【風林火山】武田信玄【甲斐源氏】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
甲斐源氏....という概念
韮崎に土着した武田氏だけじゃ無いんだよね。 新潟県警の機動隊、上杉謙信の旗印だった毘沙門天の「毘」の文字を盾に書いてる
京都府警機動隊「誠」の文字 たぶん新選組を気取ってるんだろう 実は......さ、
割り菱は武田家のフォーマルな場面でつかう家紋じゃ無いって知ってた?
いわゆる武田菱ってカジュアルな紋様なんだぜ。
都の勅使や将軍に拝謁する場面では違う紋様を使うのさ。
((( ̄へ ̄井)ふん! 武田一族は清和源氏の流れを汲んでおり、長元4年(1031年)3月には清和源氏の惣領・源頼信が甲斐守として着任した。
以後、彼の子孫が名馬の産地・甲斐国高麗郡を占拠するようになっていくのである。
頼信の子・頼義、孫の新羅三郎義光はいずれも関東地方に国守として就任しており、
義光次男の義清のときには高麗郡(こまごおり)の市河荘、青島荘の下司(=管理人)として土着するようになる。
そして、義清と子の清光は高麗郡北部の逸見郷で荘園を成立させていった。
この清光が甲斐源氏の祖といわれており、その子供たちが甲斐国を発祥として武田一族をはじめ多くの諸氏族を築いていくのである。
光長(長男):逸見氏の祖。逸見荘を守って逸見太郎と称す。
信義(次男):甲斐武田氏の祖。武河荘の武田に住し、武田太郎と称す。
遠光(三男):加賀美氏の祖。加賀美荘に住し、加賀美次郎と称す。子は小笠原氏・南部氏・秋山氏などを興す。
義定(?男):安田氏の祖。加納荘に住し、安田三郎と称す。
義遠(?男):浅利氏の祖。八代郡浅利郷に住し、浅利与一と称す。 >>276
南部って戦国時代に青森岩手にいた南部氏発祥の地だっけ? 甲斐発祥の南部氏も北奥に転居になってラッキーだったな。甲斐に留まっていたら風土病で族滅してたw >>367
村上はちょつと毛色の違った清和源氏だ。 >>368
一瞬だが都を制圧占領したからなぁ
信玄より遥かに日本史に影響を与えてる >>375
残念
甲斐の山賊領が近すぎて、全てを失った >>375
宗家を滅ぼされ、宗教祭祀を奪われ、姫を拐われ服従させられ、残った血縁を謀略で殺され、反抗した衆は街道に並べた杭に張り付け放置
鬼じゃ!
武田は、武田は鬼じゃ! 大国主命の息子が祀られてる、皇室より遥かに歴史ある大社を護ってきた諏訪氏を滅ぼしたんだもん。
大国主命ファミリーは「怨霊」世界のトップでしょ。
それに手を懸けたんだから武田は滅ぶしかないね。 武田家は江戸時代、幕府では格式ある【高家】として旗本になっていた
武田家清和源氏義光流。
甲斐の戦国大名武田信玄の次男海野信親の子孫である武田信興を初代とする。
徳川綱吉に召し出される。500石。
明治維新後、東京府士族。 >>381
途中、他家から養子とってるからねぇ
松山藩士の秋山家から婿入りした なっていたってその前に大島へ流罪になってるじゃん
しかも赦免されて本土に戻っても支援したのは小山田の娘が
側室として入った内藤家で赦免も主に動いたのは保科や池田両家で
綱吉による抜擢では柳沢と岡山池田が動いた
周りの御膳立てなかったらそのまま流罪だった可能性だってあったよ >>374
源氏としては山奥の田舎暮らしでしょ?
中央の鎌倉に君臨した頼朝とは格が違い過ぎるよ。 高家(こうけ)は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。
役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。
≪高家≫
有馬、一色、今川、大友、織田、吉良、武田、土岐、畠山、最上、六角・・・
≪高家並≫
山名・・・
などの室町幕府足利家に仕えた名家が高家として明治維新まで存在した >>388
木曽地方に領地あるから木曽氏なんでしょう? >>387
高家だったら、斯波、赤松、北畠、少弐、菊池、三好
当然入ってるはずですが >>389
平家全盛期に木曾の山中で幼少期を過ごしたから木曾冠者だぞ。 源太郎伊沢冠者武田清光 は、子供時代を石和温泉で過ごしたのだ >>394
甲斐氏って菊池氏の一族で一族と喧嘩して東国に逃げてきて甲斐に落ち着いたからとれを苗字にしたと聞く。 所詮アレだ
“甲斐”源氏と言ってる時点で既に主流では無い >>396
地名みたいなモンか。
元の勝浦に対して、那智勝浦とか
高田に対して、大和高田、陸前高田とか 多田源氏、摂津源氏、近江源氏、村上源氏、土岐源氏、光源氏、若狭源氏、
安芸源氏、大隅源氏、嵯峨源氏、丹波源氏、那珂源氏、河内源氏.......
なんだか和牛みたい >>399
越後新田党って越後源氏を名乗らなかったんだね。 十両力士☆貴ゲンジ関
ゲンジ蛍
上野の焼き鳥屋「玄治」 リアル甲州軍団
武装外国工作員を制圧せよ 陸上自衛隊と山梨県警が治安出動共同訓練
http://www.sankei.com/images/news/180215/afr1802150046-p1.jpg
http://www.sankei.com/images/news/180215/afr1802150046-p2.jpg
甲府市内
自衛隊への治安出動命令は、自衛隊法に基づいて、
警察力で治安を維持することができない場合に適用されるが、
これまで一度も出されたことはない。
2月27日産経新聞 武田家は織田徳川連合軍の攻撃で敗れたが、のちに武田家臣団は徳川の有力者
井伊直政に召し抱えられ赤備え軍団は幕末まで存続
徳川に召し抱えられた集団は、八王子に千人同心として甲州街道の警備
千人同心も幕末まで存続 >>415
新撰組の近藤勇も千人同心の流れを汲む。 >>416
新撰組の近藤勇も千人同心の流れを汲むとは事実なんですか?
近藤家は千人同心のメンバーでしたか? 近藤勇の養家である近藤家は、八王子千人同心とはまったく関わりがないようです
八王子千人同心の組織は明治まで続いてましたが、近藤家はありません >>421
天然理心流二代目近藤三助は八王子千人同心。
だから流れを汲むと書いた。 待遇は悪かったために、わずかな禄高で苦労した千人同心
生活苦から千人同心の株(名跡)の売買もあり
裕福な豪農や豪商が、二男、三男に株を買い与えたという例もあるそうだ
一応は養子縁組という体裁で
千人同心も幕末には武士の姿をしていても、剣術などの武術もできない者もいたようだ >>425
それは貧乏な御家人も同じようなもの
御家人株が売買されていた
勝海舟の勝家がそうです >>382
甲斐武田家も一度、嫡流が跡絶えたよ。
信虎の6代前、武田信春(晴信の7代前)の時に嫡子が死んで武田宗家が廃絶の危機に。
そこで、更に2代前、武田信武の子が広島に分家した安芸武田家より信満を養子を迎えて存続させた。
よって戦国時代の甲斐武田家は安芸武田家の流れという解釈もある。
更に言えば
安芸武田家の祖、武田信頼に兄が居た。
若狹に分家した若狹武田家の祖、武田信治だ。
戦国時代の甲斐武田家より若狹武田家の方が家格が上だったという根拠の一つ。
幕府も若狹武田家を格上と認識していた。 >>434
いや若狭も武田だよ
六代将軍足利義教の命令で若狭の武田信栄が、一色義貫を誅したことでも知られる
室町時代は京都への地理的な関係もあったのか、甲斐の武田本家よりも、
若狭や安芸の武田氏のほうが足利将軍家に近かったとみられる 『信玄いか』
喉の渇きを潤したという、
あのエピソードから、きているんだよ
梅?
画像を検索してみるとわかる >>415
明治のはじめ、警視庁が創設。
川路大警視は、八王子千人同心を集め
希望者を警視庁巡査に採用している。
武田家臣団は警視庁に登用された。 >>440
新撰組の斎藤一も警視庁に採用され警部になる。 江戸城の半蔵門外、笄(こうがい)町に住んでいた公儀御庭番たち
警視庁に全員呼び出されて、希望者を警視庁が巡査として採用している
笄(こうがい)町=江戸時代の初期の名称は、甲賀伊賀(こうがいが)町だった 戊辰戦争では官軍の薩長に攻撃され、会津藩降伏
ところが後に、会津藩家老の佐川官兵衛は警視庁に採用される。 明治10年の西南戦争
薩摩士族軍に追い立てられ農民や商人を招集し編成の鎮台兵は敗走
銃器を投げ捨て軍服まで脱ぎ散らかせて泣き叫び逃げ回る鎮台兵に政府首脳も嘆息
急遽警視庁抜刀隊が田原坂に出陣
戊辰の役で賊軍とされた旧会津藩はじめ東北六県の士族たちが続々と警視庁に応募
旧新選組残党、旧八王子千人同心も多数参加
豪雨の田原坂で薩摩士族軍と警視庁抜刀隊が白刃を振るって激闘 公儀御庭番・・・忍者
忍者に伊賀、甲賀、風魔、根来、戸隠、甲州流があった 会津藩家老の佐川官兵衛は藩の剣術指南役でもあった。溝口一刀流
薩摩士族との戦いの前に、警視庁抜刀隊の巡査たちに
「薩摩の示現流と対戦する場合、敵の打ち込みは絶対に刀で受けるな。一の太刀は体をかわして避けること。
蛤御門の戦では長州勢は薩摩の示現流の太刀を刀で受けたため、刀身を折られて袈裟懸けに斬られたり、受けた自分の刀の鍔やみねが額にめり込んで絶命した者もいた。
絶対に刀で受けるな、体をかわせ。二の太刀が来る前に一気に刺し殺せ」
このように何度も説明したという >>449
それは、な
豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎と呼ばれていた頃だよ!
けっ! >>443
中村獅童の顔が浮かぶじゃねーか
さすけねーー! 天正2年3月5日(1574年3月27日)、武田信虎が没しました。武田信玄の父親で、甲斐の猛虎ともいうべき武将として知られます。
武田信虎は明応3年(1494)、武田氏17代の武田信縄の嫡男に生まれました。初名は信直。
永正4年(1507)、父・信縄が没し、信虎は14歳で家督を継ぎます。当時の甲斐は武田氏の内訌もあって、大いに乱れていました。
さっそく叔父の信恵が信虎に叛旗を翻すと、信虎は翌永正5年(1508)、坊峰合戦で信恵一党を攻め滅ぼし、武田家の統一を果たします。
永正7年(1510)に小山田氏を従属させ、永正12年(1515)には西郡の大井氏らを攻めますが、大井氏を従える駿河の今川氏が甲斐に侵攻、信虎は今川とも戦いました。
永正14年(1517)、今川氏と和睦すると、永正17年(1520)には大井氏を勢力下に置き、大井信達の娘を正室に迎えます。時に信虎、27歳。
ようやく甲斐国内を鎮めた信虎でしたが、大永元年(1521)9月、突如、西郡に駿遠の1万5000の大軍が攻め込み、富田城を落としました。
主将は今川氏親の重臣・福島正成です。この知らせに信虎は、まず臨月の正室を躑躅ヶ崎館の後詰の城・要害山城に避難させました。
そして今川勢を迎撃すべく兵を集めますが、僅か2000に留まります。我が身に直接の害が及ばねば傍観する甲斐びとの気質に信虎は歯噛みしますが、
「よい。御旗楯無(みはたたてなし)も照覧あれ、敵を蹴散らしてくれる」と決戦を覚悟、両軍は飯田河原で対陣しました。
寡兵の信虎はこの時、幼少の頃から弓矢の道の薫陶を受けた老臣・荻原昌勝より秘策を授かっていたといいます。すなわち大量の旗を作っておいて、それらを郷民に持たせて周囲の山々に林立させ、後詰に大軍が控えていると見せかけるものでした。
ちなみに荻原は、江戸幕府の勘定奉行・荻原重秀の祖先です。
こうなるとさしもの福島も動けず、今川軍に動揺が広がります。そして、合戦は2度行なわれました。
まず10月10日の飯田河原の合戦では、武田軍の攻撃で今川方は100余人が討死、一部は南下して勝山の城に退き、残りは本陣を立て直して、それでも府中攻撃を窺います。
この両軍の対峙中、要害山城で生まれたのが、信虎の嫡男・太郎晴信でした。 11月23日、信虎は果敢にも敵本陣に夜襲をかけ、上条河原で激戦となります。
この戦いで今川方は600余名が戦死、主将の福島正成も討ち取られる大敗を喫して駿河に引き上げ、信虎は甲斐に武田ありと近隣諸国に知らしめることになりました。
さらに大永年間には相模の北条氏との戦いも始まり、大永6年(1526)には富士北麓の梨の木平で北条氏綱勢に大勝します。翌大永7年(1527)には佐久に出兵、また駿河の今川氏親と和睦しました。
その後、信虎は信濃侵攻などに力を注いでいきます。享禄元年(1528)には諏訪攻めを行ない、諏訪頼満、頼隆に敗れました。
天文4年(1535)には今川攻めを行ない、甲駿国境の万沢で戦いますが、今川と結ぶ北条氏に甲斐を侵攻されてしまいます。しかし翌年、今川氏輝の急死で今川家に後継者争いが起こり、信虎は善徳寺承芳を支持。
結果、承芳が勝って名を今川義元と改めると、武田と今川の関係は好転しました。
天文6年(1537)には長女を義元に嫁がせ、また今川氏の仲介で、晴信の正室に京の三条家の娘を迎えて、甲駿同盟を結びます。これにより今川と北条の同盟は破綻しました。
しかし信虎の度重なる侵攻命令に従う家臣たちは疲弊し、不満を蓄積させます。
さらに信虎が嫡男の晴信ではなく、次男の信繁を偏愛し、晴信を廃嫡しようとしたことも、家中の将来に不安を投げかけました。
そして天文10年(1541)、信虎は家臣らに支持された晴信によって、娘婿の駿河の義元のもとに追放されるのです。時に信虎、48歳。 天文12年(1543)、上洛した信虎は京都・奈良・高野山を遊歴。
年内に駿河に戻りますが、京都にも屋敷を構えてその後も上洛し、前守護として将軍足利義輝にも仕候しています。
息子・晴信が上洛を悲願としたことを思えば、皮肉なものといえるのかもしれません。
将軍義輝が松永久秀らに討たれ、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信虎は義昭にも仕候しました。
しかし信長と義昭が決裂すると元亀4年(1573)、信虎は義昭に命じられて甲賀郡に派遣され、信長包囲網の一翼として近江に攻め込む構えをとります。
しかし包囲網の決め手であった西上中の息子・信玄(晴信)が途上で死去したため、包囲網は瓦解。
天正2年(1574)、信虎は京を離れて三男・信廉の居城・高遠城に身を寄せました。そして同年、高遠で没しました。享年81。
家臣への苛斂誅求、晴信との不和があったとはいえ、甲斐を統一した信虎が、33年間の追放生活を送り、ついに甲府に戻ることなく没した点は、いささか同情の余地があるのではという気にもなります。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています