江戸時代の譜代大名について語ろう
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, ‐ ´ └―'´ ` 大政参与 執事(後見人、将軍の代理)
大老 元老(政務総覧、老中の上役)
松平忠明(1632年 -???)
井伊直孝(1632年 -???)
堀田正盛(1638年 - 1651年)
保科正之(1651年 - 1669年)
榊原忠次(1663年 - 1665年)
井伊直澄(1668年 - 1676年)
稲葉正則(1680年 - 1681年) 大政参与とか元老なんて、いかにも後付の学者用語っぽいな。
あの時代にそんな言葉が使われてたとは思えない。 >>102を訂正
× 江戸時代って、基本的に「年寄とか「奉行」みたいな泥臭い用語使ってたんだから。
○ 江戸時代って、基本的に「年寄」とか「奉行」みたいな泥臭い用語使ってたんだから。 > 本来の意味の大老を輩出する別格の家って常溜の井伊家だけでしょ。
> 幕府初期はいろいろ流動的な時代だったので家格ではなく実力で大老になる人間が大半だったと。
逆じゃないかな。
流動的な時代に権力を確保したから別格になったわけで、最初から井伊家が
抜きんでていたというわけでもない。 その指摘は示唆的である。
じじつ正俊が遭難してからの堀田氏は格式は10万石ながら内高は5万石という僻地の陸奥福島、出羽山形に転封させられ、大老も2度と出せなかった。
したがって仮に江戸幕府が滅亡しなかったとしたら、井伊家は京師禁裏警守の立場を喪失し、大老を出せる家柄ではなくなり、その立場は会津の松平や、荘内の酒井に取って代わられたであろう。 江戸幕府が永続したら、まず彦根藩井伊家は懲罰的に転封を命じられた可能性が高い。
普代旗頭(譜代筆頭)は荘内藩酒井家になったことは異論の余地がない。 土井とか堀田って、大老輩出したことがあるから、結果論的に現代の学者が大老の家と言ってるだけで、
江戸時代は大老の家でも何でもなかったんだろ?
それが証拠に土井利位も堀田正睦も大老になってないし。 真に徳川家の執権と云い得る家柄は姫路の酒井と彦根の井伊だけ
両家ともお洒落な城持っているエ〜 違う。酒井氏嫡流は徳川家重臣の中で最初に城主(西尾城)になった酒井雅楽助正親であり、その血筋を引く酒井雅楽家 堀や本多ってかなり大名家があるけど、宗家ってあるの? 江戸以前の本来の家柄で、もっとも毛並みのいい譜代大名ってどこなんだろう?
やはり小倉小笠原家か。 血統が怪しいけど三浦家とか譜代か怪しいけど諏訪家とか 喜連川、細川、一色、土岐、京極、畠山、吉良、今川、武田、上杉、小笠原、有馬(赤松支線) 外様や大名じゃないのは除けよ。
あと鎌倉御家人じゃないのも。
そしたら土岐、小笠原、諏訪、こんなとこだろ。あと井伊くらいか。 有馬の分家が吉宗の側近として大名に取り立てられてる。 有馬ってそもそも悪党上がりで御家人じゃないでしょ。 赤松円心以前は未だにアヤフヤだからな。
やっぱり譜代だと諏訪じゃないの
小笠原・土岐・三浦ら源氏や平氏の血を引く大名はゴロゴロ居るんで、あんまり希少価値感じない 諏訪は地味だけど源氏、平氏、藤原氏以外の名門としてはなかなかの存在だからな。
神様の子孫だし、鎌倉幕府では御家人兼御内人として権力の中枢に居たし、徳川譜代に潜り込んで徳川幕府でも中枢に入る事に成功。
ライバルの武田より結局長持ちしたよね。 武田に一回滅ぼされた諏訪・小笠原が大名として復活して武田が滅びるなんて
信玄も予測してなかっただろうな。 禍福は糾える縄の如しだよね。
諏訪と小笠原は滅びたからこそ徳川譜代に潜りこめたんで。 しかし、いまの諏訪大社の宮司は諏訪家と縁もゆかりもない一般人なんだろ。 徳川家が関東に移転した数年間だけ、徳川に臣従していた諏訪氏も下総に配されたが、関ヶ原勝利後、日根野備中をして下野に移転せしめ、諏訪因幡を再び信州高島に戻してくれたのである。 >禍福は糾える縄の如しだよね。
天正壬午の乱の時点で家康が将来天下取るとは信濃国人の誰も想像も出来なかっただろうしね。 >>132
諏訪宮司家は江戸時代の終わり頃に跡継ぎがいなくて京極だかから養子が来てる。 >>132
現在の諏訪大社の宮司は世襲ではない
明治以降、神社本庁から神主が選ばれるようになった
今の諏訪大社宮司は北島さんという人だけど
その前は平林さんという人だった /)
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/ iトヾヽ_/ィ"\ `ー'´ / 明治になって社家制度が廃止されたのは知ってるが、
いまでも旧社家が世襲してるところと、非世襲になったところがあるのは、
どういうことなんだろう? >>138
神社本庁自体の設立は昭和21年
明治時代には神祇庁が管理をしていた
(昭和15年、神祇庁は神祇院となり、戦後廃止された)
諏訪大社は明治5年、世襲が廃止され
中央(神祇庁・神祇院・神社本庁)が宮司を任命する形態になった
尚、諏訪氏大祝家は「諏方」を名乗り、幕末に京都の公家・鳥居家から養子を迎えた
その孫に当たる方が2002年に亡くなった際に諏方家は完全に断絶している 神祇官→神祇省→教部省→内務省社寺局→内務省神社局→内務省神祇院→神社本庁
ちなみに、ここ最近の靖国神社の宮司は松平、南部、京極と、やたらと大名の子孫が多い。 華族制がなくなったから、旧大名家の対面保つ仕事としたら大きな神社の宮司はもってこいなんだろうな。 >>146
行政の神祇院と宗教法人の神社本庁には組織的な連続性はない >>146
靖国神社は特殊
南部や京極はサラリーマン経験のみで神職経験が全くないのに
いきなり靖国神社のトップである宮司になっている
そして現在の靖国神社宮司は徳川 戦後の靖国神社宮司の出自
旧皇族 筑波藤麿 : 1946年(昭和21年)1月25日 - 1978年(昭和53年)3月20日(在職中に死去)
旧大名 松平永芳 : 1978年(昭和53年)7月1日 - 1992年(平成4年)3月31日
(2代略)
旧大名 南部利昭 : 2004年(平成16年)9月11日 - 2009年(平成21年)1月7日(在職中に死去)
旧大名 京極高晴 : 2009年(平成21年)6月15日 - 2013年(平成25年)1月19日
将軍家 徳川康久(徳川誠の孫) : 2013年(平成25年)1月19日 - 譜代大名の家系で、有名神社の宮司やってる人はいないのか?
外様なら、薩摩島津家の現当主が照国神社などの宮司を兼ねてるのは知ってるが。 富士山の神宮司・富士信忠の子孫が米津田政で、これが竜ヶ崎藩 明治になってから藩祖を祀った神社が公認されてからは
その子孫が宮司を務めるようになる 別に吉田茂の男系子孫ってわけじゃないだろ。しかも、相馬は外様だし。 お前ら今何時代だとおもってんだ高齢引きこもりニートども お前ら今何時代だとおもってんだ高齢引きこもりニートども 相馬家で
麻生の会社の取締役やってる人いるね(麻生の息子が社長の会社だったかな?) もし島津や毛利が願譜代を申し出たら、どうなったんだろう? 譜代になる要件を満たしてないというか、将軍様のお客様扱いの大広間詰の名誉ポストから、将軍様の下僕の譜代になんかなろうとも思わないだろう 譜代になったからと云って全て役職につけるとは限らない。
それに譜代にもお客様扱いの譜代と下僕扱いの譜代の二種ある。 願譜代できたのって大老を出す有力譜代か有力松平一門から養子をとった場合のみだよな
真田は7代目が大老井伊直政の子で、8代目が老中首座松平定信の子(将軍徳川吉宗の曽孫)
だったために願譜代になった
脇坂は3代目で老中堀田正盛の子を養子にしたため(母は大老酒井忠勝女)願譜代になった
島津や毛利は一応家系が絶えてないだろ 仙石家みたいに譜代から外様へ扱いを変えられた大名も、なぜかいる 仙石なんて秀吉の最古参部類に属する直属の部下で
思いっきり豊臣恩顧の外様大名なのにな
なんで仙石が最初譜代並みの帝鑑間を与えられていたのかわからん
関ヶ原の秀忠失態を家康にとりなすなど将軍秀忠のお気に入りで
何度も秀忠自身が仙石邸を訪れるなどしてたことからの特別待遇? 譜代が外様の有力大名から養子を取るのは、問題なかったようだが、
浅野長政や伊達政宗の男系子孫が幕閣になってるのは違和感を禁じ得ない。 幕末、館林藩秋元家は毛利家から貰っていたが、タイミング的に最悪だった 浅野→阿部→酒井(貴院副議長)
丹羽→稲葉
毛利→秋元
伊達→堀田
伊達→太田
水戸→越智→戸田
水戸→本多
柳沢→真田
島津→奥平
島津→久松 毛利家からだと
家綱母の実家増山家や
譜代の本多、稲葉、水野にも養子送り込んでるな >>172
>浅野長政や伊達政宗の男系子孫が幕閣になってるのは違和感を禁じ得ない。
浅野家三代目の光晟なんかは家康の外孫で家康・於大の方を通じて水野家の血引いてるし
政宗の子である忠宗も家康の娘と婚約して一時期家娘婿だった事もあるし、広い意味での親戚と言えなくもない 松山藩主久松家も19世紀になると島津やら藤堂から養子が入って、
幕末には藤堂家から来た養子が老中になってるな。 >>177
藤堂家から来た定昭は久松家の娘の娘婿として久松家を継承し老中になった
江戸時代には譜代と外様、親藩と外様の婚姻は禁止されてなかったし
将軍家自体、外様の大大名に息女を積極的に嫁がせていた
だから血縁や姻戚関係は入り乱れている 大政奉還後、譜代の中でも生粋の名門である酒井と久松を老中上座に迎えたが1ヶ月もせずに免官 島津とか毛利とか伊達が、譜代の老中クラスの家に養子を送りまくって、
幕閣を外様2世で独占するようなことも、やろうと思えばできたかもな。 それが可能な江戸後期には島津は将軍外戚として正面突破で力を振り回してた。 >>180
外様が養子を送り込むには、男子後継者がいない家
もしくは宗家の娘と年齢が釣り合う男子で婿養子が条件
勝手に養子送りまくることもできんだろ
養子縁組には幕府の許可も必要だし 土井利位は幸運過ぎる。
仙台藩の庶子だった父親が、たまたま運良く土井分家から養子に迎えれてたら
たまたま本家の古河藩に跡継ぎが無く、たまたま庶子の利位が養子に入ったら運良く老中まで出世できるんだから
親子二代で部屋住みで終わるはずが
吉宗並のシンデレラストーリー 外様から養子に入った譜代大名って、徳川家に対する忠誠心ってあったのかな? 幕末には徳川一門の親藩すら明治新政府に寝返って
徳川宗家の主城江戸攻めに参加していたから
譜代云々なんて関係ないよ 出自よりも家臣の振り付けに従って動くことが求められる
譜代も外様も養子も関係ない >>181
島津は将軍外戚にはなっていない
島津の姻戚だった五摂家筆頭近衛家の養女という名目で
将軍御台所を2回出したのは事実だが 十八松平家も結構関係ない家から養子入れたりしてるね。
一門は松平氏の男系に限るのかと思ったら、そんなことなかった・ 本当の一門である親藩は幕末に川越松平家が有馬家から養子を入れるまでは、
ほぼ全て家康の男系子孫で固めてたけどね。
例外は江戸前期の越前系支藩に久松松平や新庄から養子が入ってるくらい。
(新庄からの養子だけは、理解に苦しむ)
鷹司松平とか奥平松平は、一応親藩扱いだけど、初代からして他人や女系だし、
久松松平も田安家から養子が入るまで譜代なのか親藩なのかわからない曖昧な位置。 >>192
久松松平は家康の異父弟というだけで
もともとは男系でも女系でも松平の血を引いていない
父系なら久松家、母系なら水野家だからね(家康と母親が一致)
そんな家が親藩扱いされてることが凄い
日本は天皇家以外はかなり女系相続も多いしね
家康の娘の産んだ孫に松平姓与えたりしてる まあ、鷹司、奥平、久松は将軍位継承権のない、名誉親藩みたいなもんだから。
越前系の支藩に、ごく一部とはいえ、他家からの養子が入ったのも、将軍位継承権のない越前家一門だから。
将軍になる可能性のある御三家の連枝松平は、明治維新まですべて家康の男系子孫に限られてる。 >>194
鷹司は紀伊連枝
奥平は家門→譜代
久松は松山、白河・桑名のみ家門 越智松平のいいとこ探そうぜ
幕末6万1千石。初代は家宣の弟、家斉の子供と水戸家からの養子をとったそんな親藩。
でも表高少なくない?いやいや、御三卿で10万石なので成立年代を鑑みれば妥当と擁護してみる。 越智家
官位は従四位下
侍従
と官位だけならまあまあ。実質、血筋は水戸家支藩に。水戸連枝の讃岐藩が溜間なんだが。 なあ、お前らって松平と一切関係ないのに、
松平を松平以上に語り合ってなにがたのしいの? 越智家は初代清武はじめ、宗家から冷遇されすぎ。
家宣ほど、同母弟に冷淡な人物が名君や君子のように持ち上げられるのはおかしい。
綱吉がキチ害だったのと、新井白石が側近だったということで過大評価されてるが、
実際には肉親に冷たかっただけの男。 どうせ館林藩主にするのなら、はじめから両典と同じ待遇で10万石やればよかったのにな。
ていうか、普通に甲府10万石に封じてやれよ。 御三卿が10万石格だから、越智家の成立次期が遅いこともあり、こんなもんかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています