長屋王について
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・生年問題(684年説or676年説)
・王・親王問題
・長屋王の変とは何だったのか?
・その他
これらについて語り合いましょう 天武系の男帝は全員諡に「武」がついてる。
文武天皇と聖武天皇は病弱で「武」のイメージはないけど
天武系全員に「武」をつけてるのは何らかの意図があるのか? >>31
でも長屋王の変の時に生き残っていた天武天皇の皇子の舎人親王・新田部親王は
長屋王を擁護するどころか糾問する側に回ってるな。
藤原氏に逆らえなかったのもあるだろうけど、
長屋王は他の天武系皇子からも支持されてなかったってことだろう。 >>33
新田部親王の母は藤原氏
母の藤原五百重娘は藤原鎌足の娘で天武天皇妃となったあと異母兄の藤原不比等と再婚
藤原麻呂(京家の祖)は新田部親王の異父弟。
外戚の藤原氏の庇護を受けていておかしくない。
尚、新田部親王の子・道祖王は当初、聖武太上天皇の遺言により孝謙天皇の皇太子だった。
舎人親王は分からないが、知太政官事として聖武天皇に次ぐ地位にあったために
あえて聖武や藤原氏に逆らう理由がなかったためか。
尚、舎人親王の子・大炊王は後に藤原氏に庇護され、淳仁天皇として即位している。 >>31
日本書紀のその記述は、「郡」と同じく令制に合わせた修飾でしょう。確実な例は
宮子の例が初例。それに、少なくとも続日本紀の記事では公式令を引いている
だけで、蘇我堅塩媛云々は引かれていない。
で、最初は単に大夫人と呼ぶように命じていたのを、長屋王以下の奏上のおか
げで最初の勅を撤回し「文書では皇太夫人、口頭では大御祖」という詔を出す
ことになったのだから、直接には文句を言うような話ではないのでは?
特に、前者は「勅」だったのに対し後者が公卿の総意を前提とする「詔」だった
ことに大きな意味がある、という話もありますね。 >>35
「続日本紀」に忠実に行くという割に、「続日本紀」には臣下に「皇」の名を贈ってはいけない決まりがあるのに
長屋王がこれを宮子に勧めて聖武天皇に恩を売ったなんてどこにも書いてないよ。
「続日本紀」に忠実に行けというのならば、すでに令に皇族臣下関係なしに天皇母に皇太夫人の名を贈る決まりがあったわけで、
長屋王は聖武天皇に恩を売ったわけでもなんでもない。
宮子が皇太夫人になるのは当然なのだから。
それに例え装飾だったとしても日本書紀に臣下皇太夫人の例があるのは大きなことだと思うが。
(藤原光明子は葛城磐之媛の臣下皇后の例を出してきて立后している) >>36
> 臣下に「皇」の名を贈ってはいけない決まりがあるのに
> 長屋王がこれを宮子に勧めて聖武天皇に恩を売ったなんてどこにも書いてないよ。
そりゃそうだろうね。で、誰がそんなことを書いたんだ?
もともとの話は、
> すでに令に皇族臣下関係なしに天皇母に皇太夫人の名を贈る決まりがあった
のに、なぜ「皇」のつかない「大夫人」を「勅」として出したのかという事。
河内祥輔、坂上康俊といった人たちは、敢えて令に反する「大夫人」を言い出した
うえで、臣下の総意として「皇太夫人」を推させたと論じているね。 >>37
恩を売った話は>>30に書いてある。
>>31はそれに対する反論で、>>35がそれに食いついている。
>>37の説だと皇太夫人>>>>大夫人という前提が必要。
聖武天皇が謙遜してうちの母は大夫人でいいよ、と言ってみせておいて
群臣に皇太夫人を押させた(まんまと聖武の希望にかなった)ってことだろ。
聖武天皇は皇太夫人と書かせてもオホミオヤの読みを捨てていないのだから
最初から皇太夫人狙いだったとは思えない。
聖武天皇にとっておおみおや(大御祖・大夫人)>>>>皇太夫人であったことは間違いない。
ちなみに聖武天皇は初代皇太夫人・蘇我堅塩媛の血を引いていない。
最初の大夫人を勅で言い出したことも問題がない。
聖武天皇が「こうしたい」と言うだけでは勅しか出せない。
詔には公卿全員の署名が必要。
逆に詔に天皇の署名は必要ないので
勅は署名した聖武天皇の本心ではなく
聖武天皇が署名しない詔にこそ聖武の本心があるというのは無理。 >>38
> 臣下に「皇」の名を贈ってはいけない決まりがある
なんていう不可思議なことを書いている奴は、>>36一人だけだよ。
河内説は、基本的には
> 聖武天皇が謙遜してうちの母は大夫人でいいよ、と言ってみせておいて
> 群臣に皇太夫人を押させた(まんまと聖武の希望にかなった)ってことだろ。
に近いが、「まんまと」ではなく最初からそういう芝居だった、ということだね。
いずれにせよ、「夫人(キサキ)」に単に大をつけた「大夫人(オオキサキ)」
の方が、「皇太夫人」よりはるかに上だというのは理解しがたいね。
ところで、オオミオヤと読まれているのは、即位の宣命では皇祖母であり、
皇太夫人の詔では「大御祖」。「オヤ」の読みは「祖」に対応しているんだが、
大夫人のどこにその文字があるのかな。 藤原房前は長屋王排除には消極的で藤原四子の中では長屋王の変後も唯一昇進していない。
兄武智麻呂に先んじて参議になったり内臣(内大臣の前身か?)に任命されたり
武智麻呂の藤原氏長者の座を脅かすような出世を警戒され
長屋王の変後に政権首座となった武智麻呂に冷遇されたと思われる。 >>39
「大夫人」に振仮名がついていないから「オオミオヤ」と呼ぶわけがない、
「大御祖」とは全く別物、というのはどうだろう。
聖武天皇がそこまで読みにこだわったのは「大夫人」として「オオミオヤ」と
呼ばせたためだと思うが。
聖武天皇が初めから宮子を皇太夫人と呼ばせたいのにわざわざ長屋王に天皇の間違いを指摘させ
詔を撤回させる意味もない。
律令に乗っ取って皇太夫人とする、と聖武天皇が初めから言えば、反対者が出るはずもないのに。 >>34
長屋王を排除すれば自分が皇親最上位に立てるという思いもあったんだろうか。
それにしても皇親政治を終わらせた政変に当の親王が加担したとは皮肉な話。 >>41
皇太夫人の方の記事には、「文書に記す場合には皇太夫人とし、
口頭では大御祖とし」というように、わざわざ口頭での呼び方を
指定している。
「大夫人」の前例がありオオミオヤという読みが常識であったなら
別だろうけど、夫人に大をつけただけで呼び方を指示していなかっ
たら、オオミオヤとは読みようがないのでは? ところで長屋王の長屋の意味は?
長屋首とか長屋臣とか養育に当たった氏族でもいたの? 白髪皇子(清寧天皇)とか舎人親王(舎人=従者)とかもいるからな >>43
長屋王が聖武天皇の頼みによってあえて聖武天皇が出した勅を撤回させて
長屋王主導で詔を出すことまで示し合わせるほどの強調体制だったのらば、
その後長屋王が討たれるはずはないだろう。
聖武天皇は縁故とはいえ天武系皇子の支援も受けていたからね。
詔の撤回が尋常なことであるはずがなく、
そのことで神経質な聖武天皇が喜んだとはとても思えない。
聖武天皇と長屋王が見事なタッグを周囲に見せつけて仲の良さをアピールしただけの事件だったとは解釈できない。 長屋王は不比等の娘婿になっているくらいだし、不比等生前〜薨
去後しらばくは藤原氏との間もうまくいっていたんじゃないのかな。
はるか後代だが、師輔生前は娘婿として庇護を受けていた源高明
が、師輔が薨去した後で師輔の子たちにの安和の変で排除される
というような例もあるし。 >>48
不比等は孫の聖武天皇の即位を見ることなく亡くなっている。
(宮子の称号事件の時には不比等はもういない)
藤原宮子の称号事件から長屋王の変までは5年で、
この間に長屋王が聖武天皇の機嫌を決定的に損ねる大事件というのは起こってないが。 長屋王とは名古屋王。尾張の国(終わりの国)出身。
壬申の乱との共通点は調べましたか? 長屋王に安宿王がいるんだから、
バラック王とかプレハブ王とかボロ屋王とか
掘っ建て小屋王とか廃屋王とか段ボールハウス王とか
そんなのが居ても良いような。 バイク王やらホームラン王でしたら、なんとかご用意できます マジな話、王がいないからなあ
親王と内親王と女王しかおらん ホームレス王に、俺はなる
って、ホームレス王ってどんなだ?
脱線はこのくらいにして、結局長屋王をはめたのは、
聖武天皇?藤原朝臣武智麻呂? 長屋王を排除して一番得をするのは武智麻呂で、聖武天皇も即位の可能性のある
長屋王とその妻吉備内親王、吉備内親王の皇子達を脅威に思っていた。
但し、親王二人と長屋王に次ぐ地位にあった多治比池守も長屋王排除に加担していて
長屋王を庇おうとする者が誰もいなかった以上、遅かれ早かれ失脚していた可能性が高い。 なるほど、本人に悪気はなくても存在してるだけで周囲の人に邪魔に思われる。
そう言う巡り合わせの悪い人っているよね。
仮に出家したとしても、子供が邪魔じゃあやっぱり排除されたのかなあ。 パックンはハーバードしか卒業してないから
英語は不安だろう 大伴旅人は長屋王派とされるけど長屋王の変後に大納言に昇進してるから違うんだろうな。 息子の一人(不比等外孫)は、後に藤原氏になってるけど、
その後の系譜不明の藤原氏に子孫が混じってるんだろうか?
他の息子達の子孫は高階氏とかだったよね。 なにげに現代まで血を残している(かもしれない)藤原弟貞(山背王)
山背王−女(藤原巨勢麻呂妻)−藤原黒麻呂−藤原春継−藤原良尚−藤原菅根−藤原元方−藤原致忠−女(源 満仲妻)−源 頼信…
…源 義朝−女(藤原能保妻)−女(西園寺公経妻)−西園寺実氏−西園寺姞子−後深草天皇……今上天皇 高階氏の祖となった桑田王の子孫も大いに栄えている。
長屋王-桑田王-磯部王-石見王-高階峰緒-茂範-師尚-良臣-成忠-貴子(藤原道隆妻)-隆家-経輔-師信-経忠-信輔-信隆-殖子-後鳥羽天皇…今上天皇
長屋王-桑田王-磯部王-石見王-高階峰緒-茂範-師尚-良臣-成忠-貴子(藤原道隆妻)-隆家-経輔-師家-家範-基隆-忠隆-近衛基実妻-基通…近衛忠[火軍]
ただし高階師尚は在原業平の落胤だという俗説もあるが。 黄文王の子孫は不明ってことで良いの?
そう言えば山背王も縁起でもない名前を付けてもらってるな。 高階氏といえば高師直も高階氏の末裔。
子孫は意外と活躍してるね。 >>64
山背大兄王?長屋王と同じく即位の可能性を危ぶまれて消されたんだっけか。 山背王が臣籍降下したのは奈良麻呂の乱後。
同母兄弟の安宿王・黄文王が奈良麻呂の乱で失脚したから保身のためか。 長屋王が無罪ってことになると、
どう考えても冤罪の中心人物てことになっちゃうはずの人達がご先祖の、
南家・式家がまだ勢力を持っていた頃編纂の続日本紀に誣告ってあるんだから、
まあ、多少危ない言動(愚痴レベル)程度はあったかもしれないけど、
具体的なことはなかったんじゃないの。 その罪だのなんだの決めてたのだれなんだや?
書いた人物の意見がでるわけだから参考になるぞ 65
師直の家系は源義家の末子の方の弟が兄の義国についていって高階に養子に入ったあとに
足利の家宰になってるはずだけど?
詳しい話があったはずだがちょっと忘れたなあ >>72
師直の祖先の惟頼というのが実は義家の落胤でどうたら、って話は読んだことがある。
よくある出世した人物の仮冒話だと思ってスルーしたけど。 >>67
山背は藤原姓を名乗って臣籍降下するという父や兄弟に顔向けできないことをやっちゃってるよな。
母が藤原氏というのが辛うじてエクスキューズになってるけど。 けっこう広い荘園持ってたんだよなあ
伊達に家宰になったわけじゃないだろ 義国が土着した時点でかなりの独立した勢力は持ってたよ 義国が土着した時点でかなりの独立した勢力は持ってたよ 最近、スレ違いの話題を連投する、日本語の不自由な人をよく見かける 義家の末子←対象
弟←義国にとって
日本語伝達むずかしいだろ 主語の見方を自分にとるか相手に合わせてとるかでまったく意味がちがってくるからな これは経験上、どっちを取るかは完全に人によって二種類に分かれる 文章の途中で主語が入れ替わったり
人によって異なる意味に読めてしまう文章は悪文
つまり下手くそな文章 日本語は非合理的だなぁとはつくづく思うわ。。
古語だと、現在以上に書いてなくても「察しなさい」的なことが多すぎる >>75
臣籍降下すること自体は問題ないけど自分の父、義母、兄を
死に追いやった藤原氏の姓を名乗るというのは苦渋の決断だっただろう 橘奈良麻呂の変と比べて連座で処罰された者がほとんどいないって不気味だな。
長屋王派とされてる大伴旅人ですら後に大納言に出世してる。 たぶん本人の言動も性格も関係なく、存在自体が支配者層全体にとって迷惑だったんだろう。
皇族とか王族とかご一門とかでそう言う人って時々いるよね。 ホテル王www
まあそういうやつって威張ってるけどな
問題なのは関係のないやつにまで強制するようなところがあるとこかなあ >>91
吉備内親王の夫で親王扱い、父親は太政大臣とくれば誰からも疎まれるわな。
後ろ盾になってくれそうな吉備内親王の同母姉元正上皇も
長屋王と吉備内親王の粛清を黙認したし。 適当な理由を付けて一家皆殺し。
恐ろしい連中だね。 血のつながった親戚同士での殺し合いを連綿と続けてきた。
政治とか別の問題で、ただただ地位と権力が欲しいだけ。 皇族や藤原氏に限ったことでもないし、時には正当防衛の場合もあるだろう >>99
長屋王の父高市皇子だって壬申の乱で従兄弟の弘文天皇殺害の指揮を執った人物だし
あの時代には普通のことでしょ >>98 母親が中殿で無く長屋局住まいだったのかも知れないな 昔の城の防壁みたいので百メートルくらい続いてるのようなのが長屋のモデルだろ 当時はガチ韓流時代だったんで中韓では後年まで繰り返されがちだった都房政治派によるクーデター失敗事件だったのかも ただ政変後に長屋王派として失脚した者がほとんどいないというのがな >>108
長屋王の母は天智天皇の皇女・御名部皇女
元明天皇の同母姉という貴種なのに、長屋局なんかに住むわけないじゃんw 長屋王-桑田王-磯部王-石見王-高階峰緒-茂範-師尚-良臣-成忠-貴子(藤原道隆妻)-伊周-藤原頼宗妻-俊家-全子(藤原師通妻)-忠実-忠通…五摂家 長屋王粛清後から数年間は左大臣も右大臣も置かれなかった 皇族の名前って地名や氏族の名前が多いから、
長屋王の名前の由来も地名かなって考えたが、
それらしき地名が見つからんかった。 山辺郡長屋郷ってとこがあったらしいんでそこじゃないのかな。
今の天理市あたり。 不比等の生前は不比等の娘婿として藤原氏との関係は悪くなかったはず >>14
亀レスだが
古代の皇位継承は、三十過ぎだって仮説を読んだことがある
官僚機構が未整備な古代では、トップの判断力や経験値が必要だった
天武が亡くなった時、草壁はまだ三十前だった
ていうか三十前に亡くなっているわけで
母親の持統が即位したが、孫が三十になるまで生きられない
と思って、年齢制限撤廃と直系継承に変えるために
官僚機構を整備したのだと思う
自分が元気な内に孫に皇位を譲り、しばらくは後見するつもりで
大友も天智が亡くなった時に、まだ三十前だった
母方の出自だけでなく年齢もネックになったのでは? 厩戸皇子が即位できなかったのもそこらへんの事情だったのか まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 684よりは、前に生まれていると思う
懐風藻まで引き上げられるかは、わからないが
704年の初叙の記事だけど、続日本紀の前後の記事では、蔭位による叙位が行われた、最初の記事
蔭位による叙位は、正月とかにまとめて行っているわけだが、704年以前には、そういった集団叙位が行われていない 680年より前にはならない、かな
700年時点で、21になっていたなら、浄⚫⚫とかの位を貰っていたはずだから
大宝律令移行は、しばらく蔭位による叙位が行われていない
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