天文12年(1543)、上洛した信虎は京都・奈良・高野山を遊歴。
年内に駿河に戻りますが、京都にも屋敷を構えてその後も上洛し、前守護として将軍足利義輝にも仕候しています。
息子・晴信が上洛を悲願としたことを思えば、皮肉なものといえるのかもしれません。

将軍義輝が松永久秀らに討たれ、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信虎は義昭にも仕候しました。
しかし信長と義昭が決裂すると元亀4年(1573)、信虎は義昭に命じられて甲賀郡に派遣され、信長包囲網の一翼として近江に攻め込む構えをとります。
しかし包囲網の決め手であった西上中の息子・信玄(晴信)が途上で死去したため、包囲網は瓦解。
天正2年(1574)、信虎は京を離れて三男・信廉の居城・高遠城に身を寄せました。そして同年、高遠で没しました。享年81。

家臣への苛斂誅求、晴信との不和があったとはいえ、甲斐を統一した信虎が、33年間の追放生活を送り、ついに甲府に戻ることなく没した点は、いささか同情の余地があるのではという気にもなります。