【今こそ】豊臣秀頼は誰の子?【DNA鑑定】
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秀吉の子ではないことが証明されれば大事件になる
秀頼の娘からDNAは採取できないものか 162
歴史的事実と合わせて追っていってみると面白そうだから是非やってもらいたいよね
それを合わせて過去の趨勢が分かる 唐代の頃までは移民がいたんだからさ
あとは南宋時代にも復活してる
そのあとは明代 当時の武将の苦悩と葛藤を知ることができるからスゲー知りたい 河原ノ者・非人・秀吉
服部 英雄
これくらい読んでから話した方がいいぞ。 >>169
その本はすでに>>8,>>14で紹介したのであるが、
マトモに読んで論じようという人物がひとりたりとも現れない……。 寧ろ結果論だが秀頼が「素直」に家康の御前で詫びを入れるところまでは見たかったなとw
それと仮に家が続いた所で「血」までが現代にまでっていう保障はないから
有る意味どうでもいいとw 関ヶ原の戦いの直後くらいに、家康が秀頼にむかって、
「今日から俺が主君、オマエは臣下ね」とか宣言すればよかったのに。
「秀頼、ひざまづけ。ワシが主君じゃ!!」って感じで、
徳川四天王のような荒武者に荒々しく腕をひっつかまれて、下座に引きずり降ろされて、
家康さまに無理やり平伏させられる秀頼。
想像しただけで胸熱だな。
まあ、同じことを秀吉が三法師(秀信)にやってるわけだが。 >>175
真田の活躍がなければそうなってたかもな。
関が原で織豊大名に頼って勝ったから家康も強気に出られなかった。
しかし豊臣も明確に臣従を突きつけられれば案外素直に折れて丸く収まったかも。 >>175
当時の家康にそんな力は無いわけで。
できるならそうしてるさ。 家康も関ヶ原直後に>>175みたいなやり方で秀頼を臣従させ、
徳川体制下の一大名としての処遇を与えておけば、
後世に悪し様に言われることもなかったのにな。 豊臣秀勝の娘の豊臣完子を妻に持つ九条幸家が23歳で関白に就任するという行動で
朝廷が仕掛けてきたので、天皇の義弟の摂関家秀頼を関白にさせる時に、
まだ秀頼は若いから関白はもう少し成長してからと言ういいわけができなくなったので、
家康は秀頼が23歳になる前に殺さなければならない立場に追込まれ
方広寺鐘銘事件をでっち上げて必死になっていたとか書いてあった。
なるほど〜勉強になったわ。
さすが棚ぼた人生家康だけはあるな!
天皇の義弟にして摂関家の人物である秀頼を殺すなんて大逆無道なのは信長以下の所業だよな。
豊臣秀勝の娘を娶っていた慶長13年に九条幸家が22歳で関白に就任させて朝廷がしかけてきたので、
23歳で関白になれる年齢下限が設定され、
もはや若年だから秀頼に関白はまだ早いという言い訳ができない形にしたために、
23歳の秀頼が関白になる前に鐘の刻印に理不尽なイチャモンつけて、
必死に殺したのが悪辣老人家康。 大御所様は、あの時代の武将にしては寛大で人格者だぞ。 関ヶ原の直後に秀頼を臣下扱いしたら家康がぶっ殺されるわ >>179
豊臣家は五摂家と同じではなく武家扱いとされていた。
何故かといえば、朝廷からの連絡係として武家伝奏が遣わされていたから。 家康側に動機はあったとて、まずはその通りに相手が乗ってくるか否かというところがキモかと
秀頼が直に詫びを入れてくる状況にでもなればおじゃんな話だろうし
「そうはさせじ」と裏小作が故に事は成った?? >>182
それは関係ない。
近衛の養子になった時点で、立場が変わっているし、
武家、公家双方を束ねる立場になってる。
武家だけとか、公家だけとかそういうたぐいのものではない。 >>179
九条幸家は、徳川家寄りの人物だよ。
妻完子の実母がお江で、将軍家御台所の娘婿。
現に完子は、淀殿の猶子だったが、豊臣家滅亡後は秀忠の猶子になってる。
調停は、幕府に無断で関白人事をやる実力はないよ。 >>184
>近衛の養子になった時点で、立場が変わっているし、
養子じゃなくて猶子だし、その後に豊臣姓を賜って猶子関係は消滅している。
>武家、公家双方を束ねる立場になってる。
それは初めて聞いた。
だが秀吉が武力を背景に関白職を得たのは明白なことで、家格で摂関職を得たわけではない。
だから秀吉没後実力が無くなった豊臣家に自ら関白職を求めるだけの権威などない。
武家伝奏が遣わされたのも、武家伝奏のような軽い身分のものをよこすことで暗に真の摂家ではないことを知らしめている。
また当時から武家関白と呼ばれたし、家康らも武家清華と呼ばれた。
>武家だけとか、公家だけとかそういうたぐいのものではない。
関白職は本来五摂家だけのもの。
武力を背景にそこに無理やり自分をねじ込んだのが秀吉。 >>187
実は違うんだけどね。武力を背景に、と言うのは半分正解だが。
秀吉が近衛の猶子になったのは、近衛前久が本能寺の変で明智光秀と共謀した
ことを脅しのネタにしただけ。また、五摂家相当にしたのも、近衛家を脅迫して
得たもの。
秀頼に関白の価値があったかと言われれば、経緯からあったと言うしかない。
だから、秀頼滅亡には、意外にも五摂家の意向があった可能性もある。 >>188
結局の所武力で成敗するという事を前提にしているから全てが成り立っている。
家格に応じて官職補任される堂上とは根本的にちがう。
山崎合戦後、前久は秀吉を怖れて家康のもとへ逃げ込んでいるが、後に家康の仲立ちで秀吉と和解し帰洛している。
本能寺の共謀者を家康が匿うわけもないし許されるわけもないから、前の本能寺ネタはもろ讒言・難癖。
その事で脅して猶子→関白補任は飛躍しすぎだ。
普通に飴とムチで篭絡されたと考える。 本能寺の真相は闇の中だが、朝廷首謀者説に立つと前久が怪しいとなるんだろう。
朝廷が首謀者ではないとしても、三日天下の間に朝廷が光秀に官位や詔勅を出して便宜を図ったのを揉み消す代償として、秀吉が前久というか朝廷と取引した可能性はあるな。 豊臣姓を賜って猶子関係は消滅している
これはウソだろ… 中臣鎌足以来の新姓だからね。
皇室の藩塀として藤原に続いて豊臣を位置づけていたし、
倫言汗の如くって言うように、
豊臣を藤原と同格にして朝廷の利益代弁者として利用しているわけで、
その地位を下げるようなことを徳川から強いられることを、
朝廷の威厳を損なうことと同一になってるから、
朝廷をないがしろにする幕府への牽制のためにも、
秀頼を摂関家関白として、
武家清華家家康を抑えようとしてたのは間違いない。 まー朝廷は家康をイヤイヤ征夷大将軍に任じた時に、
同時に清正らに豊臣姓を与えて、秀頼の藩屏としての自覚を促しているし、
細川忠興も豊臣姓羽柴を名乗り続けていたからな。 朝廷はもう終わってる、太上官は終わり実質、神祇官しか機能してなかったからね
北畠だのなんだのは神祇官の方のやつら 朝廷も、帝と公家で微妙に利害が異なる。
帝は親豊臣で徳川牽制でも、摂関家は関白職を奪還して五摂家で持ち回りにしたいから親徳川。
他の公卿も、時流に敏感だから徳川について甘い汁を吸いたいのが多かった。
家康、秀忠が上洛すると、摂関家、門跡などが先を争って挨拶に来て、例によって席次争いをしている。 太上官だろ
神祇官の方を仕切っていたのどうみても源氏だもん 徳川氏が太政奉還
でも源氏号は返還してないだろ
これは神祇官の主催は返さないようって決意とも取れる
邪魔なのは本来の源氏一門 まあその源氏自体の起源も分からないかなんだけどw
なんせ大和のときに争っているからな 実力者が上洛すると、摂関家、門跡などが先を争って挨拶してるのは、
いつの時代も同じで、単なるうわべだけの態度で、
武家を統御する手管に過ぎない。
別に家康や秀忠にだけやってた特別なことじゃない。
そもそも桃山時代に五摂関家で持ち回りしたいなんて主張に根拠はない。 秀吉や秀頼の家格は摂関家であって、
武家摂関家じゃねーよ。
好い加減なデタラメ書くなよ。
清華と違ってそんな区別してないから。
勝手に妄想願望で作り出すんじゃねーよ。 つか秀吉の関白職は、公家と武家を統御する史上最強関白職だろ。
従来の関白職は公家の統制しかできてない。
だから秀吉の公式、非公式の食事会の時などに、
秀吉と同席できる権利なども公家や武家を相手に使い分けてる。 >>201
>秀吉や秀頼の家格は摂関家であって、
摂家ではないよ
あくまで関白補任者を輩出した"武家"
秀頼が関白補任されるには、現状武力を持つ徳川からの強烈ゴリ押しが必要でしょ。
>>202
>公家と武家を統御する史上最強関白職
>従来の関白職は公家の統制しかできてない。
関白は天皇代行の地位だから、誰よりも上位なのは往古から変わらないじゃん
将軍職が不可能だからといって、
尊い関白職を武家支配の道具に使うという発想そのものが僭越きわまりないし、
九条家が秀吉の関白補任に徹底反対したのは正にその部分だよ。 >>204
はいはい完全に大ウソ乙
お前の願望妄想はチラシ裏に書けよ。 >>205
どこが嘘か説明してみて!
ちゃんと具体的にね。
それからここは学問板なんだから煽り文句は遠慮して♡ 秀頼のキチガイじみた官位昇格の速さからみても、
朝廷が秀頼を関白にする気が満々だったのがわかる。
家康がそれに危機感を抱くのも無理はない。 天正18年に近衛信尹が菊亭宛に、
関白職が豊臣氏の世襲になるなら、
代わりに内覧職を私が任命されたいと申し出てるね。
ここから察するに武家関白なんて概念は近衛信尹にすら無いわな。
関白の位置づけは全く変わってない。
武家関白という表現は単に、秀吉が武家に対して官位を任命する形に対して学問的に命名した用語に過ぎない。
もちろん秀吉は関白として公家に対しても官位許認可権を保持しているので公家関白としての当たり前の権利もある。 >>209
>天正18年に近衛信尹が菊亭宛に、
>関白職が豊臣氏の世襲になるなら、
>代わりに内覧職を私が任命されたいと申し出てるね
菊亭も近衛も秀吉関白補任運動推進者だね。
菊亭は清華では格下なのに、そのおかげで右大臣になり、三条や徳大寺を抑えて台閣トップになったわな。
関白職が豊臣家世襲になるならというのは、あくまで彼らのうちの仮定なんだけど、
確かに秀吉存命もしくは豊臣家が天下様の場合なら、そうなりうる。
でもそれはあくまでも武家としての武力で分捕ったもの。
だから、秀頼の官職は家康に時流が移った後は家康の推挙によるもので、現に大臣任官は家康の意思通りとなっている。
しかし免官もまた家康の意のままとなり、右大臣も家康の意で免官されている。(wikiを鵜呑みにしてはいけないよ)
真の意味での摂家ならこんなことにはならない。
>>208
>朝廷が秀頼を関白にする気が満々だったのがわかる。
幼時は秀吉のプッシュ、後は家康のプッシュで、別に朝廷??が自動的に任官させていたわけではない。
現に秀頼長子国松は、秀頼が受けたような待遇(摂家の子息並)は受けていないどころか、
いきなり他家の家臣に養子にだされるなど、武家の子そのものの扱い。
いくら正室に遠慮とはいえ、貴き摂家の子としてこれは有り得ない。 >>206
お前が書いたことには
なにひとつ根拠ないだろ。 国松は妾腹だから元々厚遇されとらんよ。
千姫と秀頼の間に嫡男が生まれてたらものすごい速さで昇進していたはず。
あと家康の推挙とか関係ないから。
秀吉ですら朝廷との駆け引きをうまく利用して昇進して関白となったあとに
官位官職を自由に許認可するようになっている。
家康はそこまでの官職に達してないので不可能。
だからこそ天皇の義弟豊臣秀頼が関白に任官する前に殺す必要に迫られたに過ぎない。 >>家康の推挙によるもので
これを証明する一次史料を出してください。 >>212
>国松は妾腹だから元々厚遇されとらんよ。
秀頼も妾腹だし・・
千姫との間に男子が生まれない・他の妾腹男子もいない、国松は唯一の直系男子なんだけどね・・・
妾腹とはいえ摂家の男子ともあれば、当たり前だがそれ相当の扱いをするはずですがね??
日本で天皇の次に貴い家柄なんですよ、摂家って。皇族よりも上なんですよ当時は。
大名でも公卿でも養子先はいくらでもあると思うんですがね???
なんで他家のさらに陪臣のもとになどいかせたんですかね??
徳川との関係を壊したくなかっただけとしか言い様がないと思うんですがね???
>千姫と秀頼の間に嫡男が生まれてたらものすごい速さで昇進していたはず。
そりゃ当然だと思うが、できなかったんだから仕方ない。
豊臣家のためには、千姫が国松を養子にするという選択もあったと思うんですがね??
北政所はそうしたんですけどね。
なんでそうしなかったんですかね??
なんで唯一の直系男子を放逐するんですかね??
天皇の義弟とか関係ないし・・・外戚じゃないと意味ない・・
だから秀吉は豊臣家箔付けのために八条宮を猶子にして、
八条宮を皇位につける事で天皇の外戚になろうとしたんだけどね。 淀は信長の姪という超ブランドだから妾と卑下されるような立場じゃねーだろ。
そんな卑下される立場なら妹が秀忠に嫁ぐわけねーだろ。
国松なんて生後すぐに大坂城から追い出され、
ついには若狭の砥石屋弥左衛門の養子に出されたくらい
豊臣家からもやっかい払いされてる始末だし。
八条宮を皇位につける事で天皇の外戚になろうとしたも何も
藤原氏だって、天皇の外戚になろうとして同じようなことをしてきたじゃねぇか。
別に特別じぇねぇよ。 >>213
豊臣びいきも度が過ぎるといたいよ。
当時の台閣トップはだれだ?
ほかならぬ家康だぞ。
菊亭が秀吉の勘気を被って失脚して以降は、台閣では内大臣家康がずっとトップだった。
秀吉死後、菊亭を復帰させて右大臣にしたのも家康。
その菊亭の時に将軍宣下を受けて、右大臣になったのも家康。
その時空いた内大臣を秀頼が受けたわけだが、わずか10才の内大臣って何よ?
朝議にすら参加できんよ。
12才の右大臣?なにするの?
2年後、秀頼は14才で右大臣を辞官する(させられる)が、これ以降、秀頼の官位はあがることは無かった。
位階すらあがらなくなっている。
反対に秀忠は従一位・右大臣(武家官位)となり、大坂の陣当時では位階では秀頼より上位になっている。 >>215
>信長の姪という超ブランド
家柄的には全然超ブランドじゃない。
武家の擬制家族的婚姻なら価値ある。
んで、なんで"国松なんか"なの?
唯一の直系男子なんだし、摂家の子息なんだよ。 別に家康が推認したり
、免官に追い詰めたりしてないよ。
そんなこと出来たなら家康も家格を引き上げて摂関家になってる。
しかし秀吉と違い摂関家になる資格が無いから無理だったから征夷大将軍になっただけだし。
摂関関白家はそんな簡単になれんわな。
その家格統制こそが秀吉の朝廷工作の最大の肝であり、
結局家康は終生、秀吉に家格で上回ることが出来ない仕組みを作り死んだ。
だからこそ秀頼を家康は殺したんだからな。 >>217
秀忠時代のおよつ御寮人事件を知らないな。
徳川和子入内の前に後水尾天皇が女官に子を生ませて大問題。関係者は処罰され、その子(加茂宮)は日陰の身。
天皇の子(第一皇子)でさえ幕府に睨まれればおのとおり。 信長死後、秀吉が朝廷に大金を献金して、
信長が従一位に任命される勅使が来るのを待って葬儀やってる。
生前は三職推認まで信長は到達してたんだし、
信長の血を引く淀は超ブランドになってるわ。
朝廷が決めたことは高い権威が付いて回る。 淀は信長の子じゃなくて姪、しかも滅亡した浅井家の人間だから、超ブランドというほどのことはない。
ちなみに、秀吉は、淀よりも格上の信長の娘を側室にしてる。 >>218
>しかし秀吉と違い摂関家になる資格が無いから無理だったから征夷大将軍になっただけだし。
学問板ではなくて、ゲームとかでやったほうが盛り上がるよ >>220
淀殿は、京極竜子に家臣筋の娘で家格において自分とは上下がはっきりしている事を突っ込まれたが、
その時に言い返した言葉は秀頼の母だということで、家柄については否定できなかった。
信長の姪といっても、あくまで女系で妹の子であり、旧織田家旧臣などから一定の敬意を払われただけ。
現に秀頼の生母でありながら、淀殿はなんら官位を賜ってはいない。
(五位に叙せられたのではという説もあるが五位だって低すぎる)
>生前は三職推認まで信長は到達してたんだし、
>信長の血を引く淀は超ブランドになってるわ。
力で分捕った家格は、力が無くなればそれまでの事。
信長の倅どもの行く末をみれば明らかだ。 淀がブランドだから、妹が離婚してても秀忠に嫁ぐだけの価値があったわけだが。 淀殿は京極竜子に家臣筋の娘で家格の事を突っ込まれた
上記の一次史料をだして下さい。 信長娘の三の丸殿は秀吉の側室だったとは言い切れないな。
養女説もあるからね。
だが秀吉死後に二条昭実と婚姻してるな。
信長死後も、織田の娘達が高いブランドを所持していた証拠だろうね。 >>226
醍醐の花見での有名すぎるやりとり。
勉強になったでしょ。 >>227
ブランドで結婚したのではない。
政治的思惑で婚姻関係を結んだだけ。
そもそも二条家自体が摂家なのだよ。 >>227
秀吉は「戦国のあしながおじさん」だからな。
側室であれ、養女であれ、没落した家系の女性を保護してやった恩人。 >>230
足長おじさんは、ジルーシャを正妻にしたが、秀吉はorz
キリスト教じゃなくてイスラム教の宣教師でも来たら受け入れてたかもな。まあ、酒がダメだからみこみうすだが 中央アジアのイスラムは、酒飲んでもOKだよ。
イスラム法なんてので裁判されたりしないし
修行して神秘体験をした行者様が影響力を持つので
イスラム法の戒律なんて厳格ではない。 >>231
義演准后日記に顛末が詳しく書かれている。 >>231
何か悔しそうだね。勉強になってよかったじゃない。 なるほど。秀頼のお父さんはグリコのマラソンランナー いや、カーネル・サンダース。外人の種だから、秀頼が巨大化。 >>158
俺も、生物系の専攻出身ってだけでDNA鑑定は詳しくないけど、
DNA鑑定はY染色体もミトコンドリアゲノムも使わないと思うぞ。
人の染色体は23対(性染色体を除くと22対)ある。
で、1対の染色体は母親と父親から1本ずつの合計2本で1対になってる。
さらに、生殖細胞を作る時には「交叉」といって、母親由来の染色体と父親由来の染色体を途中で切って交換する現象が起こる。
つまり、1対の染色体を取り出して調べると、
父親由来の1本は片側が父方の祖父由来で、反対側が父方の祖母由来
母親由来の1本は片側が母方の祖父由来で、反対側が母方の祖母由来
になってる。
なので、1対の染色体で見た場合、秀頼の父方の染色体と、秀次の母方の染色体は弥右衛門-仲か仲-弥右衛門のどちらかなんだけど、
弥右衛門由来の染色体は弥父由来と弥母由来の二種類、仲由来の染色体も仲父由来と仲母由来の二種類あるから、
弥父-仲母、弥父-仲父、弥母-仲母、弥母-仲父、仲父-弥母、仲父-弥父、仲母-弥母、仲母-弥父
の8種類。
これがどちらも一致しない確率は5/8
これが22対の染色体でどれも一致しない確率は(5/8)^22=0.00003=0.003%
つまり、秀次と秀頼のDNAを比べて全く一致しなければ99.997%の確率で血縁関係がないと言える。
全ての染色体の両端に高精度のマーカー配列があるのかどうかは知らんけど、理屈はたぶんこんな感じ。 >>234先生、わたしもおしえてほしいです!
義演准后日記はネットだと終日桜を見て何の問題もなく帰ったくらいしか見つからん >>244
義演准后日記の紙背文書を参考にされたし。
文系大学の大きな図書館ならあると思われる。 或る人の曰く、秀吉に十徳あり〜将軍家家長(信長)繁栄の基なり、祝々珍重(天正8年正月晦日付け)
ちなみに安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。
乞食の経験?というとフロイスの記述にも秀吉が若いころ、一度、信長の元を出奔してることを書いているから
出奔後に乞食になってたのだろう。フロイスは秀吉の才覚について面白い話を残していて
尾張時代の信長がいろんな家臣に買い物へ行かせるが、商人との交渉がうまくいかず
値段が高すぎたりすると買わずに帰ってくることもあった。
しかし秀吉だけはどんな買い物でもきっちり買ってきたので信長が大喜びしていたが、
実は秀吉は自分の手持ちの金も追加して買い物してきていたって話がある。 また天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
看羊録の著者は、 秀吉の父の家は元来貧賤で、農家に雇われてどうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。 秀頼の娘が出家して助命されてるけど、
秀吉の血縁者のDNAと比較したらなんか分からないんかなー 天秀尼の墓が鎌倉の東慶寺に、大政所の墓が京都の大徳寺に、朝日姫の墓が京都の東福寺にあるが、発掘と検体採取は無理じゃないのか? ヨーロッパでは数百年前の王族のDNAを鑑定してるから、墓を掘り返せばわからないかな
秀吉と秀頼に血縁関係がないことがわかったら大発見になるのに 日本でそれ言い出したら
「万世一系の神武天皇のY遺伝子が天皇家に継承されてるか調べよう」
ってことになりかねんからやらんのじゃないか だから調べればいいじゃんw
神格視している海外のやつらがどうなるか楽しみだわ
記紀でも天皇が神だなんて書かれてないけどな
神の子孫とは書かれてるけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています