源頼朝、足利尊氏、徳川家康の中で最も重要なのは
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>・滝山寺/足利宗家の氏寺
>藤原季範(額田冠者(三河国額田郡
虚言妄言のオンパレード王者では
三河の徳川家康と三河岡崎じじぃが一番 >>43
嘘つき三河狸がほとんど無関係な寺社ばかりあげて
42クラスの寺社をあげられない馬鹿だということは分かったよ
脳なしなので話題そらしているが42がきいているのは
42クラスの寺社が三河にあるのか、ということ
で、ないのが事実
無能なコピペを毎日繰り返すニート三河狸。 >>40
>滝山寺/足利宗家の氏寺 ×
空気を吐くように嘘ばかりつくなよw
滝山寺は三河土着の足利一門の氏寺 ○
足利宗家の氏寺は鑁阿寺や等持寺
岡崎三河に足利宗家は存在しない
滝山寺は足利宗家じゃねーぞw
足利一門の氏寺だろw 滝山寺
・正しい家時の没年を記載
鑁阿寺
・家時の位牌の没年を間違える(笑)
何で間違えたかと言うと、法要を鑁阿寺でやっていないからだろ
間違えを指摘する関係者すらいなかったとか笑い殺すつもりか?w そういえば鑁阿寺って国宝なんだな
地元の高校生の喫煙スポットなんだが火事にはなってないな
てか韓国窃盗団に盗まれた仏像とか、日本て国宝のセキュリティが
世界に例のないくらい甘いな 滝山寺(愛知県岡崎市滝町山籠107)
・創建:伝・天武天皇時代(673年 - 686年)
・開基:伝・役小角
1220年代〜1330年代まで
【1222年】足利義氏(3代目足利氏当主)、滝山寺本堂(3度目)を建替える
【1226年】大平惟行(高階惟行)、大谷惟伴(坂上惟伴)と連署で、額田郡阿智波郷名越(愛知県岡崎市阿知波)の田地8反を惣持禅院に寄進する
【1229年】大平惟行(高階惟行)、常行堂の造営にあたり娘と一緒に大檀那となり、足利義氏に相談してこの堂へ料田3町8段を寄進する
【1230年代】藤原俊経(藤原俊継の父)持仏堂を造営、古市場御油畠(愛知県豊田市古市場)を寄進する
【1233年】足利義氏(3代目足利氏当主)、舞童装束などの調進のため150貫文を奉加する
【1238年】藤原俊経(藤原俊継の父)、京都東山一切経の谷で死去する
【1240年代】大谷惟伴(坂上惟伴)、持仏堂(延福寺)を造営する
【1244年】】大谷惟伴(坂上惟伴)、死去する
【1254年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
【1254年】足利義氏(3代目足利氏当主)、死去する 【1255年】藤原俊継、故足利義氏の法華堂(宝幢寺)造営し、藤原俊継は田畠3町3段、足利家氏は壁海郡碧海荘の青野の田2町、宇祢部の畠1町2段を寄進する
【1257年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、一切経蔵を造営する、足利頼氏(5代目足利氏当主)、一切経蔵の経会料所として、額田郡阿知波郷(愛知県岡崎市阿知波)を寄進する
【1261年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、山王社の宝殿を改築する
【1263年】大平惟行(高階惟行)、死去する
【1274年】藤原俊継、鎌倉で死去する
【1283年】増恵(藤原俊継の従兄弟)、鎌倉滞在中に死去する
【1284年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、故足利家時(6代目足利氏当主)追善の如法堂を造営する 14世紀
【1301年】足利貞氏(7代目足利氏当主)、家時17回忌、如法堂に額田郡上村の田3反と正観坊跡大門屋敷を寄進する、同時期、熱田大宮司家ゆかりの蓮華寺へ願文を奉納する
【1335年】足利尊氏(8代目足利氏当主)、中先代の乱で足利直義と三河で合流、滝山寺に千寿王と赤橋登子を預ける
【1330年代】輔阿闍梨貞円(高師泰・高師直の弟)、滝山寺に入山 徳川家は新田源氏を祖ですと愛知県三河岡崎市
↓
それを知った群馬県太田市がそれでは徳川家の発祥地は太田市新田ですねと告知
↓
それを知った岡崎市が太田市新田は発祥の地ではありませんと怒り新党
今だに出目がフラつく得体知れずの徳川がすごい
足利氏や源氏は得体が知れていてつまらん 源頼朝はS体質で恐怖政治で失敗
足利尊氏は乱交プレー体質で幻想政治で失敗
徳川家康はM体質で忍耐政治で成功
よって足利尊氏の圧勝 足利氏は三河守護になって所領を持ち、一族が三河に移り住んだ
これは間違い
承久の変で京方についた、三河の藤姓熱田大宮司家の所領が幕府に没収され、縁故者の足利氏に給されて、一族が移り住んだ
三河守護になるならないは関係無し >>56
正解
三河バカがコピしている尾張熱田大宮司が三河の藤姓熱田大宮司家に
怠慢や諸問題で職を手放し譲渡したかのように捏造拡散しているが大きな間違い
そもそも藤姓熱田大宮司家は神官職についてからは
神宮という職務がら(武家や公家とは違う)本貫を尾張に変更
当然、氏寺も三河バカが捏造寺伝書を拡散する
滝山寺ではなく尾張にある >>53
そりゃそうだ。wikiにすら古事記坊主と書かれてるレベルの出自だからなww
チカウジなんて出生地すらわからん人間やからなあ ただ、新田庄世良田得川なんて単に自称しただけで円もゆかりもないだろ 義国流の三河と下野への関わりはタイムラグは無い
しっかり下野に土着していないから、三河と下野を比べた場合、三河を選ぶわな
鎌倉殿にも繋がる三河の人脈は華やかだからw
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条 義氏が三河守護になって、三河にやってきた時、範頼の息子も坊さんで三河にいたんだよな
吉見氏が、室町幕府の幹部として優遇されたのも、全部三河繋がり
これが中世〜近世、日本を支配した三河ネットワークですわ
吉見氏
■正法寺(愛知県豊川市赤坂町西裏69)
創建年:弘仁7年(816年)
開基:万巻上人
中興:了信坊(源範円)
・源義朝→源範頼(三河守)→源範円(正法寺(愛知県豊川市)僧侶)→源為頼(初代吉見氏、室は小山朝政の娘)
正法寺の創建は聖徳太子が赤坂の地を訪れた際、太子堂を建立したことが始まりと伝えられている
弘仁7年(816)、万巻上人が病により太子堂で亡くなったことから、上人を開基と定め寺院として開山する
当初は天台宗の寺院でしたが貞永元年(1232)に親鸞が太子堂の参拝に訪れた際、当時の住職範円(源範頼の子息)が親鸞に教化され浄土真宗に改宗する >>53
徳川家の前身の松平家の発祥地は、三河国の松平。 >>62
松平という家は三川の糞山奥にあるが、
初代親氏は別に三河出身でないどころか出自も出身地すら得たいしれないから世良田得川を称したんだろ
松平時自体が問題じゃなく、その松平家を婿養子とは名ばかりの乗っ取りした親氏自体が徳川家の祖なんだから、
現実的にいや遺伝的発祥はどっちもかんけいない 徳川家康って最初は藤原氏の末裔を名乗っていたんじゃねえ?
ってことはハイブリット家系???
凄いじゃんwwww 途中から本姓を変えるなんて当時はよくあることで、
正直別にすごくない。 少なくとも指導者の資質としては尊氏は後の二人より明らかに落ちるな。
「いい人」であることは幕府の指導者としての資質としては必ずしもプラスではない。
やはり、最初に確固とした武家政権を築くのに力のあった頼朝が歴史気的影響としては大だろう。 成り上がり度とプラスアルファ
一位 頼朝 (流人しかも譜代の郎党は実は皆無→武士トップ&公卿、
実は存在しない清和源氏嫡流捏造成功
利害関係がドライな主従関係の時代に御恩と奉公確立)
二位 家康 (一応譜代がいる小土豪→武士のトップ&大臣&孫娘が皇室に嫁ぐ&死後に神格化
奇跡の260年の泰平の基礎)
三位 尊氏 (有力御家人&一門多数&譜代多数&頼朝によってageられた源氏の血筋→将軍
大混乱の時代を勝ち残れたことは評価できるが足利時代は混乱の連続) >>68
譜代は土豪じゃなく山の名かにすんでた山賊崩れじゃん
土豪とは言わない
結局秀吉一門見れば成り上がりは蜂須賀みたいなリアル荒くれ集団従えて力による統治でしょ
松平も山奥の、譜代とかほざく山賊集団従えて平野に降りてきたでしょ
そもそも山奥の山中住みが土豪とか、・・・
秀吉は川並衆みたいな川賊を従えて物流や職人技で他を圧倒し
松平は生粋の山賊上がりを従えて東海を圧倒した
土豪なんて後ずけの正当化だよ >>68
清和源氏嫡流は当時決まっていなかったとはいえ
頼朝の父・祖父は保元の乱に勝利して嫡流の座を武力で奪い取ってきたのだし
頼朝はその嫡子なのだから捏造といえるほどでもないよ
家康の捏造のほうが酷いだろ
そもそも清和源氏の血を引いていないのだから >>69
家康の先祖の出身には色々ありそうだけど
家康の頃には先祖の代からの家臣というかお仲間がいたでしょ?
(麗しの主従関係は後付けの話で実際は裏切りでもなんでもありのドロドロしたもんだと思うけど
) >>70
義朝敗北、頼朝流刑の時点で勝ち取ったものは全てチャラ。 ちなみに頼朝挙兵の少し前の時点では
八条院側近で公卿の頼政の立場や地位のほうが上だし
保元平治の頃の各源氏も義朝やその所属勢力の同盟者であって
義朝の支配下にはいない。 >>68
頼朝の兄弟皆殺し見れば納得するわ
嘘で塗り固めて成り上がった張りぼてが見事に行動と心境に写し出されてるからな
まあ頼朝自体も担ぎ上げられただけのそこらの馬の骨だから暗殺されたわけだ 三河の源頼朝がつき、三河の足利尊氏がこね、三河の徳川家康とやらが食った天下餅か?w
家康とやらは、源氏が構築した三河ネットワークに、ただ乗りしただけだな
三河の王以外が、天下を取れた可能性はゼロだわな 天皇家だろうが公家だろうが家格の高い武家だろうが
正当な嫡流がスンナリ収まるってことは平安末期〜戦国の中世では寧ろ希
けど家康の場合は捏造して三河と近辺に源氏捏造古文書や寺伝書やら創作して
吾妻鏡やら中世文献を都合よく箇所箇所、編纂させ
近江や相模・武蔵・伊豆から源氏ゆかりの仏像やら武具やらを三河に奪取させて
三河源氏ファンタジーを造った努力の人
だから三河岡崎の縁起・由緒が分かる重要な手がかりである古文書で
国宝級重要文化財級はもとより
愛知県指定の重要文化財級の古文書は一切ないのは当然www >>72
チャラになってないよ。
その証拠に、平家打倒を呼びかけた以仁王は諸国源氏に放棄を呼びかけ、
頼朝にも挙兵を命じる令旨を送っている。
チャラになっていたなら、挙兵できるはずもない流人の頼朝にそんなの送らないよね。
武家源氏の嫡流として平家さえ弱ればいつでも挙兵できると思っているからそんなものを送るわけで。
平家と不和をきたした後白河法皇自体、頼朝の流刑を解いて平家追討の院宣を与えている。
勿論、頼朝がすべてチャラになった庶民以下の罪人ならこんな院宣与えない。 >>77
まず令旨は頼朝にだけ出されたものではない。
近江、美濃、尾張、甲斐、義仲などの諸源氏(ちなみに義仲な倶利伽羅峠まで都では無名な存在)、八条院支配下にある藤原系武士(小山氏)などにも出されている。
頼朝はその中の一人に過ぎない。(伊豆知行主頼政に近い伊豆国人からの推挙か)
数打ちゃ当たるの中のどさくさで出されたうちの一人で、差ほど期待されていたかも不明。
ちなみ後白河院が令旨と同時に赦免したとか院宣出したというのは後の結果を知ってるフィクション「平家物語」だけの内容。
頼朝が赦免されたのは挙兵から三年後の1183年に出された「十月宣旨」の時でそれまでは都では罪人扱い。 75
足利の植民地がなんかいってんの?
三河幻想っていつからかね〜 その藤原ってのがいつから定着したかが謎なんだよな〜 源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家の親戚として三河に拠点を設けましたが?
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘→足利義兼→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
・女子(源師経室、師経の伯母は待賢門院女房、姉妹は待賢門院官女、上西門院乳母一条 何回言っても理解できないクルクルパーだなw
足利氏は三河守護になって所領を持ち、一族が三河に移り住んだ
これは間違い
承久の変で京方についた、三河の藤姓熱田大宮司家の所領が幕府に没収され、その所領が縁故者である足利氏に給されて、一族が移り住んだ >>78
だから、完全チャラになっていたならそもそも頼朝に令旨が届かないでしょ
絶対に挙兵できない相手になんで手間もお金もかかるのに
使者使ってそんなもん送るんだよ
送った以上は挙兵を期待していたはずなのに
それに源氏の多くは平治の乱で敗れて流人や乳母に隠されて養育されていた
そんな状態からでも挙兵できたのは
やはり清和源氏が平家に並ぶ武の血筋だったからに他ならない >>83
憶測激しいわ
仮に源氏の血筋が根拠と言うなら、その血筋を流用して使用したのが後の頼朝だろうな
だから兄弟に情どころかいつタマとられるか気が気でなく、暴挙に出たあげく自分も消されたんだろう >>83
頼朝挙兵成功の理由の要因は東国武士同士の対立に上手く乗ったことなんだよな。
東国武士の平家方豪族に圧迫されていた非平家方豪族をやっつけたい、
その為には反平家の旗頭が欲しい。そこにたまたま頼朝がいただけ。
反平家方豪族は旗頭はそれなりの血筋があって前歴でもいいから官位をもっていて都に人脈があれば
別に源氏でなくても誰でも良かった。
たまたま坂東で令旨をもらっためぼしいのが頼朝しかいなかったのと
頼朝と坂東武士がうまく時流にのっただけ。
ちなみに伊豆の豪族は当初頼政の孫の有綱をかつごうとしたけど
有綱が坂東から逃亡したからピンチヒッターで頼朝を担いだという説がある。
お金と手間に関しては挙兵のスポンサー八条院は大富豪だから問題なし。
味方は多いほどいいからね。 ついでに書くと最終的に勝利したのが頼朝と坂東武士団だから彼らが
反平家の中心勢力だと思われるけど
決してそうだとは言い切れない。
近江や美濃、寺社勢力のほうがむしろ期待されていたと思われる。
事実富士川直後に彼らは挙兵し平家の当初の交戦相手は畿内の勢力だった。 >>83
逆に考えようか。
全盛を誇る平氏と戦うということは
当時の人から見れば狂気の沙汰でしかない。
地位や財産のある人は失いたくないものがあるから挙兵しない。
少なくとも先陣は切れない。
しかし失うものが何もない流人は
自棄を起こせばなんでもできる。
しかも伊豆は頼政の支配下にある。
脅しつけてでも頼朝を挙兵させることができる。
そしてそれを導火線にして反乱の火の手を拡大させる。
成功すれば御の字で成功の果実は頼政が頂く。
失敗したら流人の反乱で処理して口を拭う。
頼朝は導火線の着火点位位の役割で
令旨を出されたじゃないのかな? >>84
>>85
頼朝が源氏の血筋を引いて無くても令旨が届いたのかい?
それをまず考えてみるといいよ >>88
源氏の血をひいてない小山氏(藤原氏)も令旨をもらってますが。 面積最大の八条院領、三河国加茂郡高橋荘・高橋新荘
・立券:藤原季兼(三河四郎大夫)か?
・寄進:藤原季範(額田冠者)か?
・荘司(治承年代):足助重長、長田忠致
藤原季兼(三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝 中央集権に近い政権別
江戸幕府>>>>>>>>鎌倉幕府>>>>>>>>室町幕府
政権樹立後安定させた機関
江戸>>>>>>>>>>鎌倉>>>>>>>>>>>>>>>室町
長きにわたる平和が
各藩の士族の世襲による増加により財政疲弊をおこして
廃藩置県の時に、スムーズに中央集権化がなされたところを
評価するならば 家康が最強
豊臣政権があのまま続いてたら、欧米勢力に植民地化されていたであろう >>87
以仁王の挙兵から探ろうぜ
>>90
徳川の創作物語を平成の世にしつこく語り継ぐお前は悲惨
痴呆板愛知県岡崎スレに逝けw >>89
小山氏は藤原秀郷流の武門の家だろ
もともと兵を揃えた家だよ
頼朝は平治の乱で全くゼロの状態になったというのだから
つまり、百姓以下
百姓もしくはそれ以下に令旨を与えた例を挙げろ >>93
チャラになった=百姓以下とは極端な解釈。
チャラというのは
・義朝以前から積み上げた都の武者としての地位
(といっても武家源氏のトップに立つ棟梁を意味しない)
・義朝が入り込んだ人脈
・それらを背景に従えた利害関係むき出しの東国武士との主従関係
がチャラになったという意味だよ。 >>97
以仁王の挙兵自体が、計画の最中に情報漏れて
バタバタした想定外の出来事だけどね。 >>91
といっても江戸幕府も直轄地以外は各藩が自分たちのやり方で政治していた連邦政府に近いモンだったんじゃない?
鎌倉期は武士は土地を支配する権利だけもってただけ。しかも御家人じゃない武士も多数いたし
朝廷も武士も手出しできない寺社という厄介な存在もいたよね。
室町が一番グダグタという点には異論はない。 >>94
史実で挙兵後、あれだけ多くの家来が従ったってだけで、
「チャラになってない」ってことがわかりそうなもんだが・・・
頼朝は決して唯一の「清和源氏嫡流」でなく、鎌倉幕府を開いたからこそ嫡流になった、
っていう程度なら、それは正しいけど、
「チャラになった」ってのはどう考えても言いすぎ。 >>97
言いたいことはわかったけど
あなたの書き込みは頼朝の下に東国武士が従った理由を
頼朝の血筋のみに求めようとする見方のようにも読み取れたんだよね。
頼朝の先祖と東国武士との間には累代の主従関係があったという見方は最近は否定傾向。
源氏と東国武士との間に利害関係があるうちは主従であるけど
利害関係がなくなると主従関係は抹消される。
都での地位を失い、無力となった1160年時点の頼朝と東国武士との主従関係は完全に消滅(=チャラ)
ただし、東国武士同士の対立が深まり1179年の治承三年の政変で東国での知行国主の交代で
緊張が高まったらかつて都の武者だった頼朝の利用価値が急激に高まった。
この事態は1160年時点では誰も予想できなかった事。
つまり、血筋+時代状況+頼朝の人脈と過去の履歴+頼朝の能力
で頼朝の成功をみるべきで頼朝の血筋のみに成功の要因を見いだすべきではないと言いたい。
(血筋のみに求めようとしていると読み取ったのが誤解ならばお詫びします) なによりでかいのが鎌倉氏(平氏)の娘を嫁にしたことだろ
じゃねえと平氏筋が従う理由がないからな、あとは将門あたりの
失敗が大きいかも
同族で纏まる機会をこいつが潰してるもん|( ̄3 ̄)| つうか京に対する対抗筋だから失敗すればもとから殺されるだけの運命
頼朝公のシャレコウベっていってな|( ̄3 ̄)| まとめといたよ
■源頼朝・足利義兼(2代目足利当主)と三河の藤姓熱田大宮司家
家祖:藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))
☆源頼朝、★足利義兼
藤原実範
・藤原成季
・藤原季綱(三河国司)→@へ
・藤原季重
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→Cへ
・藤原行綱
・興義
・実慶
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(八条院領目録にあり)領主)
@藤原季綱
・藤原友実→Aへ
・藤原実兼→藤原通憲(信西)
・藤原悦子(鳥羽天皇乳母)
・他多数
A藤原友実
・藤原能兼→藤原範季(後白河院近臣、順徳天皇の外祖父、源範頼養父)→Bへ
・女子→源頼政(上西門院に出仕、伊豆守、源三位)
・他多数 B藤原範季
・藤原範時(八条院蔵人)
・藤原範茂(子孫は高倉家(羽林家))
・藤原重子(修明門院、順徳天皇母)→順徳天皇
・藤原範光(養子(実父は藤原範兼)、後鳥羽院近臣)
:藤原範子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母、土御門天皇外祖母)→源在子→土御門天皇
・藤原兼子(養女(実父は藤原範兼)、後鳥羽天皇乳母)
・他多数
C藤原季兼
・藤原季範(蔵人所雑色、初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→Dへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(九条院蔵人、玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女子→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当、初代二階堂氏)
D藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、大宮司、三河国滝山寺大檀那、室は美福門院女房上総)→Eへ
・藤原範信(式部丞、上野介、大宮司(星野大宮司)、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野))→Fへ
・藤原範雅(後白河院上北面、大宮司)→Gへ
・藤原範綱(大学助大夫)
・藤原範智 (法眼、園城寺)→三位局(源実朝御所縫殿別当)
・三河祐範(法橋、三河国滝山寺、園城寺、頼朝伊豆配流時代の支援者)
・粟田口長暹(法眼、三河国滝山寺、仁和寺、守覚法親王近習)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女子(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護) E藤原範忠
・藤原忠季(大宮司、刑部丞、蔵人所雑色)→藤原忠兼(備中守、大宮司)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏、大宮司)
・野田清季(大宮司(野田二郎大宮司)、三河国野田城主、初代野田氏(三河国設楽郡野田))→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(大宮司、室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
・任暁(仁和寺)
★女子→足利義兼(八条院蔵人)→足利義氏(足利氏として初めて三河守護)
F藤原範信
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫、頼朝右大将拝賀先駆)
・藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)
・藤原信綱(駿河守、尾張国海東郡地頭)
・藤原信雅(高松院蔵人)
・藤原憲行
・藤原実豪(延暦寺権僧正)
G藤原範雅
・藤原範高(検非違使、蔵人所、大宮司、藤原範忠に養子入り)
・藤原範経(大宮司) 頼朝が搗き、尊氏が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは家康 >>107
三河のが抜けていないかい?
くだらないセンゴク、家康とやらだけ(今川もか?)は守旧派だったわけだな
上層部を三河武士が占める武家政権を変革する必要はないわけだから >>102
崇徳院の妾、兵衛佐局(皇子垂仁親王の乳母は池禅尼
)は、武衛の親戚の記録があって、三河の藤姓熱田大宮司家出身説があるらしいな
もう一人の妾は三河権守の娘
これも三河ネットワークか?w 頼朝居なくても義仲が決起してただろうし尊氏居なくても
新田が北条倒してただろうし家康居なかったら豊臣が幕末まで
天下握ってただろうから三人とも要らん!! >>112
一番差がつくのは足利と新田
新田が足利に変わるのは無理 >>114
義仲が任官したのは「征夷大将軍」ではなく「征東大将軍」とする説が有力らしい 尾張のドン百姓に政治は無理だわなw
織豊時代(笑)は20年位だっけ?w
日本を統治したとは言えまへんw >>113
新田には運営ノウハウが無さそうだよね
100年くらい幕府中枢から弾かれてたんだろ 当時新田は朽ち果てた地方の源氏一門
兵を挙げるにも100騎くらいしかなかった
源氏嫡流の足利に対して家格も求心力を全く及ばなかったし
新田義貞自身も武将・政治家として評価は低いよね
ただ楠木や北畠と上手く共闘していれば時代は変わったかもしれない >新田
頼朝に嫌われたのがケチの付き始めだねぇ
源氏の名乗りを許されないわ、庶流に次々と独立されるわで踏んだり蹴ったり
途中合流した一族は、義貞が上野陥落させるまでは様子見してたんじゃなかろうか >>113 >>117
北条倒したのは新田だろ
尊氏は都にあって六波羅探題を攻めただけ
まさか、鎌倉攻めを指揮したのは当時4歳の千寿王
千寿王には4歳にして戦のノウハウがあったと? たかが4歳
されど4歳
昭和平成の4歳タラちゃんと比べちゃいけない
それだけ源氏棟梁足利家の嫡男が新田に付く影響は大なんだよ
事実、千寿王が加わったわずか数百騎の軍勢だった新田勢には、
上野・下野・上総・常陸・武蔵の関東各地の足利一族と
源氏一党が続々と集結を始め、その日の夕方には二十万騎に達したわけ >>117
代わりに修正したよ
三河の頼朝(女系優遇、三河の藤姓熱田大宮司家優遇)が搗き、三河の尊氏(源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との縁故で三河守護になれた足利氏)が捏ねし、天下餅、座ったままで食うは三河の家康とやら >>121
に十万騎とか本気で信じてるのか?
全国統一の秀吉の小田原征伐ですらに十万なのに、
本気であの時代に関東だけでに十万集めたとでも思ってるのか?
関東の覇者後北条ですら三万レベルなのに、なんだって?
もう一回いってくれや人数を! そう興奮するなモチつけw
誰もあの時代に二十万騎きっちり揃うわけねーじゃんw
太平記や難太平記や鎌倉の北条方も古文書などに記述はあるが
当時の今川始め、書いた本人達も盛りに盛った数字くらい
理解していたはずw
けど千住王が加わっって新田の軍勢が以上に膨れ上がったのは事実って
ことだ やっぱこういうの聞くと源氏の正体はファンタジー国家からの渡来人じゃないかと疑ってしまうよ、、
実際疑惑はいっぱいあるしさ
盛りにもってよくて二千強を二十万とオオホラつくところはもう皆さんお馴染みの渡来人レベルにだ 戦国は云うに及ばず源氏も平家も似たり寄ったり
その凝縮系が家康三河・三河厨土人ってことだなw 渡来人とやらにどんだけ夢みてるんだ?
日本はもとより物部系の国ですがなあ|( ̄3 ̄)| まあありえるとしたら天皇関係でやたら天神地祇って言葉がでてくるからそれ関係の渡来してきたやつらはいるかもな
半島あたりが過去は先進地帯だのってのは幻想だからあきらめろ 日本人なんか元を糺せばみな渡来人だしww
日本列島で人類が発祥したとでも思ってんの?w >>127物部こそ得たいの知れない渡来系ですがな? 三河の頼朝(女系優遇、三河の藤姓熱田大宮司家優遇)が搗き
三河の尊氏(源頼朝と三河の藤姓熱田大宮司家との縁故で三河守護になれた足利氏)が捏ねし
天下餅
座ったままで食うは三河の家康とやら >>131
そこまで女系優遇だったのならば源氏三代がほろんだら当然に
藤姓熱田大宮司家から次の将軍が迎えられるべきだったのに。
源頼朝じゃなくて三河頼朝、三河尊氏なんでしょ。
藤姓熱田大宮司家って、鎌倉幕府や室町幕府内で
将軍の出身氏族としてどんな役職についていたの? >>109
悪りぃ三河が抜けたワw
近江尾張の頼朝が搗き
相模下野の尊氏が捏ねし
天下餅
座ったままで食うは得体知れずの三河山賊の家康とやら
その家康の捏造糞を貪り食うは三河厨の岡崎土人とやら 坊門姫は、三河の藤姓熱田大宮司家の血を引いとるがな
役職についていないのに、何故か優遇されていれば、特別な関係、優遇されていると言えるわな 火病ってる三河バカは全く学習能力ないな
尾張の熱田神宮の初代藤姓熱田大宮司藤原季範から代々
尾張熱田で生まれ熱田の地で亡くなった
宮司職として本貫も氏寺も藤原季範の代から尾張に変更してから平成の現代に至るまで
尾張になっている
三河は熱田大宮司職とは全く関係ない
三河に土着した親父も季範の大宮司職とは全く関係ない
つまり初代「藤姓」熱田大宮司は尾張なんだよ
三河藤姓熱田大宮司家は妄想の家で現実は存在しない
あえて史実に忠実に書くなら
尾張藤姓熱田大宮司
マスカキ・クズレスばっかで三河の恥をこれ以上晒すなよw
現実を観ろwww >尾張熱田で生まれ熱田の地で亡くなった
室町期以降の話だろw
頼朝同母
・坊門姫
・希義
土佐吉良氏
希義→希望(吉良八郎希望)
土佐吉良氏の歴史を記した『吉良物語』を見ると、希義は平田俊遠の弟三郎経遠の女のもとに通い、希義が討たれたあとに女は男子を生んだという。
これを希義に心を寄せていた夜須七郎が聞き付けて、頼朝の高聴に達した。頼朝はこれをにわかに信じなかったが、のちに希義の子と認め、土佐郡吾川郡のうちに数千貫の土地を与えた。
さらに、三河吉良庄に馬の飼場三百余貫を賜り、吉良八郎希望を名乗った。そして、吾川郡大野荘に吉良峯城を築城し、土佐吉良氏の始めとなったである。
史実かどうかはさておき、頼朝は何でも三河なんだなw 源頼朝関連史跡
尾張
・頼朝が生まれた産湯(頼朝は名古屋でうまれたぎゃ〜)
三河
■三河七御堂(西尾市、豊橋市、蒲郡市、豊川市、新城市)
源平合戦で死んだ将兵を弔うため発願し、文治〜建久年間に安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)に命じて造らせた
東三河に集中しているのは、盛長の出自が東三河(現在の豊橋市石巻小野田町)だったからと推測する
一覧
【西尾市】光福寺/現在の金蓮寺、弥陀堂【豊橋市】赤岩寺/弥陀堂、普門寺/観音堂【蒲郡市】長泉寺/弥陀堂、安達藤九郎盛長の墓あり、全福寺/現在は廃寺、丹野御堂【豊川市】財賀寺/観音堂【新城市】鳳来寺/弥陀堂
■滝山寺(岡崎市)
母方の一族である藤姓熱田大宮司家氏寺、伽藍造営、源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた等身大の聖観音像あり
北条政子13回忌に、足利義氏(3代目足利宗家)が源実朝、北条政子の遺骨を分骨
■その他
【岡崎市】
・光明寺/堂宇を再建
・夏山八幡宮/梶原景時を名代にして参拝、社領寄進
【豊田市】
・平勝寺/元の名は大悲密院(南北朝時代に平勝親王が改名)、寺領寄進
・二井寺(普賢院)/寺領寄進
・猿投神社/藤姓熱田大宮司一族氏神、大社に改築 【知立市】
・牛田八幡社/頼朝の目代(大江氏か?)が鶴岡八幡宮を勧請
【西尾市】
・瀬門神社/1195年に源頼朝が社殿を再建
【豊橋市】
・普門寺/堂舎再興、寺領寄進、化積上人(叔父、藤姓熱田大宮司一族か?)が学頭、頼朝等身と伝わる不動王あり
・吉田神社/社殿は安達藤九郎盛長が造営、天王社勧請
・鞍掛神社/愛馬の鞍を奉納
【豊川市】
・財賀寺/本堂・仁王門再建、寺領寄進
・宮道天神社/安達盛長に代参を命じ、京からの帰路、鞍馬装束を奉納
・八幡宮/寺領(1000町歩)寄進
【蒲郡市】
・八劒神社/社殿は建久元年(1190年)、頼朝の命により安達藤九郎盛長(三河国小野田荘地頭、のちに三河守護)が造営
【新城市】
・鳳来寺/再興、三重塔造営、寺領寄進
・今水寺/寺領寄進 >>135
初代藤姓熱田大宮司藤原季範の誕生からだから平安末期だな >>120
当時幕府軍の主力は西国の謀反軍を鎮圧するため京周辺に集結していた
鎌倉は京周辺にいた幕府軍の主力が壊滅した段階で既に死に体だった
だから六波羅探題を陥した足利が鎌倉を陥した新田よりも評価された なぜ源頼朝と足利氏は、尾張を無視するのか?
三河の熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、愛知県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(愛知県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(愛知県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(愛知県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(愛知県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(愛知県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む なぜ尾張は無視されるのか?元祖名古屋飛ばし(笑)
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、愛知県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、愛知県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、愛知県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、愛知県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、愛知県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、愛知県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、愛知県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、愛知県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>134
坊門姫は頼朝の妹で親父は頼朝と同じ
正統な源氏の血筋だろw
父系で頼朝と同じ源氏の血を引かないにもかかわらず
母系の藤姓熱田大宮司のみの血の力で頼朝に重用されないと
頼朝の母系重視・藤姓熱田大宮司重視とは言えない
坊門姫は熱田大宮司を継いだわけでなし母方の藤原姓を名乗ったこともない
父系重視で重用されたとしかいえん なぜ尾張は無視されるのか?親戚の一人もいないだぎゃ〜
これではただの、頼朝が生まれたと主張する頭の悪い田舎者だぎゃ〜
頼朝の従兄弟
■行快:鳥居禅尼の息、22代熊野別当、三河国蒲形荘、竹谷荘地頭
・源義親→源為義→鳥居禅尼→行快
■鳥居忠氏:鳥居禅尼の息、鳥居氏の祖、承久の変後、三河国額田郡渡に移り住む
・源義親→源為義→鳥居禅尼→鳥居忠氏
鵜殿氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/udono_k.html
吾妻鏡 元暦二年(1185)二月
元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様〔香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ〕その場所へ参られました。
南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。
褒美に馬を引き出しました。
その後、熊野神社領地の三河国竹谷(蒲郡市竹谷町)蒲形(蒲郡市御幸町)の両方の荘園の事を、裁決なされました。これ等の荘園の本来は、開発した領主の散位俊成が熊野神社に寄付したので
、熊野別当(長官)の湛快がこれを領有して、娘に譲渡しました。その娘は最初は行快僧都の妻でしたが、その後前薩摩守忠度朝臣と再婚しました。
忠度は一ノ谷合戰で討たれてしまい、平家没官領として朝廷が召し上げて、後白河法皇から頼朝様が戴いた土地です。それだもんで、開発領主の俊成の娘は、先の夫の行快に泣きついて云うには、
「さっさと事情を関東に泣きついて、その両方の荘園を与えて貰って下さい。もし、そうなれば、先々行快の子供〔彼女が生んだ〕に譲渡するから。」
そこで、この話を了解して、行快僧都は熊野から使い〔僧の栄増〕を鎌倉へよこして申し上げて来ていることなのです。行快と云うのは、行範の息子で、頼朝様の祖父の廷尉禪門〔爲義〕の外孫に当たります。
源氏の親戚なので、縁は他人とは一緒に出来ないので、元々大事にしようと思っていたので、この窮状訴えがあったので、是非も無く命令を出しました。
信仰心も厚いのでなおさらだとさ。 >>136
>役職についていないのに、何故か優遇されていれば、特別な関係、優遇されていると言えるわな
>室町期以降の話だろw
>史実かどうかはさておき、頼朝は何でも三河なんだなw
三河バカにかかったら
父系も母系も室町時代も平安時代も史実も時代考証も関係なしってことか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています