信長の正室濃姫・まむしの娘の謎
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以前あったスレだけどいつの間にか消えてしまい
気になったので再スレ立て
昔のスレ住人はいるかな? 庶子については全く否定できる材料もないので可能性が
無いとは言い切れないと思います。
池田家は乳母の家でもありますしね。
之助の母が濃姫という疑惑は今更ながらおもしろいと思います。
正妻も道三の血筋の方ですし之助の子孫も斎藤家とのつながりや
道三の血筋であることを利用したりしていたみたいですし。 もし之助が信長の庶子なら信忠と同腹の可能性が高いかもね
名乗りも勘九郎と庄(勝)九郎で一字違いだし年齢も2歳差 >>289
実は双子嫡子だったりして…
之助が恐ろしく地味な謎や(信忠の影武者だったとか?)
正妻が道三の血筋で彼から始まる天城池田家の一門家老として
斎藤家(新五の血筋)が付けられていて何回か正妻にもしてる まあ池田んちだから可能性が全くないとはいえんなあ
池田んとこはもともと親父の代以前から西濃の稲葉ともつながりが
あったようだし恒興がえらく懇意にしていた坊さんがいた寺の開基は
新五の舅佐藤その人と結構池田は斎藤家と絡んでいたりする >>291
嫡子は兎も角もスペアも兼ねていたんじゃね?
だから道三の血筋を正妻にしたとも考えられる 斎藤義龍なんかカスだよ。
チンカスだね。
ただの病死した健康管理も出来ないただのアホ
息子も女遊びばっかして
家督も守れなかったアホ 信長は道三に気を遣い側室を持たなかったが
道三が死ぬとタガが外れたように、あちこちの女に種付けしてるな
信雄と信孝なんて母親がほぼ同時期に種付けされてる
流石にマズイと思ったのか、生母が正式な側室ではない信孝は3男になれたが
信孝生母を正式な側室になるのと入れ替わりで
正式な側室だった信雄の生母は実家に帰されてる
長庶子は濃姫が輿入れする前に生まれてるから
庶子がいるじゃないかという意見は間違いだ
政略結婚以上の関係は無かったと思うぞ
夫に母を脅されるような関係だったんだしな 信忠も道三が死んでから種付けされてるだろ
おまけに信忠生母と信雄生母の妊娠出産期間を考えると
信忠妊娠中に、信雄も妊娠してることになるから
信雄と同母兄弟説は否定されるし
信長がうかがってたのは道三の顔色で、濃姫の顔色ではない
これが全て >>300
信忠は弘治元年生まれ説が有力
しかも濃姫の養子になっている
道三が死ぬ前 >>288
之(元)助の嫡男由之の嫁は蜂須賀の長女だしな なんか池田家近辺怪しいね
岡山県や岡山大学(池田文庫)にがんばってもらって現存するという
斎藤家分家筋の蔵を調査してもらいたいな
分家でも何か残っているかもしれない 斎藤家の義龍って信長にアポーンされたアホ
ってまだ人気あんの? 歴史上の人物でもトップクラスに有名でいろんな史料や足跡が残っているのに
奥方の足跡や生死すら謎につつまれているというのも不思議な話だな
信長が生きている間に亡くなっていたなら菩提寺に葬られて盛大に葬儀を
したろうからそれはなさそう
信長生前に離縁して里に帰ったから歴史上から足跡が消えたんじゃないか?
それだと壺事件で濃姫が美濃にいたのもわかる
「本妻」は「モトツメ」と呼び「前妻」(正妻だったがその後結婚した
別の女性が事実上の正妻になった場合)の意味もある
日記を書いた言継が公家だったので「本妻」は公家特有の婚姻制度上の
前妻という意味で書かれていた可能性は高い
道三亡き後は同盟関係も解消されたので同盟の証であった濃姫が
実家に戻されるというのも理に適ってる
家督を継いだ弟もあんな最期で事実上斉藤家が没落したから
足跡が残ってないのも納得
濃姫は美濃のどこかの寺にでもひっそり埋葬されてるんじゃないかな ・舅の仇討ちという大義名分の象徴である濃姫を信長が手放すはずがない
・旧斎藤家の家臣を中心とした美濃衆が織田家中で譜代並みに厚遇されてる
以上の二点から離縁説はとっくに廃れてるよ 織田家にとってそんなに大切な存在なら生きてた証の史料がもっとあるだろ
側室より存在感がないのだからとっくにいなかったんだろ
あの時代なら付き添ってきた奥方がいなくなっても一緒に戻るか否かは
家臣の意思にまかされてたろ
主君があのボンクラなら普通戻らない、戻っても居場所もなく織田家より
好条件でないのは明らかなんだから戻るわけもない
美濃衆は有能だし美濃攻略に使えた、だから厚遇されたってこと 「信長公記」に織田信忠は濃姫の養子であることが書いてある
信長が濃姫を離縁したなら普通はその時点で信忠との養子縁組も解消されるだろう
信忠にとって実母でもないのに父から離縁された嫡妻がいつまでも
養母の座に居座っているのはおかしい
だからといって本能寺まで生きていたかと言えばその限りではない
信長の正室ならば夫死後の家督相続に口を出す権利もあるだろうに
清須会議でも信長の正室の存在は一切出てこず
次期執政者となった羽柴秀吉が主宰した大徳寺での信長葬儀に呼んだ信長の妻も
側室のお鍋の方だった
信長の母・土田御前は晩年に至るまで孫の織田信雄から扶持を受けていたが
濃姫の足跡は全くたどれないので 離縁にしろ死別にしろ濃姫がいなくなったのなら
政略的に有用な継室を迎えそうなものだけどその記録もないからな
やっぱり信長が死ぬまで普通に正室でいたんじゃないの 息子の織田信忠も松姫との婚約破棄後
新たな正室を迎えることもなかったんだし(側室や子はいた)
信長も正室いなくなったらすぐに継室を、ってことでもないんじゃないの
側室や跡取りはいたわけだし
「武功夜話」では生駒吉乃が信長の正室になったと書かれてあるらしいけど
濃姫が信長が死ぬまで正室として織田家に君臨していたならば
いくら江戸時代の成立でもそんな伝承が生じないでしょう 当時は政略結婚だから同盟を結びたかったら子供を使えばいいわけで
自分がわざわざ継室をもらう必要はないからな
その点家康は気の毒だった
秀吉の血縁者が少なく実子は晩年まで生まれず政略の手駒が自分の妹だけ
ありえない縁談を押し付けられて
どうしても家康とは義兄弟の関係になりたかったんだろうけどさ
>>312
それが書いてあるのは信長公記じゃなくて勢州軍記な
公記には濃姫のことは輿入れしたとしか書いてない 武功夜話は江戸時代どころか昭和に書かれたものじゃなかったっけ >>315
スレチだが家康が気の毒というのはどうかとw
確かに朝日姫は家康の元へ嫁いだときに44歳だったが
家康も45歳と高齢だった
家康は政略結婚の築山殿と朝日姫の2人と死別すると
正室を置くことはなかった
天下を執ってからも正室不在は続き
孫より若い側室たちと楽しく暮らしていた >>309
前の方で指摘している人がいたが江戸時代通して幕末まで片や準親藩として
片や大身外様として共に繁栄した池田家ですら家祖恒興の正妻で
藩祖輝政の生母でもある善応院についてほとんど記録らしい記録が
残っていない現実をみれば記録がないことはあまり不思議じゃないだろ 善応院は実子息子が4人もいてどの家も幕末まで存続し没っしたのも
関ケ原後でその頃輝政もいいお年なはず
そして実家荒尾家も絶えることなく鳥取藩内で城持ち家老家として大繁栄
これだけの好条件でも残っていないのならお濃さんなんて長寿であっても
満足に残っているわけねーw 池田恒興の正室と織田信長の正室ではさすがに重要度が違うだろう
織田家は信長の妹の実名が市、犬などと分かってるなど女性の情報が比較的残っている
豊臣秀吉の正室があれだけ情報が残っているのだし
慈悲にあふれていたという北政所ならばかつての主君の正室と交流もあっただろうに
かなりの量の手紙が残っている北政所のところにも濃姫に関するものはないしね 319さんの言いたいことは重要度の問題じゃないと思うんだけど…
そういえば北政所のところには善応院はおろか養徳院の手紙も残っていないね
三傑から大事にされて尾張にあった彼女の所領は御三家の尾張藩でも手出しを
遠慮して死後もしばらくは池田家所領という特別扱いまでされた信長の乳母だけど
北政所とは交流なかったのかしらね… >>319 >>321
北政所にとって主君の正室である濃姫は
信長の乳母筋である池田家の嫁と同程度であり
濃姫と交流するなら当然池田家の嫁たちとも交流するはずである
というほうがわけわからん
どれだけ池田家を過大評価w 三の丸殿の葬儀でも秀信はもちろんだけど池田や滝川、斎藤が
援助したりしてるんだよね、実は
なんていうか信長の奥関係にも派閥みたいなのがあって斎藤家(道三流)派閥
(暫定的にそう呼ぶ)は一線引いてたんじゃないかな? >>322
というか池田には輝政時代というのもあってだな…w
それに春日局みりゃわかるが過大評価もなにも乳母というのは
それだけ影響力があったわけで秀吉はだからこそ恒興死後何回も
養徳院に書簡を送ったりもしてるんだがそういうのはスルーか >>324
秀吉は濃姫に書簡を送ってないよね
・すでに濃姫が死んでいたか
・完全に織田家から見捨てられ没落していたか
どちらか >>323
政宗の乳母喜多と愛姫のように濃姫も養徳院と仲良かったのかもね
斎藤、池田、滝川って江戸時代に入っても立場は変われど仲いいよ 信長亡き後まで秀吉は池田恒興母を「大御乳殿」と敬わっていたのに
信長の正室はスルーというのはありえないでしょ
織田の家臣団を懐柔するためにも濃姫は使える、放っておくわけない
あと言継みたいな公家衆も放っておかないよ
お鍋と入魂だったように信長に影響力のある女性には近づいて
取り入ろうとするでしょ、必然的に日記なんかで消息が知れるというもの
それと寺院
寄進や奉納で願掛けや弔いをすればあれほどの有名人の妻なら必ず寺伝で残る
道三の菩提寺に肖像画を寄進したことは確認できるのに信長の死後
濃姫と確定できる形で信長の菩提寺にまったくないのはおかしい
道三死後同盟解消に伴い美濃にかえったに一票だな
お市だって子供もいたのに織田家にかえったしな 信長の嫁なんだからこうあるべきに捉われすぎなだけじゃね? 確実な史料が無い以上、結局は「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」だからな
どう考えるかは勝手だけどそれを他人に押し付けても不毛な争いにしからならん >>326
養徳院が建立した妙心寺の塔頭にはいわれは不明ながら昔から大事に
されている墓があって寺の特性上などから恒興の供養塔だろうとされては
いるけど尼僧の墓という話も昔はあったらしい
もう一つ同じ妙心寺塔頭の天球院は恒興の娘天球院が入っていた寺だけど
天球院はのっけからあの場所になぜかえらくこだわり何度も懇願して今の場所に
建立したんだと、そしてここは織田家と池田家の両紋瓦が葺かれていて
昔からそうだったそうだ
個人的に濃姫の墓は供養塔かもしれんがこの二つのどちらかにあるじゃないかと
推測している、前者の寺は新五の舅佐藤が開基の寺で住職をつとめ恒興とも
公私ともに仲がよかった坊さんを招いて開山としているけどこの坊様、織田家の
位牌所だった崇福寺にもいたことあって快川とも入魂の仲
後者はいわずもがな
あと見方を変えれば濃姫が生きていたからこそ輝政も道三の血筋である斎藤家に
気を使ったのではないかなと思ったりしている 戦国期に政略結婚して同盟解消したのに嫁が実家に返されなかった例って
あったっけ?
長政なんて2人の正室を返してるよな
あと信玄の娘も北条から返されてすぐに病死してしまった
逆に同盟解消後に濃姫が織田家にとどまっていたという根拠はなんなんだろう その前に政略結婚して同盟が解消された例を知りたいです(笑) 道三の娘が織田に嫁いできて織田家と斎藤家の同盟が
解消されたって誰の新説 むしろお市は浅井家が滅亡するまで留まり続けてただろ
同盟解消=離縁なら浅井が朝倉に与すると決めた時点で織田に返されてるんじゃないか 江は浅井が滅んだのと同じ年の生まれで
浅井家側の史料に城を落ち延びたのは娘2人(茶々と初)と書かれること
岐阜県の神社に城から落ちる途上の市がここで出産したという伝承のあることなどから
浅井が織田軍に囲まれていた時には妊娠中だった可能性が高い
生まれる子が男子ならば確実に信長の手で殺される
だからうかうかと実家へ帰れなかったというのがあるらしい
市が出産してもしその子が男子なら織田の手の届かないところへ逃がすつもりでとどまっていたのかも >>330
他スレにあったけど大説得と怪我の回復を待ってまで仕官させたみたいだな、輝政
利治は秀信付で即ち西軍だし早い時点でお濃が死亡ないし返されたとしたら新五の
子供とはいえここまでするというのはちと不自然に思えなくもないし由之(輝政甥)の母親が
道三の血筋だったからとはいえこちらも早い時点でお濃が死亡ないし返されたとしたら
そこまで斎藤家と由之を結び付けるかな、血は斎藤でも家的には伊勢だからな 築山殿も今川方と手切れになった後も離縁はされてないよな
最後は離縁通り越して息子ともども殺されてしまったけど お市を浅井家のおいておけば浅井家の動向が筒抜け放題じゃないか
お市を返さなかった浅井家側が同盟解消を望んでいなかった気がするのだけど
築山殿は屋敷を城外にあてがわれ家臣に正室の呼び名とは異なる呼び方をされていた
ことから離縁されたとみなされてるよ
築山殿の墓も将軍家から切り離されて歴代御台所扱いの旭殿の墓よりはるかに酷い
ありさま
ガラシャは一時期離縁されて山中に放置
離縁によって細川家は明智と同盟解消したという身の証をたてたわけだな
北条氏政と黄梅院も両家の完全亀裂で黄梅院は武田に返されたあとすぐに亡くなる
のちにまた同盟回復したら分骨してもらい氏政は北条家の菩提寺に埋葬した
愛情のためというより同盟の証でもあったのだろう
両家の事情でとどめ置かれたり突然離縁されたり
結婚は政治そのものだな そうそう両家が派手に戦をやっているのに土壇場までとどまっていたのは千姫もそうだな
徳川サイドが圧倒的優位で幕藩体制を整える最中だから被害を最小限に
解決するためにあえて家康が姻戚関係を継続したのだろうという説を読んだことがあるが
家康は使者をたくさん大阪に送って和睦で解決したかったようだしな >>341
でも家康はわざわざ人質交換してまで信康と一緒に築山殿を今川から引き取ってなかったっけ
政略的な価値が無いなら信康だけ引き取って嫁の方は放っておいたんじゃないか >>340
家康が今川を裏切った時は築山殿は2人の子(信康、亀姫)と共に今川領内にいて
そのまま今川の人質になった
築山殿の父は娘婿が裏切ったせいで切腹に追い込まれたから
築山殿には帰る実家もなくなった
同盟破棄なら嫁は実家に帰されても子(特に男子)は父方に置いて出るのが普通
家康は信康がとらわれたために家康の嫡男が今川に殺されたとなれば外聞悪く
救出に動いたとみられる
家康が生け捕りした今川家家臣・鵜殿との人質交換で
築山殿と2人の子は家康が引き取ったが
築山殿は以降、家康とは別居で軟禁されていたとみられ
実家へ返されるよりも扱い悪かった感じ だって氏真の元で両親は自害に追い込まれ軟禁状態で人質にされていた築山殿だけを
残して子供たちだけを引き取ったら家康どんだけ人でなしってなるもの
氏真は家康憎しと徳川の人質を串刺しにしてる
世間の手前嫡男生母をないがしろにするわけにもいかないし
一方で新たに同盟を結んだ信長への手前今川家出身の築山殿とは一線引かなければ
ならないので離縁したんだろ >>341
浅井と織田は織田の朝倉侵攻で断絶してるよ
浅井が後ろから挟み撃ちにした金ヶ崎の戦いで信長は死を覚悟して早馬で逃亡
しんがりを命じられた外様の家康は死ぬ寸前だった
本来ならば浅井は市を織田に返すべきだったが
織田の朝倉侵攻の年にも市は妊娠中であり(この年に初を出産)
長政が市の美貌を愛しすぎて市の出産が控えていたため
男子誕生ならば浅井に置いて出るのが通例のためにずるずる延びた それを考えると父を殺され母方の実家も攻め滅ぼされた濃姫を
仇である異母兄の元へ送り返すってのもなかなかの人でなし行為ではないか
濃姫が実父や母方の親戚と不仲で義龍とは仲良かったとかなら問題無いかも知れないけど >>346
でも大崎合戦での伊達家と最上家みたいな例もあるぞ
本音で相手と敵対関係になりたくない場合はあえて和睦の懸け橋になる
婚姻関係は継続しておくこともあったんだろ 同盟で婚姻締結→同盟で婚姻解消
その事例も多いが、そうじゃない事例も多いから、
「通例」にはなっていないのではないか ケースバイケースだよ
例えば北条氏康の正室・瑞渓院院は今川の娘(寿桂尼の娘)だが、
河東一乱で今川と北条が戦に及んでも離縁はしていない
武田勝頼の正室の北条夫人も、北条と武田が戦に及んでも離縁せず、最期を共にした
上杉景虎の正室・清円院は上杉景勝の姉だが、御館の乱でも離縁せず、最期を共にした
毛利元就の正室・妙玖は吉川氏の娘で、毛利氏が出雲の尼子に従っていた時に、同じく尼子方の豪族である
吉川氏と好を通じるために結婚したが、毛利が周防の大内氏に鞍替えし、吉川氏と敵対しても離縁していない >>348
大崎合戦の時の伊達家当主は伊達政宗だろ
息子が実母を敵方へ送り返すというのはあまりないよ
(逆に実母を人質にされる)
それでも義姫が政宗を毒殺しようとしたときには
実家に送り返されたがね >>348
足利尊氏の正室・赤橋登子は最後の執権北条守時の妹だが、
離縁せず、やがて足利将軍家の御台所となり、彼女が産んだ子が二代将軍となった
そして彼女が産まなかった、尊氏の庶子の足利直冬が、実父の尊氏と激しく戦うことになる >>351
実母が離縁されても嫡男は嫡男のままだよ
徳川家康も実母のお大は家康が2歳の時に
実家の水野家と松平家の中が悪くなったために
離縁されて実家の水野家へ帰されその後奥平と再婚しているが
それで家康が廃嫡になったわけではない >>349
なるほど
各家が代々残ったので彼女たちの消息が辿れるからわかったことだよな
墓も残っている
ではなぜ濃姫の消息は辿れないのだろうな
織田家でも尾張でも安土でもまったく足跡がないから
同盟破棄に際して斉藤家に戻されたのだろうという推測が成り立つわけなんだろ
その斉藤家も滅亡したので美濃でもまったく消息がしれなくなったのだと >>350
それでも義姫を介して父親の代からの同盟を継承してたんでしょ
同盟関係にあるから義姫は両家が戦争しないように立てこもったり
和睦交渉のために義光のもとにも行ってたんだから
義姫は自分で最上家に出奔したんだよ
政宗と義光との関係も良好だったので同盟に関係なくなにがしかの理由で実家に帰っただけ
最上家にいても政宗とは手紙でのやり取りもして関係は悪くなかった
最上家が改易して行き場がなくなったら政宗が引き取って看取った >>354
逆に家もしっかりあって今も続いていて、もちろんお墓もあるのに、
何をしていたどころか性別すらわからない
それが今の大河ドラマの主役である井伊直虎だ
井伊家といえば江戸時代は譜代大名筆頭の名門だ
著名な井伊直政の「先代」がよくわからないというのは異常というほかない
しかもその「よくわからない」時期は、今川家が井伊を圧迫し、今川を滅ぼした
武田の侵攻で井伊谷を奪われるという、
井伊家にとっては存亡の危機が連続した時期だったにもかかわらずだ
後年の井伊家が、意図的にこの時期の歴史を「よくわからない」ように
霧をかけてしまったとしか思えない >>356
しかも直虎の時期は江戸時代のすぐ手前だから、
江戸時代の井伊家からみれば、「遠い昔話で分からない」ということはありえない 取りあえず織田家は基本的に奥向きのことを記録しないのが慣例なせいというのがある
先代の正室である土田御前もよく分からないことだらけだしそもそも本当に信長の母どうかすら不明っていう >>358
織田家では妻妾の事は一切記録しないことにしていたから
濃姫は長生きしたというのも無理が多いがな
お鍋あたりはあんなに残ってる >>356
>性別すらわからない
井伊直虎は女だよ
江戸時代中期に儒教の教えが充満し
政治に口出しする女は悪であるという考えが武家社会の共通事項になると
あわてて井伊家が井伊直虎は関口家から迎えた男養子であり一代で絶えたというのを
江戸幕府に差し出した >>355
というかその毒殺未遂事件自体、政宗による自作自演説が濃厚に
なってきていてお東がやったのはほぼ否定傾向になりつつある
(もしかしたらお東も了解済だったかもしれん)
根拠は寺の記録とお東と政宗の書状日付など
彼女が最上に帰ったのも最上家中が荒れていたからでこれも記録がある
政宗に対し最上からお東が帰る旨の了解をとりつける書状も確認されているから
出奔ではなくただの里帰りだな
まあこれができたのも伊達と最上の仲が良好だったからでお東の存在は偉大 >>338
言われてみれば確かにだな
由之の嫁が蜂須賀だからかなとも思ったけど斎藤が滅んで
20年以上経っているし何よりも天城池田が由之以降斎藤家との婚姻を
重ねているから早くに濃姫が死んで織田家中でも存在感なしみたいのだったら
池田がこだわるのもなんかおかしいよな 織田信長は滅亡させた斎藤の旧臣たちを雇っているのだから(これは他の戦国大名たちにも言える)
それをいちいち「濃姫様が生きていたからこそ雇ってもらえたのだ」
「濃姫様が生きていなかったら織田家家臣が斎藤の女など娶るはずがない」
と言って回ってもなあ >>363って時代の流れなんかをわかっていっているのかな…
脊髄反射する前に自分でも調べればいいのに 天城池田は池田でも傍系
石高にして3万2,000石
濃姫さまが池田に身を寄せ池田本家が濃姫さまに色々気を使ったおかげで
斎藤の末裔や姫たちはいい思いができたという割には小さすぎる家 濃姫が離縁されていたとしても
美濃出身の池田が斎藤家末裔を気にかけ世話しただけかもしれんし
濃姫がわざわざ織田家を出て池田家に移住する意味も分からん >>365
違うでしょ
このスレの長期濃姫住人が濃姫は離縁されず長生きしていた
ということを大前提にして話してるのでしばしば乖離した話が展開されている
昔戦国板にあったときに基地外スレ扱いされて荒らされたため
少数のヲタたちが濃姫長寿説をうたって日本史板に引っ越した予感 >>359
お鍋は豊臣家に仕えて有力な侍女になったから記録が残ってるんだろう 濃姫は土岐源氏なんだろ、織田信長は桓武平氏だそうだが >>368
長寿説は別にこのスレ内だけで支持されてる異端説というわけではなくね
最近はむしろ離縁説や早世説を唱える人間の方が少数派になってると思う
とは言え散々言われてる通り証拠が無いからどの説も平等に不確定でしかないが というか傍から見てると輝政がそうしたから生きていたんじゃね?という推測話でしか
ないことに対して身を寄せただの移住だのと話を勝手に飛躍させて論点ずらそうと
している段階でお察しな人なんだろ(笑)
きちんとレスを読んでいないみたいだしそもそも話で大名格が1万石以上なんだから
家老で万石ってかなりなんだよね(因みに江戸期の家老所領は6倍換算が普通らしい) 天城池田家:3万2千→3万
天童藩:2万石
柏原藩:3万6千→2万五千
悲しい史実だのう(´;ω;`) >>376
自演っぽい
濃姫が生きていて信長の後正室様と世間から崇拝されていたから
斎藤の娘が石高3万の池田家家老の家に嫁げたんだ
濃姫が生きて居なかったらとてもじゃないが
斎藤家の娘など石高3万の家に嫁げるはずもないって?
負将の石田三成の娘でももっといいとこに嫁げてるのに 上げアスペいい加減うぜーわ
どこに濃姫のおかげで斎藤家が天城池田に嫁げたなんて
書いてあんだよ?
池田関連レスしている誰が濃姫のおかげなんて言ってんだよ?
お前さんが勝手にそう決めつけているだけだろうが 結局こうやって自論に沿わないものはわけわからない理論武装で
言いがかりつけてはスレの空気を悪くするのが現れて考証が止まって
しまうんだよね、前にあった武田スレで指摘されたとおりだわ…
歴史の検証はいくつものやり方や通り道があるし後の時代の出来事から
あの時のあれはこうだったのではないかみたいなのも出てくるから今更ながら
池田家サイドから濃姫や斎藤家を考証するって面白いと思って読んでいただけに
この流れは残念すぎる まあ信長の奥向きを調査する上である意味最後の砦みたいな
家だからな、池田家は。
調査があまり進んでいない家だし池田文庫や林原には未開封の箱や
手つかずの文書も多くあるらしいし何よりも宗家門閥筆頭だった天城池田家の
家老におさまったのは新五の系統で分家筋には蔵が残っているらしい
しかも戦前作成された池田文庫収蔵リストには道三遺言状という気になる記載もあるとか 本能寺の変の後、濃姫の領地を安堵する、内容の書状が見つかって、
信長の死後もわりと長生きしてたんだな、って話があったね あつち殿=安土殿=養華院≠濃姫
という堂々巡りだった
養華院が濃姫なのに寵妾と記されてたり織田家主催の法要の記録もないとかで
でもお鍋の方を凌ぐ立派な墓をもつ側室がいたのにその存在を示すものが何もない
というのも謎 墓の立派さって正直あんまり関係ないんじゃないかと
縁者や当人の遺言によっても変わってくるだろうから
だからもし濃姫でないのであれば本当は鍋を凌ぐような側室じゃ
なかったのかもしれない 側室でそこまで重要視されたか、というと
また堂々めぐりになるか。
しかしきになるあつち殿。
横山氏の美濃太守の寵というのはどうなったんだ。
これだと早くに亡くなってることになるし。 お鍋の方の墓は子孫が後日織田家の菩提に移転してきたから最初から織田家の菩提に
ある養華院のほうがより織田家と近い存在だったと思うけどね 興雲院(お鍋の方)と養華院は全く同じ年に死んでるんだよね
没した日付が12日ほど違うだけで
むしろ養華院とは大徳寺の信長葬儀にも出席したお鍋のことで
別のところで伝えられていたお鍋の墓がもう一つ来ただけの気がする
養華院は「信長寵妾」だし 興雲院(お鍋の方)と養華院は全く同じ年に死んでるんだよね
没した日付が12日ほど違うだけで
むしろ養華院とは大徳寺の信長葬儀にも出席したお鍋のことで
別のところで伝えられていたお鍋の墓がもう一つ来ただけの気がする
養華院は「信長寵妾」だし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています