【室町幕府】足利義輝【13代将軍】
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苦難の人生を歩むも足利将軍家の権威を復活させようと尽力した足利義輝について語り合おう! 雑魚テルの過大評価大嫌い
司馬やガチ研究者にdisられてざまあ >>235
事実付属品だし何もおかしくない。
しかも知名度の低い義輝のほうが勝手に寄生してるだけで史実では全く縁がない刀。
刀にしたってこんな糞ザコナメクジの持ち物にされても何の得にもならないのにいい迷惑。 >>237
松永ファン以外にも嫌われてますからw残念
足利家ファンだけど義輝嫌い こいつのどこが剣豪なのかわからん
武術パーフェクトの家康の方がよっぽど凄いわ 義輝オタって事実を言うと俺の知ってる義輝様と違うって切れるのがきもい
功績ほぼ0のザコの癖に何勘違いしてんだって感じ
夢見てんじゃねえよと >>175
これに尽きるっつーか久秀や三好三人衆ファン以外にも足利家ファンや義昭ファンにも嫌われとるよな ここで言われるような狂信者?ってまだ一人しか見たことないが
そいつがクソほど強烈な奴で印象悪かった
義輝がヒーローじゃねぇと死んじゃう病気でキモオタも兼ねてるとか本人同様ガイジレベル こいつが剣豪はねーよとずっと思ってるわ
証拠に乏しすぎるし免許皆伝の証拠も残ってないんだろ 割と三好界隈の時代は詳しい方だけど
一番足利義輝に頭が上がらないのは上杉(長尾)だと思うぞw
足利義輝が変な課題気味になったのは間違いなく上杉も一枚噛んでると思う
確か上杉謙信関連だと結構義輝持ち上げてなかったっけ。
まあ実際一番恩恵受けた大名だと思うよ BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>248
上杉と大友だな
義輝はゆくゆくは上杉が関東、大友が九州を制圧して、
幕府再興の軍事力になってくれると期待したのだろう >>248
上杉は兎も角、大友が何時迄も義輝の臣下に留まるなんてあり得ないだろう。
普通に松永の二の舞になったと思うが。 上でも言ったけど地方に行けば行く程
征夷大将軍である足利義輝の権威が通用してるね。 義輝も平和な時代のお飾り将軍なら覇気のある将軍として語り草になっただろうけどなあ。 書き込みがありませんね。
過大評価かもしれませんが、それほど悪くいわれる人物でもないような。
言い方を変えると、それほど重要人物ではなかったと思います。
かりにも将軍であり、でも権力はないという立場では、いろいろ工作したり
時には悪だくみをしたりは、普通ではないでしょうか。 >>248
上杉博物館で謙信宛ての書状(本物)を2つほど見ました。
長尾平三どのとなっていました。
謙信に期待していたのは間違いないと思います。
真偽はともかく、国宝の上杉本洛中洛外図屏風は、義輝が発注して謙信に送ろうとしていたが、
暗殺で中断し、その後それを知った信長があらためて送ったとする説もあるそうです。 2 名前:人間七七四年
テメエらポーラ名作劇場で放送してた『幻花』を憶えて居ねえのかい?
足利義政を山口崇、日野富子を夏純子、今参局を藤村志保、裏松重子を三益愛子が
好演してたテレビ・ドマラだゼッ!
昭和の歴史ドマラにしちゃあ面白えほうだったのサッ!
原作が瀬戸内晴美、現・寂聴尼だからナッ!
ソイツを見てから云々しやがれーイッ!
分かったナッ!
! 舞台 足利義輝 テレビで観たけどなんなんだ、、あれは。腐女子はあんなのを観てオナニーするのか? 余談だが、俺が早くに買って推奨した袖珍本、
『応仁の乱』と『観応の擾乱』が二冊とも
そろってベスト・セラーになったゼッ!
いづれも、中公新書だから、実質的には野球新聞でしかない
読売新聞社の儲けになるんだけど、俺はあんな低俗新聞社の回し者なんかぢやあ
断じて無えのサッ!!!!!
分かったナッ!
! 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
78HD1 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
RPU 義輝と義昭って御先祖に似てる
尊氏と直義も暗愚な兄貴、聡明な弟 >>233
足利ラスト3代を主役に大河やったら面白そう
義輝はNHK大河太平記で言う足利貞氏みたいな役回り 奈良興福寺から脱出→和田惟政屋敷を経由して琵琶湖を北岸し、若狭武田氏、越前朝倉氏→美濃織田氏→室町御所→紀伊→備後鞆→入京 3
源氏は武辺を示して自ら武将として成り立ちぬ氏族やけ それぞれ特徴あるだよ
敵に対して怯む精神的弱者おらんけな ただし物知らずが多いから斯波のらなんちゃらみたいにでっかい弓を敵の目の前で引いて撃ち殺すみたいなんやる
武器の使い方知らないんだな >>6
そこは比較するなら慶喜だな
それでも家を丸ごと残せただけまだマシか >>277
慶喜は親類達に刃突きつけられてんだからもっと酷い ガースー「貧乏人は麦をくえ
金持ちはササニシキをくえ」 >>264
足利貞氏は尊氏、直義兄弟の偉大な父だったが義輝は義昭と1歳違いの兄
しかも30歳で殺されてて奈良の興福寺で出家していた弟に何を伝えるわけでもなく
14代は義輝、義昭兄弟の従兄弟で親父の代から将軍継承争いやってたし 義輝も襲撃がなくて生きてたとしてもどうなってたかなぁ
結局織田浅井連合に負けた気がする >>281
信長は自分を討とうとした義昭さえ追放で終わらせ将軍位も奪っていない
義輝も信長相手なら命が助かり将軍のままだった可能性が高い 信長ってさ裏切られまくりだけど
それを許してるよなw
能力ある人は許す傾向なんだろうけど 律令(りつりょう)政府は、蝦夷征討軍をしばしば派遣したが、721年(養老5)に多治比県守(たじひのあがたもり)を責任者に任命し「征夷将軍」と称した。しかし、その後、奈良時代には蝦夷征討軍の主将を征夷将軍の名でよぶことはなかった。ところが、794年(延暦13)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大将軍に任じたのを最初とし、以後、9世紀初頭までに数回の征夷大将軍の任命がなされた。そのなかでも坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が有名で武名をはせたが、813年(弘仁4)に文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)が任命されたのを最後に廃絶した。 将軍結構くそで、長慶に迷惑かけまくった説あるな
小説とかで随分美化されてるみたいだが 成人した男子がいなかった義稙(義視の息子)は、義晴の弟を一本釣り? >>288
本人の意思でというわけでもないんだろうが
足利義稙は管領細川高国に追い出されて将軍の座を奪われ都を落ち
高国は義植の従兄に当たる義晴を将軍に擁立して実権を握った
追い出された義稙を匿ったのが阿波守護で高国と管領の座を争っていた細川澄元
澄元は義晴の異母兄義維も庇護して阿波で匿っており
澄元の主導で義稙と義維が養子縁組
義維は有力な将軍後継者候補として異母弟義晴と争うことになった https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/08/102767.html
足利将軍たちの戦国乱世
応仁の乱後、七代の奮闘
山田康弘 著
足利将軍家を支える重臣たちの争いに端を発した応仁の乱。
その終結後、将軍家は弱体化し、群雄割拠の戦国時代に突入する。
だが、幕府はすぐに滅亡したわけではない。
九代義尚から十五代義昭まで、将軍は百年にわたり権威を保持し、
影響力を行使したが、その理由は何か――。
歴代将軍の生涯と事績を丹念にたどり、各地の戦国大名との関係を解明。
「無力」「傀儡」というイメージを裏切る、将軍たちの生き残りをかけた戦いを描く。
https://www.chuko.co.jp/book/102767.jpg
初版刊行日2023/8/21 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています