物部氏とは何者??
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物部氏は守屋の崇仏論争で あきらかなように古神道を奉じる ガチな保守勢力。 >>53 平安時代に武士が軍事を担うような 経緯で、 大和王権成立後にこの裏天孫族に 軍事が任されたのではないだろうか。 物部氏は古墳時代の軍事貴族だろ 渡来人らを中心とした藤原氏の台頭の影で滅ぼされた連中 物部氏 タカクラジ(兄) ミマキイリヒコ(弟)、出雲の協力により実質初代天皇になる この二人により遠賀川から東征が行われる 他の物部氏は先代旧事本紀参照 Y遺伝子でみたら、 皇室、物部氏、出雲国造家も約3万年以上前に日本へ渡来してきた古い系譜。 ただし、三者それぞれ分岐したのは1万年以上前なので 日本神話(せいぜい2000年前くらいか)の言うように、 三者は男系ではつながっていない扱いだった。 中臣氏は新しくて約4000年くらい前に日本へ渡来してきた系譜。 いずれにせよ、日本神話の話はせいぜい2000年以上前の話なので これらの氏族は、そん時点では日本に住み始めて千年以上の時間が経過している。 蘇我氏の天下でも東北のほうでひっそり暮らしてたんでしょ ちゃんと今現在も物部守屋は存在してますよ。日本全土にいます。 別に隠すつもりもなければ、大きく出る事もありません。 普通の生活です。家紋は受け継がれてきてるだけです。 おまえら新説を語る時は ちゃんとした根拠を語れよ。 ここは幼稚園じゃないぞ。 >>421 『新撰姓氏録』が饒速日の七世孫と記す大賣(売)布命とは、何者か? 物部氏は海賊であり馬賊である。 つまり、収穫期を狙って村を襲う略奪民族なのだ。 鉄は、馬具や船を作ったり、武器を作るために必要なものだ。 鉄の材料も職人も略奪してきたのだろう。 >>454 先住民物部氏と諏訪大社には、関わりがあるのか? 週刊「日本の神社」 第120号 諏訪大社 他 2016-05-17発売 \562*1.08 聖地のミステリー:古代史最大の豪族・物部氏と諏訪の深い関わり ttp://deagostini.jp/jin/backnumber.php?id=47919&issue=120 新説ではなくて、本物が言ってるだけなんで。まぁウソくさいと聞こえてしまうのが悲しいです。代々受け継がれてきてる古文書があるんですが…お見せ出来ないのが悔しいです。日本至る所にある守屋神社でも参拝なさって下さい。 >>475 糸魚川のタケミナカタが滅ぼした諏訪の在地勢力がモレヤだろ >>475 >日本至る所にある守屋神社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ?長野県高遠町のしか知らぬのだが、他には何処何処に坐すのか? 高龍神社を祭る地域に進出している。 Google地図で探せばわかります。 十種神宝がある天橋立の籠神社は物部だな。息津鏡と辺津鏡がある。 マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル の手法 ・沢山の人が、偏った意見を一貫して支持する 偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法 ・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする 誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法 偏った思想や考え方に染まっていたり、常識が通じない人間は、頭が悪いフリをしているカルト工作員の可能性が高い 靖 国 参 拝、皇 族、国 旗 国 歌、神 社 神 道を嫌う カ ル ト 10人に一人は カ ル ト か 外 国 人 「ガ ス ラ イ テ ィ ン グ」 で 検 索 を ! 物部守屋・・・・大和朝廷時代、神代以来の軍事氏族の名門で、蘇我氏と崇仏・廃仏論争を繰り広げたことで有名だ。 そんな物部氏の末裔である守屋武昌が、「防衛省の天皇」と呼ばれながら防衛庁を事務次官として牛耳っていた。 歴史は繰り返すんでしょうかねぇ。 興味深いのが、かつて「えたひにん」と呼ばれていた人達は、実は物部氏の血統だという説があるそうです。 物部氏は古神道をつかさどり、生贄を神に捧げ、血の儀式をするヘブライからやってきた民だったそうで、そういう生贄の儀式や血の儀式をするので、えたひにんに身分を 落とされたという話。 物部氏はヤマト政権以前のヤマトの王 どこから来たのか分からない後の大王家を擁する諸国連合の一員となりヤマトの地の国譲りをした ヤマト政権樹立に伴い連合各勢力の文化や様式を取り入れあるいは融合させた 物部氏はその中で祭祀(のちの古神道)という政(まつりごと)の主要部分を職掌する地位に就いた 祭祀王はもちろん大王であるが祭祀は物部式である 後代諸国連合のヤマト政権からヤマト王権という国家の体を成すに連れて祭祀は政治に移り変わり政治でも物部氏は枢要の地位を保っていた 連合ではなく国家となったことで元諸国勢力は一臣下となり国家の命令で動かなければならなくなった となるとこの国家権力の掌握を狙って権力闘争が激化していく 元々仏教は物部氏が持ち込んだものだった だが祭祀がまだ大きな影響力を持つ中で仏教を新たな祭祀法として目を付けたのは蘇我氏だった 祭祀を仏教にすることで祭祀≒政治から物部氏の権力を引き剥がし蘇我氏が取って代わろう図った こうして崇仏派蘇我氏と廃仏派物部氏という構図になった 部曲や部民で構成されているヤマト王権は氏族集団がそのまま公的機関として機能していた ゆえに権力闘争に敗れた物部氏は氏族全体がヤマト王権から排斥されることとなり歴史の表舞台から消え去った 更に後年渡来系の中臣氏は氏族集団を主体とするヤマト王権では権力を拡大することは難しかった ゆえに大陸式の律令という官僚制を導入することで古来からの氏族集団を排斥する手法を採った これが王権の限界と上手く合致して律令を主導した中臣氏つまり藤原氏は巧妙に藤原一強の官僚制を敷いた 対外的にも国家組織を確立しこれより大和朝廷となる 物部氏本流は継体朝の中核軍閥で、古代吉備王朝の流れ。 傍流(建前上は宗家)が、神武天皇親衛隊の葛城軍閥。 対極的に、蘇我氏は継体朝による大和天皇家解体工作の担い手。 つまり、仁賢天皇の親衛隊の流れで西播系。 両氏のルーツはおそらく同じ。 仁賢天皇は、雄略天皇を反面教師とした別途の謀将天皇。 雄略暗殺、清寧討伐、顕宗謀殺、 自らの悪事を抹消するため、語り部達を皆殺しにしたので 即位直前からの事跡は不詳。 「丑寅日本国に倭国の皇統を砕く書が残っている。秩父に残った蘇我一族の国記及び天皇記である。将門を討ったけれども、本命の国記、天皇記の奪取がならなかった。倭国朝廷の企ても不覚に終わったのである」 >>486 >祭祀王はもちろん大王であるが祭祀は物部式・・・・・・・・・・・・・・ 祭祀王とは、己が世子たちの夢見内容により世襲後継者を指名したと 記録される崇神天皇のように男巫の側面を有する大王たちを指すのだろうが、 その物部式祭祀というのは、如何なる様式なのですか? >>483 十種神宝のうちの息津鏡と辺津鏡の二鏡って、どう違うの? >>434 奈良市石木町に坐す大和国添下郡の式内社登弥神社の祭神の一体に 登美建速日(トミノタテハヤヒ?)命という「ハヤヒ」名があるね。 >>485 反論するのもアホ臭いが、物部氏は地方豪族の元となった国造を多く輩出し、 江戸の身分システムの遥か以前から地方で勢力を持っていた。 物部のルーツは九州の筑後川・遠賀川を牛耳っていた氏族、後に東征し天皇家のルートとなる。 物部氏の祖らは、卑弥呼対卑弥弓呼(クナ)の争いの際に、クナを裏切り卑弥呼に寝返った人々だろ。 クナは2世紀後半までは 物部氏の祖らは、卑弥呼対卑弥弓呼(クナ)の争いの際に、クナを裏切り卑弥呼に寝返った人々だろ。 クナの版図は2世紀後半までは、河内和泉、大和。 物部氏の祖が大和の大王の筈がない。大和の元々の支配者は卑弥弓呼。 もちろん饒速日(実在すら怪しい)でもないし、カモでもない。 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加々志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性もあるのである。 >>492 一方が前漢後期(紀元前)、他方が後漢(紀元後)の物の本物で奇跡的に一度も土中に埋納去れずに完全な形で二千年の時を経て伝わる正に宝鏡。 因みに、前漢が滅び王莽の「新」帝国が建国されたのが 正に西暦の紀元元年に当たるので歴史のベンチマークとして分かりやすいかと。 その「新」帝国も僅か15年で瓦解、光武帝劉秀の後漢が成立。 また、成立間もないキリスト教も後漢の建国間もなくに既に都の洛陽に到来して盛んに布教活動を全国的に展開していた事が後漢書に記されています。 【延喜式神名帳】遠賀神社 出羽国 田川郡鎮 九州の田川郡と遠賀川に関係か。 徐福=ニギハヤヒ(再渡来(リベンジ)時に号した。初回渡来(出雲の簒奪にtry)時にはホアカリを号した 出雲帝国の正副二人の王を殺害(一人は岳父(義理の父親))して帝国(この当時、日本列島の大部分を領有ないしは勢力圏内)乗っ取りを謀るも 意に反して意外に早く出雲帝国側が盛り返し態勢を磐石にしたため大失敗。 出雲側から捕遂される立場となり暗殺の危機が迫ったため(僅かに得た丹波国と妻子を放棄して)逃げ帰ったらしい)) 鬼神より怖く残忍な秦の始皇帝や朝廷にはそんな事はおくびにも出さず(判れば色々残忍な極刑が待っていた) 舌先三寸で巧みに再度の奮起を促し、まんまと騙し通してあの大秦帝国の国庫を傾けさせる程に巨万の富をせしめると共に大船団の建造させて 三千人と言われる青少年少女らに一族配下を紛れ込ませた上で山東半島から船出して東海に浮かび二度と還らず。 後々の風聞では蓬莱島に至り彼の地の王となったとも。、、、(史記) この大船団が九州の有明海に入港(海上が見たこともない大船団に占められた様は圧巻だったでしょう。)して 佐賀の地に上陸。(サカ、サガ等は最高神(王)を意味するかと) 出雲帝国から北九州地域の統治を委任される形で分家独立したばかりの宗像王家のカタアタス命に取り入り?三女の市杵島媛命/サヨリ媛(狭手依媛命)と政略結婚して、 次男坊(先に渡来した際には長男の五十猛/天香語山命/手栗彦を成した。猛は徐福の父親の名(徐猛)で息子に命名)と娘を産ました。(精力絶倫オヤジ(ジジイ)) この次男坊がホホデミ。物部王家の祖。 また、のちの歴代物部王家の当主(王)はホホデミを襲名していたらしい。 、、、後々の天皇家に列なる (天御中主尊(徐福?)より神武天皇まで三十数世、筑紫島に都す。にも合致) あと、市杵島媛命(=イザナミ(二人目))との娘、穗屋媛命は長男で穗屋媛の異母兄の天香語山命に嫁いで天村雲命/建位起命を産む。 >>502 丹波国風土記残欠によると、 天火明命の国家を修造固め成せとの大命(前回、大失敗した経緯もあり、ある種の悲願)を 承った御子の天香語山命と御孫の天村雲命らはそれぞれ軍勢を率いて各地を転戦なさり 苦労した末にやがて国が成った。云々 微かな伝承によれば、丹波国勢力が畿内の大和に大量に流入してきて勢力を誇ったのわ、見た 渡来人らに引っ掻き回された出雲事変?を契機に出雲から葛城地方に移住していた東王家の分 家の登美家と 同じく西王家の分家の高鴨家ら先住の王族らから是非もなしと 丹波勢の当主天村雲命(葛城の王(かも)族からは父祖を相次いで殺害された仇敵の孫。母系は同じ出雲王族。ビミョーかつ複雑な間柄) を大王に推戴。 葛城の登美家を建てた天日方奇日方命(父親は八重波津身命(出雲帝国第8代少彦(副王)。東王家の富/向家当主)/母親は摂津三島の生玉依媛命。 父親はツミハ八重事代主神に改竄された。また子孫らに三輪山に祀られた)の妹君が天村雲命に嫁ぎ大后と成る事で 葛城・丹波(ケヒ?)連合王国の大倭国が成立。 初代大王に天村雲命が即位(神武天皇の一人目のモデル) その息子、第2代大王、玉手看命も同じく葛城の登美家の天日方奇日方命の下の妹が嫁ぎ、、、 キキの神武からの欠史八代が天村雲命から始まる大倭国大王家の系譜。 いわゆる歴代のヒミコ=大倭媛命/竹野(タカノ)媛命もこの時代かつ御一統さま。 (魏に遣使をした事が伝承、系譜文献の解析から明らかに) また、大倭の称号自体が、尋常ではない特別かつ偉大な王にしか付与されていない事も重要かと。 >>503 いわゆる第8代孝霊天皇の時に、九州の物部王家が畿内大倭国を侵攻して来て、 葛城の登美家が九州勢に内応手引きした事で 第一次物部侵攻軍勢は易々と吉野から紀の川を渡りイワレの地に進軍駐屯。 それを見た孝霊天皇と取り巻き連中は大和を放棄して逐電。吉備(気比)国を建てた(吉備津彦、桃太郎(山から川を(ヤマトから)流れて来た)) 、、、ふたりの神武(ニギハヤヒ) 新たな大倭国の主と成った第一次物部王家も次第に葛城(出雲)に同化吸収される形で僅か三代(約150年?)で 九州物部王家の第二次大和侵攻により瓦解消滅。(東〜北日本に逃避した人達が蝦夷(エミシ)と蔑まれた) この際にも葛城の登美家の当主が重要なポジションを占めた。(頭ヤタガラス。金鵄) 主導したイクメ大王(垂仁)が改めて新たな大倭国の主、大王に即位。(いわゆる崇神は出師の直前、準備中に宮崎の都万で死亡) 、、、 >>362 『景行天皇紀』に、以下記事がある。 土蜘蛛討伐九州親征時に抵抗に遇い加護祈願した 志我神、直入物部神、直入中臣神の名々からすると 先頭の志我神が、景行天皇の氏祖神ということか? >>505 志賀神は 安曇氏の遠祖とみられる 筑前志賀島や、滋賀の語源となった。 >>504 徐福到来から世代があわんといっておろう。 村雲が神武なら その後、孝霊まで7代。ここで物部東征があったとして 孝霊のあとの孝元は物部の嫁もらうじゃろ? 孝霊の後は 開花、大彦世代 そのあとはヒコイマス 彦道主 孝元の後は 屋主武雄 崇神 フツオシ 垂仁 景行 武内宿禰につながる 成務 武内宿禰は成務と同じ世代だから。 それぞれ西暦何年の話よ? >>506 滋賀にはシカさんも来ましたが、ワニさんやカモさんも来てますよね。 「物部氏の本貫地は忌部の郷 阿波だった」 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加々志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性もあるのである。 >>508 来てますね。 今の天理市、中平年号の刀が出た東大寺古墳あの辺りです。唐古・鍵遺跡や布留遺跡も近いし、 纒向建設に伴って物部は今の石切駅付近に移ったようです。 開化天皇以下、ヒコイマス、丹波道主 系と関係が深く この系統から和邇氏は武振熊がでて近江毛野臣で若干衰微しました。 カモさんは滋賀に来ずに山城の方に多く進出しました。景行天皇の外征中はカモさんがナンバー2だったと言います。 >>510 はい、倭国(阿波)から大勢、行きました。 >>513 ですよー 神功皇后の韓地遠征で活躍した武振熊さんがそうです。 八幡神社の八幡はヤハタとも言うが、その正体ははっきりしない。 ハタ=旗、あるいは秦。 秦国から多くの帆船とともに渡来した人物、徐福を連想するのは発想の飛躍であろうか? 日本史より謎な金儲けできる方法とか グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』 8S9DU >>486 >元々仏教は物部氏が持ち込んだもの・・・・・・・・・・・・・・・・ 管見では聞かぬ説だが、いつ物部何某が伝えたと何に記されてあるの? 通説の百済王からの仏教公伝は、『日本書紀』だとAD552年、 『元興寺縁起』だとAD538年と記されていますが、これ以前に 仏教私伝はあったでしょうから、その記載史資料名は何でしょうか? 仏教が中国に到来したのは後漢の初期、1世紀の事。 同時期には、 キリスト教も中国に到来。 景教(イエス(キリスト)は、同じスペルの異音、イシェ、イーサ他)と号して全国に展開して盛んに布教活動を行っていた。(後漢書) >>517 八幡。の幡とは、 卑弥呼(豊国/宇佐の豊玉媛)が魏の使節を通じて皇帝から賜った黄旛(皇帝旗。「錦の御幡」)を指すらしい。 (出雲人の伝承) とても簡単な稼ぐことができるホームページ 念のためにのせておきます 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 30I >>502 ->>504 なんだか迫力ありますね、出雲の伝承ですよね? 欽明朝から天智・天武朝あたりまではどういう伝承になってるのかも是非聞きたいです! 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加賀志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社である。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加賀志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性が非常に高い。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 天孫本紀には物部多遅麻の子には印葉という子がおり、その弟に伊与という人がいるとしています。 でも日本の苗字7000傑にある物部氏系図には伊与の名がなく代わりに阿佐利という人がいて、風早氏祖と書かれています。 伊予国には風早国造が居たそうですが、物部伊与=物部阿佐利という理解で良いのでしょうか? >>528 >伊予国には風早国造が居たそうですが、物部伊与=物部阿佐利という理解で良いのでしょうか? 「忌部はん」が全国に散っていったんだから、無きにしも非ず。 後世の氏姓の大元は渡来系以外はすべて「忌部はん」 @阿波 >>531 君は高貴な存在だよ。家来になりたいよ。 京都の五塚原古墳 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3 「古墳時代最初期の3世紀中葉-後半頃の築造と推定される[3]。 向日丘陵の首長墓群では最古になる[4]。墳丘の「斜路状平坦面」は箸墓古墳(奈良県桜井市、一説に卑弥呼の墓)と共通する古い形式であるほか、 前方部の形状は東田大塚古墳(奈良県桜井市、箸墓古墳と同時期か)と一致する[8][3]。」 被葬者は誰であろうか。ごく普通に考えて山代国造、山代県主の類であろう。 ならば候補者がいる。 先代旧事本紀・巻第五「天孫本紀」に出てくる山代県主の祖・長溝(ながみぞ)である。 崇神の叔父である伊香色雄命の義理父にあたる。 同じく箸墓との関連が言われる大阪・交野の森古墳群の雷塚古墳。 被葬者は誰であろうか。 候補者がいる。 天孫本紀に交野連と書かれてる多弁宿祢命(たべのすくね)である。 伊香色雄命の子である。 ここにきて箸墓と強く関連する二つの古墳の被葬者候補に伊香色雄命を軸とする二人の人物が浮かび上がってきた。 箸墓古墳とは伊香色雄命の墓ではないだろうか。 彼が磯城の王であったことは姉のイカガノシコメと「ヒメヒコ」を形成してることでも明らか。 そのイカガノシコメから産まれたのが崇神。 崇神墓を古事記の記述から行灯山古墳として、叔父で磯城の王であった伊香色雄命が崇神より巨大な墓を造ってたとしても不思議ではない。 このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。 >>536 >このように先代旧事本紀は考古学と整合するのである。 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加賀志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社である。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加賀志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性が非常に高い。 @阿波 伊加賀志(いかがし)神社 http://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ 旧辞本紀は何でも物部の系譜にしちゃうから忌部も当然のように物部の一部みたいにしちゃってるのかもね。 >>538 >旧辞本紀は何でも物部の系譜にしちゃうから忌部も当然のように物部の一部みたいにしちゃってるのかもね。 そりゃ、真逆だよ。 ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。 忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>19 >饒速日命(物部氏の祖)は天皇家より早く大和地方に進出してた >もう一つの天孫一族・・・・・・・・・・・ 天孫族饒速日を国津神大己貴の8世孫という系図『因幡國伊福部臣古志系圖』を 延暦3年(784年)に作成した伊福部臣富成は、そのようには見做していなかった。 8世紀後葉当時の因幡國では、饒速日は天孫族とは見做されていなかったと 云うことか? 「因幡国伊福部臣古志系図」 http://mononobe.webcrow.jp/siryou/ihukub.html 物部氏 とは 物部守屋は 秦河勝に くびをきられた 八尾太子堂に 墓?がある ニギヤハヒ 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊 の 子孫 すなわち アマテラス 土地をとられ 命も 子供も ころされた かわいそうな 運命だ インカ といいマヤ といい 先住民はくちくされるのか? ただし 物部氏は 天高原から おりたった シュメールの人 だった アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>541 天火明命=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と伝承する丹後籠神社の 主張と違い饒速日命は、ニニギの兄の天火明命と同一人物ではないと いう説ですね? 221日本@名無史さん2018/11/15(木) 09:06:54.90 ・・・・新撰姓氏録でも、饒速日の後胤の物部氏は、天孫ではなく、ただの天神とされている。 天火明≠饒速日とされている。 神武・倭国の連合東遷説 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535685239/221- ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>500 この物部氏の遠賀川から大和盆地東遷説ですか? 九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ 九州北部の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ち・・・・・ 【もう一つの日本】物部氏1/4 もう一つの天孫降臨 2010-02-14 ttp://kojiyamanet.hateblo.jp/entry/2010/02/14/%25e3%2580%2590%25e3%2582%2582%25e3%2581%2586%25e4%25b8%2580%25e3%2581%25a4%25e3%2581%25ae%25e6%2597%25a5%25e6%259c%25ac%25e3%2580%2591%25e7%2589%25a9%25e9%2583%25a8%25e6%25b0%258f14%25e3%2580%2580%25e3 >>538 橘氏=楠氏も、物部氏後裔ですか? 838 :日本@名無史さん:2013/05/13(月) 16:00:13.93 >>837 物部って後の橘氏=楠氏だよね。 出雲国譲り・ニニギ降臨〜神武東征〜崇神治世★4 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1362647012/837-838 幼稚園の先生に物部さんと言う苗字の人がいたな。家も結構近くで古めかしい家だった。 日ユ同祖論をややこしくしているのは、丹後丹波とか伊勢志摩とかいう神道の総本山みたいなところが日ユ同祖論の総本山でもあり、物部の総本山でもあるところなんだと思う。 −倭国中枢(北部九州)…「魏志倭人伝」 邪馬台国VS狗奴国=曹魏vs孫呉の代理戦争勃発(「孫」呉は狗奴国後背地・宮崎へ「天孫降臨」で後方支援) →曹魏、帯方郡の張政を派遣→神武東征(敵前逃亡)狗奴国滅亡→邪馬台国勝利するも、台与で断絶→崇神の四道将軍に降伏、ヤマト王権の配下へ −辺境地域(本州/出雲・吉備・大和)…「古事記&日本書紀」 出雲(朝鮮半島から青銅・鉄?の輸入販売)&吉備(瀬戸内海の塩・桃販売)の混血王・大物主が、東海と共に唐古鍵を挟み撃ちにして征服、ヤマト王権樹立(纏向型前方後円墳) →饒速日(神武東征)→物部氏として臣下へ→崇神、四道将軍を派遣し、邪馬台国を併合、全国統一 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる