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長屋王について
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0001日本@名無史さん
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2014/01/13(月) 08:25:21.19
・生年問題(684年説or676年説)
・王・親王問題
・長屋王の変とは何だったのか?
・その他

これらについて語り合いましょう
0003日本@名無史さん
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2014/01/15(水) 12:23:50.33
吉備内親王の夫だから親王扱い?
0004日本@名無史さん
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2014/01/15(水) 13:51:30.43
多分親父が太政大臣だったからじゃね

当時の太政大臣は皇太子みたいなもんだったから、草壁と同じように、その子を親王扱いしたんじゃね

文武も皇孫だけど皇子扱いだったし。

ぶっちゃけ、いくら律令で決めても、天皇が例外認めればそれで通る世の中だったし。
0005日本@名無史さん
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2014/01/15(水) 21:59:59.17
高市皇子(壬申の乱の英雄)と御名部皇女(元明の同母姉)の子だから皇子(親王)扱いかな
それだから吉備内親王の夫になれた訳だし
長屋と吉備の子は男系原則で言えば三世王なのに元明の勅で二世王扱いだし
・二世王なら初叙は従四位下
・三世王なら初叙は従五位下
ところが長屋王は二世王なのに文武の勅で初叙いきなり正四位上
初叙で正四位上は今も破られてない記録かな
臣籍降下した天皇の子や摂関家の子でも初叙で正四位上に叙爵された
例は無いはず
0006日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 00:39:42.23
長屋王が高位スタートだったのは、皇位継承を諦める見返りとしての官界デビューだったからじゃないか、
って意見を概説書で読んだ覚えがある。

ただ、草壁直系は首皇子(聖武)だけで、草壁や文武のように夭折してしまう懸念はあっただろうから、
その時は長屋王本人じゃなく、吉備内親王との子供に皇位継承させるつもりがあったんじゃないかな。

そう考えると、長屋王の変で吉備内親王とその間の子供も消された理由が想像出来そうだよね。
0007日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 12:18:02.86
白壁王と井上内親王、他戸王と立場が似てるな
0008日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 13:07:33.40
>>4
文武は母親が天皇(元明天皇)だよ

同母妹の吉備内親王も内親王だし
0009日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 18:12:06.93
>>6
不比等の娘の母に持つ長屋王の子は助命されてるしな。
0010日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 19:16:45.88
>>6
長屋王の父高市皇子が天武天皇の第一皇子で
生前は太政大臣にまで登って行政のトップにあっただろ
だからその嫡男である長屋王が高位スタートなのはおかしくないんだが

元明天皇が息子の文武天皇が臣下の藤原宮子に産ませた孫(首皇子=聖武天皇)よりも
娘の吉備内親王が皇族の長屋王との間に産んだ孫に期待していたというのはあるんだろう
吉備内親王の子は本来3世王なのに母方によって2世王に繰り上げられているからね
0011日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 20:38:34.46
>>8
母の元明が即位したのは、文武が崩御した後だから時系列的に無関係。

珂瑠が生まれた時、既に父草壁が皇太子なので、早ければ生まれた時から、
遅くても高市皇子薨去後の立太子までには皇子扱いされていたと思う。

その辺は、持統の意向でどうにでもなったと思う。

珂瑠が皇子扱いされるのと同時に、姉妹の氷高や吉備も同じように皇女扱いされたと思う。
0012日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 20:45:12.21
>>11
草壁皇子は即位してないのに死後、岡宮御宇天皇と諡名され天皇扱いを受けたから
そのあたりからの皇子号かもしれない
現在でも宮内庁が草壁皇子陵墓比定地を「岡宮天皇陵」として管理している
0013日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 21:07:03.16
草壁皇子が即位しなかったのは高市皇子に遠慮したからかな?
大津皇子暗殺のこともあったろうけど。
0014日本@名無史さん
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2014/01/16(木) 21:12:19.22
>>13
母が采女出身と身分が低すぎる高市皇子に皇女の母を持つ草壁皇子が遠慮したということはないだろうが…

この時代は中大兄皇子・大友皇子など天皇になるべき人がすぐには即位しないで
皇太子のまましばらく様子見ていたこともあるので一概には言えない

草壁皇子は2年で亡くなったので病気で政務が執れなかった説は根強いけど
0015日本@名無史さん
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2014/01/17(金) 12:12:21.33
文武天皇即位が高市皇子死去の翌年なのがどうにも怪しい
0016日本@名無史さん
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2014/01/17(金) 22:35:39.46
藤原氏が排除したかったのは長屋王本人よりもむしろ吉備内親王とその息子達だろう
吉備内親王の子以外の長屋王の息子も弟の鈴鹿王もお咎めなしだし
0017日本@名無史さん
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2014/01/19(日) 17:10:06.06
ちなみに長屋王の息子の一人の桑田王は高階氏の祖。
0018日本@名無史さん
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2014/01/19(日) 22:00:44.67
長屋王

704年 正四位上
709年 宮内卿
710年 式部卿
716年 正三位
721年 正三位右大臣
724年 正二位左大臣
729年 死去
0019日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 09:16:02.00
>>16
桑田王は、吉備内親王の子なのな。
長屋王と吉備内親王の子は一緒に死んだのでその系統は絶えているように思われがちだが、
孫王は助けられて吉備内親王系統の血は残っている。
0020日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 10:45:51.31
江戸時代には沢山居ただろうな。

長屋の王が。w
0021日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 12:23:43.20
>>19
大友皇子の子も助けられてるし幼少ゆえに助かったんだろう
0022日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 12:50:08.35
>>21
大友皇子の場合は正妃が一緒に死んでいない
大友皇子の正妃は天武天皇の娘十市皇女だから当然天武は助けた
十市皇女が産んだ葛野王も天武の孫なので当然助けた

正妃と正妃の子も一緒に死んだ長屋王のケースとは全く異なる
0023日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 13:02:23.35
桑田王の母は石川虫丸(石川虫名か)女説があるな。
たしか続日本紀の中でも、自殺した四子が吉備内親王の子だとは断定していなかった。
0024日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 14:26:44.24
それにしても聖武天皇は讒言とはいえ父の同母妹で実の叔母を死なせてるのか
吉備内親王の同母姉の元正上皇もまだ存命だったのに
随分と思い切ったことをしたもんだ
0025日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 14:37:26.00
>>24
吉備内親王の子による皇位簒奪に誰よりも脅えていたのは聖武天皇自身だろう
聖武天皇は父こそ文武天皇だが母は皇位継承権のない藤原宮子
父方も母方も皇族である吉備内親王の子のほうが血筋が勝っている
また、吉備内親王自体、兄も姉も天皇である通り当然に皇位継承権があり
吉備内親王自ら即位してその息子に皇位を譲る可能性もなきにしもあらずだった

長屋王事件は加害者である藤原氏の讒言を聖武天皇が信じたということから起こったのではなく
聖武天皇自身の皇位不安を取り除くためにおじの藤原四兄弟が起こしたとみるべきだと思う
つまり聖武天皇も少なからず加害者の一人であった
0026日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 17:03:43.55
>>23
「続日本紀」には石川氏という側室も登場しない
石川虫丸女という記述があるのは室町時代成立の
「本朝皇胤紹運録」のため不詳らしい
0027日本@名無史さん
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2014/01/20(月) 22:27:29.88
長屋王邸からは「石川夫人」「石川大刀自」木簡が多数出土している。
長屋王との続柄は不明だが。
0028日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 00:04:24.62
>>25
聖武には加害者意識はあったでしょうね。

自身の治世に天然痘が流行り共犯の藤原四子が次々と亡くなり、
せっかく光明子の立后をごり押ししたのに、待望の男児は呆気なく夭折してしまい、
結局男児がもうけることは敵わなかった。

大仏や国分寺の建立、度重なる遷都といった行動も、罪悪感や恐怖感にかられての事でしょうね。

また、吉備内親王とその子を生かしていた場合、未亡人か未婚が女帝の条件なので、
孝謙を差し置いて我が子を後見するために即位する可能性は出てくるね。

孝謙を即位させたことで、光明皇太后が藤原四子に代わり、甥に当たるその子供達をバックアップ出来たわけで、
反藤原勢力が吉備内親王を担ぐ可能性は有ったでしょうね。
0029日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 00:17:51.83
基王が早世しなかったら長屋王即位の可能性が無くなって粛清されずに済んだんだろうか?
どのみち藤原宮子の尊号の件とかで対立してたから
殺されることは無くても橘諸兄のように干されるか。
少なくとも阿倍内親王や大炊王が擁立されることはなくなるわな。
0030日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 00:48:19.63
>>29
大夫人/皇太夫人の件は、「勅の撤回で恥をかかせた」のではなく、
「皇」字を付けることを公卿の総意として推したという形をとることで、
「恩を売られた」のだという説があるようですね。
いくら律令の規定とはいえ、皇族外に「皇」の称号を贈る初例だとい
うことで、慎重にならざるを得なかったのではないか、と。
0031日本@名無史さん
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2014/01/21(火) 12:21:51.04
>>30
臣下出身の蘇我堅塩媛(欽明妃、用明・推古両天皇の母)がすでに皇太夫人となっているので
藤原宮子が臣下出身の皇太夫人初例ではないよ。
(日本書紀・推古天皇20年条。当時在位中だった娘の推古天皇が自分の母に皇太夫人の名を贈ったとみられる。
蘇我堅塩媛は欽明天皇の大后ではなかったが、推古天皇は父の陵墓に母を合葬してしまっている)
長屋王はこの例を出してきて皇太夫人の名を贈ることを言ったに過ぎない。

それに対して「大御祖」とは天皇家の祖先を指す名称であり(天照大神を大御祖神と呼ぶ)
聖武天皇は藤原宮子をこれから天皇家の祖先として敬おうと言っている。
つまり、宮子が産んだ一粒種の聖武天皇とその子孫だけがこの国の天皇となる資格保持者であり、
それ以外の皇統を排除せよという聖武天皇の意思が込められている。
長屋王や吉備内親王、他諸々生き残っていた天智・天武系諸王たちから反感を買う内容であったと思われる。
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