物部氏とは何者??
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>>420 島根県か山口県っぽいな。 島根県には石見国一宮の物部神社があるし 山口県の前身、長門国の守護は守屋の末裔の厚東氏だった。 なんで卑弥呼や秦氏が剣神を信仰してたことになるんだよ 卑弥呼と秦氏は、鬼道つながり 秦氏と物部氏は、神社つながり 秦氏が権力と共に物部復活 >>378 物部氏は、源郷北部九州から大和移住の折、神武東遷と違って 出雲経由で東上したのか? ”北九州から発して出雲を中継地として大和入りした物部氏・・・・・・” 銅 鐸 と 鏡 作 氏 宝賀寿男 2014.2.5 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kagami1.htm >>427 下示週刊誌『磐船神社/石切劔箭神社』特集号にニギハヤヒの東遷 経路が、掲載されておるようです。 週刊「日本の神社」 第108号 磐船神社/石切劔箭神社/譽田八幡宮 2016-02-23発売 \562*1.08 哮ヶ峯周辺に残る物部氏の痕跡/ヤマト入りする前の饒速日命の足跡/ http://deagostini.jp/jin/backnumber.php?id=47871& ;issue=108 >>414 氏祖「饒速日(ニギハヤヒ)」=「豊かではやいヒ」とは、稲妻を擬人化した 人名でよいのかな? ニンニキニキニキとニギニギしくが転じてニニギです。 軻遇突智を斬って刀剣の神が生まれるあたりに、 ミカハヤヒやヒハヤヒというのがタケミカヅチと一緒に出てくるので ニギハヤヒもその類い 適当に造ったキャラなので名前も適当な語呂合わせで決めました これですよ 現代人の信仰軽視 古代人の社会を理解しようとせず何でも捏造!創作! ミカハヤヒやヒハヤヒのハヤヒと ニギハヤヒのハヤヒが同義とは限らない >>429 弥生語から解読すると、「ニギハヤヒ」は、ニ+キ+ハヤ+ピと分解され 「きわめて優れた力あふれる意志」の意味らしいよ。 真実の 「天津祝詞の太祝詞」を求めて 「先代旧事本紀」の中の「一二三の祝詞」 ttp://www.pikakamo.com/index.php?%E3%80%8C%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9D%E8%A9%9E%E3%81%AE%E5%A4%AA%E7%A5%9D%E8%A9%9E%E3%80%8D 登美地名 大阪 堺(登美ヶ丘) 高槻(登美の里) 奈良 奈良市(登美ヶ丘、鳥見もあり) 鳥見、つまり見晴らしの良いところ、という説が有力。 長髄彦、ニギハヤヒの時代は河内湖であり、その北岸と南岸が現在の高槻と 堺であった。高槻の登美の里の近くに「津之江」地名があり、当時の大阪で は数少ない平地で、有力豪族の根拠だったと考えられる。現在、近畿最古級 の弥生巨大水田跡が見つかっており、市内至る所に遺跡がある。 登美の長髄彦は、ここを最初の根拠としていたのかも知れない。 堺の登美ヶ丘は丘陵の上だが、近くには池上曽根があり、また東大阪の鬼塚 と共に縄文から連続している四つ池があり、これらも近畿では珍しい巨大水 田跡である。 すねが長いのは縄文人の特徴だが、長髄彦がニギハヤヒの随伴者で、九州由 来の氏族か、それとも名前通りの縄文以来の王なのか、興味深い。 >>439 『記』の表記するイザナギ・イザナミの子「速秋津比古神・速秋津比売神」、 スサノヲ「建速須佐之男命」の「速」も、「力あふれる」との意なのかな? >>182 」 欽明紀記事の竹斯物部莫奇委沙奇(マガワサカ)のマガワサカって 珍名だが、古代のキラキラネームなの?意味は? 日本人は男系基準で3つに分れます。 皇別・・・天皇家から臣籍降下した系統や傍流で、蘇我氏、橘氏、平氏、源氏、その他があたる。 神別・・・天津神・国津神の子孫ということになっており、中臣(藤原)氏、物部氏などがそれにあたる。 諸蕃・・・渡来人系の氏族であり、秦氏、東漢氏などがこれにあたる。 ニギハヤヒ=スクナヒコ=ヒルコ ナガスネヒコ=アテルイ じゃないのかなと?アマテラスがーってのがヒルコのことかなと? でもモノノベがヒルコにつながるのか?? モノノベはどっちかと言うとツクヨミ系列だと思うんだけどなあ でも秦氏もツクヨミ系列を字で示してるくせに絹ガー絹ガー言ってるからなにか裏にあるのかな? スクナヒコは出雲に流れ着いた時点で絹の服を着てたって話だし >>444 >ニギハヤヒ=スクナヒコ=ヒルコ >ナガスネヒコ=アテルイ >じゃないのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スレ誤爆か?等号=を誤用だし、投稿論旨も不明。 ナガスネヒコは3世紀前後、アテルイは9世紀の人物ゆえ、等号で結べない つまり同一人物ではありえない。 ニギハヤヒ=スクナヒコ=ヒルコも、意味不明だ。 >>446 熟早日(熟すのが早い日)を蛭子 蛭子を夷とみて 蛭子を少彦名とも同等に観た 夷、東北の話を物部と夷の二つに重ねて考察したのでそんな形になった 物部は兵主神を指し五種の兵器は五角形でも表され五角形は台の文字を表す この上の三角形部分が朝鮮半島で保食神かつオオゲツヒメ(大月?)をも指すから 物部は月扱いとした その場合に物部が偶々東北に逃げたからといって饒速日命の末ってのは嘘臭いなーと 全然わけがわからないけど、お前らの脳内では理屈が通ってるわけ? >>444 >>445 >>447 >>448 辺りは一人で書いてるから複数だと思われたらスマンw 自分の脳内では確定事項からの派生としてもの考えてる ちなみにアテルイってのはおそらくアテナイと同意で名前じゃなく単に将軍を指す役職名だと思われる 兵主や物部と同意って部分に味があるなとも 皇室も物部氏も、3万年以上前の氷河期に日本に渡来してきた 最古のY遺伝子のD1bを持つ氏族同士だが 両者が分岐したのは1万年以上前。 皇室は、D1b1a2 物部氏は、D1b1d1 ニギハヤヒとかが実在したとしても、せいぜい2000年前なので 皇室や尾張氏が言うように、やはり、ニギハヤヒは天孫ではなく 尾張氏の祖先であるホアカリとは、無関係であった。 ニギハヤヒの正式名称には、ホアカリ櫛玉ニギハヤヒという。 櫛玉とは形見の意味があり やはり、ニギハヤヒは、自分はホアカリの御落胤だと自称してただけで 実際は嘘をいっていたことになる。 ニギハヤヒは天一というか天? 天皇周りが天孫って訳で、一世代目と三世代みたいな感じ ニギハヤヒも出戻りかも知れないけど 天孫は更に後世での出戻り 日本の古代歴史は、どこまで行っても神話にすぎない話なのが悲しいよな。 早い話、この国を造ったのは肝心の原住民(日本民族)ではないということ。 どこまでというか神話の時代って日本の歴史に比べたら中期辺りの話だろ? 上古の時代は神代以前だと思うよ 天孫が日本の戻って来たときにも天一は日本で暮らしてた >>447 記紀で天磐舟で河内に降臨した先住天孫族領袖とされるニギハヤヒは、 蛭子=不具とか夷=未開人でなく英傑であって従来の用字の好字『饒速日』で 妥当であろう。 熟早日(熟すのが早い日)や蛭子とニギハヤヒを矮小化するのは、何故? 創造神が生んだ初の子は何故奇形なのか? http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/min/1388045627/ 物部氏は守屋の崇仏論争で あきらかなように古神道を奉じる ガチな保守勢力。 >>53 平安時代に武士が軍事を担うような 経緯で、 大和王権成立後にこの裏天孫族に 軍事が任されたのではないだろうか。 物部氏は古墳時代の軍事貴族だろ 渡来人らを中心とした藤原氏の台頭の影で滅ぼされた連中 物部氏 タカクラジ(兄) ミマキイリヒコ(弟)、出雲の協力により実質初代天皇になる この二人により遠賀川から東征が行われる 他の物部氏は先代旧事本紀参照 Y遺伝子でみたら、 皇室、物部氏、出雲国造家も約3万年以上前に日本へ渡来してきた古い系譜。 ただし、三者それぞれ分岐したのは1万年以上前なので 日本神話(せいぜい2000年前くらいか)の言うように、 三者は男系ではつながっていない扱いだった。 中臣氏は新しくて約4000年くらい前に日本へ渡来してきた系譜。 いずれにせよ、日本神話の話はせいぜい2000年以上前の話なので これらの氏族は、そん時点では日本に住み始めて千年以上の時間が経過している。 蘇我氏の天下でも東北のほうでひっそり暮らしてたんでしょ ちゃんと今現在も物部守屋は存在してますよ。日本全土にいます。 別に隠すつもりもなければ、大きく出る事もありません。 普通の生活です。家紋は受け継がれてきてるだけです。 おまえら新説を語る時は ちゃんとした根拠を語れよ。 ここは幼稚園じゃないぞ。 >>421 『新撰姓氏録』が饒速日の七世孫と記す大賣(売)布命とは、何者か? 物部氏は海賊であり馬賊である。 つまり、収穫期を狙って村を襲う略奪民族なのだ。 鉄は、馬具や船を作ったり、武器を作るために必要なものだ。 鉄の材料も職人も略奪してきたのだろう。 >>454 先住民物部氏と諏訪大社には、関わりがあるのか? 週刊「日本の神社」 第120号 諏訪大社 他 2016-05-17発売 \562*1.08 聖地のミステリー:古代史最大の豪族・物部氏と諏訪の深い関わり ttp://deagostini.jp/jin/backnumber.php?id=47919&issue=120 新説ではなくて、本物が言ってるだけなんで。まぁウソくさいと聞こえてしまうのが悲しいです。代々受け継がれてきてる古文書があるんですが…お見せ出来ないのが悔しいです。日本至る所にある守屋神社でも参拝なさって下さい。 >>475 糸魚川のタケミナカタが滅ぼした諏訪の在地勢力がモレヤだろ >>475 >日本至る所にある守屋神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ?長野県高遠町のしか知らぬのだが、他には何処何処に坐すのか? 高龍神社を祭る地域に進出している。 Google地図で探せばわかります。 十種神宝がある天橋立の籠神社は物部だな。息津鏡と辺津鏡がある。 マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル の手法 ・沢山の人が、偏った意見を一貫して支持する 偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法 ・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする 誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法 偏った思想や考え方に染まっていたり、常識が通じない人間は、頭が悪いフリをしているカルト工作員の可能性が高い 靖 国 参 拝、皇 族、国 旗 国 歌、神 社 神 道を嫌う カ ル ト 10人に一人は カ ル ト か 外 国 人 「ガ ス ラ イ テ ィ ン グ」 で 検 索 を ! 物部守屋・・・・大和朝廷時代、神代以来の軍事氏族の名門で、蘇我氏と崇仏・廃仏論争を繰り広げたことで有名だ。 そんな物部氏の末裔である守屋武昌が、「防衛省の天皇」と呼ばれながら防衛庁を事務次官として牛耳っていた。 歴史は繰り返すんでしょうかねぇ。 興味深いのが、かつて「えたひにん」と呼ばれていた人達は、実は物部氏の血統だという説があるそうです。 物部氏は古神道をつかさどり、生贄を神に捧げ、血の儀式をするヘブライからやってきた民だったそうで、そういう生贄の儀式や血の儀式をするので、えたひにんに身分を 落とされたという話。 物部氏はヤマト政権以前のヤマトの王 どこから来たのか分からない後の大王家を擁する諸国連合の一員となりヤマトの地の国譲りをした ヤマト政権樹立に伴い連合各勢力の文化や様式を取り入れあるいは融合させた 物部氏はその中で祭祀(のちの古神道)という政(まつりごと)の主要部分を職掌する地位に就いた 祭祀王はもちろん大王であるが祭祀は物部式である 後代諸国連合のヤマト政権からヤマト王権という国家の体を成すに連れて祭祀は政治に移り変わり政治でも物部氏は枢要の地位を保っていた 連合ではなく国家となったことで元諸国勢力は一臣下となり国家の命令で動かなければならなくなった となるとこの国家権力の掌握を狙って権力闘争が激化していく 元々仏教は物部氏が持ち込んだものだった だが祭祀がまだ大きな影響力を持つ中で仏教を新たな祭祀法として目を付けたのは蘇我氏だった 祭祀を仏教にすることで祭祀≒政治から物部氏の権力を引き剥がし蘇我氏が取って代わろう図った こうして崇仏派蘇我氏と廃仏派物部氏という構図になった 部曲や部民で構成されているヤマト王権は氏族集団がそのまま公的機関として機能していた ゆえに権力闘争に敗れた物部氏は氏族全体がヤマト王権から排斥されることとなり歴史の表舞台から消え去った 更に後年渡来系の中臣氏は氏族集団を主体とするヤマト王権では権力を拡大することは難しかった ゆえに大陸式の律令という官僚制を導入することで古来からの氏族集団を排斥する手法を採った これが王権の限界と上手く合致して律令を主導した中臣氏つまり藤原氏は巧妙に藤原一強の官僚制を敷いた 対外的にも国家組織を確立しこれより大和朝廷となる 物部氏本流は継体朝の中核軍閥で、古代吉備王朝の流れ。 傍流(建前上は宗家)が、神武天皇親衛隊の葛城軍閥。 対極的に、蘇我氏は継体朝による大和天皇家解体工作の担い手。 つまり、仁賢天皇の親衛隊の流れで西播系。 両氏のルーツはおそらく同じ。 仁賢天皇は、雄略天皇を反面教師とした別途の謀将天皇。 雄略暗殺、清寧討伐、顕宗謀殺、 自らの悪事を抹消するため、語り部達を皆殺しにしたので 即位直前からの事跡は不詳。 「丑寅日本国に倭国の皇統を砕く書が残っている。秩父に残った蘇我一族の国記及び天皇記である。将門を討ったけれども、本命の国記、天皇記の奪取がならなかった。倭国朝廷の企ても不覚に終わったのである」 >>486 >祭祀王はもちろん大王であるが祭祀は物部式・・・・・・・・・・・・・・ 祭祀王とは、己が世子たちの夢見内容により世襲後継者を指名したと 記録される崇神天皇のように男巫の側面を有する大王たちを指すのだろうが、 その物部式祭祀というのは、如何なる様式なのですか? >>483 十種神宝のうちの息津鏡と辺津鏡の二鏡って、どう違うの? >>434 奈良市石木町に坐す大和国添下郡の式内社登弥神社の祭神の一体に 登美建速日(トミノタテハヤヒ?)命という「ハヤヒ」名があるね。 >>485 反論するのもアホ臭いが、物部氏は地方豪族の元となった国造を多く輩出し、 江戸の身分システムの遥か以前から地方で勢力を持っていた。 物部のルーツは九州の筑後川・遠賀川を牛耳っていた氏族、後に東征し天皇家のルートとなる。 物部氏の祖らは、卑弥呼対卑弥弓呼(クナ)の争いの際に、クナを裏切り卑弥呼に寝返った人々だろ。 クナは2世紀後半までは 物部氏の祖らは、卑弥呼対卑弥弓呼(クナ)の争いの際に、クナを裏切り卑弥呼に寝返った人々だろ。 クナの版図は2世紀後半までは、河内和泉、大和。 物部氏の祖が大和の大王の筈がない。大和の元々の支配者は卑弥弓呼。 もちろん饒速日(実在すら怪しい)でもないし、カモでもない。 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加々志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性もあるのである。 >>492 一方が前漢後期(紀元前)、他方が後漢(紀元後)の物の本物で奇跡的に一度も土中に埋納去れずに完全な形で二千年の時を経て伝わる正に宝鏡。 因みに、前漢が滅び王莽の「新」帝国が建国されたのが 正に西暦の紀元元年に当たるので歴史のベンチマークとして分かりやすいかと。 その「新」帝国も僅か15年で瓦解、光武帝劉秀の後漢が成立。 また、成立間もないキリスト教も後漢の建国間もなくに既に都の洛陽に到来して盛んに布教活動を全国的に展開していた事が後漢書に記されています。 【延喜式神名帳】遠賀神社 出羽国 田川郡鎮 九州の田川郡と遠賀川に関係か。 徐福=ニギハヤヒ(再渡来(リベンジ)時に号した。初回渡来(出雲の簒奪にtry)時にはホアカリを号した 出雲帝国の正副二人の王を殺害(一人は岳父(義理の父親))して帝国(この当時、日本列島の大部分を領有ないしは勢力圏内)乗っ取りを謀るも 意に反して意外に早く出雲帝国側が盛り返し態勢を磐石にしたため大失敗。 出雲側から捕遂される立場となり暗殺の危機が迫ったため(僅かに得た丹波国と妻子を放棄して)逃げ帰ったらしい)) 鬼神より怖く残忍な秦の始皇帝や朝廷にはそんな事はおくびにも出さず(判れば色々残忍な極刑が待っていた) 舌先三寸で巧みに再度の奮起を促し、まんまと騙し通してあの大秦帝国の国庫を傾けさせる程に巨万の富をせしめると共に大船団の建造させて 三千人と言われる青少年少女らに一族配下を紛れ込ませた上で山東半島から船出して東海に浮かび二度と還らず。 後々の風聞では蓬莱島に至り彼の地の王となったとも。、、、(史記) この大船団が九州の有明海に入港(海上が見たこともない大船団に占められた様は圧巻だったでしょう。)して 佐賀の地に上陸。(サカ、サガ等は最高神(王)を意味するかと) 出雲帝国から北九州地域の統治を委任される形で分家独立したばかりの宗像王家のカタアタス命に取り入り?三女の市杵島媛命/サヨリ媛(狭手依媛命)と政略結婚して、 次男坊(先に渡来した際には長男の五十猛/天香語山命/手栗彦を成した。猛は徐福の父親の名(徐猛)で息子に命名)と娘を産ました。(精力絶倫オヤジ(ジジイ)) この次男坊がホホデミ。物部王家の祖。 また、のちの歴代物部王家の当主(王)はホホデミを襲名していたらしい。 、、、後々の天皇家に列なる (天御中主尊(徐福?)より神武天皇まで三十数世、筑紫島に都す。にも合致) あと、市杵島媛命(=イザナミ(二人目))との娘、穗屋媛命は長男で穗屋媛の異母兄の天香語山命に嫁いで天村雲命/建位起命を産む。 >>502 丹波国風土記残欠によると、 天火明命の国家を修造固め成せとの大命(前回、大失敗した経緯もあり、ある種の悲願)を 承った御子の天香語山命と御孫の天村雲命らはそれぞれ軍勢を率いて各地を転戦なさり 苦労した末にやがて国が成った。云々 微かな伝承によれば、丹波国勢力が畿内の大和に大量に流入してきて勢力を誇ったのわ、見た 渡来人らに引っ掻き回された出雲事変?を契機に出雲から葛城地方に移住していた東王家の分 家の登美家と 同じく西王家の分家の高鴨家ら先住の王族らから是非もなしと 丹波勢の当主天村雲命(葛城の王(かも)族からは父祖を相次いで殺害された仇敵の孫。母系は同じ出雲王族。ビミョーかつ複雑な間柄) を大王に推戴。 葛城の登美家を建てた天日方奇日方命(父親は八重波津身命(出雲帝国第8代少彦(副王)。東王家の富/向家当主)/母親は摂津三島の生玉依媛命。 父親はツミハ八重事代主神に改竄された。また子孫らに三輪山に祀られた)の妹君が天村雲命に嫁ぎ大后と成る事で 葛城・丹波(ケヒ?)連合王国の大倭国が成立。 初代大王に天村雲命が即位(神武天皇の一人目のモデル) その息子、第2代大王、玉手看命も同じく葛城の登美家の天日方奇日方命の下の妹が嫁ぎ、、、 キキの神武からの欠史八代が天村雲命から始まる大倭国大王家の系譜。 いわゆる歴代のヒミコ=大倭媛命/竹野(タカノ)媛命もこの時代かつ御一統さま。 (魏に遣使をした事が伝承、系譜文献の解析から明らかに) また、大倭の称号自体が、尋常ではない特別かつ偉大な王にしか付与されていない事も重要かと。 >>503 いわゆる第8代孝霊天皇の時に、九州の物部王家が畿内大倭国を侵攻して来て、 葛城の登美家が九州勢に内応手引きした事で 第一次物部侵攻軍勢は易々と吉野から紀の川を渡りイワレの地に進軍駐屯。 それを見た孝霊天皇と取り巻き連中は大和を放棄して逐電。吉備(気比)国を建てた(吉備津彦、桃太郎(山から川を(ヤマトから)流れて来た)) 、、、ふたりの神武(ニギハヤヒ) 新たな大倭国の主と成った第一次物部王家も次第に葛城(出雲)に同化吸収される形で僅か三代(約150年?)で 九州物部王家の第二次大和侵攻により瓦解消滅。(東〜北日本に逃避した人達が蝦夷(エミシ)と蔑まれた) この際にも葛城の登美家の当主が重要なポジションを占めた。(頭ヤタガラス。金鵄) 主導したイクメ大王(垂仁)が改めて新たな大倭国の主、大王に即位。(いわゆる崇神は出師の直前、準備中に宮崎の都万で死亡) 、、、 >>362 『景行天皇紀』に、以下記事がある。 土蜘蛛討伐九州親征時に抵抗に遇い加護祈願した 志我神、直入物部神、直入中臣神の名々からすると 先頭の志我神が、景行天皇の氏祖神ということか? >>505 志賀神は 安曇氏の遠祖とみられる 筑前志賀島や、滋賀の語源となった。 >>504 徐福到来から世代があわんといっておろう。 村雲が神武なら その後、孝霊まで7代。ここで物部東征があったとして 孝霊のあとの孝元は物部の嫁もらうじゃろ? 孝霊の後は 開花、大彦世代 そのあとはヒコイマス 彦道主 孝元の後は 屋主武雄 崇神 フツオシ 垂仁 景行 武内宿禰につながる 成務 武内宿禰は成務と同じ世代だから。 それぞれ西暦何年の話よ? >>506 滋賀にはシカさんも来ましたが、ワニさんやカモさんも来てますよね。 「物部氏の本貫地は忌部の郷 阿波だった」 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加々志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性もあるのである。 >>508 来てますね。 今の天理市、中平年号の刀が出た東大寺古墳あの辺りです。唐古・鍵遺跡や布留遺跡も近いし、 纒向建設に伴って物部は今の石切駅付近に移ったようです。 開化天皇以下、ヒコイマス、丹波道主 系と関係が深く この系統から和邇氏は武振熊がでて近江毛野臣で若干衰微しました。 カモさんは滋賀に来ずに山城の方に多く進出しました。景行天皇の外征中はカモさんがナンバー2だったと言います。 >>510 はい、倭国(阿波)から大勢、行きました。 >>513 ですよー 神功皇后の韓地遠征で活躍した武振熊さんがそうです。 八幡神社の八幡はヤハタとも言うが、その正体ははっきりしない。 ハタ=旗、あるいは秦。 秦国から多くの帆船とともに渡来した人物、徐福を連想するのは発想の飛躍であろうか? 日本史より謎な金儲けできる方法とか グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』 8S9DU >>486 >元々仏教は物部氏が持ち込んだもの・・・・・・・・・・・・・・・・ 管見では聞かぬ説だが、いつ物部何某が伝えたと何に記されてあるの? 通説の百済王からの仏教公伝は、『日本書紀』だとAD552年、 『元興寺縁起』だとAD538年と記されていますが、これ以前に 仏教私伝はあったでしょうから、その記載史資料名は何でしょうか? 仏教が中国に到来したのは後漢の初期、1世紀の事。 同時期には、 キリスト教も中国に到来。 景教(イエス(キリスト)は、同じスペルの異音、イシェ、イーサ他)と号して全国に展開して盛んに布教活動を行っていた。(後漢書) >>517 八幡。の幡とは、 卑弥呼(豊国/宇佐の豊玉媛)が魏の使節を通じて皇帝から賜った黄旛(皇帝旗。「錦の御幡」)を指すらしい。 (出雲人の伝承) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる