任那(日本府) 加羅 20
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>>210
まずは帯方県の存在を示す文書の提示だな
それを持って価値が出る >>211
きちがいはしつこいなぁ。それ以前の思考回路の問題だろうがよw
直接的な証拠があろうがあるまいが
状況証拠として帯方郡の地形と「帯方」という漢字の文字列は関係がない。
あったら論理的におかしい、と言ってるの。 >>212
その意味には興味ない。別人だからね
帯方県なんて出してるから言ってるまでだよ は?
帯方県の位地がどこだろうと>>210の趣旨には変わりがないんだよ?
あなたが「帯方県なんて無かったかもしれんじゃん」というなら
「あっそ」で終わり。議論する価値もない。 >>214
適当に言っただけなんだね
触れてごめんね 楽浪郡25県の一つ帯方県が分郡されて帯方郡になったようですね。 百済があった全羅道って韓国の中では圧倒的に親日寄りだよね >>220
南部は倭人の子孫が中部は扶余系濊貊族の子孫も多いしな韓族だけの東側と違って >>219-222
全羅道は南ツングース容貌が多い本州の中国地方、近畿地方の西日本よりは、九州の倭人的容貌で、
つまり全羅道は、純粋な南ツングースたぁ、庶民的な韓人、倭人が混じった容貌も多いいよ。
朴信惠さんとかも。
https://www.youtube.com/watch?v=VdJHKN9vTwQ
https://www.youtube.com/watch?v=ChTx4-sWU3w
南ツングース容貌は満洲族に代表される。
https://www.youtube.com/watch?v=bhuczw3s9mI&feature=related
西日本や日本の上流階級に多いベルツ氏の云う満洲・朝鮮系(長州型)。 >>219-222
ベルツ氏は「満州、朝鮮の一部、そして隣り合う日本の西海岸には、きわめて重要な人種的要素が
いくつか認められます。うまい名前がないので、私は満州・朝鮮系と呼んでいます。
彼らはスンガリ河(松花江)流域と満州・朝鮮国境の、そのあたりに最も密度が濃く、また
純粋なかたちで残っているからです。このタイプは、もちろんモンゴロイド系との
共通点が多く、混血も進んでいますが、純粋なモンゴル系以上にヨーロッパ人に似た特徴を
示しています。面長で、頬骨の張り出しが少なく全体的にコーカサス人種に近い体型をしています。
いわゆるトルコ系民族との親近性は明らかです。
朝鮮・満州系は、多分にコーカソイド的なトルコ民族の特徴と、モンゴル系のいくつかの
特徴を合わせ持っていますが、全体としてモンゴル系とは異なり、ひと目見ただけで
その違いに気づくはずです。」と、
「満州・朝鮮型(長州型)」をコーカソイド白人要素に短絡的に結びつけられる。ベルツ氏は
アイヌ人も(特に比較的モンゴル系に近いケルト・スラブの山岳種族に属するオーバー・バイエルン人)
に近いとされるんは、西洋のアルプス人種の広顔、広鼻傾向とアイヌ人の広顔・広鼻傾向と結び
つけておられ、 ベルツ氏は朝鮮南部をモンゴル・マレー系(薩摩型)要素が強いとされる。 百済人の顔を復元してみると、女性は典型的な北方系、男性は…
http://japanese.joins.com/article/109/160109.html
{…デジタル先端技術を利用して百済人を代表する男性と女性の顔を復元した。 デジタル復元で
よみがえった百済人は顔が長く、目の間が狭い典型的な北方人の顔をしていた。…
男性の場合、現在、台湾国立故宮博物館が所蔵している王会図(幅238.1センチ、高さ28.1
センチ)に描かれた百済の使臣の姿に基づき、チョ・ヨンジン教授が頭部モデリングをし、先端
レーザースキャナーでこれを3次元スキャンした後、顔の輪郭を復元した。 女性は陵山里53号墳で
発見された6世紀ごろの百済の貴族夫人の破片化した頭蓋骨を集め、全体頭部を復元した。
復元された百済人はともに顔と鼻が長く、歯が大きく、目の間が狭いという特徴を持っていた。
百済の支配層が北方系内陸人の遺伝形質を持っていたことを表す。 男性の使臣の場合は、
上下に狭く左右に広い一方、前後に飛び出した南方系の額を持ち、北方系と南方系が混ざった
顔をしている。 チョ・ヨンジン博士は「女性の場合の百済上流層の典型的な顔を見せているのに
対し、男性の使臣の場合は混血型の百済人と見られる。 百済の王族・貴族が土着勢力と婚姻を
通じて融和を図っていたことが分かる」と説明した。 }
任那伽耶でも、支配層は北方系、被支配庶民層は縄文倭人容貌。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1364649626/22 >>225-226
北朝鮮の方が高顔面長で、南ツングースの影響を受けとるし、韓国の方は韓人、縄文倭人の特徴を
受け継いで丸い顔や薩摩型のように角張った顔も多いい。 日本人って鶏卵みたいな顔しているんだよね
だからコーカソイドに似ていると思ったんだろう
根本りつ子
https://youtu.be/1IIOKmHmoq0
鼻先に向かって顔面が突出する
コーカソイドは地域差に関わらず、ひっこんだ口元、前に出たあご、
突き出た額といった立体的な顔のパーツの有無に関わらず、
この特徴が皆共通している
モンゴロイドは南方系はネグロイドみたいな「く」の字のような顔をしていたり、
北方系は顔面が真っ平だったりと、基本的にそういった特徴はない
ただ日本人は例外的にこの特徴が顕著で、このタイプが、
ベースになっていると思われる
狩野恵里
https://youtu.be/RgyiJ2aFIvw
額やあご、頬が鼻先に向かって綺麗な楕円の弧を描く この手の色々な顔
中野美奈子
https://youtu.be/q7faChdR9D4
小野寺麻衣
https://youtu.be/x1ydvumz2CI
伊藤弘美
https://youtu.be/iNth62PM38w
ベルツはこの伊藤弘美のような体つきを褒めてるんだろう
https://youtu.be/ju47LMCRltc
この手のタイプは胴長でも手足が長く、すらりとしていて、
優美な印象を与える
このタイプのサッカー選手の原口元気
https://youtu.be/4o1oPSNUeNg
このタイプはひざ下で走るといわれ(ふとももの筋肉をより使って足を動かす)、
インステップキックにあまり力が入らない一般の日本人に比べると、
コーカソイドやネグロイドのようにふともとで走り、
強烈なインステップキックシュートを放つ傾向がある
竹内香苗
https://youtu.be/1wuQ68ocIv4
森保まどか
https://youtu.be/3Wb9bWsNRz0 >>215
>適当にいってた
↑おまえがな
>>216
誰にいってんの、アンカーつけれ >>229-230
また、学術根拠無しに、動画貼付けて反知性主義から「こう思う」工作活動も幼稚なのう。
>>227の百済貴族夫人は楕円卵型の北方南ツングース形質じゃし、逆に日本の楕円卵形云うても、
東日本や沖縄のように北方渡来系の影響が西日本より低い地域は角張った顔が多いいじゃなあか。
平べったい顔も北アジアにとりわけ多いわけでも無ぁし、モンゴルや北ツングースの
エヴェンキ族なんかも、目が窪んだ、日本で不細工な容貌表現の「目窪(めくぼ)」も多いいで。
平成の現代じゃ目窪も、濃い顔として人気に成ったけどのう。
鷲鼻自体も日本的特徴じゃ無ぁベルツ氏の云う満洲・朝鮮系の特徴じゃがのう。
わりや、反知性主義ゆえ、学術無視過ぎる無恥を自らに都合のええ画像と動画だけで、
>>227でわしが引用指摘したような学術的容貌根拠提示出来ん低脳ですと告白しよるもん
じゃなあか(笑)。 でむぱでむぱ。
薩摩がマレーやら南方から渡来した事を証明する証拠遺跡もその証拠石器・土器も
一切無い。
縄文晩期に沿海州南岸から島根に渡来したシニ・ガイ文化の刻目突帯文土器人が
弥生人として渡来して、それが全国に広がって今日に至るだけ。 >>233
電波トンデモは毎度われん方で。
沖縄すら九州からの渡来系、縄文系含めて南下系が多く、沖縄の中国南部系の移民子孫数たぁ
上回ろうこたぁ指摘しとるし、マレーから直接薩摩渡来なんか不可能よ。
じゃが、日本や朝鮮の先住民の縄文形質が南方諸民族と、同様に低顔の南方形質なんは
否定出来ん事実じゃけえ、形質上古モンゴロイド云う表現使うんよ。
縄文晩期に島根への移住なんか無ぁし、弥生後期に先兵的に少数移民に古墳期に大量移民が
出雲の渡来系の事実で、広島県も高句麗系方墳プランの四隅突出墳の出雲経由から高顔の
渡来形質人骨が出るわけじゃし、弥生期は渡来形質系地域の広島でも縄文系人骨の方が
圧倒的に多いいけんのう。古墳期に成って日本の人種が入れ替わった時代背景も、北方民族の
ゲルマン、エフタル、匈奴、鮮卑、扶余、高句麗の南下期の4,5世紀の民族移動期じゃし。 >>234
あんた地頭が悪いから考古には全く向いてないよ。
余計な無駄知識ばかりゴチャゴチャあるが、基本が全く出来てないし。
そもそも世界標準の考古学おいて、渡来人などの移動集団の故郷の
特定に使われる材料は「生産していた石器と土器だけ」である。
墓のスタイルだとか、信仰だとか、風習風俗だとか、文物でも貨幣だとか、
車輪だとか、傘だとか、そういうものは交流を通じて幾らでも導入なり
搬入なりができてしまうから渡来人の材料には使わんの。
今日は頭良くなったな。
あんた馬鹿だからもう一回言ったるわ。
考古学において、渡来人などの移動集団の故郷の特定に使われる材料は
「生産していた石器と土器だけ」である。
これが世界標準である。 例えば弥生人な。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた渡来人骨は弥生早期の新町遺跡から
出土した混血人骨である。
しかし彼らはサッパリ朝鮮土器を作らない。
支石墓という朝鮮の墓に埋葬されているのにだ。
日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡。
農具や大陸系磨製石器など、全て朝鮮南部から導入した文物だ。
ところがこの人たち、やはり朝鮮土器をサッパリ作ってくれない。
朝鮮無文土器の壺が一点出土しただけ。
おまけに朝鮮土器から壺と高坏という器種だけパクって自分たちの土器に
付け加える始末。
新町遺跡の北方モンゴロイド形質を帯びた弥生人骨の人々も菜畑遺跡の人々も
作っていたのは首尾一貫して刻目突帯文土器という土器。
朝鮮土器でも中国土器でもない。 で、その刻目突帯文土器という土器。
最初に登場した場所は九州北部ではない。
日本最古の刻目突帯文土器は出雲にほど近い島根から出土した前池式である。
島根から北方モンゴロイド形質を帯びた渡来人骨とともに九州北部まで
広がってきたという訳だ。
この刻目突帯文土器という土器、日本が最古という訳ではない。
BC15Cの韓国の遺跡からも出土しているところからもルーツは日本ではない事が分かる。
しかし朝鮮半島の刻目突帯文土器は全部合わせても数点しか出土していないため、
朝鮮半島の土器文化でもない事が分かる。
朝鮮半島以外で刻目突帯文土器が出土している場所がもう一つある。
沿海州南西部である。
シニ・ガイ文化という時代の沿海州南西部にあった土器文化こそ、
この刻目突帯文土器であった。 >>235
石器と土器じゃの妄言繰り返すのう。特に土器なんか流通か地元産じゃし、民族移動に
関連せんよ。
>>236
オンドルなら、飛鳥どころか長野県でものう。
http://naganomaibun.or.jp/archives/5896
【沢田鍋土遺跡:オンドル状施設】
中央手前のカマド下には、土器で覆ったトンネル状の溝が作られ、暖気が床面を横断する溝を
とおって壁際の溝に流れたと推定されます。
短弓も正倉院狩猟図に描かれとるのう。
http://3.bp.blogspot.com/_71OM9lkGuVg/TOORhKK4X2I/AAAAAAAAY4s/Q7WjbikSrfs/s1600/Z11-731.jpg
奥州蝦夷も短弓使うとる。
http://livedoor.blogimg.jp/gogo_amy/imgs/7/e/7e7d8890.jpg
>>238
新町遺跡の人骨が古モンゴロイドに属するんは他スレでも云うたろうが。
http://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/c4f09da4a23d69a3d6f33c01413df16f/?st=1
「大陸や半島と同様な埋葬方法であることから、被葬者も、恐らく渡来系(弥生系)の形質を
持っているだろうと予想されていました。ところが、この熟年男性と推定された9号墓出土人骨は、
予想に反して頭は前後に長く(長頭)・顔面部は低顔性・低眼窩・鼻根部の陥凹という、
在来系(縄文系)の形質を持っていたのです。」
福岡県糸島半島の新町遺跡で、朝鮮系の支石墓の中に、縄文人系の 人骨が葬られていた云うんも
韓式支石墓は韓国西南部の縄文形質地域じゃし、半島土着の韓族も縄文形質が多かったわけじゃし。 >>240
だからあんたの独り善がりな考古学なんて要らないんだっての。
俺は世界標準の考古学における移動集団の故郷を特定する際に使われる材料で
世界標準の考古学でちゃんと話を進めてるんだ。
有害でむぱのあんたとは大違いだよ。
日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた渡来人骨は弥生早期の新町遺跡から
出土した混血人骨です。
ちゃんと調べたらどうですか?
何もかもでむぱで構成された考古学をやる頭のレヴェルに無い方。 >>237
日本神話と比較神話◎吉田敦彦
http://ameblo.jp/vipassanar/entry-12165407473.html
おそらく四世紀から六世紀にかけての古墳時代、さらにそれに続く七世紀、
そういう時期の間に日本の神話はつくられたわけです。
この時期に日本が最も密接な関係を持っていた地域はどこかと申しますと、韓半島です。当時は
三国時代と申しまして、高句麗と百済と新羅という三つの国があった。そして、この時期の
…慶州で、昔の新羅の王様の都です。その慶州の博物館に行きますと、新羅の王様のお墓から出た
出土品がいっぱい展示してあります。これを見れば一目瞭然で、後で鶴岡先生のお話にスキュタイ
の美術のことが出てくると思いますが、まさにスキュタイ的な品物がお墓からたくさん出て
おりまして、この時代の韓半島は南の端までスキュタイ人の文化の非常に強い影響を受けていたと
いうことが明瞭なわけです。
その時期には韓半島から大勢の人たちが日本に渡来してまいりました。… >>240
そんな間違った個人の間違ったブログなんか出してどうすんだよカス。
ちゃんとした考古学者のドキュメントをあたりなさいよロートル。 なるほど、自分がロートルであるという不安があるわけか >>240
北陸は新羅や伽耶と繋がっている
ヒスイの交易路が新羅〜伽耶〜山陰〜北陸とあり、
これらの交易路を頼って朝鮮の東南部から日本の山陰〜北陸に渡来した集団が
持ち込んだのだろう
短弓もこのルートで東日本にもたらされたのではないかと思う
ただオンドルも短弓も日本では一般的ではなかったし、
定着しなかった
これは日本人の基層になっている集団が、オンドルや短弓が朝鮮に普及する以前に、
朝鮮から日本にやって来たことを示唆するのではないかと思う
イメージとしては騎馬民族化した高句麗を嫌って、朝鮮から南下した純度の高いツングース、
ワイがそれにあたるのではないかと思う
あるいはワイ以前のワイみたいな集団がいたのではないかと思う
ワイとワ、ウェイとウェの名前の類似がそれを示唆している >>242
ただ新羅のほうでは卵神話になっている
東アジアではなぜか狼のモンゴル高原―卵の満州をすっとばして、
日本にギリシア―西アジアのギリシア神話が入って來る
これが不思議でしょうがない
なぜ日本にどストレートに入って來るのか 縄文時代にウラジオストクと黒曜石貿易をしてるんだから
その時期に人もやって来てるだろう >>245
で、朝鮮東南部から山陰北陸に渡来した事を証明する証拠遺跡と
その証拠石器・土器は? >>247
交流、交易と人の定着は別だよ。
確かに沿海州とは縄文早期から黒曜石交易があった。
しかし沿海州から人の定着を裏付ける証拠遺跡や証拠土器は
縄文晩期まで見られない。
島根に現れた前池式刻目突帯文土器である。
のちにその土器の担い手は九州北部に入り、弥生人と呼ばれる事になる。 朝鮮最古の土器文化である隆起線文土器なら日本から伝わったものだというのが
今の定説のはずだが。
むしろ朝鮮人の方が縄文人の末裔という事になる。
もちろん縄文人の祖先の旧石器人は半島から来た集団だけど。 北陸にはこういう人がいるんだよね
https://youtu.be/XS2hP6khGAc?t=2m1s
北陸から東北にかけては妙に顔が大きな人が多い
大陸人っぽいんだよね
まぁ、この辺が複雑なのだけど、いにしえの朝鮮人と現代朝鮮人はあまり変わっていないのか、
それとも、いにしえの朝鮮人は現代朝鮮人とはいくぶん違っていて、
より日本人に近かったのか、だとすれば、こういう妙に顔の大きな人たちは、
民族異動期というよりも朝鮮人が形質変化した後の時代になって、
歴史的に今でも脱北者が北陸に漂着するように遭難して北陸に漂着したり、
何らかの繋がりがあって定期的にやって来ては住み着いたということになる
もし現代朝鮮人といにしえの朝鮮人があまり変わっていないのであれば、
いにしえから朝鮮人と日本人はいくぶん違っていて、朝鮮人は日本人に比べると顔が大きく、
顔面が平坦で頬骨が張っていたということになる
だとすると、古墳期の大量渡来はちょっと考えづらい
そして北陸人―東北人の西日本人とは少し違ったあの大きな顔、
少し横幅の広い顔などといった特徴は古墳時代に形づくられ、
1500年前くらいからああいう顔をしていたということになる こういうじゃらじゃら着飾りるところはどこかカム人を想わせる
まぁ、じゃらじゃら着飾るのはモンゴル人もだけど 要するに北方モンゴロイド形質を帯びた顔が北陸に多いのは
何でかという事だろ?
単に弥生人の後裔だから。
沿海州から渡来した弥生人たちは島根から九州北部に至る場所から
ずっと離れなかった訳じゃないよ。
弥生中期にもなると舟に乗って北海道南部から沖縄まで交易していた事が
出土人骨から分かっている。
沖縄の南洋貝の腕輪などのアクセサリーを北海道南部に持って行って
昆布などの海産物と交換し、それを沖縄まで持って行って南洋貝と交換
というような交易活動を日本各地で営んでいた。
そのときに彼らの遺伝子が日本各地に落とされていったのである。 北方モンゴロイド形質なら日本人全体がそうだよ
もっと細かく絞らないと意味が無い 言い忘れたが、弥生人たちが北海道南部までの航路に使っていたのは
日本海ルート。
北陸や日本海側の東北に彼らの遺伝子が落とされる訳だ。 >>243
どこが、どう間違うとんかいのう? 弓矢なんか遺跡出土品に残らん文物じゃし、
考古学は残らん文物を無視する学問でも無ぁし。
>>245
新羅駐屯軍にも成った高句麗系出雲集団(大国主)による、縄文以来の翡翠の勾玉利権奪取が
出雲神話に反映されたと云えよう。
糸魚川等の越地方は出雲勢力(高句麗系)が平定したけんのう。
http://www.genbu.net/data/ecyu/takase_title.htm
高瀬神社の由来に、「大己貴命(大国主命)が北陸を平定を終え、出雲へ戻る時に、自らの御魂を
国魂神として鎮め置いたのがはじめ。」
「また、一説には、祭神は高麗(高句麗)より渡って来た神であり、」 と、出雲も高句麗と
同類で同じようなもんじゃ。
勾玉は越から出雲へ、出雲から新羅へじゃろう。出雲が越を平定し、
新羅はさぞ、ただ同然で勾玉を手に入れ喜んだことじゃろう。
松本清張氏が倭と穢(ワイ)は、weiで、三上次男氏は倭は穢と同様の北東アジアの水辺民とされる。
オンドルや短弓系が列島の土地柄に馴染んで、土着化したことと、オンドル退化も平安期の
世界的温暖化現象で現地風に成るよ。ヨーロッパ系移民が新大陸の温暖な地域に移民すると、
建築様式もクレオール移民式建築の窓を広げた熱気対策住居に成るようにのう。
高句麗も穢も含め源流の満洲河川の漁撈文化基盤に西方の騎馬民族文化が乗った複合型になった
ことで、征服国取り性格や遊牧系軍事組織も受け入れ自らの手に入れたんよ。
>>246
満洲、朝鮮も中国の遊牧民系の秦も卵生神話じゃし、包まれて誕生概念で大林太良氏が指摘する
ウイグルの五人ま子供が天幕に包まれて天孫降臨したり、日本の記紀の真床覆衾も同類の概念
と云えよう。
>>247
そがぁな、縄文教カルトのトンデモ飛躍じゃの学術板に向かんよ。 >>248
朝鮮東北部なら高句麗方墳プランの出雲や広島県、北陸の四隅突出墳の分布で分るけぇのう。
われが云うポリツェ文化も沿海州たるアムール、東満洲、朝鮮東北部の半農半牧に漁撈と狩猟を
行った北方の南ツングース生業の本質に過ぎん。
V・メドヴェジェフ氏によると「靺鞨の住居ではオンドルは無かった。これに対し、女真では
ほとんどの場合あった。靺鞨の墓では二次葬が80%を占めるが、女真では15%しかない。女真も
靺鞨も農耕と牧畜がともに行われ たが、女真では漁撈の痕跡が多く、靺鞨ではまったく見られない。
靺鞨はチュルク(トルコ系)の影響が強く、女真文化は現地の先行文化であるポリツェ文化を
受け継いでいる。」と。 女真は、靺鞨よりも、満州現地民文化やアムールに至るポリツェ文化の
伝統が強い。 つまり、高句麗、沃沮、穢、邑婁も女真に繋がる文化的要素が強いことじゃ。
>>249
縄文期のケツ状耳飾りが勾玉の原型で、満洲、内モンゴルの先紅山文化系じゃし、
日本は大量満洲北方移民の古墳期の原型は縄文期の満洲系文化の影響基盤があったし。
朝鮮は考古学調査が進んどらんけぇのう。今後の発掘に魅力的地域で学説を覆す遺跡が、
今後も出てくるんじゃなぁか。 >>261
弥生期は日本も朝鮮南部も北方モンゴロイドなんか、人骨からも少数派で縄文形質が多かったんで。
わりゃあ、思い込みで直接交易に飛躍してもつまらんわ。近隣の転売で繋がっとるだけじゃに。 >>264
だから間違ってるから違ってると言ってやってるんだよ。
新町遺跡の出土人骨は縄文人骨だけじゃないぞ。
北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が何体か出土している。
それをあんたみたいな馬鹿が縄文人骨ばーっかり唱え殺して、
まるで縄文人骨しか出土してなような話に改竄してしまった。
ウソだと思うなら、新町遺跡の出土人骨を個人ブログじゃなくて、
ちゃんとした考古学者のドキュメントで調べてみな。
北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が何体か出土してるから。 >>265
はい、考古学の基本が全然なってないね。
墓のスタイルなんか渡来人の材料には全く使えない。
それに俺が提唱してるのはポリツェじゃなくて、その1000年くらい前に
栄えたシニ・ガイだ。
間違えるなカス。
ポリツェとシニ・ガイでは土器文化がサッパリ違う。
ポリツェには刻目突帯文土器はもうない。 >>266
縄文後期の北海道南部の遺跡から山口・九州北部型弥生人骨がゴボウラの
腕輪とともに出土した事も知らんカスが。
ゴボウラという貝は沖縄辺りでしか採れない南洋貝。
渡来人形質の弥生人たちは弥生中期頃から沖縄から北海道南部までを
股に掛けて交易していたんだよ。
日本海を越えてきた人々なんだから、どうって事も無い話だがな。 >>239
突帯文土器の起源って江南だよ
江南じゃ主流に成ら無かったけど >>271
江南とは中国広東省の江南?
それとも韓国ソウルの江南? >>267
新町遺跡も含め弥生九州西部の韓式支石墓の人骨は縄文形質じゃし、新町遺跡混血云うて
誰の説なんか?
>>268
シニ・ガイたぁ何なら? 弥生と似とるポリツェ文化の前云うたら、ウリル文化、
ヤンコフスキー文化じゃが。
>>269
縄文晩期、弥生後期に北海道でや? そがぁな作り話のホラッチョ云うてもつまらんで。 >>271
ブタ広鼻の鼻の穴から鼻水が垂れてますよ。
afb1b3たっぷりの。
>>271
その証拠文献も前に貼ってやっただろ。
いかに人の話を聞いていないか、あんたが考古学をやるレヴェルの
人間じゃない事がよく分かるよ。
北海道南部の弥生後期の遺跡からゴボウラ腕輪を伴った山口・九州北部型弥生人の
人骨が出土した話も知らないなんてモグリだよ。
考古学をやめなさい。 新町遺跡の出土人骨は北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土している
というのが真実であって、縄文人骨しか出土してないというのは詐欺ですんでね。 >>274-276
わりゃ、待てども根拠提示はせずっと、根拠の無ぁ妄言を繰り返し連呼しよるだけじゃけぇ
つまらんわ。 >>277
前に貼ってるぞ。
この半年内の事だ。
知りたきゃテメエで探せよ。 知りたきゃ、
新町遺跡は既に混血人骨 2ch
でググレカス 日本国の領土だった事は無い
倭領だった事は有る
日本府が有った頃には
@日本集団は居たが日本国は未だ無かった
A倭軍は正規の百済領に百済王の倭への依頼により駐留し百済王の王権の下に行政を預かる形になって居たから日本領では無かった
日本府は今で云うと龍山基地とかハンフリーズ基地とかの類の代物 戦利品としての割譲領土だろうから、支配層だけ倭人っていうヤツな。
4C末頃〜562年だから実質180年間くらいの支配だったのではないか。 >>260
この手の顔に稲田朋美がいるなぁと思ったら、
稲田朋美も福井の人だった >>278-279
言い訳してもつまらん。今でも根拠提示すりゃあええだけん事すら出来んのかいのう。
>>280-281
考古学的にも北方から南下した北方木槨墓人が伽耶、倭を支配したんは明かじゃし、
その頃は日本列島に国家すら、軍事遺跡すら無ぁけんのう。
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankknkime2.htm
「E4世紀以後、金官伽耶時代の木槨墓から中国系とは異なる北方農耕遊牧民文化の副葬品が
出土する。騎馬用甲冑・馬具・各種鉄製品・蒙古鉢形冑・桂甲・轡・木芯鉄張り輪鐙が出土。
初めて殉葬が確認される。北方系の墓制が前時代の墓をつぶして築造したので大成洞遺跡では、
重なった墳墓があった。」
と、伽耶牧畜民系の北方木槨墓人は、前権力者の墓を潰し、かなり乱暴な支配したが、
その時代が高句麗広開土王時代の倭で、考古学的な軍事力と一致するし、日本ローカル鎖国史観
の任那日本府説のトンデモは否定された状況となったんじゃに、ネット右翼らは、
まだ妄言連呼しよるようじゃのう(笑)。 >>283
言い訳はそっちだろうがカス。
もう一度、そのドキュメントが見たきゃ自分で調べろ。
その手順は279に書いた。
とにかく新町遺跡は既に混血人骨で、縄文人骨しか出土してないというのは詐欺。
詐欺の流布はやめろよ。 >>284
まずあんたは考古学の基本が出来ていない。
世界標準の考古学では渡来人などの移動集団の故郷の特定に使われる材料は、
その集団が生産していた石器と土器だけ。
他の文物や墓のスタイルとか入れ墨などの風習風俗なんかは交流交易を通じて幾らでも
導入なり搬入なりが出来てしまうので使えんの。
生産していた石器や土器の補足材料で使うだけで、それ単独では材料には使わんし、使えんの。 >>281 那國だから元々南方系稲作倭人國だよw
寧ろクダラが大陸方面から来た余所者に政権を乗っ取られて隋唐に朝貢し始めたので
大陸側に向かっては百済(Baidi)を名乗る様になり
南側の倭人諸国に向けては滅亡するまでずっとクダラを名乗り続けて盟邦関係を保つ政策を執って居た
と見る方が諸事件を鑑みるに正解に近いよ >>283 えー全然おかしくないよ
@辺り一面何処も小国スケールの時代の南方系稲作倭人国家
A漢の半島進出に伴う諸倭國地域(合間に諸韓国も点在)の戦時化や統廃合やの進展により北九州倭の支配下に入る
B漢の後の高句麗南進により西は百済東は弁韓からの圧力を受ける様になる
C北九州の某倭の内乱により支配が弱まると百済馬韓辰韓が高句麗と正面戦闘している間隙を突いて弁韓が東から奪取
D結局弁韓も高句麗に滅ぼされるがこの頃から高句麗の勢力が衰退し始め高句麗の後詰に新羅が半島南岸に進入する時期に百済が西から奪取
➅百済が衰亡期に入ると新羅からの圧力を退ける為に平時からのヤマト軍の半島への駐留が必要になり当時の事なので兵糧の現地調達の為等に因り百済が百済王権の下でヤマト軍に任那地域の行政権を付与
(日本國は未だ無かったので件の行政府は当然に「日本府」なんて名称では在り様も無かったがこれが20世紀に通称された日本府)
F高句麗が唐に決定的に半島での覇権を奪われるとそれまで高句麗側に付いて居た新羅は唐に寝返って百済を挟撃したので百済は滅亡する事に為りその最晩期頃に駐留ヤマト軍も百済支援を諦めて任那から撤退
ベトナム戦争末期のサイゴンからの米軍撤退の如き様に為り多数の百済人がヤマトへ亡命した
だから何処にも矛盾は無いよ >>288 ちょっと思い出し違い
×D結局弁韓も高句麗に滅ぼされるがこの頃から高句麗の勢力が衰退し始め高句麗の後詰に新羅が半島南岸に進入する時期に百済が西から奪取
○D高句麗は辰韓まで討ち滅ぼし弁韓をも攻め立てたがこの頃から高句麗の勢力が衰退し始め高句麗の後詰に新羅が半島南岸に進入して弁韓を滅ぼしたのであるがこの際に百済が西から任那四邦を弁韓より奪取 >>288 ちょっと何が何でも直して置きたい
○@辺り一面何処も小国スケールの時代の南方系稲作倭人国家
◎@辺り一面何処も小国スケールの時代の南方系稲作倭人国家群 >>287ー290
さり気に詐欺を働いてるじゃないか台湾ウンコ色ブタ広鼻ブタ顔ブタ原人。
で、南方系が渡来した事を証明する証拠遺跡とその証拠土器・石器は?
. 遺跡も土器石器も大日本帝国の朝鮮学者と大韓民国の国粋学者が好きな様に弄り回してて不都合な代物は湮滅しているから絶対的な物証には最早為らない
>>292は自分で堀ったの何か持ってる? 高句麗が朝鮮半島の南端に達したのは5世紀の話だからねー土器石器の話じゃ証拠にならないし >>293
誤魔化すなサギサギ華南ブタゴリラ台湾ブタ広鼻。
で、南方系が渡来したという狂言を証明する証拠遺跡と証拠文物、
とりわけ証拠土器・石器と、そんな詐欺を働いているサギサギ考古学者の
氏名と所属団体は?
. そもそもさー軒並み倭国だったクダラやカヤやが百済やら弁韓になったのも
韓人が朱蒙みたいに倭人やら漢人やらを征服して国を打ち立てたんじゃ無くて
倭人小邦が時勢に圧されて合間に点在していた韓人小邦(難民集落もっとはっきり言うと落人部落)を内包する形で統合してどうにか仲良く倭人國クダラだのカヤだのに為ってたのが
高句麗からの圧力が厳しく為ったんで隋唐に朝貢して保護を求める様になり冊に封じられる際に便宜的に韓國に為っただけなんだよね
新羅は7世紀になるまで高句麗陣営に付いて居たから倭人國のままで何とか韓になっていなかったんだよ
新羅は高句麗が唐に朝鮮半島から追い出され始めた頃に唐にジャンピング土下座して冊を受けて寝返ったんだが
その際に冷遇していた滅亡辰韓の王族か外交官かの子孫か何か知らんを急に好いおべべ着せて引っ張り出して来て併合以来厚く新羅王の重臣に遇せられて来たかの如く振る舞わせ辰韓を僭称して唐の信用を勝ち取ろうとした
オリジナルの辰韓はずっと以前に高句麗に討ち滅ぼされてるよ >>297補足 そうそう新羅は唐が西方の騒擾に応じる為に朝鮮半島から引くと冊封名で在る辰韓を捨てて新羅に戻ってるだろ?
つまりはそう言う事なんだよ弥生時代とかとっくに終わった後の話なの あーまだ思い出し違い有った
倭が(一旦失ってしまう)任那四邦の支配権を得た頃にはもうヤマト政権できてたな >>287-288
倭たぁ三上次男氏が云われるよう、北東アジアの水辺民の総称じゃし、魏志倭人伝ですら、
倭人を稲作民族じゃと書いとらんよ。しかも弥生の農耕は江南みたぁな稲作一辺倒じゃ無ぁし、
北方の麦作民要素が強い。
歴史上、北方から南方への征服支配は普遍じゃが、南方から北方への征服支配は遊牧民の
アラブ人以外例が無ぁわ。しかも列島の倭に軍事遺跡なんか弥生期や古墳前期にゃ
無あわ。日本列島が伽耶支配層に征服されたんよ。>>283の伽耶北方木槨墓人の軍事的性格から
明かじゃし、倭の五王も伽耶北方木槨墓人じゃし、年代からも矛盾が無ぁけんのう。
>>293
> 大日本帝国の朝鮮学者と大韓民国の国粋学者が好きな様に弄り回してて不都合な代物は
湮滅しているから」云うて、実名も根拠も提示せにゃあ。わりゃ、首相の安倍ちゃんや
カルトネット右翼みたぁに大嘘こき云うことんなるで。
>>294
おどりやあ! >>283をわざとらしゅう無視しよって、こん糞外道らだきゃ、トンデモの
カルト歴史修正主義捏造歴史拡散しょってもつまらんど。 >>297-299
まだ、トンデモ云いよんか。高句麗、百済、新羅、任那伽耶、日本列島も北方勢力による
征服によって出来た国じゃし、農耕民は軍事組織力に欠けとるし、北方民族の支配無しに、
国家形成は無理じゃ。
新羅は高句麗駐屯軍の北方積石木槨墓人が辰韓や倭を征服して出来たし、辰韓へ駐屯した連中は
高句麗へ帰っとらんわ。
ヤマト国なんか、奈良期の記紀編纂概念じゃけぇ、飛鳥朝くらいしか遡れんけぇのう。
三国史記が百済や新羅を馬韓や辰韓の時代に捏造編纂するんと日本も一緒じゃわい。 >>297
むしろ高句麗が倭サイドで新羅は非倭サイドのような気がするけど・・・
高句麗語が倭語であれ、高句麗に残った地名が倭語であれ
高句麗では倭人(非大和朝廷)の力が大きかったんじゃないかな だから世界標準の考古学では移動集団の故郷の特定に使われる材料はその集団が
生産していた石器と土器だけ。
他の文物や風習風俗なんかは交流交易を通じて幾らでも導入なり搬入なりが
出来てしまうから使わんの。
墓のスタイルだとか、馬具だとか、貨幣だとか、そんなもんは交流交易を通じて
幾らでも導入なり搬入なりが出来てしまうので使えんの。 >>302
新羅は本来、倭サイドだけど親中派がだんだん権力をつかんできて
非倭サイドになったんだと思うよ 百済と言われている秦氏も伝わっている朝鮮土器から見ると、
実際のコンテンツは新羅人らしい。 百済が発展する時期に百済難民が出るのはおかしいよな
しかも高い技術をもった職人集団が >>302
糞外道よ、倭語なんか、この世に存在せんわ。そもそも倭が言語集団云う根拠は何一つ無ぁわ。
民族学者の大林太良氏が半島と韓と倭は、村落や生業様式の違いの区別とされるよう、
半島の倭は韓族の言語に近かった可能性が強いし、後世の半島を侵した倭冦も、
半島西南部の被差別民や済州島の残留モンゴル人が大半じゃし、高麗期の頃まで倭は水辺集団
総称で言語集団じゃ無かったんで。
>>303
われん、根拠も提示出来んトンデモ妄想考古学じゃのつまらん。>>283の「北方系の墓制が
前時代の墓をつぶして築造したので大成洞遺跡では、重なった墳墓があった。」 と、
支配層の交代で非中国系の北方系牧畜民文化系が中国文化系の前支配層の墓を破戒しとるけぇ
征服したこたぁ、間違えあるまあ。伽耶地方と北九州が弥生期甕棺の同一文化圏地域を
北方木槨墓人が支配した証左じゃなぁか。
>>304
弥生期から、列島の倭は親中派云うたぁ中華系隷属ゆえの奴国の金印に、邪馬台国らの
生口(奴隷)献上。
馬韓のような漢文化への抵抗心も無ぁ属領奴隷根性。
新羅は、中華色の強い辰韓の時代と違い、非中国系の北方や中央アジア文化。
まあ、新羅は大唐帝国にも戦争で勝っとるけぇのう。ほいじゃが、その頃の新羅支配層は
唐に日和見しよったんじゃが、旧百済系、高句麗系の連中が抵抗し唐と戦争に成って、唐を
撃退したんが真相よのう。
>>305
秦氏は腹(ハラ)氏族制度から、ツングース系の文化要素が強いし、天皇家の騎馬護衛集団でも
あるけぇのう。まあ、新羅、伽耶地域からの渡来じゃが、東西漢氏同様、非中国系の北方民族
南下した北朝の牧畜民要素が強い。殊に東漢氏は鮮卑色が強いのう。
>>306
難民じゃ無うて百済の北方系支配層らは日本列島へも移住するよ。
ゲルマン、エフタル、五胡、扶余・高句麗の世界的北方民族移動期、征服南下期じゃし。 倭は言語集団じゃないけど、高句麗の地名として日本列島民に近い(半島では他に見られない)言葉が色濃く残っている以上、それは倭と同族の影響と見るべきじゃないの?
モンゴルとか「呼ばれたこともある」程度のものを倭に含めて考えるなら、倭に関して話す意味なんてほぼないじゃん
倭のホームは基本日本列島じゃないのか
日本列島民の中で倭が少数派だったとか、韓族の言語が本来日本列島のものと同系だったとかならわかるけど >>300 稲作は鎌倉時代中期まで浅田が無く弥生時代以来の深田でやってたんですが麦作要素って何ですか?
深田って麦作って言うより蓮作に近いノリですよ? >>300 北方から武力を用いた勢力の進出が有ったのは事実ですが
征服者が被征服者の手柄を盗んで手柄の無い二世三世の自己正当化文治政治を実施する為の箔付けや初代の神格化に用いる常套手段についても考慮されては如何ですか?
やって居ない征服者はそれこそ1割に満たないのではw? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています