の絵が発見されたことは、日本美術界にとっても大きな出来事だ。価値のある作品を山口県で預かることの素晴らしさや、次に伝えていくことの責任を感じている。
ぜひ雪舟ゆかりの地である山口を訪れてほしい」と話しています。 重文刀の復活プロジェクト09/19 20:59nhk
室町時代の名工が作り現在はさびついた状態で保管されている国の重要文化財の日本刀を磨き上げ美しい姿によみがえらせるプロジェクトが、岡山県で立ち上がりました。
この日本刀は、刀剣の生産で知られる「備前長船」、現在の岡山県瀬戸内市で、室町時代の名工「盛光」が作った「大薙刀」です。
全長は2メートル30センチあり、瀬戸内市の寺から岡山市北区の岡山県立博物館に預けられました。
国の重要文化財にも指定されていますが今ではさびが目立ち、刀身全体が曇りがかったような状態になっていることから、磨き上げて本来の姿に戻そうと、「日本美術刀剣保存協会岡山県支部」がこのほどプロジェクトを立ち上げました。
保存協会は17日、岡山県立博物館で行った講演会で今後の取り組みを明らかにし、刀を研ぐ作業などにおよそ130万円が必要なことから保存協会側が40万円を支出し、残りの90万円については広く寄付を募るとしています。
そして目標額が集まり次第文化庁に許可を申請し、福岡県の研ぎ師に研磨を依頼する予定です。
保存協会の小池哲岡山県支部長は「奉納された当時の美しい姿にして、後世に伝えていきたい」と話しています。
寄付の方法などについては、「日本美術刀剣保存協会岡山県支部」のホームページで紹介されています。 新発見の江戸城絵図 東京で公開nhk松江
松江歴史館が所蔵する江戸時代初期に徳川家康が築城した江戸城の貴重な絵図が、東京で公開されています。
東京で公開が始まった「江戸始図」は、松江歴史館が所蔵し、ことし2月に、専門家の調査で徳川家康が築城した江戸時代初期の江戸城を描いたことが分かった貴重な絵図です。
江戸城は改修が繰り返され、築城当時の詳細な姿はわかっていませんでしたが、この絵図には本丸の石垣などが詳しく描かれ、出入り口を複雑な構造にして、守りを堅くしていることがうかがえるということです。
19日の開会式には松江市の能海広明副市長も出席し、「1人でも多くの人に訪れてもらい、江戸、そして松江の歴史に触れてもらえるとうれしいです」と述べました。
会場には国宝の松江城天守のひな形模型などの資料も展示され、訪れた人たちの関心を集めていました。
この展示会「松江城と江戸城」は11月19日まで東京・千代田区の日比谷図書文化館で開かれています。 宇和島伊達家の刀剣武具展10月03日 12時29分nhk
宇和島伊達家伝来の名刀や武具を一堂に集めた特別展が宇和島市の博物館で開かれています。
この特別展は、江戸時代に宇和島藩を治めていた宇和島伊達家に伝わる名刀や武具などを通じて多くの人たちに武士の美意識を感じてもらおうと宇和島市立伊達博物館が企画したもので、140点あまりが展示されています。
このうち、鎌倉時代後期の刀鍛冶、郷義弘が打った仙台伊達家に伝
わる刀は、「はばき」と呼ばれる刃の根元に付ける金具に、伊達家で最も古いとされる家紋の「三引両紋」が金であしらわれています。
また、江戸時代後期の刀鍛冶源清麿の刀は、刃文と呼ばれる模様の躍動感や美しさから、豪快な鍛冶技術がうかがえる一振りです。
宇和島刀剣会の木熊良生会長は、「とても貴重なものがそろっていていて近くで見ることができるので、時代ごとに異なる刀の表情を楽しんでほしいです」と話していました。
この展示会は、宇和島市立伊達博物館で休館日の月曜を除き、10月29日まで開かれています。 [12日 19:10]「備前刀 日本刀の王者」来場者が1万人http://www.rsk.co.jp/sp/#local_news_20171012_4
岡山市北区の岡山県立博物館で開かれている特別展「備前刀日本刀の王者」の来場者が1万人に達しました。
備前刀の、国宝「吉房」です。光を乱反射する「乱れ映り」が特徴です。
会場には、5つの国宝を含む名刀84振りが展示されています。
刀身の鮮やかな反りと優美な輝きが訪れた人を魅了します。
1万人目になったのは兵庫県姫路市の片岡美樹さんで、博物館から記念品が贈られました。
岡山県立博物館の特別展で来場者が1万人を超えるのは5年ぶりです。
「備前刀日本刀の王者」は10月15日まで開かれています。 道しるべの企画展10/14 19:12nhk
江戸時代から明治時代にかけて設置された石の道路標識から地域の歴史をたどろうという企画展が鳥取市で開かれています。
この企画展は鳥取市の資料館が14日から始めたもので、江戸時代から明治時代にかけて設置され、県内に今も残る24の石の道路標識の写真などが集められています。
このうち、大山町にある高さ1メートルの標識は江戸時代中頃に作られたとみられ標識に和紙をあてて写し取った拓本から「右ハ大山道也左ハ船上道也」と記されていることがわかります。
中国地方最高峰の大山は当時から各地から大勢の人たちが訪れる観光名所のひとつで、道案内に設置されたものと考えられています。
また、大山から当時の大坂に向かう途中の伯耆町に設置された標識には「右びんご左大さか」と書かれた下に「近江屋」の文字が記され、大坂の商人が宿屋を宣伝するために設置したものと見られます。
標識を調査した八頭町の加藤要治さんは、「各地に残る石の標識は人の往来を知る貴重な手がかりで、地域の歴史を感じてもらいたいです」と話していました。
この企画展は、11月5日まで鳥取市の「因幡万葉歴史館」で開かれています。 武将姿で中学生が案内10/21 22:11nhk
日本刀の産地として知られる瀬戸内市で地元の中学生が20日、武将のようなよろいを身に着け、刀剣博物館を訪れた人たちの案内役を務めました。
瀬戸内市の邑久中学校の男子生徒3人は、授業の一環として、備前長船刀剣博物館で学芸員などの仕事を3日間にわたって学びました。
最終日の20日はさやに収まった刀を抜く際の注意点を学び、刀がさやに触れて傷つかないよう模造の刀を使って安全に抜く体験をしました。
そして授業の集大成として、戦国武将をイメージしたレプリカのよろいを身に付け、博物館を訪れた団体客の案内役を務めました。
生徒たちは展示されている日本刀について「刃文が素晴らしい」とか「上品な姿をしている」などと、見どころを一生懸命説明していました。
案内を行った中学生の貝阿彌悟央さんは、「博物館は多くの人に刀の良さを知ってもらう
場所で、よい経験になりました」と話していました。 下蒲刈で朝鮮通信使の再現行列[2017.10.15 18:0]RCC
日本と韓国の団体がユネスコの「世界の記憶」への登録を申請している「朝鮮通信使」
にちなんだイベントが、呉市の下蒲刈島で行われました。【記事全文】
朝鮮通信使は、江戸時代に12回来日した、朝鮮王朝の外交使節団です。
ソウルから東京までの道中で、下蒲刈島や福山市鞆町に立ち寄ったことが知られています。
ことしで15回目となる再現行列には、日韓両国のおよそ300人が参加。
雨が降る中、韓国の伝統衣装を身に着けて1.2キロの道のりを練り歩きました。
朝鮮通信使の関連資料については、日韓の民間団体が共同でユネスコの「世界の記憶」
への登録を申請していて、
関係者は11月上旬ころにも登録される可能性があると期待を寄せています。 松江藩主堀尾忠氏の新文書発見10/26 16:44 www3.nhk.or.jp/lnews/k/matsue/4035043231.html
若くして亡くなった松江藩の初代藩主、堀尾忠氏が家臣に土地を与えたことを示す文書が初めて見つかりました。
松江歴史館は、忠氏がいち早く支配体制を確立しようとしたことがうかがえる貴重な史料だとしています。
松江藩の初代藩主、堀尾忠氏は松江城を築城した堀尾吉晴の子で、28歳の若さで亡くなりました。
今回、見つかったのは忠氏が6人の家臣に土地を与えたことを示す「知行目録」という文書で、それぞれの家臣に与えた土地の大きさなどが記されているほか、忠氏の名前の下に忠氏が使っていたとされる「誉」という字の朱印が押されています。
松江歴史館によりますと、文書が出されたのは、忠氏がこの地に藩主として入った翌年の慶長6年、1601年とみられるということです。
慶長9年に亡くなっているため、忠氏が発した文書はほとんど残っておらず、「知行目録」はこれが唯一だということです。
松江歴史館の藤岡大拙館長は「今回の文書は大変貴重であり、藩主になったばかりの忠氏が、支配体制をいち早く整えようとしたことがうかがえる点でも重要だ」と話しています。
この文書は11月17日から来年1月17日まで松江歴史館で、一般に公開されるということです。 児童が「宇和島さんさ」を学ぶ10月20日 19時30分動画nhk
江戸時代から宇和島藩に伝わる「宇和島さんさ」を子どもたちに伝承しようと20日宇和島市の小学校で能楽師を招いて講習会が行われました。
「宇和島さんさ」は、江戸時代から宇和島藩を治めていた宇和島伊達家発祥の伝統芸能で武士のたしなみとして受け継がれ今に伝えられています。
この「宇和島さんさ」を子どもたちに伝えようと、宇和島市の宇和津小学校で能楽師の川口晃平さんを招いて講習会が開かれ、6年生23人が参加しました。
川口さんは、はじめに、師匠で人間国宝の梅若六郎玄祥さんが能の要素を盛り込んで完成させた踊りを披露しました。
このあと、1つ1つの振り付けが宇和島の海の穏やかな波や武士の忠誠心などを表していることを説明すると、子どもたちは真剣な様子で踊りを学んでいました。
参加した男子児童は、「宇和島にも能の文化があることを知って、もっと体験してみたいと思いました」と話していました。
講師を務めた川口さんは、「子どもたちはとても勘が良く、いきいきとしていました。『宇和島さんさ』が子どもたちの世代に受け継がれ花開することを願っています」と話していました。
宇和島市の南予文化会館では21日舞台が開かれ「宇和島さんさ」と能が披露されます。 [28日 17:00]津田永忠ゆかりの地を巡る研修会. www.rsk.co.jp/sp/#local_news_20171028_4
日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも言われる岡山藩士の技術者、津田永忠を学ぼうと、備前市などで研修会が開かれました。
研修会はマルセンスポーツ・文化振興財団が開いたもので、約30人が参加しま---した。
津田永忠は、江戸時代、岡山藩で建築、土木、干拓など数々の業績をあげ、備前市の旧閑谷学校の建築にも携わっています。
研修会では備前ミュージアムの臼井洋輔館長が、320年経ってもびくともしない建築の素晴らしさについて語りました。
一行は、このほかにも津田永忠ゆかりの地を巡りました。 中世の「たたら製鉄」を再現10/29 19:54nhk
中国地方の山間部で盛んに行われていた「たたら製鉄」と呼ばれる鉄の製造を再現する催しが、新見市で開かれました。
この催しは、新見市が中世に新見庄と呼ばれていたころ、「たたら製鉄」が盛んに行われていたことをPRしようと、有志で作るグループが毎年、開いています。
このグループは、地域文化の発展に貢献したとして、ことし8月に「サントリー地域文化賞」に選ばれています。
会場の「新見市たたら操業施設」には中世に使われた土でできた炉が再現され、28日の夕方から始まった作業には市民など約500人が参加しました。
「たたら製鉄」は砂鉄と大量の炭を燃やして鉄を作るもので、「ふいご」という道具で炉の中に風を送り込み火力を調節しながら鉄の材料になる銑鉄を取り出します。
参加者たちは、砂鉄と炭を入れながら手押し式の「ふいご」で風を送る地道な作業を夜通しで行いました。
参加した小学生たちは「ふいごを押したり引いたりするのはとても力がいるけど楽しかったです」とか、「昔の人はすごい技術を持っていたんだなと思いました」などと話していました。
作業は29日の午後4時すぎまで続けられ、約450キロの銑鉄ができたということです。 大政奉還150年企画展10/30 13:32nhk
江戸幕府が朝廷に政権を返上した「大政奉還」から来月で150年になるのを記念した企画展が、高梁市で開かれています。
高梁市歴史美術館で開かれている企画展には、江戸幕府の老中として大政奉還に立ち会った備中松山藩の藩主板倉勝静と、藩の重臣で勝静の相談役を務めた山田方谷の2人にゆかりのあるものを中心に、あわせて51点の資料が展示されています。
この中には、板倉勝静が14代将軍の徳川家茂から拝領したという金のまき絵が施された印籠や、勝静が身につけていた刀、それに板倉家の家紋が描かれた刀の「こしらえ」などもあります。
また、山田方谷が大政奉還の直前に京都を離れ藩に戻るときの心情をつづった書も展示されていて、「天を仰ぎ大笑して帰るのみ」という時代の流れに対するやるせなさが感じ取れる一文もあります。
この企画展は12月3日まで高梁市歴史美術館で開かれ、来館者には記念品として大政奉還150年を記念したオリジナルの缶バッジが贈られるということです。
31日、火曜日は休館です。 [30日 12:10]新見市で「たたら製鉄」を再現. http://www.rsk.co.jp/sp/#local_news_20171030_1
砂鉄から鉄を精錬する日本古来の「たたら製鉄」を再現する催しが、28日から29日に
かけて新見市で開かれました。 粘土を塗り固めた炉にふいごで風を送り、鉄を作ります。
中国地方で古くから実施されてきた「た---たら製鉄」を再現し継承している「新見庄たたら学習実行委員会」が新見市で開いた催しです。
一昼夜かけての作業には約500人が参加し、日本古来の技法を体験していました。
実行委員会は、地元に伝わる貴重な技法を今後も伝承していきたいと話しています。 2017年10月30日(月) 12:10. 新見市で「たたら製鉄」を再現. https://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20171030_1
砂鉄から鉄を精錬する日本古来の「たたら製鉄」を再現する催しが、28日から29日に
かけて新見市で開かれました。 粘土を塗り固めた炉にふいごで風を送り、鉄を作ります。
中国地方で古くから実施されてきた「た--- 秀吉の試行錯誤示す書状10月26日 8時34分動画nhk松山
本能寺の変のあと混乱していた京都を治めていた豊臣秀吉が、治安を回復するために進めてきた略奪品の返却を
諦める内容を記した書状が新たに見つかり、調査に当たった専門家は、「織田信長亡きあとの秀吉が試行錯誤をして
いたことがわかる貴重な発見だ」と指摘しています。
この書状は愛媛県に住む男性の家に伝わっていたもので、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授が25日、実物を調査しました。
その結果、書状は、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の2か月ほどあとに、当時京都を治めていた豊臣秀吉
が家臣に宛てて出したもので、秀吉が直筆で花押と呼ばれるサインを記していることが確認できたということです。
村井准教授によりますと、本能寺の変の直後の京都では、明智光秀の軍勢が略奪を行ったうえ、その後、元の持ち主
に返す作業に関わっていた秀吉の家臣も自分のものなどにしていたということです。
こうした状況のなか、今回見つかった書状には「略奪されたものには今後一切関知しない」と記され、秀吉が京都の
治安を回復するために進めてきた略奪品の返却を途中で諦めていたことが明らかになりました。
一方、この記述のあとには、信長を示す「上様」という言葉を使って「上様からもらったものに関しては、証拠がはっきり
していれば元の持ち主に戻す」とも記され、秀吉が信長を特別扱いしていたことがうかがえます。
村井准教授は「秀吉の全国統一までの道のりは決して一本道ではなく、試行錯誤の末に政権を確立したことがよくわかる。
また、本能寺の変のあとも信長の存在が無視できなかったこともわかり、貴重な発見だ」と話しています。 幽霊の絵などを集めた特別展10月26日 5時15分動画nhk
幽霊が登場する怪談の場面を描いた江戸時代の絵などを集めた特別展が、徳島市で開かれています。
この特別展は、怪談が流行した江戸時代以降の文化を紹介しようと、徳島市立徳島城博物館が開いています。
会場には、各地の博物館などが所蔵する、幽霊が登場する怪談の場面を描いた掛け軸や浮世絵など、
江戸時代から明治のころまでのものを中心に、およそ130点が展示されています。
このうち、幕末から明治にかけてのものとみられる「皿屋敷お菊亡霊図」という掛け軸は、皿の数が足りないことを主人
に責められて井戸に身を投げた「お菊」が、幽霊となって井戸から現れ皿を持っている姿を描いています。
また、阿波人形浄瑠璃の怪談話で使われていたとみられる、幽霊の人形の頭の部分にあたる「頭」など、
徳島ゆかりの資料も展示されています。
訪れた静岡県の50代の男性は「これだけの幽霊画をよく集めたなと思います。やはり怖いですね」と話していました。
徳島城博物館の学芸員、桑野あさひさんは「徳島で実物の幽霊画をこれだけ見ることができるのは初めてのことなので、
ぜひ見に来てもらいたい」と話していました。この特別展は、来月19日まで開かれています。 松江藩主、堀尾公の法要11/06 13:34nhk
松江城を築いた堀尾吉晴など松江藩を治めた堀尾家の功績をたたえる法要が松江市の寺で行われました。
この法要は3代にわたって松江藩を治めた堀尾家の功績をたたえようと毎年行われています。
松江市栄町にある堀尾家の菩提寺の円成寺には、地元の人のほか、堀尾吉晴の出身地の愛知県大口町の関係者ら
およそ100人が参列しました。
法要では住職がお経を読み上げたあと、参列者を代表して松江堀尾会の鷦鷯修一会長が
「松江の地の豊かさに着目して城と城下町の建設という大事業に着手したことで、
その後の山陰の発展に大きく貢献した」と述べました。そして、参列者らが順番に焼香を行いました。
堀尾吉晴は関ヶ原の戦いでの功績が認められ徳川家康から出雲と隠岐を与えられたあと、
江戸時代初期の1607年に松江城の築城に着手し、現在の松江の基礎をつくったとされています。
参列者は午後から安来市にある吉晴の墓を訪れることにしています。 ■時代区分を見直す中世史家 保立道久・東京大学名誉教授
歴史には時代区分がある。
だが、日本史で一般的に使われる「平安」も「鎌倉」も「室町」も問題だと指摘し、新たな区分を提案する歴史家が現れた。
名付けを見直し、区切る事件を変える。歴史の大きな流れが理解しやすくなるというのだ。
明治以前を「古墳→大和(やまと)→山城(やましろ)→北条→足利→織豊(しょくほう)→徳川」にすべきだ、というそのわけは。
――時代区分を変える必要などあるのでしょうか。
「時代区分は、歴史を少しでも分かりやすくするための印です。
学界も習慣的に使っていますが、社会への影響が大きく、もっと深く考えるべきだと思いました」
「ヨーロッパや中国などの外国は、王朝交代で時代を区切ります。日本の天皇は『万世一系』ですから難しいのですが、前近代の政治の中心は王権です。
王権の変化で区切るほかありません」
http://www.asahi.com/articles/ASKB05T40KB0ULZU015.html
http://imgur.com/eassubU.jpg 閑谷学校の楷の木色づく11/10 12:29nhk
江戸時代に建てられた庶民教育のための学問所で国の特別史跡に指定されている備前市の閑谷学校で、
シンボルとなっている2本の楷の木がオレンジ色になり見ごろを迎えています。
閑谷学校は、江戸時代に岡山藩が庶民教育のための学問所として開き、国の特別史跡に指定されています。
学校には中国の思想家、孔子をまつった聖びょうの前に2本の楷の木が植えられていて、樹齢はことしでともに
102年になります。
楷の木は聖びょうに向かって左側は赤に、右側は黄色に色づくのが特徴で、今は2本ともオレンジ色の状態です。
楷の木の葉は樹木医の指導で肥料を与えたりしたことで例年になくよく茂っていて、訪れた人たちは色づいた木を
眺めたりカメラに収めたりしていました。
瀬戸内市から訪れた30代の女性は「とてもきれいで癒されます。
学校の落ち着いた雰囲気も良いですね」と話していました。
閑谷学校の楷の木の紅葉は、この週末に最も色づきそうだということです。 庄原 東城町 伝統の「お通り」11月04日 19時06分nhk
庄原市東城町に江戸時代から伝わる伝統行事、「お通り」が行われ華やかな装飾を背負った子どもたちが城下町を練り歩きました。
「お通り」は江戸時代から伝わる伝統行事で関ヶ原の戦いのあと東城を治めた長尾隼人が関ヶ原の戦いの勝利を祝ってみこし行列に武者行列が加わったのが始まりとされています。
4日は地元の人たちおよそ100人が大名や武士にふんしておよそ2キロの道のりを行列を作って練り歩きました。
列の後方には、武者人形とサザンカの花を飾り付けた「母衣」と呼ばれる装飾を背負った華やかな着物姿の小中学生たちも加わり、行列に彩りを添えていました。
母衣は、平安時代に武者が背後からの矢よけに用いた武具が変化したもので、沿道に集まった人たちが写真に収めていました。
母衣を背負った男子中学生は「楽しかったです。貴重な体験になりました」と話していました。
地元の女性は「毎年見ています。
母衣が重くないのかといつも思います。すばらしい時代絵巻をこれからも続けていってほしいです」と話していました。 東城でお通り[2017.11.4 17:56]rcc
庄原市東城町で、江戸時代から伝わる伝統行事「お通り」が行われました。
よろい武者に殿様、お姫様と続く、総勢130人の行列は、町の中心部をゆっくりと練り歩きました。【記事全文】
東城の「お通り」は、関ヶ原の戦いのあと城主となった長尾隼人が、地元の秋祭りに戦勝記念の武者行列を加えたのが
始まりだと言われています。注目は、小中学生が担ぐ母衣隊です。
母衣(ほろ)は、戦場で後ろから飛んでくる矢を防ぐために背負う布やカゴの事です。
華やかな装飾を施して現在に受け継がれているのは、全国でも珍しいそうです。
綺麗にお化粧してもらった女の子は、カメラの列に笑顔で応えていました。
「華やかですてきだと思います。きょうは孫が出てるので来たんです。かわいいです」(女性客)
東城の町並みは、城下町の雰囲気を楽しむ人で終日賑わいました。 小早川隆景の直筆書状など展示11月5日 12時26分動画nhk
三原城の築城450年を記念して戦国時代に活躍した武将、小早川隆景の直筆の書状などを公開する特別展が三原市で開かれています。
この特別展は、三原市が三原城の築城450年を記念して、京都市の美術品販売店が所有していた書状を購入したことから企画したものです。
会場には、小早川隆景や毛利輝元直筆の貴重な書状が展示されています。
このうち小早川隆景の書状は、毛利家の家臣、熊谷就真が織田家との戦いの前線に入ったという便りへの返信です。
近く出陣する毛利輝元に相談するよう促すなど、戦況の厳しさが増していく緊迫した様子がうかがえます。
福山市から訪れた36歳の女性は、「メールや電話で気軽に連絡できる今と違い、手紙でどのような貴重なやりとりがあったのかとても興味深いです」と話していました。
この特別展は三原市の「みはら歴史館」で今月26日まで開かれています。 米子城跡で竪堀の遺構か11/11 19:06nhk
米子市の郊外にある戦国時代末期の城跡「米子城跡」で、斜面に沿って上下方向に掘られた「竪堀」と見られる遺構が見つかりました。
米子市教育委員会では、別の尾根で見つかった「登り石垣」とともに城を守るために築かれたものとみてさらに調査を進めることにしています。
これは11日、米子市で開かれた、山陰の城跡に関するシンポジウムで、米子市教育委員会の浜野浩美学芸員が明らかにしました。
それによりますと、ことし4月から行われている米子城跡の発掘調査で、北東側の斜面に沿って上下方向に掘られた「竪堀」と見られる遺構が確認されたということです。
「竪堀」の大きさは底の部分が幅6メートル前後、深さが最大5メートル、長さ80メートル以上あり、山の斜面を回り込んで攻めてくる敵を防ぐために設けられたとみられています。
米子城跡からは去年、山の北側の尾根に沿って築かれた全国でも数例しかない「登り石垣」という石垣が見つかっていて、市教育委員会は、
今回、見つかった「竪堀」と「登り石垣」が天守にいたる「二の丸」を両側から守るために築かれたものとみてさらに調査を進めることにしています。 築城450年記念事業を締めくくる 広島・三原浮城まつり 地域 生活11/05(日) 18:10 掲載
広島県にある三原城築城450年の記念事業を締めくくる、『三原浮城まつり』が5日行われ、甲冑(かっちゅう)
部隊の練り歩きなどで盛り上がりました http://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000000154.htm
「エイエイオー!」の掛け声も勇ましく練り歩きをしたのは、三原城を築城した戦国武将・小早川隆景にちなんだ
「甲冑部隊」。記念撮影を求める観光客も大勢みられました。
今年は毛利3兄弟に縁のある安芸高田市や北広島町などの武将隊のほか、サンフレッチェ広島の
アンバサダー・森崎浩司さんも応援に駆け付け、『三原浮城まつり』恒例の練り歩きを盛り上げました。
このほか、祭では、今年2月に始まった三原城築城450年事業の閉幕式も行われ、市内の中学生が伝統の獅子太鼓
を披露したほか、築城500年に向けた未来宣言を読み上げて、1年間の記念事業を締めくくりました。 [12日 18:15]矢掛町で大名行列. http://www.rsk.co.jp/sp/#local_news_20171112_3
旧山陽道の宿場町として栄えた岡山県矢掛町で、矢掛の宿場まつり大名行列が行われました。
昔ながらの町並みが残る岡山県矢掛町です。
大名行列は、江戸時代の宿場町の賑わいを再現したもので、毎年実施されてい---ます。
姫君や奥方役などに公募で選ばれた約80人が参加しました。
一行が旧山陽道の約1.5キロを練り歩くと町は華やかな雰囲気に包まれました。
奴らが毛槍を投げかわすパフォーマンスも披露されました。
まつりには約3万人が訪れ、壮大な歴史絵巻を楽しんでいました。 伊能忠敬の足跡をたどる11/12 19:25nhk
全国各地を歩いて測量に基づいた最初の日本地図を作った伊能忠敬の足跡を実際に歩いて巡るツアーが浜田市で開かれました。
伊能忠敬は江戸時代後期に全国各地を歩いて測量に基づいた日本地図を初めて作ったことで知られ、浜田市にも2度訪れたことが日記に記されています。
その足跡をたどって地元の歴史や土地の成り立ちに興味を持ってもらおうと、浜田市の浜田高校で地理を教えている阿部志朗さんがツアーを企画し、島根県立大学の学生など14人が参加しました。
参加者は伊能の作った地図を手に当時、歩いたと想像されるルートを通ってJR浜田駅からおよそ5キロ離れた下府駅に向かいました。
江戸時代の道は現在の国道や県道などと重なっている部分もある一方で、舗装されずにかろうじて道だったと分かる部分もあります。
また、途中には広島県に続く石畳の街道や峠道などもあって参加者は歴史の流れを感じながら伊能の足跡をたどっていました。
大学3年生の男子学生は、「伊能忠敬が浜田市を通っていたことを知らなかったので、石畳の道などでその歴史を感じました。地形に興味を持てたので、いろいろな所を巡ってみたいと思います」と話していました。 「江戸幕府と徳島藩」の企画展11月8日 5時59分動画nhk
江戸時代に幕府や徳島藩が進めた改革を通して、当時の社会の様子を紹介する展示会が、徳島市で開かれています。
展示会は徳島県立博物館で開かれていて、江戸時代に幕府や徳島藩で改革を進めた人物の肖像画や古文書など、およそ100点が展示されています。
徳島藩の第10代藩主の蜂須賀重喜を紹介するコーナーでは、藩の財政改革を進め、藍の生産や販売に力を入れたことを伝える古文書が展示されています。
また、第11代藩主の治昭を紹介するコーナーでは、この時代の藍商人が使っていた帳簿が展示され、全国の取引先の記載があることから、手広く行商をしていたことがうかがえます。
このほか、アメリカのペリー来航を受けて、江戸の防衛のため徳島藩から藩士が出陣する様子を描いた絵巻も展示され、徳川家と蜂須賀家の結びつきを物語っています。
徳島県立博物館の学芸員、松永友和さんは「江戸幕府と徳島藩の政治的な関係や、当時の社会や暮らしなどに注目して展示を見てほしい」と話しています。
この展示会は、今月19日まで開かれています。 県内の風水害の歴史資料を展示11月8日 6時00分動画nhk
徳島県を襲った台風などの被害を記録した文書や写真を通して災害の歴史を伝える展示会が、徳島市で開かれています。
この展示会は、徳島市の県立文書館が開いていて、江戸時代から現代までに県内を襲った台風などの被害や復旧の状況を記録した文書や写真など58点が展示されています。
県内で300人余りの犠牲者が出た明治25年の水害の被害状況を記した地図は、今の藍住町など吉野川の下流周辺の地域が広い範囲で水につかったことを示しています。
また、昭和9年の室戸台風に関する展示では、今の神山町周辺の家屋の被害状況や復旧工事の内容を記した公文書3点が紹介されています。
このほか、室戸台風によって建物や道路が流された地域の様子や、住民総出で復旧作業を行っている様子などを撮影した写真も展示されています。
県立文書館の金原祐樹課長補佐は「災害を乗り越えてきた歴史を知ることで、今後の災害をもっと自分のこととして考えるようになってほしい」とと話していました。
この展示会は、来年の1月28日まで開かれています。 【児童に関心】漫画「るろうに剣心」作者・和月伸宏、児童ポルノ動画所持容疑で書類送検★9
http:// hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1511262161/ 2017/11/27「みんなのニュース」19:30 動画あさのあつこ氏作 岡山藩物語完成http://www.ohk.co.jp/news/news.php?VNO=2918 [04日 19:10]平賀源内をテーマにしたシンポジウム. https://www.rsk.co.jp/sp/news/#local_news_20171204_4
江戸時代に「エレキテル」を発明したことなどで知られる平賀源内をテーマにしたシンポジウムが、岡山市北区で開かれました。
岡山にゆかりのある蘭学者を紹介しようと、山陽放送学術文化財団がシリーズで企画しているもので、
会場には約250人が訪れました。 今回のテーマは、江戸時代中期に活躍した平賀源内です。
基調講演では、日本女子大学で教授を務める福田安典さんが、エレキテルの発明や、浄瑠璃や戯作の制作など、
平賀源内が残した幅広い分野で---の功績を紹介しました。
シリーズ最終回となる次回は「近代日本を拓いた蘭学者たち」をテーマに、来年2月23日に開かれる予定です。 【歴史戦・第19部 結託する反日(中)】
「徴用工」に注がれる科研費 前文部科学事務次官の前川喜平氏は韓国と同調
ttp://www.sankei.com/images/news/171213/wor1712130007-p1.jpg
「KAKEN」という題字が書かれたデータベースがある。
文部科学省および同省所管の独立行政法人・日本学術振興会が交付する科学研究費助成事業(科研費)により行われた研究の記録を収録したものだ。
ここには次のような情報が掲載されている。
「市民による歴史問題の和解をめぐる活動とその可能性についての研究」(東京大教授 外村大ら、経費3809万円)、
「戦時期朝鮮の政治・社会史に関する一次資料の基礎的研究」(京都大教授 水野直樹ら、同1729万円)、
「朝鮮総動員体制の構造分析のための基礎研究」(立命館大准教授 庵逧〈あんざこ〉由香、同286万円)=肩書は当時。
単年度もあれば複数年にまたがる研究もある。
外村、水野、庵逧の3人に共通しているのは、3月25日に長野県松本市で開かれた「第10回強制動員真相究明全国研究集会」で
「強制連行・強制労働問題」について基調講演などを行ったということだ。
ttp://www.sankei.com/politics/news/171213/plt1712130010-n1.html
徴用工をめぐる韓国側の主張に同調する研究者らに文科省などが助成金を交付していたことを伝えた産経新聞の報道(13日付朝刊)を受け、
党文部科学部会は14日、文科省幹部を呼び説明を受けた。珍しく迅速な動きを見せたが今後も激化する歴史戦に対応できるかは見通せない。
ttp://www.sankei.com/politics/news/171214/plt1712140031-n3.html 赤穂浪士をしのんで松山義士祭2017年12月14日(木)更新itv
12月14日は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日です。
浪士2人の遺髪が収められた松山市内の寺では義士祭が行われ、義士に扮した参加者らが街を練り歩きました。
松山市末広町にある興聖寺では、地元の人たちが赤穂浪士の供養と地域の発展を願い、毎年この日に祭りを開いています。
まず、義士に扮した参加者およそ30人が、ヤリや刀を手に寺や松山市駅の周辺1キロほどを練り歩きました。
そして、四十七士のうち松山藩に預けられていた木村岡右衛門と大高源吾の遺髪が納められた塔の前で参加者が
次々に手を合わせ、忠誠心を胸に戦った浪士たちに思いをはせていました。
また境内では、浪士が討ち入り前夜に食べたという「討ち入りそば」も振舞われ、参加者は師走の寒さの中、
身体を温めていました。 浜田の発展に寄与 港の歴史学ぶ12/17 18:34nhk
江戸時代、浜田市に浜田藩が開かれて再来年で400年になるのを記念し、発展に寄与した港の歴史について学ぶ講演会が開かれました。
この講演会は、江戸時代に浜田藩の発展に寄与した港の役割や歴史について地元の人たちに理解を深めてもらおうと浜田市が開いたものです。
会場の島根県立大学のホールにはおよそ200人が集まり、県立浜田高校の阿部志朗教諭など3人が講師をつとめました。
このうち阿部さんは物品を全国に運ぶ「北前船」が寄港していたことに触れ、取り引きの記録などからいまも特産品として知られる石見焼や石州瓦といった焼き物などが、当時から日本全国に運ばれていたことを紹介しました。
そのうえで、石見焼を船に積む際には当時としては珍しく入れ子状にこん包する方法が用いられるなど、できるだけ多くの品々を運ぶ工夫がされていたことも紹介され、阿部さんは、「北前船の寄港地として、浜田の港は、非常に大きな役割を果たしていた」と指摘していました。
講演会を聞いた地元の女性は、「浜田の物が全国にこんなに広がっていたとは思わず、とても勉強になった」と話していました。 戦没者遺骨収集で水増し領収証…厚労省職員処分
第2次世界大戦の戦没者遺骨を収集する事業で不適切な会計処理があったとして、厚生労働省は26日、職員40人を停職や減給、戒告の懲戒処分とした。
このほか、16人を訓告処分、担当幹部9人を文書で厳重注意とした。
懲戒処分となった職員は、停職1か月が2人、減給2か月(10分の1)が1人、減給1か月(同)が17人、戒告が20人。
会計検査院は、同省の職員60人が2011〜16年度、会計法令に違反して、海外で支払うべき前払い金計約4億5000万円を、国内で旅行会社などに支払っていたなどと指摘。
約30人は旅行会社に計約880万円を水増しした領収証を作成させていた。
http://sp.yomiuri.co.jp/national/20171226-OYT1T50061.html ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/154416
1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、
根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。
米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、
米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。
振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、
ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、
ともに連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。
米国は45年5〜9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など
計145隻の艦船をソ連に無償貸与。
4〜8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、
艦船やレーダーの習熟訓練を行った。
コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、
ソ連兵の指導に当たったという。 本物か?国宝の金印「漢委奴国王」で研究者が激論
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180121/k10011296541000.html
今からおよそ2000年前の弥生時代に、中国の皇帝から与えられ、江戸時代に見つかったとされている国宝の金印は、はたして本物なのか。
金印を所蔵する福岡市博物館は、本物だとしながらも真がんをめぐるシンポジウムを初めて開き、本物と偽物それぞれの立場をとる研究者が激論を交わしました。
この金印は、福岡市の志賀島で江戸時代に見つかったとされ、「漢委奴国王」という5つの文字が記されています。
今からおよそ2000年前の弥生時代に、中国の後漢の皇帝から九州北部にあった「奴国」の王に与えられたとする見解が定着し、国宝に指定されていますが、後世の偽物ではないかとする説が一部の研究者から出ています。
シンポジウムは、金印を所蔵する福岡市博物館が、本物と偽物それぞれの立場をとる研究者を招いて初めて開き、まず3人の研究者が基調講演で自説を展開しました。
このあと討論が行われ、この中でNPO・工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、文字を彫った痕などが江戸時代に一般的だった印の特徴を備えていると指摘し、「のちに製作された偽物の可能性が非常に高い」と主張しました。
一方、明治大学文学部の石川日出志教授は、中国各地で見つかっている古代の印の形や金の純度を比較した結果、「後漢時代の本物に間違いない」と訴え、偽物説に反論しました。
シンポジウムでは、文字やつまみの形などをめぐって激しい議論が交わされましたが、双方とも最後までそれぞれの主張を譲りませんでした。
福岡市博物館は、金印は本物だとする立場を変えていませんが、今回のシンポジウムについて、有馬学館長は「歴史的な価値が確定したかのように思われている資料でさえ、さまざまな見方ができ、学問的な根拠がぶつかっている。
こうした議論があることを多くの方に知ってもらうことで、文化遺産についての理解が一層深まると思います」と話していました。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
2AQ8M 「信長様に早くあいさつを」秀吉の書状発見
3/16(金) 7:10配信
織田信長が中国地方を支配する毛利輝元を攻めた「中国攻め」で、
羽柴(豊臣)秀吉が播磨(兵庫県)の有力武士に宛てた書状が見つかった。
秀吉が播磨を制圧するため、敵を味方に引き入れる調略を行っていたことを示す内容。
この調略は「信長公記」などに記され、その成功で信長は中国攻めの足場を固めたと
いわれるが、証明する古文書が見つかったのは初めて。
東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授が昨年末、
インターネットのオークションで落札し、筆跡や内容から本物と判断した。
天正5年(1577年)12月26日に秀吉から播磨の有力武士
「間嶋兵衛尉(まじまひょうえのじょう)」に出された書状で、
文末に「秀吉」の名と花押がある。
信長は天正3年から播磨攻略を進めており、後に秀吉の家臣となる
播磨の黒田官兵衛らが信長の軍門に下っていた。
間嶋は秀吉の調略に応じたが、ほかの武士たちが既に「上様(信長)」のもとを訪れ、
「御礼(服属のあいさつ)」を済ませたのに、間嶋だけがまだ来ないと指摘し、
近日中に信長が上洛する際にあいさつするようせかしている。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180315-00050120-yom-ent 「俺の歴史的大発見を発表させろ!」地方の博物館に急増する“歴史的新発見おじさん”たち
2018年5月27日 14時00分
「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で『自分がやってきた研究成果を発表する機会をつくってほしい』という人が、最近多いんですよね」
そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。
すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、リタイアした団塊の世代による独自研究の「持ち込み」が増加しているという。
「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。でも、だいたいはトンデモ論。
原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同)
つづきはソースで
https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20180527/Cyzo_201805_post_163508.html とても簡単な稼ぐことができるホームページ
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W7N 「俺の歴史的大発見を発表させろ!」地方の博物館に急増する“歴史的新発見おじさん”たち
https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201805_post_163508/
「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で『自分がやってきた研究成果を発表する
機会をつくってほしい』という人が、最近多いんですよね」
そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。
すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、リタイアした団塊の世代による
独自研究の「持ち込み」が増加しているという。
「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。
でも、だいたいはトンデモ論。原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、
一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同)
その「発見」の内容もさまざまだ。長らく論争になっている、邪馬台国がどこにあったのかについて
持論を述べる人もいれば、本能寺の変の真相を語る人もいる。だが、もっとも多いのは、その地域に関わるものだ。
「どこの地域でも在野の郷土史家という人はいます。でも、持ち込みをするようなタイプの人は、
そうした人々にも拒否されています。なにせ、地域の古い神社の由緒をもとにオカルトを論じたりとかするんです」(同)
そんな中でもヤバいのは縄文時代にまつわる研究だ。
「知っての通り、縄文時代は文字を持たない時代。だから、土器の紋様を見て『これは○○を表現していることが、
“私”の研究でわかった』なんて自信満々に話を始める人が多いんですよ。中には『縄文時代には戦争がなかった』と、
演説を始める人も。どれだけ縄文に夢を見ているのか……」(同)
「ある県立博物館で縄文土器の写真を貸してもらおうとしたら、値段が高かったのでウチに来たという人もいました。
自費出版の本に使いたかったようですが、研究内容はやっぱりトンデモ系。上司が『あなたの主張は、
これまでの多くの研究成果を踏まえていない』と、なんとか断りましたが、顔を真っ赤にさせて帰って行きました」(同) 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 中国では未だに洞窟暮らしの人々もいるけど
日本で村単位の洞窟暮らしは聞いたことがないね
その両国の間にある国の生活状況は、もっと酷いけどw 哲学者の梅原猛さん死去 日本古代史に大胆な仮説を展開
ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190114-00000002-asahi-soci
独自の理論で日本古代史に大胆な仮説を展開した哲学者で、国際日本文化研究センター(日文研、京都市西京区)の
初代所長を務めた文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが12日、死去した。93歳だった。
1925年、仙台市生まれ。京都大学哲学科卒業後、立命館大学教授や京都市立芸術大学長などを歴任した。
60年代から日本文化研究に傾倒し、72年に奈良・法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられたとする
「隠された十字架―法隆寺論」を出すと、73年には万葉歌人の柿本人麻呂は流刑死したとする
「水底(みなそこ)の歌―柿本人麿論」を刊行。通説を覆す独創的な論は「梅原古代学」と呼ばれ、
大きな反響を呼んだ。
80年代前半には、日本文化を総合的に研究する中心機関の必要性を訴え、当時の中曽根康弘首相に
直談判するなど政府関係者を説得。日文研の創設にこぎ着け、87年に初代所長に就任した。
社会的発言も多く、日本人の死生観をもとに「脳死」の考え方に強く反対したほか、イラク戦争や
自衛隊の海外派遣の反対、平和憲法擁護なども訴えた。一方で、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の
創作など劇作家としても活動し、多才ぶりを示した。
99年に文化勲章受章。97年から日本ペンクラブ会長を3期6年務めた。2004年には
「九条の会」呼びかけ人となり、11年には東日本大震災復興構想会議の特別顧問となった。 古代史学者の直木孝次郎さん死去 「河内政権論」提唱
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190216-00000056-asahi-soci
戦後の古代史研究をリードし、遺跡の保存運動にも力を尽くした大阪市立大学名誉教授の
直木孝次郎(なおき・こうじろう)さんが、2日に老衰で亡くなっていたことがわかった。
100歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長女東野美穂子さん。
1919年、神戸市生まれ。京都帝国大学(現京都大学)卒。大阪市立大学、岡山大学、
相愛大学などの教授を歴任した。
戦前の歴史観の原典となった日本書紀や古事記への史料批判を通じ、実証を重視した古代史研究を進めた。
研究対象は幅広く、古代氏族や天皇制などについて論文を数多く発表。1964年には、
古墳時代に大阪の河内平野に台頭した勢力が、奈良の大和盆地を拠点とした政権を倒し、
新たな政権を打ち立てたとする「河内政権論」を提唱し、注目された。
大阪市の難波宮(なにわのみや)跡など全国の重要な遺跡の保存や検証に積極的に取り組んだ。
89年に大阪文化賞を受賞したほか、2000年には文化財保護の活動を顕彰する和島誠一賞の
第1回受賞者に選ばれた。03年にはその幅広い活動に対し、井上靖文化賞が贈られた。
万葉集にも関心を持ち、自身でも歌集を出したほか、晩年には、海軍士官として終戦を迎えた
戦争への思いを朝日歌壇に度々投稿した。戦後70年たった15年に入選した
「特攻は命じた者は安全で命じられたる者だけが死ぬ」は、朝日歌壇賞を受賞した。
著書に「日本古代国家の構造」「日本古代の氏族と天皇」「古代河内政権の研究」など。 山内家の墓所を特別公開03月01日 12時22分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/20190301/8010004510.html
高知市筆山にある江戸時代の土佐藩主、山内家の墓所が、国の史跡に指定されて1日で3年になるのにあわせ、
特別に公開されました。
高知市中心部に近い筆山の山麓に広がる山内家の墓所には、東京で亡くなった15代の山内容堂を除き、初代、
一豊をはじめ、歴代藩主15人の墓が並んでいます。
国の史跡に指定されて3年となる1日、ふだんは入ることができない墓所の一部が特別に公開され、事前に申し込みを
した12人が、高知城歴史博物館の担当者の説明を聞きながら回りました。
墓は時代ごとにさまざまな形で、このうち、初代、一豊の墓は「卵塔型」と呼ばれる卵のような形の石がそびえ立っています。
一豊は江戸時代初期、大名の墓の形がまだ定まらない時期に亡くなったため、位の高い僧侶の墓を参考に作られたということです。
また、17歳の若さで亡くなった11代藩主、豊興の墓は、笠がついた「笠付型」と呼ばれる山内家には最も多い形で、
墓に至るまでには参道やちょうず鉢もあり、丁寧な作りとなっています。
参加した人たちは、写真を撮るなどして興味深そうに見ていました。
参加した71歳の男性は「実際に見られて感動しました」と話していました。
高知城歴史博物館では、ことし9月にも山内家の墓所をテーマにした企画展を開催するのにあわせ、墓所の公開を予定しています。 勝賀城は「近世的な城」03月14日 11時06分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190314/8030003260.html
香川県内の山城の中でも規模が大きく、保存状態も良い高松市の「勝賀城」は、城の中心部を囲む土の壁や入口の
つくりなどから、戦国時代末期に豊臣氏の配下にあった大名によって改修された可能性の高いことが市の調査で
わかりました。高松市の勝賀山にある「勝賀城」は、中世の讃岐の有力な領主だった香西氏が築いたとされています。
主郭と呼ばれる城の中心部の広さは県内の山城の中でも最大級で、保存状態も非常に良く、高松市が国の史跡指定
を目指して平成28年度から調査を続けています。
これまでの調査で、土を盛って築いた壁、土塁で主郭を二重に囲み、さらに、敵に対して側面から攻撃ができるように、
直線状の土塁に角度を持たせた「折」(おれ)というつくりを多数設けていることが確認されました。
また、入り口の前に側面から攻撃ができる空間を設けたり、真っ直ぐに進めないように入り口の両脇の土塁をずらして
喰い違う形にしたりしていることがわかりました。
高松市はこうした防御の工夫を凝らした設計は、近世的な城の特徴を示すもので、「勝賀城」は戦国時代末期に讃岐
に入った豊臣氏配下の大名、仙石氏か生駒氏によって改修された可能性が高いとしています。
高松市では今月21日に「勝賀城」の現地見学会を開くことにしています。 丸亀城 崩落した石垣の撤去開始03月15日 16時24分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190315/8030003275.html
去年、石垣が大規模に崩れた丸亀城で、崩れた場所を補強する応急対策を行うため、崩れた石を撤去する作業が
始まりました。丸亀城では去年、西日本豪雨などによる大雨の影響で城の南西部の石垣が大規模に崩れました。
丸亀市は崩れた場所を補強するため今年2月から応急対策を進め、14日からは工事の支障となる崩れた石を撤去
する作業を始めました。
石は大きいもので重さ1.7トンあり、15日、城の中段にあたる三の丸坤櫓跡の角にあった石を、大型クレーンを使って
1つずつ近くのグラウンドに移動させていました。
丸亀市は、崩れた場所の周辺にある571個の石を撤去し、その後、斜面をモルタルで固めるなどして5月中には応急
対策工事を終わらせたいとしています。
また丸亀市は、崩落した場所を含む城の南西部の石垣の6000個余りの石を本格的に積み直す工事にも早ければ
来月から取りかかりたいとし、2023年度中に終わらせることを目指しています。
丸亀市都市整備部の谷口信夫部長は「工事は順調に進んでいるが、春先は雨や風の影響も受けるおそれがあるため、
安全面に気をつけて必ず梅雨までに応急対策工事を完了させたい」と話していました。 国の登録有形文化財 新たに5つ03月20日 07時46分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20190320/8020004253.html
100年余り前の大正時代に建てられた海陽町の洋館など県内の5つの建物が、新たに国の登録有形文化財に
登録されることになりました。
新たに国の登録有形文化財に登録されることになったのは、海陽町と三好市にある江戸時代から昭和までの5つの
建物です。
このうち海陽町大里の「多田家住宅洋館」は、100年余り前の大正4年、海運業を営んでいた多田家が神戸の洋館を
参考に建てたもので、当時の成人男性の教育組織「若者組」の拠点となる「若衆宿」として使われました。
建物は、寄棟造り木造2階建てで、正面2階の突き出た部屋を利用した玄関ポーチや、窓の上に施された
「ペディメント」と呼ばれる、西洋建築でよく見られる三角形の装飾などが特徴です。
このほか、江戸時代の中ごろに建てられた三好市東祖谷の農家の母屋「ち庵」や、昭和9年に建てられた街道沿いの
雑貨店「河井百貨店」なども国の登録有形文化財に登録されます。
登録有形文化財への登録は、年内にも正式に決定される見通しで、県内の国の登録有形文化財はこれで190件に
なります。※「ち」は竹かんむりに、「盾」の「十」「目」の部分が「虎」。 披雲閣「蘇鉄の間」耐震補強へ03月27日 18時22分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190327/8030003356.html
国の重要文化財に指定されている高松城跡の「披雲閣」の耐震化に向けて、高松市は、利用者が多い「蘇鉄の間」
と呼ばれる部屋を鉄骨フレームなどによって補強する方針を決めました。
高松城跡の「披雲閣」は、歴代藩主だった松平家の別邸として大正6年に建築された書院造りの建物で、国の
重要文化財に指定されています。
高松市は、耐震診断の結果に基づいて「披雲閣」の主な5つの部屋の補強案をまとめ、27日、「披雲閣」で開いた
専門家による会議で説明しました。
これらの案は、文化財としての価値を考慮して、できるだけ目立たないかたちで震度6強以上の地震にも耐えられる
ように補強するものです。
会議の結果、イベントなどで利用する人が多く緊急性の高い「蘇鉄の間」については、鉄骨フレームを縁側の柱に
そわせて設置するなどして補強する方針が決まりました。
高松市は、新年度に「蘇鉄の間」の耐震補強の実施設計を行い、再来年度から工事を始める予定です。
また、最も広い、およそ140畳の「大書院」については、西側の使われていない小部屋と廊下や東側の外壁に鉄骨
フレームを設置する案を中心にさらに検討を行うことになりました。
高松市では「大書院」などほかの部屋についても今後、補強の方針を決め、順次、耐震化を進めていくことにしています。 明日から一般公開される尼崎城。
ニュースでやってるけど、前途多難。
3D体験とか着物の着付けとか、如何にもな演目を並べてるけど、
運営に年間一億もかかるってのがそもそも間違ってる希ガス。
暇なジジババがボランティアにやってきやすい環境を考え、何の魅力も感じられない施設を省いて、
人件費や光熱費を下げる努力をしないと、
数年で市のお荷物になる予感しかしねぃ… 丸亀城修復に寄付1億7千万円余03月28日 06時41分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190328/8030003358.html
去年西日本豪雨などの影響で、石垣が大規模に崩落した香川県の丸亀城の石垣の修復の費用にあてるため、
地元の丸亀市に寄せられた寄付金はこれまでに1億7000万円余りにのぼり、支援の輪が広がっています。
丸亀城は、去年の西日本豪雨や相次ぐ台風の影響で城の南西の石垣が大規模に崩れていて、丸亀市によりますと、
修復には少なくとも31億円余りの費用がかかる見込みだということです。
このため丸亀市は、石垣の修復の費用に充てるため、去年10月からふるさと納税や市内を中心におよそ120か所に
設置した募金箱などで寄付金を募っています。
丸亀市によりますと、企業や個人からの寄付金が相次いで寄せられた結果、寄付金の総額は26日の時点では
1億7200万円余りにのぼっています。
内訳は、企業や個人などから直接市に寄せられた寄付金がおよそ9900万円、ふるさと納税が6100万円余り、
銀行口座への振り込みがおよそ840万円、募金箱の募金が320万円余りとなっています。
丸亀市は「寄付金は全国から寄せられ、丸亀城が全国の人たちから愛されていることがわかった。
応援に応えられるよう全力で修復に取り組んでいきたい」とコメントしています。 松山城の麓でチャンバラ合戦03月24日 12時31分ttps://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20190324/0003349.html
松山城のふもとの公園で、およそ250人が敵味方に分かれてチャンバラの合戦を楽しむイベントが行われました。
このイベントは、チャンバラを通じて楽しく体を動かしてもらうとともに、松山市の観光名所の松山城をPRしようと、
愛媛県内で初めて行われました。
松山城のふもとにある城山公園の広場では、午前の合戦に、親子連れなどおよそ250人が参加しました。
中には、手作りのかぶとを用意してきた気合い十分の子どももいて、参加した人たちは愛媛県のイメージキャラクター
の「みきゃん」軍と「ダークみきゃん」軍に分かれて合戦の時を待ちました。
そして、「戦、開始」の合図とともに、スポンジでできた刀を持って一斉に敵陣に突撃していました。
チャンバラ合戦は、腕にくくりつけたボールを落とされるまで戦うことができ、およそ5分の制限時間内に何人
勝ち残れるかや各陣営の大将の「みきゃん」と「ダークみきゃん」を討ち取れるかなどで勝敗を競います。
合戦は4回行われ、参加した人たちは青空のもと、さかんに刀を振るっていました。
松山市から参加した8歳の男の子は「楽しかったです。敵は倒せなかったけど、逃げ回って勝ち残ることができました」
と話していました。このイベントは、午後も行われます。 高松城天守の模型寄贈される04月02日 18時15分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190402/8030003404.html
東京の愛好家が作ったおよそ60分の1の大きさの高松城の天守の模型が、高松城跡の玉藻公園に寄贈されました。
高松城は、堀に海水を引き入れた水城として知られていますが、5階建てで四国で最も大きかった天守は、明治17年
に取り壊され去年、天守の復元を求める10万人分の署名が市に提出されています。
2日は国の史跡に指定されている高松城跡の玉藻公園で、東京に住む愛好家の長谷川進さんが作った高さ70センチと、
およそ60分の1の大きさの天守の模型が公園を管理する団体に引き渡されました。
模型は長谷川さんが専門誌に掲載された図面などをもとに、およそ8か月かけて木材や紙で製作したもので、天守の
外壁が外側に張り出した「石おとし」や自然の石をそのまま積み上げる「野面積み」という手法でつくられた石垣など
細部まで再現されています。
長谷川さんは「高松城の洗練された造りを多くの市民のみなさんに見てもらって、これなら復元しようという1つの目安
にしてもらいたい」と話していました。この模型はきょうから玉藻公園の中にある「陳列館」に展示されています。 松山城天守で子ども能楽03月28日 18時24分ttps://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20190328/0003379.html
子どもたちが伝統芸能の能楽を披露する発表会が、松山城の天守で開かれました。
ことしで11回目を迎えた発表会には、2歳から中学3年生までの県内の子どもたち56人が参加しました。
子どもたちは松山城の天守に設けられた能舞台で、2人以上で声をあわせて謡う「連吟」や、謡にあわせて扇をかざし
ながらすり足で舞う「仕舞」を披露しました。
松山は、江戸時代に松山藩をおさめていた松平家や、正岡子規をはじめとする俳人たちが能楽をたしなんだと伝わる
など古くから能楽が盛んな地として知られています。
今回初めて参加した2歳の女の子は、「緊張したけど楽しかった、また出たいです」と話していました。
会を主催した愛媛能楽協会の中岡紘子理事は、「愛媛は俳句の街だと広く知られているが、能楽も盛んだということを
伝えたい。子どもたちに未来へと継承していってほしい」と話していました。 高知城花回廊を前に設営作業04月05日 12時05分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/kochi/20190405/8010004760.html
夜の高知城を灯籠の明かりや生け花で鮮やかに彩る高知城花回廊が5日夜から始まるのを前に、会場では生け花の
設営作業が行われています。
この催しは、華やかに彩られた夜の高知城を楽しんでもらおうと、高知市観光協会が春の観光シーズンにあわせて
毎年この時期に開いています。
城の正門にあたる追手門から天守閣までの道には、15の流派による生け花が展示されることになっていて、5日夜
からのスタートを目前に控え、5日朝から設営作業が進められています。
このうち、青蘭流の生け花は、トルコギキョウや菜の花といったピンクや黄色などの鮮やかな草花が使われていて、
師範たちが、色のバランスや全体の形を細かく確認しながら丁寧に生けていました。
また、嵯峨御流は、高知城の満開の桜を背景に、柳などを使って川辺の風景を再現していました。
高知市観光協会の土居慧さんは「ふだんは入れない夜の高知城を、満開の桜と生け花とともに楽しんでほしい」
と話していました。高知城花回廊は、5日から7日までの3日間、午後6時から開かれます。 松山春まつり 大名武者行列2019年04月07日(日)更新ttps://www.itv6.jp/n-st-ehime/news_detail.php?date=20190407&no=0001
松山に春を告げるイベント「松山春まつり」が、7日、最終日を迎え、恒例の大名武者行列では、
地元ゆかりの武将や姫に扮した市民らが、勇壮な時代絵巻を披露しました。
7日の大名武者行列では、公募で集まった市民およそ200人が、地元ゆかりの武将や家来に扮し、
松山市のロープウェイ街から千舟町通りまでのおよそ1.5キロを練り歩きました。
今年は、ゲストにお笑いトリオのダチョウ倶楽部が招かれ、松山城主の加藤嘉明に扮する上島竜兵さんが、
家臣役の肥後克弘さんと寺門ジモンさんとともに現れると、沿道に詰めかけた人たちから、熱い声援が送られていました。
訪れた市民や観光客らは、勇壮華麗でコミカルな時代絵巻を心行くまで楽しんでいました。 ダチョウ倶楽部登場 大名行列「や〜!」(4月7日17時59分)ttp://www.ebc.co.jp/news/data/index.asp?sn=6943
松山春まつりは7日最終日を迎えました。
名物の大名武者行列には人気お笑いタレントのダチョウ倶楽部も登場し、大勢の見物客を楽しませました。
松山春まつりを締めくくる恒例の大名武者行列で今年、ゲスト出演したのは人気お笑いタレントのダチョウ倶楽部。
松山城主の加藤嘉明役を上島竜兵さんが務め、市民およそ200人が扮した豪華な着物姿のお姫様や甲冑姿の
武士を従えて、大街道や千舟町通りなどを練り歩きました。
沿道には大勢の見物客が詰めかけて豪勢な時代絵巻を楽しみ、特にダチョウ倶楽部が現れると手を振ったり写真や
映像に収めたりして、松山の春を満喫していました。 ■2019年04月11日(木)宇和島城登城記念の印状が登場11:31 ttp://eat.jp/news/index.html?date=20190411T113102&no=6
宇和島城の登城記念印状が誕生しました。10連休初日の27日から販売開始です。
宇和島城登城記念印状には宇和島伊達家の家紋があしらわれています。
県内では、松山城や大洲城で登城記念符などが販売されていますが宇和島城でも「何か記念にするものはないか」
という観光客からの声を受け、今回宇和島市が制作しました。
宇和島城登城記念印状は税込み300円で、10連休初日の今月27日午前9時から宇和島城天守で販売を開始します。 天赦園で“ノボリフジ”咲き始める(4月12日10時47分)ttp://www.ebc.co.jp/news/data/index.asp?sn=6970
国の名勝に指定されている宇和島市の天赦園で、白玉藤が咲き始め園内には甘い香りが漂っています。
宇和島・伊達家ゆかりの日本庭園天赦園で、池にかかる長さ20メートル、幅4メートルのアーチ状のフジ棚に可憐な
白い花が咲き始めました。
一般にフジの花は下に垂れますが、この白玉藤は上に向かって花を咲かせるため“ノボリフジ”と呼ばれます。
今年は去年より1週間ほど遅い先週末から咲き始め、現在5分咲きで緑の多い庭園内でもひときわ目を引きます。
“ノボリフジ”は今週末が一番の見ごろになりそうです。 天赦園の「上り藤」が見頃04月12日 13時00分ttps://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20190412/0003462.html
宇和島市にある日本庭園「天赦園」で、アーチ状の藤棚に玉のような白い花を咲かせる「上り藤」がいま、見頃を迎えて
います。「天赦園」は、江戸時代末期に宇和島藩の7代藩主、伊達宗紀が隠居の場所として設けた日本庭園です。
伊達家の祖先が藤原氏とされることにちなんで園内には6つの藤棚があります。
このうち、池に架かるアーチ状の太鼓橋式の藤棚は、今月上旬から白い玉のような花が咲き始め、現在は五分咲きと
なり見頃を迎えています。
この藤は、「白玉藤」という品種で上向きに花をつけることから「上り藤」として地元で親しまれています。
訪れた人たちは、藤のそばで花に顔を近づけて香りをかぐなどして楽しんでいました。
仙台市から訪れた20代の女性は「同じ伊達家ゆかりの場所に来られてよかったです。
近づいて藤のにおいも実感することができました」と話していました。
天赦園の上り藤の見頃は今月20日ごろまで続くということです。 「衆鱗図」を8K映像で 内覧会04月26日 18時05分ttps://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20190426/8030003573.html
江戸時代に魚を独特な技法で描いた「衆鱗図」(しゅうりんず)などを収めた高松藩の「博物図譜」(はくぶつずふ)を、
NHKが4Kと8Kカメラで撮影した映像とあわせて公開する企画展の内覧会が、26日、高松市で開かれました。
香川県立ミュージアムで開かれた内覧会には、関係者や招待客など100人余りが参加しました。
はじめに、「博物図譜」を所有する高松松平家の14代当主、松平頼武さんが「江戸時代の文化・芸術を間近で見ることが
できるいい機会なので、多くの人に見に来てほしい」とあいさつしました。
「博物図譜」は、江戸時代の高松藩5代藩主の松平頼恭が作らせた図録で、魚・鳥・草花・樹木の4種類に分かれ
あわせて2000以上の図が収められています。
内覧会では、参加者が学芸員の説明を聞きながら、「博物図譜」の繊細で実物に忠実な描写に見入っていました。
また、企画展では、「衆鱗図」をNHKが4Kと8Kカメラで撮影し、従来のハイビジョンより高画質な
「4K・8Kスーパーハイビジョン」で映し出す企画もあわせて行われています。
高松市から訪れた60代の女性は「当時の細かい描写がはっきりと見えて、色合いも鮮やかで驚きました」と話していました。
この企画展は27日から来月26日まで県立ミュージアムで開かれています。 ■2019年04月29日(月)村上海賊の合戦図公開11:28 ttp://eat.jp/news/index.html?date=20190429T112811&no=3
村上海賊最大の海戦といわれる木津川口の戦いを描いた合戦図が、今治市の村上水軍博物館で公開されています。
公開されたのは、縦74センチ、横108センチの「難波船軍図」です。
1576年に、村上海賊が加わった毛利の水軍が、木津川口で織田信長の水軍を撃破した合戦を描いたものです。
合戦図は兵庫県在住の歴史資料収集家の男性が村上水軍博物館に預けたもので、男性は、
「郷土の歴史を多くの人に知ってほしい」と話しているということです。
この「難波船軍図」は6月23日まで今治市宮窪町の村上水軍博物館で一般公開されています。 登戸で殺された2人のうちの一人、外務省の公務員てことで、
気の毒から一転、ざまぁ、ってならなきゃいいけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています