信長の正室濃姫・まむしの娘の謎
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以前あったスレだけどいつの間にか消えてしまい
気になったので再スレ立て
昔のスレ住人はいるかな? 太田牛一は信長公記に濃姫の事をなぜ書かなかったんだ? 誤解されているが牛一は信長の奥向きまで詳細に知りえるほどの
立場ではなかったし右筆といっても一時的なもので基本は秀吉配下の
槍隊だから武井や楠のように城にばかりいなかったと思われるので
書かなかったのもある意味仕方がないんでは…。 >>441
奥向きは知らなかったはずの牛一が斎藤道三の娘の輿入れやら
道三が娘婿の信長に美濃国譲り状を書いたことは知ってたんだし
死んだなら死んだと一言かけばいいのに >>443
濃姫が死んだり離婚したりしたなら
斎藤との縁は切れるのだから
外交案件 織田信長が構想していた海外進出は、どんなものだったのか?
その1. 第2のイエズス会≠フ翼賛を得た壮大な征服計画だった!
キリスト千年王国を叶えるべく2000隻を超える膨大な 数の軍船を建造し、
明朝中国を手始めにインド、西アジア までも視野の内に入れたものだった。
信長の構想は、一次資料たるイエズス会の『1582年日本年報追加』に、
そしてまた、ほぼ同文が『日本史』に見える。引いてみよう。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/t-saito_world/docum_03_world/w01_nobunaga_basic/12a_nobu-kaigai-sinshutu.html
信長は毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、
一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに
分ち与える考え(計画)であった。(括弧内は「年報追加」における文言)
秀吉は、関白に任官された天正13年(1585年)、早くも唐入りを表明していたことが、
家臣の一柳末安へ宛てた朱印状で確認できる。
それには、「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ附けられ候心に候歟」とある。
本能寺の変からわずか3年後、九州、関東、東北が未だ服属していない段階であるにもかかわらず、だ。 ●濃姫と婚礼で喜んだ信長が津島のお祭りに行く
●信忠誕生まで9年間は側室らしい側室がいない
●信長は岐阜城に金ピカ御殿を正室にたてた
●信忠を濃姫の養子として同母弟を爺やみたいな
側近にさせる、利治に関しては2000貫当時の2億円ちかくあげてさらに13箇所もおさめさせてる、、
これ愛妻家なんじゃないの? 資料があまりないのは
濃姫の身内で成り立った信長軍団を世に知らせたくない人がいたのでは? あと細川忠興みたいにめちゃくちゃやきもち焼き説もいなめない感もあり 秀吉は信忠の周辺の美濃閥が嫌いだったんじゃないかな。 >>449
そんな気がする、だって信長の子どものほとんどの記事が曖昧だもの。そしてよく読むと織田信雄と徳姫
信忠生母はべつ。織田の中で唯一生き残ったのが織田信雄。天下を取ったのも羽柴秀吉。
かなーり歴史捏造してるんじゃない? なんかいるよね、日本でも上場企業の社長か何かで、奥さんと別れてなんて若い愛人にせがまれると、それは絶対無理とか言って、家庭と肉欲をかけてる人。で女性いっぱい囲ってる社長、そんなときの愛人の相場は年収10,000,000なんだって。そうあてはめると
結局信長は生駒さんには死んだあといまの日本円換算で4000万くらいあげていて、しかも葬儀の喪主は元服前ののぶかつかなんかにやらせてる。で、濃姫には現在価値の
50〜100億くらだない屋敷を当初の予定を変更してまで立ててあげてるわけだから、生駒さんのことを最愛の人と言うことがおかしいと思う。数字てきにも。
企業と愛人の関係に当てはめたら、奥さんには港区の35階のタワーマンションごとプレゼントして、愛人には手切れ金数千万て普通の男女な感覚では?濃姫羨ましい、いったいいくら貢がれたんだろ 誰が最愛だとか昼ドラ感覚で語りたいなら戦国板いきな 愛情の多寡ともかく生駒家が信長にあまり優遇されてたようには思えないのも事実かと思う
それなりの待遇を受けるようになったのは秀吉の時代になってからみたいだし >>454
そうですね、確かに。信忠の母とノブカツの母では戒名も菩提寺も違う。それぞれに喪主をしている。しかも生駒の葬儀には600石しか信長ははらっていない。
4000万くらい。正室クラスの扱いとは到底いえない 数字や戒名、菩提寺、喪主ではかるのは当然。なぜならそれは事実。人の感情なんてあとからいかようにでも創作できる。しかも信長の大親友の丹羽長秀の娘は濃姫の甥稲葉の正室に。事実はそんなことでは? というか生駒叩きしたいだけ臭がプンプンなのがね…
濃姫様すごい!をやりたいなら信者スレを、対し生駒はねぇこんな程度で
みたいなのをやりたいならアンチスレをそれぞれ立ててそこでやってほしいわ お鍋の方を貶めてたのも同じ人かな
信長は濃姫の葬儀をしていないのに(史料が出てこない)
信長は濃姫さまの葬儀ならば
生駒風情の何十倍も立派なのをやるにきまってるわよ!
と勝手に妄想してもね… >>457
稲葉典通と丹羽長秀娘が結婚したのって
典通の年齢や長男の生年からして信長死後だと思うけど 信忠と信雄の生母の戒名やちがう。信忠は美濃衆まわり。生駒が有名になった唯一の理由があるなら、織田信孝を切腹に追いやった信雄の生母で、唯一元気よく生き残れた息子の家系だからじゃないの?歪めたいわけでなくより真実をしりたいだけ 信長みたいな貴族のおぼっちゃまが、お鍋や生駒を正室に置くわけがない、そもそも濃姫の姪でさえ側室っていってんだから。お鍋の墓は漬物のおもし、生駒は300石だっけ? 女房には金の御殿、、最初から同じ次元ではなくない? 濃姫さまみたいな大大名の姫さまでなければ信長みたいな貴族のおぼっちゃまの
正室にはなれないのよ!といったところで
信長はその大大名の斎藤を滅ぼし再興も認めていない >>462
また出たw
お鍋は信長より長生きしているのだからお鍋の墓を造ったのは信長ではないし
そもそも養華院はお鍋だともいわれてるし(養華院とお鍋は同じ年に10日差で死亡。
大徳寺葬儀に出席したお鍋が大徳寺総見院に葬られるのは妥当) >>455
信雄が生駒氏の喪主を務めたって江戸時代の記録によるもの
生駒氏が亡くなったとき信雄はまだ8歳で喪主を勤められる年齢ではない
ちなみに信忠の生母とされる久庵慶珠と生駒氏(法名・久庵桂昌)は
同じ年に亡くなっている
久昌寺の文書では信忠、信雄、五徳は同母 生駒氏は1566年没で久庵慶珠は1571年没じゃなかったっけ >>464
お鍋の戒名て興雲院では?戒名2つはさすがにないだろう 散るぞ悲しき〜辞世の唄
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4
歴史上の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。
泣けるよ。凄く出来が良い。 >>465
あの久庵慶珠の菩提寺は岐阜の崇福寺。生駒系の文書や資料は前野文書といいどうもな そもそも大徳寺の法要は秀吉が勝手に行ったもので、
信長公御台は妙心寺で別な一周忌を行ったと書かれている。大徳寺の方様に鍋はホイホイでて、秀吉の愛人疑惑もあるし、プライドなさすぎ 鍋はその後徳川家康にあばずれ扱いされて貧乏な老後。かってのサルの嫁北政所にまいとし数百万恵んでもらって最後の墓は漬物のおもし、さいてい >>467
織田信長の戒名みてみろよw
複数ある
というか寺が違えば戒名も違う >>471
濃姫ヲタって下品だな
鍋が再婚であることなら家康の側室はほとんどが再婚だろうに >>469
岐阜の崇福寺は久庵慶珠の七回忌を行い位牌所としたという記事があるのみで
ここには墓も遺骨もない
菩提寺(墓所)は別の場所だ >>472
信長ほどVIPならありえるけど、ただの側室だから >>473
信長ほどの人間が生駒や鍋での正妻ではかわいそすぎるでしょ?せめて源氏の名門とか、、家康だって正室は名門今川の築山どのでしょ。どう考えてもむりでしょ。 >>476
相手の話を聞く気ゼロだからなあ、濃姫ヲタってw
濃姫さまは信長並みのVIPらしいが遺骨はどこにあるんでしょうねw 鍋も生駒も下賤に近い。たとえ濃姫が早死にでも正室は三条家とか足利所以とか落としどころがあるってもんで。 >>478
ついでに家康の2度目の正室・朝日姫は再々婚だからw
家康の跡取り秀忠の正室・江も再々婚 >>465
喪主なんて名前だけでいいんだから8歳でも務まる。信忠と信雄が同母とは考えにくいな。 >>484
ばかだな。朝日は秀吉に押し付けられた、しかも秀吉は当時は太閤、江は名門浅井と織田のハーフ。半分農家の生駒じゃな。 >>485
賛成。しかも信忠の周りは美濃衆ばかりで濃姫の養子。たぶん生駒より身分高いうちの息子じゃないのかな? >>485
だから、久昌寺の8歳喪主の記述を正しいとするなら
同じ文書に出てくる信忠、信雄、五徳同母も正しいってことなんだが >>487
自己レスw
で、信忠生母の墓所はどこなの? >>488
どの文書?第1級資料?参考までに教えてよ >>486
家康がお鍋をあばずれと呼んだとか嘘ばっかり書くからだよw
家康の娘も孫も再婚歴あるのが多いのに >>490
そもそも与太話が多いお前とは話が通じん >>491
あばずれ扱いされて没収されたんじゃないの?
推測。家康の孫と鍋を一緒にしないでよ。血筋とお育ちが違う >>492
真面目に研究してんだからきちんとした資料あるなら教えるってのが親切ってもんでしょ? >>493
>>494
推測で「あばずれ」といってる阿呆濃姫ヲタが
真面目に研究してるわけないだろw 千姫とか督姫とかアバズレだったのか
家康は何でアバズレの娘や孫から没収しなかったのかね
再婚先で里の徳川家から化粧料受けてたが >>495
オタとか言ってもう終わり。知識ないだけでしょ? >>496
ねえ、家康は大名だよ。千姫があばずれだろうがなんだろうがお鍋と生駒じゃ血が違う。庶民にはわかんないかな。 信忠系の織田家が残ってたら、もっと濃姫の史料も残ってただろうに 散るぞ悲しき〜辞世の唄
https://www.youtube.com/watch?v=_t675VZJgl4
歴史上の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。
泣けるよ。凄く出来が良い。 >>496
督姫はもらってないよ
もらったのは輝政の嫡男利隆から遺産分与という形 信忠は生駒吉乃だろ
濃姫は信長の暗殺に失敗して殺されたんだよ 信長が貴族のおぼっちゃまとというのはいいのか。
うつけ100%だぞ。 >>463
信長公認の斎藤家当主は利治では?
再興以前にそもそも道三流斎藤氏は滅んでいないという認識だったと思う >>505
そうですよね、ちなみに妙覚寺「織田信忠宿泊で生涯信長が18回宿泊した寺」はトシハル弟(=濃姫弟)が住職ですね( ͒ ु•·̫• ू ͒) >>505
当時の斎藤家当主は一説に利治ではなく利堯ではないかという話もある
利治は佐藤の養子にもなっていて佐藤の跡を継いでだからということから
それと加治田の史料では利堯と利治は岐阜城の留守居だけじゃなく奥も
取り仕切っていたとなっているからお濃さんもいたと思われ
奥の取り仕切りまで任すって信頼がかなり厚かったんだねえ それじゃ醜聞も漏れてこないはずだわw
利堯は秀吉と明智間で中立を貫いたと言われているから
濃姫が清須会議に出てこなかった謎にも関係してそうだね
信長は女同士だともめやすいのわかっていてあえて奥の取りしきりも
男を前に出す形にしたのかもね
女はどうしても感情先走りやすい傾向があるし 父親の信秀は結構女好きだったというから子供の時から
みてきたであろう女同士のあれこれを反面教師にしたのか
信秀の奥もそんな感じだったのか推測してみると楽しいね >>508
利治は滝川や池田みたいに遊撃メンバーに対し利堯は
留守居が多いから確かに利堯の方が可能性高いな 利治は城主だから利治でいいんじゃないの?と思ったけど利治が
城主になったのは佐藤の婿兼養子だったからなんだっけ 佐藤の嫡男が死んでしまったから、信長の薦めで新五郎を養子にして
新五郎が加治田城主になったんだよな ということは当主は利堯だったかも
当主が養子に入るっておかしい話 光秀大河に濃姫は出てくるのかな
道三は六角の書状にあるように、親子二代で成り上がり説採用らしいけど 2代説とっても出てくるのは道三だけらしいよ
今回も真田丸みたいに合戦とかより館内でのことに重きを
置くみたいだから普通に出てくるんじゃないかな
信長と幸せ夫婦なのか仮面夫婦なのか、長寿説取るか取らないかは
まだわからないけど、光秀は側室いない説でいくみたいだし対比的な感じで
描写されないことを願いたいな
>>514
実際その方が道三義龍両派間での美濃衆割れ防止になったと思うよ
道三が討たれた後は義龍が美濃を治めていたから義龍の同腹弟も加えることで
バランスも取れるし利治の勧めで入ったから道三派(?)の顔も立つ
信長もうまいことやったよね笑 濃姫の姉妹の家系とか秀吉にほとんど殺されてる、秀吉の大徳寺とは別に妙心寺で信長の一周忌を行ったというが、春日局の父の斎藤利三菩提寺も妙心寺、稲葉貞通の菩提寺も妙心寺、明智光秀の叔父だかなんかが
住職という、一体本能寺の変は本当に光秀なのだろうか? >>518
ただ秀吉主催の一周忌には出席していないようだし、変わってお鍋の方のみ行っている、斎藤利三の前妻は濃姫の姉妹。妙心寺は美濃衆明智寺だったのかな? >>515-516
今更大河で武功夜話ネタを持ち出してくるとも思えないが脚本家が相当なお爺ちゃんみたいだからな
あれくらいの世代の人達は武功夜話=画期的な新資料という認識のままで
全く知識がアップデートされてないことも多いからちょっと不安ではある 考証は誰なんだろうねえ…
武功はそれ次第で変わってくるような気がする >>519
濃姫は生きていて妙心寺で信長一周忌を行った
で凝り固まっている人がいるけど
妙心寺には織田家菩提寺は一つもない
斎藤利三の先室は濃姫姉妹といっても
この先室は本能寺よりずっと前、斎藤家滅亡よりも前に亡くなったか離縁したかで
斎藤利三は1566年より以前に稲葉一鉄女と再婚し後室としているし
(春日局は利三と後室の稲葉氏との娘) >>522
菩提寺って通年供養してくれる寺だよ、暮石の間違いじゃない? 織田家菩提寺の岐阜の崇福寺って妙心寺派じゃなかったっけ そうだよ
諸事情で併合されたりして今はないけど昔は織田家の塔頭もあったんだよ
併合の影響で勝頼や信勝の首塚墓のとなりに信長と信忠の供養墓が
並ぶっていうすごいことになった笑
(なぜそこが選ばれたのか聞いてみたけどなんか奥歯にはさまっていると
いうかお茶濁されたというかな感じだったからかなり気にはなってる)
あと信長が妙心寺に塔頭を建立しなかったのは多分妙心寺派ネットワーク
(快川、稲葉、南化など)に必要以上に力を持たれたら困るというのが信長の中に
あったんのだと思う
当時は妙心寺派の力ってかなりのものだったというから 信長・信忠の死後、妙心寺に大雲院という塔頭が建てられた
この塔頭は江戸時代中期に廃絶し妙心寺長興院と統合
信長・信忠の供養塔はなぜか長興院ではなく妙心寺玉鳳院に移された
妙心寺大雲院を創建した人は分っており
信長の側室・慈徳院(秀吉の側室・三の丸殿の生母)
この慈徳院の兄は妙心寺56世・九天宗瑞であり
慈徳院はこの兄や滝川氏(慈徳院は滝川一益の親族といわれる)
の支援で信長の死後、妙心寺に塔頭を建てた
慈徳院は信忠の乳母に上がったところを信長の目に留まり側室となった人物で
寺名の大雲院は信忠の法号である
そう考えると妙心寺で信長一周忌を行った信長夫人は慈徳院の可能性が高い
兄は妙心寺住職、そして妙心寺に塔頭も創建している
慈徳院の親族だと言われる滝川一益は妙心寺長興院を創建
大雲院は廃絶した後長興院と合併している >>527
参考文献の名前を教えていただけたら幸いです。 普通にWikipediaにも妙心寺サイトにも書いてあることなのにw >>526
どこの寺にも言いにくいことの一つや二つはあるから
ごにょごにょされるのは仕方がないな
さすがに場所がなかったということはないだろうから血縁の信勝の首があるから
そのつながりでとも考えられるし何か通説とは違う口伝が伝わっていたのかも
しれない。ロマン部分は残しておこうぜ 妾に夫人ってかかないからね〜三の丸の母じゃないんじゃない? ちなみに滝川一益が創建した妙心寺長興院の隣に
慈徳院が創建した妙心寺大雲院があった
(出典「妙心寺史」)
妙心寺史では慈徳院は滝川一益女であるとしており
滝川氏の支援が大きかったことが記される >>532
「妙心寺史」を読んだことがないみたいだけど
大正時代に現代語で編纂されたもの
「信長公夫人」が当時のままの表記かどうかわからない
現代語になおされているから >>535
「夫人」と書いてあったらただ一人、濃姫以外ありえない!というからでしょ
だいたい大正時代の言葉になっていて当時のままの表記ではないのだし 妙心寺には慈徳院の墓も娘の三の丸殿の墓もある
こっちのほうが妥当だよね >>527
滝川って美濃閥なの?
三の丸殿って蒲生氏郷の養女になった人?氏郷夫人の母はどういう出自なのかな。 信長の奥向きで明確に〇〇閥みたいなのがあったのかは
不明だけど池田、滝川、稲葉、森は確定だろうね
氏郷夫人の冬姫生母は不明状態で三の丸が氏郷の養女に
なったというのも確たるものはなくて秀信主導の三の丸の葬儀の時も
冬はおろか蒲生家も絡んでいないから怪しむ声もある
三の丸葬儀でわかっているのは滝川と池田、井伊が香典ほか援助してる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています