【風林火山】武田信玄【甲斐源氏】
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>>627
北条は略奪についてはどうだったんだろう? >>627
>>628
織田軍が略奪狼藉を許さなかった....と記録されてる。
これは裏を返せば、当時の戦では勝った側はムチャクチャするのが当然だったって事だよね。
教科書とかで足軽が荒らし回る絵を見た記憶ある。
織田軍は当たり前じゃ無い事(珍しい事)をしたからこそ公的記録に書かれたんだよね。 一方で信長公記には織田軍が乱獲りをしていた
記述も見受けられるんだな、これが…
要は相手によって使い分けしていたか方面軍の軍団長に
そこらは一任していたのかもしれんね >>630
加賀富樫の戦役で柴田勝家が制圧した村落で根こそぎ奪い家屋を焼き払ったそうだよ。
住人は軍勢で取り囲んで皆殺しに。 >>631
>>634
合理的思考の信長はキチンと統治する予定の土地の民には非常に優しく接する。
当面の税を免除してやり地力が回復するまで援助さえ行う。
古今東西、善政とは減税の事に他ならない。
一般人も使える軍用道路網を整備し往来を容易にする。
領内の街道筋の通行料徴収を廃止し物資の流通コストを下げる。
市場の規制緩和を推進し商業の新規参入を保証した。
信仰の自由も保証した。
他国領地から逃げた民が続々と織田領に流入して人口が増加する。
武田領と正反対である。
武田信玄が内政の神と言われたのは 何故だろうか。 >>635
信仰の自由?
延暦寺を焼いて僧侶を殺害したのは宗教弾圧でしょ 信長は延暦寺を焼いて僧侶を殺害した
本願寺を攻め立て一向宗門徒を虐殺した
京の都で布教する高野聖を捕縛し鴨川の河原で処刑した 秀吉は紀州根来寺を焼き討ち。僧侶、信徒を虐殺している
キリスト教徒を捕縛し長崎で公開処刑 >>637
>>640
>>643
>>645
逆にさ
何故、その殺戮をしたのかな?
何か理由が有ったのかな? 延暦寺や本願寺は武装してただろ
非武装の坊主を殺したならともかく >>648
信長は
高野聖は武装などしないが、京の都で布教中に片っ端から捕縛され鴨川で殺害されている
甲州恵林寺でも武装していないのに僧侶を山門楼上に押し上げて、焼き殺している >>650
スパイ防止法と治安維持
それと犯人隠匿と国家転覆防止 >>643
強力な傭兵団を抱えた軍事集団
スペインの極東侵略の阻止 >>650
戦国時代の寺社で武装してなかったのは、織田領内の寺社のみ。
織田領内は治安が良く、武装する必要がなかった。 武装解除をして宗教活動に専念すれば織田領内では土地の確保や税の軽減など、保護された 山崎八幡宮の油ギルドは叩き潰してた。
西国街道での関銭徴収禁止令に従わなかったから。
桜井で磔に。 信長は叡山攻撃の前には、近江坂本の日吉大社を襲撃
神職、参詣者を殺戮 山岳要塞の前衛陣地だからね。
神職の服着た戦闘員と参詣者を装った斥候隊は殲滅せねば。
そもそも戦端が開かれる直前だ。
部隊が臨戦態勢で包囲して緊張感MAXの所へ、ノンビリと神社に参詣するなど有り得ない。
本当に参詣者なら戦闘中のイラクで首チョンパされた香田レベルの間抜けさである。
ましてや、時代は戦国の乱世だ。
その時期いちばん近寄ってはいけない場所だと判断出来ぬ庶民など居ない。
現代の平和ボケ日本人の感覚で戦国時代を見てはいけない。 織田剣社って神人いたの?
朝倉を攻めた時どう動いたの? >>660
神社に仕えて社務の補助 雑務にあたる下級神職。もちろん武装して警備も行う。
じにんと読む。 甲斐国内では久遠寺も強力な傭兵団を抱えた軍事集団だった。
穴山の領地内だが武田家として、宗教勢力と妥協しまくり権益を認めてやって大人しくして貰ってた。
久遠寺を武装解除して余分な既得権益(三千の傭兵を養える経済力)を召し上げられなかったのが、武田家の限界。 >>664
諏訪氏なんか神主の親玉なのに自らが武装してたやん。阿蘇氏も同じ。 >>664
穴山家の動員兵力より多いwww
農本型の大名豪族の外征時に於ける動員可能兵力は米の生産1000石につき25〜30人。
三千人の僧兵だと10万石の経済規模。
太閤検地の時には甲斐は33万石だっけ?
寺院の影響力って凄まじいね。 >>665
武田統治下なら富士氏もそうだよ
大宮攻略で数回門前払いくらって信玄が重い腰をあげる
羽目になったトラウマなのか武人禁止令をくらったが…
けど富士山へのお賽銭はやはり召し上げできなかった
そして江戸幕府下では大名格の万石高だった大宮司家 >>650
高野山は僧兵いたんだが
いつから武装してなかったことになってるんだ
高野聖は高野山の僧侶が洛中で托鉢しているもの
托鉢で得た金銭は高野山の収入になる >>669
紀州雑賀党は3000丁も鉄砲持ってるのになんで負けたの? >>670
雑賀衆は小牧長久手で秀吉の名城・大坂城を攻めて
張り切ってたじゃないかw
さすがに小牧長久手後の天下人秀吉の動員数は
鉄砲3000丁どころではない >>671
ガソリング砲を20門とかアームストロング砲が5門くらい持ってたら勝てただろうな。 >>674
あの映画では千葉真一が信玄の首を跳ねてたな その時、歴史が動いた
https://youtu.be/QUU4j1vn8g0
一応、これが現代の定説なんかな? >>674
サ〜ンゴ〜ズダ〜ウン♪
サ〜ンゴ〜ズダ〜ウン♪ >>667
太閤検地の頃は甲斐の統治が安定して太平の世。
農業生産も大増産されてた時で33万石だった。
江戸中期は35万石あった。
信虎、信玄、勝頼の時代は外征に次ぐ外征で国力が疲弊しており、
山梨県在住の研究家は20万石には届いて無かったと指摘している。
甲斐一国だけの動員兵力は、国力が疲弊しない範囲で5000人が限度。
ちょっと無理して6000人まで。
それを1万人とか徴集すると国はたちまち疲弊してしまう。
駿河や相模や武蔵の地味豊かな国々と張り合ってしまった貧乏山国の悲哀だ。
身の丈を超えた望みを抱いてしまった。 2020年の大河ドラマは「明智光秀」だそうで。
甲斐武田家が、どう描かれるのか楽しみだ。 散るぞ悲しき〜辞世の唄
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4
歴史上の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。
泣けるよ。凄く出来が良い。
武田家版が聴いてみたい。 >>684
甲斐仕置き担当が明智光秀だったら歴史が変わってたね。
河尻みたく、なぶり殺しには遭って無かったと思う。
近江、丹波では占領軍の司令官なのに
明智光秀は優しい殿様で地元では未だにお祭りする程に慕われてる。
亀岡市や篠山市では、明智の家紋を刻んだ門が有る神社や寺が多く残ってる。
特に 亀岡市の鍬山神社では明智光秀の命日に武者行列して霊を慰めている。 明智が甲斐に入っても武田一色の山梨でそれはないw
なぶり殺しも甲斐ゲットしたければやるだろう
明智と徳川で結託してたらわからんけどな 明智家は美濃の土岐源氏
清和源氏の一族
武田家の遠い親類ですわ 明智光秀の晩年の領地
近江西半分、山城、丹波、但馬、丹後南半分か
石高と経済規模は晩年の信玄を上回ってね? 光秀が天海僧正だという説がありました
徳川将軍家三代家光の誕生時に、春日局を乳母として推挙したのも天海とか
ちなみに春日局は光秀の重臣・斎藤の娘(おふく)
出生地は光秀の所領丹波国氷上郡春日町と伝わる >>696
師匠の信長と同じく流動的な貨幣経済に長けた政治家だからな。
土地本位の中世型から脱却してた。
だから領地の石高と実勢の経済規模が一致しないで内部留保が膨れていく。。
緊急時に姫路城で2万3千の全軍に臨時ボーナスをブッ込むような事が可能になる。
土地本位じゃないから自身の直轄領地だけに拘らず拠点を前線へ次々に変えて行くやり方。
この辺りが武田信玄や今川、北条を代表とする中世型の戦国武将との差だな。 >>696
そう言やぁ
本能寺の時点で秀吉が拝領してた正味の領地って、今浜の8万石だけなんだよな。
それなのに織田家臣団で一番の金持ち。 今浜あらため長浜と横山を合わせて12万石でしょ
まあ、石高が少ないのに変わりは無いが おいおい秀吉の領地は北近江3郡+播磨国+但馬国だぞ 秀吉は長浜城から姫路城に居城も移しているだろう
与力の城に仮住まいしてたのか?
姫路城に至っては秀吉を官兵衛時代の小規模な屋形を
山一つ完全に新築の城郭にしてしまったのに 播摩が秀吉の領地だった事実など、一切ない
領地でないからこそ、姫路をカラに出来た
在来型の武将とガラっと違うから秀吉は面白い
代々武家として受け継いだ本貫地も持たない出自の身分なので土地に対する意識からして違う
その辺りは甲斐武田家は土地に執着し過ぎる中世そのもの
本拠地を出て京に上るなぞ絶対に不可能 つうか秀吉が姫路城を去った後は
天下人として大坂城築城だから
領地じゃないから去ったわけじゃないよね >>711
そうか
関白とかまで行っちまうと、もはや領地とかどうでも良くなるわな >>711
大返しの事じゃね?
政権奪取に乾坤一擲かけて、雑兵まで全て連れて京都に突進して行った
これが武田信玄とかだったら落とした城に数百か数千の守備兵士を配置して、本隊がみるみる減っていく >>706
管理を委託されただけで、自身の治める土地は今浜の周囲のみ。
秀吉は尾張にも土地を持ってない。
百姓のあばら屋だけ。 >>717
格下の利家の方が大領をもらっていたんだね。 武家の格式では前田家の方が遥かに上位。
むしろ、織田家では秀吉より上ばかり。
秀吉は武士ですら無かった。
秀吉が武田家に就職してたら一生涯ずっと足軽のまま。
織田家だからこそ方面軍司令官にまで出世した。 祖霊まします
この山河
敵に踏ませて
なるものか
人は石垣
昼飯は城
情けは味方
仇は敵 仇は敵 >>710
武田や今川とか古い体制の戦国武将は配下という木を植える様な統治って言えるかな。
植樹型とでも言うか。
獲得した土地に配下という樹を植えていく。
織田信長が始めた新しい体制は地面に木を植えない。
プランターや植木鉢に木を植える。
だから気軽に置き場所を変える。
鉢植え型。
戦線が移る度に配下武将を自由に配置替えする。
その信長の理念を良く理解できた秀吉は土地からの収益に依存せず経済センスを磨き、家臣団で一番のリッチマンになった。
織田グループでも明智は鉢植え型経営を理解し切れず古い体制を引き摺ってた。
信長が疎んじだしたのも、それが原因かも知れない。
但馬、伯耆、因幡、出雲、岩見を任せるから切り取れとの配置替えの辞令に従えなかった。
秀吉や丹羽が余りにも理解が早かったので明智光秀の不満不安が信長には分かってなかった。
説明不足だった。
武田信玄だって本当は自由に配置替えしたかったのでは。
戦線拡大したくても迅速に進まなかったのは配下武将が与えられた土地に執着し過ぎるから。 >>717
じゃあ、播磨や但馬は誰が統治していたんだ?
まさか、秀吉の与力が、上司の秀吉よりも大封受けてないよね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています