源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは
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>>336
いいから、話題そらしやめろ。
お前、マジで史料読んだことないんだな。
平家物語読んで来い。
文脈が分かるよ。 >>337
反論できないとバカとはな。
これで頼朝尾張生まれの同時代史料が見つかったな。
お前も反論したいならまともに史料探せ。 >>332
だから、その程度の事知らんわけねーだろ
平治物語は玉葉愚管沙レベルの資料なのかい?
ただの軍記だろw 源氏の大将ならまだ義光一派が継ぐ可能性もあったし義賢なんかも
ライバル候補だけど?
義仲が挙兵したのも源氏の大将としてでなかった?
ちょっとその平家物語りが書かれた年代を疑った方がいいね 事実、冨士川の戦いで平氏を破ったのは甲斐源氏(武田諸氏)単独の力だって分かってる?
そのあと頼朝についたが勢力争いを受けて宗家は遠征軍により滅んでる >>340
少なくとも時代は近いわな。
で、お前の言う額田冠者というのは玉葉愚管沙に出てくんの? >>340
あと季範が三河国額田に住んでいたという記述も
玉葉愚管沙からの抜き出し頼む。 >>340
お前がこの程度のことでも知っていたら>>315みたいな恥ずかしい書き込みドヤ顔でしないだろw
無知、乙。 >額田冠者
尊卑文脈
そういや平治物語だと季範が熱田季範と記載されているんだよな
適当にも程があるw 武田忠頼が頼朝に殺されたから石和信光が武田継ぐことになったんだよな >>346
尊卑文脈って何だよw
尊卑分脈ね。
あれは室町時代成立。
同時代史料ではない。
藤原道長の娘が源高明の妻になっていたり、
平安時代のことはかなり不明瞭、適当にも程があるw 346
そりゃまた別の話
現在のあれやこれやはそういった資料を元にしてないか?
本当に子孫か戦国時代の下剋へてるから分からないけどな 348
古文が古くなると転写するから原本はあったんじゃねえの? >>348
漢字にうるさい奴だな、ここはつーチャンネルだよ
ダサい奴めw
平治物語 入浴中に襲撃を受けて殺害された
愚管抄 義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害した
これも愚管抄が正しいだろうな、所詮はただの軍記だからw
何故自演が知っていたのか?
真福寺(愛知県岡崎市)に、鎌田政清の兄貴(大無房)がいて、遺体を引き取り、真福寺に葬った
(現在も墓は旧大善院の谷にある)
真福寺は天台宗な
平治物語はただの軍記w 尊卑分脈を否定するなら、今後日本史などウリナラファンタジーでいいんじゃね?w >>346
季範は熱田大神宮宮司なのだから熱田季範で何も問題ない。
馬鹿じゃね?
逆にお前の主張する額田表記がどこにもないんじゃねーの >>352
逆切れする三河馬鹿w
尊卑分脈がいつ成立したかも知らなかった
とんでもない無知であることを露呈したなあ
玉葉愚管抄レベルの書物に何度もはっきりと書いてあるんじゃなかったのー?
今後、三河馬鹿の書き込みはウリナラファンタジーでいいってことですね。 熱田季範なんて平治物語しか出てこねーよw
作者は熱田神宮→熱田→熱田季範(キリ なんだろw
所詮は軍記だからw
>額田表記
だから尊卑文脈と言っているだろ
尊卑文脈は適当(キリ と言われれば、そーですかと言うしかないw >尊卑分脈がいつ成立したかも知らなかった
知らんわけねーだろw
尊卑文脈は適当(キリ と言われれば、もはやそーですかと言うしかないw 頼朝でしょ、
幕府の創始者。帰化人朝廷?から歴史上邪馬台国以来、日本人に政治を持ってきた。 >>350
それを言い出したら江戸時代成立の尾張誌にだって
当然参考にした原本はあるだろ
しかし同時代一次史料でなければ信憑性は薄いわけだ
三河馬鹿は後世史料を完全否定して
同時代一次史料である玉葉愚管抄レベル以外信用できないといっておきながら
自分のほうは後世史料である尊卑分脈を出してきてドヤ顔してるから馬鹿だといってるの
尊卑分脈なんて間違いだらけだし一次史料でもなんでもない すまんすまん、熱田季範は保元物語だったわw
保元の乱はいいが、季範は1155年に死んでいるんですけどw
いずれにせよ軍記は適当だなw >>361
じゃあ熱田季範にしておけw
熱田大宮司だから熱田季範は正しい、尊卑文脈は適当、額田冠者は間違い(キリ
これでいけw >>361
熱田大宮司だから熱田季範は正しい(キリ
額田冠者は間違い(キリ、尊卑文脈は適当(キリ、間違いだらけだし一次史料でもなんでもない(キリ
東大京大学習院に乗り込んで、主張してこいw
俺はお前を支持するw お前に指示されてもうれしくないだろうことは文脈で分かる(・ω・)ノ >>365
心配しなくても東大京大学習院の教授は尊卑分脈を一次史料だなんて言ってないからw
そんなこと言ってるのは尊卑「文脈」だといって聞かない三河馬鹿だけ 三河バカ
反論まだぁ〜w
藤姓熱田大宮司は昔から尾張だと
熱田神宮が昔から今までも
断言しているのだが
本貫も氏寺も尾張熱田だと
断言しているのだが
熱田神宮にある最古の文献の熱田神宮史を
もとに断言しているのだが
反論まだあ〜w >>367
自演は慈円の間違いだろはまだかよw
ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだ
ダサい奴めw >>368
本貫ってこれの事?w
全部三河でんがなw
千秋 三河国設楽郡千秋
野田 三河国設楽郡野田
星野 三河国宝飯郡星野
一宮 三河国宝飯郡一宮
萩 三河国宝飯郡萩
篠田 三河国宝飯郡篠田
長山 三河国宝飯郡長山 >>369
>自演は慈円の間違いだろはまだかよw
三河馬鹿がとうとう壊れたなw
このスレのどこにそんなことが書いてあるんだよ ハイどうぞw
頭の悪い奴めw
351 日本@名無史さん 2014/06/18(水) 16:53:52.12
>>348
漢字にうるさい奴だな、ここはつーチャンネルだよ
ダサい奴めw
平治物語 入浴中に襲撃を受けて殺害された
愚管抄 義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害した
これも愚管抄が正しいだろうな、所詮はただの軍記だからw
何故自演が知っていたのか?
真福寺(愛知県岡崎市)に、鎌田政清の兄貴(大無房)がいて、遺体を引き取り、真福寺に葬った
(現在も墓は旧大善院の谷にある)
真福寺は天台宗な
平治物語はただの軍記w しかしアレだな
頼朝の幡屋武者王は、いかにも嘘くせーなw >>372
>何故自演が知っていたのか?
そんなもん自分で書いた三河馬鹿ぐらいしか覚えてねーわw 恐らく、新聞を墨から墨まで読んで、誤字脱字を指摘するのが趣味のくだらない奴なんだろうが
それすら出来ない奴だったかw
頭の悪いゴミめ >>375
このスレで分かったことは三河馬鹿が
頭の悪いゴミだということだけだよ >新聞を墨から墨まで読んで
隅から隅までの間違いだろの指摘はどーした?w
ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだと言っただろ
頭の働かないダサい奴め
369 :日本@名無史さん:2014/06/19(木) 05:14:50.61
>>367
自演は慈円の間違いだろはまだかよw
ここはあえて釣られてやるのがつーちゃんねるだ
ダサい奴めw ■真福寺(愛知県岡崎市)
推古天皇二年(西暦594年)物部の守屋の次男真福が山の頂きより霊光かがやき端雲たなびくをみて不思議に思い訪れたところ、
滾々と湧き出る泉を発見した。しばしたたずんでおられた真福は日頃信仰しておられた薬師如来が水中より顕れ出られ、
(是好良薬今留在此)と誦して再び泉の中に姿を消された。
これを目の当たりにして非常に感激し末代まで伝えようとして本堂を建立したのが真福寺の始まりである。鎌倉時代には最も栄え、36坊の末寺を有した。現在は、身体健康と目のお薬師様として愛知県下はもとより全国より多くの信仰を集めています。
■名 称 霊鷲山降劒院真福寺
■建 立 聖徳太子建立 三河国最古寺院
■本願施主 物部の大将守屋の次男 真福
■国宝なし
■重要文化財 木造慈恵大師坐像
どうよ尾張ザル関東ザルたちよ
これが滝山寺とともに三河が日本史を築いた証だ
これが三河ネットワークの凄さだ
関東には聖徳太子建立なんて
こんな凄い古刹はないだろ
ダサいや奴めw 頼朝からすれば足利は家人の一人でしかないし
家康は頼朝の真似っこに必死だったし
ぶっちぎりで頼朝だろ
敵じゃないね >>372>>378
そんなに自慢したい
飛鳥時代から続くオラが岡崎村の寺なのに
坐像一体だけ重文指定なんだな
江戸初期に一部消失したとは言え
寺伝やら古文書の類はファンタジーなのね
滝山寺と一緒だなw まぁアレだ
パゴヤの頼朝=旗屋武者王には負ける(笑)w ■三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流、本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(実父は季範長男の範忠)→足利義兼→足利義氏(三河守護)
11世紀
・1044年、藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・1060年、藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が、私領を三河国碧海郡志貴荘として立券する、知行は保相→資良(保相の息)→惟信(資良の息)→惟信の娘(平信範の母)が伝領した
・1062年、藤原実範(三河守、藤原季兼(三河四郎大夫)の父)が死去する
・季兼(三河四郎大夫)は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り、三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着する
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券し、甥(高橋惟康)を領主に据える
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼(三河四郎大夫)は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を 支配下におく
・1076年、藤原季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)が三河守になる
・同時期、季綱(三河守、季兼(三河四郎大夫)の弟)が、鳥羽の別邸を白川院に献上する(後に
鳥羽殿)
・季範(三河四郎大夫)は、藤原資良(父は藤原保相(季兼(三河四郎大夫)の祖父の兄)が尾張守になり、尾張目代を務める(死ぬまで、息子と共に三河に住みながら尾張目代を務めた)
・1084年、藤原顕季が尾張守になる
・季兼(三河四郎大夫)は、松御前(尾張員職の娘)と結婚し、1090年、藤原季範(額田冠者)が生まれる
・1099年、藤原長実(美福門院父)が尾張守になる 12世紀
・1101年、季兼(三河四郎大夫)が死去する
・1114年、藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が三河守になる
・1114年、季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←大宮司職を乗っ取られる(笑)
・1130年、季兼(三河四郎大夫)室の松御前(尾張員職の娘)が、三河国設楽郡(愛知県新城市稲木)で死去する(城ヶ峰(愛知県新城市)の山頂に墓あり)
・1136年、藤原顕長(父は藤原顕頼(母は季綱(季兼(三河四郎大夫)の弟)の娘、季範(額田冠者)の従兄弟)が 三河守になる
・1137年、季範(額田冠者)は、神のお告げで大宮司職を五男範雅に譲る
・1137年、鳥羽院が、鳥羽殿内に安楽寿院を創建する
・1140年、季範(額田冠者)が、滝山寺内(三河国額田郡)に、夫婦で蓮華寺造営、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷(愛知県岡崎市米河内)を寄進する
・1142年、源義国が、足利荘を安楽寿院に寄進する
・季範(額田冠者)の娘(由良御前)が源義朝の正室になり、1147年、源頼朝が生まれる
・季範(額田冠者)の娘(養女(実父は季範長男))が源義康の正室になり、1154年、足利義兼が生まれる
・1155年、季範(額田冠者)、源義国が死去する
・1157年、源義康が死去する
・1159年、由良御前が死去する
・1160年、源義朝が謀殺される
・1168年頃、三河国碧海郡碧海荘が立券され、鳥羽院に寄進される(寄進者は藤原範忠か?)
・1185年、源頼朝が幕府を開く
・1199年、源頼朝、足利義兼が死去する
13世紀
・1219年、源実朝が暗殺され、1221年、承久の乱で三河の藤姓熱田大宮司家の所領が没収されると、足利義氏が縁故者として三河の権益を継承する ←足利王国の誕生 尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。
長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』) >>381
武力だけなら尊氏だろ。頼朝は政治力の勝利だ。 >>385
三河岡崎バカって
藤姓熱田神宮の反論は結局何〜にも出来ないのねw
次は真福寺と滝山寺の反論まだぁ〜w >尾張国造
国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
ダサいダサ過ぎるw 畿内の河内やら古代からの優れた地方豪族である尾張氏や毛野氏
頼朝も尊氏とも接点も多い
残念なことにそのころの三河は土人と獣の動物天国
やっと鎌倉時代になって足利家の植民地となって人が住むようになった >尾張氏(関西人)
国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
ダサいダサ過ぎるw >>392
てか
その頃は三河って名前や岡崎って名前なんか無かったよ
単なる原っぱ 何でもいいが、パゴヤは出入り禁止なw
源頼朝、足利尊氏、徳川家康とパゴヤは関係ねーからw
何回も言わせんな、パゴヤ 歴史なんてタイミングと偶然がほとんどだろ
みんなそれぞれ違う時代に同じ環境で生きてたら
多分誰も何も出来ずに終わるだろう >>393
出雲もだろ
丹波の出雲氏が移住して来て国の名になった 歴代江戸幕府将軍の格付け
S 徳川家康
A 徳川家光
B 徳川綱吉、徳川吉宗、徳川慶喜
C 徳川秀忠、徳川家綱、徳川家宣、徳川家治
D 徳川家斉、徳川家慶、徳川家茂
E 徳川家継、徳川家重、徳川家定 >>397
そりゃその通りだ。(・_・)
個人が優れているから、英雄になるわけじゃない。
生まれた場所、時代、身分、全てがマッチしたからこそ、英雄になれる。(・_・) >>401
ほんと最近思うけど運命って決まってるんだって思うよ
日本史上最悪な時代は第二次大戦
あの時代に生まれたらどうしようもないわw >>396 >>397 >>399 >>401 関が原スレでは家康の兵は弱兵で意見が一致。 三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』) >>404
『甲陽軍鑑』は徳川時代になって書かれた可能性が高いから、
そこの三河賛美を素朴に認めるわけにはいかんよ。(・_・) この3人より恵まれた環境で、天下とれなかった奴はカス 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw >>393
>国名が、他国の地名の他国人由来は尾張だけ
>大和国葛城郡高尾張の尾張氏が移住して来て、国名が尾張になる
お前、バカ丸しで出イタすぎる 頭の悪いニートの三河馬鹿が暴れ出したな
で、源頼朝の母方を辿ると古代豪族・尾張氏になるという事実は
いい加減理解できたのかね?
ニート君 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 頼朝、尊氏、家康
仕えるなら尊氏がいい
アタフタしたい 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 三河馬鹿って足利尊氏が三河生まれとか言ってる馬鹿だろw 頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 出現に於いて最も重要なのは国司から実権を剥ぎ取り始めた頼朝だが
結果に於いて最も重要なのは国司から実権を剥ぎ取りきった家康 三河馬鹿って足利尊氏が三河生まれとか言ってる馬鹿だろw 家康の頃は、国司は名義だけで実態が消滅してるだろう。 足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著)
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51D3SU0yeaL._SL500_.jpg
足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。 1310年頃に三河にいた事が確認できる頼重だが、それ以前の1305年頃からいれば、当然生誕地は三河と言う事になる
■上杉氏
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 元暦二年六月大十六日丁卯。典膳大夫。近藤七等爲關東御使。帶 院宣。巡檢畿内近國。成敗土民訴訟。然間。當時其誤不聞。二品内々被感仰之處。尾張國有玉井四郎助重云者。本自爲先猛悪。
令懷諸人愁之由謳歌。近日殊又有違 勅之科。仍件兩人爲尋沙汰。雖遣召文敢不應。還及謗言。于時久經等言上子細之間。爲俊兼奉行。今日被仰助重云。違背 綸命之上者。不可住日域。依令忽緒關東。不可參鎌倉。早可逐電云々 かりに頼朝の血筋が100年後まで続いていたら
子孫の男子は少なくとも数百人に達していただろうから
そのときには足利氏は源氏でも末流扱いだろう 日本史は、清盛登場から足利義満が死ぬまでが一番おもしろいな >一番おもしろいな
頭の悪い田舎者の間抜けレス晒しアゲw
156 :日本@名無史さん:2014/01/26(日) 16:45:54.57
>>147
尾張氏の祖先が大和国葛城郡高尾張の尾張氏ならますます三河は関係ないじゃん
頼朝・尊氏の母系のルーツは大和国葛城郡高尾張でどのみち三河じゃない
>>150
藤原季兼はキ生まれ都育ちで後白河法皇の今様仲間だったんだが
そいつが三河国司になって転勤してきたからって
季兼=三河人という初歩的前提が無茶苦茶
で、季兼が尾張氏の娘に手を付けて生まれた季範は三河人とかw
ちなみに藤原季兼は備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
>備後守なんかもやってんだよね。
だよねじゃねーつーのw 東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
上方武士は、歩の頸を一つ取りは、侍の頸を十も取りたるやうに、針ほどの事を棒程に過言を申と、山本勘助が話を聞き候如くあるべきなり。
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
三河は武篇の国なる故、五千あらば上方の二万にかけあひ申べく候。(中略)三方ヶ原御合戦に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕らざるは一人もなく候。
たけき武篇の家、和朝に上杉謙信・徳川家康なり。
(『甲陽軍鑑』) >>400
家光の評価が異常に高いけどさ、これは忠臣・松平伊豆守のおかげだよ。
家光自身は凡庸で弟の方が優秀だったというのは定説だからね。 http://hideyo-noguchi-mri.com/council
あの神の手、福島孝徳脳外科医も野口英世支持者だ
http://m2.upup.be/j3GS6yJ1hv
野口英世と大隈重信
http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr
野口英世と東郷平八郎
http://m2.upup.be/qH7YjpjAGW
日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影)
野口英世
学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
受賞歴
1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス) スレタイの「源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは?」
この3名、歴史的に重要じゃなかった人物だと思いますよ。 >>432
同じ戦力で正面から戦をすれば
尊氏>家康>>>頼朝 頼朝はまともな戦力で戦った時は以外と強い。
対佐竹 勝利
対奥州 勝利
負けた時は戦力的に問題外過ぎ
平治 敵三千以上 自軍 八百(しかもうち三百は途中で敵に寝返り)
石橋山 敵三千、味方三百 源頼朝は大阪の天皇の分家の源氏で
摂津国の源氏を祖とする河内の源氏 >>431
頼朝≒泰時
尊氏<義満
家康(やはり徳川15代では飛び抜けた存在) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています