【室町幕府】足利義輝【13代将軍】
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苦難の人生を歩むも足利将軍家の権威を復活させようと尽力した足利義輝について語り合おう! 義輝が29歳で死んでるという事実は結構驚く
どんだけ濃い人生だよ
まあ親父の義晴も39歳で病死してる割に語ること腐るほどあるけど 傀儡守護代から畿内統一政権の主になった三好長慶も42歳病死だし。 義輝が殺されたとき母親も一緒に死んでるからな
もともとそんなに長生きしたイメージはない 結局義昭の弟ということになった尾池玄蕃という私生児 どうでもいいが
2chの自作自演の朝鮮人にはマジで
氏んで欲しいわ 全讃史の説からすると烏丸氏の側室がいたらしく、細川光尚の嫁と同族 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 岡山は地震とか少ないらしいからね
しかし何故でここでこんな話題を 美談としてよく信長と心を通じていたことにされるが、傀儡であることをよしとしない誇り高い性格は弟と同じ
信長はどっちが将軍でも一切遠慮はしなかっただろうし結局衝突はしたであろう
違いといえば信長包囲網を築き上げた弟ほどの調整能力は見られないので割とあっさり追放されたかもしれない 逃げようとしたっていうけど何のために剣術習ったんだ?ファッション剣術かよ 一部のキモオタが史実も知らずに蝗みたいに持ち上げてただけだから・・ 義満の足元にも及ばない
つか剣豪だったという確たる証拠もなしに剣豪将軍とか嘘広めたら駄目だろw 一応、卜伝の直門だったというのは確かだし、
上泉信綱を招いて兵法披露をさせたのもおそらく間違いないから、
剣術好きで、自分でも相応にやってたことは事実だろうな。
あと、最後に自ら戦って討ち死にしたのも多分事実。
でもそれだけで剣豪呼ばわりってやっぱ無理があるだろ。
結局、こいつを持て囃してる奴って、事実とか一切興味なくて、
「剣豪将軍」って言葉の響きが好きなだけなんだろうな。 ほんそれ
過大評価してるのは中二患ったミーハーとエロゲーやりすぎのキモオタだけって時点でもうね
戦って討ち死にする前にまず一度逃げようとしてるからなぁ
刀を取り替えながら奮戦し〜とかいうのも捏造だから剣豪というにはショボすぎる 剣豪将軍て呼び名がそもそも妄想から生まれたもんなんだよなぁ 弟のが賢いだろ普通に
こいつは何してたんだよw上でも出てたけど土壇場で役に立たないなんちゃって剣術か? >>73
当時はこういう場合、逃げるのが普通。
むしろ無謀な戦いを挑んだ無能将軍。 >>73
通説では母や家臣に逃げる事を勧められたが、武家の棟梁たる自分が逃げ出しては元も子もないと言って敢えて残ったってことになってるが
まあ死んだら結局意味ないんだけど 「母や家臣に逃げる事を勧められた」というその「通説」が何に書いてあるのかわからないが、
フロイスらの記録によれば、戦いに赴こうとする将軍を母親が抱きしめて止めようとしたが、
将軍は、「自分は、どこかで隠れて腹を切って死のうとは思わない。
最後は雑兵に打たれることになろうとも、戦うことを選ぶ」とあり、
家臣らと戦って脱出することを選択したと記録されている。
永禄記やフロイスの記録では、将軍の母は逃げることを勧めたというよりは、
大将は最後の一兵が討たれるまでそれを見守るべきだ、というもので、
戦わないことを勧めるものだが、逃げることを勧めたわけではないよ。 大覚寺義俊の記録では、外から囲みを突破してきた幕臣が、
将軍が一人で馬に乗って東河原に逃げることを勧めてはいる。
しかし将軍は、家臣全員を犠牲にして主君一人が助かるなどあってはならないことだと、
その案をありがたいことだと感じながらも即座に捨て去り、
主従全員での脱出を目指して最後の戦いを開始したとある。
この記録においても、将軍の戦いは脱出を目指したものであり、
一人で馬で駆け抜けるか、主従一体となって戦って血路を切り開くかの方法論の違いにすぎない。
実際、彼らの戦いで何人か脱出できた幕臣もいるようだが、
早足の馬を一人で走らせても、厚い囲みを突破して京都郊外まで脱出できたかどうかは
難しいところだろう。
後年に書かれた後太平記などの軍記物では、
これで最後なので、地獄への道連れに一戦して、一人でも多くの敵を倒そうというような描写だが、
これにも母や家臣に「逃げることを勧められた」とは書いてないようだが。
>>77の「通説」というのは
信長公記などに記された織田信忠の最期と混同しているんじゃないかな。 あれは弟のが賢いというよりは、
安宅冬康を殺し、将軍も殺した三好三人衆が
織田信長と比べて後の考えが無さ過ぎただけだろう。
もちろん信長とて義昭を討ち取ったり切腹に追いやること自体は造作もないことだし、
その後の展開は、義輝死後の三好三人衆が追い込まれていった展開よりも、はるかに楽なものであったとは思うが。 >>28
1564年の改元なら、あれは三好側ではなく松永側から出されたもの。
この時代の松永久秀は独立して行動していたという説と、
三好家の家臣として、三好家の意向の元に動いていたという説があるから、その説に乗っとれば三好側と言えなくもないが。
他に将軍家の意向の元に動いていたという説もあるが。
>>30
他にも記録だけなら、事件の7日後に書かれた樊噲も及ばないほどの働きを見せて自害という梅仙軒霊超のものや、
御所は黒土となったという御湯殿上日記など無数にあるよ。
というかなぜ日本外史をわざわざ挙げるか解らないな。
あれは信長公記や信長記などの無数の書物の記述を集めて、こうだったであろう歴史を漢文で書いた本で、
各巻末や初めの論の部分を除けば、日本外史には著者のオリジナルな箇所はないよ。まあ全く無いことはないが。
そこは成立時期不明の永禄記や、足利季世記、
後年の軍記物である小瀬甫庵の信長記や後太平記などを挙げて、信憑性を疑うべきところだろう。 足利季世記の信憑性に関しては、松田毅一・川崎桃太などのように、
フロイスの日本史やフロイスの書簡との一致点からか、それを全面的に受け入れて、
フロイスの記述の方を逆に否定する研究者もいるが。
この二人は一応、フロイスの日本史の翻訳者でもあるのだが。 >>30
山科言継の記録では、将軍は討ち死にしたとある。
戦って自害という記録も大覚寺や信長公記や永禄記にある。 剣豪将軍とか言う剣豪じゃなかった将軍だし過小評価されてるくらいで丁度いいわ
政治能力カリスマともに皆無だし
最期の話は捏造だし 「剣豪じゃなかった」というのはよくわからないな。
落語家じゃなかったとか、弁護士じゃなかったとかいうのならまだ解るのだが。
剣豪や酒豪などの呼び名は、剣や酒が強いというエピソードがある人物に、
他人があとから勝手につけるものだ。
剣豪と呼ばれるために満たせなければならない厳密な条件があるわけでもないので、
>>84が足利義輝のことを剣豪と呼びたければ、
勝手に剣豪と呼んでもどこからも文句は来ないと思うよ。 ああちょっと勘違いしてた。
>>84は足利義輝は剣豪ではなかったと言いたいわけか。
剣豪と呼ばれるための厳密な条件があるわではないから、
この程度のエピソードでは俺は剣豪とは認められないというのなら、
それもやっぱりどこからも文句は来ないと思うよ。 最期の話が捏造という説もあるな、しかしあるだけで奮戦したという説の方が今の所通説だろう
第一、塚原卜伝から剣の技を学んだのは事実なのだから一般人よりは腕は立った筈 義輝が剣で戦って強かったというエピソードを完全に否定するのは難しい。
死去して間もない頃に書かれた書状や、
同時代人たちの複数の記述を全部嘘だと否定するためには、
その記述に矛盾するような別の史料が必要になるが、
義輝が剣で戦って強かったというエピソードを否定するような矛盾する史料が存在しない。
仮にそれらの記録が全部嘘だったとしたら、
義輝のために嘘までついて最期を飾って讃えようとした人間が当時、
異国のバテレンから、仏僧、儒学者、他所の大名家に仕える武将に至るまで
複数いたことになる。
なかには幕府がとっくに滅んだ慶長年間に書かれた軍記物や
寛永年間に林羅山が書いたものまである。
これらを全部嘘だとすれば、
義輝のカリスマが皆無という主張のほうが揺らぐ。 おそらく捏造だろうと否定できるのは、
何本もの刀を次々と取り替えたという足利季世記や永禄記などの軍記物が記すエピソードくらいだが、
これも実際に完全に否定しようとなると、
もしそんな面白い話があったのなら、甫庵が信長記とかに採録したよね、くらいだしなあ。
まあ、この刀を取り替える話は軍記物以外では確認できないと思うので、
自分はそんな同時代の書状や日記類で確認できない話は受け入れないと主張しても大丈夫だろう。
同時代人の記録でフロイスの日本史には、長刀から打刀に持ち替えたという若干近い話はあるが。 江戸時代初期に松永久秀の子孫の松永貞徳が、
義輝などは深夜に路上で刀をふりまわして人を斬り殺していただけの悪御所だった、
あんな悪御所のために死んだ人間は一人もいなかったと戴恩記で書いたのも、
義輝=刀で戦って強い将軍
というイメージが当時すでに確立していたことを前提にして言い始めた悪口だろう。
このエピソードも、足利季世記等の刀を取り替えるエピソードと同じで、
もしそんな面白い話があったのなら、同時代人の書状や日記類や、
安土・桃山以降に大量に書かれた軍記物のどれかに収録されただろうという点で
やはり捏造だろうと考えられるものだが、
まあ、これも辻斬りの部分は、完全に否定できる同時代の記録も多分存在しないと思うから、
肯定する同時代の記録も存在しないが、信じたい人は信じても良い話だろう。 最近の足利関係の本とか
剣豪将軍足利義輝は本当に剣豪だったのか?っていうの読んだらカリスマ?ねーよって気分にはなる 日本外史が出てくるのは
wikiに書いてあるからだと思う。 今の「剣豪将軍」のビジュアルイメージが日本外史の
「将軍様は伝家の宝刀を数十本床に突き立てて、抜いては斬り、抜いては斬りで無双しました」が
ベースだからじゃねえの。
いや割とマジでこの盛り盛りの最期抜きで、
こいつのどこに魅力があるのか教えてくれ。 日本外史が出てきたのはtogetterの、
剣豪将軍足利義輝は本当に剣豪だったのか?で取り上げられているからでは? 「剣豪」の定義が曖昧だから、余計に評価が分かれるんだろうけど、
とりあえず、こいつが剣豪って言ってる連中は、
剣持たせて強いって話があったら剣豪って考えてるってことでいいのか? スレ違いだが、日本外史は室町幕府の将軍に、「様」のような敬称をつけたりはしない。
かの大楠公ですら、日本外史は本文では「正成」と呼び捨てにする。
日本外史が、本文で敬意を払うのは、徳川家康の一族と、浅野長政の一族だけ。
「将軍様は伝家の宝刀を数十本」などと書くのは、
足利季世記や永禄記だろう。
江戸時代に編纂された重編応仁記でも、
将軍は「公方」と呼んで、「様」はつけない。
日本外史は、論賛や序論では、
楠氏は「楠公」や「公」と呼んでいるし、
織田信長と豊臣秀吉の二人も、右府、太閤と呼んではいるが、
頼朝、時宗、尊氏らには、そのような扱いはしない。 剣豪の定義以前に、
その剣持たせて強かったって軍記物に書かれている最後が、
信用できるかできないかって話になっているんじゃないかなあ。 関係ないけどこいつの狂信者らしきマジキモ中年オヤジにsnsで絡まれてから
大嫌いになったわ
そんなに多くはないからこそ余計に信者の質って重要だよなと思った 自分の庇護者を見抜けない程度には頭の回らない奴だったって印象しかないなぁ
実際最近の歴史ゲームとかだと弟の義昭のが優秀だったりするし こいつを歴代の将軍最強とかカリスマとか言ってる奴の驚きの浅さ
誰もが納得できるような確たるソースもなしに最強とか意味不明
剣習ってるだけで剣豪になれるなら剣道部員なんか全員剣豪だわw 義輝の信者はやたらと他武将(特に松永久秀)を敵視してるのが目障り。 足利将軍で大河ドラマの主役やったのは尊氏だけ?
義輝や義昭を主役にしても面白いと思うけどな 信長包囲網など大きな見せ場のある義昭はいけると思うけど
ラストの格闘(創作)以外あらゆる権力者の傀儡にされてるだけの義輝の大河とか見たい?
だからといって活躍ねつ造して盛りまくったファンタジー大河とか見たくないわ 阿波公方の義栄と仲悪かったってマジ?
そもそも分家の古河(喜蓮川)が特別待遇だったりと足利家のブランド力が江戸時代にも健全だった割には酷い扱いなんだよね阿波平島家って 詳しく調べれば調べるほど無能だった事が明るみに出てくるんだよなぁ義輝は
逆に最近義昭が評価され始めてるのもよくわかるわ 現実を無視して受け入れず、チンケなプライドだけ人一倍でコイツの祖先に倒された後醍醐帝みたいなもんだよな
ひどい歴史の皮肉と言えよう アホにわかはカリスマとか剣豪将軍とか言うけど
盛りすぎな最後は勿論、剣豪将軍ってのは当時の戦国時代では呼ばれるはずもない呼称でもろ後付だし
カリスマだったら死んだあとすぐに部下が敵対勢力になびいたりしないと思うんだよね
実際のところ一般人より多少腕が立つ程度の凡人という感じ 二人の弟のうち、義昭は六歳で出家したのにもう一人はしなかったの?
あと、兄弟仲はどうだったの?
誰か詳しい人教えてください 天下五剣持ってたソースがどこにもなかったり、まずそれ以前に剣豪じゃなかったり
活躍と思しきものの大部分が嘘で塗り固められてるのがいまいち好かれない原因かな
調べれば調べるほどボロが出るっていう 創作逸話も嫌いだが他の公方(とくに義昭)を無能とかいって不必要に貶すのがウゼエ
おめーが言えたことかよと >>113
いまだに無知さらして剣豪将軍とか言ってるアホいんのかね? 頭悪そうなニコ厨の馬鹿餓鬼くらいじゃね
正しい知識もなしにゲームやらのイメージだけで語る思考停止のバカ 別に厨でもなんでもいいけど間違った歴史認識を事実のごとく披露したがるのはちょっとね そもそも義輝自体が知名度なさすぎて本当の事も知られてないんじゃね 俺は信長の野望で初めて義輝の存在を知った。 足利将軍で名前がわかっていたのは尊氏、義満、義昭、後はくじ引きで選ばれたおっさんぐらい。 >>119 日本史の勉強してないな。応仁の乱で 義政は出てくるぞ。それに、
銀閣。 義晴 25年
義輝 19年
無駄に長い間将軍やってるけど実績はゼロ
逃げ回ってるだけ
これほどの馬鹿親子はそうそういないだろうな 義晴って確か堀越公方系だよね?なんでそんな傍流を将軍にしたんだろ。 >>122
堀越公方で傍流なら誰に変えても傍流だろ >>121
あまりに逃げ回りすぎて義輝とか正親町天皇からも見限られてるからな
こいつじゃ駄目だと思われたんだろうね >>121
12歳で将軍になった義輝に何を望んでいるのか…
無力な将軍を支えた政所頭人こそ今で言えば菅官房長官みたいなもの。最後は
三好に寝返って討伐されたけどな。最新の研究では伊勢氏の凋落がそのまま室
町幕府の終焉と見なされている。 年齢がどうとか言うのは逃げ
10歳そこらで親になってる人物もいる時代やぞ >>125 伊勢氏がいたって、武力がないからいかんだろう。毛利は輝元でも、両川
いたから、なんとかなった。 創作なんかで義輝を名将に描けば描くほど
実際にやってた事と乖離していくのが面白い >>121
義澄も含めて堀越公方系は戦や政争で勝ったことがないな
争いで負け→出奔→和解→争いで負け→出奔→和解
この繰り返ししかしてない なんかもしかして、いやもしかしなくても義輝って頭悪い?
少なくとも上司にしたくはない 頭悪いっていうかこの時代の将軍は誰がやっても同じだろ
でも刺客を撃退した義稙の方が無様に惨殺された義輝よりは剣客としても
上だろうになんか知名度低いのが可哀そう >>131 というか、日本の暗殺事件のうち一番メジャーな本能寺は、日本の首長に
もなっていない信長が主役だもんね。信長の勢力圏は清盛の勢力圏よりはるかに
小さいじゃなかったか? 義輝も信長も暗殺というよりも普通に軍隊に攻め込まれてるけどね 義輝も義稙も世間的な知名度的は大して変わらないと思う
信長の時代まで義輝が生きてたらやっぱり政治できない上に態度ばかりでかくて
信長に鬱陶しがられて追放されるかぶっ殺されるかしてたんだろうな >>124
たしか、天皇からは完全に使い物にならんと見做されて無視されてたから慌てて大騒ぎして存在アピールしたんだっけ?
室町幕府の衰退ぶりが伝わってくる 義輝から創作要素取ったら何にも残んねぇな
精々薙刀の扱いがうまいってことくらい? >>137
天文20年あたりに既に鉄砲に関心持っているとか
火薬調合に関する文書を謙信に送ったとかの鉄砲関係は残るな 剣法馬鹿でないからといって政治ができたわけでもないっていうね
そりゃ正親町天皇にも無視されるわ
結果はどうあれ信長包囲網作り上げた義昭のが見所はある 鉄砲将軍のがまだ合ってるのか
いよいよ剣豪とはいったい・・・ アメリカによる他国の虐待に反対の声を上げなければなりません。
世界平和の脅威は、イスラエル、イラン、アメリカです。イスラエルの役割は跪いて、パレスチナに許しを請うことです。
彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。しかし、そうはならないでしょう。
1国あるいは1種類の政治形態が世界中を支配するということは、この惑星の計画ではありません。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動をコントロールするのは、マイト★レーヤの任務です。
マイト★レーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行しています。この時、初めての本当の身分を明らかにされます。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
14歳以上のすべての人々はマイト★レーヤの言葉を彼らのマインドの中で、自国語で聞くでしょう。
テレパシーによる世界演説は英国BBCが放送
https://www.youtube.com/watch?v=6cOvo6n7NOk
宇宙人側からの申し入れは、とにかく核の利用と戦争をやめなさい、もう一つは宇宙人の存在を公表しなさい。
ロシアという大国の首相がね、あれは冗談だよでは済まないですね、しかも2回も言ってるんだからね。
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKetUkq8
竹下雅敏
「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」 最後の大立ち回りは創作
家宝の刀もこいつが集めたものじゃない
免許皆伝も出来てなかった
これじゃ刀のオマケとすら名乗れないじゃないですかやだー >>141 とは、言え、その時より300年後の鳥羽伏見の新選組も刀で戦っているからな。
とは言っても、鉄砲も少量ならどうにもならないだろう。ガトリング砲が20-30門あれば
別だが。 !!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。
我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。
押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
勤め先・株式会社WEIC(ウェイク)104-0053
東京都中央区3-1
http://www.ntt.com/bizhosting-basic/data/case2_1.html >>144
新撰組はもともと目立たずに少数でターゲットを狙う暗殺を得意としていたから
大規模戦向けではなかった
暗殺ならば爆発音が大きく命中度もあまり高くない鉄砲よりも刀のほうが良い
大規模な鳥羽伏見では下っ端だから鉄砲も与えてもらえなかったというだけでは? >>147
島津は鉄砲隊持ってただろ
井伊直政が撤退する島津を追いかけて島津の銃で撃たれ
その傷が原因で関ケ原の2年後に死んでるし >>148 一人一丁とはいわんが、騎馬武者も歩卒も持っており。信長みたいに
組織だった鉄砲隊ではなく、抜刀隊になったり、鉄砲を撃ったり、柔軟無碍
の戦いをやっていた。井伊直政を撃った連中も、鉄砲専門ではなく、抜刀隊
としても優秀な兵たちであった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%A5%B8 >>149
島津は最後まで関ケ原に残っていたから有名なだけで
主力戦には全く参加していないよ
関ケ原は鉄砲戦が主流
早々と撤退していれば歴史に名が残らなかった 鉄砲を巧みに使う島津のイメージは文禄慶長頃からじゃないのかな
天正10年過ぎたあたりはこんな感じだし
フロイス『日本史』
・彼我の戦備は極度にちぐはぐであった。すなわち隆信勢は多数の鉄砲を
有していたが弓の数は少なく、長槍と短い太刀を持っていたのに反し、
薩摩勢は鉄砲の数が少なかったが多くの弓を持ち、短い槍と非常に
長い太刀を備えていた。
・そして戦闘が開始された。それは熾烈をきわめ、両軍とも槍を構える暇もなく、
手当たり次第に刀で相手の槍を切り払った。薩摩勢は、敵の槍など
眼中にないかのように、その(真只)中に身を投じ、鉄砲も弾を込める
間がないので射つのをやめてしまった。
・土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら
鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。というのは、
薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、
鉄砲など目にもくれなかったからである。 >>150 >>151 俺は、島津義弘と新選組のことを話してているんだが。会津藩が新選組に
鉄砲で武装させたら鳥羽伏見で関ケ原の島津隊のような、戦法を使用しただろうと。
足利義輝と話がずれてしまうのでこのへんにしますが。 >>146
新撰組の第一目的は暗殺じゃなくて捕縛して情報を聞き出すことだよ
警察機関なんだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています