【風林火山】武田信玄【甲斐源氏】
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浅井・朝倉や石山本願寺や毛利と行動を共にして、将軍義昭の幕府体制を支えたんじゃね?
多分織田徳川は滅亡していたと思う 天下取れたかどうかは半々。
絶対取れたという奴はただの厨だし、
取れたはずはないって言う奴も、それはそれでただの信長厨。
もし織田を破ったら、差当りは信長と同じように、義昭の配下についただろうが
これも信長と同じように、義昭の配下で安定した政権ができるとも思えないので
いずれ離反したんじゃないか 信玄は織田と一度も戦ってないだろ
信玄が強い確証なし(信玄に負けたのは逃げた家康だけね)
どのみち死にかけになるまで中央進出しなかった時点で天下取りの器じゃない
上杉謙信と五分の戦いしている地方大名が天下とれるわけないだろ 信長たおしても義昭を幕府から追放するっていう考えはできなかったと思う 謙信と五分っていうけど北条とタッグを組んで謙信に多方面作戦させて謙信主力とぶつからないようにしてたおかげだしな
間違ってぶつかっちゃったら重臣をかなり討ち取られるような大損害発生してしまったし
多少寿命延びたところで信長本体とぶつからないようにしながら織田との国力差を逆転させる事ができたとは思えない 信長厨って、
「史実で一度も戦わなかったから、信玄が勝った確証はない」とは考えるけど、
逆に「史実で一度も戦わなかったから、信長が勝った確証はない」とは思わないのな。
その論理性のなさがいつも不思議だわ。 信長厨は必ず、>>5みたいに言うのも不思議。
信長だって、義昭が表立って反抗してくるまでは追い払わなかったわけだし、
同じ状況で義昭が表立って反抗してくれば、信玄だろうと誰だろうと追い払っただろうし。
「信長がやったことは何でも全て革新的で、信玄や謙信みたいな旧人類に何一つできたはずがない」
って思い込みが信長厨の特徴。 謙信だったら変人だから、反抗してきても追い払わずに奉ったかもしれん。
信玄は下手したら、元々血筋的には足利将軍家と同格くらいに考えてたかも知れんので
積極的に乗っ取ったんじゃないかって気もする。まさに清和源氏なめんなっていうか。
入道後に征夷大将軍はさすがにないだろうから、子供を役職につけて自分は実権握ったのでは、とも思うが。 >>9
現実問題、信玄は謙信に勝ってないじゃないか。
今川・北条と三国軍事同盟を結んで娘のやり取りをし、
俺に何かあったらすぐに兵を送って、よろしく、と言っても勝てなかった。
それなのに織田に勝てたとかいっている信玄厨の頭がおかしい。
信玄だって織田の娘を後継者の正室に迎えて織田と仲良くやりたかった
時期もあったのに。 同じ源氏だから抵抗感もなく、勝頼が義昭の猶子になるだろうね。
そもそも天皇や勧修寺らによって信玄は官軍に認定されたことで、
信長は朝敵にされてしまい、
それがゆえに信長は上京を燃やし、略奪虐殺をして天皇を脅迫してるから、
信玄の寿命が長引いていたら、
信長なんて首を晒されてただろうね。 >>16
義昭は実子がいるのに、なぜ勝頼を猶子にするんだ?
義昭は自分が将軍として都に舞い戻るために信玄を利用したのであって、
信玄の世子に将軍の座を譲るために信玄を都に呼ぶのではない。
ましてや勝頼など、側室の子で諏訪育ち、
武田家臣団から武田の正当な跡取りと目されず、空中分解起こしているのに。 武田の正統な跡継ぎに認められなかったってのは甲陽軍鑑のナタだろが。
醍醐寺座主の義演が義昭猶子になっているのも知らん無知を晒してる辺りから察するに、
お前はいつもの織田在日だな。 信玄の孫と婚姻関係を結ぶことはあるな
あとは強引な隠居させる >>18
無知はお前だw
足利義昭が義演を猶子にしたのは、入京した義昭が、
足利義栄を将軍に推す関白近衛前久を追放し、
協力者であった義演の父・二条晴良を関白にすえたせいだろ
義演の兄である二条昭実は足利義昭から偏諱も受けている。
勝頼が同じ源氏だから抵抗もなく義昭の猶子となるわけないだろ。
義演は藤原氏であり、摂家の子息だ。
田舎大名信玄の子と同レベルで考えるな。
勝頼が家臣掌握に失敗したのは事実だろ。
信玄の嫡男が誰だったかも知らんのか。 徳川潰した後、いったん軍を再編すると思うな
信玄はロマンで戦をするタイプじゃない
徳川潰されただけでも織田にとっては防衛上にも信用にも大きな痛手になるから
包囲網の連中も多少はやりやすくなるはずだから面目も立つ 義昭が二条晴良を関白に据える為に前久を追放したって妄想ストーリーにワロタw
何それ一次史料の根拠あるの?
関白職なんて持ち回りだから、争奪で追放劇にまで発展しないだろ。
そもそも前久の父の近衛稙家の姉妹は義昭の実母だぞ。
それなのに義昭が追放するわけねーだろ。
義満の猶子になっていた三宝院満済や、
足利義詮の子で義満の兄弟の満詮の子が三宝院義賢となった経緯をみても、
醍醐寺座主になる為には将軍家との関係が必要だったから、
当時いた九条家にいても意味ないから、
義昭猶子になる手続きが必要だっただけだろ。 >>24
相変わらず無知の暴露w
近衛前久が足利義栄の将軍就任に奔走していたことも知らないの?
足利義輝の正室は前久の姉だったが、義輝を殺害した三好三人衆が姉を庇護したことを受けて、
彼らが推す足利義栄の将軍就任に動いている。
足利義昭がライバルの足利義栄を推す近衛前久を快く思うはずがない。
なぜ足利義昭の都入りの直後に近衛前久が都落ちしているんだ?
ただの五摂家持ち回りで関白の座を失っただけならば、
いとこの好みで足利義昭と親しくキで交流してればよかったじゃないか。
義演の師は足利将軍家の猶子にならずとも醍醐寺座主になっているし、
摂家の子息ならばそれだけで資格十分。
醍醐寺座主が足利家の猶子にならなければなれないなんて頭が湧いてる。 >>25
でさ、能書きはいらないから、
義昭が前久を追放したって言う一次史料の根拠を出せよ。 無駄だよ。
無知だからすぐにwiki先生を頼って、
前久記事マルパクで書いてるのが文章内容からモロバレだからw ちなみに義演の師であった義堯は、
足利義稙の猶子なんだなwww >>26
近衛前久がなぜ都落ちしたか一次史料出してねw >>26
足利義昭が源氏の流れから猶子をとった例も示そう 一次史料には武命を違えたって書いてあるので、
義昭からの何らかの命令で、
義昭の意に沿わなかった話があっただけのことで、
前久は自分から大坂へ行ってるし、
前久の息子にはお咎め無し。
どこをどう読んでも義栄将軍就任の件で義昭が根に思い続けて、
上洛したから早速、積りに積もった恨みの報復で、
前久を追放したなんて解釈は出てこない。
そんなに根が深いなら前久の息子も連れて逃げるだろ。 当初は島津のところへ使いに出るなんて話から、
実際は大坂へ行くだけだし、
前久嫡男も京で普通に生活してたから、
前久は少ししたら戻ってくるかもってことで、
朝廷も12/16まで様子見で、
二条晴良を関白に復職させなかったしな。
前久の追捕なんてのも義昭は出していないし。 東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候
(『甲陽軍鑑』)
今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』) >>12-13
信玄が天下取って、太政大臣禅師とかになったら、嫌だな・・・ 猶子云々って言ってるけど、勝頼(でも誰でも、息子)を将軍にするのに
わざわざ足利氏の猶子にする必要はないだろ?
立派な河内源氏支流の当主なわけで。
名家を乗っ取るのに、息子を送り込むってのは
それこそ諏訪勝頼とか、北畠信雄とか、吉川元春とかよくある話だが、
それらは自分の嫡子には自分の家をきちんと継がせて、庶子に他の家を継がせる場合。
つまり序列として、自分の家を継いだ嫡子>>他家を継いだ庶子。
将軍職を得させるために、自分の嫡子を足利に送り込むなんてのは、普通に考えて有り得ないだろ。 穏便かつ平和裏に禅譲する手続きみたいなもんだろ。
力づくの覇者ではなく、
人徳で世界を照らし統治する教化政策。
風林火山な知識ある人なら名分論を重視するだろ。 まーた織田朝鮮人がコリエイト捏造歴史を語り始めた途端に、
即論破され泣かされてたのかよ。 鎌倉幕府の北条みたいに執権職につく行為って、
江戸幕府における吉宗みたいに、
中興の祖と読んでいいのかね?
武田が中興の祖になる展開もアリなんじゃね?
それとも周の文王みたいになるタイプかね? 信玄が織田を滅ぼせるわけないだろw
菅沼遼太の妄想炸裂 武田に呼応して浅井・朝倉と石山本願寺と毛利が動くから、織田徳川はかなり厳しいと思う。
浜松城、岡崎城、清洲城、岐阜城、大垣城、長浜城と来て安土城を落城させれるのは
武田軍以外には考えられないわな。 >>37
信玄は確かに知識人だし、仏教への信仰も篤かったけど、
そういったこととは全く関係なしに、
残虐極まりない殺戮者でもあったんだが。
人徳で世界を照らし統治するとか、そんな生易しいもんじゃない。甲斐源氏なめすぎ。 織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へその犯罪行為を告発しているほど
「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」
またフロイスも日本史において
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。
これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。
信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。 >>43-44
だから、信長厨はこんなところに来ないで、隔離された場所でやっててくれよ・・・
信長は確かに凶暴な暴君だったけど、でも
「朝廷秩序の枠外に出てしまった」とか「日本史上唯一」とかじゃ全然ないんだって。
夢見すぎです。 >>41
浅井・朝倉も毛利も石山本願寺も、自らの領地拡大のための包囲網であって、
武田信玄に天下を執らせるためでなければ、信玄の命令で動いていたわけでもない。
どうせ空中分解する。(実際、した)
信玄自身、三国軍事同盟で今川の絶対支援を約束していたのに、
さっさと破棄して娘を送り返されているような裏切り者だし、
誰かが裏切って負け色強くなったらすぐに寝返るよ。 浅井や朝倉や本願寺が自らの領地拡大のため?
アホか。信長の暴威への自衛行動であって、
領地拡大なんて全く目指していないし、
信長に王手をかける存在として彼らは信玄に依存していたし、
信玄の挙兵により初めて策動していた義昭自身も自信を深め、
内外に信長との手切れを発表している。
浅井は信玄様と呼んでいたくらい。
今川が勝手に国境を封鎖し、武田を上杉と挟撃しようとしたから、
信玄は上杉が行動出来ない冬場に今川侵攻して、
各個撃破をはかっただけで、
信玄より先に今川が裏切っているのは明らかなんだが。 信玄の場合は隣国に分国法なく、
悪政がしかれ、上限がなく、ほしいままに課役課税がかされている現状に平民が難儀しているので、
法による公明正大さを隣国に輸出して救ってやりたい一心からだから実力で勝ちとったと言える。 武田が天下を獲るためのお膳立てはみんなでしてくれて
天下を獲った後、協力者の権益を侵さなければ大乱にはならないだろう
しかし、武田が一か八かのハイリターンハイリスクの天下取りを目指すかと言えば
かならずしもイエスとは言えない
慎重派の信玄が本気で上洛するつもりだったかどうかをまずは考えるべきだ >>47
アホかw
信玄になど依存しているわけがない。
朝倉など単独で足利義昭を匿っていたことまである。
信玄に打診したか?全くしてない。
で、もし信長の土地が空いたらどうするか?
浅井朝倉は土地の侵略を始めるだろう。
信玄さま、どうぞ無料で差し上げますなど言うわけがない。 >>47
武田信玄が織田信長の養女を勝頼の正室に迎えて、
織田・徳川と手を組み、今川への侵攻を開始したのが始まりだよ。
今川が国境を封鎖したのは、武田勝頼と信長養女の婚姻が成り、
武田ー織田が姻戚として協力関係を持ち、共通の敵今川と戦うことを決めた後。
信玄は今川に嫁がせていた娘を帰された。 >>49
アホすぎて話にならん。
上杉謙信にすら勝てなかった信玄を誰がお膳立てするんだw
信玄にとって三国軍事同盟崩壊で今川・北条は敵だし、
上杉・村上は大昔からの永遠の敵、織田・徳川とも敵対するんだろ?
浅井・朝倉・本願寺が信玄を盟主に戴いてくれさえしたら期待大ってか。
戴くわけがないだろう。彼らは足利義昭の掛け声力を信じただけ。 >>50
意味不明。義景が義昭を匿っていたとかそんな時期はない。
そもそも隠す必要がない。
しかもその時に信玄が何で関わってくるんだ?
義昭は武田、上杉、北条の和睦交渉していたし、
信長はまだ美濃攻略に苦戦していて、
東美濃国人を援助していた信玄に、
信長は遠藤の娘を養女にして婚姻同盟を申し込んで援助を申し出ている。
そもそも朝倉と織田は戦闘状態になってないし。
全く情勢を理解せずに書いているだろアホ。 >>51
全く関係ない個別の話を無理やり関連付けるなよ。
今川が国境封鎖し、上杉と挟撃しようとしたことと、
織田と武田の同盟には関連性は全くない。
その証拠に永禄12年正月7日氏照→上杉宛書状で、このたびの手切れは、年来今川殿駿越ト合、信玄滅亡之企歴然それゆえ信越雪深いみぎりゆえ駿河仕置きしようとこの一理ゆえに軍を動かした。
などと北条氏照が謙信に宛て、今川が武田に攻められたのは止むを得ないことだと書いている。
武田は上杉を攻めて北上している最長であって、
今川攻めなんて全く考えていなかった。
別に武田は徳川と同盟したわけでもないし、
敵を上杉だけに絞る為に織田の美濃攻略を後押しし背後を固めただけ。 >>52
頭大丈夫か?
信玄西上と時期にはもう今川は滅亡し、
北条は信玄の西上に協力して、
北条軍3000を信玄の西上軍に参加させてんだけどw
上杉はもう信玄が策謀しての越中の一向宗鎮圧に忙殺しており、
武田にちょっかい出す余裕はない。
村上はもう滅亡しているし、
お前はいつの話をしてんだ?
それに本願寺や朝倉の要望で出陣したって信玄が書状出してるじゃん。
懇望=戴くと解釈しても間違いでも無かろう。
なんせ三方ヶ原で圧勝し絶大な宣伝効果も備えたからな。
一方、信長は離反が相次ぎ1万しか集められず、
誰が敵か味方かわからないと嘆いている。
三方ヶ原戦勝を聞いて武田軍が勝つと計算した上での離反だわな。
なんせ京の西の山崎の油流通を支配していた商人たちが、
信玄に起請文を貰うために働きかけかけをし始めたくらいだからな。
本能寺の変後に光秀が山崎を防衛しようとしてたし、
清洲会議後に秀吉は山崎に城を築き、
大坂城完成までは山崎を本拠地にしていたくらい山崎の支配は最重要だったもんな。 まーた織田チョンが完全論破されて泣かされたのかよ。
相変わらず懲りない池沼だな。 信玄はこう考えていた。
「尾張から都までの間は一戦ごとにこちらが強くなる。
上方の敵は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯なことでもすると聞いている。
(『甲陽軍鑑』品第三十九) 伊那駒場の地で信玄様は
「明日は瀬田に武田の旗を立てよ!」
と言って絶命されました 勢田どころかその9年後には躑躅が崎に織田の墓が立つことになります。 声優の遠近孝一さんがマニアックに戦国時代を語る無料配信番組です。
戦国ネット「すきらじ」
第25回「風林火山」
http://www.suki-radi.com/
孫子の旗について興味深くぶった切ってます(笑) >>58
そりゃ尾張まで入られた時点で織田の負けみたいなもんだし、流れが完全に武田に向くだろうな 風林火山とはなんずら?焼鳥ですたい。うまかぁ。Slash 追い打ちの際、山縣を浜松、馬場を岡崎に行かせ、家康の首さえ取っていたら。 伊達政宗も結構近隣諸国裏切ってないか?
弱小大名を力で侵略して芦名で総仕上げみたいな。
それまで何重にも婚姻関係結んでいて平和だった東北で
いきなり発情して近隣諸国攻め取った基地害というイメージがある。
秀吉に潰されなかったのは幸い。 勝頼の最初の妻の遠山夫人が早世しなかったらまだ希望はあったかも >>77
信玄が信長を裏切った時点で遠山夫人は織田に返されるんじゃない?
信玄は北条から娘を返されてるよね >>78
帰るか残るかは本人の意思によるところも大きいから
手切れになりましたよ、はいさようならというほど単純なものでも
ないと思うが。あとは家々ルールや家臣団関係。
遠山夫人は苗木の実子でもあるから東濃対策という意味では
信玄も本人が絶対帰ると言わない限り返さなかったと思うけどなあ。
勝頼も彼女の死に関する逸話で考えれば氏政同様に最後まで
反対した可能性は非常に高いだろうしな。 東美濃遠山グループは両属国人衆だったからね。
松姫と信忠の婚約も既に成立させてたから織田と二重婚姻を結ぶことで
対東美濃国衆、対織田家中、双方への戦略布石を敷いたんだろう。 >>81
黄梅院は自分の意思で武田に帰りたいと言ったから返されたと?
北条に幼い息子を四人も残して?
黄梅院は武田に帰って出家しているし自らの意思で帰ったとも思えんが。
武田都合すぎる。 >>81
今川氏真の妻の早川殿みたいに最後まで夫についていくという選択をした者もいるな 織田に降伏して、勝長を勝頼の養子にした上で家督を譲って隠居するなりすれば生き残れたかもしれん 加えて信勝と於松を人質として差し出すぐらいの誠意も見せんとな ちょいまった、信玄の場合だよね?
だったら西上戦の頃は信長の方がかなり不利だぞ
東美濃の国衆が武田に内応していて岐阜と目と鼻の先みたいな
加治田ですら内応だから信玄が生きてたらマジで詰む 結果論だが生き延びるには信玄が生きている時に和睦して織田を絶対裏切らない。
その後は徳川のように従属大名として生き延びる位しか選択肢無いだろ?
長篠の後は何をやっても降伏しても無視されて滅ぼされるだけだし実際そうなった。 長篠の後に関係修復を図ったりはしていたようだが降伏なんてしたか?
第一降伏及び臣従なんてしようもんなら勝頼だとクーデーター起こされたろ
でなくてももともとが親織田派でこれが家臣団と上手くいかなかった理由の
一つなんでは?という見方もあるということだし。
それと信玄時代の和睦に関しては信長の国衆(東濃)政策の失敗が
遠因になっているから信長にもかなりの非はあるんだよ。
よってこのあたりに関して双方がきちんと状況整理をして意思疎通を
図れば良かったのであって武田にしてみれば和睦もなにもない。
先に何の話もなく国境侵犯したのはお前だろってな感じだから。 要は信長も勝頼も言葉足らずだったんだろうね
信長はご坊を岩村に送ることになった事情なんかをきちんと
国衆や武田に説明、勝頼も御館の乱そして上杉と同盟を組むことに
なった経緯をダメ元で信長に説明すれば少しは違った動きに
変わっていったのではないかな。 文書名失念だが武井個人あての信玄からの書簡の中で一蹴くらうような
内容が書いてあるというからめちゃ厳しいと思われ。 しっかし信長もなぜ国衆対策に力入れなかったのかなあ… 国衆の真の怖さを知らず甘くみてたんじゃないか?
信玄は甲信があーいう体制でそのあたりはお手のものだから
内応させるのに成功することができたともいえる。 >>94
織田との同盟を尊重して義昭からの要請を一度は断ったしな。
信玄から同盟破棄の動きがあったとはいえ駿河侵攻とは違い信玄には
信玄なりにそこに至るまでの理由があるわけで一方的に信玄が悪いとする
見方にはいささか疑問を感じる。 結局お互い誤解を解くこともなくすれ違ったままこじれにこじれ
もつれにもつれてしまったのだろうな。
それにしても勝頼は長篠後に信長から打診のあった和睦提案を
なぜ蹴ってしまったのだろうか?
受け入れていれば信勝や松姫の関係もあるから織田一門として
繁栄できたかもしれなかったのにもったいない。 甲斐、信濃の安堵と織田への臣従が条件だったか?
五カ国の太守がこんな条件受け入れたら国衆の離反凄いだろうな。 離反相次ぐ→クーデターまで勃発→勝頼らが織田に亡命→信長ウマー
処罰を大義名分に甲信平定 徳川を滅ぼし、遠江国と三河国を平定していたら
信玄公は甲斐、信濃、駿河、遠江、三河、上野、北武蔵、東美濃、飛騨を支配し
織田を討つべく、尾張・美濃方面へ進出していたのでは? >>100
上杉や北條がちょっかい出すだろうからそう簡単には平定できんだろ 信玄末期にはかなり経済状態疲弊してたらしいから防衛一辺倒で財政改革に手を付けざるを得ず、
それだけで寿命が来たと思う。 やはり越後へ進出して駿河〜越後に至る太平洋・日本海両面の港を押さえ
海運による経済的発展を図るしか手は無かった >>102
クーデター起きる時期が問題だな
謙信存命中か死後か >>99
記憶違いじゃなければそういう条件
勝頼はそうしたかったが家臣団が許さなかったのかその逆なのかは
わからないし表には出てこないけど徳川や穴山あたりが裏工作して
決裂の方向へ流れを変えた可能性も無きにしも非ず他
この勝頼の選択はちょっと理解しずらい 降伏しようとしても信虎みたいに追放されかねなかったのかね 105
んだな、謙信が生きてるときに甲越同盟の動きはあったみたいだからな
謙信が死んで全てパー、本願寺会して毛利との連携も画策してたくさいもんな 謙信が関東に出兵する説もあったが古河公方がすでに北条方についたからな
これの名目は失ってるから考え難い >>107
そうなったと仮定した場合、国内では盛信らがどう動くか
国外では周辺諸国がどう動くかでだいぶ事態は変わったろうな
追放された勝頼がどこを頼るかでも。 勝頼を追放するとして次代には誰が神輿にのらされるのだろう。
盛信も妹の件等で織田に臣従姿勢かもしれないし神輿に乗ること自体
断固拒否姿勢かもしれないわけだからなんにしても武田がさらに
弱体化するだけにしかならないような てかさ、もし織田軍の武田征伐よりも前に本能寺の変が起こったとしたらだ。
武田家は存続していた訳だが。
勝頼は韮崎に甲斐国府を移して新府とした訳だから、新府城が機能して
街並みも完成していたら、現在の山梨県も県庁が新府(韮崎)に置かれていたのかな?
現・甲府は古府と呼ばれ、現・韮崎、大月レベルの都市だったかもな。 武田征伐の前に本能寺が起きるという仮定自体かなりの違和感が 武田が残ったとして、でも統一政権ができてそれに服従したとすれば、
当然転封されて甲斐には残らなかったんじゃないかな?
新府城は拡大した武田領国の中心で、そこに府中移転した勝頼は先見性があったと
評価するのは笹本先生だけど、でも甲斐は豊臣政権時代に武田氏居館から南の
甲府城が新たに築城されたわけだし、新府が中心になったかは疑問があるかも。 >>113
逆に本能寺の変が遅れてたら上杉は滅亡してたな 甲斐源氏の宗家は武田家のはずだけど、なぜか小笠原のほうが格式が高い気がする 武田勝頼
今川氏真
無能だったけど生き延びたのは氏真の方、後世の歴史家は両方とも無能扱いだけど 勝頼を無能って言ってる歴史家って誰だろう?
古くは上野晴朗氏が再評価をしているし、今もその流れがある。
これに対して無能、無策、贔屓の引き倒しと言ってるのが柴辻さん。 >>122
最近はわからんけど小和田さんも酷かったなあ
文章から自分は勝頼が大嫌いですが滲み出ていた
小和田さんの母方が馬場系統らしいんで(と本人も言ってる)
なにか含むところがあるんだとは思うけどね。 武田信虎がそういうことに熱心で
晴信に元服と同時に叙位させ公家の三条家の姫を正室に迎えさせているが
信玄は嫡男だった武田義信にも叙位させていないよね >>127
まあ、あれは足利義輝の仲介で信濃国守護を受けておかないと
上杉謙信に信濃国守護を取られちゃうからなw 公家に顔きく信虎が孫に官位官職もらえるよう口利きしてやればよかったのに 義信は知らないが勝頼の無位無官に関しては確か信長が実質牛耳っていたも
同然だったから与えたくてもできなかったとなんかで読んだことがある。 勝頼だって元服直後は織田信長と仲良しだっただろう
信長の養女を正室に迎え異母妹を信忠と婚約させてたくらいだから >>130
タイミングが悪すぎたんだよね、勝頼の場合は。
たらればだけど信玄がもう少し早くから働きかけてくれていれば
また違ったかもとは思う。 >>129
信虎は義信がまだ4歳の頃に晴信によって甲斐を追い出されてるからな >>135
???「じぃじは海が見える国に働きにいっておじゃるよ」 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>119
足利高義の娘を嫁にもらってる人もいるから高いんじゃないの?
もしくわそうみられてたか、特に足利尊氏と親しかったか。 信長が京都を牛耳っていたから勝頼が官位を貰えなかったのは
もう仕方が無い
むしろ関東公方・管領系に働きかけて関東系の官位を貰えるように
する方が合理的だったような気がする >>141 謙信に頼むんか? まあ、謙信はそこのところ話がわかるかも知れんが。 信玄はクーデターによって当主になったから、逆に家臣にクーデター起こされないように、
御機嫌とりに必死だった
その一環で、慣れない京文化を習うのにかなり時間を割いてるし、アホな時間の使い方をしている
そもそも信長が30代で尾張、美濃、伊勢の高生産力な国を取って支配地が150万石超えたのに対して、
信玄が52年の生涯で得た支配地は100万石有るか無いかくらいだから、動員兵力、資金に差が有り過ぎる
信玄が上洛を開始した頃には、国力の差が開きすぎてどうにもならなかっただろうよ
信玄が決意したのは足利将軍の御行書の威力を信じすぎたから 人間誰しも自分が死ぬタイミングまでは計算に入れられない
けど信玄は年齢考えたらそろそろ計算に入れないといかんかった、そこは後に響く致命的な失敗 武田の透波って、実体は全員が下忍でしょ。
下の下の下じゃん。格好悪過ぎだよね。 武田信玄って何回同盟結んで裏切っているんだ?
結局最後は誰からも信用されなくて孤立化、滅亡しているし信玄がいなかったら武田って甲斐一国もしくは信濃二国の中堅大名として生き残っていたかもね。 >>147
元亀年間の信長との断交の一回だけじゃないかな。
信玄の時代には北条との同盟があるし、勝頼の時代には上杉や佐竹との同盟がある。
ぜんぜん孤立してないし。 裏切りによる窃取を繰り返した割に勢力拡大が緩慢だった
勝てば官軍負ければ賊軍、全方位敵も厭わない意気は良いとして
官軍になり得るだけの勢力を築けなかった
120万石程度じゃ無理です >>148
信玄が裏切った大名家
主だったのだけでも諏訪、今川、北条、織田、上杉、徳川
国人領主クラスになったら数知れず。
同盟結んでおいて領地が欲しくなったらさっさと破棄して侵略、滅亡させて大大名になった。
相手から見たら同盟の意味が全く無い。
勝頼の代には全く信用なくなって仮にも五カ国の太守だったにも関わらず織田に対して抵抗らしい抵抗も全く出来ず最後は惨めな最期。
上杉や毛利も織田の猛攻受けていたがきちんと抵抗はしていた。 勝頼が戦ばかりしていたバカ殿と言われるのは信玄時代に同盟破棄を繰り返して周りの大勢力全てを敵に回したっていう側面もあると思う。 諏訪との手切れは、諏訪側の盟約違反が背景にあったとか、知らんのかね。 織田:300万石
徳川:50万石
武田:120万石
信長
「貴殿も知っているように、自分は信玄の為に貴殿との間を取り持とうとさんざん骨も折った。
しかるにこの度の信玄の裏切りは古今未曾有、武人の風上にも置けない天魔外道の行いと言うべきだ。
絶対に許さない…」
謙信
「信玄が信長と戦いはじめたのは、わざわざ蜂の巣に手を突っ込むようなものだ。
いくら信玄が老練とはいえ生半可なことではない。しなくてもいい戦いを始めて自ら苦境に陥るとは、
信玄も何を考え違いしたのか知らないが我が上杉としては幸運というべきだ」
ttp://k-mary13.blogspot.jp/2014/04/blog-post_22.html
結論。信玄がもう少し長生きしたとしても、結局は織田に滅ぼされた可能性が高い。
信玄最強のイメージは家康の意向で江戸時代に武田ageが行われたから。
これでよろしいかな? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>153
苦境に陥ってたのは攻めこまれた織田と一向一揆けしかけられてた上杉だよね 大河板の直虎スレに岩村皆殺しをやめたという内容の信長→謙信書簡があると
書いてあったけどこれ本当? そのあたりは武田総合スレの方が詳しい人間がいるはず 1571年ぐらいに信玄は、信長に負けていた。中部地方は
強敵が多く。信長は 浅倉や浅井を破り、 既に近畿地方を
制圧していたのに。 近江は京に近く甲斐の信玄は信濃を
川中島の戦いを繰り返しても統治できず 53歳で上洛を試み
るも病で引き返し亡くなる。三方原の戦い位信長勢に一泡
吹かせた。 仮に病気で倒れずに上洛できていたとして上洛後のビジョンが見えてこないな そりゃ本当の烏合の衆は畿内の連中だもんw
京都の朝廷は末期は周囲の大名小名に乱入されるくらいだからな
だから初期は敵であった遠方の地方勢力に頼らなきゃならなかったわけで
成功の暁にはとんでもない恩賞をエサに取り入ろうとしているわけ
あとは仏教の宗派別の対立の影響なんかもあるわけ 木曽義仲が上洛したときも実際に乱暴狼藉の主体を成した兵団は近畿兵だからなw 京都の治安維持のための勢力を外部に求めたのが上洛だの何だのの始まり
近畿の統治が成功しなきゃ用済み
下手に上洛すりゃ滅亡する危険すらあったわけで京都が魔都扱いされた理由
下手に関わるよりは地方勢力であり続けた方が滅亡する可能性は低いからな
関東勢力が距離を取ろうとしたのはそれが理由 仮に上洛して、義昭に謁見しても甲斐までとんぼ返り
上杉、北条らとの均衡した状態になるだけ。信長のように
近畿制圧出来たと思えない。 そこでウルトラCですよ。一条信達を甲斐国主に任命し、信玄卿は山城に留まる 一人だけど畿内に謎のコンプレックスを持つ甲斐党も存在するんだな
東国と違いそこまで無下にされた歴史はなかっただろうに >>165 信長は、武田 上杉 北条 が牽制しあっていたからよかったよ。しかし、
毛利が、宗麟と三好を滅ぼしていたら、どうだったろうね。毛利幕府はできて
いたか? 岐阜と京押さえてた信長と違って毛利は居城移しても広島。
大内義興と似た運命たどったような。 信玄や山本勘助に関する小説本以外の本が、いつの間にか書店で消えてるね。
古本屋にもほとんど見かけない。
これから勉強しようと思うんだけど、なんで本屋に無いの? >>171
中国共産党特殊情報局の陰謀工作なんです >>171
本屋は売れ筋しか置かないから
小説以外の歴史本自体、大きな書店以外では見かけない
史料に当たるなら資料館や大学図書館だろうし
amazonで取り寄せるとか なんという良スレ…
スレタイを見ただけでワクワクしてしまった
このスレは間違いなく伸びる
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\_/ ∩ ∩
( ・(ェ)・)……。
_| つ/ヽ-、__
/ └(_____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 現在の人口比と戦国時代の人口比って、そんなに変わらんっしょ?
所詮どう頑張っても山梨県が愛知県に勝てる筈も無し。
せいぜい長野県にチョッカイだす程度。 >>182
太閤検地のころで尾張57万石、甲斐20万石ぐらいだっけね。
都市が小さいから、近い国だとそんなには経済格差なかったかも(東北は別格)。
もっとも尾張、美濃、近江、越前と大国を押さえたら200万石超えたと思われるので、信長の優位は動かず。
朝倉を滅ぼした時点で信長の天下は決まったと思う。
信玄さん最後の長征も、もしかしたら乾坤一擲の信長つぶしだったかもね(あの時点で濃尾が落ちればわからなかったろう)。 >>183
絶っっっっっっっっ対に濃尾は落ちない
予備兵力が違い過ぎる >>183
朝倉宛書状の書き出しが信長滅亡なんだから
信長潰しだろ
と加来が言ってた 武田氏と武田勝頼はなぜ滅んだのか? 重厚長大にして胸に迫るヘビー級の読後感『武田氏滅亡』(著:平山優)
源氏の流れを汲み、甲斐に根を張った名門武田家。
信虎が国内をまとめ、信玄が領土を拡張し、そして勝頼の代で滅びる――。
昨年の『真田丸』序盤において、視聴者の心を最もゆさぶったのは、気高くも儚く消えた武田勝頼の姿ではなかったでしょうか。
従来囁かれてきた暗愚の二代目像からはほど遠く、運命に抗う力すら失い、自害に追い詰められていった勝頼。
彼がああまで追い詰められていったのは、一体何故なのか。
それを新書離れした分厚さで描き出したのが本書です。
武田氏滅亡 (角川選書)
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平山 優 KADOKAWA 2017-02-24
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厄介なことに、730頁を越える本書を読んで得られる結論は「結局、武田勝頼は何が悪くて滅びてしまったのだろう?」という大きな疑問です。
もとより現代から振り返る歴史に明解な答えなど辿り着くことは困難極まるものかもしれません。
それでも真摯に核へ迫ろうというのが本書であり、当代随一の武田氏研究者・平山氏の検証・思考には僭越ながら学ぶ箇所だらけであります。 長篠の敗戦よりも痛打となった御館の乱の判断ミス
従来、武田家滅亡の原因は勝頼の無能さにあるとされてきました。
いや、そもそも信玄時代からかなり無理をしていてそれがたたったのだという見方もありました。
長篠の戦いにおいて、鉄砲の天才・織田信長に対して、騎馬による突撃という古い戦術をとった武田勝頼という典型的な見方もありました。
ただ、大敗したとはいえ1575年の長篠の戦いから、1582年の武田家滅亡までは7年という歳月があります。
こうした人間の能力だけが武田家のような大きな組織を滅ぼすというのは、少々単純化された話のような気がします。『信長の野望』と違って、現実は人間のステータスだけで動くものではありません。
長篠のあと、勝頼はむしろ領土を拡大し体制の立て直しに成功しています。
領土の広さだけで比べたら、むしろ父・信玄の代を上回っています。
※ただし、本拠地を次々に変えて、領土拡大先で完全に所領化した織田信長と異なり、地元の国衆を傘下にするだけの武田氏基盤が意外に脆弱だったという指摘もありますが……それはさておき。
勝頼の失敗は、長篠の敗戦よりも、1578年に起きた「御館の乱」の方が深刻でした。
御館の乱とは、隣国・越後で起きた謙信死亡後の上杉跡継ぎ騒動であり、甥っ子の上杉景勝と、北条からの養子・上杉景虎が争ったものです。
勝頼は、北条氏と同盟関係にあり、正室を北条家から娶っているにも関わらず、北条氏政の実弟・上杉景虎支援に失敗し、北条との同盟が決裂してしまいました。
御館の乱の終結時に勝頼は、景虎を破った景勝と同盟を結ぶのですが、北条という貴重な同盟相手を失うという大きな損害をもたらしました。
そしてさらにその2年後、決定的な打撃を受けます。
「高天神崩れ」です。 和睦をチラつかせて決断を鈍らせ……巧妙すぎる織田信長の策
北条氏と熾烈な関東をめぐる争いを繰り広げるようになった武田家。
この北条と呼応したのが、徳川家康でした。
1581年、徳川勢が高天神城(静岡県掛川市)を攻めたとき、勝頼は北条に対応するため、徳川の侵攻に対して思うように援軍を送ることができませんでした。
ここで城を攻める家康の同盟者である信長は、残酷かつ的確な指示を出します。
敵が降伏をしてきても決して受け入れるな、勝頼が援軍を出さなかったせいで高天神城の者たちは見殺しにされたと知らしめるのだ、と。
高天神城に籠城した者たちは、この残酷な意図のもと、食糧供給を絶たれて餓死してゆきます。
脱出しようとした僅かな者も、張り巡らされた徳川の包囲網にかかり、敢えなく戦死。
彼らはなるべくむごたらしく悲惨な死に方をする方が宣伝になると信長は計算したわけです。
戦死した者たちの多くは、武田家に付き従ってきた有力な国衆たちでした。
この状況でなぜ勝頼が援軍を出せなかったのか。
それは前述の通り北条の状況もありましたが、信長が和睦交渉をすすめていたこともありました。
和睦で解決できるのならば、援軍を出さずともよいと勝頼や重臣が考えてもおかしくはないわけです。
武田家の中で長篠の記憶は生々しく、下手に織田勢とぶつかるのは避けたいという意識もあったことでしょう。
しかしこれは結局のところ、信長の時間稼ぎだったというわけです。
勝頼は信長の策にかかり、高天神城と彼の威信を失ってしまったのです。
選択肢は常に困難極めるものばかり
さらに信長は、勝頼は正親町天皇に逆らう「東夷」であり「朝敵」であると喧伝することにも手抜かりはありませんでした。
勝頼は莫大な金に目がくらんで北条との同盟を破棄した男であり、味方が追い詰められても援軍すら出さない冷たい男であり、さらに朝敵でもある。そんな認識が世間に広まってしまったのです。
後に、穴山梅雪や木曾義昌らは勝頼を裏切ることになりましたが、彼らに言わせれば「勝頼の方こそ我らの信頼を先に裏切ったではないか」ということかもしれません。 振り返ってみますと、武田勝頼は、長篠の戦いでの敗北は何とか立て直すことが出来ました。
人的損害は何とかできたのです。
しかし、高天神城で地に落ちた名声は、もはや彼自身の運命とともに、墜ちるところまで墜ちるほかありませんでした。
失われた信頼、世間に広がった不信感は、簡単に拭いさることができない。そんな典型的な例だったのでしょう。
高天神城陥落の翌年、勝頼は僅か50名ほどの者たちと落ち延び、最期を迎えます。
結果的に勝頼は間違えました。そして滅びました。
しかしその選択肢は常に極めて難しいものばかりで、彼は決定的なミスばかりをしていたわけではありません。
選択した直後、勝頼も武田家の重臣たちも「今、間違ったことをしてしまった」と気づくことはできなかったでしょう。後で影響が及んできて、結果的にあのときああしてはいけなかったのだ、と理解したことでしょう。
そういう複雑な状況を「勝頼は暗愚であった、だから滅びたのだ」とまとめてしまったらどれほど楽でしょうか。思考停止できたらそれでスッキリすることでしょうか。
本書は750頁という厚さで「ところが、歴史というのはそんなに単純なことではない」と突きつけて来ます。
読後は、妙な疲労感を覚えました。
それは滅びの物語をたどる重さだけではなく、私たちも勝頼のように最善の選択をしたつもりでいて、あやまった道を歩み、そしてそれに気づいていないかもしれない、と感じたためです。
人にとって失敗とは何か。歴史だけではなく、人間のそんな本質にも迫る労作です。
このヘビー級の読後感、なかなか味わえない一冊です。
小檜山青・記
【関連記事】 武田信玄は後世の過大評価
血筋は立派だが甲斐信濃駿河を抑えた山猿に過ぎない
やっぱり神君家康公を苦しめた存在ということと、武田遺臣を徳川家が大量に抱えたからだね >>188
相変わらず平山は織田側史料読み込んでいないのか(笑)
妙心寺記に天正九年の八月に快川と南化が両者の和睦について
協議した旨が書かれてあるのはスルーか(決裂したが) なんという良スレ…
スレタイを見ただけでワクワクしてしまった
このスレは間違いなく伸びる
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\_/ 噂の騎馬軍団は後世の創作で当時のお馬さんは短足の鈍足
じゃあ一体何が強くて名将扱いされてんだよ?!
わけわからん 山梨の親戚にで中込と言う名が有るのですが、この名前は武田家家臣の名前なのでしょうか?
少し調べると、穴山家家臣団や山県家臣団に名前が見受けられました。又は、金丸虎義前の分家とも有りました。
山梨県内では多い名前ですが、ご存知の方はいらっしゃいますか?
私自身山梨県とは縁が無く、これを機会に偶々調べていて興味を持った次第です。 へー中込って名前武田の家臣だったんか
阪神の中込甲府高校?商業?だったな 中込、甲府興行定時制から半身へ
中学頃から悪党と風聞あり
部室にて手篭めしへりとか 中込伸は高校時代すでにチンピラのおっさんにしか見えなかった真正DQNだけどな 中込姓は山梨では多いのですが、土着の姓であり加えて古い姓であるにも関わらず、文献にコレと言った決定的な記述が無いのが興味深く、偶々親戚姓からですが調べ始めた所です。
武田家高名録には上から4段目左に、中込民部介定行、他には中込又兵衛(山県昌景家臣団後赤備として井伊隊に吸収)等興味深い無いようですが、いかんせん情報は少ないですね。 織田家が中央集権、武田や毛利が豪族の連合体って言われるのはなんでなの?仮にこれが正しいとして、中央集権って家臣を城下町に住まわせて妻子を人質にすること?
また、これに従うと信玄は信虎を追放したのは中央集権から連合体に戻したってこと? >>201
そこらへんは曖昧というか、イメージの問題になってるけど、たぶん領土の所有性の問題だと思う
豪族の連合体にとって、豪族の領土は豪族本人がしっかり保有している神聖不可侵なもの
中央集権制の織田家にとっては、家臣や地方豪族の領地はあくまで貸し与えているもの。真の保有者は、信長ただ一人。だから信長の意志に応じて、領土の転封が行われる。
まあ、信長にしたって、この中央集権制をどれだけ徹底できていたかは疑問だし、信玄だって時には家臣や豪族を他の地方に転封したりしたとは思うけど
しょせん近世の時代だからそれほどはっきりした区別はできないと思う 信長が中央集権制なら信玄も中央集権制だし豪族連合も左に同じ
そこらは両家さして変わらんよ
そしてどうしてそう語られるかは創作ものの悪影響が大きい 昔に比べ研究が進んだ今でも信長はこうあるべき脳から
脱却できない人多数だからな >>202
サンクス
武田は家臣の領土を変えられなかったと。
穴山にはい、次は〇〇郡の統治ね!は無理ということね
あと、通説として信長の兵農分離ってあるじゃん?農繁期農閑期の話
西股氏の本で否定されてたけど、それが本当ならなんで今までは一応通説とされてたの?それなりに根拠があったのでは? >武田は家臣の領土を変えられなかったと。
誰もそんなことは言っていないと思うのだけど…
203氏も書いてるけど織田家も武田家も正直あんまり変わらない
ただ、武田の場合は古くからの在地武家が織田所領内より多くまた
その独立性も織田に比べ認められていた(というか認めざるを得なかったと
言った方が正しいのかもしれない)からイメージ的にそう見えるだけなのかも
しれないとは思う >>205は
ただの武田嫌いの信長厨だろどうせ、文章から頭悪いの丸わかり 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
WRM1B 落ちてしまった武田関係のスレに原虎胤の発給文書は偽物だろうねって話があって。
あるサイトにあったんだが無くなっていたがグーグルのアーカイブにあったので
http://archive.is/ELPs
武田遺文や資料にみられないので製作者に問い合わせたところ地元有志の制作した
本が出典らしいですが詳しくはわからない。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1322b9cf791dd10729e510ca36a73322) 信玄より、父親の信虎の方が有能
信玄は父親が稼いだアドバンテージを食い繋いだだけ 甲斐を統一した人だもんなぁ、信虎
もっと評価されるべき 【信玄堤】
そもそも信玄が存命中に、そう呼称された事実なし。
その存在すら戦国時代には無かった。
釜無川の治水土木工事は江戸時代中期から。
それが何故か「信玄堤」という名称に。
武田家が存在中はノータッチ。
外征ばかりする国に内政の余裕無し。 ふんだけんど、へぇ〜信玄公の業績だっちゅうこと
わにわにしちょ? >>224
まあ、飛鳥時代から平安時代初期までに多くの人々が半島を逃れて来たからな。
とりわけ甲斐國は高麗郡が制定される程に多数の渡来人が定住したから、後の甲州人の言語や気質に影響してるわな。 東夷とまた違う意味で甲斐國の住人も「まつろわぬ者」だったからなぁ >>219
家紋を使っているならこの子らは武田の末裔か >>229
( ´∀`)Σ⊂(゚Д゚ )ナンデヤネン! 桔梗屋信玄公餅が 武田信玄に全く関係ない件について 山背大兄王事件、大化改新、壬申の乱等一連の、政治的要因を等しうする事件において、天皇または皇子が旧来の豪族に対抗するときに、東国にそのより所を求め、
その兵力に頼らんとしていることは甚だ興味あることであって、それは大化前代の親衛軍の基礎が東国にあったことからきているのである。
(岩波現代文庫『日本古代内乱史論』北山茂夫/立命館大学教授/和歌山県出身)
大海人率いる大和勢を勝利へと導いたのは当時東国と呼ばれた伊勢、美濃、尾張の兵士たちである。
古来軟弱で知られる近畿の兵から成る近江軍を打ち破った。
大海人軍の中でも最強とされるのは遠く甲斐から参戦した甲斐の勇者と呼ばれる騎兵であった。
(壬申の乱)
東男は 出で向かひ 顧みせずて 勇みたる 猛き軍卒
(『万葉集』)
東人は常に云はく 額に矢は立つとも 背に矢は立たじ
(『続日本記』)
坂東武者の習 親死に子討たるれどもかえりみず いやが上に死重て戦ふとぞきく
(『保元物語』)
九州出身の防人たちはどうも役に立たなかったらしく、早くも七五九年に大宰府の官僚が
「東国の防人を罷めしより、辺戍日に荒散せり」と、防備体制がなっていないことを政府に訴えている。
七年後の七六六年にも大宰府は「筑前等六国」で徴兵された防人たちの不適さを指摘し
「人勇健に非ずは、防守済まし難し」という理由で、「東国の防人旧に依りて戍に配せむ」ことを願っている。
このとき朝廷は妥協策を講じ、任期を終えた防人にはそのまま筑紫に残っている人が多いはずなので、
かれらを使って地元の防人の補強となすことを大宰府に命じている(『続日本紀』)。
(ブルースバートン『国境の誕生』大宰府から見た日本の原型、NHKブックス) >>231
すでに家紋が「桔梗」な訳で........ 甲斐ゆえに!人は苦しまねばならぬ!甲斐ゆえに!人は悲しまねばならぬ! >>235
けどこの人の次の代で平安末期から連綿と続いた武田家が跡形もなく地球上から消え去ったんだよ 跡形もなく地球上から、は言い過ぎ
信玄次男の系統が一応高家として続くし
まあ大名としては滅びたけどな 家康の子どもが武田を継いだけど子どもがいなかったからなぁ。残念 山梨県に住んでての実感だけどさ
甲州人って自分が住んでる郷土の歴史に無知なんだよ
ほとんど知的障害者レベル さすがに信玄は知ってるやろ…信玄餅とか信玄ほうとうとかもあるし 穴山勝千代が生きてたら、つか梅雪が長生きしてたらなあ。
てかさ、今川氏真って信玄の甥だよな、北条氏直も。こいつらの息子を武田で立てりゃよかったのに。女系だけど信玄の直系だろ 間違えた、今川氏真は甥だが信玄直系ではないな。直系甥は北条氏直、穴山勝千代、木曾義昌の子か >>245
いやいやいやいやwww
何故に「信玄」なのか答えられる甲州人は2割も居ないくらいだよ
そんなレベルだぞ >>243
水戸家を武田家とすればよかったのに。そうすれば水戸黄門じゃなく武田黄門。 >>250
そっか、そこからなのか…
8割が郷土の偉人を一人も知らないなんて悲しいなぁ ちょっと不思議なんだよ、甲州人って
あれだけ信玄公祭りとかで盛り上がるのに、武田家の成り立ちとかサッパリ解ってないアホが多い
武田家へのリスペクトが感じられない >>250
何故に「巨摩郡」なのかって言うのかを知らない山梨県民も多いぜ。 ちょっとマジな話なんだが。
山梨県ではね、少しでも出来の良い、目端の利く者は県外に脱出させるんだよ。
親はね、如何にして子供を地元から出すかに心血を注ぐ。
だから「脱出できなかった者」 「家を継がされた者」ばかり山梨県に残ってしまう。
維新で人の往来が自由になってから、ずっと有能な若者の脱出が続いてる。
これは甲州人の宿痾だね。
脱出させるのに必死な郷土に誇りを持てって無理な話。
そんな郷土の歴史に興味を持てって無理な話。
無能ばかりの近親婚で血が濃くなる一方。 >>261
おやおや
山縣くんに首チョンパされ掛かった源氏の棟梁でんがな >>253
主に武田信玄を題材にした大河ドラマを2本もやったのに
大まかな3代記も分からない中高年が多い >>264
信玄と勝頼は知ってはいても信虎は知らん。 毛利を語るに、安芸人の性質は大事な要素。
織田を語るに、尾張人の性質は大事な要素。
武田を語るに、甲州人の性質は大事な要素。
ある戦国武将を語るなら、その国の人々の性質を探るのは外せないファクター。
従って、ディスる話題も同時に上がるのは当然。 生活保護(2012年10月)
http://n-seikei.jp/2013/01/post-13564.html
受給者数人口比率 全国平均1.67%
47富山0.32 46福井0.47 45長野0.52 44岐阜0.57 43山形0.60 42石川0.62
41群馬0.68 40山梨0.70 39静岡0.78 38滋賀0.80 37島根0.83 35新潟・福島0.84
34茨城0.87 33佐賀0.92 32三重0.96 31栃木1.03 30愛知1.06 29岩手1.07
28宮城1.14 27香川1.15 26山口1.16 25鳥取1.22 24千葉1.27 23埼玉1.30
22岡山1.34 21熊本1.38 20秋田1.39 18奈良・和歌山1.46 17愛媛1.51
16宮崎1.55 15広島1.70 14大分1.71 13神奈川1.73 11徳島・鹿児島1.88
10兵庫1.91 9長崎2.11 8青森2.15 7東京2.26 6京都2.36 5沖縄2.39
4福岡2.62 3高知2.72 2北海道3.07 1大阪3.44 >>255
知ってるよ!戦国時代の原虎胤もそれにかかって隠居してたんだよな。子供頃から裸で田んぼに入ったからしょうがないよね!
>>254
なんで京都から山梨に武田が来たのは正式には朝廷からの命令なの?詳しくは知らないが。 それにしても山梨から静岡に抜ける道はヘボいよな?痩せた土地とか河川敷ばかりだもんな! >>258
【識者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ】
甲州人は後者の典型例 >>273
謝れし
南部町に住んでる俺に謝れし
しょーずけちもーぞ いや、実際に耕地が貧しいからな
52号線を南下すると早川橋を過ぎると家並みも貧相になる >>277
穴山の領地に相当する訳だらあ?
あまり身入りの良くない土地っつうこん。 高山彦九郎日記「甲州人は文武両道、上方人は頭でっかち」 新羅三郎は不吉な奴だから武田ディスの流れになる
正義の武家の棟梁、八幡太郎じゃないとな >>282
フィクションでは無い。
ファンタジーです。 周辺國から悪鬼の如く忌み嫌われてる甲州人。
国衆が徒党を組んで近隣国に押し入り村を襲い、
住人を根刮ぎ拉致して奴隷に。
特に高麗郡の住人の評判が悪い。 馬鹿信玄が侵攻した土地の神社仏閣を必ず焼くのは何なんだろうね >>288日本以外では、それが常識的なんだがな
征服先の民衆から宗教、教育、言語、歴史を奪う 大和民族ってなぁ、世界で稀に見る穏やかな性格なんだが >>277
>>278
駿河道の早川合流より北は飯富氏の領地だったよね。
早川から南側が穴山氏の領地。 >>281
駿河の国衆ともパイプ持ってたのか。
形勢いかんではドッチにも転ぶ訳だな。 そりゃ、どこの国でも国境の国人は同じだわいね。
常に敵国と対峙しとるけん。 >>289
叡山焼き討ちで勘違いされる事が多い織田信長だが。
信長は宗教に関しては寛容だからね。
特定の教団が政治に介入するのを絶対に許さなかっただけ。
マイノリティ宗教に対しては、むしろ保護者だった。 叡山焼いた時の信玄の怒りが空々しいわ。お前が言うなと >>250
「信玄」って意味を理解してる奴は、少なくとも俺の周りには一人も居ない。
単なる名前だと思ってるぞ。
甲州人の教養レベルの限界なんだけど。 >>288
焼いてないところもあるから必ずというわけでもなかろうに >>288
村の鎮守みたいな小さな祠まで破壊したっていうね。
田を刈り尽くし種籾を奪い、家畜を屠殺して肉を喰らう。
女を犯し慰みものとして持ち帰り、男は奴隷として連れ去り使い捨てに。
鬼じゃ!
武田は鬼じゃ! >>12
ハ,,ハ
( ゚ω゚ ) お断りします
/ \
((⊂ ) ノ\つ))
(_⌒ヽ
ヽ ヘ }
ε≡Ξ ノノ `J >>299
いやいやいやいやwww
それ、本尊を強奪して来て甲斐善光寺を新たに建てたって話だからさ。
保護したって言い種が白々しいわw 河尻秀隆もこんな未開の地に赴任するとか信長を呪っただろうな 信長が死んだ途端になぶり殺し(笑)
家来共々
手足の指を切断され、背中の皮を剥がれ、言語に絶する拷問をうけて悶死 >>296
小山田と穴山に常に気配りしないと武田支配体制を維持できない なるほど
女を献上される側は立場が上なのが普通だわな。
小山田も穴山も親子続けて武田から女を献上されたわな。 主君の姉妹を妻にする事を
「女を献上された」
と解釈できるのだな ふむふむ
織田信長が妹の市姫や娘の五徳姫を配下武将に献上するなど有り得ない話だよね。
貴重な手駒を使うなら、政治的に同盟関係を交わす安全保証としての婚姻だよな。
そう考えると
武田、穴山、小山田とは主従でなく、同盟関係に近い間柄だったと理解して良いのかな。
相模、駿河と婚姻を介しての同盟関係だった様に。 >>314
武田家側からすると裏切りなのですが、
穴山、木曽、小山田の側では「同盟を結んでやってた」くらいの感覚だったのではないでしょうか。 国境付近の国人には血縁で縛るしかないな。跡継ぎ不在なら実子をねじ込む >>318
源氏は新羅三郎義光じゃなく八幡太郎義家だ。 >>323
将門は村岡五郎以外の叔父と喧嘩をしてた。
そういえば清盛は忠正と喧嘩したな。 農民が武装しだしたのが武士の発祥でしょ?
んで土着した(元)高貴な血統を御輿に担いで武士団に。
話し合いで済まない土地争いを武力で解決してきた人々だから荒っぽいのは当然。
同じ源氏平家でも西日本と板東じゃ全く違うよな。 >>321
八幡太郎は河内源氏の嫡流ってだけだ。その弟の新羅三郎も歴とした源氏の一員だ 平安初期ころの東日本での朝廷勢力が及ぶ範囲がフォッサマグナとほぼ一致する。
このラインから東に掛けてアイヌの地名が多く残っている。
天智天武の時代は濃尾が最前線だったのが平安初期までには富士川まで。
この時期に亡命百済人や大陸からの帰化人のうち土木や軍事に特化した集団を対アイヌ第2戦線である峡国に大量入植させた。
現地人と帰化人で郡部を形成できる人数なので新たに高麗郡とした。
平安中期に食い詰め貴族が田舎に次々に落ちていった。
やがて常陸国で「下手うち」した乱暴貴族が罪人として峡国に流されてきた。
峡国の武装農民は渡りに船とばかりに、この罪人乱暴貴族をリーダに祭り上げた。
この罪人乱暴貴族は前に住んでた土地の名を号した。
源次郎逸見冠者武田義清......と。
甲斐源氏武田氏の興りである。
という小説を書いてみた。
合ってる? >>330
源氏という貴種ではあるけど
官位が高くないので貴族では無いな 織田徳川連合軍の攻撃、武田家滅亡で武田菱が途絶えた
子孫もいないようだし・・・ >>334
平家も清盛までは従三位は超えなかっただろう。
頼義も義家も忠盛の一階下の正四位下。 >>336
安心して、武田菱は消えてはいない
山梨県警の機動隊はジュラルミンの盾に「武田菱」のマーク
付けてるよ >>343
我が郷土の、光秀公に並ぶ英雄ですぞ
丹波の亀岡市に墓所が有るよ >>344
稲川会 山梨一家 佐野組も武田菱を使ってるずら >>343
清和源氏では摂津源氏が嫡流だぞ。河内源氏の祖は三男坊だ 摂津に....、いまの池田市だが
多田神社って在って「源氏本貫之庄」って看板が173号線に建ってるぞ ちゃうわ、隣の川西市やった
頼光廟って在ったような記憶が 亀岡市の9号線沿いには細川勝元の墓が
細川も源氏だろ やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい(現在スレが荒されてますので、テンプレと87の連絡先さえ確認して頂ければokです)
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/1-87 源頼光は摂津源氏、源三位頼政の先祖。細川も足利氏の支流だから当然源氏。吉見も阿野も頼朝弟の子孫だから源氏。
江戸より前は生まれ順というより母親の実家次第で跡継ぎは決まっていたらしい >>336
陸上自衛隊北富士駐屯地にも武田菱の幟が立ってる 甲斐源氏....という概念
韮崎に土着した武田氏だけじゃ無いんだよね。 新潟県警の機動隊、上杉謙信の旗印だった毘沙門天の「毘」の文字を盾に書いてる
京都府警機動隊「誠」の文字 たぶん新選組を気取ってるんだろう 実は......さ、
割り菱は武田家のフォーマルな場面でつかう家紋じゃ無いって知ってた?
いわゆる武田菱ってカジュアルな紋様なんだぜ。
都の勅使や将軍に拝謁する場面では違う紋様を使うのさ。
((( ̄へ ̄井)ふん! 武田一族は清和源氏の流れを汲んでおり、長元4年(1031年)3月には清和源氏の惣領・源頼信が甲斐守として着任した。
以後、彼の子孫が名馬の産地・甲斐国高麗郡を占拠するようになっていくのである。
頼信の子・頼義、孫の新羅三郎義光はいずれも関東地方に国守として就任しており、
義光次男の義清のときには高麗郡(こまごおり)の市河荘、青島荘の下司(=管理人)として土着するようになる。
そして、義清と子の清光は高麗郡北部の逸見郷で荘園を成立させていった。
この清光が甲斐源氏の祖といわれており、その子供たちが甲斐国を発祥として武田一族をはじめ多くの諸氏族を築いていくのである。
光長(長男):逸見氏の祖。逸見荘を守って逸見太郎と称す。
信義(次男):甲斐武田氏の祖。武河荘の武田に住し、武田太郎と称す。
遠光(三男):加賀美氏の祖。加賀美荘に住し、加賀美次郎と称す。子は小笠原氏・南部氏・秋山氏などを興す。
義定(?男):安田氏の祖。加納荘に住し、安田三郎と称す。
義遠(?男):浅利氏の祖。八代郡浅利郷に住し、浅利与一と称す。 >>276
南部って戦国時代に青森岩手にいた南部氏発祥の地だっけ? 甲斐発祥の南部氏も北奥に転居になってラッキーだったな。甲斐に留まっていたら風土病で族滅してたw >>367
村上はちょつと毛色の違った清和源氏だ。 >>368
一瞬だが都を制圧占領したからなぁ
信玄より遥かに日本史に影響を与えてる >>375
残念
甲斐の山賊領が近すぎて、全てを失った >>375
宗家を滅ぼされ、宗教祭祀を奪われ、姫を拐われ服従させられ、残った血縁を謀略で殺され、反抗した衆は街道に並べた杭に張り付け放置
鬼じゃ!
武田は、武田は鬼じゃ! 大国主命の息子が祀られてる、皇室より遥かに歴史ある大社を護ってきた諏訪氏を滅ぼしたんだもん。
大国主命ファミリーは「怨霊」世界のトップでしょ。
それに手を懸けたんだから武田は滅ぶしかないね。 武田家は江戸時代、幕府では格式ある【高家】として旗本になっていた
武田家清和源氏義光流。
甲斐の戦国大名武田信玄の次男海野信親の子孫である武田信興を初代とする。
徳川綱吉に召し出される。500石。
明治維新後、東京府士族。 >>381
途中、他家から養子とってるからねぇ
松山藩士の秋山家から婿入りした なっていたってその前に大島へ流罪になってるじゃん
しかも赦免されて本土に戻っても支援したのは小山田の娘が
側室として入った内藤家で赦免も主に動いたのは保科や池田両家で
綱吉による抜擢では柳沢と岡山池田が動いた
周りの御膳立てなかったらそのまま流罪だった可能性だってあったよ >>374
源氏としては山奥の田舎暮らしでしょ?
中央の鎌倉に君臨した頼朝とは格が違い過ぎるよ。 高家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。
役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。
≪高家≫
有馬、一色、今川、大友、織田、吉良、武田、土岐、畠山、最上、六角・・・
≪高家並≫
山名・・・
などの室町幕府足利家に仕えた名家が高家として明治維新まで存在した >>388
木曽地方に領地あるから木曽氏なんでしょう? >>387
高家だったら、斯波、赤松、北畠、少弐、菊池、三好
当然入ってるはずですが >>389
平家全盛期に木曾の山中で幼少期を過ごしたから木曾冠者だぞ。 源太郎伊沢冠者武田清光 は、子供時代を石和温泉で過ごしたのだ >>394
甲斐氏って菊池氏の一族で一族と喧嘩して東国に逃げてきて甲斐に落ち着いたからとれを苗字にしたと聞く。 所詮アレだ
“甲斐”源氏と言ってる時点で既に主流では無い >>396
地名みたいなモンか。
元の勝浦に対して、那智勝浦とか
高田に対して、大和高田、陸前高田とか 多田源氏、摂津源氏、近江源氏、村上源氏、土岐源氏、光源氏、若狭源氏、
安芸源氏、大隅源氏、嵯峨源氏、丹波源氏、那珂源氏、河内源氏.......
なんだか和牛みたい >>399
越後新田党って越後源氏を名乗らなかったんだね。 十両力士☆貴ゲンジ関
ゲンジ蛍
上野の焼き鳥屋「玄治」 リアル甲州軍団
武装外国工作員を制圧せよ 陸上自衛隊と山梨県警が治安出動共同訓練
http://www.sankei.com/images/news/180215/afr1802150046-p1.jpg
http://www.sankei.com/images/news/180215/afr1802150046-p2.jpg
甲府市内
自衛隊への治安出動命令は、自衛隊法に基づいて、
警察力で治安を維持することができない場合に適用されるが、
これまで一度も出されたことはない。
2月27日産経新聞 武田家は織田徳川連合軍の攻撃で敗れたが、のちに武田家臣団は徳川の有力者
井伊直政に召し抱えられ赤備え軍団は幕末まで存続
徳川に召し抱えられた集団は、八王子に千人同心として甲州街道の警備
千人同心も幕末まで存続 >>415
新撰組の近藤勇も千人同心の流れを汲む。 >>416
新撰組の近藤勇も千人同心の流れを汲むとは事実なんですか?
近藤家は千人同心のメンバーでしたか? 近藤勇の養家である近藤家は、八王子千人同心とはまったく関わりがないようです
八王子千人同心の組織は明治まで続いてましたが、近藤家はありません >>421
天然理心流二代目近藤三助は八王子千人同心。
だから流れを汲むと書いた。 待遇は悪かったために、わずかな禄高で苦労した千人同心
生活苦から千人同心の株(名跡)の売買もあり
裕福な豪農や豪商が、二男、三男に株を買い与えたという例もあるそうだ
一応は養子縁組という体裁で
千人同心も幕末には武士の姿をしていても、剣術などの武術もできない者もいたようだ >>425
それは貧乏な御家人も同じようなもの
御家人株が売買されていた
勝海舟の勝家がそうです >>382
甲斐武田家も一度、嫡流が跡絶えたよ。
信虎の6代前、武田信春(晴信の7代前)の時に嫡子が死んで武田宗家が廃絶の危機に。
そこで、更に2代前、武田信武の子が広島に分家した安芸武田家より信満を養子を迎えて存続させた。
よって戦国時代の甲斐武田家は安芸武田家の流れという解釈もある。
更に言えば
安芸武田家の祖、武田信頼に兄が居た。
若狹に分家した若狹武田家の祖、武田信治だ。
戦国時代の甲斐武田家より若狹武田家の方が家格が上だったという根拠の一つ。
幕府も若狹武田家を格上と認識していた。 >>434
いや若狭も武田だよ
六代将軍足利義教の命令で若狭の武田信栄が、一色義貫を誅したことでも知られる
室町時代は京都への地理的な関係もあったのか、甲斐の武田本家よりも、
若狭や安芸の武田氏のほうが足利将軍家に近かったとみられる 『信玄いか』
喉の渇きを潤したという、
あのエピソードから、きているんだよ
梅?
画像を検索してみるとわかる >>415
明治のはじめ、警視庁が創設。
川路大警視は、八王子千人同心を集め
希望者を警視庁巡査に採用している。
武田家臣団は警視庁に登用された。 >>440
新撰組の斎藤一も警視庁に採用され警部になる。 江戸城の半蔵門外、笄(こうがい)町に住んでいた公儀御庭番たち
警視庁に全員呼び出されて、希望者を警視庁が巡査として採用している
笄(こうがい)町=江戸時代の初期の名称は、甲賀伊賀(こうがいが)町だった 戊辰戦争では官軍の薩長に攻撃され、会津藩降伏
ところが後に、会津藩家老の佐川官兵衛は警視庁に採用される。 明治10年の西南戦争
薩摩士族軍に追い立てられ農民や商人を招集し編成の鎮台兵は敗走
銃器を投げ捨て軍服まで脱ぎ散らかせて泣き叫び逃げ回る鎮台兵に政府首脳も嘆息
急遽警視庁抜刀隊が田原坂に出陣
戊辰の役で賊軍とされた旧会津藩はじめ東北六県の士族たちが続々と警視庁に応募
旧新選組残党、旧八王子千人同心も多数参加
豪雨の田原坂で薩摩士族軍と警視庁抜刀隊が白刃を振るって激闘 公儀御庭番・・・忍者
忍者に伊賀、甲賀、風魔、根来、戸隠、甲州流があった 会津藩家老の佐川官兵衛は藩の剣術指南役でもあった。溝口一刀流
薩摩士族との戦いの前に、警視庁抜刀隊の巡査たちに
「薩摩の示現流と対戦する場合、敵の打ち込みは絶対に刀で受けるな。一の太刀は体をかわして避けること。
蛤御門の戦では長州勢は薩摩の示現流の太刀を刀で受けたため、刀身を折られて袈裟懸けに斬られたり、受けた自分の刀の鍔やみねが額にめり込んで絶命した者もいた。
絶対に刀で受けるな、体をかわせ。二の太刀が来る前に一気に刺し殺せ」
このように何度も説明したという >>449
それは、な
豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と呼ばれていた頃だよ!
けっ! >>443
中村獅童の顔が浮かぶじゃねーか
さすけねーー! 天正2年3月5日(1574年3月27日)、武田信虎が没しました。武田信玄の父親で、甲斐の猛虎ともいうべき武将として知られます。
武田信虎は明応3年(1494)、武田氏17代の武田信縄の嫡男に生まれました。初名は信直。
永正4年(1507)、父・信縄が没し、信虎は14歳で家督を継ぎます。当時の甲斐は武田氏の内訌もあって、大いに乱れていました。
さっそく叔父の信恵が信虎に叛旗を翻すと、信虎は翌永正5年(1508)、坊峰合戦で信恵一党を攻め滅ぼし、武田家の統一を果たします。
永正7年(1510)に小山田氏を従属させ、永正12年(1515)には西郡の大井氏らを攻めますが、大井氏を従える駿河の今川氏が甲斐に侵攻、信虎は今川とも戦いました。
永正14年(1517)、今川氏と和睦すると、永正17年(1520)には大井氏を勢力下に置き、大井信達の娘を正室に迎えます。時に信虎、27歳。
ようやく甲斐国内を鎮めた信虎でしたが、大永元年(1521)9月、突如、西郡に駿遠の1万5000の大軍が攻め込み、富田城を落としました。
主将は今川氏親の重臣・福島正成です。この知らせに信虎は、まず臨月の正室を躑躅ヶ崎館の後詰の城・要害山城に避難させました。
そして今川勢を迎撃すべく兵を集めますが、僅か2000に留まります。我が身に直接の害が及ばねば傍観する甲斐びとの気質に信虎は歯噛みしますが、
「よい。御旗楯無(みはたたてなし)も照覧あれ、敵を蹴散らしてくれる」と決戦を覚悟、両軍は飯田河原で対陣しました。
寡兵の信虎はこの時、幼少の頃から弓矢の道の薫陶を受けた老臣・荻原昌勝より秘策を授かっていたといいます。すなわち大量の旗を作っておいて、それらを郷民に持たせて周囲の山々に林立させ、後詰に大軍が控えていると見せかけるものでした。
ちなみに荻原は、江戸幕府の勘定奉行・荻原重秀の祖先です。
こうなるとさしもの福島も動けず、今川軍に動揺が広がります。そして、合戦は2度行なわれました。
まず10月10日の飯田河原の合戦では、武田軍の攻撃で今川方は100余人が討死、一部は南下して勝山の城に退き、残りは本陣を立て直して、それでも府中攻撃を窺います。
この両軍の対峙中、要害山城で生まれたのが、信虎の嫡男・太郎晴信でした。 11月23日、信虎は果敢にも敵本陣に夜襲をかけ、上条河原で激戦となります。
この戦いで今川方は600余名が戦死、主将の福島正成も討ち取られる大敗を喫して駿河に引き上げ、信虎は甲斐に武田ありと近隣諸国に知らしめることになりました。
さらに大永年間には相模の北条氏との戦いも始まり、大永6年(1526)には富士北麓の梨の木平で北条氏綱勢に大勝します。翌大永7年(1527)には佐久に出兵、また駿河の今川氏親と和睦しました。
その後、信虎は信濃侵攻などに力を注いでいきます。享禄元年(1528)には諏訪攻めを行ない、諏訪頼満、頼隆に敗れました。
天文4年(1535)には今川攻めを行ない、甲駿国境の万沢で戦いますが、今川と結ぶ北条氏に甲斐を侵攻されてしまいます。しかし翌年、今川氏輝の急死で今川家に後継者争いが起こり、信虎は善徳寺承芳を支持。
結果、承芳が勝って名を今川義元と改めると、武田と今川の関係は好転しました。
天文6年(1537)には長女を義元に嫁がせ、また今川氏の仲介で、晴信の正室に京の三条家の娘を迎えて、甲駿同盟を結びます。これにより今川と北条の同盟は破綻しました。
しかし信虎の度重なる侵攻命令に従う家臣たちは疲弊し、不満を蓄積させます。
さらに信虎が嫡男の晴信ではなく、次男の信繁を偏愛し、晴信を廃嫡しようとしたことも、家中の将来に不安を投げかけました。
そして天文10年(1541)、信虎は家臣らに支持された晴信によって、娘婿の駿河の義元のもとに追放されるのです。時に信虎、48歳。 天文12年(1543)、上洛した信虎は京都・奈良・高野山を遊歴。
年内に駿河に戻りますが、京都にも屋敷を構えてその後も上洛し、前守護として将軍足利義輝にも仕候しています。
息子・晴信が上洛を悲願としたことを思えば、皮肉なものといえるのかもしれません。
将軍義輝が松永久秀らに討たれ、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信虎は義昭にも仕候しました。
しかし信長と義昭が決裂すると元亀4年(1573)、信虎は義昭に命じられて甲賀郡に派遣され、信長包囲網の一翼として近江に攻め込む構えをとります。
しかし包囲網の決め手であった西上中の息子・信玄(晴信)が途上で死去したため、包囲網は瓦解。
天正2年(1574)、信虎は京を離れて三男・信廉の居城・高遠城に身を寄せました。そして同年、高遠で没しました。享年81。
家臣への苛斂誅求、晴信との不和があったとはいえ、甲斐を統一した信虎が、33年間の追放生活を送り、ついに甲府に戻ることなく没した点は、いささか同情の余地があるのではという気にもなります。 >>217
ややこしい甲州人を従わせた武田信虎は再評価してもいい 信玄の中の人が信長だったら適当な時期をみはからって強制的に小山田、穴山を信州の適当な地方に配置換えしてただろうな
それをしないと絶対に中央集権体制が築けないし謀反起こされてもすべきだった。 信長は結局、配置換えしようとした光秀に謀反されて本能寺だから諸刃の剣だが
それ自体は必要な処置だった。 >>463
小山田や穴山は信州だけど光秀は出雲・石見。
滝川の関東管領と言う魅力があった。 ┃i__∩
┃ノ ゝヽ
┃● ● |タケダ……。
┃(_●_)ミ
┃ |∪| ノ
┃ ヽノi )
ミヽ、_/ ノ
┃ヾ ノ
┃  ̄ ̄ ━━━悲報━━━
高校や大学の教員らでつくる研究会が、武田信玄や坂本龍馬らの用語を高校の歴史教科書から削減する案を示した。
山梨県の後藤斎知事は7日、用語の削減規定を設けないよう文部科学省に要望する。
山梨県内では削減に反対する約2500人分の署名が集まっており、県を挙げて「待った」をかけたい考えだ。
高校の日本史、世界史で覚えるべき用語の大幅削減を提言したのは、教科書の執筆者を含む全国の高校、大学の教員らが所属する「高大連携歴史教育研究会」(京都市)。
昨年、教科書に収める用語をほぼ半減させる「精選案」をまとめた。
暗記中心になっていた歴史の学習を、思考力を育てる内容に変える狙い。
日本史では戦国武将の武田信玄のほか、上杉謙信や坂本龍馬、吉田松陰、世界史ではクレオパトラ、ガリレオ・ガリレイらが含まれていない。
山梨県内では1〜2月末、甲州市の「塩山郷土研究会」や観光ボランティアが、教科書から武田信玄の名前を外すことに反対する約2500人分の署名を集め、高大連に送った。
塩山郷土研究会の広瀬国光事務局長は
「歴史的にも観光面でも武田信玄の存在は大きい。将来にわたって伝えていかなければいけないが、教科書に載っていなければ忘れられてしまう」
と危機感を募らせる。
山梨県教委高校教育課も
「これからの時代を担う子どもたちには(武田信玄の存在は)知ってほしい」
との思いを明かす。
【毎日新聞 田中理知】 死ぬまで権力基盤整備も経済流通整備も遷都もできず
侵略と金堀と洪水対策程度しかできなかった無能だよね。 >>469
本当に有能(でも厳しい)信虎より、「ずくねぇーぼこ」に頭をすげ替えたっつうこんだ 長島の一向宗を救えなかった時点で武田家は半ば詰んでたんだよな。
謙信と信長を牽制するため政略結婚までして本願寺と手を結んだわけだが
石山本願寺と長島本願寺が信長を倒すために絶対に欠かせない二大拠点だった。 結局、政略結婚した今川家を滅ぼそうとしたのは悪手だったと思うよ。
そこまでするんなら織田・徳川と新たな政略結婚すべきだったわけだし。
アホなんじゃないか? 余りにも仮定すぎる話なんだが
信長との縁談が盛り上がった頃から、早い時期に恭順していれば
伊豆、駿河、甲斐、信濃、上野、越後を領する大大名になれたかな 信長の性格を考えるとどこかの段階で走狗を煮るが如く信玄を駆逐しただろうな。ほぼ間違いなく。 信長には恭順はしないという前提で戦略を組むとしたら上杉家や今川家と戦うなんて選択はありえなかった。
全方位に戦線を広げてまるで太平洋戦争末期の日本のようだ。
頭おかしいというレベル。 そもそも上杉家とは長良川流通で、今川家とは富士川流通で利害が完全に一致するし
戦争で猫の額ほどの土地を得るより商売でウィンウィンをはかった方が100倍は良かった。
優秀な経済ブレーンがいなかった信玄の限界だろうな。 親戚である本願寺に頼み根来衆・雑賀衆を長島(援軍として多数来ていた)から引き寄せるのは普通に可能だったしな
自国で鉄砲量産を始めれば当然戦国地図は大きく変わってた。 ちなみに長島に居た高僧たちはちゃんと武田の家臣が脱出させて府中で保護してるよな。
高僧も大事かもしれないけどどなんで技術者を優先して保護しないんだろ。 >>457
>>458
>>459
やっぱり信虎の方が波乱万丈で面白い 北信のために村上に苦戦した挙句に上杉と衝突して時間と兵力を浪費
駿河は取ったが嫡男を喪い、北条を完全に敵に回し、徳川を遠江に伸張させ将来の敵対勢力を成長させた
外交と戦略のミスが次代にツケを回した 勝頼も大国の二代目という器ではなかった。
せいぜい優秀な軍団長どまりの人材。
中の人が世紀の逸材だったら名を残しただけじゃなく天下まであった。 武田家の組織も軍団単位であとは信玄直属の金山衆とか忍衆とか不定期に任命される土木奉行なんだよな
もうちょっと役職についても整理できなかったものだろうか。普通に北条家にも負けてるし。
すぐ思いつくだけでも勘定奉行衆と寺社奉行衆と外交集団は大国として絶対に必要なのに
国の大きさに比べて組織が脆弱。全て信玄という個人ありきの組織になってしまっていた。 有能な人だったら国境警備隊(ハドリアヌスがそうした)を組織し、国家公務員としてシビリアンコントロールも可能にした
木曾とか穴山とかその地域の武将に丸投げじゃ負担にたえられず敵方に寝返ってしまうのは火を見るより明らかだし。
また武田領内のどの武将に対しても中央から派遣された官僚の指示に従うようにさせないと
国家としていつまでも成立しない。始皇帝が李斯たちを使って国家を強くしてキモもしれだったし。 勝頼も氏政の娘を貰ったのに裏切ってんだから
当てにならないと、なぜ勝頼は分からなかったんだろ
池沼だったのかな? 長篠の合戦でも3倍の敵に対して特攻して将の過半数を死なせてんだから
池沼というか牟田口だよな。 山梨県民として言わせてもらうけんど。
甲州人ってのは、へぇ簡単に場の空気に支配されちもーよ。
物事が決まる迄は、ゴチャゴチャと文句ばっかじゃんね。
船頭多くして船山に登るっつうこん。
ふんだけんど、ガチャガチャ言う割りには声ん大きい奴の意見に流されるっちゅう頭くん無ぇーの丸出しじゃん。
一度空気が出来ちまうと誰ん反論しねーし、言えんだ。
訳ん分からん県民性だっちゅうこと。 >>499
郡内と河内と府中では県民性はやはり変わりますか? >>500
郡内は冬の寒さは北海道にも匹敵する過酷な自然環境の土地だから、
寡黙な人が多いね。ケッペンの気候帯は亜寒帯で、北海道やシベリアと
同じ。文句を言う人は少ない。文句を言っては生きていけないからね。
ただ、場の空気が支配し、一度空気が出来たら暴走するのは>>499と同じ。
甲府の方が自然環境が穏やかな分、おおらかで明るいと思うよ。
その反面「うるさい」けどね。 >>501
なるほど。分かりやすい説明ありがとうございました。
要するに「強いリーダー」が必要な土地ということですね。 俺、長野県民じゃないけど長野県の人たちを見てると
個人主義が強い気がする。
少なくとも県民意識というものは無い。
上田の人にとって諏訪周辺は他県という感覚だし飯田とかにいたっては東京よりさらに遠い海外という感覚らしい。
逆もまたしかり、飯田の人たちは浜松とか名古屋に親しみはあるが長野市付近の奴等を同県民などとは思ってない。 >>503
県民意識の欠如については山梨県郡内の方が露骨。
郡内にとって、甲府は役所関係以外用がない土地だからね。
実際に、中央道も東京に繋がっているので、不便な割に渋滞が凄い
甲府にはほとんど誰も近寄らない。みんな東京に出る。
渋滞が朝夕とも逆方向なので、東京に行っても渋滞に余り巻き込まれ
ないのも、その傾向をさらに露骨にしている。 >>502
強いと言うかわからんが金丸信とか一時日本政界をリードしたが。
同じように金丸のミニチュア版輿石東もいるな。
同じ政権党の幹事長でも内田常雄はちょつと違うな。 >>512
わにわにしちょ!
こぴっとしろし
みぐせーこんいっちょ 年末に茨城県の武田館跡を見に行ってきた
なかなか感慨深いものがあった 2ちゃんは40、50代が多いらしい
若者はLINEやTwitterが主 >>517
本人は名古屋産まれだけどお祖父さんの時に福井県から来た ぁあ........懐かしきなりや
第1話
https://youtu.be/1zI3v3UK63U
すべての始まりなりや >>524
大河ドラマ武田信玄を初めて見た
恐ろしく豪華な俳優ばかりで驚いた
第一話でこの濃厚な脚本とわ >>524
偉く潤沢な予算だったのだな。
昨今の大河ドラマとはクオリティが違いすぎる。 >>524
菅原文太が演じる板垣が渋い。渋すぎる。 >>524
貼り貼りサンクス
初めて大河ドラマ武田信玄みた
1話から信虎が悪者イメージで笑た 柴田恭兵が長尾影虎とはwww
風林火山ではガクトだったが、美形の俳優が演じる縛りでも有るのか?
俺的には上杉謙信は勇猛果敢な軍神武将のイメージ有るから、何か違和感を抱くなあ。
中井貴一の晴信はシックリくる。 >>532
信玄は中井貴一でも高橋幸治でも良すぎ。 ぇぇえ━━━━( *゚A゚)━━━━━?
な、なんと豪華な...... ヨウツベに上がってるの全部みた
ちょっと感動したわ >>537
最低でも1日半ぐらいないと見れないけど。 >>540
40話までぶっ続けて見て30時間くらい。 【散るぞ悲しき〜辞世の唄】↓
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4
日本歴史上の有名な辞世の句に曲をつけたもの。
凄く出来が良いので、お勧め。 >>524
OPテーマと予告をカットしてあるから連続して見易い 要所〃に流れるBGMの効果だろうか、
全体的に、暗ぁ〜〜〜い空気に包まれた作風だね。
オドロオドロしい甲州人の気質をよく描けてる。 場面の転換の度に山梨県を取り囲む山脈が映し出されて
寂寥な「陸の孤島」感を演出してる
実際に今だって昭和町のイオンから360度見渡すと山壁に囲まれてて息苦しさを感じる 天正壬午起請文の新発見の写本ってもうどこかの雑誌に載った?まだ? >>547
大河ドラマ 武田信玄 オープニング
テーマ音楽指揮 山本直純
テーマ音楽演奏 NHK交響楽団
https://www.youtube.com/watch?v=FLlvcl4AJ34 >>547
暗い空気っていうか、残り10話くらいになるととにかく信玄の体調が悪さが
作品全体を覆ってるのがね 南野とエッチする回まで来た
俺は1日に2話ずつ観てる 考えてみたらさ
湖衣姫って大国主命の子孫なんだよな
皇室より古い家柄 言霊信仰の日本では名前を呼ぶ行為に霊力が宿るって伊沢元彦が言ってた。
だから、ある一定以上の身分の女性は本名が不詳な事が多いと。
記録する時など、識別する必要ある場合は出身国や家名で表記したようだ。
濃姫、生駒の方、大井夫人、三条の方など....。
寧々や松姫など織田家家臣団の妻は元々が身分低い階層なので名前が知られてた。 応神 継体 天武 明治
皇統は絶えて何度もアカの他人が交代している >>564
後々に身分が高くなったからだろうか?
旦那は大納言までなったし。 愛称と本名は違うって事なんやろか?
親子間では娘を本名で呼んでも、家臣の居る前では愛称や公称で呼ぶとかな。
於茶々とか於江とか、お◯◯って呼び方は愛称やもんな。 >>524
39話まできた。
ここまで観て来て感じたのは....。
何だろう...全体的に....信虎も晴信も含めて甲斐武田をディスってるよね?
この作者は武田信玄が嫌いなのかな。
甲州人の有り様を殊更に滑稽で意地汚い人種に描いてる場面が多い。
甲州人は思慮が浅く、何かにつけカッっとなるダメ人間が多いように書かれてる。
晴信も裏切りを平然とするクソ人間だと看破されてる。
織田信長など、実に爽やかな人物像にされてる。
この作者は山梨県民? >>569
浅井も前田も木下も山岳民系だから文化が違うのかも >>572
諏訪の人だからな。それに富士山気象台のレーダーの建設責任者もやってるから山梨との関係もある。 >>576
本名藤原寛人といい。息子は数学者の藤原正彦。源氏が藤原とは名乗らないと思うが。 高倉健でてる映画になってるね。
そうか、同じ作者か >>584
新田次郎は気象庁の職員でもあり。
1942年本名藤原寛人の名で気象用無線の専門書「ラジオソンデ」を刊行している。 >>568
姫というのは実家依存による敬称だから
旦那の身分は関係ないし後に身分が高くなっても
姫という敬称は戦国期の場合は普通用いないよ
たとえば信玄の娘の松なら松姫でもおかしくはないけどね >>572
新田は嫁さんも呆れ果てるほど諏訪御寮人になみなみならぬ
思い入れがあったそうだし諏訪の人間だからいろいろ含むものが
あるんじゃないかなあ…、三条夫人とかね
あとこのドラマは武田宗家から信玄をやみくもに美化しないで欲しいという
要望もあったそうだからその要望込みなら裏切り描写はむしろ普通だろ >>524
こんなクオリティ高い大河ドラマは現代じゃ無理 天孫族に国を譲る条件として和国で一番高い建造物を建てさせた って古事記に書いてる 大国主命の次男が侵略勢力に抵抗したが敗れて逃亡し、
追手に捕捉されて命乞いしたのが諏訪なんだよね。
そこに宮殿を建てて諏訪を統治した。 周防がもともと「すわ」と呼ばれていた事を考えると
周防から諏訪に移住したのかもね >>599
浅井・朝倉・毛利・武田・上杉・叡山・本願寺 包囲網の方が多そうだが。 迎撃する側が有利なのは古今東西いっしょ
迎撃する側は敵を諦めさせれば目的達成。
補給線が伸びきった所を叩けば造作もない。
外征侵攻する側は拠点防衛する敵を撃破殲滅して占領しないと意味がない。
堅固な防御陣地に籠った敵を撃破するには2倍〜3倍以上の戦力が必要。 >>603
しかし信長が朽木谷で落武者狩りに合って死んでいたらどうなっていただろうね。 >>604
織田コンツェルンの中から誰か替わりの者が立つだろうね。
勢力回復に少々時間かかるが路線に大きな変更なく進むでしょうな。
本能寺の時みたいに。
旧時代の大名は、それこそ今川家みたいに当主が死ねば瓦解してしまうだろうが、新時代の大名は理念を受け継いで行くだろう。 大河ドラマ武田信玄を見てて違和感が有って。
長尾も 北条も 今川も 武田も 出てくる大名が全員漏れ無く「天下を目指す!」って言ってるのが不自然。
みんなチョコチョコと近隣の土地の掠め取り合いに終止してるに過ぎない。
明確なビジョンと具体的行動力を持って京都を目標に据えたのは織田信長だけでしょう? 信長は美濃を併合した時点で天下を意識したメッセージを発信してるよな。
【天下布武】
明確に史実として残ってるし。
余分な事はせず上洛の一転突破で行動してた。
佐久だ、諏訪だ、高遠だ、北信だ、駿河だ、沼田だってウダウダしてた武田には天下なんぞ意識する筈も無かろうて。 武田にとっての天下とは、
甲斐とその近隣までだから 愛知県、岐阜県、滋賀県の南半分、三重県、静岡県の西半分、奈良県、京都府、大阪府、のタッグチームに
山梨県と長野県と静岡県の東半分が喧嘩を売る
どう考えても勝てる訳がない >>606
当時の史観だから仕方がない
天下統一を明らかに目指していたのは信長ぐらいという
史観が当たり前になったのは比較的最近 >>566
高槻市民だが
継大天皇は、地元民には福井から連れて来られた天皇家の人だって伝承が残ってるよん。
ついでに現在は辻元清美の地盤やが >>613
昔から高槻は革新が強かった。ベルリンオリンピックの水球の選手の阪上安太郎っていうのが高槻市長をやり後に社会党の衆議院議員に転じている。 おもろい話をば
高槻の市立中学校ではね。
音楽の時間に「ありらん」と「イムジン河」を歌わされて歌の試験されますがな。
高槻の教師はバキバキの運動員ばかりや。
高槻に在る府立高校もアカの魔窟やで。
辻元の彼氏は、元府立高校の社会科教師で赤軍の幹部やリーダーを匿ったりな。
ちょっと前に重信房子が高槻京都ホテルの前で拘束されたが、その彼氏も絡んでたで。
とにかく、ムチャクチャな土地柄や。 高校の歴史の授業ではな、
地元の戦国大名の高山右近はキリスト教を広めて古い日本の悪い伝統を改革しようとした英雄だって教わったわ。
それを邪魔した秀吉は悪魔やって教わったで。
俺は中2で東京から高槻に引っ越して来たから高槻の異常性が分かるが、ずっと高槻で育った同級生は洗脳されてて可哀想やった。 高山右近って摂津高山の武将だが、キリスト教に肩入れし過ぎて仏教寺院を焼いたりしてた。 最晩年の布陣では尾張に入った辺りで補給線を寸断されて殲滅されてたぞ 信玄くん...............
┃i__∩
┃ノ ゝヽ
┃● ● |……。
┃(_●_)ミ
┃ |∪| ノ
┃ ヽノi )
ミヽ、_/ ノ
┃ヾ ノ
┃  ̄ ̄ >>618
そこなんですよ。
甲斐の軍制だと侵攻した土地を完全に掌握しないで先に軍勢を進められません。
せいぜい数日分の糧食を部隊ごとに小規模な荷駄隊で運んでましたから。
基本的に糧食は現地調達(略奪)が甲斐軍の方針だったので侵攻先からは忌み嫌われてました。
だから焦土戦術をされると戦線が維持できません。
軍の補給体制を大事に捉えていた信長・秀吉型の軍制との違いがそこに有るんです。
もちろん、潤沢な経済力あっての話ですが。
例えば、2万の兵が居るなら最低でも1日当たり4万食を毎日途切れなく供給しないと軍は早急に崩壊します。
1食1.5合の米×2食分×2万人=6万合の米
この膨大な量の米に加えて 塩、味噌、野菜等、馬の餌、武具、兵の装備品、消耗品、これらを軍の移動する先々に毎日滞りなく送り届ける必要があります。
信長や秀吉は海上ルートで拠点間を一気に輸送して解決してます。
甲斐の軍は長期間の戦闘を継続する戦略を持っていません。
数ヵ月間の近隣での小競り合いしか無理です。
甲斐信濃兵は農民主体の徴集兵なので春と秋は国に帰らないと国家経済が破綻します。
戦闘専門部隊で構築された織田軍との差は歴然としてます。
【武田と織田が戦わば、常に最後に戦場に残りしは織田軍なりや】 そういや織田信長は自軍の兵士の略奪には厳罰で対処してたな
結局それは兵士への物資の補給に自信を持ってた裏付けだわな
食い物現地調達を奨励してた武田は補給なぞ端からする気が無かったって訳や
略奪し放題、女奴隷持ち帰り放題の武田軍とは雲泥の差やで 大河ドラマの中での信玄のセリフだけど
「我が甲斐の国を富ますのが国主の務めじゃ。 甲斐の国富ます為に戦をせねばならぬのじゃ。 隣国奪い甲州軍の強さ知らしめよ。 」
山梨県だけが潤えば良いという考え方。
近隣の富みを奪い去るという自分勝手な振る舞い。
こんな奴等が天下を云々とか、片腹痛いわ。 >>622
ここは史板なんだからさ、創作物上の信玄への
突っ込みをやりたいだけならいい加減大河板行きなよ。 >>621
上杉軍「( ^ω^)・・・わが軍もやってたお、しゃーせんw」 >>625
でもアレだね、
その略奪上等のメンタリティが当時の甲州人だと現代でも認識されてるよね >>627
北条は略奪についてはどうだったんだろう? >>627
>>628
織田軍が略奪狼藉を許さなかった....と記録されてる。
これは裏を返せば、当時の戦では勝った側はムチャクチャするのが当然だったって事だよね。
教科書とかで足軽が荒らし回る絵を見た記憶ある。
織田軍は当たり前じゃ無い事(珍しい事)をしたからこそ公的記録に書かれたんだよね。 一方で信長公記には織田軍が乱獲りをしていた
記述も見受けられるんだな、これが…
要は相手によって使い分けしていたか方面軍の軍団長に
そこらは一任していたのかもしれんね >>630
加賀富樫の戦役で柴田勝家が制圧した村落で根こそぎ奪い家屋を焼き払ったそうだよ。
住人は軍勢で取り囲んで皆殺しに。 >>631
>>634
合理的思考の信長はキチンと統治する予定の土地の民には非常に優しく接する。
当面の税を免除してやり地力が回復するまで援助さえ行う。
古今東西、善政とは減税の事に他ならない。
一般人も使える軍用道路網を整備し往来を容易にする。
領内の街道筋の通行料徴収を廃止し物資の流通コストを下げる。
市場の規制緩和を推進し商業の新規参入を保証した。
信仰の自由も保証した。
他国領地から逃げた民が続々と織田領に流入して人口が増加する。
武田領と正反対である。
武田信玄が内政の神と言われたのは 何故だろうか。 >>635
信仰の自由?
延暦寺を焼いて僧侶を殺害したのは宗教弾圧でしょ 信長は延暦寺を焼いて僧侶を殺害した
本願寺を攻め立て一向宗門徒を虐殺した
京の都で布教する高野聖を捕縛し鴨川の河原で処刑した 秀吉は紀州根来寺を焼き討ち。僧侶、信徒を虐殺している
キリスト教徒を捕縛し長崎で公開処刑 >>637
>>640
>>643
>>645
逆にさ
何故、その殺戮をしたのかな?
何か理由が有ったのかな? 延暦寺や本願寺は武装してただろ
非武装の坊主を殺したならともかく >>648
信長は
高野聖は武装などしないが、京の都で布教中に片っ端から捕縛され鴨川で殺害されている
甲州恵林寺でも武装していないのに僧侶を山門楼上に押し上げて、焼き殺している >>650
スパイ防止法と治安維持
それと犯人隠匿と国家転覆防止 >>643
強力な傭兵団を抱えた軍事集団
スペインの極東侵略の阻止 >>650
戦国時代の寺社で武装してなかったのは、織田領内の寺社のみ。
織田領内は治安が良く、武装する必要がなかった。 武装解除をして宗教活動に専念すれば織田領内では土地の確保や税の軽減など、保護された 山崎八幡宮の油ギルドは叩き潰してた。
西国街道での関銭徴収禁止令に従わなかったから。
桜井で磔に。 信長は叡山攻撃の前には、近江坂本の日吉大社を襲撃
神職、参詣者を殺戮 山岳要塞の前衛陣地だからね。
神職の服着た戦闘員と参詣者を装った斥候隊は殲滅せねば。
そもそも戦端が開かれる直前だ。
部隊が臨戦態勢で包囲して緊張感MAXの所へ、ノンビリと神社に参詣するなど有り得ない。
本当に参詣者なら戦闘中のイラクで首チョンパされた香田レベルの間抜けさである。
ましてや、時代は戦国の乱世だ。
その時期いちばん近寄ってはいけない場所だと判断出来ぬ庶民など居ない。
現代の平和ボケ日本人の感覚で戦国時代を見てはいけない。 織田剣社って神人いたの?
朝倉を攻めた時どう動いたの? >>660
神社に仕えて社務の補助 雑務にあたる下級神職。もちろん武装して警備も行う。
じにんと読む。 甲斐国内では久遠寺も強力な傭兵団を抱えた軍事集団だった。
穴山の領地内だが武田家として、宗教勢力と妥協しまくり権益を認めてやって大人しくして貰ってた。
久遠寺を武装解除して余分な既得権益(三千の傭兵を養える経済力)を召し上げられなかったのが、武田家の限界。 >>664
諏訪氏なんか神主の親玉なのに自らが武装してたやん。阿蘇氏も同じ。 >>664
穴山家の動員兵力より多いwww
農本型の大名豪族の外征時に於ける動員可能兵力は米の生産1000石につき25〜30人。
三千人の僧兵だと10万石の経済規模。
太閤検地の時には甲斐は33万石だっけ?
寺院の影響力って凄まじいね。 >>665
武田統治下なら富士氏もそうだよ
大宮攻略で数回門前払いくらって信玄が重い腰をあげる
羽目になったトラウマなのか武人禁止令をくらったが…
けど富士山へのお賽銭はやはり召し上げできなかった
そして江戸幕府下では大名格の万石高だった大宮司家 >>650
高野山は僧兵いたんだが
いつから武装してなかったことになってるんだ
高野聖は高野山の僧侶が洛中で托鉢しているもの
托鉢で得た金銭は高野山の収入になる >>669
紀州雑賀党は3000丁も鉄砲持ってるのになんで負けたの? >>670
雑賀衆は小牧長久手で秀吉の名城・大坂城を攻めて
張り切ってたじゃないかw
さすがに小牧長久手後の天下人秀吉の動員数は
鉄砲3000丁どころではない >>671
ガソリング砲を20門とかアームストロング砲が5門くらい持ってたら勝てただろうな。 >>674
あの映画では千葉真一が信玄の首を跳ねてたな その時、歴史が動いた
https://youtu.be/QUU4j1vn8g0
一応、これが現代の定説なんかな? >>674
サ〜ンゴ〜ズダ〜ウン♪
サ〜ンゴ〜ズダ〜ウン♪ >>667
太閤検地の頃は甲斐の統治が安定して太平の世。
農業生産も大増産されてた時で33万石だった。
江戸中期は35万石あった。
信虎、信玄、勝頼の時代は外征に次ぐ外征で国力が疲弊しており、
山梨県在住の研究家は20万石には届いて無かったと指摘している。
甲斐一国だけの動員兵力は、国力が疲弊しない範囲で5000人が限度。
ちょっと無理して6000人まで。
それを1万人とか徴集すると国はたちまち疲弊してしまう。
駿河や相模や武蔵の地味豊かな国々と張り合ってしまった貧乏山国の悲哀だ。
身の丈を超えた望みを抱いてしまった。 2020年の大河ドラマは「明智光秀」だそうで。
甲斐武田家が、どう描かれるのか楽しみだ。 散るぞ悲しき〜辞世の唄
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4
歴史上の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。
泣けるよ。凄く出来が良い。
武田家版が聴いてみたい。 >>684
甲斐仕置き担当が明智光秀だったら歴史が変わってたね。
河尻みたく、なぶり殺しには遭って無かったと思う。
近江、丹波では占領軍の司令官なのに
明智光秀は優しい殿様で地元では未だにお祭りする程に慕われてる。
亀岡市や篠山市では、明智の家紋を刻んだ門が有る神社や寺が多く残ってる。
特に 亀岡市の鍬山神社では明智光秀の命日に武者行列して霊を慰めている。 明智が甲斐に入っても武田一色の山梨でそれはないw
なぶり殺しも甲斐ゲットしたければやるだろう
明智と徳川で結託してたらわからんけどな 明智家は美濃の土岐源氏
清和源氏の一族
武田家の遠い親類ですわ 明智光秀の晩年の領地
近江西半分、山城、丹波、但馬、丹後南半分か
石高と経済規模は晩年の信玄を上回ってね? 光秀が天海僧正だという説がありました
徳川将軍家三代家光の誕生時に、春日局を乳母として推挙したのも天海とか
ちなみに春日局は光秀の重臣・斎藤の娘(おふく)
出生地は光秀の所領丹波国氷上郡春日町と伝わる >>696
師匠の信長と同じく流動的な貨幣経済に長けた政治家だからな。
土地本位の中世型から脱却してた。
だから領地の石高と実勢の経済規模が一致しないで内部留保が膨れていく。。
緊急時に姫路城で2万3千の全軍に臨時ボーナスをブッ込むような事が可能になる。
土地本位じゃないから自身の直轄領地だけに拘らず拠点を前線へ次々に変えて行くやり方。
この辺りが武田信玄や今川、北条を代表とする中世型の戦国武将との差だな。 >>696
そう言やぁ
本能寺の時点で秀吉が拝領してた正味の領地って、今浜の8万石だけなんだよな。
それなのに織田家臣団で一番の金持ち。 今浜あらため長浜と横山を合わせて12万石でしょ
まあ、石高が少ないのに変わりは無いが おいおい秀吉の領地は北近江3郡+播磨国+但馬国だぞ 秀吉は長浜城から姫路城に居城も移しているだろう
与力の城に仮住まいしてたのか?
姫路城に至っては秀吉を官兵衛時代の小規模な屋形を
山一つ完全に新築の城郭にしてしまったのに 播摩が秀吉の領地だった事実など、一切ない
領地でないからこそ、姫路をカラに出来た
在来型の武将とガラっと違うから秀吉は面白い
代々武家として受け継いだ本貫地も持たない出自の身分なので土地に対する意識からして違う
その辺りは甲斐武田家は土地に執着し過ぎる中世そのもの
本拠地を出て京に上るなぞ絶対に不可能 つうか秀吉が姫路城を去った後は
天下人として大坂城築城だから
領地じゃないから去ったわけじゃないよね >>711
そうか
関白とかまで行っちまうと、もはや領地とかどうでも良くなるわな >>711
大返しの事じゃね?
政権奪取に乾坤一擲かけて、雑兵まで全て連れて京都に突進して行った
これが武田信玄とかだったら落とした城に数百か数千の守備兵士を配置して、本隊がみるみる減っていく >>706
管理を委託されただけで、自身の治める土地は今浜の周囲のみ。
秀吉は尾張にも土地を持ってない。
百姓のあばら屋だけ。 >>717
格下の利家の方が大領をもらっていたんだね。 武家の格式では前田家の方が遥かに上位。
むしろ、織田家では秀吉より上ばかり。
秀吉は武士ですら無かった。
秀吉が武田家に就職してたら一生涯ずっと足軽のまま。
織田家だからこそ方面軍司令官にまで出世した。 祖霊まします
この山河
敵に踏ませて
なるものか
人は石垣
昼飯は城
情けは味方
仇は敵 仇は敵 >>710
武田や今川とか古い体制の戦国武将は配下という木を植える様な統治って言えるかな。
植樹型とでも言うか。
獲得した土地に配下という樹を植えていく。
織田信長が始めた新しい体制は地面に木を植えない。
プランターや植木鉢に木を植える。
だから気軽に置き場所を変える。
鉢植え型。
戦線が移る度に配下武将を自由に配置替えする。
その信長の理念を良く理解できた秀吉は土地からの収益に依存せず経済センスを磨き、家臣団で一番のリッチマンになった。
織田グループでも明智は鉢植え型経営を理解し切れず古い体制を引き摺ってた。
信長が疎んじだしたのも、それが原因かも知れない。
但馬、伯耆、因幡、出雲、岩見を任せるから切り取れとの配置替えの辞令に従えなかった。
秀吉や丹羽が余りにも理解が早かったので明智光秀の不満不安が信長には分かってなかった。
説明不足だった。
武田信玄だって本当は自由に配置替えしたかったのでは。
戦線拡大したくても迅速に進まなかったのは配下武将が与えられた土地に執着し過ぎるから。 >>717
じゃあ、播磨や但馬は誰が統治していたんだ?
まさか、秀吉の与力が、上司の秀吉よりも大封受けてないよね? >>728
五代当主武田信政の庶子武田政俊が春日に領地を得て分家。
以後は春日氏を名乗るが、いつしか衰退し農場主に。
数百年たって晴信の時に再び武家に。
幼名が「源五郎」だから春日家では源氏であるという気概を
持ち続けて来たのだろう。
甲斐源氏が当主の地域で源氏の子孫でも無い者が「源●郎」などと名乗ると殺される。
山本は知らん。
知らんが、元から武家階層だった。
だから晴信も雇用した。 >>726
その、まさかでんがな
それに羽柴は石高に関係なく圧倒的に金持ちやないけ。 石高と貨幣の交換比率をどこかで読んだ記憶ある
米そのものを受けとるのを好む武将と、貨幣で受けとるのを好む武将が居たって。 >>730
だから但馬と播磨は誰が統治してたの?
質問に答えていない >>733
但馬は織田が平定したとはいえんからな。 >>736
平定していた部分の石高は?
秀吉は播磨国の姫路城に住んでいたのだし
播磨や但馬は全部反織田だったわけじゃないでしょう >>738
ムキになってないんだが、答えてみ?
それとも答えられないからムキになってることにしてんの? >>738
答えられないお前が阿呆
さっさと答えろ
ムキ親父 軍団が駐屯している状況を「住んでる」とは言わないなぁ。
住んでるのは家族が居る長浜ですなぁ。
姫路城は“居城”では無いなぁ。駐留先ですなぁ。 >>694
俺新田だけど武田家に近いの?
まぁ武田姓自体大勢いるけど >>740
答えてくれないお前が哀れ
さっさと答えて貰え
キム親父 >>737
>平定していた部分の石高は?
知るかよ! ボケ! >>604
軍列で移動中の織田信長は落武者では無いさ >>751を見てしんでんなんていう姓あったか?としばし真面目に
悩んでしまったw
にったさん、さーせん 信玄公まつり ってなもんは甲州人の集団ヒステリーだぞ >>762
首都圏から離れて久しいんだけど
由布姫行列なんだか湖衣行列なんだか
「武田信玄」と「風林火山」の諏訪氏作中命名でふらふらしてた件はどうなったの?
湖衣姫コンテストとかwはずいイベントは未だあるんだろうか 自己解決
未だ続いてるんだな湖衣姫コンテスト
写真を見たら自分の知り合いが審査員やってたわ >>768
行き着く先が「御家滅亡」という結果を知ってるからねぇ
いかに川中島合戦で盛り上げても虚しいだけ
数万人の甲州人が
「お舘さまぁ━━!」
「信玄さまぁぁぁ━━━!」
ってヒステリーMAX状況ね 山梨支社に転勤.....と言えば、即ち左遷を意味する。
山梨県とは県外の認識では、そういう場所だ。 >>773
清里や八ヶ岳高原の、リゾート地のイメージだけで釣った印象だからなぁ。
自治体が詐欺まがいのアピールをバックアップしてるから悪質だよ。
それに、「住んでみたいか?」というアンケートに過ぎない訳で。
実際に移住した人数が1位なのでは無いよ。 罪人といえば新田義国もだぞ。そのおかけで河内源氏嫡流を継ぎ損ねた。跡目は討伐された義親の子・六条判官為義が継いだ 呆れるぐらい内輪争い身内殺し簡単に始めるから
あちこちで戦おこして追討うけてる。 まあ院と摂関家がそのように仕向けたのも見逃せない
頼朝が出るまで源氏に政治が上手い奴がいなかった 頼朝は弟殺しまくり
結果として源氏将軍は3代で滅亡
信玄は親父追放息子殺し
信玄の子の代に滅亡 尊氏は弟を殺し長男と対決したが
奇跡的に最愛の嫡男で三男の義詮の系統が室町幕府が終わるまで残ったからなあ 名門意識が異様に高い
高い武力
同族間での扶助意識が希薄
なのですぐに身内の嫡流争いを始める
サイヤ人みたいなもんだと理解してる 【倭国】の勢力圏が列島と朝鮮半島南部までの広範囲だった訳で。
倭人が暮らした場所はとても広い。
百済、新羅あたりとも濃密に関わっていた。
皇族のルーツが半島だったという説の根拠なのだが、倭国の主体は列島に有ったので無理なこじつけに過ぎない。
天皇家を貶めたい勢力が捏造した話。
さらに加えて言うなら
倭人が関わっていた当時の半島の人々は現代の朝鮮人とは違う民族だ。 天皇(天王も同じ)は日本起源、発祥ではない、
もともと日本の話ではないんだから
嘘をついても、どうにもならない なぜ “新羅”三郎 なのか?
シラギに繋がってるのか? 何故わざわざ新羅の神なんだろうね。
歴史って面白いわ。 近江って、かつて天智系の地盤だったよな。
百済からの帰化人が多かった土地。
中大兄皇子の腹心だった中臣鎌足は百済の亡命王族。 鎌足直系の子孫以外は藤原を名乗らせなかった時点で
他の中臣とは別族 >>805
その鎌足の子孫が藤原氏として1200年以上も皇室に密接に関わってくるのか。
臣籍降下した皇族は“主流でない藤原氏”の娘との間に出来た男子だから、源氏は百済の王族の血を引いてるとも言える訳だな。 >>805
親百済派の天智天皇が百済の失地回復の為に、
日本に疎開してた百済の亡命王子を押し立てて新羅と戦端を開いたのが白村江の戦役なのだが....。
倭国が惨敗すると親新羅派の天武天皇に政権を取って替わられてしまう。
その時に鎌足は粛清を逃れて摂津の山奥に隠遁した。
天武系が絶えると、鎌足の子孫は藤原氏として復活し政権中枢に食い込んでくる。
高槻市の阿武野に鎌足の墓が在る。 南北朝の頃から甲斐武田家に
特殊土木技術や情報収集能力で召し抱えられた渡来人集団を
「高麗人(こまびと)」って呼んでた 柘植一族、服部一族、五味一族だね
奈良時代に連の姓を与えられた渡来系人 関東甲信越はモロに東国だろ
昔は東海道北陸道も東国 もしかして、ダジャレか?マジレスして恥ずかしいんだが… >>803
近江には大陸や半島の神を祀る寺社が少なくない 仏教じたい外国から入ってきた宗教(思想?)だからね >>805
中臣は近江ではなく山科の豪族
中臣の本拠地は山城国山科
中臣遺跡と呼ばれる遺構が確認され発掘調査も行われており
山科には現在も中臣氏の氏神を祀る神社もある
藤原氏の菩提寺・興福寺も前身は山科に建てられた山階寺 >>812
そうか
壬申の乱の粛清を生き延びたか
大したモンだ アレか??
ユダヤの紋様が石灯籠に刻まれてるって話か? >>829
藤原鎌足を重用したのは天武ではなく持統
持統天皇の母方は蘇我氏
鎌足の正室は蘇我氏出身だから鎌足の出世は妻の縁 上杉謙信って上杉を継いだから藤原氏なんか?
それとももともと長尾だから桓武平氏の流れなのか? >>838
長尾の庶流とはいえ同じ守護代の織田や朝倉とは血統が違うからな。 晴信は影虎を“対等”の好敵手と見ていたようだが。
村上などは明らかに格下と見下していたが、影虎に対しては対等の家柄と認めていたのだろう。 >>840
新羅三郎義光と鎌倉権五郎景正なら義光の方が格上だろう。
義光と村岡五郎なら同格だろうが。 >>842
家格気にしないんだったら系図の捏造などやらない。 実力の一つとして家格も大きな要素であったはず。
無い場合はコンプレックスでどこかしらに反動出てるし。 系図の捏造はロンダリングにもならんな。秀吉が近衛前久の猶子になったのはロンダリングだが。
そういえば謙信も関東管領上杉憲政の養子だな。 >>846
その藤原氏は藤太のところとは違うから武家としてはたいしたことないだろ。
大江広元の裔の毛利みたいなもんだろう。 といってもみんなは信玄餅に世話になってるだろ。
信玄餅の由来もさるものながら信玄自体が。。。
http://satch.tv/starts/?mref=261
知らんかったわ。 別に平姓の謙信が養子に入っても藤原姓は、藤原姓なんだよ。
家制度ってのは、血統で決まるんじゃない。 戦国板にたくさん武田のスレあるのにわざわざ日本史板にスレたてるのはなぜ? 戦国板の武田スレは問題児がいてまともに話せる状態じゃないんだよ
狂ったように長文連投されてスレストになったのまである >>848
大江氏の末裔 長州藩毛利家37万石
明治維新後は公爵
現毛利家当主は東大卒の外務省課長
複数の女性職員にセクハラで停職処分
毛利元就が怒っているぞ〜 いなかったら大江山という名前は付かないんじゃない? >>878
毛利時親は六波羅在勤中楠木領と近いところに領をもらい正成に大江流軍学を伝授したらしい。 大江は元は公家。あと大江は苗字ではなく姓。大江朝臣 駿河を攻めずに、義信が継いでたら武田家は残ってた?
普通に駿河を徳川に取られて滅亡すると思うが…
とりあえず、勝頼でどうやって武田家を滅亡せずに済むか
この無理難題をやらすゲームが出たら面白い
結果分かってる俺達でさえ、ほぼ無理げーだぜ >>887
信玄死んだら織田に即お詫び
人質付けて信房返還
長篠回避
謙信死んだら信忠と松姫の婚姻話復活させる
人質として差し出すも可
北条との婚姻はとりあえずおいておく
御館回避
自分はさっさか出家して信勝を当主に
信勝若輩故に等理由付けて織田側からも後見だしてもらう >>891
御館は景虎の勝ちになり北条の版図は広がるな。 >>891
武田家って旧態依然の家で一門衆のチカラが強く、
それぞれが、その地域のオーナーみたいなもん
信玄でさえ、彼等に気を使いながら武田家を運営してた
武田家でない、諏訪の勝頼がそこまで情けない醜態を晒して、
武田家の一門衆がついて行くようには到底思えん
あと、どんなに恭順しても織田家は武田家を滅ぼしたと思う
徳川家が豊臣家を滅ぼしたのと同じく、脅威となるものは徹底排除 >>895
一門が全て処刑され、勝頼の家族だけ残ったなら安堵されるわな。
もはや脅威ですら無いわ。
命題は「武田は残るか」だから >>895
徳川家康は一度は豊臣秀吉の家臣となり
跡取りの豊臣秀頼に恭順の血判状を出した手前
それをすべて反故にして自分が天下人になるために
前の天下人の血を根絶やしにしなくちゃならなかったが
織田信長は武田の家臣だったことはないし
地方大名の武田にそこまでのブランド力もない
信玄が晩年に三国軍事同盟破棄して無茶苦茶やったからだよ
いくら信玄の遺産があったからってどことも手を結ばずに
単独で生き残れる戦国時代ではないし
勝頼は正室の実家である後北条からも見捨てられたからな >>896
じゃ、武田勝頼が天下を取るには
一体どうしたら良かったろう 謙信が勝頼の滅亡時に生きていて信玄の遺言に従い謙信に助けを求めたらどうなっていただろうか? >>887
仮に義信が信玄を追放して継いだ場合、今川VS徳川に武田が介入する可能性大だから
家康大ピンチになるけど、追放された親父が信長の所へ行って要らん事しそうだw >>901
義信ってそんな傑物。義真を抱えて織田・徳川と張り合うことできるの? 室町時代には
甲斐武田氏(鎌倉公方に仕える)ではなく
安芸武田氏(直接室町将軍に仕える)が武田の嫡流とみなされていた >>908
蠣崎氏は傍流の傍流だげど明治まで存続。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
PNI たまたま甲斐の武田が講談や小説で有名になったので山岳の一族みたいなイメージあるが
本来の武田氏は海洋の民 甲府市役所で職員やってる(ただ武田家の血は継いでない) 大河ドラマでも天下を取れずに
戦国の世でも天下を取れずに
夢のゲームの世界でやっと天下を取れる哀れ小物すぎるいクソナガw 米沢の武田氏は歴史読本によく執筆してた(武田信清の子孫)
歴史読本とか歴史と旅や歴史群像シリーズって最近みないな 武田家臣団名簿(だっけ?)みたら書状2通以上の所持者のみ記載とか
結構ハードル高くない?
あと、地方地方で新出の書状が出てきてるけど武田氏研究とかに
に載らない限り日の目は出ないというか載らない時点で偽文書? 高野山成慶院の供養帳について少し気になることがあって、それは
信州月牌帳に出てくる武将(地侍?)に少し偏りがある気がして
何故かなと考えてみた。
檀家寺が真言宗の家のみが(高野山は真言宗の分骨を受け入れてるから)
記されてるのかな?と思ったのですが推論としてはどうでしょうか? 信玄って12歳で上杉の方を妊娠させてるんだよな…
中学生男子だもんな ドバドバ射精したんだろうな 上杉・武田・後北条氏の兵種構成
◇上杉氏(天正3年・1575年の軍役帳)
馬上兵 10%
槍歩兵 65%
鉄砲歩兵 6%
手明 12%
大小旗 7%
◇武田氏(永禄4年・1561年、天正6年・1578年の着到状の集計)
馬上兵 12%
槍歩兵 58%
鉄砲歩兵 7%
弓歩兵 10%
手明 7%
大小旗 6%
◇後北条氏(天正5年・1577年の一門である岩付衆の軍役)
馬上兵 32.0%
槍歩兵 38.5%
鉄砲歩兵 2.6%
弓歩兵 3.2%
手明 16.0%
大小旗 7.7% >武田の末裔って居る?
次男信親(竜芳)と五男盛信の系統は
現存するが養子が続き既に信玄の血筋ではない
六男信清の子孫は女系が入るが信玄の血筋
若狭武田と安芸武田は不明
蝦夷武田(蛎崎のち松前)は本家は断絶
分家は現存するも武田信広の血筋ではない ウルトラマン
♀_(`O`)♪タケダ タケダ タケダ
武田 武田〜 第四次川中島合戦の真実
今川家に追放されていた 祖父信虎が 信玄の長子太郎と連絡を取り
信玄が太郎の妻の実家今川家を侵略しようとしているので
それを阻むため 川中島で上杉に信玄を討たせようと画策した
それに協力したのが山本勘助で 今川家のスパイとして武田家に潜入していた
勘助が信玄を罠にはめる作戦を作り 信虎がそれを謙信に伝えた
計画はうまくいった
太郎は信玄の脇を防備していたが 前方に謙信の旗を見ると
信玄防衛を捨てて 謙信に突撃した 謙信は口実で
実は信玄防衛に穴を空けるためだった
太郎隊が居なくなった隙に上杉軍が突進し 信玄は重傷を負った
信玄が撃たれなかったのを見て
策破れたと 勘助は自ら戦死し 太郎は後に切腹させられた 諏訪神社掲げたん勝頼がいたからだろ
で諏訪信仰のある地へ攻め入ったわけだ
信玄が死んだあとは信玄神社⛩が作られた 三方原のなどへの出兵は、上洛が目的でなく、尾張平野に入って信長を誘い出して
打撃を与えるが目的のように思えてきた
もし信長が負ければ離反者がたくさん出るから、数年後もう一度攻める
だから三方原で勝っても浜松城を攻めずに次に進もうとした
東美濃に別隊を送ったのは、帰り道を確保しておくため 武田信玄の最後となる上京行、駿府を通らずに諏訪を通って進軍したのは何故か。
長年疑問だった。
Wikipediaの武田信虎を読んでてふと思った。
「駿府には父・武田信虎がいる。信玄は父と顔を合わせたくなかったので、
遠回りと思える諏訪経由で上京しようとしたのではないか」 >>955
面白い設定だけど、どうかなぁ。
武田は攻城戦が下手って話もあるけどそうでなくとも二万以上の兵を連れて浜松城を攻撃するのは無謀だったはず。
現実問題、僅か500人が守備する野田城にすら手こずってる。浜松城は攻めたくても攻められなかったろう。
故に、武田信玄の戦略が全く読めんのだ… 甲府に行ったら信玄沢山いたわ
500年祭りなんだね今年 映画「信虎」
https://nobutora.ayapro.ne.jp/
ニッチな題材だが、考証も丁寧に行って見応えのある作品になっていた
硬派な部分と、遊び心のある部分のバランスも良かった
戦国時代はだいたい網羅したって人でも、新しい発見がある作品だと思う 映画の日に観に行くつもりなんだけど
監督の金子に俺的当たり作が一本もないし
音楽が池辺…池辺の良作って大河の独眼竜のオープニングぐらいしかないんだよなぁ
wikiには来年まで劇場公開が保障されるかのような記述だが、足かけ三か月も上映していられるような大作なのか、これ? 今は亡き明治生まれのばあちゃんが武田の末裔ではなく、武田の家臣の一部が四国は鳴門の岡崎ってとこに来たと言っていたが本当なのか。 そのうちの1人がうちの先祖らしいが。ばあちゃんはボケずに亡くなったし そんな嘘ついても得も何もないので今も気になっている。 影武者の放送終わった。
しかし、
考証はむちゃくちゃだな。
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